※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.64掲載の後半を抜粋したものです。
ビーベリーにもてなされた晩餐では、野兎、鶉、鴫、雁の肉が食卓に並んだ。
牛や豚のように大きな肉の塊を保存しておく類の肉ではなく、その都度狩りに赴かねばならない山の幸で、これらを町中で食べようと思えば金貨が飛んでいくだろう。
ホロはもちろん大喜びだったが、ロレンスとしては重圧がさらにのしかかる。
晩餐の席でビーベリーから聞いた話は、一筋縄ではいかなさそうなものだったからだ。
「ふう……久しぶりの美味な肉じゃった……」
ベッドに身を横たえ、お腹の上に手を乗せたホロが、満足げに尻尾を揺らしていた。
「あの肉を見れば明らかじゃ。屋敷の裏手に広がる森の質は、とびきりのものでありんす。あんな森に手を入れ、木を伐りだそうと考えておるとは、愚の骨頂じゃな。森から木を伐りだすことまかりならぬ、というあの髭はその点、なかなか見どころがありんす」
けふ、と小さなげっぷをしているホロを見やり、ベッドの隅に腰かけたままのロレンスは、蝋燭の明かりを見つめてため息をつく。
「それはそうなんだろうが……」
「なんじゃ、ぬしはたわけどもの肩を持つのかや?」
話が森の行く末に関わることだからか、ホロの言葉にはやや険がある。
たとえ自分の縄張りでなくとも、豊かな森が荒らされるのは我慢ならないらしい。
「木を伐り出して売りたい、という村人たちの気持ちもわかるんだよ」
「……ふん?」
目を閉じていたホロが、片目を開けてロレンスを見やる。
「異教徒との戦が終わり、貿易が活発になって、色々な物資が高騰している。ニョッヒラで小銭が払底して困り果てたのも、それが原因だ」
ロレンスたちが旅に出ると聞いた湯屋の主人たちが、小銭へと両替してきてほしい、と挙ってロレンスの元を訪れたのは記憶に新しい。
「中でも、木材は船や荷馬車、木箱や樽に使うから高騰している。この機を逃さず森から木を伐りだし、金に代えようというのは、間違った選択じゃない」
すると、ホロはごろりと横向きになり、頬杖をつくと、不機嫌そうに尻尾でベッドを叩く。
「たわけ。そんなことをしてはせっかくの森が荒れてしまいんす。さっき食べた肉のうまさを忘れたのかや?」
「その言い分もわかる。この村がのんびりとした雰囲気を保っていられるのは、豊かな森のおかげだろう」
「ふふん。わかっておるではないか」
まるで自分が褒められたかのように得意げなホロだが、ちょっと酔っているのかもしれない。
「ビーベリーも話のわかる人のよい領主のようだからな。茸や蜂蜜、それに野生の燕麦や大麦を森から収穫することを、気前よく村人たちに許していると言っていた。だからたとえ畑が大不作でも、食べるには困らないんだろう」
「うむ。それでよいではないか……」
そう言うホロの目は、すでに半分閉じている。よく食べて飲んだということもあろうが、久しぶりの旅の暮らしで疲れているのだろう。
「しかし、かといって銀貨なしで暮らしていけるわけでもない。村では自給自足できない商品を買うために、現金を稼がないとならない」
「うむ……じゃが、それで木を伐って売るというのは……愚策……」
がく、とホロの頭が頬杖から落ちる。
そのままもそもそと体を丸めているので、ロレンスはため息をつきながら立ち上がり、ホロが着たままのローブを脱がしにかかる。
「う~、このままでも構わぬ……」
「構わなくない。布が痛むんだよ」
「たわけ……」
言いながら、ホロの動きがどんどん緩慢になっていく。これで賢狼だと言い張って、一時は神と崇められていたのだから呆れる。
ロレンスはホロからローブをはぎ取って、首から提げている麦袋も外し、枕元に置く。
その頃には、ホロは小さな寝息を立てて夢の中だ。
「まったく」
ロレンスはため息をついて、ローブを畳み、木窓に歩み寄る。
