※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.60掲載の後半を抜粋したものです。


 ホロと共に夜の山を駆け抜けると、ほどなく旅籠が見えてきた。元々は修道院だったという場所で、今は巡礼のために訪れた旅人の宿泊施設になっている。旅人たちは、その修道院の敷地に眠るといわれる聖女を詣でにやって来る。

 その聖女とやらの話の元になったのが自分であることを思うと、セリムは少しだけ、尻尾がむず痒くなってしまう。

 と、旅籠から少し離れた場所で佇んでいると、自分たちの匂いを嗅ぎつけた兄が人の姿でやって来た。傭兵稼業で暮らしていた兄も、裾の長い聖職者風のローブがいくらか様になってきていて、セリムにはそれが毎回面白い。

『急にすまぬの』

「いえ。今日は何事でしょう。肉の追加ですか?」

 狼と香辛料亭は、仕入れの費用を削減するために、町から肉を買うのではなく兄たちが仕留めた獲物を分けてもらうことが多い。

 代わりに兄たちはいちいち町に行かなくて済むように、あれこれの必需品をロレンスに買い付けてもらっている。

『いや、ぬしらに聞きたいことがあってのう』

「はあ……」

 兄は少し戸惑ったように、セリムのことを見る。目が合ったセリムは、自分も知らない、と頭を下げて上目づかいに見た。

『忙しかったかや』

「い、いえ。物好きな客が二人ほど宿泊しているだけで、のんびりしたものです」

『では、すまぬがちょっと時間をもらいんす』

 ホロはそう言って、狼から人の姿に戻る。服を着ていないのは狼の時と同じなのに、兄のアラムが律儀に目を逸らすのが、なんとなく不思議であり、わかる気もする。

 セリムもホロに倣い、人の姿になって服を着た。

 ホロは服を着る時に乱れた獣の耳と尻尾の毛並みを手で整えてから、言った。

「実は、聞きたいことというのは、眷属の話じゃ」

「眷属……我ら狼の、ですか」

「わっちらは少しの間、旅に出ることになってのう。それで、どうせじゃから見聞を広めてみるのも良いかと思いんす」

 ホロはなんの気なしに言っているが、少し緊張しているのがわかった。それはアラムも同じだったようで、また不安そうにこちらを見る。

 兄は一度、初対面の時にホロのことを怒らせているので、そのせいだろう。

 セリムは、代わりに口を開いた。

「ホロ様、それは……」

 そして、ホロは哀れな兄妹が踏み込みかねていることを察したらしい。困ったように笑いだした。

「すまぬ、すまぬ。そうじゃ、わっちゃあ、昔の仲間のことを調べようと思っておるんじゃ」

 ホロは、遥か古の時代、ヨイツという土地で暮らしていたらしい。それから旅に出たホロは、遠方の地に腰を落ち着けたまま時を重ね、土地の仲間とは離れ離れになったままだと言う。何百年と経ってからホロが再会できたのは、仲間の爪の欠片だけだったらしい。

 今、その仲間の名はホロの娘が受け継いでいるが、結局仲間の行方は杳として知れないままだ。

「次はいつ旅に出るかわからぬし、ほとんどの者が人の世に紛れておるじゃろう? 南からずっと旅して来たというぬしらならば、色々知っておるかと思いんす」

「えっと……そういうことでしたら、可能な限りご協力いたします」

 アラムが答えると、ホロは感謝を示す笑顔を見せる。

「あ、それともう一つあるんじゃがな」

 以前ホロを怒らせたことが随分尾を引いているアラムが、ピンと背筋を伸ばしていた。

「ちょっと小腹が空いておってのう。肉を鍋にして欲しいんじゃが……」

 やや照れくさそうに言うホロは、愛嬌たっぷりだ。武骨で気の利かないところがある兄には、それくらいの茶目っ気でちょうどいいのかもしれない。

 アラムはきょとんとしてから、棒切れを拾って来いと言われた子犬のような顔になった。

「お任せください。ちょうど良い具合に熟成した鹿肉がありまして」

「ほほう」

 その時だけは、演技ではなくホロは舌なめずりをしていた。

「修道院のほうで召し上がりますか?」

「ここのほうが気兼ねなくてよい。火を焚けばさほど寒いこともなかろう」

「畏まりました」

 と、兄が目配せを寄越してきたので、セリムは心得たものだ。

 失礼します、と言い置いて一足先に修道院に向かう。

 ただ、道すがら思ったのは、ホロがここを訪れた理由がやや意外なことだった。

 ホロとロレンスが、互いの生きる長さとか、種族の違いとか、そういうことをそっと絨毯の下に隠して暮らそうとしていることは、傍から見ても明らかだ。

 だから、ホロがかつての仲間を探しに旅に出るのだとしたら、ロレンスとの別れを済ませてからのような気がしていた。なにより本格的に探そうと思えば、いかにホロの狼の健脚を使おうと、半年では到底足りはしないのだから。

