※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2019年5月号掲載の後半を抜粋したものです。


 その後もターニャからいろいろと話を聞いたが、わかったのはターニャがあまり詳しいことを錬金術師から聞かされていないということ。それから、円盤はやはりただの鉄の塊で、不思議な仕掛けがあるようには思えなかったことだ。

 ロレンスがターニャの鏨の作業を眺めている間、ホロも周辺を嗅ぎまわっていたが、結局なにも見つからなかったらしい。山の中に堕天使がいるなどという話は、まずあり得ないだろうということだった。

 そんなわけで、ロレンスたちは日暮れを待って、山を下りた。

 ターニャはロレンスたちを見送りに山の麓にまで来て、木の皮から作った籠に溢れんばかりのどんぐりを詰めたものをお土産にくれた。おとぎ話だなと笑いかけたが、ターニャとしてはこの山の処遇をロレンスたちに託す、せめてものお礼のつもりだったようだ。

 夜の闇の中、ひとり山の中に戻っていくターニャの後ろ姿に、ロレンスは少しだけ胸が痛くなった。

 ターニャはロレンスが生まれる前、それこそロレンスの祖父の祖父の祖父の祖父の時代よりも前から、一人でこの山で暮らしていたはずだ。

 でも、今のターニャは師匠と呼んで慕う錬金術師の帰りをずっと待つ一方、この山とともに時の流れに翻弄されようとしている。

『ぬしよ』

 ホロが山裾の森を静かに駆けていく途中、ロレンスに声をかけた。

「どうした?」

 ロレンスは聞き返すが、ホロはなにも言わなかったし、ロレンスもそれ以上言葉を重ねなかった。ホロと連れ添ってだいぶ経ち、鈍いだのなんだのとホロに言われるロレンスでも、ホロの気持ちはわかっていた。

 せめてターニャがあの山で、この先も静かに錬金術師を待ち続けられるようにしたい。

 ホロに言われずとも、ロレンスはそのつもりだった。

「栗鼠の化身?」

 大聖堂に戻ると、エルサが昼間に焼いたというパンをふるまってくれた。

 ロレンスが担いで持って帰ってきた山ほどのどんぐりを見ると、粉にしてパンに混ぜれば食費が浮きますね、と言ってホロをおののかせていた。どんぐり粉の入ったパンのまずさは、狼さえ怯ませるのだ。

「なるほど。あの山に、そんな話があったのですね」

 エルサはロレンスからの話を聞き終えると、静かに言った。

「ただ、あの絵の登場人物は大体把握できたものの……鐘の謎はわからずじまいです」

 ホロはパンをむぐむぐと咀嚼して、挑むように飲み込んでから、言った。

「ぬしはあの山をどうするつもりじゃ?」

 ホロの目は、いつもエルサとやりあう時とは違う目つきだった。

 怒っているように見えるのに、その鋭さの裏にはなにかを隠している。

 そしてそのなにかとは、ホロが散々見てきた、人の世の光に照らされて居場所をなくしていく、月と森の時代に生きた者たちの末路だろう。

「私はあの土地の存在に気が付かなかった……そんなふりをすれば、あなたは満足ですか?」

 人の気配のない大聖堂の、来賓用の食堂だ。だだっ広い長テーブルの隅っこで、ロレンスたちは食事をとっている。テーブルの上には水を張った硝子製の鉢が置かれ、そこに浮かべた蝋燭の灯りがきらきらと鉢全体を煌めかせているために、驚くほど明るい。

 けれどその明るさに反して、三人が口を閉じれば沈黙はあまりにも重い。

 ゆらゆらと揺れる光る硝子の鉢を見つめながら、ロレンスは言った。

「エルサさんが気付かないふりをして村に戻っても、山が消えてなくなるわけではない。遅かれ早かれ、誰かが俎上に載せますよね」

 ロレンスが言うと、エルサは目を閉じ、ため息のように言った。

「残念ながら」

 ホロはそれ以上噛みつかず、不満はパンに向けていた。

 あの山はターニャがせっせと手入れをしていたために、いつの間にか緑生い茂る豊かな山になっている。呪いの噂を別にすれば、資産としての価値があることは明白だった。

「あの山を売れば、この司教領の人々の生活を楽にできます。新しい井戸を掘り、山向こうの町までの道を整備して、村で経営する旅籠だって建てられます。それでなくとも、今のご時世です。領地内に呪われた山がある、という不名誉に耐えられず、この聖堂に勤める聖職者が手放すことを望むかもしれません」

 教会に綱紀粛正を求められれば、それは単にため込んだ財産を吐き出すだけでは済まないだろう。聖職者としての品行、名誉、信仰の正しさ、それら全ての立て直しを求められている。

 ホロが嫌そうな顔をしているのは、そんな世の流れを作り出した原因の一端に、コルと娘のミューリがいるからだ。

「では、エルサさんは、あくまで、山の売却を?」

 その問いに、ロレンスが怯むくらい、エルサがきつい目を向けた。

「私を見くびらないでください。私にも情くらいはあります」

 四角四面の頑固な少女は去った。

 けれどエルサはむしろ今のほうが、よほど良い聖職者に見えた。

 エルサはかっとしたことを恥じるように顔を背け、肩の力をため息とともに抜いて、言った。

「……ですが、豊かな山があるのならば、人々のためにその恵みを分けてほしいというのが本音です。あれこれ調べていますが、もう長いことこの近辺は、聖堂の財産をゆっくり食いつぶしている状況ですから」

