※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.64掲載の前半を抜粋したものです。


 川沿いの道を、のんびりと荷馬車でくだっていく。

 森は薄くなり、道の起伏も減ってきた。この世の果てとも言われる温泉郷ニョッヒラを出て、数日経ってようやく下界がみえてきたという感じだ。それでも時には川まで迫ってきた山に飲み込まれ、奥深い森の中を行くこともある。

 季節は秋で、足元はくるぶしまで埋まるような落ち葉の川。さくさくという葉を踏む音は心地よく、腐葉土の香りも爽やかだ。問題があるとすれば、落ち葉が正しい道を覆い隠し、時にはありもしない道のような流れを作ることだった。

 慣れた森ならばともかく、何度もそういう偽の道に迷い込みそうになる。実際に一度は迷い込み、森の奥深くにまで進んでしまっていた。気がついた時には地図のどこにも載っていない場所にいたのだから、冷静になって思い返すとぞっとする。

 御者台で手綱を握るロレンスは、元行商人とはいえ山を自由に歩く樵ではない。

 一人で迷えばたちまち行き倒れ、森の動物の餌か、茸の苗床というところだろう。

「たわけ、そっちではありんせん」

 しかし、ロレンスの隣には心強い相棒が座っていて、その時も正しい道を教えてくれた。

 秋の森によく似合う亜麻色の髪の毛と、同じ色をした毛皮を膝の上で梳いている少女だったが、見た目どおりの女の子ではない。頭の上には獣の耳が生え、手元の尻尾は自前の尻尾なのだから。

 ロレンスの隣に座るホロは、御年数百歳にはなろうかという麦に宿る狼の化身にして、ロレンスの最愛の人生の伴侶だった。

「昔は自分一人で旅をしていたかと思うと、ぞっとするな」

 手綱を引いて馬を回頭させ、正しい道に進ませながらのロレンスの言葉に、隣でホロが呆れたようにため息をつく。

「ぬしは運だけはよいからのう」

 丹念に手入れをされたふわふわのホロの尻尾は、秋の日差しの下では輪郭が金色に輝いていた。艶出しに薔薇の香油を使っていることもあって、貴族の邸宅に飾ったって遜色ないだろう。

