※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.61掲載の後半を抜粋したものです。
「ねえねえ、兄様。赤ちゃんの頃の私はどうだった? 兄様が面倒みてくれたって母様から聞いたよ?」
「え? ええ……まあ、そうですね。ロレンスさんもホロさんも、湯屋の経営を安定させるので精いっぱいでしたからね」
「でも、私はどれだけ思い出しても、その時のこと覚えてないんだよね……」
ミューリはつまらなそうに言う。
コルに遊んで欲しいとせがんでは断られ、ちょっかいをかけては叱られるミューリなので、せっかく遊んでもらっていたらしいのに……ということなのだろう。
「覚えてるのは……なんかねえ、変なんだけど、罠に引っかかったことばっかりなんだ。それとも、あれは夢なのかな」
小首を傾げるミューリは、実にあどけない。今は綺麗な服を着て、髪の毛も梳いておめかしをしているせいか、掛け値なしに可愛らしいと言える。
元々華奢な体つきだし、顔立ちはホロと瓜二つで整っている。
こうしていればどこに輿入れさせても恥ずかしくない女の子なのだが、その中身を知っているコルは、疲れたように笑うしかない。
「夢ではありませんよ」
「そうなの?」
無邪気に問い返すミューリに、コルはむず痒いような感情を覚えながら、答えた。
「あなたの元気さは溢れんばかりでしたから……どうしようもなくて、網の中に入れて天井からぶら下げておいたんですよ」
「へー……へ? ええ!?」
ミューリはぴんと耳を立てて、唇を引き結んだ。
「なにそれ! 兄様そんな意地悪だったの!?」
「意地悪ではありません。ああ、あの時のことを思い出すと未だに心臓が痛くなります……」
ただ泣いて乳を欲するだけの時は、ほとんどホロが相手をしていた。ホロやロレンスの手が足りない時に面倒を見ていたが、赤ん坊のミューリはひたすらに可愛らしかった。
苦労らしい苦労と言えば、ホロから受け継いだ獣の耳と尻尾があり、まだ赤ん坊ゆえにうまく隠すこともできないために、それを人目から隠すことだけだった。
だが、やがて自力で動くことを覚え、すっくと立ち上がる頃には、可愛いだけでは済まされなくなっていたのだ。
「大暴れとはあのことです。あらゆるものを掴み、投げ、叩き、ほんの一瞬目を離したらいなくなり、皆が血相を変えて探し回れば、とんでもない場所ですやすやと眠りこけているんですから」
「……」
ミューリは記憶にない自分の蛮行を挙げられて、しーらないっとばかりに目を逸らす。
「でも、網に入れられている時のミューリは……あれはあれで可愛かったですよ。それこそ罠にかかった仔犬みたいで」
笑うしかないと諦めたような様子のコルに、ミューリはちょっとそわそわしたように振り向いた。
「そうなの?」
「あの頃は体が小っちゃくて、尻尾が体と同じくらいの大きさだったんですよ。網の中で丸まって、ふわふわの尻尾を抱いてもそもそしている様は、愛らしかったですよ。ロレンスさんがしょっちゅう見惚れては、ホロさんに叱られていました。そういえば、尻尾を噛む癖もいつの間にかなくなりましたね」
口さみしいのか、当時のミューリは噛み癖があって、よく尻尾を涎でべたべたにしていた。
そして、それはミューリにとってちょっと恥ずかしい記憶なのか、肩を縮めて、頬を赤くしていた。
「そ、そんなことしないよ。もう赤ちゃんじゃないんだから」
「そうですね。ミューリも大きくなりました」
あれから十年が経った。数えきれないくらい叱り倒し、驚かされ、笑わされた。そのミューリもいよいよ一人の女性としてお披露目する時が来た。これからは、兄様、兄様、とまとわりつくことも無くなるだろうと思うと、少し寂しくもある。
今からこんな調子では、ミューリの嫁入りの際が思いやられるな、と自嘲した。
「ほら、髪の毛ももうすぐ結い終わります。前を向いて」
