※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.49掲載の後半を抜粋したものです。



 その晩はちょうど月に一回の村の寄合だった。酒と料理を一品携えて、月の見え隠れする寒い夜道を、震えながら歩いて行く。この村に来た当初こそ、奥深い山の気配に夜は不気味な感じが拭えなかったが、今はすっかり慣れたものだ。

 それに、客の多いこの時期は、村のあちこちで暖かそうな灯が夜遅くまで焚かれ、笑い声、それに音楽が聞こえてくる。その様子は現のものとも思えぬ幻想的な雰囲気があって、時折わざわざホロと眺めに来ることもある。

 道すがら、湯屋から湯屋に梯子する人気の楽師たちとすれ違い、気安く挨拶を交わして歩いて行く。この土地に居着いて十年が過ぎ、ようやく溶け込めたような気がする。

 ただ、それも良し悪しなのだろう。

「おおー! 我らがロレンス殿のおでましだ!」

 松明の掲げられた集会所の建物に入ると、たちまち喝采が湧いた。

 ロレンスが戸惑っていると、すでに赤ら顔の湯屋の主人たちがやってきて、肩をバンバン叩いてくる。

「いやあ、ロレンスさん、今日は朝まで飲み明かしましょう!」

「え? あ、はあ」

 もうこの村に来て十年とはいえ、ほとんどの湯屋がロレンスの年齢と同じか、あるいはそれ以上の年月、ここで営業をしている。先達たちの前ではおとなしくせざるをえないが、同時に彼らは商売敵でもあるので、そういう意味では馴れ馴れしさはなかった。むしろ時には資材の奪い合いで、ぎすぎすすることのほうが多いくらいだ。

 突然なんだろうか、と思っていると、酒を手にした一人が言った。

「ロレンスさん、お辛いでしょうが、辛いことばかりではありません!」

「はあ……えっと、なにがでしょう」

「いいんですいいんです! 娘を手放すその辛さ、我々もよっくわかっています!」

「ん? あ、ああ……」

 ロレンスはそれで、ようやく自分にやたらと酒を勧めてくる連中の顔ぶれに合点がいった。

 そのほとんどが、娘を持つ親たちだった。

「えっと、いや、あの二人がそうなると決まったわけでは……」

「いや、いや、認めたくない気持ちはわかります、わかりますぞ!」

 別の一人から強引に慰められ、曖昧に笑っておく。ただ、胸中では何度も繰り返す。駆け落ちではない、駆け落ちではない、と。

「あー、諸君! 盛り上がっているところに申し訳ないが、会議の後にしてくれまいか」

 ぱんぱんと手が叩かれ、魔法から覚めるかのように各々自分の席に戻っていく。

 ただ、席についても娘を嫁がせた時のことを思い出してむせび泣いている者もいて、ロレンスはその様子に驚くよりも、温かい気持ちになっていた。いつもは売上で切磋琢磨している商売敵も、同じ村に住む仲間なのだと。

「さて、今日はおそらく冬の時期の最後の会議になるだろう。つまり、来月には雪が溶け、人がいなくなり、散々騒がれ尽くした建物の修理や夏に向けての準備のために、また輸入品の割り当てやらで、揉めに揉める日々が来るわけだ」

 長机につく湯屋の主人たちが、困ったように笑っている。このニョッヒラの村に続く道は細く、しかも物資の納入をスヴェルネルという一つの町に頼っているので、どうしても奪い合いになる。

「あ、その点について気になる話を聞いたんですがね」

 一人が手を挙げて口を挟んだ。

「西の山脈の反対側に、別の温泉街ができるかもって話なんですが」

「ああ、それはうちも聞いたぞ」

「なんと、本当か?」

「山脈の反対側だと、客の流れはどうなるんだ……?」

「静粛に!」

 ざわつくところを議長役が制し、ひとまず静かになる。ロレンスもその話は楽師たちから聞いていた。来年はもしかしたらニョッヒラに来られなくなるかもしれない、と。

「私もその話は聞いていて、どうやら本当らしい」

 その瞬間、どよめきが足元を這っていく。商売敵が増えていいことなど一つもないが、最も気になるのは、その新しい温泉街が、物資の納入をどこに頼るかだ。

「それで、もしかしたら物資はスヴェルネルから調達するかもしれないとのことだ」

 神よ! と誰かが叫んだ。川に流せる水の量は決まっているように、山奥まで運べる荷物の量は大体決まっている。

 それに、スヴェルネルから物資を調達するということは、その新しい温泉街まで客が歩いて行く道も、スヴェルネルから続いているのだろう。

 つまり、客もまた取り合うということになる。

「これが一昔前のことだったら、手に手に棍棒を持って山脈を越えるところだが」

 議長が言うと、どよめきがさざ波のような笑いに変わる。

「我々は誇り高き温泉郷、歴史に名高いニョッヒラの民だ。あらゆる争いごともここの湯につければすぐにふやけてしまう。我々は我々の魅力によって、人々を惹きつけるしかない」

