ホロを先頭に、エルサとターニャが揃ってロレンスのもとに向かうと、間抜けな羊呼ばわりされることの多い元行商人は、自慢げに胸を張って一枚の紙を広げてみせた。

「証拠を押さえたぞ」

「……」

 ホロはなにも言わず、ひったくるようにしてロレンスの手から紙を奪う。

 ターニャがホロの右側から、エルサがその反対側から覗き込むと、それはずいぶん古びた地図だった。

「なんじゃ? 蛇の通り道が描いてあるとでも言うのかや」

 ただの古い地図だし、そもそも蛇がここを通りましたという記録があったとして、信じるのは冒険譚が大好きな幼子くらいだろう。

 けれども女三人の怪訝そうな視線を受けたかつての少年は、怯まずにうなずいてみせたのだ。

「今からその証拠を見せてやろう」

「はえ? こ、これ、ぬしよっ」

 ホロが慌てた様子だったのは、ロレンスに手を引かれて姿勢を崩しかけたから。

 困惑したまま連れて行かれ、エルサやターニャを思わず振り向いていたその姿は、恋の噂をしていたらまさにその当人から急な呼び出しを食らって慌てふためく少女のようだった。

「……どうしましょう?」

 ターニャがもじもじと両手の指を絡めながら、エルサに尋ねてくる。それはもちろんホロを心配してのことではなく、見に行きたくて仕方がないという顔だった。

 テレオの村には同年代の気安い女友達がいなかったので、エルサは想像するしかないが、巷の娘たちはこういうとき、きっと後をつけるに違いないと思った。

「行きましょう」

 ターニャは嬉しそうにうなずいて、エルサを先導するように歩いていく。

 もちろんエルサは、ロレンスが一体なにに気がついたのかということが純粋に気になってもいた。けれどどちらかというと、得意満面のロレンスが戸惑うホロを連れて行き、どんな甘ったるい場面を見せてくれるのかという期待があった。

 それこそ、友達の恋模様を見届けたがる年頃の少女のように。

「わ、ど、どうしましょう」

 山を転がるドングリを追いかけるように駆けていたターニャが急に足を止め、口元を手で押さえながら言った。

「お二人の新しい棲家でしょうか」

 エルサは一瞬意味が分からなかったが、ターニャが栗鼠だったことも思い出す。

 手を引かれたホロがロレンスと共に入っていったのは、石造りの塔だった。

 ターニャは木に暮らす栗鼠の化身だから、塔が二人の巣に見えたのだろう。

 エルサは少し考えて、悪戯っぽく言った。

「私たちでホロさんに相応しい家かどうか調べなければなりませんね」

 ターニャは大きな眼をぱちぱちさせて、屈託なく笑う。

「そうしましょう!」

 ターニャも案外悪い奴だと思いながら、エルサはホロたちがくぐった扉を開け、塔の内部に足を踏み入れた。

 その塔はらせん状に階段が続く立派な代物で、ちょっとした貴族の見栄で作られたようなものではないことに面食らった。戦乱の時代に使用されたのだろうかと思うものの、エルサはなんとなく奇妙な気がした。こんな平原で、塔を一本建てたところで、どれだけ戦の役に立つのだろうかと。

 サロニアの町の側を流れる、舟橋のことを思い出してしまう。世の中でなんらかの形をとっているものは、それなりの理由があってそうなっているのであり、一国一城の主の気分を味わいたいならば、丘の上からの眺めでも十分すぎる。

 それとも、塔の頂上から見張らなければならないなにかがあったのだろうか?

 あるいは、それが蛇だということなのだろうか。

 ターニャの後に続いて階段をのぼりながら、エルサはあれこれ考える。

 けれどもこれといった確信が持てないまま、壁に開けられた小さな窓の外の景色は、どんどん高所からのものに変わっていく。どこかに歴史を記した絵がないかと散策し、中庭を見下ろした三階の木窓から見た景色を越え、やがて建物の屋根が見えてくる。