「そりゃそうだ。俺は旅の途中、お前と出会えたくらいなんだから」

 ロレンスは不意を衝いて、気障な言葉を口にする。ホロがたちまち目を丸くし、すぐに鼻で笑って尻尾の手入れに戻るのだが、まんざらでもなさそうに耳をぱたぱたさせていた。

 老獪にして韜晦、世の裏も表も知り尽くしているようなところを見せることもあれば、こんなあからさまなことにも喜んでくれる。

 ずっとそばにいて飽きないのは、こういうところだろうな、とロレンスは思う。

「しかし、船でくだるほうが正解だったなあ」

 曲がりくねる道からは、時折川の流れが見える。温泉郷ニョッヒラから続くもので、船の往

来も頻繁だ。金さえ惜しまなければ荷馬車も載せられて、悠々と空を眺めながらうたたねしている間に、ほんの二日ほどで海に出られただろう。

 そうしなかったのは単純に倹約のため。

 もう一つは、急ぐのが勿体ない気がしたからだ。

 ホロとの久しぶりの二人旅、ゆっくりのんびりと味わえたら、などと思っていたのだが。

「しかし……腰が痛い……」

 ロレンスは手綱を握ったままその場で立ち上がり、腰を伸ばす。

 長らく荷馬車に座っていなかったせいもあろうが、歳も原因の一つだろう。

「馬を駆るのに力みすぎなんじゃ。もっと馬を信頼すればよい」

 腰を伸ばし、首を回し、御者台に座り直したロレンスにホロが言う。

「そんなに力が入ってるか?」

「んむ。まるで初めてわっちを隣に座らせた時のようじゃ」

 ホロが意地悪な笑みを浮かべながら、流し目を向けてくる。

 十数年前、ホロと旅を始める前は女っ気など全くなかったせいで、ホロのからかいにはずいぶん動揺したものだ。

「それは今も変わらないかもな。無駄遣いをされないよう、力いっぱい、財布の紐を握りしめるんだから」

 笑いながら答えると、ホロに足を踏まれた。

「たわけ」

 ロレンスはホロから肩に頭突きをされ、なお笑ってしまう。

「まったくぬしというやつは……」

 ホロがぶつぶつと言いながら尻尾の手入れに戻ろうとしたら、ふと耳をぴんと立てていた。

「どうした?」

 と、ロレンスがホロを振り向く頃には、身軽な様子で御者台からホロが飛び降りている。

 さくさくと落ち葉を踏みしめる音を目で追いかけると、地面から盛り上がった巨木の根っこの後ろに回りこんでしまう。さて乙女が花でも摘みにいったのかと思うところだが、ホロはすぐに戻ってきた。

 両手いっぱいに、顔も隠れそうなほどの大きな傘を広げた茸を持って。

「この森は風通しがよい。茸を採り放題じゃ」

 道中ずっとこんな感じなので、荷馬車の荷台は食べ物で溢れている。荷台に身を乗り出し、尻尾を振りながら茸を袋にしまっているホロの様子に、笑わないでいるなんて無理だ。

 天気も良く、気候はすごしやすい。

 こんなに良い旅をしているのは自分たちくらいだろうなと、本気で思ってしまう。

「楽しいな」

 思わず口にしてしまった。

 冬眠前の栗鼠のように食べ物をしまっていたホロが、聞きとがめたように耳と尻尾をぴんと張る。そして、ゆっくり振り向くと、毛並みから力が抜けて柔らかくなった。

「んむ」

 ホロは御者台に座り直し、嬉しそうに笑う。

 ニョッヒラから旅に出た当初は、うまく火を熾せなかったり、道に迷い込んだりと先が思いやられたが、楽しい旅を続けられそうだ。

 ロレンスが穏やかな時間をたっぷり胸に吸い込んでいると、ホロが尻尾をひざかけの下に入れてくれる。丹念に手入れのされた毛皮ほどあたたかいものはない。

 こんな時間が永遠に続きますように、と商人らしく安直な願いをしたせいかもしれない。

 ホロがおもむろに、こう言った。

「それでのう、ぬしよ」

「うん?」

「この楽しさを忘れないように、わっちゃあ文字で書き留めておきたいんじゃがのう?」

 笑顔のホロが、ロレンスの肩にしなだれかかってくる。

「使いきってしまったインクじゃが……いつ買ってもらえるのかや?」

 ホロが無邪気な笑顔をする時、大抵は下心たっぷりだ。

 しかも、今は袖の下ならぬ、ひざかけの下の尻尾まで受け取ってしまった。

 楽しいだけの旅がないように、出費のない旅もまた、ないのだった。



 ホロのおねだりの原因は、旅を出てからずっと上機嫌だったホロが、暇に飽かせてペンを握り続けていたことだ。

 ホロは何百年と生き続け、ロレンスはそうではない。生きる時間の長さの違うホロのために、ロレンスは日々の出来事を記しておけばいいと提案した。最初から最後まで読むと、最初に読んだことを忘れるくらいにたくさん書いておけば、この楽しい日々のことをずっと楽しむことができる、と。

 それが本当に良いことかどうかはわからなかったが、少なくともホロは喜んでくれた。夢中にさえなったと言っていい。ならば安くない紙や、ペンや、貴重なインクやらで出費がかさんでも惜しくない。どうせあの世に金貨は持っていけないのだから。

