※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.55掲載の後半を抜粋したものです。


 奥まった立地にある湯屋から村の中心部に向かうと、なるほど、下界に降りてきた、という感じがする。高貴な者たちはこの感覚のために、大枚はたいて奥まった立地の湯屋に泊まるのだ。

 喧騒を眺め、どこかにお尋ね者の神の敵が潜んでいはしないかと目を光らせつつ、船着き場に向かえば、そこにあったのは先ほどに輪をかけた大騒ぎだった。

「荷が足りてないぞ!」

「いやうちが頼んだのはこれじゃない!」

「まったくどうなってやがる!」

「ええい、誰かアティフに船を出して使いを送れ!」

 身なりの良い男たちが騒いでいた。

 積み上げられた積み荷は、どれも口を開けられて中身が改められている。

 遠目に見た感じでは、どれも麦粉のようだった。

「まったくひどい話だ! それとも、荷を積む際の不手際だったのか?」

 一人が船乗りの格好をした男に視線を向ける。船に乗る者には迷信深く、また腹が据わった者が多いが、さすがにいきり立った多勢を前にしては、おとなしくせざるを得ないようだ。

「め、滅相もない! うちが何年この仕事をしているか知っているでしょう!」

「ぐむう……まあ、そうだ、そうだな……疑ってすまない」

 どうやら、集まっているのは湯屋の主人格の男たちのようだ。

 揉めている内容も、想像がついた。

「失礼」

 と、声をかければ、苛立たしげな視線を向けられた。

「なんだい。今取り込み中だ、後にしてくれ」

 こちらの格好がどう見ても逗留中の余所者だったからか、蠅のように追い払われる。

 しかし、こちらにはきちんと大義名分がある。

「湯屋、狼と香辛料亭の主人のロレンスさんから、用事を頼まれました。麦粉が発注より少ないので、ここに荷を置き忘れているのではないかと」

 そう述べると、集まっていた者たちが揃って天を仰いだ。

「くそっ、これで全員か!」

 どうやら、村の湯屋の者たちが集まって商品を買い付けたはいいが、あまり素行の良くない粉屋に引っかかったようだった。

「ええい、こうしていても埒が明かん! うちは馬を出して粉を買いに走らせる! 寄合の規定など知ったことか!」

 そこにいたでっぷり肥えた中年の男が、頭に乗せていた帽子を取って、ぎりぎり握りしめながら叫ぶ。

 すると、他の者たちが驚いたように口を開く。

「いや、モリスさん、それは良くない。村の決まりだ」

「そうだ、うちだって頭が痛いんだから!」

 ニョッヒラは山奥の村であり、これから雪深い冬になる。麦に関してはすべてが輸入頼みだろう。どこかの店の抜け駆けを許せば、たちまち買占め合戦になるのは想像がつく。特に、村の内部に争いがあると外部の商人が嗅ぎつければ、高値で売りつけられるのが目に見えている。

 モリスはそんなこと先刻承知だという態度だが、彼は特に身なりが良いので、この村でも高級な湯屋を営む資金力があるのだろう。

 そう思っていたら、モリスはこうもまくしたてた。

「うちは荷物がちょっと足りないどころの騒ぎではないのだ! 水を入れて練ったら、小麦だと思っていたのが全部燕麦だったんだ! あんなものを客に出したらうちは終わりだ!」

 モリスは帽子を握りしめた腕ごと振り回して叫んでいる。

 パンの等級にはいくつかあって、小麦が最上級、そこにライ麦を混ぜたもの、栗の粉や豆の粉を混ぜたものときて、ライ麦だけの苦い黒パンに、そこにさらに栗や豆の粉を混ぜてかさまししたものと続く。燕麦パンは、その等級の中でも下の下。むしろ、きちんと膨らまないので、パンとすら呼んでもらえない代物だ。普通は粥にして啜り、貧民の炊き出しによく使われる。