 ふと、中庭を村の者たちと歩く助司祭が見えた。それがひどく小さく見え、遠い世界のことのように感じてしまう。

 塔の階段はまだ続く。

 息が切れたらしいターニャの足が鈍り、励ましながら登っていく。

 そして、目が回りそうになる頃、周囲をぐるりと囲む石壁よりも上に出た。

 あと螺旋を一回転すれば塔の頂上というところ。

 エルサが足を止めたのは、ターニャがへばっていたからでも、このまま行くと狭い塔の頂上でホロやロレンスと鉢合わせると思ったからでもない。

 壁に開けられた穴の向こうの景色に、目が釘付けになっていたからだった。

「これ……そんな、まさか……?」

 思わずつぶやいてしまい、荒い息の合間に固唾を飲み、さらにまじまじとその光景を見た。

 エルサは神の僕として、聖典に記された神の奇跡を人に聞かせ、信仰を磨き続けてきた。その一方で、異教の神々の話を集めていた育ての父の跡を継いで、自身でもあれこれの話を集めていた。そんな折りに村にやってきた、行商人と少女の奇妙な組み合わせだった。

 彼らはエルサが夢物語だと思っていた世界に生きる存在で、エルサが思いもよらない世の形を見せてくれた。その彼らが、再び見せてくれたのだ。

 時を超えた伝説の、その動かぬ証拠というものを。

「え、ええ? 蛇さんの足跡ですか?」

 エルサの横から壁の穴を覗いたターニャが、頓狂な声を上げた。

 やはりそれは見間違いではなく、誰もが一目見ればそう思うものだった。

 エルサの視界に確かに映っているのは、風になびき、秋の午後の日差しに照らされた黄金色の麦畑にくっきりと残る、巨大な蛇が這いずったとしか思えない跡なのだから。

「で、でも、ですが……」

 エルサは目の前の光景に、奇妙だ、という違和感が強烈にあった。

 そのうちでも最も確かめやすいことを、ターニャに尋ねた。

「ターニャさんたちは、蛇はいなかったと……」

 問いかけられ、ターニャ自身が、はっとしていた。

「あ、そ、そうですね。え……あれ? じゃあ、なんで……?」

 狼の鼻を持つホロまでもが、蛇の存在に気がつけなかったとは思えない。それともこの痕跡を麦畑に残した大蛇は、ホロやターニャたちをさらに超える、もっと超常のなにかだというのだろうか。

 それこそ、姿を見せず、気配も感じさせず、ただ麦畑にのみその痕跡を残すような。

 そんな馬鹿な、とエルサが思ったとき、まさに頭上から同じ言葉が聞こえてきた。

「わ、わっちが見落としたじゃと? そんな馬鹿なことありんせん!」

 眼前に広がる光景を、ホロもまた納得できなかったようだ。その叫びに似た動揺の声に、エルサはターニャと顔を見合わせて、口に人差し指を当ててからゆっくり昇るようにと階段の先を示した。

「こんな……麦畑に蛇が這いずった跡など……」

 もう少しで塔の頂上に出るというところで、エルサとターニャは足を止めた。

「不思議だよな。下からだと気がつきにくいんだが、上から見るとはっきりこのとおり」

 ロレンスのちょっと得意げな声が聞こえてくる。ホロが肩をいからせ尻尾を膨らませている様が、エルサには容易に想像できた。

「ううぅ……じゃが、わからぬ。絶対に蛇の気配など欠片もありんせんかった。それに、なによりじゃ!」

 と、ホロは悪夢を振り払うかのような悲壮な声で言った。

「ばかでかい蛇が這いずったならば、穂が折れ、倒れておったはずじゃろう? ふわふわと霞のような蛇が、撫でるように表面を這いずったとでもいうのかや?」

 ホロたちは普通の人間からすれば目を疑うような超常の存在なのに、そのホロが混乱し、取り乱している。けれどもそれに答えるのは、実に落ち着き払って、含み笑いさえ感じられる元行商人の声なのだ。