 そのとおりだ! と賛同の声がいくつもあがる。

「しかし、どうすれば?」

 一人が至極当然な質問を口にし、皆がむぐっと口をつぐむ。

 議長役は小さく笑い、咳払いをしてから、突然ロレンスのことを見た。

「そこで、ロレンス殿が以前に出された案を、我々は真剣に考えるべきではないかと提案する」

 全員の視線が突然集まり緊張したが、すぐに頭の中で話がつながった。

「えっと、村の新しい催し、のことでしょうか」

「いかにも」

 ロレンスはその提案を、閑散期の春と秋にできないかと何年か前にしていたのだ。春と秋はどこの地域も祭りや大市や宗教的な催しが目白押しで、わざわざ遠くて不便な湯治場までやってこない。

 そのせいであまりに暇になり、冬の間に雇っていた使用人の食い扶持は無駄になるし、解雇すれば今度は夏にきちんと雇い直せるかもわからなくなる等、季節ごとに極端な客の増減は無駄が多くなる。

 もしも春と秋に、地元の催しよりも楽しいなにかがここにあれば、新しい客が見込めるのではないか、という算段だ。

「しかし、前回はなんで沙汰やみになったんだっけ?」

 参加者の一人が呟いた。

「面倒くさい、だった気がするな。春と秋くらいは休みたいしなあ」

 当時はそういう主人たちを堕落していると思ったが、最近は彼らの気持ちもわかる。前に進まなければ儲けが得られない行商と、同じ土地で同じ生活を繰り返す湯屋の経営はまた違うのだ。

「そうやって胡坐をかいているうちに、足元から切り崩されるかもしれん。教会のように」

 議長役が重々しく告げると、主人たちは各々腕を組み、ぐむうと唸る。

 ロレンスも詳しくは知らないのだが、山を下りた先では今、教会が大きな節目に差し掛かっているらしい。十年前にすでに形骸化していた対異教徒との戦いが正式に終わり、すわ平和が訪れたかと思いきや、今度は内部に敵が現れたのだという。コルはその話を客から聞いて、いても立ってもいられなくなったらしい。この時代の節目に立ち会わなければ、一生後悔すると。

「知ってのとおり、異教徒との戦いがとりあえず終わった今、ニョッヒラは敵の地にある危険だが魅力的な秘境、という地位を失いつつある。次の手は早急に打つべきだ」

 議長役はこの村の血筋らしいが、若い頃に南の大きな商会に奉公に出ていたとのことで、考え方が南流だ。

 それに、全く正しいことなので特に異論も出ず、出席者たちの拍手によって承認される。

 ただ、その拍手が躊躇いがちな理由もまた、明白だ。

「で、なにをするんです?」

 議長役は、長机の上に置かれた酒樽に、むんずと手をのばした。

「それを、皆で、考えよう」

 危機感はあるが、案はない。加えて、村の総出でやるとなれば実際的な面倒事も噴出するし、良い案を出したらきっと取りまとめ役に就かされる。

 皆で案を出しあうと言いながら、あっという間に酒盛りになってしまったのも責めるわけにはいかない。この時期の寄合は、一年で最も忙しい季節の、踏ん張りのための息抜きも兼ねているのだから。

 それに、ミューリとコルの“家出”を聞きつけた娘を持つ男親連中の相手もあって、結局この日はほとんどなにも進まなかった。

 ただ、昼間のホロの言葉が、ロレンスの頭の片隅に引っかかっていた。

 すべては移ろう時の中。

 為すべき時に為さないと、きっと後悔する。

 そういう意味では、ミューリは頑張ったのかもしれない。

 ロレンスは同時にそう思うものの、その感傷だけは、わざと葡萄酒で押し流したのだった。



 寄合での深酒と二日酔い、そのしわ寄せで今にも破綻しそうだった日々の仕事を、なんとか持ちこたえて過ごしていた。

 ただ、客が一人帰り、二人帰りするうちに、あっという間にほとんどの客が帰ってしまった。

 ホロのおかげで雪崩などの事故もなく、ニョッヒラはつつがなく春を迎えられそうだった。

「うーむ……やはり日の出ておるうちの湯浴みは最高じゃのう」

 未練がましく残っていた最後の客が、使者に無理やり引きずられて湯屋を後にしたその日、ホロは待ちかねていたように湯船に飛び込んでいた。楽師や踊り子たちも、春の祭りに稼ぎを求めて下山してしまっているので、しばらくは人目を気にせず骨休め、というところだった。

「ぬしも入らぬかや。冬の疲れも吹き飛ぶというものじゃ」

「ん? んー……」

 ロレンスは生返事で、ホロのために凍りつかんばかりに冷やした蒸留酒と燻製肉、それに最近ホロがお気に入りの、旅人から教えてもらった蜂蜜をかけたチーズを湯船の側に置く。

 その間、ロレンスの目はホロの艶やかな裸体ではなく、まったく別のところを見ていた。

「たわけ!」

「うわ!?」

 ばしゃっと湯をかけられ、ロレンスは慌てて飛びのいた。直後、手にしていた手紙は無事かと確認すると、湯船からいつの間にか上がっていたホロに奪い取られた。

「いつまで女々しく読んでおる! 無事だというし、あやつらならよほどのことがあってもどうにかなるじゃろう!」

「う、あ、うー……」

 ロレンスはおやつを取り上げられた牧羊犬のような顔をして、ホロが手にしている手紙を目で追っていた。差出人は、コルとミューリ。手紙の上半分をコルが書き、下半分をミューリが書いていて、二枚目はコルとミューリが交互に文章をしたためていた。

