※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.50掲載の後半を抜粋したものです。
囲炉裏と暖炉の両方にたっぷり薪をくべ、濡れた物を乾かした。他に客はおらず、しかも支払いが金貨の上客なので、どれだけ丁寧に扱ったって、丁寧にしすぎることはない。
しかし、体を温めるために湯に浸かるかとか、夕食まで軽くなにか食べるかとか、昼間はどこに行っていたのかとか、どれだけ声をかけてみてもむっつり黙り込んだままだった。たまに首を横に振ったり頷いたりするので、完全に無視をしているわけでもないだろうが、なんとも扱いづらい。
間抜けなところを見られてしまった負い目もあって、ロレンスはたじたじだった。
とはいえ過剰に構っても、余計に気を悪くするだけかもしれないと割り切った。なにか必要なことがあれば呼び立ててくださいとだけ言って、そっとしておいた。
ただ、サイラスに啖呵を切った手前、老人に聞きたいことはたくさんある。もちろん老人のためにも、彼が笑って帰れるように協力したかった。
ひとまず、雪まみれで帰ってきたところを見ると、ずっと山を歩き回っていたのだろうとわかる。それだけ必死になにかを探していても、成果が芳しくないらしい、ということもわかる。
だが、一体なにを?
考えれば考えるほど謎は深まるばかりだと、炊事場でハンナに愚痴ってみたりもした。というのも、簀巻きにされてベッドに放り出されたホロが怒って寝室から出てこないため、謎の客が囲炉裏で火にあたっている間は、他に居場所がなかったのだ。
「ただ、奥様の言う薬草取りは良い線だと私も思いますけどね」
夕飯の準備をしながら、ハンナはそう言った。雪にも負けず冬の間中育ちきった、緑色が不気味なほど濃くなった青菜をざくざくと切って、鍋の中に放り込む。
「なにか理由があるんですか?」
「さっき温めた葡萄酒をお出ししたんですけど、雪を食べてたんですよ」
「雪? 冷たい水が欲しかったのか?」
寒い外から戻って来たから熱い物を、というのは間違っていたかもしれない。散々体を動かして、喉がからからに乾いていたのだろうか。
「そういう感じではありませんでしたよ。だからです」
鍋の中に干し肉とキャベツの酢漬けを入れ、塩を大胆にふりかける。
「ゆっくり、確かめるように食べてらしてねえ。あれは、きっとどこか悪いんですよ」
ロレンスはハンナの言うことがわからない。きょとんと見つめていると、ハンナは意外そうな顔をした。
「あら、御存じないですか?」
「なにを?」
「オリーブが育つような南のほうじゃ、雪が薬として売られてるんですよ。頭痛、腹痛、発熱、歯痛にもよく効くって。まあ、買うのは貴族様だけでしょうけど」
ロレンスは首を横に振る。そこまで南に下ったことは、昔の行商時代にもなかった。
「南のほうでも、高い山の上なら冬に雪が採れますしねえ。あとは、行李にぎゅうぎゅうに詰めて、船の倉にそれこそ山と積んで運ぶそうですよ。で、穴を掘って埋めておいて、暑くなってから売るんだとか。元はただだから、たっぷり儲かるという話ですけど、ところ変わればなんとやら、ですね」
ははあ、とロレンスは感嘆のため息が出る。そういうのはきっと、大きな商会が大規模な流通網を使ってやるような商売だ。彼らの手腕がありさえすれば、空からいくらでも降ってくるものでさえ、金貨に変えてしまうのだ。
「ということは……南の人なのか?」
それも、雪が薬だと思えるほど、寒さと縁のないほど南の。それこそ自分ですら行ったことがない、話にしか聞いたことのない……。
ロレンスはそこまで思って、あっと声を上げていた。
竈の中の火を覗き込んでいたハンナが、怪訝な顔を向けてくる。
「もしかして――」
ロレンスが慌てて踵を返すと、空豆の入った笊を蹴っ飛ばしてしまう。
「おわ! わっ!」
たたらを踏み、散らばった空豆を拾う。後ろからハンナの笑い声が聞こえた。
「そそっかしい旦那様だこと」
面目ない、と肩越しに半笑いを見せるしかなかった。
「いいですよ、残りはやっておきますから。なにを思いついたのか知りませんがね」
それはどちらかというと、これ以上自分の縄張りを荒らすなという意味だろう。
「なら、すみませんが、後は任せます……」
ハンナは笑ったまま、肩をすくめていた。
ロレンスは笊を元の場所にだけ戻すと、そのまま炊事場を後にする。そして、帳簿台の下に置いてある粗末な紙とインク壺を取り出した。寒さで凍っているかと思ったが、そのまま使えそうだ。羽ペンもひったくるように掴み、囲炉裏のある部屋に向かった。
謎の客は囲炉裏の火を見つめながら、やはり雪を食べていた。ゆっくり、噛みしめるように、すべてを体に吸収するように。まるで隠者のようにも見えた老人が、ロレンスの足音に気がついて顔を上げる。
ロレンスは「失礼」とだけ言って囲炉裏の向かい側に腰をおろし、ペンを手に取った。
