※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.58掲載の後半を抜粋したものです。


 ロレンスは、前髪を掻いた。

「お前、ここに書いてあること、全部嘘だろ」

 どことなく気だるげだったホロの狼の耳と尻尾が、ぴんと伸びた。

「俺がこれを読んで怒り心頭、クワスは没収だ、と煙突沿いを探し回る。だが、酒は出てこない。どういうことだ? と、お前を問い詰める。すると、お前はずぶぬれの猫みたいに震えながら、知らないと繰り返す。俺はさらに問い詰めるだろう。そうしたら?」

 目を閉じて話を聞いていたホロは、背伸びでもするかのように大きく息を吸って、吐いた。

 残されたのは、苦笑いだ。

「そうしたら、くすくす笑いだすんじゃ」

「……」

 思い切り嫌そうな顔を向けると、ホロは肩を揺らして笑いはじめ、じゃれつくように抱きついてきた。

「怒らんでくりゃれ。別にぬしを陥れてからかおうと思ったわけではありんせん」

 とりなしを求めるような、下手に出る笑顔だったが、ロレンスは冷たく言い返す。

「どうだか」

「なっ……この、たわけっ!」

 ホロに爪先を踏まれた。

 ただ、自分の言葉を疑われたホロは、自分にも疑われるだけの非があったか、と思い直すくらいの理性はあったようだ。渋々ながら、こう説明した。

「ふん。日々の出来事を書いておったらな、意外に文字を書くのが楽しくなってのう。かといってそんなに毎日書くこともないから、こんなことがあったら楽しかろうと想像したことを書いておったんじゃ」

 ロレンスは紙束を見やり、鼻の頭に皺を寄せる。

「これ、全部か?」

「まあ……半々じゃな」

 余裕綽々のように見えて、少し恥ずかしそうなのは、耳と尻尾を見れば明らかだ。

 作り話を書くのに夢中になるなど、それこそ貴族の屋敷で暇を持て余した少女の遊びにほかならない。自分に読まれたくなかったというホロの気持ちが、ロレンスにも少しわかる。

 それに、ロレンス自身、見落としていたことがある。

「そもそもこんなに豪華な朝飯が滅多にない、ということにさっさと気がつくべきだった」

「これくらい食べたいのう、とひもじい思いをしながら書き記すわっちがいかに哀れかという話でありんす……」

 目元の涙を拭う仕草までして見せるが、昨晩の残り物が朝食に並ばないのは、ホロが晩のうちに綺麗さっぱり平らげてしまうからだ。

「じゃあ、酢になりかけの葡萄酒が高く売れたってのは?」

「それは本当じゃ。ただし、ろくに飲みもせず全部こぼしてしまうほどべろべろになった客だったからのう。わっちのせっかくの一工夫も台無しじゃ」

 だとすれば、銅貨は数え間違えて出したのだろう。

「クワスは? 本当に造ってないのか?」

 ロレンスが尋ねると、ホロがふいっと目を逸らす。

「おい、お前……」

「つ、造っておらぬ! 造り方を聞いただけじゃ!」

 じっとホロを見ていると、むうーっと睨み返される。

 賢狼と自称するだけあって、ホロにもきちんと誇りがある。

 どうやら嘘ではなさそうだった。

「……客共の気紛れの断食だかなんだか知らぬが、黒パンを焼く日があるじゃろう? じゃが、あやつらはいっつも残すからのう。残り物を食べさせられるわっちらの身にもなってみろと言いたいところじゃ」

「ああ、それで少しでも処分しやすくってことか……」

「うむ。というか……本当は一度やってみて、失敗したんじゃがな。まあ、じゃから造っておらぬというのは嘘ではありんせん」

「……」

 呆れた視線を向けると、ミューリが誤魔化すみたいに、笑顔で小首を傾げていた。

「朝から豪華な食事が出て、嫌な掃除をこなすついでに御馳走が食べられて、酒まで飲めるなど、理想の一日じゃろう? わっちゃあこんな毎日を過ごしたいと思いんす。のう。旦那様?」