秋の夜の空気は少し肌寒く、月明かりに照らされていても森の闇は深い。
「木は伐っても生えてくる……ならば高い値がつくうちに売っておこう、か」
村人たちの少なくない者がそう思っている。
しかし、代々領地を管理してきたビーベリーからすれば、そんな短絡的なことで森を荒らせば、今までのように森の恵みを得られなくなるかもしれない、と恐れている。
そこには森に対する信仰めいたものがあるにしても、決して根拠のないことではない。
茸でさえ、欲をかいて根こそぎにすると数年に渡って生えなくなる。木を伐り倒せば空気の流れが変わり、水の流れが変わり、植生が変われば、鳥や蜂の棲家も変わるだろう。
そして、再び樹木が生えそろうには一世代以上かかる。
果たして短絡的な手段に出てもいいのだろうか、と慎重になる理由はある。
だが、そうこうしている間に木材の値が下がったところで、不作や火事など、なにか現金が必要になる災害に見舞われたとしたら。
あの時に木材を売っていれば、という諍いになるのは目に見えている。
領主であるビーベリーとしては、村人たちの不満を減らし、領地のために幾ばくかの現金を準備しつつ、今後のために豊かな森は維持しておきたいという気持ちがある。
では、どうすべきか、という話だ。
じっと夜の森を遠目に眺めていたロレンスだが、ため息をついて、木窓を閉じる。
少し考えた程度で答えの出る問題ではない。村の人々から話を聞いて、場合によっては村長や村の主立った者たちを直接相手にしなければならないだろう。
これはどちらかというと商人の領分ではなく、人々の意向を汲んで、皆が納得する落としどころを探る問題だ。こういう時に頼りになるのは、まさしく賢狼と呼ばれたホロだろう。
ロレンスはそう思いつつ、「さて」と腕を組んでため息をつく。
そのホロが、背中を丸めて毛布にしがみつき、小さないびきをかいている。
「これで賢狼様だと言うんだからな」
毛布の下にあるホロの呑気な寝顔に、ロレンスは口の端で笑う。
その頬に口づけをしてから蝋燭を吹き消し、自分も毛布の下に入る。
とりあえず、すべては明日になってから。
眠りはあっという間に、訪れたのだった。
昨晩に振る舞われた肉のお礼、などという殊勝なことではないだろう。むしろ豊かな森が荒らされることへの義憤に駆られ、ホロは張り切っていた。
「おい、ホロ……待ってくれ!」
実際に森に入ってその様子を確かめるべく、珍しく早起きしたホロと一緒に赴いたのだが、ホロの歩く速さにロレンスが音を上げてしまう。
「なんじゃぬしよ、昨晩は酒の飲みすぎかや?」
山歩きは体力というより、歩き方を心得ているかどうかが重要らしい。
その点、ホロの足取りは文字どおり狼のそれで、飛ぶように歩いていく。湯屋の主人に収まっていたロレンスが追いかけるには、荷が重い。
「お前こそ……げほっ、げほっ……そんなにむきになって」
咳き込み、皮袋から冷たい水をロレンスが飲んでいると、ホロが赤く光った目を向けてくる。
「むきになどなっておらぬ。こんな森を荒らすなど、まったくたわけばかりじゃと思っておるだけじゃ!」
それがむきになっている、ということなのだが指摘するだけ無駄だろう。
ロレンスはため息をつき、小脇に抱えていた木の板を手に取った。蝋が引いてあって、尖った木のペンで文字を書くものだ。
そこには、村人から聞き集めた森に関する意見が細々と記してあった。
「とりあえず、ビーベリー家の森は見渡す限りだそうだ。この辺りは、えーっと……野生の麦類を収穫する場所になってるな」
大麦や燕麦は森の中でも採れる。きちんと育てたものよりかは質が劣るので、麦酒を作る際の足しにしたり、駄獣の飼料にするのだ。
「んむ。適度に開けておって日当たりも良く、少し丘になっておるから水はけもよい。わっちならば鹿や豚を追い払い、千年は豊作を約束できるじゃろう」