 その内容は、下界に降りたら聞いていた以上に世界は大きく動いていて、たくさん学ぶことがあるというのが、一枚目の上半分。下半分は、南には人が多くて賑やかで食べ物がたくさんあって、面白いことがたくさんある、と間違いだらけの綴りで書かれていた。

 ロレンスはミューリの記した部分を読んで、何度も相好を崩していたのだが、二枚目に至ってその顔も強張ってしまった。

 そこには、レノスで二人が巻き込まれた騒ぎと、その顛末が書いてあった。しかも、コルが冷静になにかを記そうとしていると、ミューリが邪魔をして面白おかしく書こうとしていたり、コルがきっとロレンスのことを考慮して出来事を穏便に伝えようとしているところを、ミューリが殊更大袈裟に書きなおしている個所が多々あった。

 要約すると、随分大変な目に遭ったのだが、なんだかんだ丸く収まり、コルは胃の縮む思いをし、ミューリは大変楽しんだというところだろうか。ロレンスは生真面目なコルに同情する一方、ミューリが楽しそうなのでなによりと顔がほころびつつ、やはり万が一のことがないかとはらはらする。

 それは自分とホロが経験してきたような、命がけの大冒険、という意味と、もう一つ。

「しかし、あの二人はずいぶん仲良しのようじゃのう」

 ホロが奪った手紙を軽く読み返し、くつくつと笑っている。手紙を見れば、二人がどれだけ親密そうにしているか簡単に見て取れる。

 同じ宿で、蝋燭の灯りに額を寄せて、肩を並べ、手を取りあい……。

「コルは、うん、そう、良い兄だからな」

 咳払いと共に口にしたのは、ロレンスが最近見つけた、自分を納得させる単語だった。

「二人は昔から本当の兄妹よりも兄妹らしかったからな。うん」

「……」

 ホロから呆れかえった目を向けられながらも、ロレンスはひたすらに言い張った。

「まあ、ぬしがそう信じておるなら構わぬが」

 こいつが馬鹿なのは昔からだ、とばかりにホロは言って、くしゃみをしていた。

 身震いして手紙をロレンスに押し付けると、燻製肉を摘まんで口に咥え、ひょいと湯船に飛び込んだ。ロレンスはホロの指の跡がついた手紙の皺を直し、ミューリのたどたどしい筆跡を見ては顔をにやつかせ、その内容に頭痛を堪えるように顔をしかめていた。

 ただ、とにかくこの手紙は娘が初めて自分にくれたものだ、と大事に畳んでいると、ホロの声が聞こえた。

「それはそうとぬしよ。春のお楽しみはなにか思いついたのかや」

「ん」

「山向こうの新参者たちに客を取られぬように、なにか賑やかなことをするんじゃろう?」

 寄合の時に出た話のことだが、ロレンスの顔は晴れない。

「それがなあ……なかなか思いつかなくて」

「聖人の祭りとやらは毎年やっておるしのう」

 どの町や村、どの職業にも必ず守護聖人がいて、一年に亘ってどこかしらで聖人の祭りが催されている。ニョッヒラではそれが春で、しかも冬の大変な営業を労うという内輪向けのものなのだ。

「それに、珍しくもないしな」

「なんなら、大きな狼にうまい御馳走をたらふく供える祭りでも構わぬが?」

 湯船の縁に肘と顔を乗せ、ばちゃばちゃ足で湯を叩きながらホロがそんなことを言う。

 濡れた髪を掻きあげてあられもない格好をしていると、年頃のミューリにそっくりだ。

「これ以上お供えされたって、食いきれないだろ」

 蜂蜜のかかったチーズなど、高級珍味もいいところだ。ロレンスが一切れ摘まむと、ホロはわざとらしく牙を剥く。

「ふん。じゃが、ぬしは昔は町から町への行商人じゃろう? 面白いものの一つや二つあったのではないかや。なにか真似てみてはどうなんじゃ」

「うーん……。たとえば、牛追いの祭りとか盛り上がったなあ」

「ほう?」

「町の脇道を塞いで、牛を追いたてるんだ。怒り狂って道を駆け抜ける牛の尻に触ると幸運が授かるなんて言って、大騒ぎだ。最後はその牛を丸焼きにしてみんなで食べるんだが……」

「だめなのかや?」

「毎年怪我人が出るのと、なにより牛が建物に突っ込んで甚大な被害が出る」

 旅人として訪れた先での大騒ぎなら、危険と隣り合わせで面白いだろう。しかし、建物を構え、それを維持することの大変さが身に染みてきているホロは、牛に突っ込まれて滅茶苦茶になるところを想像したのか、渋い顔だった。

「それは……困るのう」

「だろう?」

「ほかにはないのかや」

「後は……あれだな。町の司教区ごとに組を作って、革で作った玉を蹴って町を練り歩く祭りもあったな」

「面白そうではないか」

「だが、玉の奪い合いですぐにみんな頭に血を昇らせるし、まだそれはよいとして、この村には若人が少ない。開始してすぐに皆、音を上げるだろう」

 腹の突き出た主人たちのことを思い浮かべたのか、ホロは耳を呆れるように傾けながら、納得していた。

「ぬしも最近たるんでおるしのう」

「う、ぐ……。ごほん! となると、仮装して大騒ぎとかそういうものになるが、そんなものはあっちこっちにある」

「難しいのう」

 ホロはまたぱちゃぱちゃと湯を鳴らし、犬かきの真似事みたいなことをして縁から離れていった。湯の中で広がる髪の毛と尻尾の毛のせいで余計に呑気に見えるのだが、本当に興味が無かったら話題にも出さないはずだ。

