※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.59掲載の後半を抜粋したものです。
腕っ節も強くないし、あらゆることを解決できるほどの金もない。
ロレンスにあるのは、商人として培ってきた知識と、少なからぬ人脈だ。
「突然のことで申し訳ありません」
「いえ、いえ、ロレンス殿にはお世話になっていますからな」
まだ湿っている髭と髪を揺らしながら山道を行くのは、大きな体の修道院長だった。幸い酒が入る前だったので、湯でくつろいでいた彼に事情を話し、同道してもらうことにした。
「それで、再度の念押しで恐縮なのですが……」
ロレンスが道すがら言葉を重ねると、院長はみなまで言うなとばかりに手で制した。
「心得ています。ここは湯煙のせいで神の目も届かぬニョッヒラです。むしろ、私こそロレンス殿には重ね重ね礼を言わねばなりません」
二人の男の見え透いたやり取りに、ホロが冷ややかな目を向けてくる。
この白い髪と髭の院長は、ハリヴェル修道院という大きな修道院の院長で、春の終わりごろに湯屋にやって来たかと思うと、ロレンスに妙な頼みごとをしてきたその人だ。
曰く、町では教会の改革の嵐が吹き荒れていて、たんまりと資産を貯め込んだ教会や修道院がやり玉に挙げられている。そのために、我が修道院の財産を、最も望む者たちに分配する手伝いをしてもらえまいか、ということだった。
もちろん、最も望む者たちに分配というのは、最も高値で買い取ってくれる先を見つけてくれ、という意味だ。
行商人としての知識と、その時に培った広い人脈と、清濁併せ飲む商人の掟を忘れていないロレンスは、しっかりとその手伝いをした。
そして、借りは返してもらわなければならない。
ホロたちが道の調査に赴いて、山中で図らずも見つけてしまったもの。
その検分を、院長に頼んだのだ。
「山で見つけなさったのは、怪しげな紋章をぶらさげたまま息絶えた旅人でしたか」
健脚の院長はすいすいと山道を歩いて行く。
その問いには、ロレンスが答えた。
「とても古い遺体のようです。狭い洞穴の中で事切れていたとか」
詳しく話さずとも、なんとなく状況が掴めたのだろう。院長は「神の御加護あれ」と呟いてから、言った。
「北の地に逃げ込む異端の人間は実際多い。それを追いかけて異端審問官も紛れ込んでいるとの話ですから、公にするのは慎重になるべきです。私も、他の仲間も、ニョッヒラが異端審問のごたごたに巻き込まれ、湯に浸かれなくなっては生きる意味がなくなってしまう」
「よろしくお願いします」
最寄りの町からは何日もかかり、近隣の集落で迷い人が出ればすぐにわかるので、洞穴で発見されたのはまず間違いなく理由があって山の中に入ってきた人物だ。
それが普通の旅人でないことは、彼が抱えていた荷物に怪しげな紋章があったという話ですぐにわかったが、正体が全くわからない。ホロたちでは判断がつかず、穴を掘って埋めてしまい、見なかったことにするというわけにもいかなかったのだろう。困った挙句、ホロが村に戻って来て、信用できる人を呼ぶことになったらしい。
途中で軽く休憩を挟み、さらにしばらく行くと、アラムと、弓を背負った狩人に出迎えられた。現場に到着すると別の樵が、茂みの横で火を焚いていた。
さほど村から離れていない場所なので、こんなところに、とロレンスは驚いた。件の洞穴はシダで覆われた岩の裂け目からしか中に入れず、言われてもなかなか気がつかないような場所だった。
「足を滑らせないように気を付けてください」
狩人の案内を受けて、ロレンスたちは岩の裂け目から洞穴の下に滑るように降りて行く。
「む、む……はは、まるで地獄めぐりだ」
院長は巨体のせいでやや危なっかしかったが、どうにかこうにか中に降りる。
外から見ると真っ暗闇な穴の中は、意外に明かりが差し込んでいて明るかった。
「これは隠れるのに最適ですな」
ちょっとした納屋程度の広さで、この季節でもひんやりしている。濡れた石の独特の匂いがすると思えば、穴の隅っこを清水がちょろちょろと流れていた。
奥も深くないので、件の人物はすぐに見つかった。
院長が聖職者らしく、首から提げていた教会の紋章を手に祈る。
「彷徨う魂に神の平穏がありますように」
遺体は虫に食われることもなく、綺麗に水分だけ失われたのだろう。炭焼き小屋の老人が、酒を飲んで居眠りをしているようにさえ見えた。洞穴の一番奥の壁にもたれかかり、両足を投げ出している様が、いかにもそれらしい。
旅暮らしをしていれば行き倒れの遺体を見ることは少なくないが、ここまで綺麗なものはなかなかお目にかかれない。水があり、天井からは植物の根が垂れているので、それらを口にしながらゆっくりと魂を搾られるように、眠るように死んでいったのだ。
その様を苦しみが長引いたと捉えるか、最後の最後まで希望を繋げられたと言うべきかはわからない。
ロレンスはなんとなくだが、後者ではないのかと、遺体の様子を見て思った。
「まるでたった今まで起きていたかのようですな」
院長の言葉は大袈裟ではない。虫や鼠に食われていないこともあるし、その格好がいかにもなのだ。腹の上に荷物を置いて左腕で抱え、右手にはなにか手紙のようなものを持っている。遠くから見れば、手紙を読んでいる途中に居眠りしてしまった老人だと思うだろう。
「これも……道具の手入れをしていたのか、自分の仕事を思い出していたのか」
言われて初めて気がついた。長い年月ゆえか、錆びというよりも黒い苔のようなものに覆われていてわかりにくかったが、遺体の脇には道具が並べられていた。どれも座ったまま手が届く範囲にあり、店を広げているようにも見える。