 豊かな土地なら、馬の飼料にしかならないこともある。

「とはいえ、規則は規則だし……」

「いや、うちもモリスさんが購入のための使いを出すなら、合わせて出したいところだ」

「おいおい!」

「もう今年の収穫は終わってるからな。時間が経てば経つほど良い麦粉の値段は高くなる。確かに早く買いに走らないと損がかさむだけだ」

「しかし、寄合もなしにそんなことをしたら、他の湯屋が……」

「ならば寄合を開けばいいだろう。これは村の事件だぞ!」

「とはいえ、アティフのよくわからん粉屋の口車に乗ったのは我々だからなあ……村の規則を曲げようと思えば、ほら見たことかと言われるぞ」

 天国に最も近い温泉郷と言われているのに、そこで湯を提供する者たちは、随分と現実的なことに頭を悩ませている。

 それが滑稽ではあったが、健全な気もした。

 そう思っていると、モリスと呼ばれた血気盛んな男が、こう言った。

「ならばあなたがたは、麦の代わりに雪をこねてパン窯に入れるつもりですかな!?」

 聖典には、人はパンのみにて生きるに非ず、とある。

 しかし小麦のパンに慣れた客は、燕麦のパンや粥など、絶対に口にしないだろう。

 湯屋の主人たちは顔を見合わせ、仕方ないか、とため息をついた。

「背に腹は代えられん……恥を忍んで、緊急の寄合を開いてもらおう」

 各々気が重そうにうなずいて、その場は解散になった。

 湯屋に戻り事の次第を告げると、ロレンスもまた頭が痛そうにしていたのだった。



 村の人間ではないし、粉屋の話がその後どうなったのか、詳しい経過はわからない。

 けれど、狼と香辛料亭の食卓の籠の中に、いつも山盛りになっているおいしい小麦のパンの出どころは、きちんと掴んでいた。

 湯に浸かる者たちの話では、この北の地一帯を支配している大商会、デバウ商会の伝手を使ったのだろうということで意見が一致していた。たとえ大不作に見舞われたとしても、この湯屋だけは、柔らかくて甘い小麦パンが食べられるだろうと皆笑っていた。

 デバウ商会の係累の者なのか、とも思ったが、どうやら行商人時代にデバウ商会の危機に際して大きな働きをした、というような話を聞きつけた。

 とすれば、パンだけでなく、別の問題にも答えが得られそうだった。つまり、鉱山を支配することで有名なデバウ商会の力を借りられたと考えれば、この土地に新しい湯脈を見つけ、店の開店資金も都合をつけることができた、と。

 しかし、それでもなおこの湯屋には奇妙なところが残っている。滞在し、村全体を見てみるとわかるが、周りの湯屋が不穏な噂をばら撒くのに納得できるほどの、盛況具合なのだ。

 狼と香辛料亭は立地が良く、湯は広々としていて、貴族垂涎の的である洞窟の湯まで抱えているとはいえ、それ以外には格別変わったところはない。

 食事はもっと上等なものを出す湯屋があるし、酒に特別のこだわりを持つ湯屋もほかにある。ベッドは藁束で、絹と羊毛のベッドを調えている湯屋には到底かなうまい。

 湯での娯楽もどちらかといえば基本的なものだけで、熊に芸をさせたり、口から火を吹いたりする者たちがいるわけでもない。それから、口には出せないような仕事を踊り子にさせているわけでもない。

 なにが魅力かと他の客に聞いても、なんとなく、としか返ってこない。

 確かに湯屋の雰囲気は良いが、いまいち納得ができない。なにかしらの魔法が施されているのではないかと考えたほうがしっくりくる。客寄せの怪しげなまじないは珍しくないのだ。

