※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.53掲載の後半を抜粋したものです。
出されたパンは焼き立てには程遠いが、小麦から作られた白パンだった。スープも塩と酢だけで味をつけたものではなく、パン屑でとろみをつけて、羊肉がごろりと大胆に入っていた。
やや驚いたのは、テーブルの上にある酒瓶だった。
「立派な酒瓶ですね。綺麗な緑色だ」
長い長いアマーリエの修道院仕込みの祈りが終わり、ようやく食事が始まって、ロレンスはとりあえずそんなふうに口火を切った。
「お父様の趣味だったそうです。お屋敷の地下にたくさん硝子製品があって……。本当にたくさんあるので、いくつか残してほかを売ったら、水車の費用も賄えるのではと思ったのですが」
困ったように話すアマーリエに、テーブルの隅に窮屈そうに座っているヤーギンがちらりと視線を向けていた。窮屈そうなのはヤーギンの身体が大きいのと、きっとヤーギンの常識では、主人と家臣はテーブルを共にしないからだ。
二人の間には大きな発想の違いがあるようで、硝子の収集品を巡ることもそうなのだろう。
公平無私の精神から、アマーリエは当然のように硝子を売ることを考えたのだろうが、ヤーギンからすればとんでもないことに違いない。先代領主の収集品ならば、いわば家の宝なのだから。
「ですが、手回しの石臼の使用を禁止すれば、ひとまずは水車の問題は解決されるでしょう」
パンをちぎってスープに浸しながら、ロレンスは言った。
「似たような話を、過去に別の場所で見たことがあります。きっとお力になれると思います」
すると、ヤーギンが胸を張り直していた。わかっているじゃないか、とばかりに。
「本当ですか?」
「ええ。広い農村だとしても、意外に物を隠す場所というのは限られます」
隠す、という言葉にアマーリエの輝きかけた顔がみるみるしぼんでいく。
きっと、村人からの自発的な協力を望んでいる。
ロレンスは葡萄酒を口につけてから、いかにも冷酷な、金の亡者のように言った。
「気に病む必要はありませんよ。税を払わないほうが悪いのです」
それが当然だとばかりに、にっこり微笑んでおく。
アマーリエは苦しそうに顔を歪めるが、ヤーギンに視線を向けなかったのは、ヤーギンも自分の味方ではないとわかっているからだろう。
「そもそも水車の設置は村のためですしね。ああ、もちろん、アマーリエ様の手を煩わせるようなことはいたしません。私が出向き、回収してまいりましょう」
「え、ですが、そんな」
「もちろん石臼を運ぶのは大変ですから、ヤーギンさんのお力は借りたいのですが」
アマーリエは賢い娘だ。自分が汚れ仕事から遠ざけられることにすぐに気付いていた。それから、そのことに戸惑いややましさを感じる優しさもまた、持ち合わせていた。
そんなアマーリエをよそに、ヤーギンが固い声音で応える。
「いつでも」
アマーリエはロレンスとヤーギンを哀しげな顔で見比べ、うつむいてしまう。権力の座は余人が思っているほど居心地の良い場所ではないし、誰もに向いている場所ではない。
しかし、とロレンスはアマーリエを見て思う。善かれ悪しかれ、人は慣れる。
それを心の摩耗と呼ぶ詩人もいるが、この世界はどういうわけか、人に優しくできていないのだ。
「それに、領主様のお力になれるとあれば、行商人には望外の喜びですから」
いかにも余禄を期待しているぞ、とばかりに言っておく。
すると、寡黙なヤーギンも口を開く。
「ドラウシュテム家は労苦には報いるであろう」
悪いのはよそから来た金目当ての行商人であり、頭の固い家臣なのだと結託する。
ホロはそんな様子に、少しだけ憐れむような目をアマーリエに向けていたが、もちろん口は挟まなかった。世の無慈悲さは、ホロが一番知っている。
「それでは、食事の後に早速向かいましょうか」
「よろしいですな?」
ヤーギンの確認に、アマーリエは顔を上げてなにか言いかけたが、結局うつむいてしまう。
肩が震えていたのは、上品に膝の上に敷いた亜麻布を握りしめていたのだろう。
「……お願い、いたします……」
ロレンスがふっと頬を緩めたのは、自分たちの思いどおりにいったからではない。
アマーリエは心優しいが、運命に立ち向かう勇気がある。
ならばこちらも全力で協力するだけだった。
石臼の運搬にはロレンスの荷馬車を使うことにした。荷台から積み荷をおろしている最中に、ヤーギンがふと言った。