 またぎゅっとしがみついてきて、甘えるように顔を胸に擦りつけてくる。尻尾もご機嫌な時の振り方だったので、ロレンスはがっくりと肩を落とした。

「ささやかな願い事をする、慎ましい妻を娶れて俺は幸せ者だよ」

「くふ。そうじゃろう、そうじゃろう」

 どこまで皮肉が通じたものか、とロレンスは胸中で呟くが、ホロはもちろんわかったうえで無視なのだろう。

 相変わらずのホロの様子に、呆れるやら苦笑するやらだ。

 ロレンスはホロの背中にもう一度手を回し、こう言った。

「じゃあ、まずは玉ねぎか?」

「む?」

「お前が書いていたのは、ずーっと後になってから読む、この湯屋で過ごした日々の記録だろう?」

 ホロが目を見開き、耳と尻尾の毛をぶわっと膨らませる。

「それとも、玉ねぎを食べると腰を抜かすんだっけ?」

 意地悪い笑みと共に言うと、ホロは唇を三角に尖らせて、両足を踏みつけてくる。

「わっちゃあ犬ではありんせん!」

 ロレンスは涼しい顔で聞き流し、肩をすくめておく。

「クワスについても、まずい黒パンを少しでも楽に処理できるのは助かるし、灰掻きも煤掃除も、面倒だからおまけが欲しい気持ちはわかるよ」

 ホロは意地悪されてまだ疑うような目つきだったが、やがてロレンスの言葉に、そうじゃろう? とばかりに笑顔になる。

「嫌なことを楽しいことに変えられれば、それほど大きな儲けもない。それが毎日を楽しく過ごす極意だろう」

「うむ」

 ぱたぱたと尻尾を振るホロと笑い合い、ロレンスは「さて」と言った。

「じゃあ、玉ねぎやらクワスやらは明日の楽しみにして、そろそろ寝るか」

 もう時刻はだいぶ遅い。宵っ張りが多いニョッヒラでさえも、誰も彼もが寝静まっている頃だろう。

 ロレンスはホロの背中に回した手で、その華奢な体を抱えてベッドに向けて歩き出す。

 その足がすぐに止まったのは、ホロが踏ん張っていたからだ。

「ホロ?」

「たわけ」

 と、ホロは腕の中からするりと抜けだした。

 そしてその様子を怪訝に見つめるロレンスをよそに、寝室から外に出るためにいつも身につける、耳を隠す三角布に、尻尾を隠す腰巻をいそいそと巻く。

「ぬしは金のためなら命を惜しまぬ商人じゃろう?」

 嫌な予感がする、と思った時には、準備万端のホロに腕を引っ張られていた。

「時は金なりじゃ。しかも、わっちの理想の一日は、あんなにたくさんあるんじゃからな」

 ロレンスの腕を抱えるようにして引っ張りながら、机の上を顎で示す。

 そこにはホロがかじりつきで朝も夕も書き溜めた紙束がある。

 ロレンスがその紙束から、すぐそばのホロに視線を戻すと、ホロはわざとらしい笑顔でにっこりとして見せた。

「……まさか、全部実現させる気じゃあるまいな」

 ホロの笑みに意地悪な色が混ざり、唇の下からは狼の牙と、赤味の強い琥珀色の瞳には怪しげな光が宿る。

「わっちゃあ麦に宿り、その豊作を司り、一時は神と崇められておった賢狼ホロじゃからのう。ほれ、人の世では予言などというものがもてはやされておるじゃろう?」

 娘のミューリが一目散に獲物に飛びつく狼なら、ホロは闇夜に乗じて後ろから襲い掛かる狼だ。

「それとも、遠い未来に一人残されたわっちがあれらを読み、ああこんなことをぬしとしたかったのう……とすすり泣いてもいいと言うのかや?」

「ぐっ」

 ホロのお得意の我がままだ。

 それをむげに断れば、まるで心が狭いのはこちらのほうだと思わせるいつもの手口。

 どうなのかや? とこちらを見る赤い瞳は、自信に満ち溢れている。

 ロレンスはしばらくその瞳に抗ったが、腕を掴む手にぎゅっと力を込められて、諦めた。

 ホロの喜ぶ顔を見られれば、結局それは自分の喜びなのだから。

「ただし」

 と、付け加えられるようになったのは成長なのだと、ロレンスは自分に言い聞かせる。

「村の噂が綺麗さっぱり無くなるように、お前も努力しろ」

 ホロは歳を取らず、いつまでも若い少女の姿のまま。この先も似たような噂は立つだろう。

 自分たちだけが真実を知っていればいい、というには、ロレンスはまだ若すぎる。

 それに、男の沽券にもかかわる話なのだから。

「くふっ」

 ホロは小麦粉の山が崩れるように笑っていた。

「はいはい。ぬしも男の子じゃからな」

 ホロはこちらの手を取って、手の甲の匂いを嗅いで、小指の付け根に口づけをしてくる。

「わっちがぬしに惚れておると見えるよう、きっちり上手に振る舞いんす」

 そう言ったホロに掴まれていた手を、ロレンスはホロごとぐいと引き寄せた。

「見えるよう、ではなく、わかるように、だろ」