 それで敷地のあちこちを調べてみたりもしたが、特になにも見つからなかった。

 そんな中、客の多くは湯屋の主人であるロレンスの妻ホロと、その娘ミューリの魅力をあげた。この二人には、そこらの旅芸人たちには到底もちえない魅力があると。

 実際、銀髪のミューリは元気いっぱいで可愛らしいし、その母のホロは娘と瓜二つの若さを保ちながら、妙に老成した雰囲気を醸し出していて、不思議な魅力がある。

 とはいえ、それだけで客が群がると信じるのは、あまりに無邪気にすぎるだろう。

 なにか理由があるはずなのだが、そのなにかがわからないままに、時間は無為に過ぎていった。

 ちょっとした変化が現れたのは、湯屋に逗留して二週間ほど経ってからのことだった。

 湯の喧騒を逃れ、村の中心部に続くひとけのない道をぶらぶらしていると、うつむきがちに歩く人影に気がついた。

 他人のことは言えないが、この村で一人陰気な様子で出歩く様子は酷く目立つ。

 さては怪しげな素性の者ではあるまいかと目を凝らすと、なんのことはない、湯屋の主人のロレンスだった。

「なにかお悩みでしょうか?」

 聖職者の務めとして、そう尋ねた。もちろん、異端を取り調べる者としての仕事も含んでいる。

「え? あ、いえ……。えっと、そうですね、そんな顔をしていましたか?」

 顔を上げたロレンスは、坂道の上にいる自分のことにも気がついていなかった。自身の頬を撫でて、苦笑いもやや強張っている。

「私でよければお聞きしましょう。決して、暇を潰そうと思っているわけではありません」

 冗談めかすと、ロレンスは笑って、ため息をついていた。

「サルガード様は、これから村のほうに?」

「いえ、散歩していただけです。体が冷えてからのほうが、湯に飛び込んだ時の喜びが大きいですから」

「世を楽しむ秘訣の一つですね。では、湯屋に戻りながら、哀れな宿の主人の小さな悩みを聞いてやってください」

 他の客から集めた話によると、この一見頼りなさそうな主人は、多くの有力者に繋がる稀有な商いの才能を持った人物だと言う。

 一体なにに悩むのか。

 あるいは、大事な一人娘のミューリに縁談の話でも来たということなら、理解ができた。

「実は、先日の麦粉の話がまだ尾を引いていまして」

「麦粉の話? ああ、信仰心の足りない粉屋のことですね」

「安物買いの銭失いという結果に終わりました」

「ですが、湯屋の食卓にはいつもおいしい小麦パンが並んでいますでしょう。ほかになにが問題なのでしょう」

 すると、ロレンスは大きなため息をついて、頭を掻く。

「件の粉屋から麦粉を仕入れようということには、反対する者も村の中に多くいました。それで、私を含む欲に目がくらんだ主人たちが話しあいの末、麦粉を購入したのですが」

 ロレンスは肩をすくめて、吐きだすように言う。

「誰が悪いのかという話になりましてね。まあ、新参者の通過儀礼と言えばそうなのでしょうが……」

「その責任を押し付けられた、と?」

「うちのことを目の敵にしている湯屋もありますしね」

 こんなことを話すべきではないと思うのですが、とロレンスは苦笑いしていた。

「そんなわけで、やや頭の痛い事態に」

「詳しくはわからずとも、似たような話は旅先でよく聞きます。気を落とさずに。神はいつでも、正しい者の味方です」

「ありがとうございます」

 ロレンスは少し力づけられたような顔を見せたが、やはりその顔は浮かなかった。

「もしも無理難題を押し付けられたのであれば、仲裁を取り持ちましょうか? 神に仕える者として、そのくらいの働きはできるでしょう」

「いえいえ、とんでもない。それに、なんというかまあ、解決そのものは可能なのです」

 不思議な謎かけのようだった。ロレンスのことを見つめると、この青年にも見える湯屋の主人は、疲れたように笑って言った。

「誰も食べたがらない燕麦の粉を押し付けられましてね。食べ物を捨てるのは忍びないし、結構な量があったので金額もそこそこしてしまいました。どうにか活用したいと思っているのですが……」

 そこで濁した言葉の続きは、もちろん簡単に推測できる。舌の肥えた客たちは、燕麦の粉を焼いたパンなど、見向きもしない。そうすればロレンスたち宿の者が食べなければならないだろうが、結構な量があるというので、処理には長いことかかるだろう。