そして、知る限りの言語で、挨拶の一言を書き、紙を老人に向けた。老人は驚いたように目を見開き、ロレンスのことを見る。
ロレンスが一つずつ紙に書かれた挨拶を指差していくと、老人は白昼に竜を見たような顔をして、一文を示す。ロレンスも驚いたことに、老人が示したのはこの世のあらゆる場所、あるいは天国でも通じるはずの文字。しかし、教養が無ければ読めないはずの、教会文字だった。
「あなたは……一体?」
思わず、聞き返す。老人は答えようと口を開きかけ、すぐに閉じる。代わりに、ロレンスの持つ紙とペンを指差した。ロレンスはすぐに二つを貸し、老人はうなずくように会釈すると、さらさらと文字を書き始める。老人は無愛想でも偏屈でもなかった。単に言葉が不自由だったのだ。
それに、はるか南の地からやって来たのなら、まさか最近まで異教徒の国とされてきた僻地の温泉郷で、宿の主人が教会文字を使えるとも思わなかったのだろう。
とはいえ、ここに長いこと滞在していれば、客層に高位の聖職者が多いこともわかったはずではないのか。不便を感じていたのならば、彼らを介して湯屋の主人とも会話をできただろうに。
なにか妙だと思っていると、老人は書いたものを見せてきた。
「これは……」
ロレンスが目で問うと、老人はうなずく。
そこには、こう書かれていた。
――私はあるやんごとなきお方から、役目を仰せつかってここに来ました。そのためには、この村にあるはずの特別うまい水が必要です。しかし、どこの雪も清水も特別とは思われない。なにか御存じではないだろうか。
流麗で、折り目正しい文字だった。
薬草取り、という言葉がよみがえる。そして、ハンナの言っていた、雪という薬。
この老人が目的を安易に洩らさなかったのは、その薬を必要としているのが、やんごとなきお方だからだ。立場ある者は、弱みを見せれば狙われる。病のことを周囲に隠しているというのは大いに考えられた。ニョッヒラの逗留客は、南からも多くやって来る。教会文字を使えるような客にやり取りの仲介を頼めば、その客が自分の主人とは敵対する勢力の人間かもしれない。迂闊に薬を探していることを話すのは、ためらわれただろう。
老人が思いつめたような顔なのも、これで納得がいった。
「私は……」
ロレンスは返事をしようとして、老人がほとんどこの地方の言葉を解さないことを思い出す。
軽く頭を下げてから、ペンと紙を受け取り直し、したためる。
私はあまり詳しくありませんが、詳しい者に聞いて参りましょう。
老人は文字を読むと顔を上げ、改めて深々と頭を下げた。
ただ、ロレンスはやはりどうしても聞くしかなかった。
なぜ私にはその目的を告げたのですか?
一人ではどうしても見つからなかったからだろうか、とロレンスは思う。老人はやや困ったような顔をしつつ、結局ペンを手に取った。そこには、短くこう書かれている。
――あなたがたはとても信用が置けそうだったから。
なにを見てそう思ったのか、ロレンスは頭痛と共に思い当たることがある。だから多分信用というよりかは、こいつらならばいくらでも御せる、と思ったあたりが本当だろう。
しかし、もちろん信用を置いてくれたって問題ない。そのことには自信を持ってうなずきつつ、間抜けかもしれませんよ、と言い訳したい誘惑だけは、なんとか抑え込んだのだった。
山の中でなにかを探そうと思ったら、ここにはあまりにも心強い者たちがいる。
その中で最も信頼のおける者に尋ねれば、老人の望むうまい水とやらも、一発で見つかるだろう。ニョッヒラの山のことなら、たちどころに全てを知ることができるのだから。
問題は、そのいわば神のような存在が、つい先ほどロレンスによって簀巻きにされ、ベッドに放り投げられたので拗ねている、ということだった。
空手で向かっても嫌味を向けられるだけだろう。ロレンスは毛皮の上着を羽織り、まずサイラスの湯屋に向かった。小脇には、ホロも絶賛する羊の脇ばら肉の塩漬けがある。昼間の礼もあるし、ホロを懐柔するための酒を調達するつもりだった。それから、酒を仕込むのが趣味のサイラスなら、薬になるようなうまい水についても知っているのではないかと思ったのだ。
時刻は午後も遅く、太陽が山裾の向こうに隠れれば、村は急速に暗くなる。いつものニョッヒラならば、水の中にそっと火の消えない蝋燭を沈めたような様子になる頃だ。普段なら夜の宴会の準備が最も忙しい頃だが、今の時期なら客もいなくて暇だろう。
湯屋を訪ねると、サイラスの息子たちが長机について角突き合わせていた。木の玉と棒を組み合わせた計算機の使い方を学んでいるらしい。
ミューリと幼馴染のカームもいて、カームはロレンスに気がつくと背筋を伸ばしてひきつった笑みを浮かべていた。多分、求婚した相手の父親には愛想良く笑顔を見せるべきか、それとも男らしい顔を見せるべきかわからなかったのだろう。