 そう納得しつつ、やはりロレンスの根底は商人だった。

 旅を出てほんの数日、気の向くままにあれこれ記していたホロが、あっという間に筆記のための道具を使い果たしてしまったことに、苦い顔をせずにはいられなかった。

「木の皮でも剥がして、釘で書いておいたらどうだ」

 ホロの真の姿は巨大な狼なので、爪の一振りでいくらでも木の皮が手に入る。

「たわけ、木の皮では長持ちせんじゃろうが」

「それはそうだが……海に出て、港町のアティフまで行かないと筆記用具なんて手に入れようがない」

「その辺に羊や牛がうろうろしておらぬかや」

 巨大な爪で屠り、皮を剥がして羊皮紙や牛皮紙にするつもりかもしれない。

「ついでに肉もとれて一石二鳥じゃ。インクがないのは……まあ、一緒じゃが」

「羊皮紙の作り方なんて俺はわからないぞ」

「役に立たぬのう」

 無駄遣いをしたのは一体誰なんだ、という言葉は飲み込んでおく。ホロが尻尾をふわふわにさせながら文字を書いていたのは、それだけ楽しいことがあったから。

 荷馬車の荷台には、大きな麻の袋に包まれた荷物がいくつかある。ホロがせっせと集めた秋の森の収穫のほかに、耳を澄ますとすごい羽音がする袋がある。ふと気がつけば、隙間から逃げ出したのが辺りを飛んでいることもある。

 袋の中にあるのは、ロレンスが何か所も刺されながら手に入れた、巨大な蜂の巣だった。

「まったく……それなら、少し遠回りになるが、寄り道してみるか」

「ほう?」

 地図を広げながらのロレンスの提案に、ホロが興味を示す。

「ちょうど分かれ道だ。確かこの近くに旅籠が……ああ、やっぱりあるな。ニョッヒラに向かう客が道中立ち寄るところだから、紙やインクの備蓄があるかもしれない」

 温泉郷ニョッヒラの上客は、貴族や王族のほかに、大聖堂の大司教や、広大な領地を所有する大修道院の院長などがいる。彼らは文字を書くのが仕事だから、彼らのために文字を書く道具が揃っていてもおかしくない。

「ではそっちに行くべきでありんす。ついでに温かい鍋でもあれば万々歳じゃ」

 道中食い物を集めていたのは、紙とインクを使いきってしまったことをホロなりに気にしているのかもしれない、と思っていたが、鍋の具をなににしようかと今から舌なめずりしているところを見ると、単に食欲に従っただけとも思えてくる。

 なんであれ、楽しそうなのでよしとするしかない。

「じゃあ、行ってみるか」

「うむっ」

 満足げにうなずくホロを横目にやれやれとため息をつき、ロレンスは西に向かっていた馬を北に向けたのだった。



 旅籠はさほど遠くない場所にあった。

 元々は木材を伐り出す者たちが集う場所だったようで、その名残か、苔むして朽ちるにまかされている丸太が幾本か積み重ねられ、その上に斧を模した旅籠の看板が立てられていた。

 そして旅籠そのものも、そんな丸太に負けず劣らずの様子で、蔦だらけ、苔だらけだった。

「ふむ。良い宿ではないかや」

 すんすんと鼻を鳴らして、ホロはそんなことを言う。周りが深い森な上、旅籠は古い建物らしくて、一見すると森の妖精が住む小屋のようにも見える。

 しかし、軒下を支える柱や梁は、昨日伐り出してきたような材木で作られているし、柵で仕切られた庭には野菜が植えられ、日の当たる場所では山羊や豚がのんびり草を食んでいる。