ミューリの髪の毛は不思議な冷たさを湛えていて、指で掬うとするりと零れ落ちる。
きちんと櫛で梳けばそれこそ輝くようであり、結いあげていてとても楽しい髪の毛だ。
左右、真ん中と三つに髪の毛を分け、左右一房をそれぞれ三つ編みにして、真ん中の髪を束ねるように再度編む。
手間のかかる編み込みで、湯屋を出入りする踊り子から教えてもらったものだ。
完成すれば、階下の者たち皆が目を瞠るだろう。
とはいえ、当の本人は、そんなことどうでもよさそうだった。
「はーあ……これから先、こんな服着て、こんな面倒な髪の毛で過ごさなきゃだめなの?」
網の中でもがいていた幼子のように、ミューリは新しく自らを縛ろうとする服装の中でなおももがく。
「さすがに毎日はしませんよ。こんな格好をしていたら、湯屋の手伝いができませんからね。けれど、今までとは違う、もっと女の子らしい格好と振る舞いは必要です」
「……」
声はなく、代わりにミューリは大きなため息をつく。
「いつまでも子供ではいられませんよ」
ミューリの諦めの悪さには慣れたものだ。悩まされることがありつつ、それもまた一つのミューリの可愛らしさだと思っているコルは、笑いながら髪の毛を仕上げにかかる。
「それに、お嫁に行くことを考えたら、今から慣れておかないといけません」
その言葉に、ミューリは足をばたばたさせながら言った。
「お嫁になんて行かないよ。父様もそんな必要ないって言ってたし」
一人娘に弱いロレンスは時たまそんなことを言って、ホロに尻をつねられている。
ロレンスの気持ちもわかるコルは同情するように笑い、ため息をついた。
「そういうわけにはいきませんよ。それが、世の中というものですから」
灰は灰に、塵は塵に還るように。
神の定めし世の流れに沿って、人は生きなければならない。
「でも、私は兄様の側がいいんだけど」
不貞腐れるようにミューリは言って、コルにまた背中を預けてくる。
信頼し、懐いてくれるミューリのことを、コルはもちろん愛しく思う。
けれど、微笑みに苦味が混じるのも、また事実。
「それは私が相手なら我がままを言えるからでしょう?」
ミューリは顔を上げて、コルの顎の下から視線を向けてくる。
責めるような、不服気な目つきだった。
「違うよ」
コルが肩をすくめると、ミューリはそのまま頭をコルの胸にぶつけている。
コルは笑って受け止めて、頭をポンポンと撫でた。
「私が願うのは、あなたが一生大切にしたいと思える人の側で、あなたが幸せに暮らせることです」
「だからそれは――」
と言い募ろうとするミューリを、コルはそっと後ろから抱きしめた。
「きちんとしていれば、ミューリは素晴らしい魅力の持ち主です。ですが、玉も磨かなければ光りません。あなたが振り向いて欲しいと願う誰かに気付いてもらうために、少しは自分を磨かないといけないということです」
ミューリはなおも不満そうだった。口に干し肉を咥え、山の中を駆けずり回るのが楽しいミューリには、こういう話をしてもわからないのかもしれない。
けれど、とても大切なことだ。
そのことを噛んで含めるように、ミューリの腕をとんとんと叩いていたら、ふと、ミューリがコルの腕の中で身じろぎした。
「ねえねえ、それって、兄様も、そう思うってこと?」
「ん?」
聞き返すと、ミューリがこちらを振り向いた。
髪の毛を結い終えたせいか、いつもより大人っぽく見えた。
「兄様も、綺麗に着飾った女の子をお嫁さんにしたいの?」
実に子供らしい質問に、コルは柔らかく微笑んで、答えた。
「私は聖職者を目指していますから……でも、そうですね。盗賊みたいな格好をして、服の袖で洟を拭っているあなたよりかは、きちんとした服を着て、女の子らしく微笑んでいるほうが好きですよ」
ミューリは初めて言葉を聞いた幼子のように、じっとコルのことを見つめている。
そして、その言葉を聞き届けると、随分神妙な顔つきで視線を戻す。
ようやくわかってもらえたのだろうか?