 ホロなりにこの湯屋、この村のことは気にかけている。そうでなければ毎晩、雪深い山を見回ってくれなどしないだろうし、大量の繕い物も黙々とこなしてくれないだろう。

「うーむ」

 ロレンスが頭を悩ましていると、ざぱっと中島に体を上げたホロが、髪の毛をぎゅっと手で絞り、尻尾をぶんぶんと振った。

「ぬしも入らぬかや!」

 ミューリよりよっぽどか無邪気な笑顔で声をかけてくる。

 ロレンスはまだ残された仕事があるので手を振ったが、途端につまらなそうな顔をしたホロに負け、服を脱いだのだった。



「こんな怠惰な楽しみを知ったら、そりゃあ春に新しくなにかをしようなんて言っても、皆乗り気にはならないよなあ」

 冷えた酒を手に、よく晴れた青空を見上げて、ロレンスは呟いた。結局ハンナを呼んで酒と食事を持ってこさせ、だらだらとしてしまう。この時期はきっとどこの湯屋も似たような感じだろう、と思うと、なおさら怠惰になってしまう。

「わっちゃあ、行商の途中に草原で寝転ぶのも好きじゃったが」

「だらだらした後は荷台で高いびきで、御者台で手綱を握る者が別にいたらそうだろうさ」

「わっちゃあいびきなどかかぬ!」

 荷台でごろごろしていたことは否定しないので、ホロもだいぶ丸くなった。

「ふ~……。しかし、こんなにのどかでいい湯なんだ。ここが地上の楽園でなくて、どこが楽園なんだ? むしろ誰も彼もが、迷わずここにやって来るべきだろう」

「まあ、確かに昔からここは賑やかじゃ」

 ホロはロレンスが生まれる何百年も前、このニョッヒラの湯につかっていたらしい。

「そうか……地上の楽園として正式に教会に売り出してもらう手もあるよな」

「はあ?」

 またたわけが突拍子もないことを言いだしたぞ、とホロは訝しげにしているが、ロレンスは意外にいけるのではないか、と思った。

「ほら、聖地巡礼ってやつがあるだろう? 誰もが知る聖人が祀られている場所もあれば、眼病に霊験あらたかな聖人が祀られている場所とか、効能別に人気なところもある」

 滔々と語りだしたロレンスをよそに、ホロは感心なさそうに酒を注いでいた。多分、自分が儲け話を意気揚々と口にした後は、大抵騒動に巻き込まれたという十年前の経験からなのだろう。

 しかし、思いついたことは黙っていられなかった。

「湯が健康にいいなんてのはわかりきっていることなんだから、ここに来る聖職者たちに協力してもらって、ここを聖地にすればいいんだ。そうそう。教会の教えにもあるだろ。地上に対して地獄があって、その合間には煉獄という中間地点があり、そこで罪を償えば、地獄行きのはずだった者も天国に行けるという。それと同じで、天国と地上の間に、天国でも地上でもない楽園があることにして、それこそまさにこのニョッヒラであると――」

 と語るロレンスの口を、ホロが干し肉でふさいだ。

「むが?」

「煉獄とやらで罪を告白したら天国に行けるのなら、その楽園とやらで飲んで騒いだら地獄行きになるのではないかや?」

 湯と酒で火照ったホロの顔は、赤みがかった琥珀色の瞳と相まってなんとも悪魔的だ。

「う、む……」

「それに、現状ですら客共は人が多すぎると不満たらたらじゃろうが。これ以上客が増えるようなことに、わざわざ連中が協力してくれるとは思わぬがの」

「……むう」

 確かにそのとおりだ。

「あと、あんぽんたんのぬしは忘れておるようじゃが、できれば暇な時期に人が呼べるようなもののほうがいいんじゃろう?」

「そう、だな。うん」

 湯につかって酒を飲むと、すぐに酔いが回る。

 ロレンスは湯の外に手を伸ばし、雪を掴んで自分の額に押し当てた。

「うーん……地上と天国の狭間、というのはいい考えだと思ったんだが……」

「わっちのような天使もおるしのう?」

 喉を鳴らすように笑いながら、ホロが身を寄せてくる。珠のような肌と、しなやかな体は確かに天使そのものだ。

 ただ、干し肉を咥える隙間からは牙も見えているので、迂闊に手を出してはならない存在だともわかる。手をのばした本人が言うのだから間違いない、とロレンスは自嘲気味に思う。

