隠蔽といっても、難しく考える必要はなかった。

 なにせ、これまでばれなかったのだから、同じようにしていればそれでいい。

 問題は来客で、修道院には時折旅の修道士などがやって来るが、クレアはあの小僧の格好で追い返していたらしい。聖務だとか断食期間中だとか、いくらでも言い訳はあったとのことだ。

 となれば、あとどれくらいかはわからないが、それなりに時間は稼げそうだった。

 それに、本の買い付けも確実に芽が摘まれたわけではない。これから後、この修道院にやって来る人たちとの交渉次第、つまりは賭けができる機会がもう一度くるというわけだ。

 俺は決して諦めない。

 なにせ、こんなにも素晴らしい蔵書なのだから、これを手に入れられると思えば、なんだってする。

 ただ、今すぐむしゃぶりついて読み散らしたい本を前にして、俺は首輪を付けられた犬のように立っていた。

「では、今日中に目録を作ってください」

 食堂にアブレアが来たのは、なにも盗み聞きが目的だったわけではない。俺を呼びに来たのだ。それでようやく思い出したが、俺はアブレアの小間使いという立場だった。

「……ぜ、全部ですか?」

「もちろん。遺漏なく。それではお願いしますよ」

 もうとっくに日も暮れているとか、膨大な量があるとか、道具が揃っているかとか、そんなことはかけらも気にしていないようだった。そういえば自分のことを教皇庁図書館に放り込んだ時もこんな感じだったと、記憶が蘇る。

 アブレアは言うだけ言って、さっさと月明かりの届く一角に引っ込んでしまう。そこで本を読み明かすのだろう。

「できるの?」

 そう尋ねてきたのは、蠟燭の火がともる燭台を手にしたクレアだった。手伝いに来たのではなく、単純になにをするのか見張りに来たという感じだ。本に対して愛着はないし、権利的には修道院のものであると理解していても、やはり気になるようだ。

「全部で二千冊くらいあるはずだけど」

 クレアはあっさりと言う。

 世界を股にかけるジーデル商会の主であるジーデル様の蔵書で、百冊を超える程度だ。本気で資力を使えばもっと集まるだろうが、ボッチョ親方の元にやって来る相当な愛書家たちの中でさえ、千冊に届いている者は一人もいないだろう。二千冊というのは、もはや修道院や大聖堂が宗教的な熱意のために集める規模で、尋常の量ではない。

 しかもすごいのは、見た感じ、重複する本がないというところだ。

 金と権力に飽かせて、手当たり次第に集めたのではない。丹念に蔵書家と連絡を取り、時には人をやって何十年と開かれていない修道院や教会の書庫を開けさせ、貴重な書籍の写し合いなどでこつこつと集めていかなければ、これだけの種類はまず集まらない。