「槌、鑿、鑢……これは鋸でしょうか。手にあるのは、手紙ですかな? いや……」
「これは……」
院長が手にしたのは、脆い紙ではなく、条件さえ整えば千年を越えて保存される羊皮紙だった。水に濡れずに済んだので、完璧な形を保っている。
ただ、そこに書かれている物を見た瞬間、ロレンスと院長は揃って言葉に詰まってしまう。
ホロが痛いくらいに腕を掴んできて、ロレンスはそちらを見た。
強張り、少し青ざめた顔。
ホロが湯屋に現れた時の様子は、不機嫌だったのではない。緊張していたのだ。
遺体が手にしていた羊皮紙には、無数の狼の絵が描かれていた。普通のものもあれば、双頭のものもある。牙を剥くもの、なにかを咥えているもの、様々な形状の狼の絵が、びっしりと描き込まれていた。
「狼信仰?」
教会が非難する異教徒といえば、いつもヒキガエルを崇めるものだが、世の中にはたくさんの信仰があるとロレンスは知っている。大きな岩や巨木を崇めたり、泉を崇めたりもすれば、鷲や熊、魚なんかを奉るところもある。中でも狼は鷲と並んで、人気のある部類だろう。
遺体に気がついたアラムやホロが、見て見ぬふりをしようとしなかった理由がわかる。
そして、心配性のホロが、なにか大きな問題になるのではないかと恐れた理由も。
狼を信仰する異教の人間が山に潜んでいるのでは、などということになれば大騒ぎになるのは、目に見えているのだから。
「ですがこれだけではなんとも言えませんな。この荷物の中身は……」
院長は軽く祈りを捧げてから、慎重に遺体が抱える荷物に手を伸ばす。枯れ枝のような腕をどけ、麻の背嚢の口を動かすと、中からにょろりと百足が這い出してきた。
「失礼、寝ていたかな」
院長は特に慌てるふうでもなく、洞穴の住人が出て行くのを見送って、中の物を引き出した。出てきたのは、重そうな金属の棒だった。こちらは苔などに覆われておらず、往時の輝きを失っていない。ちょうど手斧の柄になりそうな大きさで、院長が手にしていると立派な燭台の土台部分にも見える。
ただ、ロレンスはそれに見覚えがあったし、院長も知らない物ではなかったようだ。
「ふうむ」
そのため息にも、困惑や戸惑いより、安堵の色があった。
「どうやら、異端騒ぎにはならなそうです」
院長は手にしていた物をロレンスに渡してくる。ずしりと重く、冷たい。
ホロも目を見開き、まじまじと見つめている、それ。
ロレンスが生涯で手にするのは、二度目だった。
「貨幣の、打刻槌、ですか?」
「紋章は狼です」
院長は遺体に手を伸ばし、首からぶら下げている飾り物の表面を指で拭う。
降り積もった砂埃の下から出てきたのは、狼の図柄だ。
「服のあちこちにもありんす」
ホロの呟きで、ようやく気がついた。
遺体の身に纏う衣服、抱えている背嚢に至るまで、染みかと思っていたものは、年月によって消えかかっている狼の絵だった。
「ほかにも……ああ、やはりあった。こちらは印璽です」
掌にころんと乗る程度の金属塊で、指でつまむ部分が狼をかたどっている。
「それからこれは、積み荷に焼き印を押すための物でしょう。双頭の狼とは、随分奮発したものだ」
大人の掌程度の大きさの、四角い金属片には、一つの体に二つの頭を持つ狼の文様が彫られている。見慣れないと不気味だし、ホロは忌避するような目つきをしている。
ただ、そこにはきちんと意味があるのだ。
「かつて戦で滅びた国……でしょうか」
「さもなくば、戦乱吹き荒れた時代、新たな領地で家を興そうとしていて、夢半ばで朽ちたかのいずれかです。たった一人しかいないところを見るに、家臣が領主の最後の望みを繋ごうと、一人北に向かって戦乱を逃れた……というあたりでしょうか。おそらくは私の祖父の時代のものでしょう。今の時代に、双頭の獣の紋章は大仰過ぎます」
まだ不安があるのか、ホロが物問いたげな目を向けてくるので、ロレンスは言ってやった。
「これは古代の大帝国に倣った紋様なんだよ」
院長はさらに背嚢から聖典を見つけ出し、遺体の信仰心に真摯に祈りを捧げている。
「狼は特に力と豊穣の証で、よく用いられる。いつだったか、狼の貨幣を首飾りにしてやったことがあるだろう?」
その手の貨幣には狼除けの意味も込められ、旅人たちに好まれる。
「首が二つあって右と左を向いているのは、広大な領地の東の果てと西の果てに睨みを効かせるという意味なんだ。領地が細分化して久しく、世界を我が物に、なんて夢を見られなくなった最近では、由緒ある国でしか用いられない図柄だ」
神妙にうなずくホロをよそに、ロレンスはその図柄をまじまじと眺めて気がついた。
よく見ると紋様が綺麗な左右対称にはなっておらず、左右の顔で彫られている深さにずれがあった。
「これ……先に描かれていた図柄を潰して、新しく彫ってあるのか。ということは……」
羊皮紙にびっしり書き込まれた図案は、語る相手もすることもないこの洞穴の中で、この名もなき職人が見た夢の跡なのだろう。
ロレンスがそのことをホロに言うと、ホロは悲しげに目を細め、事切れた職人を見つめていた。ロレンスの腕を掴む手に力が籠もっていたのは、狼びいきの者を失った悲しみだろうか。
そうこうしていると、祈りを終えた院長がゆっくりと立ち上がった。
「この土地で力尽き、我々が見つけたのも神の御導きでしょう。念のため、この紋章がどこの物か調べてから、丁重に葬るのがよろしいかと」
「はい」
酒と肉に目がなく、自分たちの修道院が財産を貯め込みすぎだと非難されそうになるや、いち早く非難の矛先をかわすためにロレンスに頼みごとをするような院長だ。
しかし、続けられた彼の言葉に、嘘があるようには思えなかった。
「それにしても、ここは寒い。この者もニョッヒラの墓地に葬られれば、凍えた魂も温まりましょう」
