※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.54掲載の後半を抜粋したものです。


 羊飼いは時折、人と獣の間に生まれた子だと蔑まれることがある。それは彼らが野原や山間で過ごすことが圧倒的に多いためで、町の人間からすると不気味な感じがするからだろう。

 だが、そのひどい偏見が、ある種の感嘆からもたらされたものでもあるのは、一度でも羊飼いの手腕を見たことがあればすぐにわかる。

 彼らはたった一本の杖を振るだけで、羊の群れを意のままに操ることができるのだから。

「これ! そこ! 逃げるでない!」

 がらん、ごろん、と杖の先で鐘が乱暴に音を立てる。ホロは杖を持つと言うよりも、半ばそれにすがりつくような形になっていた。右を向いた隙に逃げようとする左の羊を睨みつければ、これ幸いと右の羊が歩きだし、それを怒鳴りつければ正面から堂々と旅立とうとする羊がいる。

 ホロは右に左にと大忙して、膝まで泥だらけになっていた。

「この……たわけが……!」

 ホロは手近にいた羊の首根っこを掴み、憤りをあらわにする。牙を剥いたホロに掴まれ、不運な羊は命乞いのような声を上げる。だが、群れが大きいために周縁にいる連中は、我関せずと好き勝手な方向に歩きだそうとするのを諦めない。

 狼の化身であるホロならば、羊の群れをまとめるくらい朝飯前なのでは、とロレンスは思っていた。ホロもまた同じことを思っていたはずだ。

 それがまったくの見当違いなのは、明らかだった。

「はあ……はあ……」

 ホロは肩で息をついて、乾いた咳をしていた。裾が泥にまみれた外套の下では、尻尾を包む覆いが破れんばかりにぱんぱんになっている。ホロが直接視線を向けて睨みつければ言うことを聞く羊は、目を離すとたちまちそのことを忘れてしまう。

 目が二つしかない以上、多勢に無勢だった。

「ホロ、大丈夫か?」

 見かねて声をかけると、ロレンスまで睨みつけられてしまう。

 手伝おうか? などと口にすれば、ホロの誇りを傷つけた代償を支払うことになるだろう。

「う~~~……なぜ言うことを聞かぬ!」

 どん、と杖を地面に突き立てるが、その間も羊の群れは四方八方にばらけようとしていた。

 めえ~、めえ~、というひっきりなしの声も癇に障るのか、フードの下で耳がいきり立っているのが、はっきりとわかる。

 ホロは体の大きさが変わるくらい深呼吸をしたかと思うと、呪いの言葉のように言った。

「わっちの恐ろしさを思い知らせてやればいいのかや」

 まさかその真の姿をさらすつもりではあるまいな、とロレンスもぎょっとする。

 今の見た目こそ齢十余の華奢な少女だが、その本当の姿は見上げるばかりに巨大な狼だ。その姿になって羊たちに牙を剥いたら、羊たちは恐れ慄くどころか、そのまま死んでしまうかもしれない。

 どこの町もなにかと物入りなこの時期、羊の一頭でも死なせてしまえば、大赤字になってしまう。落ち着け、とロレンスは荷台から祈りに似た言葉を、ホロの背中に向けていた。

「……っ……ぐすっ」

 と、ホロの肩が震えたような気がした。

 洟でも啜ってるのか? と思ったが、なにか様子がおかしかった。

 声をかけようとしたら、ホロはなにかを振り切るように、杖を振り上げた。

「動くでない!」

 三頭ほどまとまって群れから離れようとした羊たちが、びたっと止まる。

 やはり、目で見て言えば狼の言うことを彼らは聞く。スヴェルネルでの祭りの時も、ホロのその力で活躍できたのだから。そして、だからこそ余計にホロは苛立つのだろう。

 それに、ホロの様子はやっぱりおかしかった。

 今度ははっきり洟を啜り、空いた手で顔を拭っていた。

「ホロ」

 その名を呼ぶと、背中がびくりと震えた。

 驚いたのはこちらも同じだ。まるで、叱られた子供みたいに見えたのだから。

 まさか意気揚々と杖を手に取ったのに、うまくいかなかったから自分が怒るとでも思っているのだろうか? とロレンスは逆に傷ついた。自分はそんな料簡が狭い男ではないと。

 しかし、ホロは体をすくませると、杖を両手で抱くように握りしめていた。

 まさか、そのまさかなのか?