 この世の国の数は百をくだらず、大きな町がそれぞれの国にいくつかある。比較的大きな町はその十倍や二十倍あるだろうし、村となると何万の数になるのかも定かではない。今は多くの古の獣たちが、そういう人の世に紛れてひっそりと暮らしている。一人ずつ見つけて伝手を辿っていくのは相当骨が折れるはずだし、それは、自分たちがこれまでの旅で見聞きしてきた仲間の噂話を確かめるだけでも同様だろう。

 ホロが自分に湯屋の仕事を任せると言った時、春か夏の始まりくらいまで、と言っていた気がする。その言葉を信じるならば、せいぜい半年程度の旅だろう。

 それともまさか、と、セリムは兄や仲間と一緒に肉鍋の準備をしながら気がついた。

 ホロは半年程度で戻ってくるつもりなどないのでは?

 それが元々そのつもりだったのか、あるいはロレンスが村人たちからあれこれ押し付けられているのを見て、考えを変えたのかはわからない。それでも、十分あり得そうなことだと、セリムは思った。

 ホロはほとんど毎日、なにか面白いことが起きやしないかと、ペンと紙を片手に湯屋をうろうろしている。遠方から来た客から地方の名物料理の話を聞けば、ハンナに作ってもらおうとしたり、材料が無ければロレンスに買わせようとしている様子も何度か目撃している。

 それに、伝手と金さえあれば、旅というのが素晴らしい娯楽になりうることも、セリムは知っている。なにせ食うや食わずの旅の途中でも、綺麗な景色を見れば泣きたくなり、荘厳な建物を前にすれば圧倒された。その感動は今も忘れられない。ロレンスは元凄腕の行商人なのだから、旅の不安など欠片もなく、旅の醍醐味を存分に味わえるだろう。そこに切実な旅の理由が加われば、いよいよ長旅にしない理由がないような気がしてくる。

 ただ、セリムのほうからそんなことを聞けるはずもない。早く帰って来て欲しい、なんて情けないことはさらに言えるはずがない。

 セリムの視線の先では、ホロが肉を切り分け、茸を手で裂いて、浮き浮きとした様子で鍋の準備を買って出ている。それから、味を調える塩をこっそり多めに振ったりもしていた。

 そんなのんきな様子を見ていると、さしものセリムも、胸がざわついてしまう。

 こちらの気も知らないで……と。

 鍋が煮えてからも、ホロは身を乗り出し、嬉々として肉やら茸やらを取り分けていた。椀に溢れんばかりに肉を取り、尻尾をぱたぱた振りながらがっついている。

 いかにも太平楽で、細かいことなど気にしない無邪気な少女のようだ。

 けれども、ホロが約束を破るような性格だとも思えないので、セリムは余計にやきもきしてしまう。

 それに、もしも長いこと帰ってこないつもりなら、最初からそう言って欲しかったのだ。なんとか冬の繁忙期を乗り越え、今か今かと春の到来を待ち、明日か、明後日か、と主人夫婦の帰りを待つ自分の様子を想像してしまうからだ。

 一日経つたびに、きっと自分は擦り減っていくだろう。明日にはホロとロレンスたちが戻ってきて、笑顔で仕事を引き継いでくれると信じられるからこそ、耐えられるような気がするからだ。

 そのまま夏になっても帰ってこなかったとしたら? きっと、自分は折れてしまうだろうとセリムは思った。そもそもあの馬氏や鹿氏や八人の客たちだって、いつまでもいてくれるとは限らない。なんとかうまくいくという明日よりも、いつか必ず駄目になる未来ばかりが簡単に想像できた。