洞穴から這い出し、どんな按配かと不安そうだったアラムたちにあらましを説明し、その日は引き上げることにしたのだった。
結局、洞穴で事切れていたのは軽く五十年は昔に滅びた小国の者だと判明した。
ハリヴェル修道院長の伝手で別の湯屋の客にも聞いてもらい、遠い南の地から一ヶ月近くかけてニョッヒラにやって来る老領主が、紋章を知っていたのだ。
ひどく懐かしそうな顔をして、今からは想像もできないほど戦乱の吹き荒れていた時代のことを話してくれた。
戦乱の時代が静まってしばらくしても、あちこちの村の納屋や畑から、この手の戦の忘れ形見が見つかったと言う。中には一縷の望みがかなって再興した家もあるというが、大部分はそのまま時の流れに呑み込まれた。
焼印をよく洗って磨き、太陽の光にかざしてみれば、ロレンスの予想どおり元々の図柄が消しきれずに残っているのがはっきりわかった。
かつては多くの者たちが、大帝国を統べんと壮大な夢を見ていたのだ。
なんにせよ旅人の素性に問題なしとなったので、湯屋の主人たちに事情を説明し、遺体を村の墓地に埋葬しよう、となったのだが、そこからが大変だった。
「いやいやなにを仰られるのか。当修道院は旅人が逃げ延びてきたシュテン地方にて二百七十年の歴史を誇っておりまして――」
「歴史ならば我が教会は聖人アイモデスを祖としており、実に六百二十年を――」
「ちょっとお待ちくだされ。旅人が手にしていた聖典はピアスン博士の注解が記された物であり、リドル学派の流れを汲むのは明らか! ならば我々ミレー修道院こそが旅人の魂に慰めを与えるのに最適かと――」「なんという詭弁か!」「なにを!」「なんだと!」
寄合で使われる倉庫兼会議所は、旅人の埋葬に際して誰が司祭役を務めるかについての争いで、大混乱に陥っていた。なにせニョッヒラの村には世界中から高位の聖職者が集まっている。船長が百人いるのに船が一艘しかなければ、喧嘩になるのは避けられない。白い髭、黒い髭、怒りの脂で光る禿頭に、振り回される枯れ枝のような腕や、突き出た腹がひっくり返す机の上のあれこれは、牛と山羊と羊をいっぺんに詰め込んだような有様になっていた。
鉄兜までかぶった完全防備の騎士たちが、主人同士の怒鳴り合いにうんざりしながら、いよいよ互いの胸ぐらを掴みあうにいたり、引き離したりしている。
その様子を、緋色の敷物を敷いた椅子に座り、鷹のような目で眺めているお歴々は、聖職者を後援する領主たちだ。彼らは自分の領地の教会や修道院に少なからぬ寄付をしているのだから、自分たちの支援する聖職者たちの権威がそのまま、自分の権威の高さを示すと思っている。しかも洞穴の中で事切れていたのは、戦乱吹き荒れる時代、信仰と忠誠を胸に生き、夢に死んだ、いわば戦の英雄だ。
誰がその者の魂に慰めを与えるかは、高位の人間が多く集まるこのニョッヒラにおいて、妥協ができる問題ではなかったのだ。
ロレンスはその模様を、会議所の隅で眺めていたが、ついため息を漏らしてしまう。
誰かに聞き咎められないかと慌てて口をつぐむと、隣からくつくつと忍んだ笑いが聞こえてきた。
「実際に下らんよ」
そう言ったのは、あの旅人の正体を教えてくれた、老領主だった。ロレンスの湯屋の客ではないが、狼と香辛料亭自慢の洞窟湯を何度か貸したことがあるために、顔見知りなのだ。
「戦の時代に生きた者だ。戦の時代の倣いに従えばよいと思うのだがな」
「戦の時代の、ですか?」
ロレンスは傭兵にも知り合いがいるが、どちらかというと戦は商売の邪魔になるため、避けてきた身だ。あまり詳しくない。
「うむ。聖職者など望めない戦場の倣いならば、さっさと亡骸を埋めて、酒でも撒くか、下戸なら好きな食い物でも埋めておけばいいんだ。長ったらしい祈りやら、誰が埋葬するかなど関係ない」
実用こそが一番の戦場の掟は、実にわかりやすい。
禿頭で痩せた老領主だが、彼が剣を片手に埋められた戦友に酒を振りかける様を想像すると、確かにしっくりとくる。
「だが、戦は終わり、文字を操る連中がのさばっている。平和の証かもしれんが……」
老領主はもう一度ため息をつき、お付きの人間に目配せすると、手を借りて立ち上がる。
「ところで、そなたのところの洞窟湯は空いているかね」
「え? ええ、今は皆さんこの騒ぎにかかりきりですから」
「それはよかった。後で入らせてくれ」
「畏まりました。お待ちしております」
ロレンスは恭しく頭を下げ、老領主を見送った。
そして、自分もここにいても時間の無駄だと思い、外に出た。
到底全員は会議所に入れないので、開け放たれた扉から中を覗こうと人垣ができていて、その外側には中の様子を面白おかしく脚色して伝える講談師と、彼の話を聞いて楽しむ客がわんさといる。
やれやれと思っていれば、服の裾を引っ張られて振り向いた。
目深までフードをかぶったホロが、つまらなそうな顔をしていた。
「ああ、ちょうどいい。湯屋に戻ろうと思うんだが」
ロレンスの言葉に、ホロはこくりとうなずいて、さっさと歩き出す。遊んでる最中に教会に連れて来られた子供みたいだったが、様子を見たいと言ってついてきたのはホロのほうだ。
しかし、いつもなら隣を歩くホロが、ロレンスの数歩先を歩いている。こういう時は基本的に不機嫌で、定石どおりならば、ロレンスに放っておかれてご機嫌斜めというところ。
とはいえ外で待っていると言ったのもホロなので、理由は明らかに別にある。
「気にするなよ」
ロレンスがそう声をかけたのは、会議所の喧騒も遠くになり、道沿いの湯屋の湯船から楽器の気楽な音色が小さく聞こえてくるような坂道を歩いている時だった。
「なにがじゃ?」
振り向きもせずにそう答えるホロに、ロレンスは苦笑する。
「あの騒ぎはお前のせいじゃないよ」