 あの山の様子を見れば、ロレンスでも即座に思いつく金儲けの道がいくつかある。あれだけどんぐりに溢れた土地ならば、豚の放し飼いは絶対うまくいくだろうし、あの手の木は薪としても優秀だから、切り出したって良い。折しも交易が盛んになり、船の建造が増えて、木材や炭の価格が高騰している時勢なのだ。需要も多いだろうし、運搬が大変ならば炭焼きを行って炭を輸出したっていい。

「じゃが、それはあのたわけの努力の結果じゃろうが。人はなにもしておらぬ」

 ホロは鋭く口を挟む。

「それに、あの山は分厚い落ち葉に覆われておるが、鉄を含んだ石がまだごろごろしておる。鉄の山として枯れたわけではありんせん。あくまで、木が枯れ、水が枯れ、人の世で言う天秤が釣り合わなくなっただけじゃろう。人があの山に再び入るようになれば、そのことに気が付くのは時間の問題じゃ。そうなれば、またぞろ採掘が始まるじゃろうよ!」

 精錬のための木材もたっぷりある。そして、ターニャは再び禿山になっていくのをただ見つめるしかなくなってしまう。それに人が山に入れば、あの門だってどれだけ隠しおおせるかわからない。やがてターニャはひたむきな努力で取り戻した緑を失い、託された門を失い、錬金術師とのつながりの一切を失い、何十年か何百年か後、再び一人で禿山に木の実を植え付けるのかもしれない。ひたすらに、錬金術師が戻ってくるのを待ちながら。

 そんな光景を想像してしまい、ロレンスは胸を締め付けられる思いだったが、先に涙を落としたのは隣のホロだった。

「……たわけがっ」

 ホロは椅子を蹴るようにして立ち上がり、食堂から出て行ってしまった。

 パンは食べかけで、酒もほとんど口にしていない。

 ロレンスは立ち上がりかけたが、どうしてもそれ以上動けかなかった。

 ホロを追いかけて、なんと言葉をかければいいのかわからなかったからだ。

「己の無力を感じますね」

 エルサの静かな言葉に、ロレンスは浮かしかけていた腰を下ろした。

「……ええ、まったく」

 ホロが揺らしたせいか、硝子の器から広がる光もゆらゆらと揺れている。

 この無慈悲な世界では、だれかが大事にしようとするなにかなど、些細なことで揺らめく幻の光に過ぎないのだ。

「ただ……私は世の無慈悲さ以外にも、錬金術師にささやかな怒りを感じます」

 パンをちぎろうとしていたエルサが、手を止めた。

「ロレンスさんが? なぜですか?」

「ターニャさんが言うには、錬金術師は猫の化身を連れていました。ならば人ならざる者たちの生きる時間が、人とはあまりにも違うことくらいはわかっていたはずです。ならば……」

 もう少し、ターニャに対してできることがあったのではないか。

 エルサはパンを持つ手をテーブルに力なく置いた。

「ならば……そうですね。あの絵は、錬金術師が残したのかもしれませんね」

 ロレンスが視線を向けると、エルサはロレンスのことではなく、食堂の壁に描かれた聖典の一節を再現した絵を見ていた。

「呪いの山を演出しても、記録を残さずにいれば、世代交代によってあっさり忘れられてしまうかもしれません。でも、絵にすれば何百年と残ります。だからその健気な栗鼠を守るため、置き土産にしていったのでしょう」

 人の生よりもあまりに長く生きる、人ならざる者たち。

 ターニャが師匠と呼んで慕う錬金術師はすでにこの世にないだろうが、聖堂に描かれた絵はきちんと残っている。

「錬金術師は、戻ってくるつもりがなかったのでしょうか」

 ロレンスの問いに、エルサは首を横に振った。

「それはわかりませんが、一番弟子と称する猫の少女の姿を、わざわざ門に彫刻して残したりしていたのでしょう? 話を聞いた私の印象からすると……戻ってくるつもりだったと思います。少なくとも、猫の少女が一人になった時、辿るべき場所として残しておいた気がします」

 あの少女の彫刻を見たとき、ロレンスが思ったのも同じことだった。ホロの絵をアティフに残そうとした自分と同じように、錬金術師は猫の少女のために、時の流れに取り残されてもあの底抜けに明るいターニャと再会できるように、と考えてあの円盤を残したのではないか。

 だからこそ、天使の話はでっち上げだろうとも思ったのだ。

「ただ、どんな問題にも万能の解決法はありません。元は石板に刻まれた聖典でさえ、何度も石板が複製され、さらには数多の羊皮紙に書き写されてこなければ、きっと後世まで残らなかったことでしょう」

「山に残されたターニャさんを助けるには、新たな継ぎを当てる必要があると?」

「新たな継ぎというよりも、新しい革袋ですね。新しい葡萄酒を古い革袋に注ぐな、とも聖典には書かれていますし」

 確かに、下手な取り繕いはせいぜい問題を数年先送りするだけだろう。根本的な問題として、この司教領は貧しく、あの山を売れば金になるという事実があるからだ。

 これまでは呪いという覆いでなんとかしのいできた。けれど教会の改革の機運のせいで、その線も危うくなっている。だからあの山とターニャを守りたければ、なにかもっと別の覆いをかける必要がある。あの山を守り、そこに侵入しようとする者を排除するような、なにかだ。

 ロレンスは椅子に深く腰掛け、ゆらゆらと揺れる硝子の器の灯りを見つめ、黙考した。

 たとえば今ニョッヒラの湯屋を任せているセリムたちを助けたように、奇跡を演出して逆に聖域として認めてもらうか? そうは思ったが、長い年月にわたって呪われた山とされていた場所であり、そこを急に聖域に変えようとするのは骨が折れそうだ。ましてや伝説には錬金術師の話が残っているのだから、なおさら分が悪い。