「逆だよ」

「はあ?」

「麦の上を這いずったんじゃない。麦の下を這いずっているんだ。おそらくは今も、ある程度な」

「……っ……っ!」

 言葉にならない、つんのめったような息遣いだけが聞こえてくる。

 ホロは目を見開き、牙を見せ、飛び掛かろうとして動けないのだろう。

 けれども心境的にはエルサもホロと同じだ。男女の愛の告白の場面を覗き見しようとする乙女の気持ちなどすっかり吹き飛んで、ロレンスの説明に耳をそばだてていた。

「ただ、あれは大蛇じゃない」

「なんじゃと?」

「お、おい、押すな、危ないって!」

 ついに辛抱溜まらなかったホロに詰め寄られたらしいロレンスの、慌てた声が聞こえてくる。

「大蛇ではないなどと……ぬしよ、ぬしの目は節……あ……なっ?」

 ロレンスに掴みかかったホロは、気がついたらしい。

 エルサもその場にいるかのように、想像できる。ロレンスが手に持っていたのは一枚の紙であり、それは古い地図だった。

 エルサは文字どおり、口の中で舌を巻いた。

「そう。あれは川の跡なんだよ」

 噛んで含めるような、優しい声音だった。

「古い地図に周辺の地形図が残っていた。それはどんぴしゃり、この光景と一致する」

 ターニャがもぞもぞと体を動かし、壁の穴から外を見たがっていたので、エルサは体をずらして道を開け、ターニャが少し階段を降りていくのを見送りつつ、自分は頭上からの声に集中していた。

「古い川はサロニアの平原を、東の山脈から、南西に流れていた。ほら、あっちからずっと蛇の後をたどっていくと、東の山に向かっているだろ? すると上流のほうで、俺たちが渡ってきた川の近くまで行くんだよ」

 ホロはロレンスの指さした方向を見つめ、最後に悔しげにロレンスを振り向いたのだろう。

 大きな衣擦れと、いらだちを含んだ大きめの足音が聞こえた。

「地図によると、昔はこの平原に二本の川があった。あの麦畑に残る跡は、枯れたほうの川の流れなんだよ」

「じ、じゃが……」

 ホロは口ごもるし、その戸惑いはエルサにも共感できた。

 なにせホロはついさっきまで、まさにその麦畑の目の前にいたのだ。

 仮に川の流れが地形として残り、地面がくぼんでいたのだとしたら、気がつかないなんてことがあっただろうか? なにより麦畑の手入れの仕方を多少でも心得ていれば、長い年月に渡って耕されているというのに、いつまでもそこだけくぼんでいると考えるのは難しい。

 だというのにこんなにもはっきりと、かつての川の流れが麦穂の絨毯に残されているというのは奇妙な気がした。まるで麦だけがかつての土地の変化を知っているかのような……とまで考えて、エルサは声を上げかけた。

 そして賢狼と呼ばれたホロもまた、同じ答えにたどりつく。

「水捌けかや!」

「ご明察。村の人たちに聞いたら、かつての川の上だけ土が多く盛られていて、わずかに植物の生え方が変わるんだそうだ」

 川のあった場所ならば、地面は岩やら砂利やらでいっぱいだろう。それらすべてを取り除くなど現実的でないから、上から土を盛って畑とする。すると多勢に影響はないだろうが、やはり周囲の土地とは完全に同じにはなりえないのだろう。

「麦の出来の良しあしに影響するほどじゃないが、背丈と茎の太さがほんの少しだけ、でも確実に違うらしい。だからまあ、こんなにはっきりわかるのは、麦穂が実ったこの時期だけ、しかも高い位置から眺めた時だけだそうだ。その点では、運がよかったが」

 景色を眺めているのだろうロレンスは、のんびりとした口調で言った。

「じゃとすると……蛇は、なんなんじゃ?」

 ホロの混乱もまた、エルサにはよく理解できた。なぜなら大蛇の伝説がこの古い川の跡なのだとしたら、それは一体なにを意味するのかと頭を整理し直す必要があるからだ。

 勇者ウォラギネの伝説は一体なんのか。彼の功績とは、麦畑の微妙な色合いの違いに気がつき、せっせと塔を建て、蛇がいたぞ、と示したことだとでもいうのだろうか。果たしてそんなことで関税権を、あるいは領主権を手に入られるものだろうか。

 そしてロレンスは、もちろんすべてに説明をつけられるから、満面の笑顔でホロをここに連れてきたようだった。

「物流を滞らせていた蛇は、確かにいたんだよ」

「……」

 麦畑に残された跡は蛇ではないと、ロレンスは言ったばかりだ。ホロの困惑が、無言を通じてエルサにも届く。いつもはしてやられ気味なホロの鼻先を引き回すのはさぞ楽しかろうが、あまり調子に乗るとどうなるかということを、ロレンスはきっちり理解していたらしい。