ロレンスが安心させるように微笑むと、カームも少し緊張を解いていた。
「サイラスさんは?」
「は、はい、父なら、裏手で薪を」
「ありがとう」
ロレンスは言って、軽く付け加える。
「勉学には励むように」
「はい!」
カームは力強く返事をして、ぼけっとその様子を見ていた弟の頭を小突いていた。
言われたとおりに裏手に回ると、もろ肌から湯気を立てているサイラスが、斧を片手に一息ついていた。
「おや、どうされた」
「昼間の礼にと思い」
小脇に抱えていた包みを渡す。サイラスは受け取り、中身を見て目を瞠る。
「これは……私もずいぶん商売上手になったものだ。わずかの酒が素晴らしい肉に化けた」
「そこにはお礼と、お聞きしたいことが一つと、お願いしたいこと一つ分も含まれています」
ロレンスがしれっと言った言葉に、サイラスは肩を揺らして笑った。
「なんでも聞こう。これは酒が進む良い肉だ」
サイラスは肉を包み直し、薪置き場から繋がる炊事場に一度肉を置きに行き、再び戻って来ると斧を構えた。
「薪を割りながらでも構わないかね」
「もちろんです」
サイラスは頷き、振り上げた斧を力まずにすとんと落とす。小気味よい音と共に、薪が二つに割れた。
「あのご老人から、探し物を聞きだせました」
薪を切株の上に置いていたサイラスは、視線だけをロレンスに向ける。
「はるか南の地からやって来たらしく、寡黙だったのは単に言葉が通じなかったようです」
「それで、どうやって会話を?」
「教会文字です。行商をやっていると、時折必要になりましたので」
「……どれだけの酒を渡したら、息子たちに教えてくれる?」
本気で学ぼうと思えば、逗留客に請えばいい。サイラスなりの冗談だ。
「いつでも言ってください。それで、かのお客様は、うまい水を探しているのだとか」
「うまい水」
「南のほうでは、雪を薬に使う習慣があるとか。なので、そういう目的なのではと」
サイラスは遠い目をし、しかし、体だけは淀みなく薪を割り続ける。
「なるほどな。奇跡の泉で長寿を得たり、病が治ったりは、よくある迷信だ」
「死人も目を覚ますほどうまい水に心当たりは?」
「ある。ロレンスさんも昼間に飲んだだろう」
「酒の仕込みに使うものですか」
「そうだ。そのへんの客に出すなら川の水でも十分だし、酔っ払いに出すなら雪を溶かした硫黄臭い水でもいい。だが、味のわかる客に出す酒を仕込むには、それでなきゃならない水がある。あるいは、支払いに金貨を使うような上客にもな」
「教えていただけますか?」
上等すぎる羊の脇ばら肉を持ってきたのには、理由がある。酒を仕込むのが趣味ならば、水の在り処にこれではないか、という心当たりがあるだろうと思っていた。
しかし、もしも味の秘密がその水なのだとしたら、おいそれと人に教えるものではない。
「と、思っているという顔だな」
サイラスはロレンスの胸中をそっくりそのまま口にして、笑った。
「秘密でもなんでもない。狩人たちが『灰色狼の道』と呼ぶ支道を北に向かって行けば、深く切り込んだ谷間にぶつかる。体が入り込むぎりぎりまで行くと、どれだけ寒くても絶対に凍らない泉がある。そこの水は絶品だ」
「おお……あ、ありがとうございます」
あまりにあっさり教えてもらえたので拍子抜けしながらロレンスが礼を言うと、サイラスはごつい肩をすくめる。
「村の一員なら、みんな知ってる事さ」
一瞬、自分の前に線を引かれた気がした。
だが、相手を信頼していれば、こうも解釈できる。
ロレンスさんも、もう知っていていい頃あいだ、と。
「この礼は、必ず」
「すでに貰ったよ」
サイラスは笑い、薪割りに戻る。ロレンスは商人の癖でもう一度礼を言いそうになったが、ぐっとこらえた。『仲間』ならば、それは逆に失礼だ。
「帰るなら、カームに言って好きな酒を持っていきな。昼間に酔っぱらって帰ったから、可愛い嫁さんが怒ってるんだろう?」
「……大体合っています」
「どこも一緒ってことだな」
サイラスの笑みに、ロレンスは降参のため息をつく。
「ではまた」
「ああ」
もうこちらを見もしない。ロレンスも踵を返し、表に回って酒を受け取った。
サイラスの湯屋が遠くなってからもう一度振り返ると、暗くなり始めた中に、形の良い湯屋がそっと佇んでいたのだった。
サイラスから受け取った酒をホロに渡し、なんとか機嫌を直してもらうと、改めて水のことを聞いた。ハンナも山菜を取りに行ったりと山に入るので聞いてみれば、サイラスの言った場所の水が一番とのことだった。
なんだそれならばサイラスから酒を貰わずに済んだではないか、などと少しでも匂わせようものなら、ホロに齧られる。うまい酒にご機嫌なので、それだけで良しとした。
教会文字を介して話せるようになった老人は、ケレスとだけ名乗った。主君のために密命を帯びてここにいるのなら本名ではなかろうが、関係のないことだ。