 いついつまでに帰って来てくれるからと信じているからこそ、耐えられることもある。

 しかし、もしも二人が……とセリムが手元の椀を見つめながら思っていると、にゅっと柄杓が差し込まれた。

「こんなに美味い鍋の前で、そんな顔をしておるのは肉に対する冒涜じゃな」

 顔を上げればホロの悪戯っぽい笑みがあったし、手元の椀にはだばだばと肉やら茸やらが盛られていく。

「そもそも、ぬしはもう少し食べたほうがよい。肉を食べればその薄い顔色も戻り、体にも活力が満ち、落ち込んだ気分もまた吹き飛ぶというものでありんす」

 ホロはそう言って座り直し、「ついでに酒もあれば完璧じゃ」とからから笑っていた。

「えっ……と」

 セリムは自分の性格が明るくないことを自覚しているが、今はまさにあなたたちのせいで胸の内がもやもやしているのですが……とホロのことを恨めしく見返した、その直後だ。

「なにせ、うちのたわけは幸薄そうな娘が好みでのう。あれに変な気を起こされては適わぬ」

「えっ!?」

 ごふっ、と変な音がしてみやれば、鍋の向こう側で兄のアラムがむせていた。

「ごほっ……セ、セリム、お前……」

「ご、誤解です!」

 叫ぶように言うと、ホロが心底楽しそうに笑っていた。

「くっくっく。うちのたわけがぬしに懸想などしておったら、先にたわけのほうを八つ裂きにするところじゃ」

 まったく人が悪い、とホロを見れば、ホロは赤味がかった琥珀色の瞳を意地悪気に、けれど親しげに細めて牙を見せた。

「ぬしには湯屋にいて欲しいからのう。あれが好きにならぬよう、せいぜいハンナのようになってくりゃれ?」

 ハンナは恰幅もよく、戦の際に従軍するパン焼き女だって勤まるはず。確かに湯屋で大きな戦力になるには、あれくらいの体型がふさわしいに違いない。

 それに、ホロは自分のことを心配してくれているようだった。傍若無人のようでいて、誰よりも周りを気にしているホロだから、自分があれこれ思い悩んでいると気がついたのだろうか。

 ならば本当に春に戻って来るのでしょうか、と聞くのは今ではないか。

 意を決し、セリムが口を開こうとした、その瞬間だ。

「冗談はさておき、眷属の噂でも構わぬ。地図かなにかに記しておいてくれると助かるんじゃがな」

 ホロがひょいと次の話題に行ってしまう。

「ええっと……はい」

 まだセリムのことを伺うように見ていたアラムが、たどたどしく返事をする。機を逸してしまったことと、兄の馬鹿げた思い込みにさしものセリムもむすっとして顔を逸らせた。

 自分のことは自分でやれ、といつも厳しい割には、妙なところで過保護な兄は、ようやく納得したようだった。

「それでしたら、数日の内にお届けしましょう。ただ、中にはよそと接触を持ちたがらなかったり、人の口に上る噂話程度のものもありますが」

「面倒でなければ、それらの説明も含めてくりゃれ。なにせ、仲間の爪を後生大事に受け継いでくれたのは、人の傭兵団じゃったからのう。どんなところに紛れておるか、わかったものではありんせん」

「畏まりました」

「頼みんす」

 ホロの顔がやや苦笑めいていたのは、兄のアラムの堅苦しさのせいだろう。

「それと、旅の間に食べる干し肉なんかも頼めるかや。あのたわけはケチでのう。町で買わせたら、きっと木の板みたいな味気ないものを買いそうなんじゃ」

「お任せください。この季節は風が吹くので、良い干し肉ができますよ。少し時間をいただけたら、塩漬けでも腸詰でもご用意いたしましょう」

「たわけ。ぬしらが手を真っ赤に染めてせっせと肉を加工しておったら、客が怪しむじゃろう」

 アラムはきょとんとして、自分の服装を思い出したらしい。

 恥じ入るように視線を落とし、頭を掻いていた。

「気持ちだけもらっておきんす。それに、旅先で土地のものを食べるのも、旅の醍醐味じゃからのう」

 ホロはからからと笑ってそんなことを言う。

 ホロとロレンス、主人夫婦二人は、本当に春に帰って来てくれるのだろうか。

 ハンナはセリムを安心させるようなことを口にしていたが、二人の様子を見ていても、不安が増すばかりだ。

 セリムは鹿肉を噛みしめる。

 たちまちじわりと、濃い味が口いっぱいに広がったのだった。



 日々の生活は平穏無事に続くが、その日常が終わる時は刻々と近づいていた。

 ロレンスは他の湯屋の主人たちから預かった荷物をまとめ終わり、ホロが頼んでいた狼の眷属に関する覚書も、そろそろ書き終わるとのことだった。八人の新しい人手にも一通りの仕事を教え終わっている。