 クレアの父親は、一体どんな熱意に支えられて、これだけの本を集めたのだろうか。なにか特別の理由がなければ、決して成しうることではない。

 俺はそのあたりも気になるが、ひとまずは目の前の仕事だ。

 それに、アブレアの無茶な仕事の押しつけも、本に関わることなのでむしろ興奮する。

「紙とインクあるかな」

「あるけど……本気なの?」

 心配してくれてるのか、と一瞬嬉しくなったが、クレアは理解できないとばかりに肩をすくめ、さっさと歩きだす。

 期待なんてしていなかった、と自分に言い訳をして、その後について行く。クレアは筆耕室の戸棚から、紙の束を渡してくれた。

「インクとペンはこっち」

「あ、ありがとう。えっと、代金はあの人につけておけばいいのかな……」

「修道院の持ち物だけど、さすがに紙の枚数まで把握されてないでしょうから、いいわよそんなの。それより」

 と、クレアは胸の前で腕組みをして、睨みつけるように言った。

「本を汚さないでよ。一応、私の家のものだったんだから」

 読むことに興味はなくとも、収集品として大事にする蔵書家もいる。

 それに、この点についてだけは、俺も自信がある。

「大丈夫。世界で一番好きなものだから、絶対に汚さない」

 胸を張って請け合ったのだが、クレアはあまり真剣に受け止めてはくれなかった。

「本が好きなんて、気が知れないわ」

 ジャドと話していた時の気安さなんてかけらも見せず、そう言った。

「なんの役にも立たないのに」

 本に理解のない人の、典型的な一言を頂戴してしまう。

 ただ、書籍商が成立しない理由を、まさしくクレアの一言が如実に物語っている。

 俺はややうなだれながら、クレアにおやすみと一言残して、図書館に戻った。

 ずらりと並ぶ本を前に、俺は呟いた。

「素晴らしいと、思うんだけどなあ……」

 そうでなければ、こんなにもたくさんの本がこの世に存在するはずがない。本は書くのも大変だし、後世に伝えるのも輪をかけて大変だ。苦労して書き写しても、紙は二百年ほどでぼろぼろになる。羊皮紙ならば五百年は持ち、多少の火災になら耐えると言われているが、あまりにも高価なうえ、その羊皮紙ですら鼠と黴、それに水には弱い。これが二千年以上前の葡萄とオリーブの時代に書かれた書物になると、あまりにも儚い植物の巻物に書かれていたり、粘土板に刻みつけられたりしている。

 それでも、人々はなんらかの思いに駆られて、本を後世に伝えてきた。それらは奇跡としかいえない経緯を経て、何度も忘れ去られては誰かに見つけられ、たまたま新しく書き写されたおかげで今に残っている。その偶然の連鎖が一度でも途切れてしまえば、本は永遠に歴史から消失してしまっていたのだ。

 俺は、ほとんど純粋な疑問として、思う。

 どうしてそれほど貴重な本について、商売が成立しないんだ? どうして、人は本を読もうとしないのだろうか? ここにあるものは、奇跡の塊だというのに。

 生涯をかけて神に問いかけ続けたアンブロシウスではないが、書架からは当然のことながら返事はこない。本というものは、どこまでいっても、インクの染みでしかない。

 インクの染みに一喜一憂している愛書家は、もしかしたら妖しげな魔法陣に魅せられた異教徒と同じなのかもしれない。

 そもそも自分は、どうしてこんなにも本が好きなのだろう?

 そんなことすら、思ってしまう。

「邪魔です」

 と、そんな俺を押しのけて、黒い影がにゅっと書架の前に立った。

 迷いやためらいとは一切無縁そうな、アブレアだった。

「ふむ……この本も……いや、うむ……」

 ぶつぶつと呟きながら、本を取り出してはめくり、取り出してはめくり、していく。

 アブレアほどの読書家ならばほとんどが既読なのだろう。

「あ、の」

 思わず声をかけると、それで初めて、アブレアは俺がいることに気づいたような顔をした。

「目録はできましたか?」

 地位の高い人間にありがちな、無意味な催促や嫌味な一言ではない。十日ぶりに出会い、仕事の進捗を聞くような感じだった。

 この人は、明らかに自分とは違う世界を生きていた。

「い、え、まだです、が……」

「そうですか。ぜひ早急にお願いします。これだけの本ですから、手分けをしないと調査などとても終わりません」

 なんの調査なのか、もちろん一言も言いはせず、またせかせかと本を出したりしまったりする。俺がその様子をぼんやり眺めていると、アブレアは興味深い一冊に出会ったのか、むっと唸って動きを止め、本に目を落としたまま定位置に戻ろうとする。

 俺は、ほとんど無意識に、ボッチョ親方にすがった時のようにその袖を摑んでいた。

「……なにか?」

 鋭い目は、邪魔をするなと言わんばかりだったが、だからこそ、逆に質問を口にできた。

「あなたは、どうして本を読むのですか?」

 そんなに真剣になってまで。

 俺にはこれまで、この質問を向けられる人がいなかった。この質問は、いつも向けられる側だった。

 もちろん俺は、好きだから、と胸を張って答えていたのだが、ここに来てからというもの、本に対する熱意をくじかれてばかりだった。

 アブレアなら、この質問にはっきりと答えてくれるはずだ、と思った。

 めげそうな俺を奮い立たせてくれる、まっすぐで、強力で、光り輝く神の啓示のような一言を言ってくれるのではと思ったのだ。

「どうして、本を読むのか」

 アブレアは俺を見ながら質問を繰り返し、ふむ、とうなずく。

「探求、ですね」

 俺は、予想もしなかった単語に、目をぱちくりさせた。

「探、求?」

「この世には、知りたいことが多すぎます」

 アブレアは、子供のような笑みで言った。

「思い出しました。あなたは昔、ウーズワースの『黄金の国』を読み終わり、絶望していましたね。物語が終わってしまった、と」

「っ」

 大昔のことをほじくり返され、俺はたちまち赤面する。

 けれど、それはまた事実だ。

「私もそういう時期がありましたよ。本を読み終わるのがもったいなくて、面白そうだとわかっている本は開くことすらできなかった。始まらなければ、終わることもない、と真剣に思っていたのですよ」