「天国と地上の狭間……お祭り……うーん……」

 唸るロレンスをよそに、ホロも茹ってきたのかロレンスの額に乗る雪に齧りついたりしていた。それが不意に、顔を上げるとそそくさと湯から上がってしまう。

「どうした?」

 その問いには、ばさっとローブを頭から羽織って、母屋のほうを顎でしゃくった。

「旦那さま、お客さんが」

 ハンナが人を連れて、呼びに来たのだ。ホロが半分狼であることはもちろん村の連中には内緒なので、ホロもそのあたりには気を使っている。

「ああ、わかった」

 ロレンスも湯から上がったのだが、母屋に繋がる渡り廊下の入り口に立っていた人物を見て、おやと思ったのだった。



 温めた葡萄酒を出すわけにもいかず、ハンナに頼んで山羊の乳を沸かしてもらい、蜂蜜を垂らした物を出した。ただ、思いつめたような顔の来客は、椅子に座ったまま自分の手元を見つめて動かない。

 暖炉で乾かし膨らんだ尻尾を、ローブの下でもさもさ言わせているホロがやってきて、ロレンスの腰を指でつつく。何用だ? という顔だが、ロレンスにもよくわからない。客もおらず静かな母屋の食堂に、ハンナがロレンスたちの夕食の下ごしらえをする音だけが響く。ホロは興味深げに客を見た後、繕い物の仕事をするために少し離れた場所に腰を下ろしていた。

 このままでは埒が明かないので、ロレンスのほうから、口を開く。

「今日は、お父上からなにか言いつけられてこちらに?」

 来客の見た目はまだまだ子供ながら、このあたりではすでに立派な労働力の一員なので、それなりに敬意を払って言葉を向ける。しかし、相手はますます頭を落としながら、重々しく首を横に振る。突然の来客は、近所の湯屋の子供で、ミューリと同い年の次男坊だった。

 数少ない同い年ということもあって、ミューリとはよく遊んでいたのでその子のこともよく知っていた。名をカームといい、ミューリと一緒に悪さばかりしていたカームを何度怒鳴りつけたかわからない。

 二人は年頃になると家の手伝いやらであまり遊ばなくなりつつ、今でも村の中で見かければ雪玉や蛙を投げ合ったりする仲ではある。

「冷めないうちにどうぞ」

 と、飲み物を改めて勧めると、カームは器を手に取る。

 そして、その器を手掛かりにするように、ぐっと顔を上げた。

「ロ、ロレンスさんにお願いがあって参りました!」

 声の大きさというよりも、その真剣さに驚いた。

 ミューリと一緒になって悪さをして叱られる時には、むくれてそっぽを向くような性格だったのに、まっすぐにこちらを見つめるその顔はいっぱしの青年のものになっていた。

「自分で応えられることなら、喜んで」

 子供相手と侮らず、ロレンスも背筋を伸ばして対応した。

「その! あ、あの……!」

 ただ、勢いはそこまでで、カームは口を開けるものの言葉が出てこない。顔は真っ赤で、ともすれば急に息ができなくなって苦しんでいるようにも見えた。

 ついにカームが目を閉じ、苦しげに歯を食いしばる。ロレンスが思わずその肩に手を伸ばそうとしたその瞬間、ついに言葉が吐きだされた。

「ミ、ミューリさんと結婚させてください!」

 全身全霊の一言が、突風となって食堂いっぱいに響き渡る。

 呆気にとられたロレンスは、しばらく言葉の意味が分からなかった。

 ミューリと? 結婚だと?

「い、いや、そう言われても、えーと……」

 ロレンスは頭の中で思考がうまく組み立てられず、しどろもどろになってしまう。

 その間も、カームはじっとロレンスを見つめている。

 決死の覚悟で、見つめていた。

「……ミューリに、求婚する、ということか」

 ロレンスはようやく、少年の覚悟に真正面から立ち会えた。

「は、はい」

 カームが冗談で言っているわけではない、ということもわかり、たちまち頭が湯屋の主人に切り替わる。

「そのことを、お父上は?」

 ロレンスの問いに、カームは困ったような顔をしてから、首を横に振る。

 狭い村ではどこの家とどこの家が親戚関係になるかは重要なことになる。例えば人気のある湯屋と湯屋が血縁関係になったら、そこで強力な派閥が生まれてしまう。なので、決して村内で結婚してはならないという掟もないが、できれば婚姻関係は村の外、特にスヴェルネルあたりの者と結ぶように、という空気がある。