旅人の遺体を見つけた時の状況を詳しく聞けば、ホロとアラムが共に狼の鼻で、遺体の匂いを嗅ぎつけたらしい。そのまま無視することもできたが、もし迷い人だったら……ということで確認しに行ったら、狼にまつわるあれこれを持っていたせいで、見て見ぬ振りをできなくなった。
そして、異端騒ぎにならなかった代わりに、客同士で大揉めすることになった。
根が真面目なアラムはもちろん恐縮していたし、ホロも責任を感じているのか、ここ数日元気がなく、どことなく落ち着きがなかった。
「……髭どもの争いなどわっちゃあどうでもよい」
しかし、ホロは頑なにそんなことを言う。ならばなぜ罵りあいを見にいこうなどと言い出したのか、とロレンスは聞きたくなるが、聞けば怒りだしそうな雰囲気がある。賢狼を自称し、森の覇者である狼らしく誇り高くあろうということなのかもしれないが、そのくせ寂しがりで傷つきやすいので、放っておくこともできない。
気難しい、と言えるのかもしれないが、そういうホロが自分にだけは心を開いてくれている、と思うとロレンスは素直に嬉しくなる。
あるいは、面倒な客からの注文ほど燃えてしまう、商人の難儀な性格なのかもしれないが。
「それに、ぬしのほうこそ平気なのかや」
ホロが肩越しにちらりと振り向いてくる。
「俺が?」
きょとんと聞き返すと、ホロはむうっと顔をしかめる。
「ぬしの考えておったあれ、この様子ではどう考えても無理じゃろうが」
ようやく合点がいった。ホロが口にしているのは、ロレンスの考えた偽の葬式の話だ。
「確かにな……。村の行事で偽の葬式なんてやるってなったら、うちが司祭役をって争いになるのは間違いないだろう。あの様子を見るに、まあ、開催は無理だな」
お試しでやった時は客も少なかったので問題にならなかったが、村を挙げての行事になったとすれば、棺の前で触れ歩く司祭役は、まさしくニョッヒラの顔になる。
我こそはと名乗りを上げる老人が殺到するのは目に見えている。
しかし、だとすればホロが一番気にしていたのはこのことだろうか? 自分が発案し、村に貢献でき、その仲間に認められるのを楽しみにしていたのは、ほかならぬロレンスであり、ホロは事故みたいなものとはいえ、自分のせいでそれを台無しにしてしまった……。
いかにもホロが嵌りそうな思考の罠だったが、ロレンスはもちろんそんなことは考えない。
「けどそれに関しては、今回のことが朗報でもある」
ホロが、下手な慰めはよせ、とばかりに嫌そうな顔をする。
「本当のことだ。なにせ、俺はまさか聖職者連中があんなに見栄っ張りの石頭だとは露ほども思ってなかったからな。今回の件を経験せずに、無邪気に偽の葬式の件を告知してたと想像してみろ。もっと目が当てられなくなっていた」
ホロは相変わらず数歩先にいるが、「それで?」と聞いてくる。
「だって、それは単に計画が中止になるだけじゃない。俺の提案によって、客同士が収拾のつかない大喧嘩を始めたとなったら、その責任は誰にくる? 俺だろ。そうなったら村の一員になるどころではない。針の筵だよ。助かった。本当に」
偽りなく笑顔を向けると、ホロは少しだけ歩を緩めて、ロレンスに近づいた。
「それに、偽の葬式には貨幣を集める目的もあったが、てんで的外れだとわかったからな」
ロレンスは、ほとんど独り言に近い感じでそう言った。それはホロを慰めると言うより、愚痴に近い。
「葬式には寄付や献灯がつきものだから、体よく客たちから小銭を巻き上げられると思ったが、葬儀の先頭に立つ司祭が総取りするのが相場なんだ。村の人間が司祭役を務められなければ、司祭役を務めた客の聖職者の誰かに金が集まることになる。当然、他の聖職者連中は黙っちゃいない。会議の場所であれほど争ってるのも、それがすべてではないにせよ、大きな理由だよ」
ロレンスは偽りなく、大きなため息をついた。
「まったく、行商から遠ざかっていて、どうも金儲けの感覚が鈍ってる」
ホロは相変わらず振り向かないが、話を聞いてくれているのは雰囲気でわかる。
ロレンスはホロを慰めるためではなく、自分を慰めるために、こう言った。
「またしても俺が儲け話を思いついて、とんでもない落とし穴に嵌まるところだった。ひどい目に陥らずに済んだのは、せっせと美味い肉と酒をお供えした甲斐というものだな」
最後の言葉に、振り向いたホロは腕を一叩きしてくる。
「馬鹿にするでない。わっちゃあなにも知恵を貸しておらぬ」
「幸運をもたらしてくれるのも、女神の仕事だろ?」
ホロの手を取って、その甲に口づけをする。
ただ、ロレンスの笑顔がゆっくりと消えていったのは、それでもなおホロの顔が晴れなかったからだ。
「……なあ。今回の騒ぎがお前のせい、ということはないし、俺は誰からも、余計なことを村に持ち込んで、とか言われてない。今回のことで、真に危険な毒蛇の尻尾を踏まずに済んだのも本当だ」
行商の旅をしていれば、立ち寄った村でたまたま起きた悪いことの原因とみなされ、糾弾されることはしょっちゅうだ。身の安全のため、そういう雰囲気には殊更敏感になっている。
そして、不穏な空気の匂いはしないし、むしろ客たちがこぞって騒ぎに参加しているせいで、人のいなくなった湯屋の主人たちはむしろ喜んでいる。
忙しい時期のちょっとした休憩というわけだ。
「それは、わっちもわかっておる」
ホロの一言に、ならばなぜ、とロレンスは言いかける。
言葉を飲み込んだのは、なおも一歩先を歩くホロが、今にも泣きだしそうな顔で振り向いたからだ。
「……ホロ?」
ロレンスは驚きよりも懸念が先に立って、その名を呼んだ。
ホロはなにを気にしているのだろうか?
そのことがわからない自分に対して、ホロは失望しているのか?