 アブレアには、ひとかけらの照れもない。俺は圧倒されながらも、顔が勝手に笑みの形になっていく。

「わ、わかる、気がします」

「ですが、ある日、本にはその先があると気がついたのです」

 黒衣の異端審問官は、ふっと視線を逸らした。

 その目は、庫内の書架全体を見つめていた。

「声、ですよ。聞こえませんか?」

「……へ?」

 アブレアは、口を開かない。

 しばしの沈黙の後、言った。

「私はその声に導かれているのです」

 著者のほとんどはとっくに死んでいる。まさか、亡霊だとかその手の話なのだろうか。

 俺がごくりと固唾を飲んでアブレアを見つめていると、その顔はふと、優しい笑顔になった。

「本には声があります。その声をうまく集めれば、綺麗な合唱になります。私はその合唱を聞くのも大好きです。ただ、今のご時世、ほとんどの愛書家はせいぜいが、この世にどんな本があるのか、という好奇心の域を出ません。その点、ここの蔵書の持ち主は、本のなんたるかを多少は理解していたようです」

 ぐるりと見渡し、アブレアは不敵に笑う。

「私からすればあまりに矮小ですが、それはそれで、一つの世界というものでしょう。神を称える歌もあれば、赤子をあやす歌もあるでしょうからね。ただ、なんにせよ、探求の精神というものがなければ、人は本を読みません」

 相変わらず相手のことを斟酌しない話し方で、内容の多くはよくわからない。

 けれど、なんとなくわかるところもあった。

 探求の精神。

 それは単なる好奇心ではなく、娯楽のためでもない。

 ジャドに馬鹿にされ、クレアに邪険にされると寂しくなるのは、その情熱に似たなにかを否定される気がするからかもしれない。

 俺は、なるほど、と思ったのと同時に、ここですべき質問を思いついた。

「で、では、本を読む気もない人というのは?」

 書籍商になれないのは、客がいないからで、客がいないのは、人々が本を読みたがらないからだ。

 そんな俺の問いに、アブレアは俺のことを見て、目を細めた。

「もう一つ思い出しました。あなたですよね。書籍商になりたい、と言っているらしいのは」

 急に言われ、俺はどぎまぎしながら、うなずく。

 すると、アブレアの口が三日月のようににゅっと笑う。

 心底不気味な笑みだったが、突然俺の肩を叩いたその手は、妙に温かかった。

「大笑いしました。私は私以上に本の世界を探求する人間を見たことがありませんが、突然、斜め後ろに追いつかれていたような気がしました」

「え」

 褒められている?

 俺が呆気に取られていると、アブレアは咳き込むように笑う。どうやら、本気で面白がっているらしい。

「うっふっふっふっ。そういう探求の仕方もあるかと驚きました。私は本を探す自由を得るために黒衣を身にまとったのですが、確かにそうですね。本を探し出し、写本を作り、売り飛ばせば、無限に蔵書を増やしていくことができる。しかも資金の問題まで解決する。探求の精神に実に忠実です。冒険は金がかかるものですから」

 やっぱり、アブレアは信仰のために異端審問官をやっているのではないらしい。元々、異端審問官とは思想的に怪しい本を火にくべたり、その持ち主を磔にしたりする、愛書家の敵だ。目的のためなら裏切者にでもなる、というアブレアの姿勢がいかにもそれらしくて笑いそうになるが、腹の底がふわふわするこの感覚はもっと別のことだ。