 丹念に手入れをされている場所なのだとすぐにわかる。

 とはいえホロが褒めていたのはそういう趣にではなく、煙突から立ち昇るパンを焼くにおいのほうだろう。

「今日はここに泊まるのかや?」

「ベッドが空いていればな」

 ロレンスがそう答えたのは、なにも納屋で眠れば宿賃が浮く、という理由からではない。

 厩には立派な馬が三頭ほど繋がれ、馬廻りらしい者たちがこの時間から酒を飲んでいる。

 身分のある者が滞在しているのだろう。

「まあ、なんとか軒のあるところで眠れるように聞いてみるよ」

「わっちが病のふりでもしたらどうじゃ?」

「暖炉の前を貸してくれるかもしれないが、肉と酒はおあずけになるだろうな」

「ううむ」

 真剣な顔で悩むホロに苦笑し、ロレンスは荷馬車を適当な場所に止めると、ひとまず旅籠の扉を開けた。

「ごめんください」

 夕餉の準備をしていたのか、たちまちパンのかぐわしい香りと、大蒜と脂の食欲をそそる匂いが溢れだしてくる。

 追いかけてきたホロが、後ろでぐうと腹を鳴らしていた。

「おや、こんなところに珍しい。行商人の方ですかな」

 主人と思しき者が、談笑していたテーブルから立ち上がる。白髪交じりの髭を生やしていて、いかにも森の中で暮らしている人物という見た目だ。

「いえ、私は」

 と、自己紹介をしようとしたところ、主人と同じテーブルで話していた一人が声を上げた。

「おや、これはロレンス殿!」

 見やれば、客として何度か湯屋に滞在したことのある修道院長だった。

「これはこれは院長様。神の御導きでしょうか」

「いやまったく奇遇ですな。おや、奥方も」

 ホロに気がついた院長の言葉に、こういう時の演技は上手なホロが、楚々とした様子で目礼を返す。

「ご主人、こちらはニョッヒラの“狼と香辛料亭”の主人なのですよ」

「なんとなんと。まさかこのあたりに湯屋を建設するおつもりでしょうか?」

 旅籠の主人の軽口に皆が笑い、ロレンスと握手を交わすと、テーブルを勧められた。

 そこには椅子に座ったままの、身なりの良い人物がいた。

「ああ、ロレンス殿。こちらは近隣の土地を治めるビーベリー様です。ビーベリー様、こちらはニョッヒラでも有数の湯屋を経営されるロレンス殿です」

「おお、あの湯屋か。聞き及んでいる。笑いの絶えない湯だとか」

 近隣の領主ということだが、側に近習の一人も連れておらず、ロレンスにも気安く手を差し出してくる。ロレンスは改めて自己紹介をして、握手を交わし、ホロを紹介してから、勧められるままにテーブルに着いた。ビーベリーとやらは、あまり身分のことをうるさく言わない性格らしい。

「しかし、ロレンス殿。今頃は冬に向けての準備で大わらわでは? それとも、なにかの仕入れに赴かれている途中ですかな」

 当然聞かれることだったし、コルとミューリのことは隠す話でもない。骨休めも兼ねて、ミューリとコルに会いに行くのだと告げると、院長は大きくうなずいていた。

「なるほど。いやあ、我々もコル殿の活躍は耳にしております。我々からすれば戦の英雄の話でも聞くかのような感覚ですが、ロレンス殿からすれば確かに心配かもしれませんな」