コルがやれやれと安堵していると、ミューリはまたコルのことを振り向いた。
今度は、さっきよりも妙に力強く。
「じゃあ、そうする」
ミューリは言って、笑顔を見せた。
珍しく聞き分けの良いミューリに、コルもまた嬉しくなる。
「わかってくれましたか?」
「うん」
耳と尻尾をぱたぱたさせるミューリに、コルは笑顔を返す。
「それでは、新しく生まれ変わった晴れ姿を、皆さんに見せに行きましょうか」
その肩をポンと叩くと、ミューリはぎこちなくはあったが立ち上がる。
髪を結い、立派な服に身を包んだその姿は、掛け値なしに美しかった。
「とても綺麗ですよ」
「ほんと?」
「もちろんです」
コルの返事に、ミューリは嬉しそうに笑顔を見せる。
「ほら、転んだら大変ですから、掴まって」
コルの差し出した手を、ミューリはそっと掴み、すぐに握り直す。
それから、ぎゅっと力を込めてくる。
「ねえ、兄様」
二人で部屋から出ようとしたところで、ミューリが口を開く。
「なんですか?」
呼ばれたコルが隣のミューリを見やると、ミューリは微笑むばかりで、なにも言わなかった。
「?」
と首を傾げるコルの腕を取ったミューリは、扉を開けた。
「なんでもない。それより、お腹空いた!」
「ミューリ、直さなければいけないのは、そういうところです」
ミューリは振り向き、悪戯っぽく舌を見せると、けらけらと笑う。
まったくもうとため息をつくコルだが、そんなミューリの様子が嫌いなわけではない。
廊下を進むと、階下の騒ぎがはっきりと聞こえてくる。元行商人と、賢狼と謳われた狼が作り上げた湯屋の、記念すべき節目を祝う声だ。今そこに、新しく誕生した小さな淑女が向かっている。コルは兄代わりとして、そんなミューリの手を引く嬉しさに胸が一杯だった。
ただ、だから気がつかなかったのかもしれない。
コルの横を歩くミューリの、その笑顔に。
「兄様、また、髪の毛結ってね?」
さっきまであんなに嫌がっていたのに、とは笑わない。蛹がある日突然蝶になるように、女の子もまた、突然そうなるのだろう。
「ええ、もちろん」
ミューリは嬉しそうに首をすくめ、肩を寄せてくる。
階段を下りて姿を見せれば、すでに賑やかだった広間がなお沸き上がった。ちやほやされてまんざらでもない様子のミューリの横で、コルは純粋にその成長を喜んでいた。
だからコルは結局、この先もしばらく気がつかないままだった。
小さな狼の胸の中に、はっきりと誕生した気持ちのことを。
それから、その銀色の狼の、狡猾さと周到さを。
「兄様」
まるで花嫁のように皆の前で祝われているミューリが、コルを見上げた。
「なんですか?」
無防備に聞き返すコルに、ミューリは母親のホロそっくりの笑みを見せた。
「ちょっと照れるね」
神の子羊であるコルは、羊のように、返事をした。
「私はあなたの成長を、誇らしく思います」
ミューリは悪戯っぽく笑う。
娘の成長に涙ぐむロレンスや、すでに酔っぱらってけらけら笑っているホロや、姪っ子のようにミューリのことを可愛がるルワードらを前に、コルは嘘偽りなくそう思う。
けれども、隣で微笑むのは賢狼の娘なのだ。
湯屋は節目の年を迎えた。ミューリは子供から大人になった。
そしてコルの新しい気苦労の日々が、今まさに始まろうとしていたのだった。
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