 寒い地方の雪の季節なので、幸いすぐに虫が湧くこともなかろうが、毎日燕麦パンの食生活を考えれば、気分が前向きになるはずもない。

「私もいくらかお手伝いいたしましょう。種無しパンも嫌いではありませんので」

 ロレンスは首を横に振ろうとして、思い直したように、苦笑いした。

「お客様にそんなことを、と言いたいところですが……お願いするやもしれません。へたをしたら、私とコルだけが燕麦パンを齧る羽目になりそうですから」

 コルとは、湯屋で働く青年だ。神学者を目指しているとのことで、知識も信仰心も、人柄も揃っている素晴らしい人物だった。

 そして、湯屋に二週間もいれば、人間関係も大体わかる。

 主人のロレンスと妻のホロ、その娘のミューリとコルの関係を見れば、男二人が優しさの余り、彼女たちの代わりに燕麦パンを食べる羽目になる様子が目に見えていた。

 ホロとミューリの二人は、随分似た者親子のようで、美味い物に目がないのがよくわかる。

 ミューリが大騒ぎしていた件の砂糖壺も、どうやら母と娘がそれぞれこっそり指を突っ込んでいたらしく、気がついたら一壺まるごと空になっていて、主人のロレンスが頭を抱えているところを見た。ホロとミューリに振り回されるロレンスとコル、という構図は、湯屋の名物になっているらしかった。

 そう思っていたら、ロレンスが不意に商人らしい顔を見せた。

「一つ、お聞きしたいのですが」

「なんでしょう?」

 ロレンスが目を逸らして握り拳を口に当てたのは、考える振りだったのかもしれない。

「小麦の粉に、どこまでなら燕麦の粉を混ぜても神はお許しになられるでしょう?」

 生き馬の目を抜いて売り飛ばす元商人なのだから、黙ってやればよいのに、それができない性格なのだ。つい笑ってしまってから、こう答えた。

「聖典にも、大地には塩気が必要だと書かれています。柔らかいパンばかりではなく、たまには少し硬いパンを食べるのは、かえって健康に良いことでしょう」

 この主人ならばあこぎなこともするまいと思い、そう言った。

「本当にそうするかはわかりませんが……このことは」

「ええ、勿論、告白された罪は私と神しか知り得ません」

 ロレンスはほっとしたように笑い、頭を下げたのだった。



 その後、食卓に出てくるパンにどれだけ燕麦の粉が混ざっているかはわからなかったが、ロレンスが正直者であるという見立ては間違っていなかったらしい。それからも何度か、納屋の前で燕麦の詰まった袋を前に、頭を抱えている様子を見かけたものだ。

 焼いても膨らまず、岩のように固いうえに、変に歯にまとわりつくような燕麦パンは、そう毎日食べられる物ではない。しかも粉屋が客を騙すためだろうが、挽いて粉にしてあるので粥にするわけにもいかない。

 小麦に多少混ぜたにしても、それでは大した消費にならないだろう。

 村の古参の者から不必要なものを押し付けられ、その処理に頭を悩ませている姿を見ると、この湯屋の賑やかさも一皮むけばぎりぎりで保たれているものなのかもしれない、と思う。

 自分の調査でも、結局、湯屋に怪しげなところは目立って見つけられなかったのだから。

 他の湯屋に潜入していた仲間たちと会合を持っても、どこも似たり寄ったりだった。あそこの湯屋には異端者が潜伏しているというような噂は、大概が狭い村の中でのいさかいが原因の、お決まりの悪口みたいなものらしい。

