※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2020年5月号掲載を抜粋したものです。


 ロレンスはホロとひとつの結論に達したが、あくまで推測に過ぎない。

 ラーデンの気持ちを確かめずに話を進めては、またこじれてしまうかもしれない。

 そこで翌日、朝から教会に出向き、エルサに相談した。このままでは埒が明かないというのもあり、エルサはそれで行ってみましょうと賛成してくれた。

 そういうわけで、いざラーデンの気持ちを確かめようとなったのだが、ラーデンが滞在する部屋の前で、ロレンスはホロに止められた。

「わっちだけのほうがよいと思いんす」

「ええ?」

「男の子の繊細な部分の話じゃろうが。そういうのはな、わっちのような可憐な相手にじゃったら、打ち明けられるものでありんす」

 むしろ呆れられるように言われてしまう。

 それでも不満げにしていたら、後ろからエルサに肩を叩かれる。

「お任せしましょう」

「……」

 エルサに言われたら、言うことを聞くしかない。

 今度はそのことにホロがやや不満そうだったが、ホロはふんと鼻を鳴らして気を取り直すと、ラーデンの部屋に入っていった。

「大丈夫ですかね……」

 ラーデンを怒らせないだろうか、とロレンスが不安を口にすれば、エルサは肩をすくめた。

「ホロさんは、こういうことに関してはしっかりしてるんですよね」

 それでなぜ普段はあんな自堕落なのか、とエルサは呆れていた。

 そうして待っていたのは、さほどの時間でもなかった。

 ほどなくホロが出てきて、得意げににやりと笑う。

「ほれ、次は村長じゃ」

 うまくいったということだろうが、ラーデンの様子が気になる。

 扉のほうをうかがっていたら、ホロに頬をつねられた。

「ぬしはそういうところが気が利かぬというんじゃ」

 そっとしておくべき、ということだ。ロレンスは頬をさすりつつ、最近はあまりに自堕落で忘れがちだったが、賢狼なのだものな、とホロを見直した。

 そして、スルトへの提案は、ロレンスも同席したし、サロニアの司教とエルサもいた。

 スルトは説明を聞くと目を見開いて驚き、顔が青ざめるくらい、息をするのも忘れていた。

 まずはラーデンがそんな弱気なことになっていたとは気が付かなかった己の不明によって。

 もうひとつは、自分が良かれと思って休みを勧めていたことが、ラーデンにはのけ者にされるように映っていたなどと、露ほども思っていなかったために。

 それはスルトが鈍いというよりも、それくらい、全身全霊でラーデンを慕っているのだろう。他の村民も似たようなものだったし、なによりこのままでは自分たちの感謝の念が誤解されたままになってしまうと、ほとんど絶望していた。

 そこにロレンスがラーデンに感謝を示すための催しごとの説明をすると、十年ぶりに雨が降った砂漠の民のような顔をしていた。

 ラーデンの気持ちを知ったスルトたちは、もはや司教の件は二の次で、感謝の気持ちを示すことだけを最優先にしていた。

 村の池で計画を実行する案も出たが、ばしゃばしゃと人が出入りして、鹿の角を沈めるというのは少しでも養殖の可能性を考えるならよくないということ、それからこういうことはもっと賑やかに派手にやるべきだとホロが主張して、サロニアの町でやることとなった。

 それに実際にラウドのように、ラーデンのおかげで飢えをしのげた世代が町にはたくさんいる。ロレンスがラウドにこの話を持ち掛ければ、たちまち穴掘りの人足は用意しようと請け負ってくれた。

 そして、ロレンスはそこに商人としてのずるがしこさと、湯屋の主人としての思惑を紛れ込ませた。

「即席の池を温泉にしろって?」

 硫黄の粉を売るつもりだな、ともちろんラウドはすぐに気が付いて、そんな目つきでロレンスを見やる。

「ラーデンさんは膝を悪くしておいででしょう。どうして湯治が年経た皆さんに人気かご存知ですか?」

 その問いに、ラウドは目をぱちくりとさせた。

「そりゃあ、効くからだろ? 俺も噂は聞くよ。万病に効くって」

「実感として、大袈裟ですね。でも、確実に効果を実感できることがあります」

 商人はもとより好奇心が旺盛だ。ラウドが興味津々に、身を乗り出す。

「湯の中なら、体が浮くでしょう? 若かったころのように体が動くんですよ」

 ラウドは感心したようにうなずいていた。

「そしたらまあ、是非ラーデン様には体験して欲しいなあ……けど」

 と、ラウドは咳ばらいを挟む。

「穴掘って温泉にして、祭りの最中に催しをやるんなら、当然、各方面への根回しが必要だ。硫黄の粉をたっぷり購入するよう推薦するから、仲介料でこんな感じはどうだい」

 ラウドが腰帯の中から算盤を取り出し、珠を弾く。

 ロレンスは少し珠を戻して、笑顔を向ける。

「むう……まあ、仕方ないか。こっちは即席の温泉にあいそうな酒でも仕入れるか」

 ロレンスとラウドは握手をして、契約とする。その様子を見ていたホロと目が合うと、呆れたように肩をすくめられた。

 珊瑚に見立てる鹿の角は、ボームが馬を駆って村に取りに戻った。ついでに村の人たち全員に、町に来るようにと告げに行く役目もある。

 それから、ロレンスは湯屋の主人ということで、川の近くに掘った穴にレンガを敷き詰めたりといった采配に駆り出され、作業に忙しかった。ホロは少し離れた場所に敷物を敷き、のんびり酒を啜りながら見物して、たまにペンを手にとってはお気に入りの日記に出来事を記していた。