 そもそもエルサは近隣の者たちが呪われた山の話を知っているせいで、買い手がつかないと考えて遠方の地のアティフの司教に助けを求めていた。呪われた話のことなど気にもせず、欲得ずくで取引をしてくれる商人がいないものかと。

 ロレンスはその瞬間、ふと顔を上げた。

「商人?」

 つぶやくと、エルサが驚いたように目をぱちくりとさせた。

「商人……商人か」

「どうしました?」

 エルサに問われ、ロレンスは言葉を返そうとする。

 大きな水車がゆっくりと動き出す、そんな感触とともに。

「あの山を、予定通りに商人に売ったらどうですか?」

「え? それは……でも、いきなり、なぜ?」

「ちょっと待ってくださいよ、ええっと……」

 ロレンスはしばらく使っていなかった頭の部分を動かすため、目を閉じて額に手を当てる。

 湯屋の経営とは全く違う、蜘蛛の巣が張り巡らされたような商人たちの利害の網。

 ホロと旅をしていた時は、いかに目の前にぶら提がる糸を辿れるかに四苦八苦していた。

 けれど今のロレンスは、経験を経て、歳を重ね、再び旅に出れば思いがけぬ場所で思いがけぬ人に出会えるくらい、人とのつながりを築いてきた。

 ならば、その糸を使って布を編めば、あの山をすっぽり覆い隠すことも可能な気がした。

「そう、商人です。私には、兎の化身が経営にかかわっている、鉱山を屋台骨にした商会に伝手があります。採算が取れるなら、山の買い取りに興味を示すはずです」

 エルサは蜂蜜色の瞳を丸くして、今もそばかすが少し残る頬に、さっと朱色を乗せた。

「それなら迷える子羊……子栗鼠のことも気にかけてもらえますね」

「ただ、鉄の採掘を主軸に据えては無意味です。例えば、山の緑を維持できる速度で炭焼きを行うとか、そういうひねりが必要でしょうが、その商会、デバウ商会は、たくさん抱えている鉱山のために精錬用の炭はいくらあっても足りないはずです」

 エルサは健気な栗鼠の娘が悲しい目に合わずに済みそうだ、という可能性に顔を輝かせていたが、突然その表情を曇らせた。

「エルサさん?」

 ロレンスが問いかけると、エルサは苦しそうに唇を噛んでいた。

「ですが……炭焼きのためだけに山を購入するとして、それはいくらになるものでしょうか?」

 髪をひっ詰めて、背筋はいつもぴんと伸び、正しいことは正しいと物おじせずに口にする。

 そのエルサが着ているのは、この大聖堂を一時的に預かる、司祭服だ。

「安い値であれば、そのデバウ商会は山を購入してくれるでしょう。そして兎の化身であれば、所有権を盾によそ者の山への侵入を阻み、その栗鼠のターニャさんを守ってくれる可能性は高いと思います。ですが、私には私の役目があります。この司教領のために、財産を可能な限り高く処分する責任があります。まだ鉄が採れるはずの山を安く売ることは……私にはできません」

 ホロがいなくてよかった、とロレンスは思った。

 それは決して、エルサが頭の固いことを言い出して、せっかくの可能性の芽をつぶすことにホロが怒り狂う、と思ったからではない。

 なにが正義かを決して忘れない公正な魂を持つエルサに敬意を抱くところを、ホロに誤解されなくて済んだと思ったからだ。

「私は行商人上がりの湯屋の主人です。帳簿とにらめっこは得意です」

 ロレンスの言葉に、苦しげな顔をしていたエルサの眉間から、少しだけしわが取れた。

「エルサさんの期待する売却額は、ある程度決まっていますか?」

 実務的な問いに、エルサの顔はたちまち生気に満ちていく。あの生真面目なコルをして、謹厳実直と言わしめたエルサだ。聖堂に残された黴臭い帳簿は片っ端から調べてあるだろう。

「はい。大きなものには大きな器を、小さなものには小さな器を用意せよと神もおっしゃっています。私はなにがなんでも高値で売りたいのではなく、公正でありたいのです」

「では、計算しましょう。山を売却するために、私の知恵をすべてお出しします。そもそもが」

 と、ロレンスは微笑んだ。

「私はそういうことをするために、ここに呼ばれたのですからね」

 エルサも笑い、すぐに腰を上げる。

「お待ちください。道具を取ってまいりましょう」

 意気揚々と、エルサはホロが出て行ったのとは違う扉から外に出て行った。足音が遠く聞こえなくなってから、ロレンスもまた椅子から立ち上がる。部屋から出て行ったホロが待っているはずだった。

 けれど、これからホロのもとに向かうのは、慰めるためではない。この計算には、きっと無力感に打ちのめされているホロの知恵が必要なのだ。ロレンスはそう思いながら、席のすぐ後ろにあるホロが出て行った扉を開けた。