それに、湯屋にはケレス以外に客がおらず、あまりにも静かなので夕食を共にどうかと提案したら快く応じてくれた。相変わらずの気難しげな顔だったが、どうやらそこは元々らしかった。食事は的確に褒め、ホロが旺盛な食欲を見せてロレンスがそれを諌める様子には、ほんのわずかに、楽しそうに目を細めていた。自分たちの振る舞いをまるで孫のじゃれあいのように見られるのは気恥ずかしかったが、ケレスが楽しんでいるのなら、湯屋の主人としては甘んじて笑われるべきだった。
翌日、採水の手伝いに着いて行こうとか提案したロレンスに、ケレスはゆっくり首を横に振る。水を汲むための陶製の器だけ貸してほしいと頼まれた。自分の仕事ということだろう。仕事に対する誇り高さは、まるで騎士のようだった。
『灰色狼の支道』の場所と、そこに入るための目印を教え、ロレンスとハンナはまだ夜の明けきらない時間に、ケレスを見送った。ホロは寒いと言ってベッドで眠りこけている。
ケレスは相変わらずのむっつりした顔だったが、後ろ姿は足取りが軽いように見えた。
やれやれこれで一件落着だ、とロレンスは満足げにため息をつく。
そして、軽く二度寝をしてから日々の仕事にかまけていた、昼過ぎのこと。
戻って来たケレスの顔は、それとわかるほどに落胆していた。
「水が取れなかったのですか?」
サイラスの話ではどんなに寒くても凍らないとのことだったが、山ではなにが起こるかわからない。そう思って尋ねると、ケレスは首をゆっくり横に振る。多分、言葉を理解していたのではなく、失望を現してのものだろう。
「とりあえず、濡れた物を乾かしましょう」
ロレンスが囲炉裏や暖炉に薪をくべるのをよそに、ケレスはじっと、腕で抱きかかえる陶製の器の中を見つめている。思いつめた、悲しげな顔だった。
「どうぞ」
身振りで火を勧めると、ケレスは諦めたように従った。抱えていた陶製の器もロレンスが丁重に受け取り、今ばかりはおとなしく様子を見ているホロに渡す。それからロレンスは、ケレスの濡れた衣服を干すのを手伝った。
ひととおり終わり、ケレスには温めた葡萄酒を渡してから、ロレンスは隣の食堂でホロにそっと耳打ちする。
「この水じゃないのか?」
ホロは器の中身を嗅いで、首をひねる。
「これだと思いんす」
狼並みの嗅覚なので、うまい水も匂いでわかるのだろう。
しかし、だとするとケレスはなぜあれほど落胆しているのか。ロレンスはそこまで思い、ふと気になる。ケレスはどうして、この水が望みのものではないと思うのか。逆に言えば、彼は一体、水にどんな特徴があれば望みのものだと思うのだろうか?
「なあ、奇跡の泉ってのは本当にあるのか?」
ロレンスが唐突に尋ねると、ホロはきょとんと見つめ返す。
「ほら、若返りの水とか、傷が治る水とか」
説明すると、ホロはそういうことかとうなずく。
「わっちもそういう迷信は知っておるがのう。ぬしは、わっちがずっと昼寝しておったパスロエの村の、その麦で作ったパンを食べたことがあるじゃろ?」
ホロがその義理堅さから、何百年と麦の豊作を見守っていた村。ロレンスは昔、そこを行商路に組み込んで度々立ち寄っていた。
しかし、突然なにを? と面喰らっていると、ホロは意地悪く笑う。
「ぬしはわっちのありがたい奇跡が染み込んだ麦のパンを食べた。じゃが、ぬしのたわけは治らなかった」
「……」
ロレンスがため息をつくと、ホロはくつくつと喉を鳴らす。しかし、それはあまりにもわかりやすい答えだ。
「だとすると……」
ケレスは実のところ、水になにを求めているのか。あるいは、迷信を頭から信じ、口にすればたちどころにわかるとでも思っているのだろうか。ニョッヒラで最もうまい、と村の者が太鼓判を押す水を前に、ロレンスは首をひねっていた。
そこに、ふと口を引き結んだケレスが現れた。
「おっと失礼……え、これを?」
ケレスは陶製の甕を受け取りたがっている。ロレンスはもちろん拒むことなく渡す。
すると、ケレスは縁に口をつけ、重そうに中身を呷る。目を閉じてごくりと飲む。
数瞬の後に目が開いた時、やはりそこには、失望の色があった。
「うまい……」
ケレスは怪しげな発音ながら、そう言った。
「うまい……」
もう一度言い、首を横に振る。ロレンスはホロと顔を見合わせてから、ケレスを見る。ケレスは大きくため息をつき、甕を長机の上に置いた。
「違う」
はっきりと、否定の言葉。ロレンスがなにかを言おうとするより早く、ケレスは踵を返してしまう。なにが違うのか聞けば、解決に至る方法が見つけられるかもしれない。
あるいは、ケレスが水に期待するようななにかは、迷信なのだと告げなければならない。
そう思っていたら、ケレスは囲炉裏の傍に置かれた物に手を伸ばしていた。
「……笠?」
ホロが言うには、芯に鉄を利用した毛皮の笠。しかし、ケレスは笠をひっくり返し、内側の紐をほどくと濡れた毛皮を剥がしてしまう。それを見た時のロレンスは、手品かなにかを見た時のように驚いた。
