※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2019年8月号掲載を抜粋したものです。
取引を辿って行ったら、誰もが支払いをできずに苦しんでいた。
誰かが悪いようでいて、誰も悪くない。
「だから、あくどい奴などどこにもいないのです。私を信じてください。ヴァラン司教領の財産は銅貨一枚たりとも棄損しないままに、ラウド商会の借金を消して見せます」
エルサの決断があったとしても、デバウ商会に売却した山の金はヴァラン司教領のものである。それを利用するのであれば当然司教領の者たちの決断が必要だが、当然彼らは渋ることになった。
なにせ、ロレンスが提案したのはラウド商会の借金の肩代わりなのだから。
「そうは言いましても……」
ロレンスが口にしているのは奇妙なことだった。
ラウド商会の借金を山の代金で肩代わりするが、欠片も損をせずに取り返して見せると豪語しているのだから。
しかし、結局彼らは折れた。
エルサの無限に続きそうな説教と、なによりラウドからの約束があったからだろう。
「恩は必ず返す」
彼らはこれからも長い付き合いなのだから。
「では」
と、ロレンスがエルサとサロニアの司教、それにはったりのために十人ほどぞろぞろ連れて、醸造組合に向かった。
彼らはラウド商会に酒を売ったが支払いを受けられず困窮していた。
そこに、デバウ商会の為替証書を突きつけた。
「この為替証書でラウド商会の借金を支払います」
為替証書に書き込まれたデバウ商会の金看板と、金額の巨大さに醸造組合の組合長は目を白黒させた。
しかも教会まで乗り込んできているのでてっきり牢に放り込まれるかと思いきや、借金を支払うと申し出られたのだ。訳が分からなくて当然だろう。
「そ、それは、その、ありがたい、のですが……」
いったいなんのつもりなのだ?
ロレンスは笑顔でこう言った。
「この為替証書をここに預ける条件はただ一つ。我々が支払う借金の金額分だけ、あなたがたに支払ってもらいたい借金があるのです」
組合長はぽかんとしたが、借金の支払いを受けられるのならば、手に入れたそれで自分たちの借金を軽くするのは別に悪いことではない。ましてや支払いを受ける条件と言われたらなおさらだし、目の前には筋金入りの聖職者面をしているエルサがいて、ついこの間商人を牢にぶち込んだ司教までがいる。
断ることなどできようはずもない。
「わ、わかりました……」
その返事にロレンスはうなずき、数字と信仰に明るいエルサに手続きをさせて、人を一人置いて為替証書を見張らせつつ、次の場所に向かった。醸造組合からは、この奇妙なやり取りがなんなのか見極めるべく、人が数人ついてきた。
次に訪れた木工職人組合では、さしもの強面の木工職人たちもロレンスたちの威容と、提案された内容に面食らい、提示された内容に不思議な顔をしつつ同意した。醸造組合から樽の分の支払いを受ける代わりに、その金をそのまま次の支払先に払うべし。
それから木工職人数人が一行に同行して、“干し草と鎌亭”に向かった。ロレンスが話を聞いた木材商人を見つけると、ついに捕縛の手が及んだのかと絶望していた商人をなだめてから、仲間を呼んでもらった。彼らの借金を調整して支払い、彼らが抱えている借金の種類を整理して、次の場所に持って行った。もちろん木材商人たちがぞろぞろとついてきた。
宿屋の組合では、あの組合長が白昼に竜を見たような顔をしてロレンスたちを迎え、あれよあれよと木材商人たちからの借金の支払いと、ラウド商会への支払いに同意した。
今やずいぶんな人数に膨れ上がった一行がラウド商会に向かえば、軒先ではラウドその人が部下たちとそわそわしながら待っていて、ロレンスたちが戻ってくると飛び上がらんばかりだった。
「して、首尾のほどは!?」
宿屋組合からの支払いが書かれた羊皮紙を見せると、ラウドはエルサのことを力いっぱい抱きしめていた。
そしてラウドも含めて醸造組合を再訪すれば、すべての輪が閉じられる。
「……おお、神よ……」
醸造組合長は奇跡を目の当たりにしたとばかりに、そうつぶやいた。
ロレンスたちは、宿屋組合から支払いを受けたラウド商会から本来醸造組合に本来支払うべきだった金額分の証書を、醸造組合長に渡し、預けていた為替証書を取り戻した。
その光景に、しばらく沈黙が舞い降りた。