 後は単純に、家の数が少ないので血が濃くなるのを避けるためだ。

「ふむ」

 どうしたものか、とロレンスがため息をつくと、カームがぐっと身を前に乗り出した。

「あ、あの、ひ、一つお聞き、したいのですが」

「ん?」

「ミ、ミューリが……い、いえ、ミューリ、さんが、その、駆け落ち、したというのは……」

「ああ」

 ロレンスが嘆息交じりに呟くと、視界の端でホロが笑っているような気がした。

 ただ、それでようやく、どうしてカームが突然、親にも相談せず決死の覚悟でやってきたのかがわかった。

「駆け落ち……なのかは私にも……いや、多分、何割かは、そんな感じなのだろう……」

 この期に及んでなおロレンスは言葉を濁してしまうが、理性ではどうにもできないことだ。

「ただ、はっきり決まったわけではないよ」

 そこだけ明確に言えたのは、希望的観測、というわけではない。

 勇気を振り絞ってやって来たカームに対する、ある種の敬意だった。

「ミューリはあのとおり、突拍子もないことを平気でやったりするからね。それに、ひどく飽きっぽい」

 幼馴染のカームには心当たりがあるのか、しきりに頷いている。

「だから、大喧嘩でもして戻ってくる可能性が、ないわけではないだろう」

 しかもコルは聖職者を目指し、禁欲の誓いを立てている。この村にやって来るどんな美人の踊り子に言い寄られても決してなびかなかった。

「その時には、改めて君からミューリに申し込んだらいい。私からはそのことを制限するつもりは全くない」

 カームは黒雲の向こうに一筋の光を見たとばかりに顔を輝かせたが、その顔も途中で力ないものに変わってしまう。

「けど……相手は……コルさん、なんですよね?」

 狭い村なので、全員が互いのことを知っている。

 ロレンスが頷くと、かつての悪戯小僧の顔に落胆の色が混じる。ロレンス自身、もしもカームと同じ年の時にコルが恋敵になったとしたら、絶望しかないだろう。コルは昔から良い少年だったが、成長したらそれに輪をかけて素晴らしくなった。

「はあ……」

 勢い込んできたはいいものの、立ちはだかる現実に意気消沈してしまったらしい。自分も行商人見習いの頃、似たような経験があったことを思い出して、少し笑ってしまっていた。

 それに、目の前にいるのは愛娘ミューリを狙う憎き輩とはいえ、単身乗り込んできた勇敢な男なのだ。

「しかし、どうして、急に?」

「え?」

 聞き返すカームに、ロレンスはホロをわざとらしく気にしながら、顔を近づけた。

「君は、どちらかというと踊り子のほうが好きなのかと」

 男同士の内緒話をするように声を潜めると、カームの頬がさっと赤くなる。湯治場という場所柄、歌と踊りは欠かせないし、見目麗しい女性には事欠かない。しかも、芸で生き抜く特権状を持つ彼女たちは、たとえ宮廷で無礼を働いたって無罪放免だ。目にまぶしい初夏の緑のように、なにものも恐れない美しさがそこにはある。

「それは……その」

 カームは口ごもり、ただ、そのまま黙らなかった。

「でも、あの人たちと……ミューリは違うって、気がついたんです」

 ロレンスはそう言われ、愛娘のことを思いだす。ミューリはホロそっくりの見た目だが、中身は全然違う。ホロから落ち着きと老獪さを取っ払い、さらにちょっと厭世的なところをすべて太陽の光で置き換えたような、無限の元気で満ち溢れている。

 小さい頃には兎を捕まえるために闇雲にとびかかり、沢から真っ逆さまに落ちて頭から血だらけになったことがある。しかも、その翌日から鹿を追いかけて山で遊んでいた。

 確かに、髪を結い、香を焚き込め、腰のくびれを気にかけ、自信と落ち着きたっぷりに微笑む踊り子たちとは根本から違う。どちらかというと、そちらはホロのほうが近いだろう。

「まあ……貴族の屋敷にいる猫と……山の狼くらい、違うだろうな……」

 自分の娘が世界一可愛いと思っていても、目をつぶりきれないところはどうしてもある。

 ロレンスが苦々しく言うと、カームはちょっと笑いかけて、あわてて首を横に振った。

「あ、あの、いえ、そういうことではなくて……」

「ん?」

 カームは、自分の手元に視線を落とす。

「踊り子の人たちは、その、確かに好きではあったんですけど……この季節に山を下りても、また会えるやって、思ってたんです」

「ほう」

「でも、ミューリが村を出たって聞いて、そうしたら……そうしたら!」

 そこには、今にも泣きだしそうな、苦しみに満ちた顔があった。

「いてもたってもいられなくなった、と?」

「……」

 声を出すこともできず、カームは唇を震わせながらうなずく。

 ミューリと同い年で、遊ぶ相手として常に一緒で、ほとんど家族同然に過ごしていた。近すぎて見えなかった、ということもあるだろう。だが、ロレンスにはよくわかる。行商の旅を続け、一月と同じ場所にいなかった経験から、余計に村や町の人々の気持ちがくっきりと見えることがある。

 村や町には、大きな変化など滅多にない。昨日あったものは今日もあり、どれだけうんざりしたってきっと来年も、再来年もある。だとしたら、年頃になった腐れ縁の幼馴染が少し気になったって、声なんてかけやしないだろう。もしもそれでうまくいかなかったら、きっと爺になって墓に入るまで言われ続けるのだから。

 だから、少年が一人でここに来たのは、敬意を表すべき勇気の現れだった。しかも一応の恋敵になるかもしれない相手は、あのコルなのだ。

 ロレンスは一人の男として、カームを見つめていた。

「それに、そういうことは、俺、わかってたはずなのに……」

 膝の上で拳を握りしめたカームの目から、ぽたりと涙が落ちる。

「兄ちゃんが、病で死んじゃった時、わかったはずなのに……」

 流行り病であっけなく他界してしまった、カームの兄のことだとすぐにわかった。ロレンスは一瞬ためらい、それから、ゆっくりとカームの肩に手を置いた。

「言いたいことは……ぐす、早く言っとかないと……次はもう、ないかもしれないって、わかってたのに……」

 カームの肩を叩き、そのまま背中をさすって、抱きしめてやる。すると、ミューリとは違う、男の子らしい骨格の固さと汗臭さに、息子がいたらこんな感じなんだろうな、と少し感慨深かった。