ホロは麦に宿る狼の化身なので、きっと本当のことなのだろう。
「この辺りならば木を伐っても影響は少ないのでは、と意見があるな」
むしろ土地が広くなるのでより麦類が生い茂るのでは、とロレンスも思う。
「ふん、たわけじゃな」
しかし、ホロは尻尾でそんな意見を弾き飛ばすかのように、身を翻らせて森の中の広場を見渡しながら言った。
「これ以上周りの木を伐ってみるがよい。天気の悪い日にたちまち風が吹き込んで、せっかく実った麦の穂をすべてなぎ倒してしまうじゃろう。そうすれば背の低い、無駄に太いのだけがはびこって、実などろくにつけぬことになりんす。数年後には、茨のような煮ても焼いても食えぬ草だらけになるじゃろう」
ホロは何百年とある村の麦畑にいて、その前はヨイツと呼ばれるニョッヒラよりも山深い地方にいた。ロレンスなど想像もできないほどの時間、森の変遷を見てきたに違いない。
刈り取りの終わった少し寂しい感じのする場所に立ち、目を細めて辺りを見回しているホロの横顔は、少し悲壮な感じすらあった。
「なるほどな。昔、行商で訪れた村でも、突然森の恵みから見放されることがあった。そういうことか」
「うむ。当たり前にあるから、なにをしてもそれが続くと思うのは、まあ、わっちもわからぬことではありんせん。じゃが、森はぬしらが扱う天秤よりも繊細なんじゃ」
ホロは身をかがめ、その場に残されていた麦わらを手に取って、子どものようにあてどもなく振り回す。
「で、次はどこじゃ?」
「ここから東に向かった場所だな……ん?」
ロレンスは村人から聞き集めた覚書を読みながら、声を上げる。
「どうしたのかや」
「ああ」
ロレンスは、木の板をホロに向けた。
「蜂に注意だとさ」
蜂の巣取りで刺された痕からは、まだ赤みがとれていない。
豚の脂を練った軟膏を塗っているのだが、手の届かないところに塗るのを手伝ってくれるホロも、もちろんロレンスの苦労を知っている。
だが、そこは食い意地の張った狼だ。
「物のついで、という言葉もあるじゃろう?」
「ない! 蜂の巣は採らないからな!」
断言しておかないと、なし崩しに蜂の巣探しになるかもしれない。
ホロはけらけら笑い、手にしていた麦わらを軽く食んでから、東を指し示す。
「ま、そっちに向かいんす」
なんだか浮き浮きした感じにロレンスはげんなりしつつ、ホロの後を追いかけたのだった。
小高い丘になっていた場所からくだっていくような道で、さすがのホロも慎重に歩いてくれた。平坦に見えるが、落ち葉が降り積もってちょっとした落とし穴になっている場所を教えてくれたり、空気の流れを感じ取って、歩きやすい迂回路を見つけたりしてくれた。
森はだんだんとその濃さを増し、空気も湿気を含んでいる。
常緑樹が多く、日の光は遮られがちだ。
なにかが爆ぜる音や、小枝の折れるような音がするのは、こちらからは見えない場所にいる鳥か、時折視界の隅をちょろちょろする栗鼠や野鼠だろう。
足元にはどんぐりや椎の実もたっぷり落ちていて、豚を放てばあっという間に肥えるはずだ。
「歩けば歩くほど良い森じゃのう」
ホロが感嘆のため息とともに言うのも、うなずける。
「村の連中が畑仕事に精をだしておらんのも、これならわかるというものじゃ」
「ん……村の畑は荒れているように見えなかったが、そうなのか?」
「地味のことなどあまり考えておらん様子じゃ。森に入ればいくらでも食べる物があるんじゃから、仕方ありんせん。まあ、そんなわけじゃから、余計にわっちには、どうして村の連中が森の処遇で揉めるのかまったくわかりんせん。この森を失えば、多くの者が困ろうに」
木の枝の上をちょろちょろと走る栗鼠を目で追いかけながらのホロの言葉に、ロレンスが答える。
「そりゃあ、森の恵みも万人に平等ではないからさ」
「ふむ?」
手持無沙汰なのか、麦わらから枝に持ち替えたホロは、ぴしぴしと木の根元を叩きながらロレンスを振り向く。
