小高い丘の上からでも、サロニアの町は見えなかった。

 塔の上に登ればどうにか見えるかもしれないが、普通に暮らす分には気になるまい。

 ここを住処とすれば、見渡す限りに自分の土地で、一国一城の主気分をたっぷり味わえるだろう。

「おや、エルサさん?」

 旧ウォラギネ家の城砦の門を叩けば、中から出てきたのはサロニアの教会で見知った助司祭だった。エルサは助の字がつかない司祭の位だが、あくまで臨時の階位なので、サロニアという大きな町の教会に勤める助司祭のほうが立場は上だ。鼻の下にひげを蓄え、少しでも老けた印象を出して貫録を出したがるのは、出世を見据えてのことだろう。ひげを剃れば案外若いその助司祭は、エルサたちの訪問を驚きつつも歓迎してくれた。

「ははあ、関税の揉め事の仲裁を」

 旧ウォラギネ家の城砦は、遠くから見ると巨大な石造りの箱に見えたのだが、門をくぐると広い中庭があり、建物もずいぶん奥行きがあった。庭の敷地には壁のない木造の東屋があり、収穫の時期にはここで脱穀作業をしたり、収穫した麦の梱包作業をするのだろう。

 日ごろから誰かが住んでいるような感じではなく、どこか閑散とした雰囲気だった。

 そんな中庭を横切りながら訪問の理由を説明すると、助司祭は「いかにも司教様が考えそうなことです」と呆れたように笑っていた。

「麦畑と村落の管理はこれでなかなか大変ですからね。司教様はその手の面倒ごとをすべて押し付けられるなら、とお考えなのでしょう」

 外観こそ石造りだが、主屋の一階は踏み固められた土の床で、嗅ぎなれた埃っぽさがある。

 本来は領主がでんと構えるのだろう大広間には、藁束やら農機具やらが乱雑に積まれ、飼い犬なのか単に住み着いているだけなのか痩せた犬がうろうろして、ホロのほうを卑屈そうな目で窺っていた。

 暖炉近くに置かれた長テーブルに案内され、助司祭は火の側で温められすぎて完全に酒精の飛んだ葡萄酒を出してくれた。

「小麦の儲けはそんなに大きくないのですか?」

 司教の狙いは関税権から入ってくる金額の維持のようなので、領地から上がるその他の収益はそのままロレンスの儲けになる。司教は関税以外の収入と、それに付随する面倒ごとや関税収入の将来的な減少の危険を天秤にかけて、関税収入の維持だけに絞ったほうが得策だ、と考えたことになる。

「そうですねえ。今年のように豊作ならば問題ありませんが、いかんせん波がありますから」

「かといって日々の無駄遣いを調整することもできませんしね」

 エルサはサロニアの教会の帳簿管理も押し付けられていた。放漫、杜撰、支離滅裂、と表現する以外にない数字と戦っていたエルサがちくりと言葉を挟むと、助司祭は苦笑いだった。

「そういうことです。例年通りに支出をしたが、収入が激減しててんやわんや、なんてことが少なくありません。特に三年ほど前でしょうか。黒麦の病がでましてね」

 お世辞にもおいしいとは言えない葡萄酒を啜っていたホロが、頭巾の下で耳を動かしながら視線を寄こしてきたことに、エルサはもちろん気がついた。

 テレオの村を巡る騒ぎに、その麦の病があったからだ。黒くべとべとと腐ったようになってしまうその麦を食べれば、幻覚を見たり、妊婦ならば流産すると言われている。

 畑の一部からその病が出れば、区画丸ごとの麦を焼かなければならないし、風評のせいでその土地の麦は売れ行きが悪くなる。

「それは大変だったでしょう」

「ええ、まったく骨の折れることでしたとも。神はお助けくださらないのか、なんて村人たちから詰め寄られていたあの頃のことを思い出すと、今でも胸が痛くなりますよ」

 本来ならばそうした人々の苦しみを受け止めるのが聖職者の勤めだろうが、あの司教はきっと助司祭たちにすべて任せていたに違いないし、将来起こり得るだろう似たような問題を誰かに引き取ってもらいたいと願っているのだ。

「それでなくとも、粉ひきのための水車の維持管理の問題や、土地の区画をめぐる問題なんかでややこしい話が常日頃から満載ですからね。小麦の収入でその問題を誰かに丸投げできるなら安いもの、ということではないでしょうか」

