※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.56掲載の後半を抜粋したものです。


 慌てて湯屋の表に出迎えに行くと、数人の部下だけを連れた身軽な様子のルワードが、飄々とした様子で立っていた。

「やあ、ロレンスさん」

「……」

 見間違いかと思ったが、やはりルワードだ。

 会う度に凄みを増す笑みも健在で、なにか白昼夢を見ているような気になる。

「えっと……あ、立ち話もなんですから、とりあえず中にどうぞ。ホロも喜びます」

 ルワードはうなずき、部下を振り向くと、中に入るようにと合図を出す。

 そして、ルワードが握る手綱の先には、やはり丸々太った豚がいる。

「本当なら手紙を出すべきだったのだが、急ぎでな」

 湯屋に入り際、ルワードがそんなことを言った。

 今やルワードの傭兵団は、規模こそさほど大きくないものの、北の地では武勇を知らぬ者の無い傭兵団になっている。その武威と名声のために、そこかしこの領主が大枚はたいて領地に呼び込もうとするような地位にある。

 その傭兵団長が、豚を連れて急ぎで宿にやって来る。

 わけがわからなかった。

「確かにこの季節はお忙しいでしょうから……」

 と、ロレンスは自分でもよくわからない相槌を打ってしまう。

「まあそうなんだが、今年に限っては、実入りは良いが、妙な仕事を引き受けてね。ま、おいおい話そう。そのこともあって、今日はここに来た」

 ルワードはそんなことを言う。

 確かに、連れてきた部下は五名だけで、そこには片腕たる参謀がいない。

「もちろん、手土産に抜かりはない」

 どうやら、持参した豚は土産らしかった。相変わらずの豪快な様子に、ロレンスは疲れたように笑う。

「ホロ様はもちろん、我が傭兵団の姫もこれなら喜ぶだろう?」

 そして、ルワードはそんなことを言った。

 ルワード率いる傭兵団の名は、ミューリ傭兵団。かつてのホロの仲間であるミューリが、離れ離れになったホロへと、大昔に伝言を託した人間が作った傭兵団だ。

 そして、娘の名をもらった先でもある。

「姫は大きくなられたか? 生意気に磨きがかかっているのではないか」

 ルワードは楽しげにそんなことを言う。お転婆なミューリは、冒険譚を地で行くルワードが大好きだし、どんな破天荒な悪戯を仕掛けても怯まない、最強の遊び相手と思っている。

 ルワードもまたそんなミューリを可愛がってくれているのだが、今のロレンスには心苦しいものがあった。

「それが……」

 娘のミューリは、湯屋で働いてくれていた青年コルと、旅に出てしまったことを伝えた。

 そのことを聞いたルワードは、手から手綱が落ちても気がついていなかった。

「なんと……あの二人が……」

「お、お頭!」

 よろめくルワードを、部下が二人がかりで支えていた。

 ルワードはそんな部下たちを下がらせ、額に手を当てたまま、天を仰いで目を閉じる。

 ようやくロレンスのほうを見た時には、部隊が全滅しかかった時にも見せなかったような顔をしていた。

「いや、ロレンスさんを差し置いて言うのもなんなんだが」

 胸のあたりを押さえているのは、弓矢で射たれたかのようだ。

「娘を嫁にやった気分だよ……」

「駆け落ちではないですから」

 ロレンスの即答に、ルワードはきょとんとする。

「そうなのか?」

「私はそう確信しています」

 ロレンスの頑なな物言いに、ルワードは察したらしい。

 眉間に皺を寄せて笑うと、頑迷な湯屋の主人の肩を軽く叩き、抱擁までしていた。

「まあ、飲もうじゃないか」

 ロレンスはようやく、娘の件で共感してくれる人物に出会えたのだった。



 骨の先には、脂の滴る肉がたっぷりついている。そこに噛みつき、脂が顎を伝って垂れるのも気にせず、思い切り骨を引き抜くと、たちまち柔らかい肉が骨から外れる。噛みしめれば口の中で肉がとろけ、噛めば噛むほど味も出る。