屈み込めば、解熱剤に使える薬草が生えていた。ビーベリーからは森の中から好きなだけ必要な物を取ってよいと言われているので、遠慮なく回収しておく。
「こういう薬草や、茸、木の実なんかは、皆にとって役に立つ。けれど、人の営みはちょっと複雑だからな」
ホロは口を挟まないが、続けろ、と目で言ってくる。
ロレンスはホロの隣を歩きながら、口を開く。
「森の恵みは豊かでも、貨幣に代えられる物は限られてるんだ」
「蜂蜜とかかや」
「ああ。食べ物だとそれが代表的だ。麦酒や果実酒も地方によっては商品になるが、この辺は水があまり良くないのか、話を聞かない。それに、これだけ人里離れていると、出荷に手間がかかる。酒は重いから、輸送量が価格のほとんどを占める。ここからだとよほど味が良くないと、まず市場では戦いになるまい」
ロレンスと共に行商の旅をしていたことでも思い出しているのか、ホロは思案気な顔をしている。
「ほかには、町から羊や豚を預かって放牧するなんてのもあるが、やっぱり距離が問題だな」
そんな話をしている時だった。
ホロがふと首を伸ばし、森の奥を見る。
「どうした?」
「……炭の匂いじゃ」
山火事か、と思ったがホロは慌てた感じでもない。それに、すぐに正体に気がつく。
「炭をつくる蒸し焼きをした跡だな」
こんもりと小高く土が積み上げられていた。
薪を湿った落ち葉と一緒に積み上げて火をつけ、真ん中に空気を通すための管を突き立て、土をかぶせていく。あとは一晩か二晩、放置しておけばいい。
「この炭も全員が必要とする物だが、特に必要とする者たちがいる」
「……肉屋かや?」
ロレンスが思わず吹き出すと、ホロに睨まれた。
「悪い悪い。炭でじっくり焼いた肉はうまいもんな」
ホロはぷいっとそっぽを向いて、手にしていた枝で炭焼きの跡をほじくり返す。
「炭を最も大量に消費するのは、鍛冶屋だよ」
「ああ……森の中で四六時中火を焚いて、金物の音をさせる連中じゃろ」
「それはよっぽど大規模な鍛冶場だな。まあでも、そんな感じだ」
「では、そいつらが木を伐り倒せと言っておるのかや?」
ホロの目が、ロレンスの持つ木の板に向けられる。
「それもある。特に燃料が高騰している今、釣られて金属類も高くなっているらしい。これだけ肥沃な森が側にあれば、大儲けの好機だと思うだろう」
「安直じゃな」
「機を見るに敏と言うべきかもしれない」
ホロは鼻を鳴らし、ため息をつく。
「基本的には、さっき言ったように村人全員に恩恵がある森の恵みは、金に代えるのが難しい。だが、金に代えられる森の恵みは、村人全員に恩恵がいきわたるわけではない」
木を伐り倒す樵、それを運ぶ荷役たちが主な受益者で、炭をつくる炭焼き職人や、鍛冶職人が後に続く。もちろん、彼らが儲けを全て懐に入れるわけではない。ビーベリーへの税を納めるし、村の蓄えにもなるはずだ。
しかし、金を稼いだのは俺たちだ、という自負が生まれ、村の中に序列を作り出す。
金にはならないが、村の人々の食卓をにぎわす採集や狩猟、それに畑で汗を流す者たちは面白くない。ビーベリーが森の荒廃以上に恐れるのは、そういう村の中の不和だ。
「なにかもっと、金に代えやすいものがあればいいんだけどな」
「ふむ」
ホロは目を閉じ、辺りに耳を澄ますようにしてから、言った。
「そうじゃ。毛皮はどうなんじゃ?」
ホロは狼の化身であり、市場には時折狼の毛皮も並ぶ。慎重になったほうがよい話題だが、ホロからふってきたのであれば、答えねばなるまい。
「数少ない換金商品だが……狩人たちは木の伐採におおむね賛成なんだよ」
ホロが眉をしかめた。
「獲物を追い立てるのに都合よく、木を伐り倒して欲しいとのことだ」
「……」
ホロは呆れたように肩を落とし、手にしていた木の枝で木の幹を叩く。
「人はたわけばっかりじゃ」
「ただ、毛皮職人たちは木の伐採に反対だから、ここは差し引きでとんとんだな」
「ふ……む?」