そんなあれこれの疑念に胸がざわついた、その直後だ。
ホロは足を止めるのではなく、兎のように踵を返し、ロレンスに抱きついた。
「お、わっ!?」
危うく転びそうになったが、なんとか抱き止める。
ホロはロレンスの胸に顔をうずめ、背中に回された腕にはたっぷりの力が込もっている。
ロレンスはどうしたものかと戸惑い、言葉を探しあぐねていると、ホロのくぐもった声が聞こえてきた。
「ぬしは、ここにおるよな?」
「え?」
ホロは腕にさらに力を込めて、もう一度言った。
「ここにおるぬしは、本当のぬしじゃろ?」
「……」
真下から見上げてくるホロの顔は、不安の闇に呑み込まれそうなものだった。
「お前……」
ロレンスが呟くと、ホロがはっという顔をして、胸に顔を伏せる。
直後、村に出入りする顔見知りの商人が通りがかり、あからさまに見て見ぬ振りをされた。
しばらくはあらぬ噂が流れるに違いない、と予想しつつ、大事なのは目の前のホロだ。
「ほら、ちょっと向こうに行こう。ここは人が通る」
湯屋までは少し距離があるが、道の途中の雑木林に、ちょうどいい切り株がある。ホロの手を引いて連れていき、二人そろって腰を下ろす。そうして村の様子を眺めていると、行商をしている時にもたまにこんなことがあったなと思い出す。
喧嘩をした後の気まずい仲直りや、何日も降り続いて森の中に足止めされ憂鬱な雨の日や、あるいは……。
傲岸不遜のお姫様は、ぐしぐしと鼻をすすりながらロレンスの横っ腹にしがみついている。
ロレンスはそんなホロの肩に手を回してから、考える。
ここにおるぬしは、本当のぬしか、とホロは言った。
ホロの小さな背中を軽く叩き、やれやれとため息をついた。
ホロがこうなる時の三つ目の理由。
悪い夢を見た時だ。
「ようやくわかったぞ。お前、あの洞穴の中で死んでるのが、俺かもしれないって思ったな?」
ホロの体がびくりと震える。当たりだったようだ。
ホロは数百年の時を生き、数年、数十年のことなど微睡んでいる最中にすぎてしまう。ならば人の一生など泡沫の夢のようなものだろうし、ロレンスでさえも時折思うことがある。幸せすぎる毎日は夢であり、本当の自分は荷馬車の荷台で一人、居眠りしているのではないかと。
その上、あの洞穴の死体は見間違えることのない、旅人の死体だった。その手に握られているのも、狼の絵がたくさん描かれた羊皮紙だった。
変なところで考えすぎるホロならば、なにかの暗示なのではないかと思うのは十分あり得ることだった。
そうであれば、自分のことを湯屋に呼びに来た時のホロの顔も、納得できる。
「相変わらずだな」
笑いながら言うと、ホロが顔を上げ、鋭い目で睨みつけてきた。頬は涙で濡れ、唇は歪に引き結ばれたままで。
「そうなれば話は簡単だ。一番怖くなった原因は、あの打刻槌だろう?」
ホロが目を見開き、ロレンスは苦笑した。
「おい、少しは俺を信用してくれ」
朴念仁だなんだと言われても、これだけホロと一緒にいれば、その考えも大体わかる。
しかし、ホロはたちまち嫌そうな顔をして、「たわけ」と小さく言った。
「大丈夫。俺たちは太陽の描かれた打刻槌を持って北の地を駆けまわり、すんでのところでうまくやった。決して、失敗の挙句に洞穴に逃げ込み、そのまま事切れてなんかいない」
ホロの目がまた滲み、顔を伏せてしまう。
だが、そういう可能性は確かにあった。それくらいの危険な大冒険だった。
もしもデバウ商会の銀貨発行を巡る冒険で失敗していたら、自分があの旅人のようになっていた可能性は十分にある。
行くあてもなく、助けを求める先もなく、ホロと共に穴の中ですごし、ゆっくりと死んでいく。ホロはきっと死んだ自分の側にずっと残り、なぜ自分がそこにいるのか忘れてしまうくらいにいただろう。しまいには微睡に見る夢との境目がなくなっていき、寝ている最中に見た夢の世界を、現実だと思い込む。
そんな可能性が、確かにあった。
「だが、違う。俺たちはうまくやったんだ」
幸運と、ホロのおかげで。
ロレンスはホロの耳の付け根に口を当て、その匂いを嗅ぐ。
干したての藁束みたいな、懐かしい香りは、確かにそこにいるホロの匂いだ。
「会議所の騒ぎを見にいったのは、旅人の死体の名前が、クラフト・ロレンスじゃないことを確かめたかったのか」
ホロは随分躊躇った後、顔を上げないまま、うなずいた。
「……」
馬鹿だなあ、とロレンスは言いかけて、口をつぐむ。
腕の下で、ホロは小さく震えている。
生きる年月が違うというのは、きっと思っている以上に根本から違う世界を生きている。
ホロはそのことをわかっていて、何度か身を引こうとした。
その手を握って離さなかったのは自分なのだから、ホロを幸せにする責任が自分にはある。
ロレンスはそう思い直し、視線を遠くに向けた。今の自分になにができるだろう、と考えたのだ。抱きしめて、口づけをして、暖炉の前で温めた蜂蜜酒を飲むことはいつでもできる。もっと、この自分こそがホロを幸せにするのだと確信できるような、そんな、なにか。
雑木林の中から村の様子を見つめ、考える。自分が夢の中に入れて、ホロの見る悪夢を片っ端から消せればいいのに。そう思った直後、気がついた。
「ああ、それでいいのか」
ホロが腕の下でぴくりと動く。
ロレンスは、ぐしぐしとホロの頭を撫でた。
「なあ、ホロ」
ちょっと散策に行くような口調に、さしものホロも顔を上げた。
「今のこれが夢じゃないと俺には証明できないが」
そんな言葉に、眉がまた不安げに垂れていくホロの肩を抱え、膝の下に手を入れて、グイッと抱き上げ、立ち上がる。
目を丸くしたホロが、呆気に取られていた。
「夢なら夢で、良い夢にしてしまおう」
鼻を啜ったのか、それとも固唾を飲んだのか。喉を動かしたホロが、かすれた声で言った。