 ロレンスはむしろ自分が泣きそうになって、ホロに言葉をかけようとしたその時だった。

「わ、わっちゃあ……無駄飯食らいじゃ、ありんせん」

 か細い声だったし、ロレンスはそれが空耳だと思いたかった。

 いつもの堂々とした、余裕綽々のホロの背中が、恐ろしく小さく見えた。

「そんなこと思っちゃいない。なあ、一体どうし――」

 と、そこまで言ってロレンスもようやく気がついた。

 スヴェルネルでのやり取りを思い出したのだ。

 南から来た狼の眷属たちをニョッヒラで雇えないかどうかという話を、スヴェルネルの町を治めるミリケとした時のことだ。自身も人ならざる者であるミリケは、セリムたちを雇うことに消極的だったホロをからかうようにこう言った。

 眷属の前ではだらしなく昼間から酒を飲んで昼寝ができないか、と。

 ホロは見栄っ張りで意地っ張り。一人娘のミューリやコルの前では、立派な母親であり一家の長みたいな顔をしているが、一皮めくればむしろお転婆なミューリよりも繊細な、少し内気な女の子の面がある。

 しかも、ホロはともすると暗い方面に物事を考えがちだ。気の遠くなるような長い時を一人で生きてきたせいか、思い込みの激しいところもある。一人で色々なことを決断しなければならなかった弊害だろうが、いざという時に頼りになる一方、妙なところでつまずいてしまう。

 今が、それだ。

 ロレンスは痛む腰を手で押さえながら、よろよろと立ち上がり、歯を食いしばりながら荷台から降りた。羊はめえめえ鳴き続け、群れはばらばらになりつつある。

 ロレンスは羊のことは放っておいて、今にもばらばらになりそうなホロのことを、後ろからぎゅっと抱きしめた。

「セリムがどれだけ働き者でも、お前はどーんと暖炉の前で酒でも飲んでればいいんだよ」

 新入りが来たら良い顔を見せなければならないが、今まで随分のんびりしてきたので、いざ働くところを想像したら自信がなくなってしまったのだろう。

「お前がしょっちゅう朝寝坊して、日に四度も五度も食堂でなにか食べて、隙あらば尻尾の毛づくろいをしているのを注意しないのは、お前にはお前の仕事がきちんとあるとわかってるからだ」

 ニョッヒラの湯屋を一つの群れと見做したら、ホロは自分よりも上に立っている。そして、なにもしていないように見えて、しっかり群れのことを見張っていることをよくわかっている。

 お転婆でいたずらばかりのミューリを諌めるのはホロにしかできないし、真面目でいつも働き過ぎなコルには、叱るように休めと言って休ませる。炊事場を任せっきりのハンナにも、つまみ食いのたびに、自分に代わってあれこれ声をかけていることも知っている。

 そして、自分が湯屋の経営のことで落ち込んだり不安な時には、崩れそうな石垣の隙間にちょっと枝でも差し込むかのようにして、安定させてくれる。

 それで湯屋“狼と香辛料亭”は回っている。セリムという新入りが来たからと言って、ホロに薪割りをさせたり、火を熾させたり、チーズに塩を撒いてせっせと擦る仕事をさせるはずもない。それはできる者がやればいい。群れの統率はホロにしかできないことで、そうしてくれていればなにも言うことはない。

 問題が一つあるとすれば、ホロ自身が上に立つのをあまり好まないことだろう。

 そのせいで、こんなことになってしまう。

 上に立ちたがるような性格だったら、セリムが来るからと言って慌て、変な思い込みなどしない。小娘を仕込んでやろうと、手ぐすね引いて待つところだ。

「悪かったよ、気がつかなくて」

 ホロが握ったままの杖に手をかけると、ホロは意外なことに抵抗した。

「ぐすっ……ひ、羊に、羊の番をさせるわけにはいかぬ」

 この期に及んで憎まれ口を叩くのだから、ホロの意地もなかなかのものだ。

 それに、大丈夫、と口で言われるよりも、よほど安心できる。

「それはそうだが……群れがばらばらになってしまう」

 羊たちは思い思いの方向に歩きはじめている。

 ホロ一人ではできずとも、自分も手伝えばどうにかなるだろう、とロレンスは思った。

「ほら、杖を貸してくれ。お前には狼の威厳があるからいらないだろ」

 ホロはそれでも杖を手放さなかった。

「……あの犬でさえできるのに……なぜじゃ……」

 そして、そんなことを呟いていた。どうやら、犬にだけは負けたくないという、狼としての誇りもかかっていたらしい。

「それが職人の腕ってもんじゃないのか。牧羊犬は、犬だが」

 あの栗色の毛並みの犬は、ホラッドの肩に担がれたままでも立派に職務をこなしていた。なにかコツがあるのだろうとしか思えない。それに、ホロでもたまにうまくまとまりそうな時があったので、なにかしらの方法論があるのだろう。

「実際不思議だがな。荷台から眺めていてさえ、隈なく見渡すなんて無理だと思ったよ。だが、あの牧羊犬は足さえ無事なら、羊より視線が低いのに立派に群れをまとめられるんだろうから」

 羊たちより視線が低ければ、理屈から言って、群れの全体を見渡すことは不可能だ。

 それでも見事に羊を一つにまとめ、好きな方向に導くことができる。魔法のように思えるが、そんなはずはない。

 ということは?