「すまないな」
ロレンスは手を止めなかったが、ホロと目が合ったので、笑いかけておく。
「荷馬車の使用料はいただきますよ」
もちろん、ヤーギンの言葉は荷馬車に対してのものではないとわかっている。
「それから、私はイヴァン修道院の院長様から頼まれています。けちで、自分の修道院のことしか考えておらず、相当な苦労をして荷物を届ける私を一度も労ったことがないような院長様からね。アマーリエ様がきっと困っているだろうから、力になって欲しいと」
アマーリエはそれに見合う素晴らしい人物なのだ、と商人風の遠回しの表現だった。
ヤーギンは猛牛の肩のような筋肉で積み荷を持ち上げ、そっと地面に置く。
山賊のような見た目だが、決して粗野ではない。
「アマーリエ様は、良き領主になるだろう」
ロレンスは笑いながら、最後の荷物を荷台から下ろす。
「力の貸し甲斐があるというものです」
それからロレンスたちは再び村長の元に向かった。ホロはアマーリエと一緒に残って慰めようかと迷っていたようだが、ロレンスが止めておいた。自分たちはすぐに村からいなくなる。その役目はヤーギンのものだし、そのヤーギンだって、アマーリエよりも早くに死ぬ。学びを得るのに、早すぎることはない。
がらがらと空の荷馬車を引いて村に向かうと、村長たちはすっかり油断していたようで、ささやかな宴会の最中だった。
家具を片付け、固い地面に藁を敷き、村人たちが車座になっていた。その中心にはでんと銅製の醸造鍋が置かれている。きっと村長自慢の製法で作った麦酒だろう。
「これは、これは……」
村人の中では一番如才なさそうな村長ではあったが、さすがに戸惑いを隠せないようだった。
「あ、皆さまはそのままで構いません。領主様の徴税権を私が代行することになりましたので、その御挨拶に」
「徴税権……いや、ですがそれは」
「先代の領主様の時代にも、手回しの石臼の使用を禁止する布告が出されておりましたね。ですから、その布告に基づいて、没収に参りました」
村人たちのうなじの毛が逆立つ音まで聞こえそうだった。
だが、村長はすぐにそんな彼らに目配せする。かすかにうなずいたように見えたのは、安心しろ、ということだったのかもしれない。
「左様ですか……。ですが、我々はこのとおり、手回しの石臼を囲んでいるわけではありません。なにより、このようなあばら家には、隠す場所もありません」
他の者たちも隠し済み、ということだ。
ロレンスは微笑みの表情を変えず、うなずいた。
「そうですね。町の家とは違い、屋根を支える梁がむき出しですから、屋根裏に隠すわけにはいきません。床は板ではなく踏み固めた土です。埋めて隠せばすぐにわかりますし、そもそも掘りかえすのが困難だ」
突然の口上に、村人たちは困惑していた。
「では畑は? これは探すのが簡単です。棒で土をつついてみればいい。そもそもこの季節ですから、作物が植えてあるでしょう。大胆に穴は掘れないはずです」
一人か二人が、うぐ、と喉を鳴らした。そういう者たちは、ヤーギンが見分けてくれる。
「家の裏庭、畑までの道、色々と埋める場所はありましょうが、掘りかえせば雑草の生え方で遠目にもわかります。川向こうの草原に隠すということもできるでしょうが、しょっちゅう使う石臼をそこまで運ぶとはなかなか考えられません。ということは?」
ロレンスは部屋を見回し、扉もなく地続きになっている隣の炊事場を覗き込むようにした。
「竈の中……というには、少し石臼は大きいですね。それに、軸の木が焼けてしまいますし」
ならばどこに隠すのか。行商人の有利は色々な土地に赴くことで、どこに行っても皆考えることは同じ、と学べること。
「家を建てる時には必ず設けて、しかも、ひっくり返してもわからず、そもそもひっくり返そうとも思わない場所」
ロレンスは踵を返して、戸口の側で事態を見守っていたホロの前に立つ。ホロはきょとんとしていたが、恭しく手でどくように示すと、その下には石の板があった。
「人の出入りが多いここは、土がすぐ抉れてしまいますからね」
なので、穴が空きやすく、そこに石を置く。それに、徴税吏が家探しをする際中、大抵、住人は戸口の周りに立って不安げにしているものだから、家の中で最も盲点なのはここになる。
ヤーギンが梃子に使う鉄棒を手にすると、村長が苦しげに歯を噛み、うつむいた。
「水車を作っても、どうせ野火で焼けてしまう……」