「……ぬしは、なにを」
「簡単なことだ」
ホロの目尻に口づけをして、言った。
「嫌な物は、埋めてしまえばいい」
夏とはいえ、夜になるとぐっと気温が下がる。木々から出る湿気のせいもあり、息を吐くと少しだけ白くけぶった。
『ぬしは……本当にたわけというか……』
狼の姿になったホロが、その姿には珍しく、気弱な様子でそんなことを言う。
ロレンスはホロの首元の毛をわしわしと撫でながら、肩に鋤を担ぎ直す。
「たまにはこのくらい荒っぽいことしてもいいだろ」
『……』
狼でも、呆れた半笑い、という表情ができるらしい。
『ふん。たわけ』
ホロの鼻先で頭を小突きまわされつつ、ロレンスはホロの尻尾が嬉しそうに揺れていることに笑っていた。
「では、留守番よろしくお願いします」
ホロが狼の姿になっていれば、村の騒ぎのために今はロレンスの湯屋に逗留しているアラムと、その妹のセリムは嫌でも気がつく。二人が何事かとこっそり湯屋の陰から様子をうかがっていたところに、そう声をかける。二人は恐縮したように姿を見せ、うなずいていた。
「じゃあ、行くか」
『うむ』
夜中にホロとロレンスが向かうのは、あの洞穴だ。
ホロが不安に苛まれているのは、狼の絵が描かれた羊皮紙を握りしめ、狼の彫られた打刻槌を持っている旅人が洞穴の中にいるからだった。
ならばその手で、さっさと穴に埋めてしまえばいい。たとえこれが夢なのだとしても、楽しい夢から覚まそうとするようななにかから目を逸らせばいいのだから。
そんな暴論も、昔のホロなら嫌がったかもしれない。確信を求めて、安易な方法は認めなかったかもしれない。だが、月日は流れ、二人の関係も変わった。
ホロは自分の言葉を信じてくれるし、馬鹿なことにも付き合ってくれる。
ロレンスは、一足先を歩いて道案内してくれるホロの尻尾を、子供のように追いかけた。夜中の森の中など普通なら生きた心地がしないが、ホロと一緒ならば恐ろしくない。
意気揚々と歩いていたら、突然目の前に尻尾が迫り、止まりきれずに毛の中に顔が埋もれた。
「わっぷ、おい、ホ――」
という言葉は、尻尾で頭ごと抑え付けられた。
『人がおる』
ホロが喉の奥で唸るように囁いた。
ロレンスは口をつぐみ、尻尾の毛の中から這い出して、目を凝らした。
木々の向こう、かなり遠くにだが、小さな灯りが見えた。
『どうやら……愚かなのはわっちらだけではないようじゃ』
「どういうことだ?」
尋ねると、ホロは口の片側だけ牙を剥く。苦笑、というわけだ。
『論争では埒が明かんと、実力行使に出ようとした連中が鉢合わせたんじゃろうな』
ロレンスは言葉もなく、呆れて笑ってしまう。
『どうするんじゃ? あそこに躍り出て、森の使者のおでましじゃ、とのたまうかや?』
ホロは頭を下げ、甘えるようにロレンスの体に目の下あたりを擦りつけている。
今ならどんな馬鹿でもしてみせよう、ということだろう。
ロレンスはそんなホロの毛だらけの顔を手で撫でながら、うーむ、と唸る。
「それはそれで面白いが……そんなことをしたら、ここにまた一つ奇跡の名所ができるだろ」
『いかんのかや?』
「あそこで騒いでる奴らが、自分の目の前で起きた奇跡だからここを取り仕切るのは自分だ、と言い出すだろ。絶対。問題が増える」
『むう……』
ホロが不満げに尻尾を揺らす。
「しかし、まさか夜中に遺体を運び出そうと考えるのが何人もいるとは……もう、ますます埋葬するまで時間がかかるな」
ホロの大きな瞳がゆっくりとまばたきをして、細められた。
『魂とやらがあるのなら、本人のそれに直接聞けばいいんじゃがのう』
「確かに、それなら話が早い」
ロレンスは笑いながら同意して、はたとその笑いが止まる。
「魂に、直接?」
『……なんじゃ、ぬしの耳はわっちのよりも良いと?』
子供ならば雨宿りができそうなほどに大きい獣の耳を、ホロは顔を傾けて悪戯っぽくロレンスにかぶせようとする。ロレンスは自分が鼠になったような気になりながら、ホロの意地悪を避けて、考えを巡らせる。
「いや……あの旅人の望みなんて、わかりきってないか?」
『ん、む?』
「だったら……えーっと……」
年のせいか、頭の巡りが悪い。もう少しで全部がつながるというところで止まってしまう。
ホロがそんなロレンスをじっと見つめ、洞穴のほうを見てから、もう一度視線を戻す。
『なんじゃ、貨幣でも打ち出すのかや』
旅人の夢はそれだ。貨幣の鋳造は領主権の象徴なのだから。
「そうだが、貨幣の問題でどうして俺たちが頭を悩ませていると思う?」
ホロは少し首を引いて、狼らしく目を細めて獲物を見るような目になる。
『……わっちゃあ賢狼ホロじゃ。みくびるでない。勝手に貨幣を打てば、縄張りの問題でややこしいことになるからじゃろう?』
「そのとおり。ついでに、地金もない」
『他の貨幣を溶かせばよい』
「へえ。詳しいじゃないか」
『……』
ホロは割りと本気で、鼻先でロレンスのことを小突いた。
「悪かった、悪かったって」
ロレンスが謝ると、ホロはふんと鼻を鳴らした。
『たわけが。それに、もう一つ問題があるじゃろうが』
「ん?」
『ぬしも昔はしょっちゅう言われたじゃろう?』
大きなホロを見上げ、ロレンスはご託宣を乞うかのように、両腕を広げて肩をすくめた。
『金はあの世まで持っていけぬ。どうやって、あの哀れな旅人に夢が叶ったと知らせるんじゃ? あの禿げが言っておったような、戦の倣いでも真似るかや。墓に打ち出した貨幣を埋めて――』
その瞬間だ。
ロレンスは暗い森の中で、はっきりと光を見た。
「それだ!」
そして、思わず叫んだ瞬間、巨大ななにかに押しつぶされた。
ホロの掌であり、そのホロは身を低めて灯りのほうを見ていた。
『この、たわけっ』