 誤算、というべきなのかはわからないが、新しく湯屋を手伝ってくれる彼らはものすごく真面目で、優秀だった。今やセリムは帳簿類を扱ったり、仕入れのために出入りの商人たちとやり取りすれば、それだけで湯屋が回るような状況になっていた。ハンナなどは、ほら心配する必要なんてなかったのさ、と笑っているが、セリムは相変わらず気が気ではない。

 悪い夢も見続けている。今度は、旅の途中で寝床を求めて潜り込んだ寒村の納屋で、食料を調達してくる、と言って外に出て行った兄や仲間たちがずっと戻ってこない夢を見るようになった。我ながらわかりやすい性格だと呆れてしまうが、正確に自分の恐怖を表している。

 馬氏や鹿氏など、彼らがどれほど優秀でも、ずっと湯屋にいてくれるわけではない。

 ホロとロレンスが春には帰って来てくれるという確信が持てなければ、そのうち悪い夢の見過ぎで参ってしまうだろう。

 しかし、使用人の立場から、大恩ある主人夫婦が楽しみにしている旅の準備に、図々しくも早く帰って来て欲しい、などと言えようはずがない。

 その日もセリムは、旅で使う荷馬車の整備をしている二人のために昼食を運びながら、この荷馬車の整備が永遠に終わらなければ……などと考えていた。

「ぬしよ、もっと荷台は広くできぬのかや」

「これ以上でかくしてどうするんだ。行商の旅でもあるまいに。そもそもお前は広い荷台で道中昼寝をしたいだけだろう?」

「たわけ。誰の寝相が悪いのか、とくと思い出すんじゃな!」

 そんなことを言いあう二人の前では、職人たちが荷馬車の改修作業に追われていた。かつてロレンスが行商人時代に使っていた物らしいが、近頃は荷物置き場になっていた。

 春頃にスヴェルネルに行った時は借り物で済ませたらしいのだが、ある程度の長さの旅にはやはりこれがいいとのことだった。

 普通に聞けば、使い慣れたもののほうが良い、というだけのことなのだろうが、セリムにはもっと別の意味に聞こえてしまう。これから長い長い旅に出て、昔の旅に戻るには、これが良いのだと。

 やいのやいのと楽しそうにしている二人の側に、焼いた塩漬け肉とチーズを挟んだパン、それに蜂蜜酒を置いて、セリムはため息をそっと飲み込んだ。

「む、飯じゃ」

 ホロが鼻をひくひくさせて、振り向いた。

「もうそんな時間か。皆さんも良い頃合で切り上げてください」

 ホロはさっさとパンに手を伸ばしていたが、ロレンスはまず職人に声をかけていた。こういう気遣いも自分にできるだろうか、と不安だ。職人たちは気安く答え、村の広場のほうに歩いて行った。そちらのほうが安くて量の多い食事が食べられるのだろう。