そのためにはあの途方もない紫色の花を全て刈りつくすか、せめて水車の周りだけでも刈っておく必要がある。忙しい時期に、金にもならない草花を。
「私は商人ですから断言しますが」
と、ロレンスは言った。
「それでも水車があったほうが、全員にとって得ですよ」
ヤーギンが敷石を剥がすと、下から手回しの石臼が出てきたのだった。
いくつかの家からは見つからなかったが、きっと本当に持っていないのだろう。一応、ホロにそれとなく視線を向けたが、村人が嘘をついていたらそう仕草で教えてくれたはず。
それで結局、都合十七個の手回しの石臼を回収した。
荷馬が、不満げに鼻を鳴らしながら重くなった荷馬車を引いていく。
「力に頼らずに済んだ」
ヤーギンが、独り言なのか礼なのかわかりにくい調子で、ふと言った。
「悪知恵が商人の強みです」
ロレンスは言って、手綱を握り直す。
「問題は、アマーリエ様でしょう?」
殴りかかられるかもと思ったが、ヤーギンはぐむぅと唸っただけだった。
「領主をやるには、少し心が優しすぎるようです」
「……民が税を喜んで納めるなどありえない。たとえ、それが民のためになるのであっても」
「耳の痛い言葉です」
行商人は関税を誤魔化し、町で課せられるあらゆる税から逃れようと画策する。その税によって町の設備が拡充され、治安が良くなり、人が集まり、商いが発展するのだとわかっていても。
「それに、また水車の修理費用が足りなくなるかもしれません。その時は、もっと辛辣な方法に出ないとならないでしょう」
次は回収するべき石臼もない。
「なにか方法はないのか」
ヤーギンの問いに、ホロが視線をこちらに向けた。深入りはするなと諌めてくるので、大丈夫だとその頭を撫でておいた。
「色々な町で商ってきて、あらゆる税を見てきました。いくらでも考えつきますが」
「……結局その道しかないのか」
「まあ後は、村の人たちが儲かるなにかを見つけることです」
先立つものが無ければ、払いようもない。
「……我々は商人ではない」
「そうですね」
ロレンスはそう答えたのだが、アマーリエは新しい税を課すたびにきっと、心の柔らかい部分を削っていくことだろう。
「私も行商の知識で、なにかご協力を……」
と言いかけた時だった。
「アマーリエ様?」
領主のアマーリエが、ロレンスたちとは別の方角から、小走りに館に向かっているところだった。両腕にはなにかをどっさり抱え、やや足元もおぼつかない。
そして、裏庭のほうに消えた。
ロレンスたちが石臼の回収に向かっている間、どこかに出かけていたらしい。
「なんでしょうか」
「うむぅ……」
ヤーギンもよくわからないらしい。ロレンスは、ホロならばとそちらを見たら、ホロは少し驚いたような顔をしてから、どこか嬉しそうに微笑んでいた。
その理由は、館に戻り、すぐに分かった。
「お……お嬢様?」
食事をしたテーブルで見つけたアマーリエの姿に、ヤーギンは思わずといった口調でお嬢様と呼んだ。
「お嬢様はやめてくださいと約束したはずです」
アマーリエにぴしゃりと言われている。
そのアマーリエと言えば、袖をまくりあげてテーブルの上に広げた物を弄くり回していた。
この村に厄災をもたらしている、紫色の花だ。
「結局、この花が悪いのです」
アマーリエは、そう言った。
「もしもこの花をなにかの役に立てられるならば、村の人たちも積極的に刈り取るでしょうし、水車は守られるのではないでしょうか」
運命に翻弄され、めそめそとしているだけの女の子ではない。
「しかも、ロレンスさんは行商人です。どんな遠方の地でこの花を必要としているとしても、売りに向かってくれることでしょう」
そうなのかや? とホロが悪戯っぽい目を向けてきた。
しかし、こう答える以外にないではないか。
「そうですね。儲かるようでしたら」
その一言だけは、譲れなかったが。
「さしあたっては、料理に使ってみてはどうでしょう。私も香草の使い方は修道院で学びました。この花は、香りは良い物ですから」
すぐに思いつくようなことは先人が思いついている。
そんな一言を向けるのは簡単だが、立ち向かおうと決意することが大事なのだ。
「分厚い牛の肩肉に一本乗せて焼けば、良い香りになるやもしれませんね」
「ほかには?」
「質の悪い葡萄酒に沈めるとか」
アマーリエはうなずき、顎に手を当ててから、言う。
「これそのものは食べられないのでしょうか」
咳払いをしたのは、ヤーギンだった。