 自分が書籍商になりたいということを褒めてくれた。しかも、俺の望んでいることを実に的確に言葉にしてくれたのだ。

 俺は、アブレアの前で嬉し泣きしかけるのを、必死に堪えていた。

「ですが、時勢というものがあります。まあ、書籍商なんて成立しないでしょう」

 手を引っ張り天上に連れて行ってくれる天使かと思いきや、平気で空の途中で手を離す。

 ああ、アブレアはそういう奴だったな、と俺は涙も引っ込んだ目で見つめ返した。

「戦乱によって騒がしいですからね。本の声など聞こえないのでしょう。それでなくたって、日々は騒々しいです。大多数の人が本なんて読みません」

 アブレアほど本について肯定的でも、やっぱりその結論が正しいらしい。

 俺は不思議なほど落胆しなかった。当たり前のことが、やはり当たり前なのだ、とわかっただけのこと。

 その引導を、アブレアから渡されたのはむしろよかったのかもしれない。

 ある意味諦めがつくというものだ。

「本は、役立たずですしね……」

 それでも、思わずその一言が出る。念頭にあったのは、もちろんクレアのこと。そして、本を必要としない人々への、いささかの恨みだ。

 しかし、その瞬間だった。アブレアが笑いを引っ込め、顎を撫でながら、真剣な目で俺のことを見ていた。

「役立たず?」

 あまりに真剣に見つめられ、俺は慌ててしまう。本好きのアブレアにそんなことを言うのは、喧嘩を売るようなものだとようやく気がついた。

「誰がそんなことを? あなたが?」

「あ、い、いえ、ぼ、僕じゃなくて、その……」

 しどろもどろになる俺に、アブレアはぐいと顔を寄せ、こう言った。

「誰でもいいです。それで? なんの役に立てようとしたのですか?」

「……え?」

 その目は、純粋な好奇心に彩られていた。

 アブレアの言った、読書の理由。

 探求心。

 アブレアは、本を読み、頁をめくるかのように、俺に質問を向けていた。本を役に立たないと言われて怒ったのではない。なんの役に立てようとしたのか、知りたくてたまらないのだ。

「い、や、えっと……」

 しかし、俺は言葉に詰まった。本など役に立たない、と吐き捨てるように言ったクレアの真意など、なにも知らなかったし、世の多くの人々が、どうして本を役立たずと見なしているのかも、知らなかったのだ。

 戸惑っていると、アブレアは怪訝そうに首を捻り、俺に近づけていた顔を離すと、こう言った。

「あなたは書籍商になりたいのでは? 必要とする人のところに、必要な物を届けるのが商いだと思いますが。そのためには、なぜ必要としているのか、あるいはしていないのかを知るべきでは?」

 不思議そうな顔をしているアブレアの一言に、俺は体が固まった。

 それからアブレアは、突然夢から覚めたような顔で、頭を搔いた。

「あああ、無駄な時間を過ごしました。早く目録を作成してください。私もすべてを読みたいのはやまやまですが、時間がないのです。頼みましたよ!」

 一方的にそう言って、せかせかと定位置に戻って行ってしまった。

 俺はその後ろ姿を見つめたまま、やはり動けなかった。

 それほどまでに、衝撃的な一言だった。

 俺がこの図書館に買い付けに寄越されたのを、茶番だと感じたのはなぜだったか?

 それは、買い付けても売り渡す相手がいなかったからだ。

 そして、もっと根本的に、書籍商が成立しないのは、今のご時世に本を求める人がいないからだ。人々はそもそも本に関心がなく、どうでもいいと思っている。たまに卑猥なことが書かれていると聞きかじっては、ジャドのように騒ぐのが関の山。

 だが、商いの基本とは、まさしくアブレアが語ったことだった。

 物が売れないと嘆くのではなく、売れる理由を見つけるべきだった。

 人々が本を読まないのなら、なぜ読まないのかを知るべきだった。

 突然、俺は目の前に道が開けたような気がした。

 誰か一度でも、どうして人々が本を読まないのか問いかけたことがあるだろうか?