「しかしぬしよ、馬をどうするかのう」

 職人たちがいなくなったせいか、ホロは頭に巻いていた布を取り払い、耳で深呼吸するかのようにぱたぱたさせながらそう言った。

「馬なあ……一応、昔の旅の相棒の血を引いてる馬がスヴェルネルにいるが……半年も貸してくれるかどうか」

「買ったらどうじゃ?」

「たわけ」

 ロレンスはホロの口真似をして、難しい顔をしている。馬はそれだけでひと財産なので、費用計算に余念がないロレンスは、どうしたものかと思っているのだろう。

 思いつめていたセリムは、よっぽどか、なら自分が荷馬車を引きましょうか、などと言いそうになった。

 牛に犂を、犬に橇を引かせることがあるのだから、狼が荷馬車を引いたって問題ないだろう。

「手ごろな馬を調達するよ。気が荒い馬なんかは安いからな。けど、お前の言うことならおとなしく聞くだろ?」

「わっちの言うことは聞くかもしれぬが、ぬしの言うことは聞かぬかもしれぬ」

「お前も御者台に座ってればいいだけの話だろうが。荷台でごろごろ寝てばかりいないで」

 ホロはつーんとそっぽを向いて、パンにかぶりつく。ハンナによれば、ホロは自分が来る前はもっと自堕落でしょっちゅう朝寝だ昼寝だと言っていたらしい。

 同族の自分が来て、あまりだらけなくなったので助かります、とはロレンスからも言われた。

 ただ、それは翻せば、ホロが湯屋に戻って来たくない理由の一つになるかもしれない。

「それより、麦酒はないのかや? 話し疲れて、冷たい飲みやすいのが欲しいのう」

「あ、すみません」

 二人でいる時は甘い蜂蜜酒を好んでいたのでそうしたのだが、失敗だったらしい。セリムが慌てて炊事場に向かおうとしたのを、ロレンスが止めた。

「セリムさん、大丈夫ですよ。ほら、自分で取りに行け。そんなことじゃ旅暮らしはやってけないぞ」

「う~……」

 ホロは唸りつつも、渋々と炊事場のほうに歩いて行く。ホロに甘いだけではないし、ホロも甘えるばかりではないらしい、とセリムはちょっと驚きだった。

「すみませんね。ホロはセリムさんに頼りっぱなしでしょう」

「え?」

 急に言われ、セリムはあたふたしてしまう。

「い、いえ、そんなこと……」

 セリムの取って付けたような物言いに、ロレンスは力なく笑っていた。

「あいつはあれで、人見知りなんですよ。そのせいか、一度気を許してしまうとずるずる甘えてしまって」

 ロレンスの言うことは確かにそのとおりなのだろうと思いつつ、セリムはホロにあれこれ頼まれるのは嫌いではない。

「わ、私は、その……」

「いえ、いいんですよ。そもそも、今回の件だって、ホロから言われてびっくりしたでしょう?」

「それは……」

 そのとおりだ。そして、びっくりという感情がそのまま胸と肩の辺りに居座って、今は鈍痛と化している。

「ホロは……その、旅に出ようというのは、私のために言いだしてくれたことなんですが、まさかセリムさんたちに後をお願いするとは思ってもいませんでした」

 それはそうだろう。まだ湯屋に来て半年程度の、人の世をうまく渡れてこなかった狼の小娘なのだから。

 セリムは、ここだ、と思った。今、ここでなら、言える。仰るとおりに無謀なことなので、是非考え直してくださいと。

 ただ、ロレンスのほうが早かった。

「でも、引き受けてくれて、とても助かりました。ありがとうございます」

「……」

 お人好しの、曇りのない笑顔を向けられたら、セリムにはもうなにも言えなかった。

「それにセリムさんになら安心して任せられます。その分のお給金も、もちろんたっぷりはずませてもらいます」

 ロレンスの口調は、セリムが湯屋を引き受けるのは確定事項だと言っているし、実際、他の湯屋にもそう紹介されている。今更旅をやめて欲しいとか、自分も旅について行く、なんていう選択肢はあり得ない。

 ならば、せめて、とセリムは思った。

 パンを食べながらこれからの旅に思いを馳せているのか、楽しそうな面持ちで改修中の荷馬車を見るロレンスの横顔をセリムはじっと見つめ、ぎゅっと手を握りしめるや、喉の奥から心臓がらせり上がりそうなほどの緊張を飲み込み、こう言った。

「あ、あの」

「はい?」

 振り向いたロレンスのことを、セリムはやっぱり、真正面から見られなかった。

「あ、あの……えっと……」

「どうしました?」

 このままでは不審に思われてしまう、とセリムはどんどん焦ってしまう。

 散々視線を泳がせたのち、結局口にできたのは、こんなことだった。

「あ、あの硫黄などは……全部、持って行く、のですか?」

 物置に使われていた荷馬車は、痛んでいた板などを取り換えられ、錆びた鉄具は磨かれ、取りつけ直され、車輪も新しくなっている。今や大量の荷物を積んで、どこまででも行けそうな立派な代物に様変わりしていた。