 そして、ホロの尻尾に擦りこまれている薔薇の香りは、暗闇でもはっきりわかる。

 ホロが扉のすぐ脇の壁に、唇を尖らせて、つま先を立てて、後ろ手に組んで、肩を小さくすくめながら寄りかかっていた。

「待ちぼうけを食わされている女の子みたいだな」

 ロレンスが思わずそう口にすると、夜闇の落ちた廊下でギラリと光るホロの赤い瞳が、ロレンスに向けられた。

「たわけ、わっちが傷心で飛び出したのに、なんでさっさと追いかけてこないのかや」

 ロレンスはやれやれと苦笑しながら、両腕を開いてホロを抱きしめる。

 ホロは尻尾でばしばしとロレンスの足を叩いてくるが、逃げ出そうとはしなかった。

「ホロ、森の王としての知恵を貸してほしい。あの山を禿山にしないまま木を伐り出すとしたら、どのくらい伐り出せる?」

 そういう知識なら、山に入って五十年の木こりでさえ、ホロには到底かなうまい。

 ホロはロレンスの胸から顔を上げ、ふんと鼻を鳴らしたのだった。



 司教領の中に埋もれている財産を金貨に変えれば、その金貨で人々の生活を良くすることができる。ならば緑が生い茂り、今なお鉄が採れると期待される山であれば、それにふさわしい金額で売却することこそ、神の正義に適う行いだろう。そういう観点から導き出された数字だったが、あの山から得られるであろう稼ぎをロレンスが積み上げ始めると、たちまちその遠さが露呈した。

「木の種類を変えて、手入れをすれば育成が早まるやもしれぬ」

 森のことなら何百年分もの知識があるホロが助言をするが、それでも蝋を敷いた木の板に書かれた数字は若干増える程度だ。

 旅をする身としては、炭や燃料の高さに目を剥くばかりだし、アティフでは木材取引も盛んでその値段の高さに驚かされた。なんなら道中では、木材の値上がりが原因で領地の村が不穏な雰囲気に包まれ、困り果てていた領主を助けることにもなった。

 だが、いざ計算してみると、鉄鉱山として計算した時との差に、愕然とするばかりだ。

 ロレンスはエルサが見せてくれた過去の帳簿の数字に、感嘆のため息をつくほかなかった。

「鉱山はこんなに儲かるんだな……」

 エルサが宝物庫から引っ張り出してきた帳簿には、目くるめく、としか言いようのない数字が踊っていた。そもそも一握りの鉄を得るために必要な炭は、人がすっぽり入れるほどの麻袋をいっぱいにしなければならないと言われているのだから、鉄と炭では商品として格が違いすぎたのだ。

「鉱山をめぐって争う権力者はいますが、炭焼き小屋をめぐって戦はしませんからね」

 エルサも帳簿から顔を上げ、落胆したような口調で言った。手元にある小さな硝子の眼鏡が、羊皮紙の上で鈍い光をたたえている。

「豚の放牧も小遣い稼ぎにしかならないでしょうし、茸の栽培も旅籠で出す食事の彩にしかなりません」

 ロレンスの言葉に、ホロが割り込んだ。

「果樹を植えればよい。山向こうは麦の取引が盛んなんじゃろう? パンに乗せる果物は大人気のはずじゃ」

「果物の栽培は手間がかかる。それに、ターニャさんは栗鼠だぞ。お前に羊の放牧を任せるようなものだ」

 ホロは反論しようとして、悔しそうに口を閉じる。つまみ食いをするかしないかよりも、御馳走を前に我慢し続けなければならない苦しみを想像したのだろう。

「鉄をほどほどに採掘して売ることはできませんか?」

 エルサの言葉に、ロレンスは苦い顔をする。

「最も近い市場は狭い街道で険しい山をいくつも越えた先です。鉱石のまま担いで運ぶなんて方法では到底採算が取れませんし、なんにせよ未精錬であれば買い叩かれるのが目に見えています。鉱石のままなら、大量に船で運ぶことでどうにかその帳尻を合わせられる、というところでしょうが……」

「ここに、船を出せるほどの川はありませんね」

 エルサはため息をつき、小さく言った。

「やはり、精錬をしないと?」

「そうですね」

 そして、鉄を精錬できるほどの火力を出すには、それ相応の木材が必要となる。炉を作る必要があり、それを管理する人員が必要であり、彼らが住まう家やらなにやらが必要になる。そのうえ、人を集めて多くの木材を燃やさなければならないのなら、採算をとるためにはまた相応の鉱石を精錬する必要があり、相応の鉱石を掘り出すとなれば、結局山を傷めていくことになる。

 計算すればするほど、ロレンスの案は絵に描いた小麦パンだとわかるばかりだった。

「山を高く売る方法……ですよね」

 金勘定とは最も縁の遠そうなエルサが、そんなことを言って頭を抱えている。

 帳簿に書かれた数字を睨みつけているが、聖典に書かれた聖句でさえ人を救わないのだとしたら、それがどれほど頼りになるだろうか。

 唸るエルサとロレンスの横で、ホロがテーブルを叩いた。

「売りつける相手はあの兎じゃろう!? わっちの牙で高く買わせればよい!」

 ホロが短絡と癇癪でそう言ったのなら、まだましだった。

「そのうえで、わっちが爪で鉄の石を掘って、掘った石を担いで遠くまで運べばよい。遠からず元が取れるじゃろう!」

 ホロの爪と、一晩で地平線の彼方にある山を越えられる脚力ならば、それが可能かもしれない。けれど、それは力だけが支配していた精霊の時代の話であり、鉱山の採掘はもっと複雑なのだ。

「鉱山の鉱石は、山の中に均等に埋まってるわけじゃない。鉱脈を追いかけて掘り進む必要がある。地下水を排水し、坑道が崩れないように支柱を立て、縦横無尽に掘り進まなければならない。だから大量の人と物資が必要なんだよ。温泉とは話が違う。お前の力だけじゃ、解決できないんだ」