 ホロをなだめるように、やや笑いながら言った。

「だいぶややこしい話なんだよ」

「……ふん」

 すねかけているホロに、ロレンスが苦笑する姿が見えるようだった。

「まず、勇者ウォラギネは実際に蛇を殺したわけじゃない。けれど、蛇そっくりなものを倒してみせたんだ」

 まるっきり謎々だし、賢狼と呼ばれた狼はすっかりへそを曲げていて、問題に答えるつもりはないらしい。ロレンスはそれ自体が面白いかのように、声に優しい笑いを含みながら言葉を続けた。

「彼は剣じゃなく、鋤で蛇と戦ったんだ。川を枯らしたんだよ」

 エルサも少し階段を降りて、ロレンスの説明を聞きながらターニャと共に石壁から麦畑の様子を眺めた。

「けど、川を枯らしただけで領主になれるっていうのも変な話だろ?」

 さすがにそれ以上無視するのは気がとがめたのか、ホロが渋々口を開く。

「……むしろ麦を育てる連中からは、恨まれそうな話じゃ」

「そう。そして蛇というのは単に川だけを示したものじゃない。ほら、俺たちは舟橋を渡ってきたことを思い出してくれ」

「ん、むう。それがなんじゃと?」

「なんであの川には大きな橋が架けられていなかったのか、だよ」

 エルサは思わず答えを口にしかけたが、もちろん賢狼もまたその知恵の輝きを見せた。

「それは山からの木を流すせいで……む、あ!」

「そう。丸太を流すんだが、延々と、川に沿って丸太が流される様子を想像してみろ」

 まるで、巨大な蛇のようだ。

「じ、じゃが、ええっと……」

「ただ、それだけだと話の半分だ」

 ロレンスはすっかり興が乗っているようで、大仰な身振りがエルサにも見えるかのようだ。

「昔は川が二本あったと言ったろ? そして、そのうち一本はサロニアの町には近づかず、こっち側に流れてきた。町のない、人目につきにくい平原だ」

 ホロは古の時代に生きる精霊のような存在だが、ここしばらくは元行商人と旅をして、同じ景色を眺めてきた。

「密輸、かや」

 ロレンスは人が好さそうに見えて、商人らしいところも持ち合わせている。一点の染みもない清廉潔白な旅、とは言えなかったはずで、ホロは商人たちのそういう世界ももちろん見聞きしてきただろう。

「関税を回避するために、勝手にこっちの川に木材を流す奴らが後を絶たなかったんだ。もちろん大っぴらにできないから夜間を狙って流すだろうが、木材ってのは単に流すだけだと曲がり角で滞留して大変なことになる。そのために木材同士を細長い筏のように連結させて、先頭に人が立って行き先を操作するんだ。さあ、それを夜間にやろうと思ったらどうなる?」

 月明りを頼りにするのも限界があるだろう。

 筏の上ではかがり火が焚かれ、遠くからはこう見えたはずだ。

「暗闇の中の……蛇の目じゃな」

「勇者ウォラギネは、その蛇を退治したんだ」

 川を枯らすことで。

「町にある地図を見て、すぐ見当がついた。そもそも、木材商人たちと教会の争いが、どうも互いに煮え切らない感じでな、怪しく思ってたんだ。多分、これはみんなが知っていることなんだよ」

 長い年月に渡って土地の人間が誰も気がついていなかった真実を、通りがかった慧眼の持ち主があっという間に見抜いてみせた、となればいかにも冒険譚らしいのだが、そんなことはそうそう起こりえない。真実はすでに明らかで、単に口に出せなかったのだ。

 教会としては当時の異教徒と睨みあっていた状況から、大蛇を打ち倒したという伝説にするのが都合よかったし、木材商人たちはかつて自分たちの同業者が手を染めていた悪行という負い目がある。

 そこでお互いに決定的なことを口にできず、じりじりと睨みあっていたところ、土地の事情を知らないが発言力だけはある旅の人物が現れた。

 だから彼らとしては、ロレンスが真実に気がつかないまま、自分たちに有利な裁定を下してくれることを期待して声をかけたのだ。

「そんな簡単に躍らされてたまるかってことだ」

 ロレンスの得意満面が目に浮かぶようだし、呆れたような、悔しいような、あるいは嬉しいような、ホロの複雑な表情も容易に想像できる。

 不機嫌そうに膨らんだ尻尾が、ばたばたと揺れる音さえ聞こえそうだ。

「この不釣り合いな塔は、元々は川を利用したこの平原の密輸を見張るためのものだったのだと思う。ほら、ターニャさんは大昔に、蛇のせいで鉱山からの鉄を売れなくなっているという商人たちの愚痴を聞いた、なんて話をしてたんだろ? 川を利用した密輸のせいで、正規の取引にも支障が出るくらい取り締まりが厳しくなっていたんだろう。よくあることだよ」

