※2023年1月7日発売の『狼と香辛料ⅩⅩⅣ Spring LogⅦ』先行試し読みとなります。そのため、発売されるものと一部内容が異なる場合がございます。
旅というのは、なにが起こるかわからない。
次の町で再会しようと別れた旅の仲間が、たった数日で病に見舞われて亡くなったりするし、これは絶対確実な商いだからと商品を買い込んでみたら、とっくに需要がなくなっていて破産の憂き目にあってしまったりする。なんなら仕入れに立ち寄った村で、北に帰りたいとめそめそしている狼の娘なんかを拾ってしまったりする。
なのでそんな旅に出たまま、すっかり便りを寄こさなくなってしまった一人娘の身を案じたとて、誰が責められようか。山奥深い温泉郷から下界に降りるには、十分すぎる理由だろう。
けれどそういって、ミューリとコルの足取りを追いかける旅に出たロレンスたち自身もまた、例にもれず様々な出来事に遭遇した。栗鼠の化身と出会ったり、かつての旅の仲間と再会したり、あまつさえ領主になれるかも、などという好機に巡り合ったり。
領主の件はなかなかに心揺さぶられたのだが、結局ロレンスは干し肉とお酒があればご満悦な自称賢狼様との気楽な旅を選び、サロニアと呼ばれた町から船に乗って海を目指していた。
舟歌など聞きながら、酒を啜っての川下り。
それからそこそこ賑やかな港町で、おてんば娘とその兄代わりの青年の情報を集められたらと、思っていた……の、だが。
「う~……なんじゃって?」
ぼさぼさの髪の毛の隙間から、腫れぼったい目がロレンスを見る。
寝ていた時は気にならなかったが、目を覚まして部屋の外に出て、井戸で顔を洗い朝食を調達しがてら、朝一番の旅路の情報を聞き集めて部屋に戻れば、そこに充満する濃い酒の匂いに顔をしかめてしまう。
「飲みすぎだ」
ベッドの上で唸っているホロを横目に、ロレンスは木窓を開けて、一息つく。
「まぶ……しい……」
これが苔むす森の妖精ならば、強すぎる日の光からそっと守ってやりたくもなるところだが、居酒屋で楽器を奏でる楽師たちにのせられて、酒を片手に踊り狂っていた自称賢狼様には同情の余地がない。
ぬしとの旅はつまらぬことでも楽しいんじゃ、などと殊勝なことを言うホロにほだされた途端、これだ。エルサからのお叱りではないが、ホロを少し甘やかしすぎかもしれないと、ロレンスはいまさらながらに思う。
「まったく……。生きていることを後悔するくらい辛そうなお前には朗報だがな、川を下る船が全部止まってしまっているらしい」
椅子に座り、窓から流れ込む新鮮な朝の空気が淀んだ酒臭さを洗い流してくれるのを待ちながら、ロレンスは調達してきたパンをひとかじりする。
「うっ……その、匂い……」
焼き立てのパンの匂いを嗅いだなら、いつもはたちまちベッドから飛び起きてくるはずのホロが、顔をしかめて呻いている。何度も見た光景にロレンスは心底呆れるのだが、吐かれては掃除も大変だし、宿賃を割り増し請求されるかもしれない。ため息をつきながら椅子をホロの風上から移動させた。
「川を下った先の港町で、なにかややこしいことが起きてるみたいでな。足止めされそうだ」
「……」
聞いているのかいないのか、いつもならば狼の耳を見ればわかるのだがぴくりともしない。
ロレンスはため息をパンと共に飲み込み、話を進める。
「選択肢としては、ここで事態が落ち着くのを待つか、それとも、馬を受け取って荷車を調達して陸路でいくか」
なにか返事があるかとロレンスが間を開けても、反応がない。普段は艶やかな尻尾の毛すらぼさついていて、不運にも荷馬車に跳ねられた野良犬を思い起こさせる。
もっともホロの場合は、自業自得なのだが。
「陸路の場合は、どうせならこのまま南下してケルーベを目指してもいいかもな。ミューリたちの情報も集めやすいだろうし、ケルーベは近隣でも随一の賑やかな港町だから、うまい食べ物も多い」
うまい食べ物、という単語に少しだけ尻尾の毛先が動いたので、聞いてはいるらしい。
ただ、今は食べ物の話をするなという意味か、それとも体調が戻ったら是非食べたいということなのかまでは、さすがのロレンスにもわからない。
「まあ、急ぐ旅でもないから寝てればいい。昼を過ぎれば、川下からやってきた旅人たちが、詳しい情報を持ってきてくれるだろうし」
するとホロはなにか言ったような気がするが、寝息が聞こえてきたので、寝言だったのかもしれない。
ロレンスは苦笑いし、食べかけのパンを口に咥えて立ち上がり、間抜けなお妃さまに毛布を掛け直してやったのだった。
川というのはいくつもの領主の土地を通るため、その都度関所がつくられている。
ほとんどが川べりに掘っ立て小屋と、居丈高な徴税吏が一人二人いるような場所なのだが、時には陸の商業路も交差するような賑やかな場所がある。そういうところでは旅人を当てにした居酒屋や宿屋が建ち並び、立派な旅篭町になっていたりする。