ホロが不思議そうな顔を見せた。なぜ毛皮職人が反対するのかわからないのだろう。
狩人がより多くの獣を狩れば、毛皮職人にも仕事が増える。
ロレンスは、人の世の仕組みを解説した。
「毛皮は鞣さなきゃならないだろ。そのためには奥深い森が必要なんだよ。だから……ああ、そうか。この蜂に注意って、そういうことか」
周りに生えている木を見て気がつく。
「残念だな。お前が望んでいるたぐいの蜂じゃないみたいだ」
「うえ……牛にたかる奴らかや」
血を吸う虻のことだろう。森の王者たる狼も、虫だけは支配できないようで、ホロは嫌そうな顔をしている。
「いや、木にたかる蜂だ」
「それは……あれじゃろ。蜜を集める蜂じゃろ? よくおるではないかや」
ついこのあいだ手に入れた蜂の巣も、樹液をたっぷり滲ませる木から蜜を集めていた。
だが、虫も様々な方法で木を利用する。
「木の中に家を作る奴らだ。ほら、たまに樹木に変な実が成っていることがないか?」
ホロはぽかんとしてから、曖昧にうなずく。
「う、む。たまにあるのう。木の枝から直接生えておったりするやつじゃろう? じゃが、あれは実というより……なんだか妙な木のコブじゃ。食べられるものではありんせん」
舌を出して顔をしかめるので、食べたことがあるのだろう。
「あれは蜂が卵を産み付けたせいでできるんだよ。いわば揺り籠だな」
虫に寄生された虫が泣くほど嫌いなホロは、そのことを思い出したのか顔色を無くす。ただ、蜂の子はうまいうまいといって食べるので、好奇心のほうが勝ったらしい。
「で? そんなものが毛皮となんの関係があるのかや」
「おおありだ。あのコブを刻んで、水に漬けて、煮だして、その液で皮を鞣すんだ」
「ほう。つまり……なるほど。毛皮ばっかり獲れても、鞣す材料がないと困るわけじゃな」
「そのとおり。そして、毛皮は数少ない貨幣に代えられる商品だ。村の中で森を守ろうとする一番の勢力だな」
ホロはうなずき、光明が見えたではないか、とばかりに笑いかけるが、ふと気がついたらしい。
「じゃがぬしよ、毛皮と木材を比べたら、どっちが儲かるのかや?」
さすが賢狼というべき、いや、元商人の妻というべきかもしれない。
「木材のほうが圧倒的だな」
ホロは憮然と鼻を鳴らし、木の枝を放り投げる。
そして、辺りを見回しながら、森の王さながらに腕組みをしていた。大きな儲けを得るほうが強い、ということはホロにもわかっている。
「だからまあ、朝に言ったように、お前の知恵が必要なんだよ」
森の中に入れば、木材に匹敵せずとも毛皮職人と共に対抗できる換金商品が見つからないかと一縷の望みを抱いてはいたが、やはりそう簡単にいきはしない。
ロレンスが市場に詳しい商人であるように、村人たちは生まれてからずっと森と共に暮らしているのだ。彼らが気がつかず、自分にだけ気がつくものがあるなどというのは、おこがましいことだろう。
「ふむう……森の利点、それから木を伐り倒した後の弊害ならわっちも言えるが……」
「それか、お前に一肌脱いでもらうか」
ロレンスの言葉に、ホロは唇を尖らせて耳と尻尾を不機嫌そうに揺らす。
「毛皮がないのはむしろこっちの姿のほうじゃ」
「じゃあ、毛皮を身に纏ってもらう、のほうが表現として正しいな」
ホロの真の姿は、見上げるばかりに巨大な狼だ。月の夜、巨大な遠吠えと共にその影がちらりとでも村人に目撃されれば、人々は黒き森の王に恐れをなすだろう。
その怒りを恐れ、森に手を入れるのは控えるかもしれない。
「……じゃが、それでか弱き娘やらを森に置くようになっても困るじゃろう。わっちゃあそうしょっちゅうこの森に来られるわけではありんせん」
森の王のみならず、山や泉に住まう精霊の怒りに触れた時、教会の教えが広まるよりも前の習慣を覚えている人々のすることは決まっている。めそめそと泣く人身御供の娘を前に、狼姿のホロが途方に暮れている姿は想像するとちょっと面白いが、笑いごとではない。それに人々が森を恐れて立ち入らなくなってしまうのも、かえって大きな問題だ。森を保つために全員が森の恵みに手を出せなくなれば、本末転倒なのだから。