 それから、骨に残った肉と黄色い脂をねぶって、最後に氷室で冷やした麦酒を飲む。

「くぁっ……たまらぬっ……!」

 尻尾の毛を総毛立たせたホロが、感極まったような声でそう言った。

「喜んでいただけてなによりです」

 湯屋の食堂ではほかの客の目もあるので、寝室の暖炉を使っての酒盛りとなった。

 しばらくは豚の脂の匂いが取れないだろうから、ホロが毎日余計に腹をすかせそうだと、ロレンスは少し心配だった。

「できれば娘様にも食べていただきたかったのですが」

 ルワードは言いながら、持参の鉄串に四角く切った脇腹の肉を差していく。

 そちらのほうが中まで肉が焼けて美味しいのだという。

「あのたわけには勿体ない良い肉じゃ。うまかったと手紙に書くだけで十分でありんす」

 こと食べ物に関しては、ホロは娘のミューリと本気で張り合っているところがある。

 しかし、ロレンスはふと気がつく。

「そうか、手紙か……。美味い肉があると言ったら、家出から戻ってこないだろうか」

 そんなことをロレンスが呟いていると、ルワードが苦笑する。

「同じミューリの名を冠する者として、コルならばと思わなくもない」

「この諦めの悪いたわけに、もっと言ってやってくりゃれ」

 カリカリに焼けた豚の耳を齧りながら、ホロが言う。

「ですがホロ様、我々男は賢くなりきれないのですよ」

 ホロは呆れたようにため息をついて、豚のモツの煮込みに手を伸ばす。

「ところで、ぬしらはなにしに来たのかや。手土産に豚一頭など、さすがのわっちも恐縮してしまいんす」

 と言いながら、ほとんど一人で平らげそうな勢いだ。豚を潰す際、セリムやハンナ用に肉を取り分けておいたのは正解だった。

 ロレンスがそんなことを思っていると、勇猛果敢なはずのルワードが、随分言いにくそうに口を開く。

「ええ、そのことなんですがね……」

 そして、ルワードは腰元の、剣を差すあたりから、小さな袋を取り出した。

「これは娘様からいただいたお守りなのですが」

 随分手荒な縫い方をされた、お世辞にも綺麗とは言えない巾着だった。

 麦酒を飲んでいたホロは鼻をひくひくさせると、たちまち眉根に皺を寄せる。

「あのたわけは、なんでそんなものを渡しておるんじゃ」

 その物言いから、巾着はミューリが作ったらしいとロレンスは理解する。

「ええ、この村で狩りに同行した時に、狼に襲われる話をしましたら、ぜひ持って行けと」

「……」

 ホロは呆れたような顔をしていた。

「袋の中身はなんなのですか?」

 ロレンスの問いに、ルワードはひどく罰の悪そうな顔をした。

「袋の中身は、娘様の尻尾の毛だ」

「尻尾の?」

「うむ……再三断ったのだが、荷物に隠されていた。捨てるわけにもいかず、結局持ち歩いていたのだが……」

 ミューリ傭兵団の旗印は狼だし、その創設にはホロのかつての仲間が関わっているのだが、ルワードたちはホロの尋常ならざる力を頼りにはしない。それがある種の誇りであり、また、ホロに対する敬意でもある。