 俺は問われたことがない。書籍商になりたいと言う俺をたしなめる時、人々は必ず、本を買う人なんてもう何年も現れていないのだから、と言った。

 だが、それは結果であって、原因ではない。

 本など役立たずだと言う人がいたら、アブレアのように問うべきなのだ。

 では、一体なんの役に立たないのだろうか? と。

 そしてもしも返事が得られれば、どうにでもなる、と俺は感じていた。

 なぜならば、この世に存在するあらゆることで、本が言及していないことなど想像もできなかったからだ。

 なすべきことはたった一つ。

 問うこと。

 それこそが、探求の精神だった。

 俺は、真っ暗な図書館の中で、燃えるように決意した。

 書籍商への道は、ある。

 それを、俺がこの手で、開くのだ、と。



 アブレアの言葉をきっかけに、自分の進むべき道が見えた俺は、夜が明けるまで、夢中になって作業をこなしていた。本の目録作りは、いわば商品目録を作るのと同じことだからだ。

 天井の採光窓からはまだ日も差し込んでいないが、闇が薄くなったことで朝だとわかる。

 ぐいと頰を拭った手を見ると、インクで真っ黒だった。

 目録作りは大体、三分の一くらい終わっていた。素晴らしい本ばかりだったが、貴族が収集していたにしては奇妙な本もまた多かった。なんにせよ、幅広い分野の本があって困ることはない。色々な事柄について書かれた本があればあるほど、本など役に立たないと難癖をつけるお客候補に、いいえこういう本がございまして、と言えるのだから。

 そして、その目下のお客候補は、あの気の強い貴族の娘様だ。

 徹夜作業の疲れと早朝の冷たく澄んだ空気をもってしても、逸る気持ちを抑えるには力不足だった。俺はぐつぐつと煮える頭を冷やすために鼻息を荒くしながら、本を書架に戻す。

 だから、商会の基準でいえばすっかり夜明けのこの時間、図書館の扉を開けて、遠慮のない足音が聞こえても怯みはしなかった。

「フィル! いるかー! フィ……お? なんだ、一晩中律義に働いてたのか」

 静謐と知恵の図書館だろうと、ジャドはまったく気にしない。

 俺の姿を見つけるや、白い息を吐きながら、俺並みに活力をみなぎらせていた。

「まったく、そんくらい商会で働けばあっという間に偉くなれるはずだがな。まあいいか。クレアの奴が種無しパン焼いてくれたからな。来いよ」

 ジャドはそう言うと、俺の手を取ってぐいぐいと引っ張って行く。一晩中立ちっぱなしで文字を追っていた俺は、頭こそ煮えたぎっていたが、体力的にはふらふらだったらしい。抵抗もできず、引きずられるようにして連れて行かれた。

 そして、書庫から回廊に出て、訪問者名簿が置かれた机の前を通り、悪魔の彫像が見下ろす扉をくぐって外に出る。

 そこにあったのは薄明の空の下に鎮座する荷馬車で、ちょうどクレアが湯気の漏れ出る包みを荷台に載せているところだった。

「焼けたの包んで置いとくわよ」

「おう、ありがとうな」

 ジャドは軽く礼を言って、御者台に飛び乗った。

 クレアは荷馬車から数歩離れ、寒そうに両手に息を当てていた。

「よっし。ほら、フィル」

 ジャドは、俺のことを見もせずに言った。

「乗れよ」

 手綱を握り、今にも馬を走らせようとしている。それは、俺が荷台に乗るのを当たり前だと思い込んでいるようであった。

 俺は、悪魔の彫像の下で立ち尽くす。

 ジャドが、ようやく俺のことを見た。

「ほら、ぼさっとしてんな。帰るんだよ」

 そのちょっと苛立ちにも似た顔は、なにか焦っているようにも見えた。

 過去に読んだ英雄譚で、こういう場面に出くわしたことがある。それは確か、英雄が死者の国から帰って来る時、決して振り向くなと案内人が厳命するところだ。ジャドの顔は、まさしくその案内人のようだった。

 徹夜明けでふらふらの俺は、顔やら手やら服やらにインクが返り血のようについて、薄闇の中では満身創痍の死人同然に見えるかもしれない。しかも、俺の背後にあるのは奥深い霧が漂う、書籍の世界だ。ジャドはそこから、俺を連れ出そうとしていた。