「むしろ口八丁は、ぬしの領分じゃろう?」
あの手この手で食い物やらをねだるホロに言われたくない、と顔に出たのかもしれない。
ホロが近づいてきて、わざわざロレンスの足を踏んでから、また数歩離れて腕組みをする。
「ぬしの領分じゃろう?」
「そうですね」
ため息交じりに答えつつ、唸る。
「うーん……つまるところ、金の話なんだよな……。こんなに豊かな森なのに、金に代えられないってのはなあ」
ビーベリーの領地の村人たちも、風の噂に聞くだろうし、南に下って川に出れば、嫌でも目にするだろう。世の中が貿易に沸いていて、必要とされる木材がどんどん川を流れて運ばれていく。ならば我々もその恩恵に与るべきだ、と思わないほうがおかしい。
ロレンスとしては、多少森が荒れるとしても、現金を得るために木を伐り倒してもいいのではないかと思ってしまう。
それをはっきりと口に出せないのは、ホロのためだ。
ホロは森のことになるとすぐ頭に血が上るし、なにより、ビーベリーへと協力を申し出たのは、ホロが旅のことを記すための紙とインクを分けてもらうためだった。
そして、賢いホロは当然そのことを忘れたわけではない。
風が吹き、頭上のこずえが揺れるのを見上げてから、ホロは言った。
「このわっちも、大きな流れには逆らえぬ。人の世がぴかぴかの貨幣を望むのであれば、避けられぬことかもしれぬ」
「ホロ?」
「それに、文字を書くのにも銀貨だか金貨が必要なんじゃろう? ならば村の者たちが貨幣を欲しがっておるのを邪魔するのは、正しいこととも思えぬ。やつらにも、わっちのように欲しい物があるのじゃろう」
村の者たちも、決して贅沢のために木材を売ろうと言っているわけではない。貴重な貨幣を手に入れられる好機を逃したくない、というだけのことだ。
もしも村の蓄えを積み上げられれば、凶作の際は町に出て作物を買えるし、農作業や森での仕事のために鉄製品を揃えることだってできる。あるいは、新しい水車を近くの小川に設置することだってできる。貨幣は直接的に、村の人々の生活を助け、豊かにしてくれる。
人はパンのみで生きるに非ず、と聖典にあるように、村の人々も大地の恵みだけからすべてを賄えるわけではない。
ホロは炭焼きの跡の側に、自分自身が燃え尽きてしまったかのように、力なく立っていた。
「森を守るじゃとかそういうことは、とっくの昔に受け流せると思っておったんじゃがなあ」
ホロは苦笑交じりに言って、ロレンスの側に寄ってくる。
足を踏む代わりに、その手を掴んでくる。
「ぬしが久しぶりに旅に出て、火を熾すのに手間取ったり、手綱を握る手に力がこもりすぎておるように、わっちも少し湯につかりすぎて世のことを忘れておったようじゃ」
世の中は思いどおりにいかず、時には見て見ぬふりが必要になることもある。
商人としての道を歩んできたロレンスはもとより、時の移ろいの前にはただただ傍観せざるを得なかったホロもまた、そのことを身に染みて理解している。
ロレンスはホロの小さな手を握り返し、身をかがめてその獣の耳の付け根に口づけをした。
「少なくともビーベリーさんは善き領主だ。土地を支配する者として、やりすぎるようなことはしないだろう」
「……んむ」
ホロはうなずき、猫が甘えるように、ロレンスの胸に顔を押し付ける。
森の安寧を願うホロと、領主であるビーベリーの望みは叶えられない。
そのことをきっちり謝罪し、お詫びにあの巨大な蜂の巣でも差し出せば、心優しき領主であるビーベリーのことだ。紙とインクを分けてもらえるかもしれない。
そこまで思って、ふと閃いた。
「そうか。ビーベリーさんから紙とインクを受け取って、代わりに高値で売ってくれば多少の足しにはなるかもな」