 その問題を解決したからこそ、勇者ウォラギネが手に入れたのは関税権と領主権なのだ、とエルサは合点がいった。

「これが、サロニア平原を巡る大蛇の伝説のあらましだ」

 エルサは旅の途中で旅籠に泊まった夜、広間の暖炉の前で旅人たちが酒を手にそれぞれが旅の間に見聞きした面白い話を語って聞かせる機会に、何度か出くわした。

 ロレンスはホロと旅をしながら、きっと同じことを毎晩でもしてきたのだろう。

 慣れた語り口が終わる頃には、散々鼻面を引き回されてじたばたしていたホロが、すっかりおとなしくなっていた。

「ぬしというやつは、本当に……」

「すごいだろ?」

 おどけたような、でも本当に自信がありそうな、実に良い案配の言い方だった。

 もとよりホロだって、本当にロレンスのことを間抜けな羊だと思っているわけではない。

 やり込め、時にはやり込められるからこそ、狼のホロはロレンスから離れられないのだから。

「まあ、すごいがのう。それで、どうするんじゃ?」

 ところがホロの口調がずいぶんそっけないなと思ったのもつかの間のこと。

 エルサは足音と気配から、ホロがロレンスの手を握るかして、寄り添っているらしいことに気がついた。

「ぬしはこの麦畑を手に入れて、わっちに献上するつもりじゃったんじゃろう? この話の真実は、教会にとっては痛しかゆしじゃろうが」

 狼が甘噛みをして、ぐりぐりと首筋を乱暴に擦り付けるような言い方だった。

「誰もが真実を知っておるものの、痛み分けのように黙っておるならば、この真実を利用したところでどちらかに肩入れするわけにもいくまい」

 確かに、ロレンスが教会の味方をして関税権と領主権を手に入れ、木材商人たちに高い関税を押し付けたままでいようとすれば、木材商人たちは過去の悪行を責められるのを承知の上で、大蛇の伝説の真実を口にするかもしれない。教会の言う伝説は嘘っぱちだと。

 するとロレンスは、飄々と言ってのけた。

「なあに。両方にちょっとずつ味方をすればそれで十分だろ」

「う……むう?」

「木材商人たちには、昔の悪行があるんだから関税の大幅な引き下げは諦めろと伝える。けれど教会には、おたくの喧伝している伝説は嘘っぱちだし、密輸の悪行を働いていた人たちは全員とっくに墓の下ですよねと伝え、木材商人たちに譲歩することを持ちかける」

「ふ……むう」

「木材商人たちからは、ちょっと礼をもらえばいい。その金で、ぱーっと酒を飲もう」

 わかりやすい利益に、きっとホロの尻尾はそれ以上にわかりやすく反応したことだろう。

「じゃが……この麦畑はどうするのかや。諦めるのかや?」

 押し付けられようとしたときには嫌そうだったのに、いざなくなろうとすると寂しげなホロのその問いに、ロレンスは少し間を開けた。

 それは一見間抜けそうな一人の男が、細心の注意を払って、宝物をそっと置くかのような振る舞いだった。

「教会からは礼の代わりに、毎年一定の小麦を、ニョッヒラに届けてもらう」

「……は?」

「そうしたら、毎年その麦でパンを焼くたびに、今日のことを思い出すだろ?」

 酒ならば飲んで終わりだし、金貨など宝の持ち腐れ。

 けれど、思い出が詰まった土地からの小麦が毎年届けられるのだとすれば。

 ホロは日々の出来事を、せっせと書き記して溜め込んでいた。見慣れた湯屋とは違う宿の暖炉の明かりで照らされた、伴侶の老いに恐れをなしていた。川の流れでさえ、いつか枯れてしまうことがある。

 ならば文字で記された思い出もまた、乾いて味を失うこともあろう。

 けれどもまさに味と香りを持った麦ならば、色鮮やかに記憶を呼び覚ますかもしれない。

「麦の調子が悪かったら、ミューリのやつをひとっ走りさせて様子を見にやればいいし、自分でここまできてもいい。たまに覗いて世話を焼くくらいなら、ちょうどいい暇つぶ……っ」