 これ以上ここにいてもさしたる成果はない、と判断されたのは、自分が狼と香辛料亭に逗留して、二ヶ月ほど経ってからのことだ。

「え、お発ちになる?」

 そのことを告げると、ロレンスは驚いていた。まだ冬の最中で、ニョッヒラのある地方は雪深い。こんな時期に帰る者は珍しいのだろう。もちろん、口実は考えてある。

「南のほうは春の祭りも早いですから。そろそろ戻らないとなりません」

 なんにせよ無理に引き留めることはできない。ロレンスはしばらく残念そうにした後、またぜひお越しください、と両手でこちらの手を握ってくれた。

 狼と香辛料亭には教皇庁の命令でやって来たが、許されるならば自分の意志でもまた来たかった。

 それと、わずかな礼として、こう言った。

「旅に際して、燕麦パンを焼いてはもらえませんか。固いだけあって、長持ちしますから」

「お気遣いありがとうございます。まったく、うちの女たちは甘くて白い粉は隠れて食べる癖に、燕麦のほうはやっぱり口にしてくれませんで」

 湯屋の経営が傾くとしたら、あの二人の胃袋によって屋台骨が溶かされるのが原因かもしれない。

 それから数日後、かちかちの燕麦パンを焼いてもらった。砂糖壺を空にしてしまった罪滅ぼしなのか、ホロとミューリの二人が珍しくパン焼き窯に赴いていたのが印象的だった。ロレンスなどは、ああいうところが二人のずるいところでしてね、と諦めるように笑っていた。

 受け取った燕麦パンは、頭陀袋の底に入れておいた。水に濡らさなければ、来年の今頃でさえ食べられるだろう。

 そうして準備を終えて、湯屋狼と香辛料亭を後にした。

 周りから魔術の使用を噂されるほどの繁盛の秘密はついぞわからずじまいだったが、明確な魔術の使用の証拠も見つけられなかった。

 もちろん、疑わしい、という報告をするのは容易だが、かといってそんな報告をしたところで、引き続き注意を要するの一言を添えられて、教皇庁の書庫のどこかにしまいこまれるだけだろう。

 異端との戦が喫緊の課題であった昔ならばいざ知らず、今の世で調査報告をどのように為すべきかは、結局のところ己の仕事に納得できるかどうかを考えることでしかない。

 それに、あの湯屋の様子が魔術の使用によるものである、と疑うのはなんだか残念な気もした。特筆すべき点が無くとも、繁盛する店は繁盛する、というだけのことかもしれない。

 それに、彼らの実直さは、この燕麦パンに現れているような気もするし、無邪気さはホロとミューリという美しい母娘が体現してくれていた。

 完全な白とは言い難いが、危惧するほどではなし。

 報告書にはそう書いておこうと思った。

 それから、黴臭い天幕の下で不貞腐れるように小さく燃える焚き火の上に、ロレンスから持たされた燕麦パンを掲げた。

 あらゆる食い物がとっくに黴ていた仲間たちは、それを見るや久しぶりに多少の生気を取り戻していた。

 小麦のパンではこうはいかない。

 燕麦パンを炙っていると、まずいまずいと言われるものでも、それなりに良い匂いが漂って来る。清貧を謳い、豆と水の生活でも一向に苦にしない仲間たちでさえ、腹の虫が鳴っていた。