 セリムのそんな問いに、ロレンスはやや不思議そうな顔をしてから、すぐに笑顔になった。

「ははは、ご心配ありがとうございます。けど、大丈夫ですよ。皆さんの手前、全部持って行くことはしますが、まあ、全部売れるなんて思っていませんから」

「……え?」

「それに……ここだけの話なんですけどね」

 ロレンスはちらりと湯屋のほうを見る。ホロは炊事場でつまみ食いでもしているのか、なかなか戻ってこない。

 それを確認してから、ロレンスは苦笑交じりに言った。

「硫黄や両替を引き受けられるだけ引き受けたのには、理由があるんですよ」

「……理由、です、か?」

 それは村の立場のことを考えてのことではないのか。だからこそ、そこまでして懸命に築いている評判を、自分が落としてしまわないかと不安なのだ。

 ただ、セリムの心配をよそに、ロレンスはずいぶん穏やかな笑みを浮かべていた。

「はい。それはあれです。ホロの奴、セリムさんたちに妙な頼みごとをしているでしょう?」

 一瞬なんだかわからなかったが、眷属の話だろうとすぐに気がついた。

「アラムさんがまさに今朝、わざわざ届けに来てくれましてね。ホロは自分に知られたら嫌がるだろうと思ったので、ハンナさんが受け取ったことにしましたが」

 セリムは話を聞きつつ、一体それが硫黄やらの話とどう繋がるのか、まったくわからない。

 それに、ホロが兄のアラムに頼みごとをしに行ったのは、ロレンスが硫黄やらを受け入れた後のことだ。

 セリムがロレンスの言葉の続きを待っていると、ロレンスは笑顔のまま、小さなため息のようなものをついた。

「ホロは滅多に尻尾を出しませんが、本当は昔の仲間を探しに行きたがってるんですよ」

「それ、は」

「もちろん、そんなことを言い出したら私が困ると承知していたので、隠してはいましたが……だから、今回のことはあいつなりに一石二鳥と思っているはずです。いや、お客さんから聞きだしていた美味い物の食べ歩きも画策しているようですから、三鳥かな」

 ロレンスは荷馬車を見たままパンの残りをかじり、咀嚼して、飲み込む。

「でも、あいつは意地っ張りの頑固者ですからね。たとえば旅先で、昔の仲間の手掛かりみたいなものがちらっと見えたとしましょう。それがちょっと遠方にありそうだとなったら? きっと、行くのは止めようと言うはずです。面倒だとかなんとか言い張ってね。普段は我儘放題で買い食いさせろとうるさいのに、そういうところでは、私が毎日心配する路銀やらのことを優先するんですよ」

 なんとなくだが、ホロのそういう様子が容易に想像できた。ホロは基本的にはとても心優しい性格だし、気が弱いと言ってもよい箇所さえあるとセリムは思う。

 けれど、そういうすべてを最愛のロレンスに向けているのだと思うと、まだ恋をしたことのないセリムは羨ましいような、切ないような、不思議な気持ちになった。

「だから、硫黄をたっぷり積み込むんです。職人を呼んで、こんなに頑丈にしてまでね」

 話が急に戻ってきて、セリムは夢から覚めたような気がした。

「他の湯屋から預かってきた硫黄がこんなにも残っている。これを売らないことには戻れないぞ、と言うために」

 嗚呼、とセリムは思った。

 この荷馬車には、ロレンスがホロを思う気持ちがたっぷりと積み込まれているのだ。

 それは素晴らしいことだと思うが、同時に、セリムにはなにも言えなくなってしまう。

 ロレンスの言葉を聞く限り、旅はいくらでも延長しそうな雰囲気だった。

 ホロのためならば、きっとロレンスはいくらでも旅に付き合うのだろうから。

「もしかしたらそのせいで、少し旅の帰還が遅れてしまうかもしれませんが……私に免じて、ホロの我儘を許してください」

 ロレンスがようやくそんな言葉を向けてきた時、セリムはやや諦め気味に、微笑んだのだった。



 その後、戻りの遅いホロを呼んできてほしい、というロレンスの頼みを聞いて、セリムは湯屋に戻った。足取りが茫洋としていたのは、悪い予想が当たってしまったからだ。

 二人は長いこと旅から戻らず、帳場台で心細く一人で座っている自分の様子が目に浮かぶ。

 セリムがふらふらと広間を抜け、廊下を進み、炊事場に入った時のことだ。

 きょとんとしてしまったのは、そこでホロが外套を手に、せっせとなにか作業をしていたからだった。

「む、ぬしかや」

 ホロはセリムに気がつき、ちらりと視線を向けて、またすぐに作業に戻ってしまう。てっきりロレンスの言うようにつまみ食いかなにかをしていると思ったが、そうではないらしい。