「それだけは、もう二度と試したくありません。煮ても、焼いてもです」
どうやら散々試してみて、直接食べるのは無理だったらしい。
「また、香りがきつすぎるせいか、羊や牛、豚でさえも食べないのです」
家畜の飼料になるのなら、村人が喜んであの花畑に放っていただろう。そうしていないのには理由があるわけだ。
「料理のちょっとした飾りや匂いつけだと、売れても微々たるものですね」
そして、花は文字どおり見渡す限りに生えている。
「では、これをそのまま匂い袋にするのはいかがですか? 修道院では育てた香草をよくそうしていました」
年頃の娘たちから老齢の淑女までが集う女子修道院で、裁縫針を片手に香草の匂い袋を作る様は、きっと心穏やかになれる麗しい光景だろう。
「匂い袋は商品として存在しますし、確かにこの花の甘い匂いは強烈です。しかし、そんなに数が売れるものではありません。花畑をどうこうできるほどの大量の売り上げは見込めないでしょうね」
良い匂いがする花弁と、良い匂いがするパンならどちらを買うか、という問題だ。
しかも、一度買ったらもうしばらく買わなくてもいいのだから。
「一つの町では少しずつでも、たくさんの町に売ったらどうでしょうか?」
「途中で雨に降られることもありましょうし、乾燥させた花弁というのは軽い代わりにかさばるのです。荷台はさして広くありません。一つの町に立ち寄って、売れるのがジョッキ一杯、ではなかなか商売にはなりませんし、花畑が減るとも思えません」
アマーリエは悔しげに爪を噛むが、諦めたわけではないらしい。
「では……そう。燃えるのならば、日々の燃料にするのはどうでしょうか?」
「村の人たちがそうしていないのは、理由があるからではないでしょうか」
ロレンスが言うと、ヤーギンが引き継いだ。
「あの花が川を越えてこちらで根付くようなことがあっては困ります。また、あの花は火事の象徴でもあります。それを家に備蓄しておくようなことは、寝覚めの良いことではありません」
付け焼刃で解決できることではない。村の民たちとて間抜けではないし、先代の領主は名君のようだった。
だが、アマーリエは挫けたようには見えなかった。自分が世間知らずというのは先刻承知、という感じを受けた。とっくに腹をくくっているのだ。
「考えます」
力強く言った。
「修道院で、考えることだけはたくさんしてきましたから」
「お嬢様……」
大男のヤーギンが、眼をしょぼしょぼさせながら呟いていた。
「お嬢様はやめてと言ったはずです」
アマーリエが苦笑しながら、そう言った。
「私は当主の座に就いたのです」
ロレンスはホロの背中をちょっとつついてから、花を手に取った。
「では、知恵を絞りましょうかね」
威勢よく言ったはものの、現実は花の香りのように甘くはない。夜まで食堂であれこれ考え、万策尽きて、ついでに蝋燭も燃え尽きたので解散になった。
新しい獣脂の蝋燭に火をつけてもらい、眠り薬に、と麦酒をヤーギンから渡されたが、彼なりのお礼のつもりだろう。ありがたく受け取っておいた。
部屋に戻れば、一足先に戻っていたホロが、木窓を開けて月明かりを頼りに尻尾の毛づくろいをしていた。
「幻想的な光景だな」
ロレンスが言いながら扉を閉じると、よじれた尻尾の毛を噛んで直していたホロは特に嬉しくもなさそうだった。
「ぬしが褒める時は大抵ろくなことがありんせん」
「お見通しのようで」
ヤーギンからもらった麦酒を木のジョッキに注ぎ、ホロに渡す。
ホロはジョッキを受けとると早速飲もうとして、手を止めていた。
「仕込みの際に、あの花を燃料に使ってるのか、あるいはこの村の空気が溶け込んでいるのか」
食堂で散々匂いを嗅いで、鼻がおかしくなりそうだった花の匂いがする。いつもならば一風変わった麦酒だと喜んだかもしれないが、さすがに辟易する。
「むう……まあ、麦そのものは悪くありんせん」
ホロはぐびぐびと飲んで、けふっと喉を鳴らす。
「しかし、役に立たぬものじゃのう」
「あの紫色の花が?」
あっという間に空いたホロのジョッキに麦酒を注ぎながら、ロレンスは言う。
ホロは胡乱な目を向けてきて、ふさふさの尻尾をわざとらしく膨らませる。
「それ以外になにが役立たずなのかや?」
「まあ……旅の行商人の浅知恵とか」
ロレンスが笑うと、ホロはさらに麦酒を呷って、器用にベッドに仰向けに倒れた。
「お前、いつかこぼすぞ」
「酒浸りで寝るのが夢だったんじゃ」