ロレンスたちが滞在しているのはそこまで立派なものではなかったが、居酒屋を兼ねた宿屋が三件ほど寄り集まり、服を繕ったり靴を修理する職人もちらほらいて、旅人が羽を休めるには十分満足できるところだった。
関所で毎回税を取られるのは業腹だが、旅人しかいないような場所だから昼から軒先で酒を飲んでいても白い目で見られないのはよい。
粗悪な葡萄酒に蜂蜜を垂らし、味を誤魔化したものをちびりちびり飲みながら、ロレンスは行き交う人たちの話に耳を傾けて、旅の情報を集めていた。
そこにふっと影が差したかと思えば、向かいの席に荒々しく娘が座る。
「一人でずいぶんと優雅じゃのう?」
ロレンスのほうを見ることすらせずに悪態をついたのは、見た目は齢十余の少女だった。
けれど店主に向けて手を上げるしぐさが様になっているし、二日酔いの後ということで果実酒が酒になる前の甘酸っぱい飲み物と、さらに甘くするための蜂蜜を追加で頼んだりと、ずいぶん手慣れている。若く見えても、もう何百年と生きる狼の化身なのだ。
「ここは蜂蜜の質の良いのが集まっておってよいのう」
「代わりに安くないんだがね」
「たわけ」
ホロは言って、ロレンスの手元にある干し肉に目をやった。寝起きに固い干し肉はあまりお気に召さなかったのか、顔をしかめていたものの、これで我慢してやるかとばかりに手を伸ばし、ごっそり自分のほうに引き寄せる。
「麦粥かなにかにしておいたほうがいいんじゃないのか?」
「それはそれで頼んでくりゃれ。あったかいやつじゃ」
おそらくはスグリを漬けた濃い赤色の飲み物を店主から受け取り、ホロは早速口をつけている。蜂蜜を入れてもなお酸っぱかったのか、ぎゅっと目を閉じ、ふうと息を吐いてから干し肉をかじりだす。
なんにせよ元気になったようでよかったとロレンスは思いながら、店主にパンくずの入ったスープを頼んでおく。
「それで? わっちを放ったらかしにして、飲んだくれておったのはどういう了見かや」
「病気でもないのに、手を握っててほしかったのか?」
ホロはテーブルの下でロレンスの足を蹴ってくる。それはそれでいつものじゃれ合いともいえるのだが、ロレンスがおやと思ったのは、ホロが割りと本気でむくれていたからだ。
目を覚まし、ロレンスが部屋にいないのはともかく、木窓を開けていたから匂いもほとんど残っていなかったのかもしれない。
普段は飄々としているこの狼は、人よりはるかに長い時を生きるせいで、すべては泡沫の夢なのでは、という悪い夢に苛まれることがある。それで慌てて木窓から外を見れば、ロレンスが優雅に酒を飲んでいるのが見えてむかむかした、というところだろうか。
「じゃあ、朝にした話は、まったく聞いてなかったというわけだ」
ロレンスが呆れて言うと、ホロは半目にロレンスを睨む。
「なにがじゃ」
「なにがって、昼もとっくに過ぎているのに、のんびり宿に居座っている理由だよ」
ホロはなにか言おうとしたが、なにを言っても藪蛇になると思ったのだろう。
口をとがらせて、甘酸っぱい蜂蜜割りの果汁を啜っていた。
「川を下った先の港町で、市政参事会が大きな相談事をしているらしくてな」
ロレンスは手元に残っていたわずかな干し肉をつまみ、次から次に新しい船が川を下ってやってくる様子を見る。しかし関所からは一向に船が出ていかないせいで、船着き場にはぎっしり船が詰まっていた。川を下っている船というのは、集めてみると想像しているより多いようだ。
「議題が税についてだそうで、皆、様子をうかがってるんだと」
まだ二日酔いの面影を若干残していたホロだが、眉根にちょっとしわを寄せると、すぐにこう言った。
「それなら、逆になりそうなものじゃが」
ホロも船着き場に目を向けると、荷を山盛りに積んだ新しい船がやってくるところだった。一体これ以上どこに停めるつもりなのかという懸念をよそに、職人技でわずかな隙間にすっぽり収まってしまう。
「税はぬしらにとって天敵じゃろう? 税を上げられる前に急いで川を下らぬのかや」
「そうしたら今頃お前は、昨晩の飯を気前よく川の魚の餌にしているだろうな」
海の船はもちろん揺れるが、川の船でもまあまあ揺れる。ぐったりしているホロを想像し、それはそれで可愛いものだがとロレンスが笑っていたら、胡乱げな目をしている狼に気がついて、咳ばらいする。
「珍しいことに、市壁の関税を下げる相談をしているらしいんだよ」
ホロがロレンスに噛みつかなかったのは、ちょうどスープが運ばれてきたからかもしれない。
とろとろのパンくずを木の匙で掬い取り、うまそうに食べ始めていた。
「だから会議の結果が決まるまで、旅人から商人までが、そろって足踏みというわけだ」
パンくずのほかにも大きな鯉の切り身が入っていたようで、はふはふと熱がっていたホロは、果汁で口を冷やしてから、ぺろりと唇を舐めて顔を上げる。