 そういう経緯があるので、不可抗力とはいえ、ホロの娘であるミューリの力を借りたことを心苦しく思っているのかもしれない。

 しかし、そのためにわざわざ豚を連れて湯屋にやって来るというのは、なんとも奇妙なことだった。

 ロレンスがあれこれ推測を巡らせていると、ホロがなにかの合図のように、ジョッキをこんと床に置く。

「ま、そんなものをぶら提げて狼除けにしておったら、面倒事が起こったのじゃろう?」

 焼け頃の串肉に手を伸ばしながら、ホロはそう言った。

 面倒事? とロレンスが視線をホロに向けると、ルワードが言った。

「ええ……そのとおりです。当初こそ、どんな森を抜けようとも、狼との余計な争いに巻き込まれることが無くなって、大変助かったのですが」

 ルワードは部下から酒樽を受け取り、ホロの手元のジョッキに酒を注ぐ。身辺警護に当たらせているくらいなので、信用できる部下たちなのだろう。彼らはホロの耳と尻尾を見ても、顔色を一つも変えなかった。

「この頃、仕事を引き受けた先で、妙なことになりまして」

「ふん」

 ホロは、話してみよ、とばかりに尻尾をわさりと動かした。

 抜け毛が舞ったが、もちろんルワードは目を細めるようなこともない。

「私達はこの頃、さる領主の護衛を務めているのですが、そこで領地の森をうろつく狼への牽制を頼まれまして」

「牽制」

 ホロが意地悪そうな笑みを見せながら、その単語を繰り返す。

 ロレンスはルワードの立場をおもんぱかって、ホロに咳払いを向けた。

「冗談じゃ。どうせ、ぬしらの行く先には狼が避けて通るとかその手の噂が流れておって、それを聞きつけた者がうまくぬしらを引き立てて、狼退治に狩りだしたのじゃろう?」

 ルワードが言葉もなく頭を垂れるので、図星だったようだ。

「まったくそのとおりで……」

「それで? ならばうちのたわけの毛があれば、大方の狼は避けられようものじゃがな。それとも、わっちらの眷属が現れたのかや?」

 ホロのような、人語を解し、長寿を得る獣の存在は、多くはないが、確かに存在する。

 その中には狼もいて、セリムなどは良い例だ。そして、彼らはえてして、強力な存在だ。

 そうなれば、事態を収めるにはホロを担ぎ出すほかなくなってしまい、豚の貢物にも納得がいく。問題は、ホロがいわば仲間と言うべき狼に牙を向けなければならないところだ。

 一瞬緊張が走るが、ルワードは力なく首を横に振った。

「いえ……」

「う……むう?」

 最悪の可能性を口にしたばかりのホロは、ほっとしたような、拍子抜けしたような、困ったような顔をしてロレンスを見た。

 ロレンスも、それ以外の可能性が思い浮かばなかったので、意外だった。

「ルワードさん、どうやらルワードさんたちは私たちの娘のために、問題に巻き込まれているようです。ならば私たちが責任を引き受けるのは親としての務めです。話してはいただけませんか」

 そう尋ねると、ルワードは告解に訪れた信徒のような顔をして、ロレンスを見た。

「心遣い痛み入る。まったく……まったくもって、我らの不徳の致すところなのだが……我らにはどうにもならないのだ」

 ルワードはそう言って、自分自身の拳に噛みつくように口元に手を当てると、思い切ったように顔を上げ、こう言った。

「実は、逆なのです」

「……逆?」

 ホロの尻尾が、右から左にぱたりと動く。

「はい。森をうろつく強力な狼の群れをどうにかしてくれと、我々を雇う領主は言いました。我らは本来領地の戦のために雇われたものの、すでに契約を済ませている以上、臆病なところを見せては団旗に関わる問題です。仕方なく、その言を受け入れて森に狼の牽制をしに行ったのです。それで、いつものとおりに娘様の巾着のおかげで効果はてきめんでした。ですが、一月ほど前のことです」

 ルワードは、大きなため息をついた。

「狼の群れの長に、惚れられてしまったようなのです」

 恐ろしく間抜けなことを言っている、という様子がありありとルワードの渋面に現れていた。

「勘違いだと信じたいのですが、そうとしか思えないのです。最初は、我らを骨のある敵とみなして、遠巻きに付いてくるのだと思っていましたが、ある日、宿舎としている旅籠の前に鹿が置かれていまして」