口を開いたのは、ロレンスだ。
「御覧のとおり、金貨は一枚も増えていないし、減ってもいません。すべてはこの為替証書から始まり、ベンとインクによって支払いがなされ――」
ロレンスは居並ぶ面々を見回した。
「神の御加護の元、皆さまの借金が奇麗さっぱり消えました」
直後に耳をつんざくような歓声が上がり、彼らが足を踏み鳴らすせいで組合会館そのものが揺れた。
けれど誰も彼もが驚きの喜びに満ち溢れ、サロニアの司教と言わずエルサと言わず担ぎ上げ、神の偉大さを讃えていた。そんな騒ぎの中、ホロがやっぱりぽつんとしていた。
けれどそれは寂しそうなのではなく、狐に化かされたことに呆然としている狼そのものだった。
「どうだ、これが商人の魔法ってやつだ」
ホロははっと我に返り、霧の中の獲物を見つけるかのように、目を眇めた。
「……まったくわけがわからぬ」
ロレンスは肩をすくめ、少し考えてから、こう言った。
「辻の交差点を考えてみな」
「……む?」
「四本の道からそれぞれ、長い荷馬車が入ってくる。急いでいるから周りなんて見ていない」
ホロは目をきょときょとさせてから、それで? と顎をしゃくってくる。
「絵に描いてみたら一目瞭然だが、そうやって辻に入ってきた荷馬車は、相手の荷馬車が邪魔で前に進むことができない。しかも後ろを振り向くと、今度は別の奴が自分の荷馬車に進路を塞がれて罵ってくる」
「ふむ」
「さらにそこに次から次へと馬車やら旅人やらがやって来るから、もうお手上げだ」
「……それが、この町の状況じゃと?」
ロレンスはうなずく。
「本当は、どうにかなるんだ。皆が少しずつ後戻りして隙間を作り、その隙間を有効に活用してさらに隙間を作り、解きほぐせばいい。だが、こと金銭に関しては他人を信用できないし、絡まった辻のように状況を見渡すのがそもそも難しい。自分だけが誰かを信用して借金を支払ったとしても、その金は誰かの支払いのために使われ、虚空に消えるだけだとしか思えない」
ならば借金など支払わず、代わりに誰かに借金を支払わせることだけを考える。
「それができるのは、辻を見渡す宿の窓から、お前はそっち、お前はこっち、と命令を出せる誰かだけ。商いでそういう役目を担えるのは……」
ロレンスはホロの小さな鼻をちょんとつまむ。
「足で稼いで世の広さを知っている行商人だけってな」
ホロは鼻をつままれたまま、じっとロレンスのことを見つめていた。
「なんだよ。これでもまだ、俺はお前のせいで場末の湯屋の主人しかできなかったって言うつもりか?」
ロレンスはホロの鼻をつまんだり離したりしてから、言った。
「俺は好きで湯屋に収まり、お前のご機嫌取りをしてるんだ。本気を出せば、いつだって魔法を使えるけどな」
ホロは目を眇め、今にも泣きそうに唇を震わせた。
けれど出てきたのは涙ではなく、呆れたような笑みだった。
「たわけ」
ロレンスはやれやれと肩をすくめ、うっすら滲んでいたホロの目尻の涙を指で拭ってやる。
ホロは嬉しそうにされるがままで、エルサに見られたらまたなにか言われるだろうな、とロレンスは思った。
そして噂をすれば影、というわけではなかろうが、そのエルサが現れた。
「ああ、ロレンスさん、早くこっちに来てください!」
「え?」
もみくちゃにされたのだろうエルサはひっ詰めた髪がほつれ、頬が赤かったが、手に握られているのは証文の束だ。
「借金の輪は町にまだ山ほど残っているんですよ! でも同じような方法で解決できるならばと、すごい数の陳情が! ほら、早く!」
ロレンスはエルサに手を引かれるが、今度はホロは止めなかった。
「なんだ、止めないのか」
ロレンスのわざとらしい問いかけに、ホロは嬉しそうに肩をすくめた。
「必要ありんせん」
それから、ホロは軽い狼のような足取りで、ロレンスの隣に立った。
「わっちゃあずっとぬしの隣におるからの」
出会ってからずっとそうだった。
だからこれからも、ずっと、そう。
ロレンスは笑い、ホロも笑う。
サロニアのこの大騒ぎも、天の国から見れば些細な出来事かもしれない。
だが、ロレンスの腕の中には宝物がある。
「ホロ」
その名を呼ばれ、ホロはまばたきをする。
少し寂しがりの狼は、目を細めて楽しそうに笑ったのだった。
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