「鍋だったのか」
ケレスはそれと合わせて、背嚢の中からいくつも小分けにされた袋を取り出した。ざらざらと音がする。隣のホロを見たら、肩をすくめられた。
「酒」
ケレスに言われ、我に返ったロレンスは慌てて炊事場に行こうとする。そこを、止められた。
「違う、酒」
ケレスは首を横に振り、酒、ともう一度言う。手で抱える鍋の中には、麻袋がある。
昨日、ホロの言っていた言葉がよみがえる。ケレスの持ち物だ。
袋の中身は麦。だとすれば、抱えている鍋は。
「あなたは……醸造職人だったのですか」
ケレスはロレンスの言葉がわからなかったようで眉間に皺を寄せたが、もう一度だけ、酒、と言ったのだった。
鍋は同じ形状の鉄が二枚重ねられていて、二つの鍋になる。ケレスは一方の鍋に汲んできた水を張り、囲炉裏の火にかける。もう一方の鍋には麻袋から取り出した、粗挽きの麦をあける。
「ほう。この辺の大麦じゃな」
見ただけでわかるのか、ホロが言う。
ケレスは鍋の水を沸かしていき、時折かき混ぜる。湯気はもうもうと立ってはいるが、沸騰とはいかないあたりで火から鍋を外すと、荷物から取り出した木の柄杓でその湯を麦に注ぎ、混ぜる。その作業を、鍋の湯を全て移し替えるまで続ける。最後に指で温度を計り、火から鍋の位置を調整し、湯の入っていたほうの鍋をひっくり返し、蓋にする。
最初の作業が終わったらしい。
ケレスはロレンスに向き直ると、紙とペンを欲しがった。
――私はとある国の王家に召し抱えられた料理人です。
ケレスはまず、そう書きだした。王家の文字に驚かなかったのは、ケレスの支払いの良さと、教会文字を自由に操る教養の高さ故だ。町の醸造職人ではこうはいかない。
――ですが元々は妃様の家に召し抱えられており、嫁入り道具の一つとして今の家に仕えております。
そこまで書いて、ふと鍋に手を当てた。なにかを確かめるように目を閉じる。
それから、指で直接囲炉裏の炭をいじり、火力を調節する。熱がる素振りもなく、火傷したふうでもない。優秀な職人は、手の皮が厚い。その言葉どおりらしい。
――妃様は嫁入りの際、一度だけ我儘をおっしゃいました。それが、名高いニョッヒラの湯に浸かること。それだけあれば、どんなことにも耐えられる、と。
今よりももっと不穏だった時代のことだ。ロレンスがうなずくと、ケレスはゆっくりと目を閉じる。そうすれば、当時の喧騒が今でも耳に聞こえてくるかのように。
――素性を隠されて投宿し、私も従者として向かいました。そこで妃は大いに楽しまれ、おそらくは最後の自由と覚悟していた日々を過ごしました。
高貴な人間たちの間では、血は道具でしかない。ロレンスは文章を訳してホロに逐一伝えていたが、ホロも察したのか、浮かない顔をしていた。
――ですが、そこで妃は一人の若い男性と巡り合いました。相手も高貴な血筋とすぐにわかりましたので、我々も強く拒むわけにはいきません。あれよあれよという間に、二人は親しくなってしまいました。
ロレンスの通訳に、ホロもますます顔を曇らせる。悲しげな顔でロレンスに寄り添い、その腕を掴んでくる。どうにかならぬのかや、と訴えているようですらあった。
――妃様はそれはそれはおしとやかに宮廷の儀礼を守る淑女でありましたが、ニョッヒラでは無礼講。酒が強かったこともあり、ひたすらに飲み、踊りました。ついにはその男性が音を上げるほどに。
酒に強く踊れる女、というのが琴線に触れたのか、ホロは嬉しそうにしている。
――しかし、楽しかった時間はすぐに過ぎ、妃様も一時の過ちを犯すような弱い方ではありません。時機がくれば粛々と荷物をまとめ、散々騒いだ男性とは、握手一つで別れました。
背筋を伸ばし、にこりと笑いかけることさえせず、気丈に振る舞う強い姫の姿が思い浮かぶようだ。ホロはロレンスの腕にしがみついたまま、ケレスの記す文字を、読めるわけではないのにじっと見つめている。
――妃様は、帰り道は一度として口を開かれませんでした。ようやく口を開かれたのは、婚礼の日。見知らぬ土地、見知らぬ城、見知らぬ人々の中での生活が始まる時のことです。どれだけ妃様の中に不安があったかわかりません。強いお方でした。ですが、たった一言、故郷よりやってきた私に言葉を向けられたのです。あの時の酒の味をきちんと覚えているだろうね? と。私も妃様に恥をかかせてはならぬと、宮廷料理を修めた料理人です。誇りに懸けて、覚えていると告げました。
ケレスはもう一度鍋をちらりと横目に見てから、ゆっくりと筆を進めた。
――なら、大丈夫。いつでもあの酒が飲めると思えば、大丈夫。妃様はそうおっしゃられました。
老人の手はそこで止まり、紙からも顔を上げない。囲炉裏で炭が燃える、ちり、ちり、という音だけが響く。
衣擦れの音は、ホロが身を乗り出した音だった。