 傭兵団長は、額に滲んだ汗を拭っていた。

「古い部族同士の争いでは、敵の家の前に獣の死体を置いて威嚇したり、魔術的な嫌がらせをしたりすることがありますが……」

 そして、窺うような目をホロに向ける。

「わっちらは、そんなことせん」

 ホロは答えるものの、変に真顔だった。

 ロレンスは、ホロの尻尾がぷるぷると震えていることに気がつく。笑いを堪えているらしい。

「しかも、何度か鹿が置かれた後は、狐や兎、穴熊、大きな鯉やヤツメウナギまで置かれていたりしまして……極めつけは大きな蜂の巣が置かれるに至って、敵意ではありえない、と」

 ホロは酒を飲むふりをして、必死に表情を隠そうとしている。だが、尻尾がぶるぶると震え、死に際の蛇みたいになっていた。

「それで、ある日決意をしてその狼と対峙したのです。それはもう、立派な群れを率いる雄でしたが……」

 ルワードは、頭痛を堪えるように額に手を当てていた。なにが起こり、どんな様子だったかは、ロレンスもあえて聞かないでおいた。

 ミューリの匂いに釣られて惚れこんでしまい、せっせと貢物をしていた雄狼だ。

 目の前のルワードが怪我をしているようには見えないので牙や爪を向けられることはなかったのだろうが、じゃれつかれるだけで、生きた心地がしないだろう。

「敵意のない相手に剣を向けるのは武人の名折れ。とはいえ、相手は人と相容れぬ狼……いえ、ホロ様とロレンスさんはまた別ですが」

「お気になさらず。それで?」

 ロレンスが促すと、ルワードは大きく息を吸って、続けた。

「害をなさずとも、我らの周りに狼の群れがいると、それはそれで困るのです。なにか怪しげな魔術を使っていると思われましょうし、我らのことは同じ群れと見做していても、その他の者たちにはそうではないのです。それで……」