「空腹は最高の調味料だとはよく言ったものだ」

 と誰かが言った。

 さざ波のような笑いが起こるが、その笑顔が、ほどなくやや奇妙な形にこわばっていく。

「いや、しかし、随分いい匂いだな」

 嬉しそうではあるものの、戸惑っているように聞こえた。

「うむ。燕麦パンはこうもうまそうなものだったか……」

 天幕の下に立ち込めるのは、頭がくらくらするようないい匂いだった。

「美しい母と娘が、贖罪を願って粉を練り、パン窯で焼いてくれたからではないでしょうか」

 冗談めかしてそう言ったものだが、言い終える頃には、そうとしか思えないほど、あまりにもいい匂いが漂っていた。

「まさか、神の奇跡か?」

「聖餅だとでも?」

 にわかに天幕の下が色めき立つ。

 よもや、まさか、そんな、と思いつつ、ますます香る素晴らしい匂いに、パンを持つ手が震えた。こんなところで神の奇跡に出会えるとは、なんという幸せなことか。

「これは、枢機卿に報告し、再度調査するほかあるまい。サルガード殿、そなたが宿泊した湯屋の名はなんだったか」

 興奮する者たちを前に、私は炙っていた燕麦パンの裏側に、なにか浮かび上がっていることに気がついた。

「お、お静かに。聖餅に、聖痕が顕れています!」

 どよめきが起こり、教会の紋章を手に握る者、聖典を頭陀袋から取り出す者、両手を組んで祈りを捧げる者の視線が、燕麦パンに注がれる。

 緊張で取り落としそうになる中、ゆっくりとパンをひっくり返していく。

 いわゆる種無しパンと呼ばれる、膨らまない、平べったいパンだ。

 そして、パンの裏面が明らかになったその直後、全員が息を呑んだ。

「……こ、これは……」

 大きな皿のようなパン一面に現れたそれ。

 見間違えるはずもない。

 そこには遠吠えをする狼の姿と、短い文。

「……狼と……香辛料亭に……またのお越しを?」

「あ! この匂いを思い出しましたぞ!」

 一人が叫び、燕麦パンをひったくるように手に取ると、炙られて浮かび上がった絵の部分を摘まみ、口に含む。

「甘い! やはり、砂糖の焦げる匂いです!」

 そう叫んだ者を、全員が見つめ、それから、我も我もとなった。

 自分も食べてみたら、確かに甘い。まともなものを食べていなかったので、こめかみの下あたりがぎゅっと縮まる、痛みに似た心地良さがある。

「まったく、人騒がせな。水で溶いた砂糖が塗ってあるのでしょう」

 誰かが言って、笑いが起こった。

「もしかしたら、他のパンにも同じ仕掛けが施してあるのでは?」

 その言葉に、早速別のパンも炙ってみた。予想どおり色々書かれていて、ニョッヒラで一番の湯屋、とか、兄様の怒りんぼ、という文と一緒に、あのコルという若者の似顔絵らしきものが書かれているパンもあった。ミューリが書いたものだとすぐにわかる。

「パンに砂糖が練り込まれているわけではなさそうですが、この良い香りと一緒に食べると、うまく感じますな」

「頭陀袋の中の燕麦パンに手を伸ばす時は、いよいよという時ですしねえ」

「湯屋の宣伝としては、素晴らしい物ですね」

 そんなことを話しながら、つい先ほどまでは病に伏せるかのようだった者たちが、燕麦パンをぼりぼりと食べている。

 私は、とある一枚のパンを手に、そういうことだったのだ、と理解した。

 そこには二人の男性と、三人の女性らしき似顔絵が描かれている。絵の下には、狼と香辛料亭、とある。ロレンスとコル、ホロにミューリ、もう一人の女性は、炊事場を取り仕切っていた者だろう。

 あの湯屋は、栄えるべくして栄えていたことになる。

 ニョッヒラからの帰り道、どんな理由であれ、このパンを取り出して食べようとした者がこれを見たら、誰だって思うはずなのだから。

「次に訪れる機会がありましたら、私は狼と香辛料亭の調査がよいですな」

「私もそうしたいのですが」

「いやいや、私だって」

 天幕の下で、そんな言い争いが始まった。

 外ではうんざりするような雨が降り続いているが、もう誰も気にしていない。

 賑やかになった天幕の下で、私はそっとパンを一枚頭陀袋にしまい直してから、こう言った。

「一度調査に赴いた私こそ、更なる調査にふさわしいのでは?」

 事態は紛糾し、延々と議論が重ねられた。

 そうこうしているとやがて雨は止み、陽が差してきた。

 天幕を畳み、荷物をまとめている間も、議論は延々と続いていた。

 全員がすっかり元気になり、腹も満たされた。

「これも一つの奇跡でしょうか」

 誰かが言った。

 狼と香辛料亭。

 報告書には目立たないように書こうと決意する。

 なぜなら、人があまりに殺到しては、私の入る余地が無くなってしまうのだから。



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