「馬鹿言ってるな。ほら」
お腹の上に置いた麦酒のジョッキに手をのばすと、ホロはおとなしく渡してくる。
閉じた瞼の向こうでは、まだ頭を巡らせているらしい。
「ヨイツの賢狼と呼ばれたわっちが、花の扱い一つにこんなにも苦労するとはのう……」
「もしもお前がそんなにぽんぽんと商いの品を思いついてくれてたら、俺はとっくに大商会の主なんだがね」
「たわけ。わっちが稼いだのじゃから、すべてわっちの物じゃ」
ごろり、とうつぶせになったホロは、腕枕の上に顎を乗せて尻尾をわさわささせていた。
山ほどの儲けで、酒池肉林の生活でも想像しているのかもしれない。
「しかし、花なあ……」
ロレンスは呻くように呟き、ホロの側に腰を下ろす。ホロの尻尾が、ぺしぺしと背中を叩く。
「あれが薔薇だったらまだしもなんだが」
「ほう」
「祭りなんかでよく使われるから、まとめて売れるんだよ。王侯貴族が町に来た時なんかにも、ずらっと道に敷き詰めたりする。それにさらに南に下れば、高級な料理や菓子にふんだんに使われたりするし、人気商品だ」
「ほほう」
もっと詳しく聞かせろ、とホロが体を寄せてくる。ロレンスは、俺も知識しかないが、と断ってから言った。
「アーモンドミルク、薔薇水、砂糖、は貴族の晩餐に欠かせないそうだ。特にその三つを混ぜたスープはとろりと甘く、薔薇の匂いがする。そこに米を入れて煮て、食後に木苺の酒と一緒に飲む。あるいは、生姜を入れてすっきりとさせてから、鶉や鴨などの肉を煮込む。弱った病人もこれでたちまち治るらしい」
まばたきも忘れたホロが、ごくり、と喉を鳴らす。
食堂で知恵を絞りながらあれこれ食べたのにまだいけるらしい、と呆れるのと同時に、食欲に釣られたちょっと間抜けなホロを見るのが面白くて、話を続けた。
「さらにすごいのは、真っ青な海が広がり、一年の半分以上を夏に数えられるような国の菓子でな」
ぱたぱたと尻尾を振るホロが、ロレンスの腰の辺りの服をぎゅっと掴んでいる。
「ナツメヤシが獲れるような暑い国でも、途方もなく高い山に登れば、山頂は一年中氷に閉ざされている。うだるような暑さの中、貴族たちは召使いを山に登らせて、氷を切り出してくる。そして、それを刃物で削ってふわふわの雪にして、そこに砂糖を混ぜた薔薇水、それに檸檬と呼ばれる酸っぱい果実の皮を蜂蜜で煮た物と、蜂蜜そのものをたっぷりと垂らす」
想像の器に雪を盛り、蜂蜜を垂らす様子を演じると、ホロがその手を魅入られたように目で追いかけていた。
「きんきんに冷えたそれを、銀のスプーンですくって食べる。しゃくっと口の中で音がして、冷たく甘酸っぱい蜜が喉を通り過ぎるんだそう……痛、痛いっ……ホロ!」
腿の肉を、ホロの手が爪を立てて力の限りに握りしめていた。
「……ぬしよ、ここから南の国に行くには……」
「行かない。行かないからな」
調子に乗ってしまったことを後悔する。
「そもそも、桃のはちみつ漬けよりも高価だろうから、到底買えやしない」
「ううぅぅ……」
一転、泣きそうな顔をしたホロががばっとロレンスの脚に食らいつく。
「痛っ、痛いって!」
ともに苦しめとばかりに牙を突き立てていたホロだが、ふと顔を上げた。
「ったく、服が破れたらどうするんだ……」
「じゃが、ぬしよ」
「はあ……今度はなんだ?」
「氷は北に行けばあって、蜂蜜もありんす。檸檬とやらは……なにか果物で代用するしか手がありんせんが、砂糖は港町に行けばあるじゃろ?」
行商の旅で、ホロも余計な知恵をつけている。
「あるとして、誰がその金を払うんだ?」
ロレンスは、べしっと尻尾で背中を叩かれる。
「薔薇水とやらは? あるのかや? それも高価なのかや?」
「なに?」
ロレンスが聞き返すと、ホロはうつろな目でぶつぶつとなにか言っている。これまでの知識を総動員して、どうにか氷菓子を作れないか思案しているのだろう。
そしてふと、意識の戻ったホロの目が、怒りの炎をたゆたわせてこちらを見た。
「その薔薇水とやらの値段と、寒い夜にわっちの尻尾で暖を取れる値段、どちらが高いとぬしは考えておるのかや?」
狼の毛皮は最上級のものでも鹿の毛皮に劣るし、鹿の毛皮は兎に劣り、兎のそれは狐に劣ってその狐でさえ貂の毛皮には到底かなわない。そして、貂の毛皮となればそのままトレニー銀貨と交換されるし、薔薇水を買おうと思えば同じ重さの金と交換になるだろう。その事実は、ホロの狼としての誇りをいたく傷つけるはず。