 と、ルワードは言った。

「できれば、ホロ様からあの狼へ誤解を解いていただければ、と」

 ホロはそして、ついに吹き出し、笑ってしまっていた。

「くっくっくっ……すまぬ。ぬしらには大問題じゃろう……しかし……ぶふっ。あはははは」

 ホロは珍しく大笑いして、ひっくり返りそうになっていた。

 ひとしきり笑い終えると、ホロはうなだれているルワードに向かって身を乗り出し、その手からミューリの巾着を取り上げた。

「まったく。うちのたわけはまだまだ小娘じゃ」

 すんすんと鼻を近づけて匂いを嗅いで、ホロは巾着をロレンスの膝の上に放り投げる。

「じゃが、娘の不始末は確かに見過ごせぬ。ぬしらに苦労をかけては、ぬしらに爪を託したかつてのミューリもわっちのことを見損なうじゃろうしのう」

 顔を上げたルワードは、絞首刑が直前で中止された罪人のようでさえあった。

「それでは」

「うむ。その哀れな狼に事情を説明するしかないじゃろう」

「ありがとうございます。今は参謀のモイジが巾着を身に着けて、あの雄狼を懸命にいなしているはずですから」

 モイジはルワードの父の代からの参謀であり、立派な体躯の熊のような人物だ。

 そのモイジが、大きな狼にじゃれつかれ、困惑しているところを想像すると、ロレンスは気の毒に思いつつも、少し楽しく思ってしまう。

「じゃが」

 と、そこにホロが言った。

「わっちは行けぬ」

「ホロ」

 ロレンスが口を挟むと、ホロは妙に強い目つきでロレンスを睨みつける。

 ロレンスが気圧されて黙ると、満足げに尻尾を揺らし、こう言った。

「代わりに、うちの若い者が向かいんす」

「若い……者?」

「セリムさんを?」

 ロレンスの問いに、ホロが不機嫌そうに唇を尖らせた。

 そして、ロレンスにではなく、ルワードを向いて説明した。

「わっちらはついこの間、眷属を雇ってのう。セリムという、なかなか見どころのある狼じゃ。あれでも十分勤まるじゃろう」

「助かります。ですが……」

 ルワードが、ロレンスのことをちらりと見て、ホロを見る。

 ルワードも、ロレンスとホロの間の妙な空気に気付いたようだ。

「わっちゃあこの湯屋におらねばならぬ。お使いは新参者の務めじゃ。そうではないかや?」

 もちろん、言われたルワードは、肯定する以外にない。

「そのとおりではありますが……」

「ではそれで決定じゃ」

 ホロはそう言って、肉に手を伸ばす。

 大口を開けて肉に噛みつこうとして、ぽかんとしている男二人をじろりと見た。

「わっちゃあ賢狼ホロじゃ。その裁きに、なにか不満があるのかや?」

 ルワードは滅相もないと首を横に振り、ロレンスは疑問が残りつつ、ため息をついたのだった。



 セリムは奇妙な役目を仰せつかっても、嫌な顔一つせずに引き受けてくれた。

 ルワードたちの足に合わせていては行き帰りが遅くなるので、地図と土地の名を教え、ルワードが湯屋に来たその日の夜に発たせた。行きと帰りで二日ずつで、四日程度の留守になるとのことだった。

 片道に五日かけていたルワードたちは、健脚を素直に羨んでいた。

 翌日にはルワードたちも発って、まったく忙しない再会ではあったが、いつ何があるかわからない傭兵稼業の彼らに会えたのは、ロレンスも嬉しかった。

 一方で、これで湯屋の働き手が自分とハンナの二人だけになってしまったロレンスは、客たちに事情を説明するほかなくなった。セリムは急の知らせで外に出かけ、ホロは体調が思わしくなく伏せっている。申し訳ないが色々行き届かないところ出るだろう、と。

 幸い、客のほとんどが何年も通い詰めの者たちで、飯と酒さえあれば放っておいてくれていいとのことだったので、どうにかなるだろう。

 やれやれと思っていると、ルワードを見送り、いったん自分たちの寝室に戻ると、窓辺からルワードを見送っていたらしいホロは、非難がましい目をロレンスに向けてきた。

「じゃからわっちは言ったじゃろうが」

 一瞬なんのことかわからなかったが、書きもの机の上には、たくさんの櫛と一緒に、ミューリが作ったらしいお守りが置かれている。

「これが、お前の言ってた災いか?」

 毎年の尻尾の抜け毛を狼除けや熊除けに使えないか、ということに対する返答がそれだった。

 ホロは窓枠に頬杖をつき、面倒そうな顔をする。

「わっちゃあ賢狼ホロじゃ。その賢さも可愛さもこの地では比類ないからのう。わっちの毛を小分けにしたお守りを持った者たちがここを発ち、行く先々で雄狼どもを惑乱させてみよ」