 悔しげにうなるホロの手を取って、ロレンスは無言のままに慰める。

 力だけでどうにかなる世の中は、とっくに終わっているのだ。

「良い案だと思ったんだが……」

 ロレンスのため息交じりの言葉に、ホロが言う。

「まったくじゃ! いつも詰めが甘いからのう!」

 ホロはロレンスをなじりながらも、ロレンスに握られている手を振りほどこうとはしない。

 むしろ力はさらに強められ、自分の言うことを否定してくれと祈っているのがまるわかりだった。

「あの山になにか特権でもついていればよかったのでしょうけれど」

 エルサはため息をついて、帳簿の頁を一枚ずつめくる。

「免税特権などですか?」

「それもありますし、たとえば私が見てきたほかの教会の土地だと、貴族の称号を得られる土地などがありました。昨今の賑やかな交易で儲けた商人さんに、ずいぶん高値で売れましたよ」

 なんとか伯と呼ばれる、特定の土地を支配する人物に与えられる称号付きの土地だ。

 そういう土地ならば、不毛の土地でさえ買い手が現れる。

「ぬしが適当になにかでっちあげられぬのかや」

 ロレンスの手を握ったままのホロが、エルサに言う。

 エルサはホロとロレンスの手をちらりと見て、疲れたようにため息をついてから答える。

「理屈から言ったら、できなくはありませんよ。あの山を買ってくれたら、そこで小さな教会を構える権利を付与します、とか。けれど、デバウ商会の方が名ばかりの司教や修道院長と名乗りたいがために、お金を出すでしょうか」

 兎の化身のヒルデに、そんな気はさらさらないだろう。

「う~~……」

 ホロはうなり、尻尾で椅子の足を叩いてから、ロレンスの肩を掴む。

「ぬしよ、なにかないのかや……」

 ホロはターニャの話に、自分が追い出された麦畑のことを重ねているのだろう。

 それに、ロレンスが気が付いているくらいだから、ホロもまた錬金術師がもう二度とあの山には戻ってこない、ということをわかっているはずだ。

 この先も何百年と生きるホロには、ロレンスとの避けられない別れのこともある。

 ターニャを助けるのは、自分自身を助けることと同じなのだ。

「薄い可能性だが、一つだけある」

「なんじゃと!」

 驚くホロをよそに、エルサが怪訝な顔をしていた。

「ロレンスさん?」

 なぜ今更、という顔をしているが、ロレンスはやるせないため息とともに言った。

「あの伝説に出てくる天使ですよ。それと一緒なら、山を高く買ってくれる可能性はあるでしょう」

 ロレンスの言葉にぽかんとしていたホロは、急に眉を吊り上げた。

「ぬしはあのたわけの大事なものを売ろうとするつもりかやっ」

「違う。あの鉄の円盤はただの円盤だった。けれど、聖堂に描かれていた絵は、そのほとんどが実際にあったことだった。唯一不可解なのが、あの円盤から出てきた天使と、この聖堂の地下に残された鐘だ。俺には……」

 ロレンスは、ホロの手を取って、小さく揺すった。

「その点だけ法螺話だ、とは思えない。多分、そこも実際に起こった、事実なんだ」

「ということは……鉄の精錬を、炭を使わずに行ったという話も?」

「おそらく」

 そして、そんな天使の存在ならば、かなりの値をつけてくれるだろう。

「……その天使とやらをどう捕まえるんじゃ?」

 問題はそこだ。

「天使というのは……その、あなたたちのような鳥なのですか? 確かに、異教の神々の話の中には、火を吹く鳥もいますが……」

 エルサの至極もっともな問いだったが、ホロはロレンスを見やる。

「ぬしはそう思っておらぬ、という顔じゃ」

「私は……天使というのは、錬金術師の残した方便ではないかと思っています」

 髭面の厳めしい顔を円盤いっぱいに刻んだのは、おそらく仰々しい演出のためだ。その後に連れの少女を刻ませているのだって、間違いなく天使を牽制するためなんかじゃない。

 錬金術師は神など信じないし、ターニャは言った。

 ターニャが鑿と鏨をうまく使えるようになるころに、門の秘密を教えに戻ってくると。

「天使の話は、特殊な技術を誤魔化すためのものなのではないかと」

「技術?」

 エルサは眉を顰め、視線をテーブルに落とす。その手に持たれているのは、硝子職人の技術の結晶ともいえる、奇麗な眼鏡だ。それがあれば目の悪い人でも文字を拡大して見ることができるし、ほかにも色々使い方がある。その眼鏡を湯屋の留守を任せているセリムに買い与えたら、それこそ魔法のように驚いていた。

 錬金術師が残したのは、そういう、誰にも知られていない、珍しい技術なのではないか。

「門を開くと、天使が出てきて、鐘楼の鐘に穴を開けたということですよね。そんなことを実現する、技術があると?」

 今のロレンスには、まだそれがなんだか言うことはできない。けれど突破口があるとしたら、そこにしかないと思った。

 少なくとも、聖職者と商人と狼の化身が雁首揃えて天使を捕まえようとするよりかは、現実味がある。そんな折に、ホロがふと口を開く。

「鉄の精錬と言ったのう……それは、ひどく熱いものじゃろう……?」

 ロレンスとエルサがホロを見やると、ホロは急に耳と尻尾を逆立てて叫ぶ。

「ぬしよ、鍵じゃ! 地下の鍵を寄越しんす!」

「え、え?」

 戸惑うエルサをよそに、ホロはすでに走り出している。

 エルサとロレンスは食堂を飛び出すホロをぽかんと見送ったのち、「なにをしておる!」という怒鳴り声に我に返り、ホロを追いかけたのだった。



 じれったそうに宝物庫の前で待っていたホロは、エルサが鍵を開けると一目散に中に駆けていった。そして、鐘にかけられていた覆いを取り去り、床に膝をついて鼻を鐘にくっつける。