「わっちらには関係ないじゃろ。積み荷らしい積み荷もありんせん。ここも悪くはないが、のんびりするなら大きな街がよいしのう」
「うーん……だが、撒き餌の可能性もあるんだよな」
「撒き餌?」
「噂で呼び寄せておいて、ガブリ」
街を囲む市壁というのは、外敵から身を守る以外にも、中に入った者たちを逃がさない役目もある。例えば戦費を調達したい都市などは、その時に町の中にいる外来の商人たちに、町の外にでたければ目が飛び出るような通行税を払えと迫ることがある。戦に巻き込まれるよりはましだからと、旅の商人たちは渋々と高額の税金を払うのだ。そういうことのために商人を呼び寄せている可能性が、ないわけではない。
ホロが手にした木の匙に乗るのだって、まさに川の底に沈められた罠にかかった結果、スープになってしまった魚の成れの果てだ。
ホロは少し考えるように視線を空に向け、切り身を口に運ぶ。
「ふむ。ありそうな話じゃ」
「だからまあ、君子危うきには近寄らずで、陸路で南に向かうというのもどうかなと」
陸路、という単語にホロは顔をしかめる。船旅を一度覚えてしまえば、がたごとと尻の痛くなる荷馬車での旅にはそんな顔をするだろう。
「ロエフ川まで出られれば、そこからはまた船でケルーベまで下ることができる」
「ケルーベ……聞いた覚えがあるのう」
「その角を粉にして飲めば、永遠の命を授かると言われた海の獣、イッカクが水揚げされたところだよ」
ホロは顎を軽く上げ、あんまり面白くなさそうにうなずいていた。
それは人よりも長い時を生きる人ならざる者として、薬にすれば永遠の命を賜るというイッカクの角に抱く、複雑な気持ちを思い出したのかもしれない。あるいは、ロレンスとの旅で出会ってきた中でも、指折りの強欲商人たちとの争いのことを思い出したのか。
「ケルーベなら古巣のローエン商業組合の商館があるし、湯屋の開業で世話になった人に挨拶もできる。ミューリやコルの情報も手に入りやすいだろう」
一人娘のミューリと、湯屋でその兄代わりを務めてくれていたコルの二人は、今や世間的には有名人だ。それ故にどこにいるのかなどすぐにわかるだろうと高をくくっていたら、むしろ有名になりすぎたせいで見つからないのだった。あの山で奇跡を起こしただとか、どこそこの街の疫病を一掃しただとか、いい加減な噂話で溢れている。
けれど各地に商館を構える組合ならば、正確な情報を持っていると期待できるだろう。
「ふうむ。コル坊を拾った川と、その先の港町じゃろう? その川まではまだ、ずいぶん距離があるのではないかや」
「まっすぐ道があるわけじゃないしな、荷馬車で三日……いや、行商の旅じゃなし、余裕を見て五日、いや六日くらいかな……。俺もこの辺の地理には詳しくなくて」
げんなりするホロに呆れるのはたやすいが、ロレンス自身すっかり湯屋の主人に体が慣れていて、硬い御者台ではすぐ腰が痛くなってしまう。道を調べ、寄り道し、休憩を挟んで、あれやこれや。結局もっとかかるかもしれない。
なんであれ、優雅な旅の予定が崩れそうな予兆が見え隠れし、ホロが抗議を示すようにずずっと音を立ててスープを啜る。
「わっちがぬしを背に乗せて走ってよいなら、文句は言わぬが」
狼に戻ったホロの足なら、きっと一晩で走り抜けられるだろう。
「馬はどうするんだ」
「……馬肉は甘いが、強い酒と案外にあいんす」
どこまで本気かわからない冗談に、今度はロレンスがため息をついて、酒を飲む。
「俺としては、ちょっと経緯を見守りたいんだが」
「んむ?」
「港町にどんな思惑があるのか知らないが、もしも本当に税が下がるなら、あれこれの奢侈品をそこの港町経由で仕入れられたら得だろう? 最近は湯屋の貴族以外の客も、南の地の高級品がないと文句を言うからな」
ホロのやや冷たい目は、儲け話を語る間抜けを見る目だ。
「ぬしは本当に、懲りぬ雄でありんす。その手の話は兎の商会に任せておけばよかろう。第一、いつだったか小麦の仕入れで見知らぬところに注文したせいで、安物買いの銭失いになったのではなかったかや?」
兎の化身が番頭を務めるデバウ商会は、狼と香辛料亭を営業するための頼れる仕入先だ。
そして小麦の件については、高価な小麦に安いライ麦の粉がまぜられているのを、ホロとミューリが嗅ぎ分けてくれて難を逃れたという経緯がある。
「くっ……けどな、俺が懲りない奴なら、どうして今朝お前が起きられなかったかの話もするべきか?」
ホロはむっと口を引き結ぶが、テーブルの下で足を蹴ってはこなかった。
さすがのホロもひどい二日酔いになるまで飲んだくれたことを反省したのかと思えば、ロレンスは自分たちのテーブル脇に人の気配を感じ、顔を上げた。
見やれば、薄い帽子を手に握り締めた農夫風の男が、ためらいがちな笑顔を見せていたのだった。
「クラフト・ロレンス様と、その奥様とお見受けしますが」