しかし、ロレンスがホロに食い殺される心配をしなかったのは、ホロがなにか勘違いをしているからだった。
「市場に並ぶ狼の毛皮じゃ、薔薇水はほんの滴すら買えないだろうな」
ホロが目を見開き、絶句する。
ほどなくわなわなと手が震え、肩が震え、耳が震えて、尻尾が震えだす。
唇が上がり、その下から二本の鋭い犬歯が現れた頃、ロレンスはこう言った。
「だが、お前、自分の尻尾になにを塗りつけてるのかわかってるのか?」
「……ほえ?」
飽きもせず朝昼晩と毛を梳いたり撫でたりしている尻尾は、ちょっとした怒りでも面白いほどによく膨らみ、毛先は細い硝子の束のようにきらきらと光っている。
その艶と、なによりも鼻をくすぐる甘い香りの原因はなにか。
ホロは自分の尻尾を見て、それから、またロレンスを見た。
「お前の尻尾で暖を取るほうが、薔薇水より何倍も高い。眩暈がするほどだ」
ロレンスはため息と共に肩を落として、言った。
「お前が使ってる油は、油商の店じゃ売ってない。薬種商で買うんだ。料理に使うなんて馬鹿げた使い方は絶対にしないからな。ただ、値段もなにも見ず、純粋に匂いだけで選んでそれを買ったのだから、まあ、お前の鼻は確かなものだろう。ほとんど迷いもせずに、薬種商で最も高いそれを選んだのだから」
ホロが高価な代物をねだるのは、それ相応のへまを自分がしでかした時なので、ロレンスは強く言いだせない。だから言われるがままに財布のひもをほどき、ホロも遠慮せずにそれを買った。だが、普通はそれは貴族の娘が使うような物であり、行商人が気に入った娘に贈るような物ではない。
きょとんとするホロの尻尾に、たっぷり擦りこまれている、それ。
「それは、薔薇水を作る時に出るほんのわずかな上澄みを集め、別の油で希釈したものだ。もちろん、大昔の大帝国の暴君が姫君に贈ったと言われる、花弁だけで作った希釈していない精油には及ばない。伝説じゃ、太った馬十頭分と同じ重さの花びらを用いて、ようやく小指の頭ほどの小瓶が一杯になったらしい。だが、お前が持ってる香油でさえ、作るにはきっと荷台一杯分の……」
と、ロレンスはそこまで言って、言葉に詰まる。
「一杯分の……」
「……ぬしよ?」
ホロが不安そうな顔をして、下からロレンスの顔を覗き込んでいる。
そして、ロレンスはばっと振り向いた。
心配そうなホロの顔とは逆の、ふさふさの尻尾が揺れているほうを。
「荷台一杯分の?」
「ふやっ!?」
ホロが変な声を上げて体を起こしかける。
ロレンスはそんなこと露ほども気にせず、ホロの尻尾を握りしめてまじまじと見つめていた。
「ぬ、ぬしよ、尻尾をっ……そんな、乱暴に――」
顔を赤くしたホロが、逃げ出そうとする魚のように尻尾をうねらせる。だが、ロレンスはぎゅっと掴んだまま離さない。目の前の尻尾など見ておらず、記憶の中の村のあれこれを、猛烈な勢いで組み合わせていた
燃料はある。道具はある。材料はある。すべてある。しかも、効能は作る前から保証されているようなもの。しかも、その商品ならばかさばることもない。
「これだ! これならいけるぞ!」
ようやく思考の海から顔を上げ、ロレンスはホロに笑顔を向けた。
そして、顔を赤くして目尻に涙を浮かべていたホロに気がついた時には、すべてが遅かった。
「この、たわけが!」
思い切り頬を張られた。
ただ、ベッドから転げ落ちても、ロレンスは笑っていた。
「これはすごい商品になるぞ!」
そう叫んでロレンスは立ち上がると、ロレンスに握りしめられたせいで変なあとがついてしまった尻尾を悲しげに見ていたホロの手を掴んだ。
ホロは、ちょっと怯えたように体をすくませていた。
「それに、お前の尻尾の手入れもはかどるだろう!」
今まさに尻尾にひどい仕打ちをされたホロはなにか言いかけたが、ロレンスに手を引っ張られて転びそうになりながらベッドから降りる。
「ぬ、ぬしよ、ぬしよ、これ!」
「ほら、なにしてる、行くぞ!」
壁の燭台に置いていた獣脂の蝋燭を手に取り、扉を開ける。
「人を助けて、大儲けだ!」
ホロは呆れたようにため息をついていたが、ロレンスの手を振りほどきはしなかった。
また始まった、といった顔の後、少しだけ楽しそうな笑顔を混ぜていたのだった。
溢れんばかりの芳香を放ち、夏には日差しだけで火がつくほど油分がたっぷりの花が、見渡す限りに生えている。