「じゃが……嫁いだ先には、見知った顔があった。違うかや?」
結婚相手の顔を知らない、というのは貴族の政略結婚では当たり前のことだという。そして、それが当たり前だからこそ、物語も作られやすい。打算ずくの結婚のはずだったのに、身分の問われない場所で実はすでにたがいに惹かれあっていた。町の娘たちが好きな話の筋だ。
そして、ケレスはもちろんのこと、そういうことを重々承知だったのだろう。ホロの言葉はほとんどわかっていないはずなのに、ゆっくりと、首を横に振った。
ホロが固く息を飲む。ロレンスは、ホロの小さい背中にそっと腕を回した。
――王は妃様より一回り年上の立派なお方であり、妃様を大切になされました。子宝にも恵まれ、あれほど笑顔の絶えない宮廷も珍しかったでしょう。
ホロのほうを見たケレスは、少しだけ微笑んでいた。
してやられた、とわかったホロはなぜかロレンスの腕を叩いてきたが、心底ほっとしているのが見て取れた。それに、ケレスは話の出し方がうまい。きっとこの話を孫にでも繰り返し聞かせているのだろう。
ただ、ケレスはそこで筆を止めなかった。
物語と現実の違いとは、ただひとつ。現実はそこで終わらないことだ。
――妃様は一度もあの時の酒を望まれなかった。必要がなかったからです。ですが、王が長いこと病に伏し、ついに私に命じられました。あの時の酒を、と。
おそらくは自分のためではなく、病に苦しみ、猶予のない王のために。
古い世代の王ならば、その人生は戦乱と政略に彩られていたはず。のんびり湯に浸かるなどという贅沢は、籠の中の鳥の貴族の娘以上になかっただろう。
ケレスの思いつめた顔を思い出す。
料理人とは、人を喜ばせる職業だ。ケレスの職業人生においても、最後の、そして最大の仕事なのだろう。
「ですが、味が、再現できないと?」
ロレンスは尋ね、同時に筆で記す。ケレスは肩を落とすように、うなずく。
――土地の麦を使ってすでに幾度か醸造を試みています。味も、材料もすべて覚えています。しかし、再現できないのです。ここで振る舞われた麦酒は、とても単純なものでした。水の味を知れば、大体結果がわかってしまうほどです。だから、あるいは、と思い、宿を転々としていました。
「あるいは?」
ロレンスが疑問を顔に浮かべると、ケレスはロレンスを見返し、それからなぜかホロも見た。
ゆっくりと細めた目は、穏やかに笑っているようだった。
――醸造する時には、その土地の空気が溶け込むと言われています。陰鬱な空気なら陰鬱な味に。陽気な空気ならば陽気な味に。だからここならば、もしかしたらと思いました。
最後の一文の後に、意味ありげに微笑んだ。ホロは首を傾げていたが、ロレンスは少し気恥ずかしくて咳払いをする。囲炉裏の横で揃って昼寝しているところを見られたばかりだし、今もホロは少女のようにロレンスの側にぴったりと寄り添っている。
確かに、ロレンスも自分の湯屋がニョッヒラで抜群に最高の、とはなかなかいう勇気がないが、別のことなら言える。サイラスにだってそう言われたばかりだ。
夫婦仲の良さなら、絶対に村一番だと。
しかし、ロレンスも醸造職人のそういう迷信は確かに聞いたことがあるが、頭から信じているわけではない。ケレスもまた同じことだろう。どんな手がかりでもいいから、必死に探していたのだ。
――ここの水はうまい。どこの宿で出された水もそうです。その水で仕込むのだから、酒もうまい。だが、普通にうまいだけなのです。三十年前に飲んだ、あの独特の風味が出ない。
ケレスは書き終えると、背嚢の中からいくつもの小さな麻袋を取り出した。そこにはこの周辺で採れるありとあらゆる香草の類が詰まっていた。鼻の良いホロは、たちまち漂った香りに、小さくくしゃみをしていた。
「風味……」
あるいは、それこそ時代の空気が溶け込んでいたのだろうか。
ケレスは相変わらず難しい顔で鍋を睨む。
鉄の鍋は、ただ静かにそこにあるだけだった。
ホロは鼻が利くだけあって味にはうるさいが、作れるわけではない。ハンナも酒の仕込みにはあまり詳しくなく、結局、サイラスの下に向かった。
「三十年前の麦酒の味?」
話を切り出すと、サイラスははっきり面喰らっていた。
「自分がこの土地に来た頃のことか……」
そこまで言っていったん口を閉じ、視線をロレンスの隣に向けた。
そこには、サイラスの下を訪れていた先客がいた。
「儂がちょうどお前さんくらいの頃のことか」
そう言ったのは、いっそ見事なほど丸い禿頭と、湯けむりのように長い白髭が目立つ老人だった。背はあまり高くないが、若い頃にでっぷりと肥えていたというその名残が、この高齢になってもなおうかがえる。名をジェックといい、おそらくこのニョッヒラでもっともうまい食事を出す湯屋の、今は隠居した元主人だった。