 憮然としたロレンスの表情に、ホロは目をぱちくりとさせる。

 そして、いい度胸だ、とばかりに唇の片方だけ吊り上げて不敵に笑う。

「いいや。惚れておるように見えるよう、で正しい言い方じゃ。なにせわっちに惚れておるのはぬしのほうじゃからな」

「ほう? では、少し忙しくするとすぐに不機嫌になって、構って欲しいとねだるのはどこの誰だ?」

「んなっ」

 やいのやいのとやりあいながら、ホロとロレンスは連れだって寝室を後にする。

 眉を吊り上げ、皮肉に唇をひん曲げ、当てこすりは傷口に塩を塗り込むばかりなのに、扉は静かに後ろ手に閉めて、廊下を歩く時は手を繋いでいる。

「じゃからぬしはいつまで経ってもたわけだと言うんじゃ」

「自分のことがわからないようでは、賢狼の名が泣くな」

 真っ暗な宿の中を、蝋燭も持たずに歩いていると、ロレンスはホロと出会って間もないころのことを思い出す。

 狭い荷馬車の上で、幾晩も夜を明かした。あの時は言い争いになると互いに本気で怒っていたし、今から思うとなぜそんなに、と思うくらいに感情を爆発させて大喧嘩をした。

 もう、良くも悪くも、あの時の気持ちを完全に思い出すのは不可能だ。

 月日の流れというのは不思議なことだし、積み重ねてきたたくさんの経験は、寝ているところにかけられた毛布の枚数のよう。今ならばどんな寒さにも耐えられるし、寝込みを襲われ武器で突き刺されようと、刃は毛布の下まで届きもせず、自分とホロを分かつことはないと確信できる。

 同時に、その分だけ失われる感覚もある。あの頃の剥き出しの感情は、遠く隔てた世界にぼんやりとだけ存在している。それを懐かしく思うし、失ってしまったことを悲しく思うこともできる。

 だが、買い物の時に財布から無くなった貨幣の枚数を嘆くのは間抜けのすることだ。

 その貨幣で買い入れた品物の素晴らしさがあれば、失った物など物の数ではない。

「一つじゃ足りぬじゃろうが。ほれ、持っとってくりゃれ。わっちゃあ油の壺を取ってきんす」

 食料庫に忍び込み、ホロから玉ねぎを二つ三つと渡されるのを受け取りながら、ロレンスは笑う。

「確かに足りないな」

 手に入れたホロとの時間を楽しみ尽くすには、並大抵の覚悟では足りはしない。

「ついでに麦酒の甕も持って来い」

 暗闇の中ではっきりわかるほど、ホロの目が輝いた。

「悪いのはぬしじゃからな。ハンナの奴にはそう説明しんす」

 宿の主人はロレンスだが、炊事場はハンナの縄張りだ。ロレンスといえども、盗み食いをしたら叱責は免れない。

「そんな嘘をついたところで、二日酔いでふらふらの様子を見たら、誰が悪いのかは一目瞭然だろう?」

 ホロはむっとして頬を膨らませたが、ぷふっと空気が漏れると、けたけた笑っていた。

「なら、勝負じゃな」

「酒は勝負で飲むものじゃない」

「ほう、逃げるのかや」

「相手のために泥をかぶるのが紳士だからな」

 唇を噛み、なんとも言えない楽しげな笑みのホロと小突き合う。

 子供みたいなやり取りに、歳が十も二十も若返った気がする。

 ロレンスは盗賊が相棒に囁くように、言った。

「ほら、さっさと目当ての品を用意しろ。見つかったら面倒だ」

「ぬしは納屋から粘土を取ってきておいてくりゃれ。たっぷりの粘土で塗り込めて焼いたほうが甘く焼けるらしいからのう。たくさん頼みんす」

「ほう、それはまるで――」

 ロレンスはそこまで言いかけて、口をつぐむ。

 ホロがきょとんとしていたが、笑ってごまかした。

「わかったよ。じゃあ、暖炉の前で集合だ」

「うむ」

 そして、ロレンスは腰をかがめ、ホロは背伸びをして軽く口づけを交わすと、互いの任務に取り掛かる。

 ロレンスは裏手の納屋に向かいながら、玉ねぎと自分たちは似ているなと思った。積み重ねてきた経験が分厚ければ分厚いほど、その中身は甘くなる。少し甘すぎるだろうか、と思わないでもなかったが、それもまた一興だ。

 ロレンスは目当ての物を用意して、いそいそと広間の暖炉に向かう。夜更かしの客もおらず、灰に覆われた赤い炭が、ちろちろと音を立てている。ホロもちょうどやってきて、互いに顔を見合わせてくすくすと笑う。どれだけ言葉を尽くしたって、この感情を記すのは不可能だ。

「ホロ」

「んむ?」

 ロレンスは言葉を重ねず、ただ微笑んだ。ホロも意を察したように、お転婆娘みたいに歯を見せて笑う。

 繰り返しの日常などない。楽しいことに限りなどない。

 そう確信した、草木も眠る静かな夜の、一場面のことだった。



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