その花畑のど真ん中に用意したのは、思い切り平たく潰した壺のような形をした、口の細まった銅製の醸造鍋、粘土、それからアマーリエの父親が熱心に集めていたと言う硝子瓶。
燃料は、一度火を熾こしてしまえば、後はいくらでも花畑で手に入る。
それらのすべてを組み合わせて、村に災厄をもたらす紫色の花畑を、金に換わる商品の畑にするのだ。
「こんな感じでしょうか」
領主たるアマーリエが、袖まくりをして醸造鍋の口に粘土を詰めている。中には川から汲んできた水と、たっぷりの花びらがぎゅうぎゅうに詰め込んである。
「では、それと、この硝子瓶を……」
ロレンスはうまく粘土と組み合わせ、口の細い硝子瓶を斜めに取りつける。本当はそれ専用に硝子職人に頼んで管を作るか、銅管を用意するのだが、間に合わせなので仕方ない。
できるかどうかを試してみるのが先決だった。
「では、火をつけますよ」
やや不安げに言ったのは、村人を代表している村長だ。花を醸造鍋で煮込んでどうするつもりだと、いっそ不気味そうな顔をしている村人たちが、それを遠巻きに見つめている。
手順と道具はこれですべて揃っているはず。
ロレンスは、焚き火に火がつき、ついでに花をむしられた茎と葉っぱに火がついて煙が立ち上る様をじっと見つめていた。
「これ、で?」
と、隣に立ったアマーリエが、祈るように尋ねてくる。
昨晩にこの案を伝えたら、ロレンスに負けず劣らず興奮したアマーリエが、鎌を片手に早速花畑に向かおうとしたのを、ヤーギンがなんとか押しとどめていたのだ。しかし、結局興奮のあまりに寝付けなかったらしく、目の下には炭で描いたような隈があった。
権威ある領主たるものが、とヤーギンは嘆かわしそうだったが、アマーリエはそんな顔ながらも随分生き生きしていた。
多分、見た目ほどおとなしくも、思索にふけるのが好きな感じでもない娘なのだろう。
「煮立ったら、蒸気が硝子瓶に出てきます。そうしたら、水で冷やすのです」
農作業を放ったらかしにして呼び集められた村人たちが、渋々ながら木の桶を手に手に待機していた。
「もうほどなく……ほら」
硝子瓶の中が曇りだす。ロレンスが村人に合図すると、彼らはやれやれとばかりに汲んできた水を硝子瓶にかけはじめた。
「こうすると、蒸気が冷えて水になります」
醸造鍋の中からぐつぐつと煮えたぎる音が聞こえ、もくもくと蒸気が硝子瓶の中に立ち込める。春とはいえ、上流の山ではまだ雪がたっぷり積もっているようなこの季節なので、川の水は冷たい。かけるたびに硝子が冷え、一瞬その中身が見える。
「どんどん水が溜まってますが……」
アマーリエは言って、あっと声を上げた。
「水の表面に……油?」
「成功のようです」
傾いた硝子瓶の口の付近に、油の膜ができた水がたまっていく。
あたりはすでに濃い花の匂いが立ち込めていて、ホロは目深にかぶったフードの、口の部分を手で押さえていた。
同じ作業をしばらく見守った後、ロレンスは硝子瓶を外そうと手をのばした。
しかし、そこをヤーギンに遮られる。
「これからこの作業を無限に繰り返すのは、私の役目ですから」
あるいは、客人に火傷は負わせられない、という気遣いだったのかもしれない。
ロレンスは微笑み、ヤーギンに場所を譲る。
分厚い掌をしたヤーギンは、そっと硝子瓶を掴み、中身がこぼれないように注意しながら粘土から外した。
「うわっ」
「すごい匂いだ!」
周りの村人たちが思わず声を上げるほどの香りが立ち込めた。
それに、硝子瓶を太陽に掲げれば、はっきりと水と油の層に分かれている。
ヤーギンはその硝子瓶の口を、主人たるアマーリエに向ける。
そして、アマーリエはその指で油をひとなでし、用意していた布に擦りつける。
「……すごい」
アマーリエは呆気に取られたように、一言だけそう言った。
「香油にするには大量の花が必要ですが、ここでそれは問題になりません。それに、これだけ強烈な甘い香りがする香油なら、薬種商が油で薄めて大いに売り捌ける。行商人の私は、その元となる油を、小瓶に少しもらえればいい。雨が降っても大丈夫ですし、これなら荷台を圧迫することもない」
いくらで売れるかはわからないが、とにかく量が凄いし、香りもいい。
草刈りに見合うだけのものは、期待してもよさそうだった。
「問題があるとすれば」
ロレンスがそう言うと、香油の擦りこまれた布を囲んで匂いを嗅いでいたアマーリエやヤーギンやホロや村長が、揃ってロレンスのことを見た。
「この作業を終えたその日の夜は、なにを食べても甘い匂いがすることでしょうね」