「……すまん……」
それからしばらくじっとしていたが、幸い気づかれなかったらしい。
『それで? なにを思いついたんじゃ?』
腹ばいになったホロは、呆れたような目を向けてくる。
それは多分、何度も儲け話を思いついては酷い目に遭ってきた馬鹿な相棒に付きあう、疲れ切った伴侶の目だ。
そして半笑いの口元は、今度はどんな馬鹿な話なのだ? と楽しみにしているものでもある。
ロレンスが計画を話すと、ホロは尻尾を振って、喜んだのだった。
思いついた方法は、勿論一人では絵に描いたパンなので、絵から取り出すには、それ相応の力がいる。ロレンスはあれこれの根回しを終え、準備を整えた。
そして翌朝、相変わらず喧騒渦巻く会議所に赴いた。
「ですから、先ほども言ったように――」
「それは認められないと我々は何度も――」
「そのような空論を振りかざすとは、信仰の――」
飽きもせずに論争が繰り返される中、ロレンスたちは人垣をかき分けて奥に進んでいく。
野次馬や領主やそのお付きの者たちが、奇妙な目でロレンスたちのことを見る。
ただ、その歩みを止めようとしないのは、先頭を行くのがあの老領主だからだ。
「そもそも求められるのは子羊の魂の救済であって――」
口角泡を飛ばす聖職者の言葉の最中で、老領主は長剣を振り上げ、鞘ごとどすんと長机に置いた。顔を真っ赤にしていた者たちが、沼地で喚いていた雁のように首を伸ばして黙りこくる。
「そう、求められるのは魂の救済だ」
老領主の言葉に、石を飲んだようだった聖職者の一人が、果敢に口を開こうとする。
「……ですから、その方法をと……」
「その方法を?」
古戦場の古強者に睨みつけられ、神からの使いを自認する聖職者が口をつぐむ。
この領主から見れば、白髭の者でさえ、息子か孫かという年齢なのだ。
「そんなもの、わかりきっている」
老領主が宣言すると、人でいっぱいの会議所が静まり返る。
「かの者は夢に生き、夢に死んだ。ならば夢の実現以外に、なにがある?」
そして、懐から取り出したのは貨幣の打刻槌だった。
「い、いや、それはまずいっ」
緋色の敷物を敷いた椅子に座っていた、壮年の領主が驚愕して言った。
「短気を起こされるなっ。それだけはまずいっ」
別の領主も慌てて止めに入る。聖職者同士が殴り合いになろうと気にしていなかったのに、打刻槌には顔を青くする。
それを持ち出すと、問題が輪をかけて大きくなると皆が知っているのだ。
「ふん? なにを恐れる。これで儂がなにをすると思ったのだ」
歴戦の老領主は、狐のように笑っている。戸惑った領主や聖職者たちは、それでようやく、付き従うロレンスたちのことを思い出したようだった。
「なにをって……いや、それより、そこにいるのは湯屋の主人たちか? そなたらは、村に災厄をもたらそうというのか?」
「滅相もありません」
答えたのは、村の平穏のために一肌脱ごうと、ロレンスの案に賛成してくれた寄合の議長役だ。この村でも古い湯屋を経営している。
「我々はニョッヒラを訪れた皆様に、ただここでの滞在を楽しんでもらう以外になにも望みません。その意味で、我々は件の旅人のお力になりたいと」
「それが問題だと言うのだ。貨幣を打つというのもあれだろう、昨今の貨幣事情のためだろう? 一石二鳥などと馬鹿なことは思うな。デバウ商会のように簡単に貨幣を打ち出せると考えるな」
考えるだけで罪になる、とでも言わんばかりの慌てようだったが、その返事は老領主がした。
手にした打刻槌を振り回し、蠅でも追い払うかのように。
「誰が貨幣を打ち出すと言った。儂らは敬虔なる神の僕ぞ。だからその教えに従って、故人の夢を叶えようと言うのだ」
「いや、しかし……故人の夢とは……その……」
しどろもどろの聖職者に、老領主ははっきりと答える。
「もちろん、この打刻槌や印璽を使い、お家の紋章が刻まれたものが広く流布することだ。打刻槌で打ち出された物を皆が利用すれば、さぞ喜ぶに違いない」
老領主の人を食ったような回答に、一世代は若い領主たちが怒りをあらわにする。彼らもまた、一廉の領主として実績を積んでいる者なのだから。
「だからそれこそが問題だと言うのだ。打刻槌で貨幣を打たずしてなにを打つ。パンでも捏ねるめん棒にするのか?」
そうだそうだ、と憤激の声が上がった瞬間だ。
「まあ、概ねあっている」
にやりと笑う老領主に、憤りかけていた領主たちが気勢を削がれる。
戦慣れした老領主の目配せで、ロレンスたちは抱えていた籠の覆いを取り払う。
「そ、それは?」
会議所の中に、たちまち甘いバターの香りが漂った。
「儂は食い物に関心が無くてよく知らんのだが、広く世界を旅してきたロレンス殿によれば、小さな村特産の変わった乾パンがあるとのこと。それを手掛かりに拵えてみた」
ロレンスは籠を持って領主たちの前に歩み寄り、中身を一つずつ渡していく。
「これは……種無しパン?」
「いや、単なる種無しパンではない。これはクッキーでは?」
「ううむ……南の地のクッキーとも違うが……」
さすが金持ちの領主たちで、食には詳しい。正体は、卵とバターの分量が多めの柔らかいパン生地を薄く焼いたものだ。
そして、そのパンの模様が意味することにもすぐに気がついた。
「あ! これは打刻槌を型にして作った、パンの貨幣か!」
「これならばどこの領主も文句は言うまい?」
「我が村にはパン屋組合もありませんし」
付け加えたのは議長役だ。
「そして、これは村でも数少ない、元商人のロレンス殿の夢でもありますし、皆さんも一度は思ったのでは?」
悪戯っぽく付け加えられ、ロレンスは話の肝を述べた。
「貨幣を腹いっぱい食べてみたい、と常々思っていました」
ここにいるのは少なからず蓄財に秀でた者たちでもある。色の黒い困惑気味の苦笑いがさざ波のように漏れ出たが、居並ぶ者たちの顔は、怒りに染まっているわけではない。