そのあまり優雅とは言えない身なりと、やけに丁寧な言葉遣いがちぐはぐだったが、勘所を心得ている人物のようだというのはすぐにわかった。挨拶とともにさっと差し出したのが、軽く小脇に抱えられる程度の小ぶりな酒樽だったのだから。
ホロはようやく二日酔いから覚めたばかりだというのに、目をたちまち輝かせて酒樽を受け取ってご満悦だ。
「ふんふん……んーむ、これは良い蜂蜜酒じゃのう! ふむ、用件があるようならなんでも言ってくりゃれ」
とまで言うのだが、もちろん用件を聞くのはホロではなく、ロレンスだ。
ロレンスはホロの様子にため息をつきながら、農夫風の男を見やった。
農夫、風だと思ったのは、見た目は農夫なのだがその物腰がやけに洗練されていたからで、挨拶の品が蜂蜜酒というのも手慣れすぎている。
ただ、ロレンスは今までの商いを思い返しても、この人物の顔に心当たりがなかった。
「失礼ですが、どちらかでお会いしましたか」
「お初にお目にかかります。ですが、お二人のご活躍はサロニアの町で」
ロレンスはうなずく。
サロニアの町ではちょっと張り切りすぎて、町の有名人になってしまった。
酒や食事に不自由せず、楽しい日々を過ごせたという意味ではよかったのだが、耳目を集めるのは思わぬ余波を生む。
「旅の途中だとは存じますが、どうか私のお話を聞いていただきたく」
丁寧な言葉遣いと、右ひざまでついて懇願するその様子に、どうもこの農夫風の男は、身なりの割りに普段から高貴な人間とのやり取りがあるらしいと推測できた。
けれど村長というには若すぎるし、なによりも、どこか村人らしくない空気を身にまとっている。ロレンスが昔の行商で得た知識を引っ張り出して、男の持ち物を改めて観察すれば、目についたのは武骨な鉈と、小ぶりな弓矢だ。それから男が如才なくホロのために用意してきたのが上等な蜂蜜酒だったことを合わせれば、すぐに答えは絞りこめた。
「森林監督官様が、いかような御用でしょう」
男は驚きに目を見開き、そして驚きの後にははっきりと嬉しそうな顔をした。
「さすがサロニアで数々の問題を解決されたロレンス様です! ぜひそのお力を私たちにお貸しください!」
あいにくと夫婦水入らずの旅だから、と答えたくても、すでにホロが蜂蜜酒を嬉しそうに抱えこんでいる。問題に取り組むのは自分じゃないから気楽なものだ、とロレンスは思いつつ、いやそうじゃないのかもと思い直す。
ホロは男の体にまとわりつく森の木々と土の匂いで、森で働く人間だとすぐに気がついたのだろう。儲け話にロレンスが目を奪われてしまうように、ホロは森をこよなく愛する狼だから、助けを求めてきた森の民の話を聞くようにとロレンスを仕向けたのではないか。もちろんそれで追加の蜂蜜酒を受け取れれば、言うことなし。
ならばこの男を追い払えば、きっとロレンスもまた、ホロによってベッドを追われ、床で一人寂しく寝ることになるだろう。
「……私でよろしければ、お話をお伺いします」
疲れたようなロレンスに対し、男は大喜びだし、ホロも満足げにうなずいたのだった。
男はこの関所から南に下った先にある、トーネブルクという領地の領主に代々雇われている森林監督官、マイヤー・リンドと名乗った。ホロはその職名に妙に感じ入っているので、名前から素直に森の守護者を想像し、森を守る者はなんであれ良い奴じゃ、とでも思っているのだろう。
ただ、森林監督官は単なる森の守護者ではない。森を監督する点に違いはないのだが、見張るのは限られた森の資源であって、森そのものではない。ニョッヒラ近辺だと森が深すぎて彼らの出番もあまりないが、南に下れば下るほど森は貴重になっていき、それに応じて森林監督官の役割も重要になっていく。特に麦の産地として広く開墾されているこの近辺のような土地だと、なかなかの重責だろう。
そんな森林監督官のマイヤーが見張るトーネブルクの森は、この近辺にしてはやや起伏に富んだ地形ということもあって、深く黒い森がそのまま残っているらしい。
しかしマイヤーが語ったところによれば、その森を切り開き、木材を積み出し、さらには道を通そうという計画があるとのことだった。
「マイヤーさんは、その計画を阻止したい、と」
「はい。ですが困難があり、ぜひロレンス様のお力を借りられればと」
森で暮らす者というと、どこか厭世的で人嫌いで、百年も積みあがった苔みたいにもさもさの髭の奥で鹿のような目に光を湛えている人物、というのを想像しがちだが、森林監督官は森で働く文官だ。
高貴な者に仕え、日々土地の利害の対立で折衝を行っているから、その話し方は洗練され、どこかの商会で番頭をやっていたとしても違和感がない。
だから交渉のためには多少の痛いところをついてくるその手際もまた、なかなかのものだ。
「私はそもそも、とある交渉事を見守るためにサロニアにいたのですが」