「やっぱりそうじゃ」

 ホロは体を起こすと、ロレンスの服の袖をつかんで鼻をかむ、のではなく逆に鼻で息を吸い込んでから、言った。

「この穴は、力任せに開けたものではありんせん。これは、こう……チーズを掻き出すように抉り取ったんじゃ」

「チーズのように……でも、力任せじゃなく?」

 謎々のようだったが、ロレンスはようやく気が付いた。

「まさか、溶かしたってことか?」

「んむ。二つの金物の匂いがはっきり分かれておるのもそういうことのようじゃ。それに、穴の様子があまりにも滑らかすぎる。爪でも牙でも、ましてや鳥の嘴でも、こんなのは無理じゃ。わっちにはそれゆえに、どうやって穴を開けたのかわからなかったんじゃ」

 ホロは再び鐘の側にしゃがみ込むと、自分の指を突っ込んで縁を撫でている。

 しかし、これが溶けたものだとしても、ロレンスは自分の常識を激しく揺さぶられていた。

 こんなふうにどうやって溶かすのだ? もしも溶けたせいでこの穴が開いたのなら、まるで熱された鉄の棒を、それこそチーズに押し当てたように溶けたとしか思えない。

 そして、おそらく真っ赤に焼けた鉄の棒を押し当てたって、こうはならないだろう。

 なにより、そんなことが伝説として残るはずもない。

「わっちにわかるのは、ここまでじゃ」

 ホロは残念そうに言って、立ち上がる。

「技術とやらは、人の世のものでありんす。わっちらの時代を終わらせ、森の奥へ奥へと追い立てる、ぬしらの強い武器じゃ」

 人はその才気とたゆまぬ努力によって、様々な道具を開発し、一人では到底切り倒せなかった木を切り倒し、川を埋め、山を削ってきた。ホロが当てつけのように言うのは、ターニャを救う手立てがあるとすれば、それは憎き技術だから、という矛盾のせいだろう。

「まあ、中にはそれみたいに役に立つ物もあるがのう」

 ホロが困ったように笑いながら指さしたのは、動転したエルサが食堂からそのまま持ってきてしまった硝子の小さな欠片、眼鏡だ。

「だが、門から天使が出てきて、裁きの光を下し、鐘を溶かし、鉄をも溶かす? そんな技術など……」

 ロレンスは頭を掻きながら考え、ターニャとの会話になにか手掛かりがないかと必死に思い出す。錬金術師の言葉に嘘がなく、ターニャに天使の謎を教えるつもりがあったのならば、ターニャに託した鉄の円盤に意味がないはずがない。間違いなくあれは、天使を呼び出すために必要な道具なのだ。

 門。鉄の門。

 ロレンスは、うめくように言った。

「そもそも、なぜ門なんだ?」

 そこからしてわからない。ターニャは、お師匠様が門を開くと天使が出てきた、というようなことを言っていた。

 門を開くと? しかし、あれはただの鉄の円盤だった。

 ロレンスは腰に括り付けてある財布から、一枚の銀貨を取り出した。

 片側の表面には、あの円盤と同じように厳めしい髭面が描かれている。

「ぬしは物のたとえ、のように言っておったじゃろ?」

「それはそうなんだが……」

 門を開くと天使が出てくる。しかも使い終わってからは、天使が出てこないように、髭面の反対側の面に猫の少女を彫り込んだという。

 それは本当に、意味のない、単なる感傷的な理由だったのか?

 ロレンスは、指でつまんだ銀貨を、門を開くかのように捻った。

「むっ、これ、ぬしっ」

 と、ホロが目を眇めて唸ったのは、エルサの手に持たれた燭台の灯りを銀貨が反射して、ホロの目をかすったからだ。ロレンスは慌てて謝ろうとして、口がそのままの形で固まった。

 眼をしぱしぱさせ手でこするホロを、エルサが心配そうに気遣っている。

 ロレンスの目は、そのエルサの手に釘付けになっていた。銀貨よりもよほどきらりと光る、特殊な技術で作られた硝子の欠片。銀貨によって反射された光。

 頭の中で、すべてがつながろうとしていた。

「ぬし……よ?」

「ロレンスさん?」

 ホロとエルサが、揃って心配そうな声をかけてくる。

 そして、ロレンスはその声に導かれるかのように、天井を見上げた。

 答えは、そこにあったのだ。

「謎が解けた」

 ホロとエルサは年の離れた姉妹のように寄り添ったまま、天井を見上げている。

 そこにあるのはただの光の模様だった。エルサが手にしている蝋燭から出た光が、ぴかぴかの鐘に反射してできた光の模様にすぎない。

 だが、そこには円環の模様があり、エルサの手にはもう一つ重要なものがあった。文字を拡大する道具だが、それにはまた別の使い方もある。

 さらにターニャの言った、天使が出てこないために掘られたという、猫の少女の像。

 ターニャが話していた伝説に関わるすべてのことには、意味があったのだ。

「エルサさん、天使を見つけました」

「えっ」

「あなたが手にしているのはいわば、天使の涙なんですよ」

 ぽかんとしたエルサが、手にした眼鏡と、ホロとを見比べている。

 先に動いたのは、ホロだ。

「ぬしよ、あれを助けられるのかや?」

 ロレンスは、言った。

「間違ってたら、頭からかじってくれ」

 ホロは目を見開き、体をすくめて耳と尻尾を揺らすと、牙を見せて笑ったのだった。



 ロレンスの気がついたことが確かなら、それが真実かどうか確かめられるのは日が昇ってからだ。そのことをホロに言ったのだが、一度こうと決めたらロレンス以上に物事に執着するホロは、仮眠をとることなどロレンスに許さなかった。