そこに、老領主がこう言った。
「儂はかつての戦の舞台を歩き、かつて夢に生きた者たちの背中を追った。戦場では食う物も飲む物も不足していて、神の御加護などもっとなかった。従軍司祭は何年も前に山の中で歩けなくなり、それっきりだ。友の亡骸を祈りと共に埋めるなどという贅沢など望めなかった。穴を掘って埋め、酒を振り撒くか干し肉の一片でも墓標の代わりに添えるしかできなかった」
老領主の言葉に、戦自慢で鳴らしたような者たちが、戦自慢だからこそだろうが、真剣な面持ちで話を聞いていた。
「儂はその時代を生きた者として、故人の遺志を少しでも実現させることこそ、新たなる旅路への手向けとなるだろうと思う」
領主たちは揃って椅子から降り、片膝を床について恭順の意を示す。
こうなると、聖職者たちも強弁はできない。領主たちと善き関係を築いていなければ、故郷に帰ってからまずいことになる。
老領主はたっぷりの余裕と沈黙を持って、聖職者たちからの反論を待つ。
そして、彼らが揃って目を伏せたのを見届けてから、言った。
「儂は戦場の倣いにより、戦友として故人を墓に埋葬しよう。聖職者諸君らは」
と、神の子羊らが目線を上げる。
「墓に埋められたこのパンの貨幣が、天の御国に届くように祈りを捧げてもらいたい」
彼らは互いに互いの顔を見合わせた。
誰が誰よりも偉いとかの話ではない。
なにより、誰の祈りによってパンの貨幣が天国に届いたかは誰にもわからないから、見栄と意地による争いも起きない。
「それなら……まあ……」
もごもごと同意の声が上がるのを聞いて、老領主はうなずいた。
「では話は終わりだ! 行動に移れ!」
ばん、と机を叩く音に、全員が背筋を伸ばす。
こうして、ニョッヒラに降ってわいた騒ぎは、収束を見たのだった。
棺を抱えた一団が、旅人の眠る洞穴に大挙して向かう。湯屋の主人たちも何人かはついていったようだが、徹夜明けのロレンスは彼らを見送るだけだった。
昨日は老領主に話を持ち掛けて、大いに乗り気になってくれたという後ろ盾を得てから、村中の湯屋を回って主人たちに話を通した。これだけでも随分時間がかかったし、そこから湯屋の炊事担当のハンナを起こし、アラムやセリムの手も借りてパン生地をこね倒した。竈に火を入れて印璽や焼印、それに打刻槌を熱して薄焼きのパンを焼き終ったのは、夜も明けきってからのことだ。
疲労がずっしりと肩と腰にのしかかり、目の奥がずきずきと痛む。
若い頃ならば三日くらいは寝ずに商いができたのに、とロレンスは思い、苦笑する。
そして、あらかたの人が山に向かった頃になり、ようやくこう言った。
「湯屋に戻るか?」
会議所に様子を見に来ていたホロは、こくりとうなずいた。手を繋ぐと、洗っても落ちきらずに手にこびりついているパン生地を、ホロが指の爪で引っ掻いてくる。
「おい、痛いって」
ホロは返事をせず、ロレンスの爪にくっついたパン生地をがりがりと削って落とす。
「……埋葬に立ち会うか?」
そう言葉を向けると、ホロの指の動きが止まる。
それから数歩歩くと、再びがりがりと削る。
「行かぬ」
すねた女の子みたいな言い方だった。
「そうだな。不穏な物は無事、土の中だ」
ホロは、ふん、と鼻を鳴らした。ロレンスの指を削るのをやめたのは、単に飽きたからだ、とでも言わんばかりに。
それから二人は無言でニョッヒラの村を歩いていく。いつもは賑やかな村の通りも、人がおらずにとても静かだ。まるでこれまでのお祭り騒ぎが、すべて夢であったかのような。
「寝るのが怖いか?」
尋ねると、ホロが体をすくませて立ち止まる。
徹夜でパンをこねた後、ホロが酒を飲んで寝ていない理由など、他にない。寝て起きれば、この夢から覚めてしまうのでは。
それが怖くて、ロレンスについてきた。
ホロの様子に小さく笑ったロレンスは、ホロの前に回り込み、上着のポケットを探る。
取り出したのは、狼の紋様が焼き込まれた薄いパンだ。
「ほら」
ロレンスがホロの口元にパンを差し出すと、ホロは嫌そうに顔を背ける。
ロレンスは肩をすくめ、パンを半分ちぎって、自分で食べる。
「残りはお前が持っておけばいい」
ホロが首から提げる、麦の詰まった袋にパンの欠片を入れた。古い麦入れは娘のミューリにあげてしまったので、新しい袋だ。
ホロは抵抗もしなかったが、どういうつもりだ、という目は向けてくる。
「これなら、寝て起きたお前がたった一人、どこかの麦畑にいたとしても――」
言葉の途中でホロが目を見開き、愕然とする。
ロレンスはまったくもうと笑いながら、ホロの頬を両手で挟んだ。
「たとえそうなっても、お前はこのパンの匂いを探せばいい。俺はきっと、そこにいる」
ホロはロレンスのことを見つめ、ロレンスが笑うと、目から涙をぽろりとこぼす。
それからようやく、賢狼という自称を思い出したのかもしれない。
亜麻色の髪の毛に、同じ色の獣の耳と、尻尾を有したホロは、大きく息を吸って、にっと無理やりに笑った。
「だったら、パンではなく、香辛料にしてくりゃれ」
「そっちのほうが、食べる時においしいからか?」
そして、噴き出すように笑うと、ホロはロレンスにしがみついてくる。
ロレンスはその華奢な体を抱きとめて、言った。
「さあさ、湯屋に戻ろう。俺と、お前の作った湯屋だ」
尻尾をばたばたと振ったホロは、うなずいて、ロレンスの手を握る。今度はもう、なにかを言いたげな握り方ではない。
二人は揃って歩いて行く。
季節は短いニョッヒラの夏。
見上げれば、吸い込まれそうな、青空だった。
★『狼と香辛料 Spring Log編』の次のお話は、
2月10日発売の『電撃文庫MAGAZINE Vol.60』をチェック!