 気を利かして手ぬぐいを持ってきてくれたホロから受け取って、ロレンスはもう一度、少年の背中を叩く。

「でも、まだミューリはいる」

「うぐ……ぐすっ」

「こちらとしては、愛娘を狙う輩は全員殴り飛ばしたいところだがね」

 わざとらしく言ってやっても、カームはロレンスを見て少し怯んでいた。ホロからすればどれだけ可愛い雄だろうと、なんといっても湯屋の立派な主人なのだ。

「なんなら今すぐ追いかけてみるのも悪くない、とけしかけるのは無責任だが」

 たちまち立ち上がろうとするカームを押さえて、ロレンスは手ぬぐいを渡す。

「ミューリはあれで煮え切らないところもあるから、コルとあちこちを漫遊してから、ひょっこり何事もなく帰ってくる可能性は高いと思っている」

 聞き耳を立てているはずのホロの顔を想像すると苦笑いだったが、この予想は意外に当たっているのではないか、とも思う。なにより、コルが自分になんの挨拶もなくミューリに手を出すとは、どうしても考えられない。

「その時に、君は立派に成長していればいい。それで改めて……改めて……」

 ミューリを貰いに来ればいい、とはどうしても言えないところに、カームは手ぬぐいを握りしめながら言った。

「ミューリを貰いに来ます!」

 一発二発殴ったって、簡単に揺らがない決意が見て取れた。

 ロレンスはふすっと肩から力が抜け、笑いながら頷いた。

「待ってるよ。それまでに、私も拳の素振りをしておこう」

 にやりと笑みを向けると、カームは顔をひきつらせながらも、目は逸らさなかった。

「じゃあ、涙を拭いて、この飲み物を飲んで」

「は、はい!」

 言われたとおりにするカームを、ロレンスはテーブルに頬杖を突きながら眺めている。

 こんないい子なら、息子も悪くない、と思った。

「顔が洗いたかったら、湯に入っていってもいい。弟連中は目ざといだろ?」

「あ、あー……お、お願いします」

 いつもは偉そうに威張り散らす兄が泣いて帰って来たなんてことになれば、弱った鹿に狼の群れが襲い掛かるようなものだ。カームは立ち上がり、一礼するとふらふらと湯船のほうに歩いて行った。

 ロレンスがその後ろ姿を微笑ましく見送っていると、入れ替わりにホロがやって来て、なにも聞かずにどすんとロレンスの膝の上に座った。

「な、なんだよ」

「んー? くふふ」

 楽しそうに笑うホロは、ローブに収まりきらないくらい尻尾を膨らませている。

「たわけの雄が、偉そうにって?」

 機先を制して言うと、ホロはロレンスの手を握ってくる。

「たまにびしっとするから、ぬしは侮れぬ」

「一応褒めてもらっている、と思っておくよ」

「たわけ」

 そう言って、ローブ越しに耳を擦りつけるように甘えてくる。今しがたのやり取りが、よっぽどホロの琴線に触れたらしい。

 ロレンスはそんなホロを少しきついくらいに抱きしめながら、ぼんやりと思った。

「次はもう、ないかもしれないのに、か」

 カームの兄があまりにも呆気なく亡くなったことは、まだ記憶に新しかった。それでなくても、行商の旅で一期一会の生活の繰り返しだったロレンスには、その言葉が重く響く。

「あの歳で気がつけるとは、あやつは善き雄になるの」

「俺もわかっているつもりだったんだが?」

 ホロと別れたら二度目はない、と思って、ホロに手を伸ばし続けてきた。

 しかし、ホロは少し体を離しつつ、ロレンスのことを見つめてくる。そのやや非難がましい目つきに、ロレンスは鼻白む。

「なんだよ、そうだろう?」

「ぬしがたわけなのは、すぐ自分のいいように昔のことを書き換えるところじゃ」

「な、なにがだ」

「ぬしがわっちのことを大大大っ好きじゃとはっきり言うのに、どれだけかかったんじゃ? んん?」

「……」

 ホロの甘噛みは、いつも少し痛い。その痛さに負けて、間違ってもお前だって、なんて言おうものなら、歯形をくっきりつけられる。ただ、ホロはいつもこちらのことを見ているし、尻尾は遊んで欲しくて仕方がない犬のように、わっさわっさと音を立てている。

 今更面と向かって言うのが恥ずかしい一言を無理やり言わされるくらい、甘んじるべきなのだろう。

 愛され過ぎるのも辛いものだな、と詩人のようにロレンスは胸中で呟き、ホロのお望みの一言を口にしようとした、まさにその瞬間だった。

「言いたいことを、言えない?」

 思わずぽつりとつぶやいていた。

「ん、あ? な、なんじゃ?」

 ホロの顔が、蜂蜜に漬けた干し葡萄を口に入れてもらえると思ったら、胡椒粒を入れられたみたいになっている。ロレンスはそんなホロなどお構いなしに、頭の中でつながろうとしているなにかを必死に手繰り寄せる。最近、なにかこれと似たような話をしていた。

 言いたいことを言えないが、ついにそれを口にする、そんな状況。

 告解だ!