マイヤーが言葉を切り、意味ありげにロレンスを見る。
「ロレンス様のご活躍、まったく感服いたしました。しかしロレンス様が阻止された木材商人たちの関税値下げ交渉、それが予期せぬ波紋を広げておりまして」
予期せぬ波紋、という言い回しにロレンスは嫌な予感がする。
「確かに私は、サロニアの教会より請われて尽力しましたが……その結果、マイヤーさんやトーネブルクの領主様、あるいは領民の皆さんに、ご迷惑をおかけしてしまっていると?」
「いえ、迷惑だなんてそんなことは決して」
マイヤーは平身低頭が実に様になっているのだが、まったく心がこもっていない。手応えなくのらりくらりするうちに、確実に目的へと向かうヤツメウナギのようだ。
隣でホロが妙に機嫌よさそうなのも、マイヤーの芝居と、それにじりじり押され気味の自分の様子が楽しいからだろうと、ロレンスは苦々しく思う。
「ロレンス様が教会のため、神のために正しい行いをされたのは明らかです。しかしその結果、木材の関税はあまり下がりませんでした。するとこの川の河口に位置する港町カーランは、ロレンス様の活躍によって、安く木材を仕入れる手立てを失ってしまったのです」
「あっ」
マイヤーの話の向かう先がすぐにわかり、ロレンスは小さく声を上げた。隣のホロもフードの下で狼の耳をぴくりとさせてから、ロレンスを冷たい目で見つめていた。
「サロニアを通過する木材の関税が下がれば、港町カーランはそれだけ安い木材を仕入れられるはずだったのです。しかしその計画がもろくも崩れた結果、彼らはかねてより目をつけていた、我がトーネブルク領の森林を切り開くようにと、領主様に詰め寄ったのです」
確かに昨今木材価格は高騰していて、森林に囲まれたニョッヒラでさえ、薪の採取は寄り合いで量が決められる。森よりも平野や草地のほうが圧倒的に多いこの近辺なら、その希少性はいかほどか。
サロニアでの木材関税を巡る話は、木材商人たちがちょっとした利益のためにやっていたことではなく、近隣地域の商人たちが固唾を飲んで見守るようなことだったらしい。
ロレンスの目の前で膝をついている森林監督官は、サロニアでの関税の話を邪魔したお前のせいで、我がトーネブルクの森が目をつけられたではないか、どう落とし前をつけてくれるんだと、ロレンスに言いたいわけだ。
そして非難の視線は、マイヤーだけでなく、事情をおおまかに察した隣のホロからも向けられてくる。
ロレンスがサロニアで妙なことをしなければ、木材の関税は下げられて、下流の港町カーランとやらは安く木材を手に入れられて、マイヤーの働くトーネブルクの森に目をつけられるようなことはなかったのかもしれないのだから。
ロレンスはわずかでも刑の執行を遅らせようとする罪人のように、問いを投げた。
「り、領地を巡るお話、理解しました。しかし、マイヤーさんが先ほど仰った、森の切り開きを阻止するための困難とは?」
領主は港町カーランに対して弱い立場にあるのだろうか。それとも古い時代のように、都市が傭兵隊長を雇い、力づくで要求を呑ませようとしているのか。
あるいは自分でも協力できて、どうにか事態を収められそうなことだろうか。
「領主様は、森の切り開きに賛成されているのです」
ホロの唇がやや尖ったのは、土地を守るべき領主が森の切り開きに賛成するなど、というところだろう。しかし一方のロレンスが顎を引くのは、マイヤーの持ち込んできた話の厄介さを嗅ぎつけたから。
「領主様が、賛成を……」
「はい」
マイヤーはロレンスを見つめ返し、はっきりとうなずく。さっきまで掴みどころのない狐のようだったのに、今ははっきりと獲物を見据えた鷲のようだ。
「だとすると、私のような一介の行商……いえ」
昔の癖で行商人と言いかけて、ロレンスは咳ばらいをする。
「私は貴族ですらありません。港町と、領主様が手を組まれているような政治的な話に口を挟むのは……痛っ?」
きょとんとするマイヤーに、ロレンスは曖昧な笑顔で誤魔化しておく。
テーブルの下で、ホロに脛を蹴られたのだ。
「もちろん、ロレンス様のご懸念はもっともなこと」
マイヤーはすぐに切り替えて、大きく旋回し、獲物が逃げないようにと回り込む。
「ただ、これはロレンス様が商いごとに秀でているからこその、お話なのです」
「……」
ホロに蹴られたから、というわけでもないが、ロレンスは軽くため息をつき、マイヤーに続きを促した。
「まず、領主様は単純な計算違いをされているはずなのです。森は切り開けば容易には戻らぬもの。にもかかわらず、森から木を切り出すだけでなく、カーランの者たちから唆されて、炭焼き小屋と鍜治場まで森に作ろうとしているのですから」
ロレンスが息を飲んだのは、マイヤーの言葉にではない。マイヤーの言葉を聞いて、無表情のままのホロが、服の下で尻尾をばさばさ言わせ始めているせいだ。