 大袈裟な、と思ったが、現にミューリのものではそうなった。

「もしかしたら、頭に血が上った雄狼どもは、匂いを辿ってこの湯屋を目指すやもしれんな」

 一人の姫を取り囲み、一斉に膝をつく騎士の話は、作り話とはいえ、まったくの虚構でもない。

「すると、湯屋の先では冴えない羊のできそこないみたいなのが、か弱い賢狼をこき使っておる。雄共はどうするじゃろうな? 森の掟は、強い者こそ正義じゃ」

 誰が誰をこき使っているのか問いただしたくなるが、状況は想像ができる。

 そもそも、この湯屋の周りを狼がうろつくだけで、致命傷になりかねない。

「確かに……災いだ」

 ロレンスが言うと、ホロはやれやれとばかりに鼻を鳴らしていた。

「しかし、だ」

 ロレンスは、そう言葉を続けた。

「セリムさんではなく、お前が行くべきだったのでは?」

 今回のことはミューリが原因だし、なにより耳と尻尾を隠せるセリムは、ホロと違って湯屋のために働いている。

 すると、ホロは心底げんなりしたような顔を見せ、大きくため息をついた。

「たわけ」

 そして、鼻白むこちらを見るや、億劫そうに立ち上がって、ロレンスに向かって歩き出す。

 ロレンスが思わず身構えると、ホロは倒れ込むようにロレンスの胸に抱きついて、そのまま後ろのベッドに押し倒した。

「お、おい!?」

 怒ってるにしては妙だ、とロレンスが慌てていると、ホロは背中に回す腕に力を込めて、こう言った。

「この季節は、どいつもこいつも惚れっぽくなっておるんじゃ。ぬしとあの小娘を同じ屋根の下に置いておけるわけがありんせん」

「はあ?」

 そんなことあるはずもない、と言おうとしたところ、背中に爪を立てられた。

「なにも考えずに櫛を贈ろうとするようなたわけが、なにを言うつもりかや」

 それでようやく、ロレンスは櫛を分けようとしたことをホロが咎めた、その理由に気がついた。そんな下心あるはずもないし、セリムも勘違いするはずがない、とロレンスは言いかけたが、すんでのところでやめた。自分がどう思うかではなく、ホロがどう思うかなのだ。

 ミューリが出て行ってからこっち、もうなにも起こるまいと思っていたような湯屋の生活にも、意外に波風があった。

 それでホロもまた不安定に……とは思わない。

 ホロはホロで、久しぶりに母という体裁を取り繕う必要が無くなって、我がままを言ってみたり、すねてみたり、気ままにふるまいたいのだろう。

 元々、ミューリよりもよほどお姫様気質のホロなのだ。

「まあ、櫛のことは謝ろう。配慮が欠けていた」

 当然じゃ、とロレンスの胸に顔を押し当てたまま、ホロがくぐもった声で言う。

「けれど、お守りを作る件に関しては、そう悪いことでもないのでは?」

 ホロの耳がピクリと跳ねる。

 顔を上げてこちらを見るので、笑い返してやった。

「お前の匂いに釣られて集まった並み居る雄狼どもを、俺が格好良く撃退するところを見たくないのか?」

 ホロは目を丸くすると、牙を見せて笑う。

「旅暮らしの時は、狼の遠吠え一つに震えておったくせに」

「だからだよ」

「む?」

「お前のためなら、怖い物が相手でも、勇気を振り絞れる」

 突風に顔を洗われたようにホロは目をつむり、耳をバタバタとさせる。

 そして、そのままぱたりとロレンスの胸の上に頬を置く。

「ぬしは口だけは達者じゃからな」

「なら、口だけじゃないって示していいのか?」

 ホロの耳がぴんと立ち、もぞもぞと身じろぎした。部屋に一人でいるのは寂しいのか、あるいはホロが言ったようにこの時期は皆が惚れっぽいせいか、随分甘えたがりだ。

 しかし自分からは滅多なことを口にしないホロは、期待するような目を向けてくる。

 目が合ったロレンスは微笑みかけ、そして、そんなホロの不意を突き、ひょいと体の上からどけた。

 幼子のようにころんと横に転がったホロをよそに、自分はさっさと起き上がる。

 ぽかんとしたホロは、呆気に取られてロレンスを見つめていた。

「俺が怖いのは湯屋の赤字だ。立ち向かわないとな?」

 足元をすくわれた、と気がついたホロは珍しく顔を赤くさせ、麦殻の詰まった枕を掴んで放り投げてくる。

 ロレンスは難なく受け止め、ベッドの上にやんわりと置く。

「それじゃあ、俺は仕事に戻るが、おとなしくしてろよ」

 ベッドの上で悔しさなのかなんなのか、体を丸めていたホロは、尻尾をパンパンに膨らませてこう言った。

「たわけ!」

 なんのことはない、よくある湯屋の、一日なのだった。



★次回は『狼と香辛料 Spring Log編』短編の更新をお休みさせていただきます。