「しかし、麦酒だろう? ややこしい造り方もしちゃおらん。土地の大麦を使って、麦芽の焙煎も同程度ならば、差などさしてでんよ。宮廷料理を修めておるとなれば、そのへんで間違えるとも思えんがな」
ケレスの本当の目的にはなるべく触れず、サイラスたちと情報を共有してある。
「年ごとの麦の出来不出来はどうです?」
サイラスが尋ねると、ジェックは首を横に振る。親子ほど年が離れている二人だが、酒の仕込みという趣味でつながっていて、仲が良い師弟みたいなものらしい。
「よほど不作ならわからんが、それも酒になる前の麦汁を作る際、小麦の粉なんかを足せばどうにかなってしまう。そのへんの手腕は儂らよりよほど高いはずだ」
ケレスのことはもちろんジェックも気にしていて、うちの料理と酒でさえ不機嫌なままだった、と少なからず誇りを傷つけられていたらしい。しかし、ロレンスがケレスは宮廷料理人であることを告げたら、別の意味で打ちのめされたような顔をしていた。料理の世界にわずかでも足を突っ込んでいたら、雲の上の人物なのだろう。
「独特の風味、と言っていました」
「うーむ……。時代の味、ではないのかのう……」
「それは、醸造職人の迷信、ですか?」
尋ねたのはサイラスだった。
「うん? ああ、その場の空気によって味が変わる、というあれか。それは本当だが――」
「え!?」
ロレンスとサイラスが同時に声を上げると、ジェックはふんと鼻を鳴らす。
「ただ、よく言われるような、その場の雰囲気が、とかではない。気候が変わるほど土地が変わると、同じ材料で作っても酒の味は露骨に変わる。おそらくは、宙を漂っておる酒の精も、儂らと同じように土地が変わると様子が変わるのだろう。そして、だからこそ、件の客はこんなところまでやってきたに違いない。材料だけならば金さえ出せばどうにかなる。そうだろう?」
その問いは、ロレンスに向けられていた。元行商人で、この北の地ではそれなりに知られた顔だった。ジェックは悪戯小僧みたいな笑みを浮かべていたが、ロレンスは恐縮するばかりだ。
「それは、まあ、そうですね……。時間はかかりますが、取り寄せられます」
「腕もあり、材料もある。土地までやって来た。それで醸造しても風味が出ない。となればもう、加味されているのは時代の空気……要するに、思い出だろう」
しかし、王族の食卓を飾る料理人が、三十年前のこととはいえ、味を忘れるだろうか。
ロレンスとサイラスが声に出さないまでも互いに目配せでそんな疑問をやりとりしていると、ジェックはあからさまに大きくため息をついた。
「だからお前たちは若造なのだ」
ぴしゃりと言う。
「楽しい時に食う飯はそれだけでうまいものだ。気の合う仲間と食えばなおうまいものだ。反対に、喧嘩中の嫁と向かい合わせで食う飯のなんと味のしないことか! そういうことだ」
「……」
不勉強でした、と二人そろって頭を下げると、ジェックは芝居がかった仕草で、うむとうなずく。なんとなくホロを思わせて、ロレンスはジェックが好きだった。
「ただ、客をしかめっ面のまま帰すのは、確かにニョッヒラの流儀ではない」
ジェックは不服気に言って、頭をつるりと撫でる。
「ついさっき、サイラスから件の客のことを聞いて、ロレンスさんの言葉も聞いた。そのとおりだと思った。儂は、なんと偏屈な客なのだ! と憤っていた口だからな。悪いのは客のほうだと。自分の魂が湯けむりで曇っていたことに気づかなんだ。まったく、嘆かわしい」
ジェックはロレンスの手を取り、言った。
「この歳になって大事なことを思い出せた。ロレンスさん、ありがとう」
あまりのことに戸惑った。しかし、ジェックはからかいや冗談でそう言っているようではない。ロレンスは、その年を経て磨かれた子供のような目を見返した。ジェックの手を握り返す手に、自然と力がこもる。
「ふふふ。ロレンスさんが村に湯屋を構えた時は、なんと気の弱そうなのが来たのかと思ったものだがなあ」
ジェックは遠慮なく笑い、サイラスもロレンスの前なのではっきりとは笑わなかったが、咳払いで誤魔化していた。
「水が合う、という言葉がある。ロレンスさんは、この土地に来るべくして来たのだ」
肩を叩かれると、強張っていた顔からなにかがぽろぽろと剥がれ落ちる気がした。
柔らかくなった頬は、素直に喜びの笑みを示す。
「ですが、土地の水を飲んだ当初は、腹を壊してばかりでしたよ」
「はははは。湯の硫黄のせいだろう。儂はここの産湯に浸かった口だからなんともないが、このサイラスも当初は閉口していたな」
「パンの粉をこねる水でさえ、川の水か山の清水でした」
その言葉に、酔っぱらって湯屋に帰り、ホロに飲ませてもらった冷たい味の記憶がよみがえる。雪を湯の熱で溶かした水には、湯の香りが混ざり込む。それをこのニョッヒラの匂いと言えば、そうなのだろう。
だからサイラスも、なんの気なしに続けてこう言った。
「なにもかもに、湯の味がついてしまいましてな」
え?