 コルは不正にまみれた教会を正すのだといって、村を後にした。そこに一人娘のミューリもくっついていき、二人はどうやら随分大きなことを成し遂げているらしい。

「院長様は、これからニョッヒラのほうに?」

「ええ。まさしくコル殿の影響で、今年の春から夏にかけては目が回る思いでした。それでようやくひと段落つき、一刻も早く骨休めをしたいと思いまして」

 今、世の教会や修道院の責任者は、コルたちの影響で財産の見直しを迫られている。溜めこみすぎた特権、資産の類を、やり玉に挙げられる前に処分しようと奔走しているのだ。

「それはまた……うちのコルがとんだ御迷惑を」

「いや、いや、まさか迷惑だなどと。良い機会でしたよ。部屋の大きな掃除はなにか勢いがないとなかなか手が付けられませんからな」

 その大掃除の手伝いを、春先から夏にかけて頼まれた身としては、愛想笑いもややひきつってしまう。

 そうこうしていると、ホロがふと、ロレンスの服の袖を小さく引いた。

 本題はまだか、ということだろう。

「そうでした、ひとつお聞きしたいのですが」

 と、ロレンスは言った。

「筆記用具に余りはございませんか?」

 すると院長のみならず、ロレンスに飲み物を持ってきた宿の主人もきょとんとした。

「筆記用具ですか」

「ええ。見聞を広めるためにと、道中の様子を記しているのですが、紙やインクが切れてしまいまして。在庫がありましたらお譲りいただけないかと」

 ロレンスの言葉に、院長と旅籠の主人が顔を見合わせ、揃って困ったような笑みを向けてきた。

「いや、先ほどまさにその話をしていたのですよ」

「え?」

 院長は、小さく咳払いをした。

「コル殿の活躍のおかげで、文字どおり世界中の宝物庫がひっくり返されている真っ最中です。それにほら、コル殿は聖典を誰にでも読めるように、と聖典の俗語翻訳も進めているでしょう。あの影響も大きくて、インクやら羽ペンやらがたちまち売り切れてしまったのです」

 文字を読み書きできる者の数は少なく、普段、インクやペンを必要とする者たちの数は限られている。

「私も道中立ち寄る町で聞いて回っているのですが、なかなか見つからず、たまに残っていても凄い値段になっておりましてね。そうしたら、こちらの」

 と、領主のビーベリーを院長が指し示す。

「ビーベリー様が昨年買い溜めておいたものがあるとのことで、いくらか分けてもらおうかという話をしていたのです」

 領主というと厳めしい髭と面構え、という印象があるが、ビーベリーは穏やかな目元のせいか、どこか眠そうに見える。

 気安く握手の手を差し出してきたりと、実際に穏やかな人柄なのだろう。

「たまたま昨年頃、村に滞在した吟遊詩人から買い取ったのだ。なんでもニョッヒラで知り合った踊り子と結婚して、故郷の村に帰るのだとか。これから必要なのはペンではなく、鋤だと言っていたよ」

 吟遊詩人も踊り子も、ずっと続けられる仕事ではない。ニョッヒラの湯に余興を提供してくれている彼らはその後どうしているのだろうかと思っていたら、ひとつの例がここにあった。

 とはいえ、その詩人から買い取ったインク類は院長が先に声をかけていたので、諦めるしかない。アティフまでホロには我慢してもらうか、と思った矢先のことだ。

「しかしビーベリー様。ロレンス殿が紙やインクを求めてこの旅籠に来たなど、まさしく神のお導きですな」

「え?」

 ロレンスが聞き返すと、ビーベリーと院長、それに旅籠の主人が揃って笑顔を向けてくる。

 口を開いたのは、旅籠の主人だった。

「ビーベリー様は人手を探しておいでだったのですよ。ここなら知恵と教養に満ちた方々が立ち寄る可能性が高いですから」

「残念ながら私はそのどちらもなかったのですが、ロレンス殿なら適任だ」

 院長の言葉に、ビーベリーが椅子の上で居住まいをただし、ロレンスのことを真っ直ぐに見た。地位のある者に特有のたたずまいだ。

「このビーベリー、かつては異教徒の土地とみなされたここで、神への祈りを欠かしたことはない。それがまさかあの、デバウ商会を陰から支える凄腕の行商人と名高いロレンス殿と巡り合えるとは、まったくの僥倖」

 話が全く見えずに困惑するが、ホロが隣で出された飲み物を呑気に啜っているので、危ない雰囲気ではないということだ。

 ロレンスは咳払いをすると、背筋を伸ばしてこう言った。

「私でなにか、領主様のお役にたてることが?」

 ビーベリーは、静かに答えた。

「我が領地の窮状を救ってもらえまいか。ロレンス殿の、素晴らしい商いの知識によって」

 髭面で、どこか眠そうな顔つきの領主はそう言ってから、隣の院長を見やる。

「ロレンス殿には礼の一つとして紙とインクを贈りたいのだが、よろしいかな」

「ええ、もちろん。神はきっとそれをお望みです」

 ビーベリーはうなずき、ロレンスに向き直る。

「ということなのだが、いかがかな?」

 近隣領主のたっての望み。それに、どうやら紙もインクも品不足で高騰しているらしいので、アティフに向かってもそこで手に入れられるとは限らない。

 どんな頼みごとをされるのかと商人の警戒心がぴりぴりとしているが、隣のホロからは無言の圧力も感じている。ここで否と言えば、この先しばらく、眠る時はホロの尻尾なしを覚悟しなければなるまい。