 ロレンスの言葉が途絶えた理由を、エルサはあえて追いかけなかった。

 ターニャは不思議そうな顔で耳をそばだて、二人の様子を見ようと首まで伸ばしたが、これ以上ここにいるのは無粋だということくらい、堅物のエルサにもわかっている。ターニャの肩に手を置いて、エルサは微笑みながら階段の下を指さした。

 二人でそろそろと階段を降りながら、エルサは胸がいっぱいだった。

 テレオの村から、世の流れに翻弄される教会の助けになるならばと、あちこちの教会を渡り歩いてきた。そこで見かけたのは、悪意はないかもしれないが、およそ神の僕には似つかわしくない聖職者たちの振る舞いばかりだった。

 この世に本物などそうそうない。鍍金を施し、飾り立て、それっぽく見せているだけ。

 けれども、たまにはこういうものがある。

 狭苦しい塔の階段から外に出て、広い中庭でターニャが大きく深呼吸をしていた。

 エルサは塔の上を眺め、口元が笑ってしまうのをこらえられなかった。

 それはあの二人の底抜けの仲の良さに対してのものでもあるし、もうひとつは、自分自身の気持ちに対してのものだ。

「久しぶりに、里心がつきますね」

 騒々しく、落ち着きがなく、ほとんど常に怒鳴り散らしているかのような我が家。

 けれど、そこにはエルサにとっての本物の生活がある。

 ホロとロレンスのような甘ったるさはないが、夜眠るときには、足で蹴飛ばした毛布をそれぞれかけ直してやりたくなるくらいには、愛しくて大切な家族たちだ。

「……」

 ただ、ふと隣でターニャが立ち尽くしていることに気がついた。口には出さないが、エルサと同じように塔の頂上を見上げていた顔には、羨ましさと、はっきりと寂しさがあった。

 この栗鼠の化身は長いこと、たった一人で山で暮らしていた。ほんのつかの間に訪れた旅人たちと仲良くなり、彼らの帰りを待っている。

 やがてエルサに見られていたと気がついたターニャはばつが悪そうにしていたので、エルサはなにも言わずターニャの体を抱きしめて、たっぷり時間を空けてからこう言った。

「私の家はここから少し遠いのですが、あなたも一度きませんか?」

 ターニャは目をぱちくりとさせ、なにか言いたげに口ごもる。

 そこにエルサは、少し悪戯っぽく口角を吊り上げながら、塔の上を指し示した。

「もちろんあの、能天気な二人組の湯屋に行く権利もあると思います」

 ターニャはつられて空を見上げ、ゆっくり視線を戻す頃には、いつものふわふわとした笑顔に戻っていた。

「はい。とても楽しみです!」

 ターニャだけがあの山で寂しくしている理由はない。

 エルサは笑顔でうなずいてから、少し迷ったが、こうも付け加えた。

「旅の間に、良い人が見つかるかもしれませんしね」

 ターニャははっきりと目を見開いてから、顔を赤くしてわたわたとした後、両手を頬に当てていた。

「でも、私にはお師匠様が……」

 おそらくはもう生きていない錬金術師のこと。ターニャはもちろん薄々わかっているだろうが、良い意味で、それはそれ、ということなのかもしれない。

「でも、お師匠様は私には手の届かない素敵な人ですし……だったら、うーん……」

 そんなことを言うターニャの顔は、実に楽しそうだ。

 エルサは微笑み、はっきり笑ってから言った。

「恋の話が楽しいなんて、私もまだまだ子供です」

 つまりは、そういうことなのだ。

 エルサの言葉に、ターニャは照れもせず満面の笑み。

「たくさんお話したいです」

「はいはい」

 もちろんその席にはあの狼も呼ぶべきだとエルサは思う。

 おそらくはこの世で最も幸せな、呆れるような話を山ほど持っているはずなのだから。

「さあ、町に帰りますよ!」

 エルサは塔の上に向かって声を張り上げてから、腰に手を当てる。

 自分も家に帰ろう。

 あの調子がいいだけの司教からの仕事を突っぱねる様を想像し、エルサはすでに今からせいせいした気分なのだった。