 俺はようやく、自分がどんな岐路に立たされているのか気がついた。

 ジャドは、俺を現実の世界に連れ戻そうとしているのだ。

「行くぞ、フィル!」

 急き立てるジャドは、俺に考える暇を与えないようにしているのだろう。

 そのことに気がついた俺は、ゆっくりと唾を飲み込むように、顎を引く。

 そして、首を横に振った。

 その瞬間だ。ジャドは御者台から飛び降り、六段ほどある石段を二歩で跳び上がり、俺の腕を摑んで無理やりに引っ張った。すごい力で、抵抗なんかできやしない。

「帰るぞ」

 短い一言に、俺はやっぱり一言で応える。

「仕事、が」

 からからに渇いた喉がひりついたし、ジャドはその痛みを理解したかのように、顔を歪めて足を止めた。

「お前のしていることは、仕事じゃない」

 はっきりと、言われた。

「目を覚ませ、フィル。お前のしていることは仕事じゃない。アブレアにも義理立てする必要なんてない。体調が優れないとかなんとか言っておけばいい。第一、自分の面を見ろ。まさしく死人同然だ。それから、自分の立場を思い出せ。それこそ死人同然だ。だが、お前はこれから商会に戻り、言う。自分に合った仕事を教えてください。それでお前は生き返る。商会の一員になる。おお神よ奇跡が起きましたと感謝する。それで万事めでたしだ。いいか?」

「でも……」

「お前は、帰るんだ!」

 ジャドの怒鳴り声が響く。

 俺はその真剣な顔に、恐怖など感じるわけもない。

 むしろ、泣きそうなくらいのありがたさばかりがあった。

 ジャドは本当にいい奴だと思う。

 けれど、俺は自分の腕を摑むジャドの手を、もう一方の手で逆に摑んだ。

「ジャド」

 俺は自分でも驚くくらい声が落ち着いていたし、ジャドもやや怯んでいた。

 それは、猛り狂う猛獣より、なにを考えているかわからない死人のほうが怖い、というような顔つきだった。

「書籍商に、なれるかもしれないんだ」

「どうやって! 大体、俺はボッチョ親方に言われてんだ。お前がまたあの異端審問官の口車に乗せられないようにって。お前だって、またひどい目に遭いたいのか? しかももうなにもわからない子供じゃない。またそんなことになれば──」

「違う。アブレアとは関係ない。もっと別のことなんだ」

 ジャドの節くれ立った手を摑んでも、単純な力では、絶対に敵わない。

 だが、今の俺には腕力以外のものがあった。

「別の……こと?」

 俺はジャドの目を見つめながら、ゆっくりとうなずいた。

「そう」

 かけらも怯まない様子に、ジャドはため息をついた。

「あのな、フィル。お前が書籍商になりたいって気持ちは正直俺にはわからんが、それを諦めるのが辛いってことだけはわかる。だが、クレアがうちの商会に来るようになってみろ。お前、それでもなお穀潰しをやってられると思うか? 本当に追い出されちまうぞ?」

 そのとおりだった。

 俺は、息を吸い込んで、うなずく。

「わかってる。だから……」

 徹夜明けのうまく回らない頭を精いっぱい回転させ、俺は今にも消えようとしている光を追いかけようとした。あのアブレアですら、本は商いにならないと言っていた。きっとその言葉は正しいのだろう。