と、声が重なった。サイラス自身、自分の言葉に驚いていた。湯屋の主人が、古株から新入りまで、三人そろって顔を見合わせている。そんな馬鹿な、と互いの顔に書いてあった。
しかし、ロレンスは記憶をたどる。サイラスとの会話や、ケレスとのやりとりがたちまち思い出される。
うまい酒は、うまい水から作られる。だが、ケレスは山から汲んできた最高の水に対し、ただのうまい水、と言った。ならば、サイラスの言ったことを踏まえて考えるなら、ケレスがどうしても答えに辿りつけなかった理由は明らかな気がした。
ここはニョッヒラだ。客には最高のもてなしをする。偏屈だが金払いの良い客ならなおのこと。ロレンスもまた、金貨を支払ったケレスのために、楽師や踊り子を用意しようかと持ちかけた。弁当に持たせたパンだって、奮発した小麦パンだ。その湯屋ででき得る限りの最高のもてなしをする。だからこそ、ケレスがずっと口にしなかったものがあるのではないか。
それはサイラスが言ったような、味の違いもわからないような酔っ払いどもに飲ませるための、手間のかからない水で作った酒。
雪を湯の熱で溶かした水で仕込んだ、単純そのものの麦酒だ。
「……燭台の下が一番暗い、とはよく言ったものだな」
ジェックが呻くように言う。まだ答えがそれと決まったわけではないが、確信、というものが手で触れられそうなほど感じられた。
「これできっと、ニョッヒラの評判は守られることでしょうな」
サイラスが言う。
ロレンスがそんな二人をじっと見つめていると、唐突に二人そろって振り向いた。
「さあ、なにをぼさっとしておる! しかめっ面をしておるのは、ロレンスさんのところの客なのだぞ!」
行商の師匠に叱られた時のようにロレンスは飛び上がり、慌てて踵を返して戸口に手をかけた。しかし、気づいたのは自分だけの手柄ではない。そう思って振り向くと、ジェックとサイラスの二人は、静かに笑っていた。
「儂らはこれから、客を笑顔にできなかった残念会をしなければならん。早く行ってくれ」
ジェックはしっしっと手を払う。ものすごく良い笑顔で。
「後で話を聞かせてもらおう」
サイラスは言うと、足元から樽を持ち上げて、帳簿台の上に置いた。もう、二人はこちらのことなど見ていない。だがそれは親しみの現れだと思った。旅人を長く見送るのは、彼が旅立ってしまえばもう会えないからだ。ならばそうしないのはなぜか。
ロレンスは嬉しさで胸を膨らませながら、サイラスの湯屋を後にした。足早にかけ、自分の湯屋に戻る。醸造作業の続きをし、それを興味深げに見守るホロとハンナが、何事かとロレンスのことを見た。
ロレンスが事の次第を説明すると、ハンナが半信半疑の顔で、湯の熱で雪を溶かした水を持ってくる。
その水を口にし、じっと目を閉じるケレスは、絞り出すようにため息をつく。
そして目を開けると、雲間から太陽が顔を出したかのように、笑ったのだった。
結局二種類の水を使って、他はすべて同じ材料で仕込みを行った。仕込む腕も同じなので、味の違いはひとえに水による。
結果は、相当に違っていた。
「こんなに違うものなんだな」
程よく泡の立つ麦酒を飲み比べる。唐突に出されたらわからずとも、並べて飲み比べれば差がわかる。ケレスは三十年前の記憶とずっと飲み比べて、その違いを認識していた。さすがと言うべきだろう。
――これで、私は最後の仕事を終えられます。
二つの酒を仕込み終わった後、ケレスは紙にそう書いた。ケレスもかなりの歳だし、主人の命令とはいえ、宮廷料理人が長い期間屋敷を後にできるのは、ケレスがすでに調理場では采配を振るっていないからだろう。
――本当に、ありがとう。
肩の荷が下りた、といった様子のケレスは、優しそうな好々爺だった。また目的のものが見つかった以上、長居は無用とばかりに荷物をまとめていた。ロレンスはケレスから支払われた金貨のこともあって、銀貨で釣りを渡そうとしたが、断られた。
礼だと言い張って、また偏屈な顔に戻る。
そして、その顔のまま、紙に書いた。
――隠居して暇になって、またこの湯屋に来た時の代金として。
笑顔と共に向けられたら、もうなにも言えなかった。きっとそれが口約束にすぎなくとも、ロレンスは「お待ちしております」と紙に大書した。
ケレスは、嬉しそうにうなずいた。
背中に仕込んだ酒を担ぎ、来た時よりもよほどかくしゃくとした足取りで帰っていくケレスを見送ったのは、もう数日も前のこと。酒と同じで、少し時間が経ってからのほうが、その時のことをよりよく思い出せるらしい。
「歳じゃな」
ケレスの仕込んだ最後の麦酒を器に注ぎながら、ホロはにべもなく言う。
「おい、俺にも少し残しておけよ」
ホロは知らんぷりだし、当てつけのようにうまそうに飲む。
まったく……とため息をつくと、ホロは鼻の下にたっぷり白髭を生やした間抜け顔で、嬉しそうにしている。
なんだろうか、と思っていると、ホロはロレンスの肩に頭を預け、こう言った。
「わっちゃあ、よ~くこの味を覚えておかねばならぬからな」
この土地の、今のこの瞬間を思い出す味として。
「ほどほどにな」
そこには、少しだけ苦みが含まれる。自分はホロと同じ時間を生きられない。自分が死んだ後、ホロがずっと自分のことで尾を引くのは望んでいない。
だが、それもまた麦酒と同じ。甘いだけでは、酒はうまくないのだ。
「たわけ」
ホロは困ったように笑い、ロレンスの手を取った。死ぬときは、終油ではなくこの麦酒を注いでもらおうか。ロレンスはそんなことを思いながら、ホロが譲ってくれた酒を飲む。
笑いと幸せの湧き出る湯屋で仕込んだ酒は、なるほど、もしかしたら少し甘すぎるような気がしたのだった。
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