どの道、こんな片田舎では、文字の読み書きができるのはビーベリーくらいのものだろう。
使わずに腐らせるくらいならば、金に代えたいと思うはずだ。
張り切って依頼を受けて失敗した埋め合わせに、銀貨に変えれば喜ばれるかもしれない。
そのことを説明すると、ホロは苦笑した。
「ぬしは転んでもただでは起きぬ」
「商人でございますから」
冗談めかした口調で言うと、ホロはくすりと笑い、ため息をついた。
「では、ひとまず詫びにいくかや。今晩は美味い肉はお預けじゃなあ」
「この木の板みたいに、しばらくは木の皮に旅の思い出を記してくれ。折りをみて紙とインクは買い集めるから」
「ふむ。それか、そこにあるような炭でどうにかならぬかや」
ホロの言葉に、炭焼きの跡を見た。
「炭だけだとすぐに滲んでしまう。膠を混ぜたインクの代用物を見たことがあるが、膠を作るには長時間、骨やら動物の腱やらを煮込まなきゃならない。それには森の木々が必要で……といったあんばいだ」
「ままならぬのう!」
ホロのわざとらしい叫びに笑ってしまう。
「しかしぬしよ」
と、ホロが言った。
「では、いつもわっちが使っておったインクはどうやって作るんじゃ?」
「ん? それはな、没食子と呼ばれる木の実みたいな形をした、木のコブを煮だして……え?」
「う?」
ホロとロレンスは互いに顔を見合わせていた。
「ぬしよ」
というホロの言葉に、ロレンスは顔がひきつったように笑う。
「……知識が頭にあっても、いつでも引っ張り出せるわけじゃない」
「ぬしの財布と同じじゃな」
一緒にするなと言いたいところだが、期待に目を輝かせ、尻尾をわさわさと振っているホロを見れば笑うしかない。
「村の人々も、その可能性には気がつかなかったんだな」
文字を読み書きできるのは領主であるビーベリーだけ。あるいはビーベリーでさえ無理かもしれない。町から離れた場所ではよくあることで、だとすればそもそも彼らの頭に、その発想がなくたって仕方がない。
「インクはコル坊とミューリのせいで、ずいぶん高値になっておると言っておったのう?」
「ああ。そして木のコブをたくさん確保するには、木がたくさん生い茂っている必要がある」
「ぬしよ」
と、ホロがにんまりとする。
世の中には時折、こんなことがある。
「この森を守り、ついでに村の人々の役にも立つ。高騰しているインクを量産すれば、伐ったら終わりの木材よりも長く大きく儲けられる」
「それから、わっち用のインクもじゃ!」
ホロと並んで森を後にしたロレンスは、ビーベリーに事の次第と、インクの製法と価格帯を伝えた。酒とちがってインクは少量で高値のつく優秀な商品だから、遠い場所へと運んでいっても十分に利益が望めるし、没食子の採集や加工は、子供にもできる。稼ぎに貢献できる者とできない者の差もできず、村の中でおかしな不和が生まれるのも避けられる。
「さすがは噂に名高いロレンス殿!」
ビーベリーからは過大な評価を賜り、その夜も素晴らしい御馳走が食卓に並んだ。
ホロはビーベリーから受け取ったインクで早速その日の食事のことを記していたが、酒の酔いが回って居眠りしていたところをロレンスがちらりと盗み見れば、そこにはロレンスの名前と、たまにはたわけも役に立つ、の一文があった。
「たわけは余計だ」
ロレンスは苦笑して、椅子の上で眠りこけているホロを抱き上げ、ベッドに運ぶ。
永遠のお姫様を寝かしつけてから、月明かりに照らされた紙の束を見やる。
そこにはこの先もたくさんの文字が記されることだろう。
楽しいことも、楽しくないことも時にはあるだろう。
「でも、すべてが良い思い出だ」
ロレンスは呟き、木窓に手をかける。
そして、本を閉じるように、木窓を閉じた。
長い長い旅路の、一幕のことだった。
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