「しかも領主様は、製錬された鉄や炭を運び出し、さらには商いを発展させるため、森の中に道を作ろうとしています。道ができれば通行税がたっぷり回収できるでしょうと、カーランの連中から耳元でささやかれたのを、真に受けているのです」
ロレンスがマイヤーの言葉に気圧されつつも、椅子の上で座り直したのは、どうやらサロニアから安く仕入れる予定だった木材の単なる埋め合わせを巡る話、というだけでは収まらないことのようだからだ。
「このままでは森が痩せ、森に頼って暮らしている領民もまた、困窮します。しかし領主様は木材の売却や炭焼き、それに鍜治場からの収益や切り開いた道を通る人々の通行税に目がくらみ、民が疲弊し、森が痩せてもなお、お釣りがくるとさえ計算しているようなのです」
マイヤーがロレンスに声をかけたのは、ロレンスがサロニアで余計なことをした張本人だから、というだけではないのだろう。領主を説得するには、その皮算用が間違っていることを示すほかないと判断し、ならばロレンスこそが適任だと考えたわけだ。
「聞けば、ロレンス様は今でこそ名高い温泉郷の湯屋の主人だそうですが、かつては広く世を巡る名うての商人だったとか。ぜひその商いの知識によって、領主様のそろばんが間違っていると示していただけませんか」
大仰な賞賛は、もちろん単なる誉め言葉ではない。湯屋の話を出してきたのがその証拠だ。
抜け目ないマイヤーはサロニアでひととおり下調べをし、おそらくエルサとも会ったのだろう。お前がどこのだれかというのはわかっているぞ、とわざわざ告げるのは、やんわりとした脅しなのだ。
「いかがでしょうか。もしも森を守っていただけましたら、森から採れた果実で作る四季折々の果実酒、それから蜂蜜酒、干しきのこや鹿や兎の燻製肉を約束いたします。ニョッヒラに集う貴顕の舌をも満足させる逸品であることを、トーネブルクの森の名誉にかけて誓います」
随分美味しそうな申し出にホロが目を輝かせているが、ロレンスの耳にはまったく違って聞こえていた。金貨や銀貨の支払いは困難だが、森の恵みの横流しならば自らの裁量でできるということで、それはつまり表立った報酬を支払えないことを意味している。
臣下の身で領主の決定をひっくり返そうというのは、普通、縛り首を覚悟するようなことなのだから。
まともに考えるならば、ロレンスは今すぐ笑顔でマイヤーの提案を受け入れるふりをして、荷物をまとめ、ホロを連れて逃げることだ。湯屋になにか嫌がらせをしてこようものなら、人ならざる者の伝手をたっぷり使ってやり返せる。
ただ、ロレンスが動けなかったのにも、もちろん理由がある。隣の食いしん坊から聞こえる腹の虫の鳴き声はともかく、実際に森が切り開かれてしまえば、住人たちはそれら森の恵みを失ってしまうこともまた事実なのだろうから。
しかもロレンスの背中には、サロニアでのことがこの問題の元凶に一役買っているという事実以外にも、さらに重たいものがずっしりと居座っていた。
今この瞬間がはるかな思い出になった頃、かつての楽しい時間を辿る旅に出たホロが、噂に聞いたトーネブルクの森を訪れるところを想像してみればいい。
わずかな木立が残るばかりの荒れ地と、人々の離散した土地を前に、一人立たずむホロ。
その様子を想像する以上に悲しいことなど、ロレンスにはないのだから。
「む?」
ロレンスが視線をちらりと向けると、ホロは怪訝そうに見返してくる。
ここはある種の分岐点だった。
ホロが枯れ果てた森の前でしゃがみ込み、乾ききった土を指でなぞるのか。それとも、救った森の若木にでも刻んでおいた、ロレンスの伝言を見つけたホロが呆れたように笑うのか。
ロレンスはそうやって、自分自身をあえて追い込んでいく。なぜならば、領主が一度決めた案を覆そうなどというのは、まともに考えるなら避けるべきことなのだから。
それに、ロレンスがこの話に難色示す理由はほかにもある。マイヤーは領主のそろばん勘定を正してくれと言っているのだから、つまりこれは商いの領域の話なのだ。そうなると、問題は輪をかけて複雑になってくる。
断りたい懸念点は、見上げるばかりの山と積みあがっている。
その反対側にホロが座り、ロレンスのことを上目遣いに見つめている。
この話に手を出す危険と、出さない危険。
諸々のことを頭の中で秤にかけ、ロレンスは言った。
「……一度、二人で相談させてもらっても?」
半ば降参の口調を感じ取ったのか、マイヤーはロレンスとその隣のホロを見やり、努めて無表情のまま頭を下げたのだった。
「ぬしのせいで森が狙われたではないか、このたわけ!」
ベッドに腰掛けたホロは、尻尾で一回、二回とベッドを叩く。
しかし三回目はベッドに振り下ろされず、ホロは自分の膝の上に尻尾を載せていた。
「と、罵りたいところじゃがな……。ぬしは前の町でわっちのために張り切っておったわけじゃし、わっちもまあ、それでほいほい喜んでおったからのう」