そんな冗談に全員が笑い、ヤーギンが手を鳴らす。
「旅の賢人が村に素晴らしい知恵をもたらしてくれた。さあ、これから我々は神が与えたもうた試練を乗り越え、この花畑を福音に変えるのだ!」
刈るべき草は山ほどあるし、花を茎から取り去って、その茎も燃やすのなら乾燥させておいたほうが効率がいい。
しかも、普段の農作業だってしなければならず、花は季節が変われば落ちてしまう。
ぐずぐずしている暇はなかった。
たちまち大騒ぎになったその場から、ロレンスは旅人らしく、一歩、二歩と静かに後退する。
すると、とん、と肩に誰かがぶつかった。
「おっと」
見れば、ホロだ。
「どうだ。俺の浅知恵もなかなかのものだろう?」
得意げに胸を張ったって許されるはず。
ロレンスがそう言うと、ホロは鼻まで隠したフードの下で呆れたように笑うや否や、不意に体をねじり、遠慮なく拳をロレンスの腹にめり込ませた。
「ぐふっ!?」
「尻尾の恨みじゃ、たわけ」
「ごほっ……」
大して痛かったわけではないが、驚きで体を折ってしまう。
そして、近づいたロレンスの顔をホロが覗き込むと、布越しでもわかるほど怖い笑顔を浮かべて、こう言った。
「ぬしがわっちの尻尾をめちゃめちゃにしたことは、ずーっと覚えておくからの」
「い、いや、それは」
「じゃからな」
と、ホロは体を寄せてくる。
「これからはせいぜい、わっちの尻尾の手入れをしてくりゃれ? ぬしはこの土地の王の覚えめでたく、随分と儲けるようじゃしのう?」
「な、いや、だがまだ売れるかどうかは……」
「ほれ、これからも夜は暖かく眠りたいじゃろう?」
赤みがかった琥珀色の瞳が、煮詰めた果実のように輝いている。
うまい儲け話になりそうだとこの土地にやって来たのに、結局また財布は膨らみそうになかった。
「……はい」
おとなしく返事をすると、ホロは無邪気な少女のようににっと笑う。
そして、こう言った。
「ぬしの財布も定期的に絞らんとな」
「……」
見やると、ホロは楽しそうに腕にしがみついてくる。
村人たちは慌ただしく動き、ヤーギンとアマーリエは熱心になにかを話しあっている。
それからふとこちらに気がつくと、釣られてしまいそうなほど、満面の笑顔を向けてくる。
「ロレンスさん、あなたは神が遣わされたに違いありません!」
その一言には、困ったような笑みと、軽く手を上げて応えたのみ。
残る腕は、誰かに取られまいと強欲な狼が咥えている。
「神に遣わされたというより、かつて神と呼ばれていた誰かに使われてばっかりだよ」
ロレンスは小さく囁いた。
「商人とやらは、誰かの役に立つのが喜びなんじゃろ?」
ホロはそう言って、ローブの下で尻尾を揺らしていた。
ロレンスは、綺麗な青空を仰ぐ。冬が終わり、春になろうとしている空。
風が吹くたびに体中が甘くなるような、一面の花畑でのことだった。
埃臭い納屋の前で、小瓶の中から一斉に湧き出してきた記憶からようやく覚める。
香油の効能は、少しも薄らいでいないらしい。
「思い出したよ。ミューリの奴は、この小瓶には全然興味を示さなかったんだよな」
「良い匂いがしても、甘いわけでも、食べられるわけでもないからのう」
花の香りを楽しむには、ミューリはまだ子供すぎるのだろう。
「あのたわけは、むしろ石臼の隠し場所に随分感銘を受けておった。じゃから思いもよらんところに隠しておるかもしれん」
一人娘のミューリは悪戯がなによりも好きで、宝探しやら冒険の話にも目がない。
「一体誰に似たんだか……」
「金銀財宝に目がなく、財布にあれこれ溜めこもうとするぬしじゃろうな」
「糧食の詰まった袋から、一番いい部分の干し肉やらを選り分けて隠しておく誰かさんじゃなかろうか」
「たわけ、ぬしじゃ」
「ほほう。賢狼にもわからないことがあるんだな」
「ぬしよりかはいろいろ知っておるがのう!」
そんなやり取りを、肩と肩をぶつけるようにしながら繰り返し、二人そろって納屋から母屋に歩いて行った。言い争いをしているのに、ホロとロレンスはしっかり手を繋いでいる。
二人が歩いた後には、随分甘い香りが漂っていた。
しかし、それは花の香りというよりかは、もっと別のなにかのようだ。
あるいはそれが、幸せの香りというものなのかもしれなかった。
★『狼と香辛料 Spring Log編』の次のお話は、
2月10日発売の『電撃文庫MAGAZINE Vol.54』をチェック!