 なにか言うより早くに服を脱ぎ捨て狼の姿に戻ると、腹ばいになってじっとロレンスのことを見つめていた。

 きっと、背中に乗らなかったら朝までそうしているつもりか、首を伸ばしてロレンスを丸呑みにしていただろう。

「お気をつけて」

 ホロの脱ぎ捨てた服を、いつもそうしているとばかりに慣れた手つきで拾い上げたエルサが、呆れ半分、心配半分な顔でそう言った。

『ぬしはあの山を売るための手紙を書いて待っておるがよい』

 ホロはエルサにそう告げると、ロレンスがホロの背中にまたがり終える前に走り出していた。

 耳を切る風の音は、昨晩よりもすごい。地面を打つ足の勢いからも、ホロのはやる気持ちが強く伝わってくる。握りしめる毛皮の下からは、熱いくらいの体温が感じられた。

 ホロが全力で駆けるのは、今まで人知れず時の流れに飲み込まれてきた者たちのためだ。

 ホロはどんどん記憶から零れ落ちていく日々の出来事を、必死に日記に書き留めている。

 それを無駄なことだと嘲笑うことは確かにできるだろうが、そういうことを大切にしようと誓い合って、ロレンスとホロはここまで来た。

 だから、山裾の森に飛び込んだホロが、背中のロレンスのことなど忘れたかのように木々を避け、岩を飛び越え、山の斜面に牙を食い込ませて飛び上がるように駆けたとしても、ロレンスは文句を言わなかった。

 ターニャがいたのは、鉄の円盤を隠していた場所だった。久しぶりに雲のない夜だったので、ターニャは月明かりを頼りに作業をしていたのだろう、鑿と鏨を手にしたまま、円盤の上で眠りこけていた。

 その月も地平線に消えようとしている時刻、体中から湯気を立てるホロの様子に気が付き目を覚まし、ひっくり返っていた。

 ホロの背中から滑り降りたロレンスは、戸惑いまごつくターニャに、こう尋ねた。

「この門ですが、天使が出てきたのは、こちらの側ですよね?」

 指さしたのは、ターニャが花の模様をちまちまと刻み込んでいた、猫の化身である少女が刻まれた側だ。

『そ、そうです、けど……』

 そう。

 ならばこの少女の像は、錬金術師の言うとおりに、天使を牽制するものなのだろう。

 真実と異なるのは、この像そのものが、天使を封じ込める蓋だということだ。

「そして、この少女の像が刻み込まれる前は、奇麗に、それもものすごく奇麗に磨き上げられていた。違いますか?」

 ターニャは目を丸くさせて、鼻をひくひくとさせた。なにかに勘付いたようだった。

『そ、そのとおりです。あの、まさか』

 眠っている間も握り続けていたらしい鑿と鏨が、体の割に小さな手から落ちる。

 ふさりと受け止めたのは、ターニャが何十年とかけて育ててきた、木々の落ち葉だった。

「はい。天使の謎を解きましたよ」

 ロレンスの言葉に、ターニャは黒く小さな鼻をひくひくと震わせ、立ち尽くす。

 その後ろには、白んできた空と、山の輪郭が見えた。

「ターニャさん、門を立たせてください」

『は、はい』

 ターニャはわたわたと円盤にとりつくと、ひょいと立ち上げた。

 目を閉じて微笑む少女の姿が、明け方の青い光の中に浮かび上がる。

「この技術そのものは、それほど秘密のものではなかったんです」

 あの大聖堂に描かれた絵そっくりに円盤を支えているターニャは、思いのほか強い視線をロレンスに向けながら、髭を震わせた。

『で、ですが、お師匠様が天使様を呼び出したことで、たくさんの人が驚いていました』

「そうです。でもそれは、森の中で栗鼠を見たことがある人でも、あなたを見かけたら熊だと勘違いするのと同じなんです」

『へ……?』

 ロレンスは、微笑んで、言った。

「誰かが見たことのあるものでも、桁違いの規模でそれを実現すれば、それは一つの奇跡なのですよ」

 ロレンスは自分の足元に、濃い影が生まれていくのを見つめていた。

 背中から太陽が昇ろうとしている。今日という日を祝福するかのような、見事な朝日が昇ってこようとしている。

 ターニャはまぶしそうに眼を眇め、円盤に描かれた少女は微笑んで目を伏せている。

 これから起こることを、予期しているかのように。

「猫の化身が居座っているので、天使様は完全にその姿を現してはくれないかと思いますが」

 ロレンスがそう言った直後だ。

 連なる山の稜線のさらに向こう、この地域の穀物庫と呼ばれる大平原が広がる地平線の向こうから、太陽が顔を出した。

 さあっと音がしそうなほどの勢いで、巨大な円盤の窪んだ一面に光の奔流が流れ込む。

『あ、あっ!』

 ターニャがつぶらな瞳を限界まで見開いて、その時に起こったことを見つめていた。

 円盤の窪みに流れ込んだ光は、世の摂理に従って反射されていく。しかもその窪みはうまく調整されていて、少女の像に少なからず乱されながらも、光の奔流は一点を目指して光の筋を作っていく。

「眼鏡だよ、ホロ」

 ロレンスが言うと、それまで腹ばいになっていたホロが立ち上がる。

「セリムさんに渡すときも、きちんと注意をしたからな」

 ロレンスは振り向いて、言った。

「太陽の下に置かないこと。あれは光を集めて、そのせいで紙が焦げることがあるんだ」

 ホロは牙だらけの口を半開きにして、ターニャが毎日磨いていたらしい鉄の円盤が輝く様を見つめていた。

 それこそ門を開いたかのように、その奥に別の世界があるかのように光を反射し、未だ日光の当たらない森の木の幹を、痛いくらいのまぶしさで照らし出していた。

「眼鏡も奇麗に磨き上げないと、うまく文字を拡大しないし、火打石の代わりにはならない。多分、この鉄の円盤のくぼみも職人技で見事な調整を施してこそ、機能するんだろう。そして、だからこそ、使い終わった後に少女の像を刻み込んだんだ」