 まさに司教からその仕事を押し付けられてこの建物に詰めているのだろう助司祭は、そう言って乾いた笑い声をあげた。

 牧歌的な農村も、決して牧歌的なだけではないのだから。

「ただ、そうなるとやはり、うまいだけの関税権については疑問が残りますよね」

 口を開いたロレンスに、全員の視線が集まった。

「ウォラギネ家は、どうやってその関税権を手に入れたのでしょうか」

 助司祭はため息をついて鼻の下の髭を揺らすと、肩をすくめていた。

「まさに木材商人たちからそう問い詰められて、司教様はあなた様をお呼びしたのでは」

 かつてこの土地を混乱に陥れていた大蛇と戦ったという、勇者ウォラギネ。

「大蛇討伐の話は本当なのですか?」

 ロレンスの無知を装った問いかけに、助司祭は難しい顔をしてから、しかつめらしくこんなことを口にした。

「神がご存知でしょう」

 本人は信じていないが、信じていないとなると、教会がウォラギネ家から継承している関税の徴収は欺瞞だということになる。自分の思っていることをはっきり口にできない立場の助司祭は、大きな町で生きる聖職者らしく、処世術で質問を受け流した。

「なにか証拠になるようなものが残っていたりは?」

 エルサの問いに、助司祭はにべもなく首を横に振る。都合よく大蛇の頭蓋骨が残っているわけではないらしい。

「少しだけ、この城や周辺を調べさせてもらっても構わないでしょうか」

 ロレンスの問いに助司祭は目をぱちくりとさせたが、断る理由もないと思ったのだろう。

「構いませんよ。領地の権利についての文書などはサロニアの教会に移管してありますが、過去の煩雑な記録類はまだここの地下室に残されていたはずです。ああそれと、後ほど村長や村の主だった者たち、それに出入りの商人たちがここに集まります。麦の刈り取りや運搬についての話し合いがありますから、その際に地元の人間にお話を聞かれるのもよろしいのでは」

 ロレンスが領主になれば、この助司祭もわざわざこんなところにまできて小麦の管理をする必要がなくなるし、これからサロニアの教会とも長い付き合いになる。ならばここでロレンスに協力し、恩を売ることで後々自分が出世する際の後ろ盾とするのもよい判断。

 助司祭の考えはそんなところだろうか、とエルサは自然に考えている自分にはっと気がついて、頭を振った。テレオの村を出て以来、聖職者たちに対してどんどんうがった見方をするようになってしまっている。

 村にいた頃は純朴で穏やかだったのに、都市に出稼ぎに出かけて戻ってきたら疑り深く人を信用しなくなっていた、なんて話は珍しくない。

 旅というものはそれでなくとも人を変える。

 エルサはただでさえ怖いと言われる自分の顔を両手でこすり、疲れたように息を吐く。

 そうこうしていると、話しにひと段落ついたところで、助司祭が立ち上がった。

「では、私は会議と夕食の準備に人を呼んでこなければなりませんので、いったん失礼します。この建物内も自由に散策してください。普段は人が住まず倉庫として使われていますから、特に鍵などもありません」

「ありがとうございます」

 助司祭に礼をし、その姿が奥の部屋に消えてから、ロレンスは「さて」と言った。

「俺は地下室でかびと埃と格闘してくるが」

「ふん」

 ホロは鼻を鳴らしてそっぽを向いていた。この件で不機嫌というより、埃っぽいところは嫌なのだろう。

「わっちゃあこやつと蛇が埋まっておらぬか調べてきんす」

 ホロに指をさされたターニャはきょとんとしてから、嬉しそうにうなずいていた。

「ではエルサさんは、建物になにか歴史が刻まれていないかの調査をお願いできますか」

 流れ的にロレンスと一緒に地下室に行くことになりそうだったエルサに、ほかならぬロレンスがそう言った。かび臭い地下室で埃まみれにさせるわけにはいかない、という気遣いなのだろうが、こういうところの気の回し方はさすが商人だとエルサも感心する。

 それと同時に、これだけ細やかに気配りできるロレンスが、どうしてホロの側だと間抜けに見えるのかと疑問も尽きない。

「さあて、うまく見つかるといいんだがな」

 のんきな様子のロレンスとホロを見比べ、エルサは肩をすくめたのだった。



★2021年9月10日更新の『狼と香辛料 狼とかつての猟犬のため息≪第六部≫』に続く。