 頭を捻り、ぱっと閃いた。そうだ。群れなら、当たり前のことではないかと。

「なあ、ホロ」

 声をかけると、ホロがこちらを振り向いた。べそをかいたばかりの女の子みたいな顔で、実際にべそをかいたばかりだった。その目尻を親指の腹で拭いながら、気がついたことを言ってみた。ホロは疑わしげだったが、試す価値はあると思ったらしい。

 杖を手にしたまま車輪に足をかけ、荷台の縁に立つ。

 自由気ままな羊たちの群れを睥睨し、大きく胸を反らして息を吸った。

 そして、一言言い放った。

「たわけ!」

 遠吠えにしなかったのは、ホラッドが耳にして慌てて帰ってくるかもしれなかったからだ。

 それに羊たちにはどちらでも同じだったようだ。狼の一喝を聞いて、顔を上げてばたばたと慌てふためいていた。一刻も早く安全な場所に逃げようとしているのだが、羊たちの大半はどこに行くべきかわからず、互いに押し合い圧し合いしてめえめえ騒ぐばかり。

 それが、群れの一角だ。そこだけは、羊たちの視線が揃っていた。

 一頭の羊を見て、彼の足並みに合わせようとしていたのだ。

「見つけたぞ、お前じゃな!」

 ホロは杖を振ってびしっと指し示す。特に体が大きいわけでもないごく普通の羊だったが、杖を向けられ、憐れみを込めてめええと鳴くと、周りの羊もたちまちおろおろとし始めた。

 その羊こそが、この群れの長だったわけだ。烏合の衆ならぬ、羊の衆でも、きちんと上下関係が存在し、長の首根っこを押さえれば、群れを制することができるのだ。

 ホロが杖を向けてすっと右向きに弧を描くと、狼に睨まれた羊は言うことを聞かざるを得ない。羊の長がとぼとぼ歩きだすと、ほかの羊たちも従った。面白いように、羊たちが群れとして動き出す。

「くふ」

 さっきまでの裏返しか、ホロは荷台の上でにまにましている。狼の面目躍如、というところだろう。仕組みがわかれば、あっという間のこと。ホロは顎だけで羊を操って、ぐるぐるとそこら辺を散歩までさせた。

 それでだいぶ気が晴れたのか、荷台から降りてきたが、その間はもうろくに羊のほうを見ないままに群れを操っていた。

「たまには物の見方を変えるべきじゃったな」

 ロレンスが肩をすくめると、ホロは自嘲気味に笑っていた。

「もう長いこと一匹の羊しか見ておらんかったからの。仕方ありんせん」

 そう言って、ロレンスにしがみついてきた。

「俺はこの先もずっと一頭の狼だけ見てればいいんだから、楽なものだ」

「ほかの狼を見ておったら、承知せん」

「もちろんですとも」

 ホロの頭を撫で、ロレンスはやれやれとため息をついて、言った。

「セリムを雇っても大丈夫そうか?」

 ホロはロレンスにしがみついたまま大きく息を吸って、止めた。

「きっとお前とも仲良くなれるよ」

「たわけ」

 息を吐いたホロは、笑っていた。

「わっちゃあ子供ではありんせん」

 そうでしょうとも、と肩をすくめると、ホロはけらけら笑いながら顔を擦りつけてくる。

 羊たちは呆れたようにめえめえ鳴きながら、ぐるぐると円を描いて歩きまわっていた。

 それから無事に相棒を炭焼き小屋に預けたホラッドが戻ってきて、羊の群れを明け渡した。腰はまだ痛かったが、そろそろ出発しないとならない。

 ホラッドたちが見えなくなってから、ロレンスも御者台に座り、手綱を握る。

「さあ、家に帰ろう」

「うむ」

 隣に座ったホロが、いつもの調子でそう答える。

 足元が泥だらけなことなど欠片も気にせず、ホロはロレンスの肩に頭を預けて、尻尾をわさわさ揺らしていた。

 冬がそろそろ終わろうかという頃。

 新しい季節の、始まりが感じられる頃の話だった。



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