 けれど、せめて、せめて夢の片鱗でも摑むことができたなら、それを胸に抱いて、眠ることができる気がした。

「最後に、書籍商になってみたいんだ」

「……はあ?」

 ジャドは困惑するように眉根に皺を寄せたが、俺がジャドの手を摑む手に力をこめ、引き剝がそうとすると、抵抗しなかった。

「また、ジャドはここに戻って来るんだろ?」

 その問いに、ジャドはためらいがちに、答える。

「お、おう。けど……」

「その時は、おとなしく帰る」

 怒鳴り散らすのでも、泣き落とすのでも、寝転がって両手両足をバタバタさせるのでもない。

 俺はジャドに約束を持ちかけた。

 商人を目指すジャドに、書籍商として。

 だからそれは、契約かもしれない。

「……」

 ジャドは苦り切ったような顔をしていたが、摑んでいた俺の手を振り払い、頭をばりばりと搔いた。

「ほんとか?」

 呆れた兄が、弟に向けるようなものだ。

「本当」

 俺はうなずく。

 それからどれくらい無言で見つめ合っていたのか、ふと、ジャドがため息をついて視線を逸らした。そのまま大きく伸びをすると、そっぽを向いて不貞腐れるように言った。

「阿呆くさ」

 そして、踵を返し、さっさと荷馬車の御者台に戻ってしまう。

「お前は阿呆だよ」

 ジャドは手綱を摑み、言った。

「そんな阿呆は、頭でも冷やせ」

「なら──」

「ふん」

 ジャドは鼻を鳴らし、俺とは反対側を振り向いた。

「というわけで、次来るまで、この馬鹿ちょっと見張っといてくれよ」

「え? 私、が?」

 クレアが目をしばたかせ、俺を見た。

「あの異端審問官に騙されないかだけ見といてくれればいいよ。たぶん、こいつに寝込みを襲うような勇気はないから」

 俺のほうを見もせず、指だけさしてジャドはそんなことを言う。

 失礼な、と思うものの、クレアの寝込みを襲ったら、きっとこちらの命が危ない。

「頼むよ」

「私は……別に……」

「じゃ、また来るぜ」

 ぴしり、と馬の尻を叩く音がして、荷馬車が進みだす。

 ジャドはそのまま一度も振り返らず中庭を突っ切り、扉の前でいったん荷馬車から降りると、閂を外して開けた門を馬車を引いてくぐり抜け、外から再び扉を閉じた。

 俺とクレアは、その一連のことをぼんやり見つめていた。

 扉が閉められた途端、どっと徹夜の疲れが俺にのしかかってきた。

 ジャドの説得はうまくいった。

 これで時間を稼げた。

 けれど、最大の問題は、ここからだ。

「……で?」

 寒さを堪えるためか、それとも不機嫌さを表すためか、クレアは窮屈そうなくらい強く腕を組んで、俺のことを半目で睨みつけていた。

「ここに残ってなにするつもりかしら? お店屋さんごっこ?」

 ジャドには気を許していても、俺にはそうではない、とひしひしとわかる。

 だが、俺が最後のあがきで手を伸ばした希望の光とは、まさしくクレアのことだ。

 クレアははっきりと口にしている。本など役に立たない、と。

 そのクレアに役立つ本を見つけ出せれば、もしかすると書籍商が成立するということを証明できるような気がした。需要があるところに供給があり、それこそが商いの基本なのだから。

 もちろん、時勢的に売買が成立しない、ということは理解している。戦で人件費や原材料費が高騰し、写本を作るのが恐ろしく高くつくため、商売として見合わないことはわかっている。

 けれど、根本的に不可能なわけではない、とわかっていれば、道の向こうに明かりがあるとわかっていれば、きっと、歩き続けられると思った。

 とはいうものの、クレアの不機嫌そうな様子を見ると、とりあえずなにか作戦を考えなければならないと思う。今は本に関して真正面から話を振っても、まともに相手をしてくれなそうな気がした。

 それに、徹夜の作業で体がふらふらだった。

「……と、とりあえず、寝る……」

 俺がそう言うと、クレアは大きくため息をついた。

「暖炉にまだ火が入ってるわ。勝手に寝れば」

「あり……がとう……」

 俺はそうとだけ答えるのが精いっぱいで、膝から崩れ落ちそうになりながら石段を下りて、図書館の向かい側にある建物に向かう。その時、クレアとすれ違いざまに、不意に手を伸ばされた。

「ちょっと、これ」

「あ」

 今更気がついたが、俺の片手は作成途中の目録の一頁を握ったままだった。

「せっかく作ったんでしょ?」

 クレアは嫌そうな顔ながら、皺のできたところを伸ばし、書面に視線を落とす。それでなにか興味を持ってくれれば、と俺はぼんやりと思う。

「……どの本も、さぞ貴重なんでしょうね」

 興味なさげに肩をすくめていた。

 ただクレアは図書館の石段を上りかけ、悪魔の彫像の下で振り向くと、こう言った。

「書庫の中、汚してないでしょうね」

 服からなにからインクだらけだが、俺はその言葉に、力強く、唸る。

「ほ、本は、汚していない。本は、とても貴重で、大切なものだから」

 クレアは疑うように眉をひそめたが、ぷいっと前に向きなおり、中に入って行った。

 俺はその姿を見送って、静かになった早朝の空の下、しばし佇んでいた。

 それからぶるりと身震いして、重い体を引きずり食堂に向かい、まだパンを焼いた匂いの残る暖炉の前に倒れ込む。

 夢を見る余裕もなく、そのまま意識を失ったのだった。



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