「わかりました。精一杯、お力になれるよう努めます」

「おお、ありがたい!」

 ビーベリーは立ち上がり、ロレンスの手を両手で握ってくる。

 院長がその様子に祈りを捧げ、旅籠の主人は乾杯用の酒を器に注ぎたす。

 ロレンスは商人らしくそつのない笑顔を浮かべてはいたが、やはり気になってしまう。

 領主が旅籠に足しげく通い、人を探すなど一体なにごとなのか。

 不安がある一方で、好奇心もあった。

 商いの知識を欲しているというのだから、昔取った杵柄だ。

「では早速、我が領地に来てもらいたい。今晩は我が領地の御馳走をふんだんに――」

 とまで言って、人の良さそうなビーベリーは、旅籠の主人を見た。

「これは主人の商売の邪魔になるだろうか?」

 ビーベリーは真面目な様子だったが、旅籠の主人も院長も笑いだし、首を横に振る。

 どうやらビーベリーは人に愛されるたぐいの領主らしい。隣では人に対する評価の厳しいホロも楽しげにしている。

「では、日が暮れる前に参ろう。我が屋敷までは、ここからすぐだ」

 ビーベリーの言葉に、ロレンスは恭しく頭を下げたのだった。



 ビーベリーの領地は、実際に旅籠の近くにあった。道中聞いた話では、あの旅籠がそもそも、ビーベリーの家が所有していた材木の伐り出し場だったらしい。

 木々がまばらになり、森と森の隙間にひっそりと広がる草原に出たかと思うと、のどかな村が現れた。

 馬廻りを一人だけ連れたビーベリーに、すれ違う村人は気安く挨拶を向ける。

 村には牛も馬も見かけず、駄獣は騾馬が数頭いるだけの質素な感じではあったが、よく治められている平和な村だった。

「ロレンス殿に任せたいのは、この村を悩ませている大問題についてでな」

 しかし、麦の刈り入れが終わった畑の間の道を進む間、ビーベリーはそんなことを言った。

「なにか商いの知識が必要なことだとか?」

「いかにも」

 ビーベリーは、農作業から帰る途中の村人とすれ違うと、またにこやかに応対してから、続けた。

「まったくもって、余を含め、商いには疎くていかん……」

「ですが、村は全く平和な感じです。問題があるようには見えませんが」

 悪い商人に目を付けられ借金漬けになったり、苛烈な圧政を敷く領主の下で重税にあえぐ村というのは、一歩踏み入るだけでわかるものだ。

「幸い、村人たちの生活が行き詰まるといったことはないのだが……それゆえの心の緩みとでもいうのか」

 ビーベリーはため息をついた。

「こんな辺境の村にも、世の流れというか、波のようなものが届き、それに翻弄される人々がいるのだよ。かくいう余も、自分自身の考えに確信が持てなくなりかけていた」

「一体なにごとなのでしょう?」

 ロレンスの問いに、ビーベリーは身内の恥を明かすように、悲しげな目で言った。

「我が領地、我が民たちの生活を支える、森の処遇だ」

「森の?」

 それまでは旅籠で飲んだ葡萄酒にほろ酔いだったホロが、目に光を宿す。

「うむ。あの院長殿も言っていたように、世は慌ただしく動き、その影響を被っているのだ。つまり」

 道の先に、森を背後に控えた領主の館が見えてきた。

「我らは我らの森から、いかにして最大の利益を得るべきか、と揉めているのだ」

 純朴そうな領主は、そう言って困り果てたような顔をみせたのだった。



★2018年11月10日更新の『狼と森の色≪後編≫ 』に続く。
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