 再び光を反射して、火事を起こさないように。

 手のひらに収まる眼鏡でさえ紙を焦がせるならば、こんなに巨大な円盤で掻き集めた太陽光がなにをしでかすのか、ロレンスには強張った笑みでしか想像ができない。

 それこそ、青銅製の鐘を溶かし、鉄をも精錬してしまうのだろう。

『ああ、ああ……』

 ターニャは嗚咽を漏らし、円盤から手を放してしまう。

 大きな鉄の円盤はぐらりと揺れ、危うくロレンスの足をつぶしかけたが、ホロが襟首を咥えて引っ張ってくれたおかげで難を逃れた。

 舞い上がった落ち葉がきらきらと照らされて落ちる中、ターニャは涙をぽろぽろとこぼし、その場にうずくまってしまう。それは門の謎が解けたにしてはおかしな落涙だった。

 だが、その意味にはロレンスも気が付いていた。ターニャはちょっと間が抜けているが、人の生の長さくらいもちろん知っていたはずだ。きっと、気が付かないふりをしていたのだ。

 もう錬金術師は戻ってこない、ということを。

 謎は謎のまま、あの時の思い出は思い出のまま、この先二度と更新されることはなく、一度刻みつけられた過去はもう二度と、新しい色で描きなおすことはできないのだとということを。

 ロレンスは一瞬、門の謎を解くべきではなかったかと思った。

 そうすればターニャは自分自身を騙し続け、永遠の記憶の中で暮らせたかもしれない。たとえこの山から追い出されようとも、背中にこの円盤を担いでどこかの土地に移り、そこでひっそり暮らせたのかもしれない。

 ロレンスはそう思ったが、いきなり後ろからホロに小突かれた。

 そして、ホロはロレンスからの抗議が向けられるよりも先に、ターニャに歩み寄ると、その頬をでかい舌で荒っぽく舐めた。狼が獲物の味を確かめるように見えたそれだが、ターニャは顔を上げると、ホロの前足に縋りつく。ホロはそんなターニャの背中を舐め、腹ばいになると首筋のふわふわの毛のあたりに引き寄せていた。

『わっちらは長い時を生きる』

 ホロは言って、泣きじゃくるターニャを見下ろしてから、ロレンスを見た。

『じゃが、無限の長さの夢を見ることはできぬ』

 お前のやったことは間違いではない。

 ホロはそう言ってくれた。

 ロレンスは、その言葉を信じることにした。

 服についた落ち葉を払い、地面を見やると、円盤に刻み込まれた少女が目に入った。

 幸せそうに微笑む、天使のような姿なのだった。



 ロレンスから技術の概要を聞かされたエルサは、眼鏡を見やると、ちょっと怯えたように慌てて蝋燭の灯りから遠ざけていた。

 山で天使の謎を解いた後、落ち着いたターニャが語りたいだけ錬金術師との思い出を語るのを聞いてやった。そうして日が暮れてから、ロレンスたちは聖堂に戻った。

 その時はロレンスだけでなく、ターニャも背中に乗せて戻ることになった。

 エルサは巨大な栗鼠に目をぱちくりとさせていたが、さすが場数を踏んできただけはある。どんぐりのパンでも焼きましょうか、と言ってターニャを喜ばせていた。ホロはそれを止めるわけにもいかなかったのか、げんなりしていたのが面白かった。

 そして、エルサの記した山の売却に関する覚書と、ロレンスからヒルデに向けての手紙をホロの首に括り付けたのは、どんぐりのパンが焼ける前の深夜のことだった。

 パンが焼けてから行けばいいのに、というエルサに対し、ホロは逃げるように出発した。

 ホロの足であれば、だいぶ前に出発したニョッヒラでさえ、一昼夜で駆け戻れるだろう。

 それにあの鉄の円盤の存在は、鉱山を経営するヒルデにとっては値千金の存在に違いないから、あの山と抱き合わせで高値を出してくれるに違いなかった。

 ヒルデが万が一あの円盤に似た技術に気が付いていたとしたら、と思わなくもなかったが、その心配はターニャ自身の言葉によって解消された。

 あの山がどうなろうと、自分はずっとあの山にいる。円盤に刻まれた一番弟子様が、いつかお師匠様の思い出とともに戻ってくるかもしれないからと。

 ホロはそんなターニャに対し、牙に物を言わせてでも必ず兎に金貨を出させてみせるとかなんとか言っていた。ホロならやりかねないが、ロレンスは手紙に、ホロが無理強いするようなら教えてください、と書いておいた。

 そんなあれこれの思いを詰めた手紙を携えたホロは、あっという間に夜の闇に消えてしまう。

 ホロの姿を見送ったロレンスは、やれやれとため息をついて、空を見上げた。

 伝説として絵に描かれた彼らの物語は、まだこうして続いている。

「ロレンスさん、パンが焼けましたよ!」

 人の姿になってパン焼きを手伝っていたターニャの呼び声で、ロレンスは視線を空から戻す。

 それから振り向けば、ホロとは違う立派な体つきのターニャが手を振っている。

 ロレンスは手を振り返し、こうつぶやいた。

「妻への愛を示すため、パンを全部食べておこうかね」

 苦くてかたいどんぐりパン。

 いや、ひとつくらいは取っておこうかなと、ロレンスはそんなことを思って笑ったのだった。



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