ホロはそう言って、テーブルに置かれた日々の記録を記す日記帳と、手土産の酒樽を見やる。
中身の甘ったるさではどちらもいい勝負のはずだ。
「それに、幸いなことに話は森についてじゃ。人里での騒ぎならばともかく、森を守るためならば、いっそわっちの出番という手もあるからのう」
ロレンスはやや驚いた。
「なんじゃその顔は。森を切り開くのを諦めさせればいいんじゃろう? そんなもの、わっちの牙にかかればあっという間じゃ」
愚かな人間が黒い森に足を踏み入れれば、そこに潜む森の精霊が牙を剥く。
おとぎ話ならばそれでめでたしめでたしだろうが、現実はそうもいかない。
特に、この手のそろばんのはじきあいでは。
「森を守りたいお前の気持ちは、もちろんわかる。ただ……」
「ただ、なんじゃ」
「マイヤーさんの話だよ。俺に、領主のそろばん違いを示してほしいと」
それがなんじゃ? という顔をするホロに、ロレンスは言った。
「まだ俺たちはマイヤーさんの主張を聞いただけだ。あの口ぶりとは違って、森を守るのが正しいことなのかどうか、なんともいえない可能性があるってことだよ」
「……」
一瞬虚を突かれた様子のホロの目が、たちまち据わった。森を切り開く正当な理由などない、と言わんばかりだ。
ロレンスはため息交じりに説明する。
「森とその精霊を巡るおとぎ話なら、敵と味方がはっきりする。なんなら領主様の愛した森を守ってくれという話だとしたら、これもわかりやすい。しかし、金貨と銀貨、そしてそれに支えられる人々の生活の話となると、誰に味方をすればいいのかたちまちややこしくなる」
ホロの尻尾が、不機嫌そうにぱたりと動く。
「あのたわけが嘘をついておったと?」
「お前の耳を疑いはしないよ。けど、語っていないことまではわからないだろう?」
ホロはむうと口をつぐむ。
「たとえば麦の作付けに使う土地の話だ。土地が足りないのに森を守るのは、果たして正義なのかどうか。森を切り開くことで村が豊かになり、飢えた人々が助かる話だって当然ある。領主も村人もそれを望んでいて、しかしマイヤーさんだけが慣れ親しんだ森を失いたくないからという理由で、俺たちに助けを求めてきた可能性もなくはないだろ?」
領主が領民のためを思い、港町カーランとの森林開拓計画を決断したところだったのに、マイヤーの頼みを聞いたロレンスが台無しにしてしまう、という可能性が十分にあった。
するとロレンスがニョッヒラの湯屋の主人だというのは苦もなく突き止められるだろうから、面倒なことになるのは明らかだ。
「もちろん、どうしても森を守りたいお前のため、という選択もあるにはあるが」
ホロはロレンスを見て、嫌そうにむくれてそっぽを向く。
この狼は、人間のことなど歯牙にもかけない異教の邪神ではない。村の人との約束を律義に何百年も守って、パスロエの村では健気に麦の豊作を見守ってきたくらいなのだ。
それゆえに、森を守ることがかえって多くの人の困窮につながってしまうとなれば、森を守ったところでホロの顔は晴れないはず。
無数の利害が交錯する商いの世界にいたロレンスの眼前には、そういう色んな選択肢の乗った天秤がずらりと並んでいたのだ。
「それとも」
と、ロレンスは念のために聞いた。
「マイヤーさんは、人ならざる者だったか?」
それならばロレンスは、テーブルの上に乗ったすべての天秤をなぎ倒して、作戦を立てるための地図を広げることができる。ホロを生涯の伴侶にしようと手を伸ばした時と同じ思いで、人の世の損得を抜きにして森を守るために戦える。
ロレンスのそういう覚悟が伝わったのか、ホロは尻尾の毛先を嬉しそうにぱたぱたと振っていたが、無意識だったらしい。
はっと尻尾の毛先の動きに気がついて恨めしそうに睨んでから、ため息交じりに言う。
「あのたわけは、人じゃ。土と木の香りに混じって、ぬしと同じ金貨や銀貨の匂いもしんす」
ロレンスは、ホロと自分を決定的に分けるものがあるとすれば、それは狼の耳や尻尾ではなく、寿命の差ですらないと思っている。
それは金貨や銀貨に対する態度であり、ある種の信仰とも呼べる損得への態度だ。
「そう。だから、これは商いの話だ」
切り開かれる森を守ってくれという頼みには、一も二もなく飛びつきたい気持ちがホロにはあるだろうが、ここは精霊の住む奥深い山の中ではなく、人の支配する土地だ。
そして人の世の仕組みは、なかなかにややこしい。
「ぬしは、断るつもりかや」
やや恨めしそうな口調は、本当に責めているようには聞こえなかったが、おとなしく引き下がるつもりもないことを示している。いつもならロレンスが揉め事に首を突っ込むのを諫める側のホロでも、森の存続がかかっているとなるとそう簡単に割り切れない。