 二日目からはラーデンも姿を見せて、手伝いたがるのを村人が止めるという場面もあった。元来、体を動かしていないと落ち着かない性格なのだろう。ロレンスはそんなラーデンに、槌で穴の底を固める作業をお願いした。これならば膝をかばいながらでもできるし、ラーデンは素晴らしい働きぶりだった。

 そうして大市もいよいよ終わり、祭りに移ろうかという日になった。

 サロニアの司教が仕切り役となり、サロニアのみならず、近隣の人々の食卓に忌まわしき鰊以外を乗せ続けてくれた功労者を称える、という名目による小さな祭りが開かれた。

 掘られた池には沸かした川の水が入れられ、ロレンスの硫黄の粉もたっぷり入れられていた。

 そんな池を前に、まずは村の子供たちがそれぞれ役を受け持ち、ラーデンがラーデリという遠方の国からこの地にまでやって来た経緯を演じてみせた。ボームはラーデンがサロニアの地を踏むところまでを受け持っていた。

 そして話は、現在のラーデンにつながってくる。

 照れくさいのだろう、顔を赤くしたまま、むっつりと黙り込んだラーデンの前に、スルトが膝をつく。

「さあ、ラーデン様、こちらを」

 そうして手渡したのは、教会の紋章を組み合わせて作った鉤爪だった。

「あなたの信仰によって、池から宝石を引き上げてください」

 ラーデンは今にも怒鳴りだしそうな顔をしたが、それは涙をこらえるために顔に力を籠めすぎたからだ。ラーデンはそのままスルトの手から教会の紋章で作った鉤爪を手に取り、立ち上がる。

 膝の不調を思わせない、力強い立ち上がり方だった。

 しかし、ラーデンは歩き出す前に、スルトを見て言った。

「膝が悪いのだ。肩を貸して、杖となってくれるか」

 スルトは目を見開いてうなずいたし、自分も自分もと村人たちが押し寄せた。

 そして、ラーデンは皆に囲まれながら、鉤爪を湯の中に放り込む。かつて故郷の海では、毎日朝から晩までこれを繰り返し、なお三年間にわたって一度も珊瑚を取れなかったという。

 しかし、湯の中にはたくさんの鹿の角が沈んでいる。

 ラーデンの旅路の果てに守られた、たくさんの人々の生活の証だ。

「おお、神の奇跡をご覧あれ!」

 サロニアの司教が、こういう時はしっかりと司教らしく雄々しく口上を述べ、池のほとりに鹿の角が引き上げられる。割れんばかりの歓声と拍手が鳴り響き、教会の鐘まで打ち鳴らされる。ラーデンは感極まった顔で、スルトたちに礼を言おうとする。

 だが、それはまだ早い。

「ラーデン様」

 そう言って現れたのは、お祭りのさなかにあっても硬い表情を崩さない、神の僕の中の僕たる、エルサだ。

「こちらを」

 恭しく手渡したのは、コルが訳した聖典の俗語翻訳の抄訳であり、とある頁が開かれている。

「これは……」

 戸惑うラーデンの前に、ボームが現れる。

 肩には妙なものを担いだままで。

「ラーデン様! こちらも!」

 ボームが乱暴に手渡したのは、網だ。養殖で使われていた漁網だった。

 聖典の冊子と漁網を手に、ラーデンはまごついている。

 そこにサロニアの司教が素知らぬ顔で現れ、言った。

「敬虔なる神の僕、ラーデンよ。聖典にちなみ、神の言葉を汝に告げるものである」

 ラーデンは、大きく息を吸って言葉を待った。

「汝は魚を獲る漁網を置き、これからは、人を獲る漁師になる……のはいかがかな?」

 神の教えを広めた伝説的な聖者に、神が告げたと言われる文句だった。

 聖典では命令口調だが、ラーデンに命令するのはちょっと違うし、なによりサロニアの司教みたいな人物には、実にその言い方が似合っていた。

 司教の言葉に、ラーデンは咳き込むように笑い、背中を丸め、聖典の冊子と漁網を胸に抱いた。

「神の……御導きのままに」

 固唾を飲んで見守っていたスルトたちから歓声が上がる。

 そして、全員でラーデンの大きな体を持ち上げる。

 事態を察したエルサが、さっと聖典の冊子をラーデンから受け取った。

 ラーデンは目を覆って笑いながら、されるがままになっていた。

「さあ、伝説の温泉郷、ニョッヒラの湯ですぞ!」

 ラーデンは湯に放り込まれ、しぶきが上がる。これならもう、泣いたってわからない。

 次いで楽師たちが楽器を奏で始め、酒や食事が振る舞われた。

 喜びに沸いて湯の中で笑い合う村人や、恐る恐る湯に足をつけて楽しむ女性たちに、ロレンスは年甲斐もなく目を潤ませていたら、腕を叩かれた。

「ぬしよ、飯と酒が足りぬ」

 早速羊の串焼きを咥えているホロが、右手を差し出してくる。

 ロレンスは肩をすくめ、その右手を握る。

 ホロは姫のようにつんとしたまま、ロレンスと手をつないで隣に立つ。

 そこはホロの定位置であり、ホロが時の流れの中で一時でも休むことのできる、大切な場所だった。

 ホロはそんなお気に入りの場所から、ロレンスを見上げてこう言った。

「ぬしもわっちのために、たっぷり小銭を獲る漁師になってくりゃれ?」

 ロレンスはなにかを言いかけ、一度やめて笑い、ゆっくりとため息交じりに返事をした。

「はいはい。仰せのままに」

 ホロはロレンスを見上げ、にっと牙を見せて笑う。

 サロニアの町は、一足早いお祭り騒ぎ。

 賑やかな町の人出の中に、幼な妻に頭の上がらぬ元行商人が混じっていたと、年代記に書かれていたりいなかったりしたのだった。