 何事かと奥のほうにいるハンナに目を向ければ、呆れるように肩をすくめられた。

「あの、ロレンス様がお呼びですが……」

「んむ」

 ホロは短く返事をして、ばさりと外套を大きく振って、調理台の上にかけ直す。

 どうやら、外套の内側になにか縫い付けているらしい。

「ちゃちゃっと片付けるから、ちょっと待っててくりゃれ」

 側の棚には、腰帯なども置かれている。なにをしているのだろうか、とセリムが見ていると、ホロは手慣れた様子で外套と同じ色の端切れを縫い付けると、おもむろにその隙間に折りたたんだ紙片を詰め込んでいた。

「あ」

 思わずセリムが呟くと、ホロがちらりと視線を上げる。

「うむ。ぬしの兄から送られてきたものじゃ」

 ホロは、兄に頼んでいた眷属の情報を記した紙を、服に隠しているらしい。

「あやつの律義さをうっかり忘れておった。ハンナが受け取ってくれたからよかったものの、うちのたわけに見られたら、また面倒なことになるところじゃった」

「え」

 セリムはついさっきのロレンスとのやり取りを思いだし、思わず声を上げてしまう。

 ただ、ロレンスはホロのやっていることについては、知らない振りをするつもりのようでもあった。そうでなければ、わざわざハンナが受け取ったことにはしないだろう。

 今更誤魔化せるだろうか、とセリムは慌てたが、ホロは手元に視線を戻し、こんなことを言う。

「面倒なことになるんじゃ。あれは本当にたわけじゃからのう」

 どうやらホロは、セリムが言葉に詰まったことを、単に驚いたのだと思ったらしい。

「じゃから、見つかる前にさっさと服に縫い付けて隠しておきんす」

 大した量もないし、ホロの手が早いのでもうすぐ作業は終わりそうだった。

 けれど、セリムにはやっぱり、ホロがなぜそんなことをしているのかわからない。

「で、ですが、ホロ様」

「んむ?」

 セリムは思わず口を開いてしまい、ホロの視線にたじろいだ。

 言おうかどうしようか迷いつつ、黙るほうが変かと思い、言った。

「えっと……ロレンス様なら、喜んで眷属を探すことを手伝ってくれると思いますけど……」

 それはさっきのロレンスとのやり取りが無くても、そう思う。

 ホロはセリムの目をじっと見返し、不意に眉を左右非対称に動かすと、皮肉気な笑みを見せた。

「じゃからじゃ。あれは、わっちが辟易するくらい前のめりになるじゃろうよ」

 ホロはそう言って、げっぷするかのように舌を出した。

「別にわっちゃあ、今更それほど昔のことにはこだわらぬ。わずかな手がかりでも見つかったらよい、くらいの話じゃ」

 意外な言葉にセリムが拍子抜けすると、ホロは困ったように笑った。

「ぬしらも随分気を使ってくれたし、ぬしの兄は実に几帳面にあれこれ記してくれたがのう、実のところ真面目に探す気はありんせん。そもそも、ちょっと旅に出るくらいでどうこうなることではないじゃろう」

 それはセリムの懸念そのままでもあった。ホロは賢狼と謳われたほどの知性の持ち主で、とてもよく物事を見通す目を持っている。世界が広いことなど、先刻承知だったのだ。

「え、えっと……」

「それならば、なぜ、と?」

 ホロの先回りした問いに、セリムは首をすくめつつ、うなずく。

 ホロは喋りながらも繕い物の手を止めず、呑気な様子でこう言った。

「それはほれ、あのたわけのためじゃ」

 なにかを噛み潰すように牙を見せたのは、照れ笑いのようだ。

「村の連中から預かった用件をこなさぬことには、村に帰れぬじゃろう?」

 つらつらと喋りながらも綺麗に端切れを縫い付けてしまい、目を眇めて浮いていないか確認している。普通に着ている分には、まずばれないだろう。

「じゃが、あやつは昔に交わしたわっちとの約束を、ひどく重く受け止めておってのう。いや、確かにあの当時のたわけは、儲け話じゃと言ってはふらふら危ない場所に行くおおたわけじゃったから、もうそういうことはやめてくりゃれと言いはした。それでも、のう」

 ホロは椅子から立ち上がり、両手を天井に向かって伸ばす。耳と尻尾の毛がぷるぷると震えていた。

「わっちゃあ、あれの荷物にはなりたくありんせん。あれがわっちの顔色を窺って村に帰ろうと言った結果、村の連中にあれこれ言われるほうが、我慢ならぬ。じゃからな、そういう時にはこれの出番じゃ」

