※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2020年2月号掲載の後半を抜粋したものです。
「兄様! 父様! 早くー!」
山の道なき道を、ミューリは飛ぶように駆けていく。ホロも慣れたもので、羽のような軽い足取りだ。さすがは狼母娘というところだが、ロレンスとコルは生身の人間なうえに、荷物を背負わされている。
息を切らしながら追いかけていくので精いっぱいで、たちまち山の中で方角を見失う。
「あいつらの機嫌を損ねたら……山の中で暮らす羽目になるな……」
「ははは……」
乾いた笑いのコルに、ロレンスは言った。
「しかし、悪魔ってなんなんだ?」
ミューリが宿に駆け戻るなりコルを呼んだのには、それなりの理由があるらしい。コルは教会法学を学んでいた時期があり、今でも聖職者になる夢を抱いて学び続けている。
そんなコルなので、悪魔退治にぴったりだとミューリは思ったらしい。
「なんでしょうね……。夜中の肝試しなら、鹿や兎を見てもそんな勘違いをしそうですけれど」
「うーん……おっと、目印だ。村の子供たちがつけてたのかな」
山に入る大人たちが使う道は、それなりに安全が確保された山道だが、腕白な子供たちの冒険心は道なき道の先にこそある。
「この辺は狩りの時でもあまり来ませんね」
「遠くないといいんだけどな……」
ロレンスは荷物を背負い直し、気ままな狼たちの尻尾を追いかけた。
それからしばらく進むと、対照的な毛色の尻尾がようやく動きを止めた。
「ふう……この辺か?」
「うん。多分」
荷物を持っていないとはいえ、ミューリは汗ひとつかいていない。早速酒をねだるホロのために革袋を出しながら、ロレンスは尋ねた。
「悪魔ってなんなんだ? 熊かなにかか?」
「ええ? 悪魔は悪魔だよ! 大体、熊なら見間違わないでしょ」
確かに村の子供たちなら動物を見間違えることもあるまい。だとすると、悪魔的な格好をした隠遁者か。人里離れた山の中には、時折人の世で暮らせない者が紛れ込むのだ。
「人の気配なんてあるか?」
革袋から葡萄酒を飲んでいたホロに尋ねると、その耳がぴんと立つ。
「あったらあのたわけも気が付くじゃろ」
唇の端についた葡萄酒をロレンスの服で拭い、ホロは大きく伸びをした。
「ふむ。しかしなかなかの場所ではないか。湯屋からさほど離れずとも、まだまだ良い場所はあるようじゃのう」
山に入るのは動物を獲るか食べ物を採るかのどちらかで、そういう場所は限られている。
「じゃあ、村の子供らはなにを見たんだ?」
ロレンスの問いにホロは答えず、革袋をロレンスに押し付けると、娘のミューリの後についていった。すっかり冒険のつもりで先頭を行くミューリの後ろで、ロレンスとコルはホロの指示で見つけた茸やらキイチゴやらを摘むのに忙しかった。
鍋を持ってきたのも、昼ご飯に茸鍋をしたいと湯屋の女王様が仰せだからだ。
それなら鍋をしたい者が荷物を持つべきでは……という正論を口にすれば、きっとロレンスだけ山において行かれることになる。そんなことを考えていると、ミューリが立ち止まっていることに気が付いた。どうやらずいぶん大きな樹にでくわしたらしい。全身を苔に覆われ、根っこのあたりは大きな熊が十分暮らせるような洞になっている、歳経た巨木だった。
「これは立派だな」
ぽかんと樹を見上げるミューリをよそに、ホロが言う。
「この辺で飯にでもするかのう」
森の木陰から見れば、確かに太陽は最も高いところを過ぎてだいぶ経っている。さっさとしないと帰る頃には日が暮れてしまう。
ロレンスたちが荷物を下ろすと、ミューリがはっと我に返ったように振り向いた。
「えー、悪魔はまだ見つけてないよ!?」
「村の子供たちの言うことだろう? からかわれたんじゃないのか」
ロレンスの言葉に、ミューリはむうっと頬を膨らませていた。
「わかったわかった。ご飯を食べたら父さんと一緒に探しに行こう」
「え~……」
今すぐにでも冒険を再開したそうなミューリは、ふてくされた様子で唇を尖らせる。そろそろ嫁入りのことも考えなければならない年頃だというのに、子供のまんまなその様子に、ロレンスは呆れるやら、なにかほっとするやらだった。
娘の成長を嬉しく思いつつ、自分の手から離れていってしまう寂しさに襲われる昨今なので、ロレンスはミューリの手を取って、「ほら先にご飯にしよう」と声をかける。
ミューリは渋々と従おうとして、不意にあらぬ方向を見た。
「……」
いや、正確にはミューリの狼の耳と鼻が小さく動いていた。
