※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.62掲載の後半を抜粋したものです。
怒り狂った蜂に刺されるかとも思ったが、蜂はしばらく戸惑いがちにふらふらしてから、森の奥へと飛んで行った。
さほど早くもないが、目印の糸を見ながらだと、足を取られて何度も転びそうになる。
ホロは体力こそ見た目のままの少女だが、山歩きの巧みさそのものは狼らしさをうかがわせる。よたつくロレンスを振り向いては、余裕そうに後ろ向きに歩いたりして、にまにましていた。
「ほれほれ、気張って追いかけてくりゃれ」
踵を返し、飛ぶように歩いて行ってしまう。
ふわふわの尻尾が視線の先で揺れ、ロレンスは途中からその尻尾を頼りに歩いていた。
落ち葉を踏みしめ、巨木の根っこをまたぎ越え、軽やかな足取りのホロを必死に追いかける。
時折振り向くホロは、嬉しそうな、楽しそうな、からかうような微笑を口元に浮かべている。
体がなまっていることを湯屋でもからかわれていたロレンスは、なにくそと踏ん張るが、それ自体がホロには楽しいらしい。
少し距離を開けられたところで、蜂がどこかに止まったのか、足を止めたホロに追いついた。
「ふう、はあ……これじゃあ、蜂を追いかけてるのかお前を追いかけているのかわからん」
喘ぐように息を吸い、服をバタバタさせる。空気に動きの無い森の中だから、動くと酷く蒸し暑く感じる。
「ぬしはいっつもわっちの尻尾に夢中じゃからのう? 楽しいじゃろ?」
欠片の労いもないホロだが、意地悪そうな笑顔はロレンスがつい追いかけてしまうものだ。
「楽しいですよ」
嫌そうに答えると、ホロはくつくつと笑い、「む」と顔をあげた。
「再開じゃ」
「はいはい」
蜂は木から飛び立って、ふらふらと飛んで行く。ロレンスは忘れないようにと、時折硫黄の粉を落としていく。
もうロレンスの感覚では、荷馬車がどっちにあるのか全くわからない。人里など遥か彼方だろうから、ホロに見捨てられたら間違いなく野垂れ死ぬ。そう思ったが、ホロに捨てられたらなんにせよ生きてられないかと思い、一人苦笑した。
「ぬしよ」
と、突然足を止めたホロに声をかけられて、ぎくりとする。
「む、どうしたかや?」
怪訝そうな顔をされるが、汗が目に入ったふりをして誤魔化した。
「いや……そっちこそどうした」
「ふむ。巣が近い。すごい羽音がしんす。大物じゃ」
にんまりと牙を見せて笑う様は、ついさっきまでぶるぶる腕の中で震えていたとはとても思えないほど艶やかだ。
湯屋での穏やかな、繰り返しの生活も確かに素晴らしい。
けれど、旅はいつも驚きの連続で、人の意外な面を明らかにする。
ホロのような感情豊かな相手ならば、その楽しさもひとしおだ。
「で、どうするんじゃ?」
ころころと表情を変えるホロが、早速真剣な顔をして言った。
そして、その表情が見た目ほど真剣でないこともまた、よくわかる。
「どうするって、お前が狼の姿で採りに行ってくれるのが一番いいんだがな。分厚い毛皮があるんだ。刺されるにしても、ちょっとだろ」
そうする気はまったくないのだろうが、と責めるような目を向けると、ホロは自分のことを可愛いとわかっている娘特有の、こびた笑顔を見せた。
「ぬしは、わっちの狼の力に頼るのを嫌がるじゃろ?」
「……」
それはそうだが、そういうのはもっと矜持に関わるようなことであって、森の中での蜂の巣採りには……と言いたかったが、口論しても無駄だ。
そもそも、旅程が初日から遅れて野宿した挙句、火はきちんと熾せず、挙句に道に迷った。
ここで挽回できなければ、後でどんなわがままを言われるかわからない。
「姫のために死地に赴くのが騎士の役目だからな」
ロレンスは背負っていた荷物を下ろし、しゃがみこんで準備を始める。そのロレンスに、ホロがけらけら笑って「頼りない騎士じゃのう」と言いながら、後ろから背中に覆いかぶさって首に腕を回してくる。
機嫌が良くてなによりだ。
ロレンスは顔に首に手首に足首に布を巻き、目だけを出した状態で、火を熾す。
今度はすぐに火がついた。
「煙で蜂を追い払うのじゃったか」
棒の先端に枝を鳥の巣のように形作って括りつけ、足元の落ち葉をほじくり返し、若干湿った物を火種と共に乗せる。
たちまち白い煙がもやもやと立ち昇る。
「この程度だとほとんど気休めなんだがな」
「そうなのかや?」
「息もできないくらいぼんぼん焚けば効果もあるが……まあ、蜂の巣の下も落ち葉だらけだから……どうした?」
ロレンスの説明に、ホロがあらぬところを見ていた。もしかして、これから蜂に刺されまくる夫のことを気の毒に思ったのか、と思っていたら、ホロはひょいと指差した。
「それ、使ってみたらどうじゃ?」
「それ?」
ホロの指差した先にあったもの。それは、一掴み火にくべれば、地獄が顕現する悪魔の粉だった。
「いや、それは……」
ロレンスは口ごもりつつ、もしかして、とも思う。
「試してみるか。言われてみたら、ニョッヒラの村の中であんまり虫の類を見ないよな」
村中に満ち満ちる硫黄の匂い。立ち枯れしてしまう木も結構多く、地獄に関する説話に燃える硫黄の描写が多いのもうなずける。
「あと」
「んむ?」
きょとんとするホロに、ロレンスは得意げに言った。
「これでうまくいったら、この粉の新しい販路になるだろう?」
狼除けに使われたら効果がありそうだと言ったホロが、嫌そうに笑う。
「ぬしは教会の言う地獄に落ちても、儲けられそうじゃな」
商人冥利に尽きる褒め言葉だった。
結果として、蜂の巣は採れた。結構な大物で、きちんと蜂蜜を集めたらそれなりの量になるだろう。
代償は、ロレンスが咳き込むたびに肺の奥に苦い物を感じるのと、顔を三か所、首を二か所、手と足でそれぞれ五か所ほど刺されたこと。それから、自分でもわかるくらいの、自分の体から立ち昇る焦げた硫黄臭さ。
では、報酬は?