「はあ……」

 セリムの生返事に、ホロは外套やら腰帯を畳み、腕に抱えた。

「この町のさらに先に、わっちの仲間がおるかもしれぬと言えば、あのたわけはわっちのためじゃからと理由づけして、旅を続けることができるというわけじゃ」

 セリムがぽかんとしたのは、ホロの話した内容そのものではない。

 似たような話を、さっき聞いたばかりだからだ。

「それゆえにな、あのたわけのせいで旅の戻りが少し遅れるかもしれぬが……許してくりゃれ? 賢狼の名にかけて、いつか必ず借りは返しんす」

 そんなところまでそっくりだが、セリムはなんだか不思議な絵を見ているような気がした。

 旅の大道芸人が、奇妙奇天烈奇奇怪怪、と辻で叫んで人々に見せて回っていた、いつまでも昇り続けられる階段の絵のようだった。

 ロレンスはホロが昔の仲間を探したがっているから、村の人たちからあえてたくさんの用件を請け負ったと言う。一方のホロは、ロレンスが村の人たちから用件を請け負ったのを見て、旅を続けてその用件をこなしきれるようにと、わざわざ理由を作り出していた。

 さらにはどちらも旅が遅れるかもしれないことを、セリムに謝ってきた。

 けれども、どちらも旅が遅れる本当の理由は相手にあると思っていて、相手を思いやるために、そうせざるを得ないと思っている。

「む、たわけが来てしまいんす」

 と、ホロは耳をぴんと立てて、外套や腰帯をセリムに押し付けてきた。

「持っててくりゃれ」

「え、あっ」

 ホロは言うや否や、獣の耳を手で撫で、尻尾をばさばさ振ってから手櫛で整え、「んむ」と頷いてから、炊事場を出た。

「ああ、そこにいたのか。お前、いつまでつまみ食いをしてるんだ?」

「たわけ。そんなことしておらぬ」

「ほう、ハンナさんに確認するからな」

「構わぬが、ぬしが間違っておった時には、覚悟するんじゃな」

 そんなやり取りが、壁の向こうから聞こえてくる。

 セリムはホロから渡された衣服を胸に抱きながら、なぜか、泣きそうな気持ちになっていた。

「まったく、こんなたわけと旅暮らしかや。気が重いのう」

「お前な、それはこっちの台詞だぞ」

 お互いに、今にも笑い出しそうな口調での、憎まれ口。

 二人は、二人の物語の中で生きている。

 セリムがハンナを見ると、ハンナはセリムの視線に気がつき、口の端を曖昧に笑わせて大きな肩をすくめていた。

 セリムは、湯屋の管理をうまくやれるのだろうかと、悪い夢を見るくらいに心配していた自分を笑いたかった。

 なぜなら。

「あのっ」

 セリムが炊事場から廊下に出て声をかけると、ぴったりくっついて歩く二人が、揃って振り向いた。

「あの……」

 セリムは息を呑み、それから、言った。

「早く、旅から戻ってきてくださいね」

 自分の立場からでは、到底言えないと思っていた言葉が、すんなりと出た。

 そして、その言葉を聞いたホロとロレンスは、まるで示し合わせたかのように、即座にお互いを指差し合った。

「「それは」」

 と、声が重なって、ホロとロレンスはむっとしてお互いを見る。

「なんじゃ、その指は」

「こちらこそ、その指の意味を聞きたいが」

 二人は、二人の物語の中を生きている。

 セリムは、今なら二人が戻って来るまでの間、湯屋を預かれると思うことができた。

 なぜなら、どうしてこの湯屋が繁盛しているのか、その秘密を理解したからだ。

「ふふ」

 セリムが笑うと、ホロとロレンスがきょとんとして、互いにお前のせいで笑われたではないかとやりあいだす。

 セリムは笑い、もう何年も忘れていたくらいに、笑った。

 二人は戻って来るし、この湯屋にいるすべての者が、二人のことを待つだろう。

 この湯屋は二人が幸せでいるために作られたのであり、人々はその様子を眺めるために、この湯屋にやって来るのだから。

 ニョッヒラの湯屋、狼と香辛料亭。

 笑顔と幸せが湧き出るという、評判の湯屋だった。



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