 死に瀕し、もうこの際だから洗いざらい言ってしまえと、天国に行くためにすべてをぶちまけてしまうことだ。しかし、目の前のホロとのことのように、伝えたくても伝えられないことは、なにも悪いことばかりではない。

 だとしたら?

「だとしたら……」

「ぬしよ? ぬーしーよー?」

 ぺちぺちと頬を叩いてくるホロの手を掴むや、ロレンスは膝の上のホロを姫のように抱きかかえて立ち上がった。すべてがつながったのだ。春に人を呼ぶ新しい催しが、頭の中で花開いていた。

「そう! 天国までの踊り場を作ればよかったんだ!」

 高らかに叫ぶロレンスの腕の中で、ホロはきょとんとしていたのだった。



 ◇◇



 葬儀とは、別れのための儀式のこと。

 棺の蓋を閉め、祈りを捧げて土に埋めてしまえば、もう二度とまみえることはない。

 家から棺が運ばれる時、立ち会う人々は今生の別れとばかりに声をかけてくる。今更偽ることも、隠すことも、照れることだってないのだから。

 別れには、うまく表に出せないものを押し出してくれる、力強いなにかがある。

「ホロ」

 ロレンスはその名を呼び、けれど、どうしても口元が苦笑いに歪んでしまう。

 これだけお膳立てされ、しかも皆が気を利かして納屋の外に出ていってくれても、なお、なかなか難しい。

「うー……そろそろ天使も痺れを切らしておるんじゃがなあ」

 棺の中から、死者の呻きが聞こえてくる。

 ロレンスは咳払いをして、棺の中でくすぐったそうに笑っているホロの顔を覗き込み、言った。

「お前と出会えてから、俺はずっと幸福だったよ」

「……だった?」

 ちらりと片目が開いて、聞き咎める。

「一応、これは葬式だろ?」

「ふむ」

「そしてこの葬式では、死者は奇跡の湯の効能で、生き返る」

 わざわざ用意してある銀の杯から、指の先にちょっと湯をつけて、ホロの額に塗る。

「生き返ってみた感想は?」

 両目を開けたホロは、ロレンスを見上げながら、くしゃりと笑ってみせた。

「まだぬしと過ごす時間があって、嬉しい」

「っ」

 そうくるとは思っていなかったので、ロレンスは言葉に詰まる。ホロの、してやったりという牙が見える。適わないと思いつつ、それでこそホロだとも思う。

「光栄ですよ」

 ロレンスは言って、ホロに手を貸して起こした。

「で、催しとしてはどう思う?」

「むう?」

「死んでから良いことを言われてもわからないし、死んだら言いたかったことも伝わらない。だから、いっそ生きているうちに死んだことにして、言いたかったことを言おう、という天国一歩手前の儀式なのだが」

「うむ。うむ……。あのな、ぬしよ」

 ホロはロレンスを見て、真剣な顔で言った。

「悪くありんせん」

「はは、そうか。なら、特に大規模な準備もいらないし、大騒ぎをするわけでもないし、やってみる価値はありそうだな」

 ロレンスが思いついたこの案を湯屋の主人たちに告げると、最初は全員がぎょっとしたが、目的を告げたらたちまちそわそわとし始めた。皆、大事な人に言いたくても今更恥ずかしくて言えない一言や二言くらいあるし、本当はさっさと言っておいたほうが良い、とも頭ではわかっているらしかった。そのことを告げるための言い訳さえあれば、とは常々思っていたわけだ。

 そして、世界中の意地っ張りな男たちがそう思っているはずだった。

 だからこの秘境の地で、この世で最も天国に近いこの場所で、生きているうちに葬式を挙げてその言い訳としよう。それが、ロレンスの思いついたことだった。

「蝋燭代がかかるから、この点が注意だな……後は、皆そろいの衣装を着てるとより雰囲気が出るから、その予算も……うん、いけそうだ、いけそうだな」

 あれこれ考えていると、ふと、ホロがこちらをじっと見つめていることに気がついた。

 また商売に夢中になって放ったらかしてしまった、と身構えたら、ホロは小さく笑って、寝起きの少女のように、ロレンスの服の裾をそっと掴んだ。

「わっちゃあ、本当に」

「え?」

「まだ生きておって、嬉しい」

 笑顔のまま、目尻から涙が零れ落ちる。

 ロレンスは慌てて、その涙を拭う。

「まだ旅は続くんじゃろ?」

 すべては移ろう時の中。ホロはその時の流れに押し流される一葉にすぎない。いつか必ず別れが来て、この瞬間は永遠の過去になる。

 だが、それはまだ未来の話。

 ロレンスはホロの背中に腕を回し、抱きしめた。時間の流れから、少しでもその体を守るように。

「そうだ」

 そして、言った。

「旅は続く。もう少しな」

 ホロは顔を上げて、笑う。それから二人は、ちょっとだけ攻防した。けれど、結局どちらからというわけでもなく、自然と収まる形に収まった。

 それは、二人で店をやっていこうと決意した時にも似ていたかもしれない。

 神が見守る祭壇の前でそっと、口づけを交わす。

 目が合うと、今更ながらに照れてしまう。

 この世には、まだまだやり残したことがたくさんあるらしい。

 春が近い、雪解けの季節の頃のことだった。



おわり



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