文字通り目を輝かせた、ホロの笑顔だ。
「ふんー! 甘い!」
蜂の巣は立派な物で、煙で燻したくらいでは中の蜂までは殺しきれない。しばらく袋に詰めて後処理が必要なのだが、ホロは味見と称して蜂の巣の一部を壊し、中に匙を突っ込んでいた。
たちまち滴るばかりの蜂蜜がまとわりつく。よく見かける蜂蜜よりも、濃厚な色合いをしたそれは、飴細工にすら見える。
ホロは尻尾をぱたぱた振りながら匙を口に運び、歓喜の叫び声を上げたというわけだ。
「俺も一舐めさせてくれ」
と言うと、御者台に座っているホロは、借金取りを前にしたかのような目つきをする。
しかし、身を挺して採りに行ってくれたのはロレンスであるからして……とでも言わんばかりに苦しげに目を閉じた後、匙をロレンスに向けていた。
ロレンスは苦笑いしつつ、小指で少しすくって舐める。見た目に違わず、濃厚な甘さだった。
それに、甘いだけではなく、ほのかに香ばしいような、朽ちかけた木のような、森の奥で嗅ぐような匂いがする。もちろんそれらは良い方向に作用して、味に深みを持たせていた。
「これはすごいな。なんの蜜なんだ?」
「ぬしも見ておるじゃろう」
ホロは言って、愛おしそうにちろりちろりと匙の蜂蜜を舐めている。
「この森の、大きな木じゃ。つまりは、木の蜜じゃな」
「木の蜜……樹液か。へえ」
そういえば蜂を追いかけている最中、時折木に止まっていた。
蜂は花だけから蜜を集めるのではないと、ロレンスも初めて知った。
「密猟者は、ここの蜜の秘密を知ってたのかな」
最初に蜂に糸を括りつけた誰か。
「どうじゃろうな。蜂はしょっちゅうとんでもない距離を飛んでおるからのう。遠くの山に迷い込んだ際につけられたのかもしれぬ」
なんにせよ、糸を括りつけた誰かは、あの蜂の巣を見つけられなかったわけなので、その可能性は高い。
「まあしかし、とんだ拾い物だった」
蜂の巣を採る際に使った道具類を片付け終わり、ロレンスは荷台の上の大きな麻袋を見やる。
「一時はどうなることかと思ったが」
自分の不手際も、これで釣りがくるほど清算できたはず。
木の匙をまだ意地汚く舐めているホロは、ロレンスの視線に気が付いて、ふんと鼻を鳴らした。
「甘い物でわっちの機嫌をとったつもりかや」
赤味がかったホロの琥珀色の瞳がじっと見つめてくるが、ロレンスは気にせずに御者台に上がり、ホロの隣に座る。ホロはわざとらしく鼻をつまみ、少し体を離す。
「もちろんだとも。あれを町に持ち込めば、手桶一杯くらい蜜が採れるだろうからな」
「ほおおお」
期待に目を輝かせるホロに、ロレンスは苦笑すらしない。
手綱をびしりとやって、馬を進めた。
「まったく、禍福はあざなえる縄のごとしってやつだ」
幸も不幸も縄のようなもので、すぐに入れ替わると過去の偉い人は言った。そのとおりだ。
「できれば福だけで編んだ手綱を握りたいものじゃがな」
ホロの憎まれ口に、ロレンスはこう答える。
「甘い物を食った後には、塩辛い物が食べたくなるだろう? そういうことだ」
「確かにそのとおりかもしれぬ」
そして、ホロはロレンスが手綱を握る手に、そっと自分の手を重ねて、身を寄せてきた。
「道に迷ったのは、しょっぱい誰かさんが船賃をケチったからじゃからのう。せいぜい、次の町ではあまーい振る舞いがされるんじゃと思いんす」
「はあ? いや、それは――」
「それは?」
ホロのにっこりとした笑顔に、ロレンスは口をつぐむ。
ホロに小首を傾げられ、ロレンスは詰めていた息を吐いた。
「蜂蜜の代金分。それが上限だからな」
ロレンスがちらりとホロを見ると、ホロは満足げに笑っていた。
「くふ。楽しい旅じゃのう?」
ホロはぎゅっとロレンスの腕にしがみついてくる。
こういう時だけ、臭いだのなんだのとは言わないので、さすがと言うべきか。
それでも、ホロのわざとらしい振る舞いは、すべてがわざとなわけではない。
愛する妻の笑顔くらい、その真偽は見分けられる。
「ああ、楽しいな。楽しいよ」
ロレンスは、言った。
「お前と一緒だもの。楽しいに決まってる」
ホロは目を見開き、耳と尻尾をばたばたさせていた。
ここは人里離れた深い森の中。
一際甘い香りが漂っているとすれば、きっと荷台の蜂の巣のせいだと、ロレンスは誰にともなく言い訳したのだった。
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