獲物に狙いを定めた若い狼。そんな様子のミューリははっとするほど凛々しく、美しかった。
そして、ホロにはない若々しい輝きに満ちたミューリは、巨木を回り込むように急に駆けだした。
「ミューリ!?」
ロレンスが慌てて追いかけて巨木の根っこを回り込めば、そこにミューリが立っていた。
そして、ロレンス譲りの銀色の毛並みの尻尾を、見たこともないくらいに逆立てていた。
「ぃっ……」
「え?」
立ち尽くしたミューリと、何事かと駆け寄ってくるコルの足音。
その瞬間、巨木が裂けたのかと思うような悲鳴が響き渡った。
「ぎゃあああああ!」
ミューリは尻尾の毛がすべて抜け落ちそうなくらい悲鳴を上げ、踵を返して駆けだした。
なにかとんでもない物を見つけてしまったらしい。
が、とにかく最愛の娘のこと。年頃になってからというもの、どうもよそよそしい娘のミューリを抱き止めるべく両手を広げたロレンスの、その脇をミューリが通り過ぎていった。
「兄様ぁー!」
「わっ、どうしたんですか」
「兄様、兄様! 悪魔! 悪魔がっ!」
ロレンスの後ろで、コルに抱き着いたミューリが涙声で叫んでいる。
コルはミューリをしっかりと抱き止めて、怯えるミューリをなだめている。
美しき兄妹愛、というところなのだろうが、ロレンスは広げた腕のやりどころに困っていた。
それに、もはや頼るのは父ではないのか、という寂寥感も漂わせながら。
がっくりしていると、さくさくという落ち葉を踏む音がした。
下から意地悪そうに笑いながら見上げてくるのは、ホロだ。
「たわけ」
にっと笑うと、中途半端に広がったままのロレンスの腕を取り、身を寄せてくる。
それから、なんでもお見通しの賢狼ホロは、ロレンスの腕を引いて歩き出す。そこは先ほどミューリが立ち尽くしていた場所で……と、ロレンスはびくりと足をすくませた。
地面から、悪魔が外に出ようとしていたのだ。
「おっ、わっ」
さしものロレンスも動転し、危うくひっくり返りそうになる。地面から突き出ていたのは真っ青な死人の手であり、それも化け物のように爪が長く、尖った、不気味な指だったのだから。
「こ、これは、お、おい」
まさか本当に山の中から悪魔が出てくるなど思いもしない。ロレンスが息を呑む横で、ホロはロレンスの腕を離すと、しゃがみこんで悪魔の指に手を伸ばす。
そして、少し強めに押したら、ぽきりと折れた。
「たわけ。茸じゃ」
「……え?!」
呆気に取られるのをよそに、ホロは肩を揺らして笑っていた。
「くっくっく……茸に腰を抜かそうとはのう?」
ホロは意地悪そうに笑い、手を払って立ち上がる。
「とはいえ、わっちも昔、森で見かけて、人が埋まっておるのかと掘った思い出がありんす」
「……そ、そうなのか?」
「死人の指にそっくりじゃからな。確か、そのまんまの名前で呼ばれておった気がするがのう」
ホロにつつかれて一本折れてしまったが、今なおそれは真っ青な悪魔の手にしか見えない。
「まあ、こんな綺麗に人の手のようになるのは、なかなか珍しいかもしれぬが」
慰めているのかそんなことを言うホロだが、ロレンスはふと気が付く。
「お前、最初から気が付いてたのか」
「さあてのう?」
ホロは肩をすくめ、振り向くと再びロレンスの手を取って歩き出す。
「ほれほれ、飯にしんす。人がまだ入っておらぬから、茸は大きくて取り放題じゃ。飯を食ったらハンナのために茸をたんと採らねばならぬ。酢漬けに塩漬け、干物も楽しみじゃな」
浮き浮きした様子のホロに呆れ、同時に笑ってしまう。
それはあるいは、知り尽くしたと思っていた世の中なのに、まだまだこんな不思議なことがあるのだなという嬉しい驚きだったのかもしれない。
「しかし」
と、ロレンスは思う。鍋の側でミューリを膝に乗せながら、器用に食事の準備をするコルを見やり、喉の奥でうなる。コルにしがみつくミューリは、コルに懐きすぎではなかろうか。
なにやら落ち着かぬ焦燥感に苛まれていると、ホロに袖を引かれた。
「どうしたかや?」
ホロを前にミューリのことでやきもきしていたら、またたわけだなんだとからかわれる。
父として夫として、威厳のある態度に努めなければ。
「いや、別に」
「ふむ?」
賢狼はなんでもお見通しのような笑みを浮かべつつ、それ以上の甘噛みはなかった。
それから火を熾し、鍋でたっぷりの茸を茹で、帰りもまたどっさり茸を採った。
ニョッヒラは夏の季節。
涼やかな風が日差しを和らげる、良い季節なのだった。
★『狼と香辛料 Spring Log編』の次のお話は、
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