もちろんロレンスだって、サロニアでの自分たちの無邪気な行動が、意図せずとはいえトーネブルクの森に影響を与えているらしいことに責任を感じているし、ホロのことだってある。
しかしマイヤーからの頼みにうんと答えるのは、それらをもってしても思いとどまらせるだけの懸念点がある。
だから、いっそマイヤーが人ならざる者だと、ホロが嘘をついてくれればよかったのに。
ロレンスはそんなことを思ってから、ため息をつく。ホロは深酒だったりつまみ食いだったり、しょうもないことでは嘘のつき放題だが、大事なことでは嘘をつけない性格なのだ。ならば保身を優先させようとするこずるい元行商人を騙せるのは、ここには一人しかいない。
舌先三寸の商人上がりであるところの、自分自身しか。
「まあ、この話だが」
ロレンスが深呼吸と共に切り出すと、ホロのしょげがちだった耳が、ぴんと片方だけ持ち上がる。
「領主の判断の是非はともかく、取引相手の港町であるカーランの動きには、確かに妙なところがある」
ホロの赤い瞳が、そろりそろりと上目遣いにロレンスに向けられた。
「木材商人たちの関税引き下げがうまくいかなかったから、安い木材調達先としてトーネブルクの森に目を付けたってのはわかる。慣れ親しんだ商いの論理だ。しかし、その港町カーランには、自分たちの関税を引き下げるかもしれないという噂があったはずだ」
「む……むう?」
朗報なのかどうか判断がつかなかったらしく、ホロが渋い顔をしていた。
「カーランは、貴重な税収入を手放そうとしているんだよ。なのに、安い木材を求めてトーネブルクに食指を伸ばしている。ずいぶん大掛かりな計画までこしらえてな。これは表面的にみると、うまくつながらないことだろ。だって、木材を買うのに金が足りないのなら、関税を手放してる場合じゃないんだから」
ホロは少し顎を引いてロレンスを見た後、視線を斜め上に向けた。
「……それは、そうじゃな。いや、そのカーランとやらもまた、ぬしが大暴れした町と同じという話ではないのかや?」
賢狼らしく、いいところを指摘する。
サロニアでの木材関税を巡る話が、下流に位置するカーランと関係していたように、カーランもまた、どこかに向かう木材の通過点にすぎないのかもしれない。つまりカーランのその先に、サロニアのみならずカーランにおいても、関税を下させて安い木材を必要としている誰かがいるのかもしれない。
「むう。じゃが、話が妙じゃな。カーランで下げられる関税とやらは、木材だけなのかや?」
ロレンスがホロの好きなところを上げろと言えば、自分よりも賢いところをあげるだろう。
ロレンスは嬉しさを誤魔化すために、咳ばらいを挟む。
「だろ? どこか変なんだよ。おそらく町としての、なにか大きな話が背後にあるはずなんだ」
ホロは肩を若干そびやかし、ベッドの上で胡坐をかいたまま、自身の足指を掴んでいる。
「そうじゃとして……それが、なんじゃ?」
ホロの目がやや卑屈なのは、ただでさえロレンスが乗り気でないのに、余計にややこしい話になりそうだとわかったから。それはとりもなおさず、ロレンスがこの話を断ろうと言い出す理由になる。
ロレンスの本音は、実のところそうだ。
けれど物事というのは、考え方ひとつでいかようにも変わるのだった。
「なんだって、考えてみろ」
「む、う?」
「町を巻き込む、大きな話が背後にあるかもって言ってるんだ」
勘の鋭いホロが気がつかなかったのは、ロレンスの態度がいくぶん投げやりだったからかもしれない。なにせこれは、自分で自分の鼻先にニンジンをぶら下げる馬のような話なのだから。
「カーランはなにか大きな絵図を描いていて、トーネブルクは哀れにも大切な森を奪われそうになっている。そしてそういう大きな話には、大抵、どんなことが潜んでいる?」
「ん、む」
「大儲けの機会だ。そうだろう?」
「あっ」
行商人時代のホロとの旅で、夜な夜な大儲けに目を輝かせては、ホロから冷たい目を向けられていた。今ではすっかりなくなってしまった、野心というやつだ。
ではなぜその野心を失ったかといえば、自分の儲けよりも大事なものが手に入ったからで、それを守りたかったから。
そしてロレンスの最も守りたいものであるところのホロの狼の耳が、落ち着きなく互い違いに動いている。どこか申し訳なさそうな、でも期待するような、惚れた相手ならば絶対に放っておけないような顔をして、ロレンスのことをちらちらうかがっている。
これは絶対に貸しにしておこうと心に決めて、ロレンスはこう言うのだった。
「行商人上がりの大間抜けが、つい興味を惹かれてしまうような大儲けの匂いってやつだよ」
ホロは目に光を宿し、子犬のように尻尾をぱたぱたさせている。
頬が緩まないよう、ロレンスは気を張りながら続けた。
「もう一度念のために聞くが、マイヤーさんはなにか嘘をついているような感じじゃないんだよな?」
ロレンスの問いに、ホロは狼の耳をはっきりぴんと立て、首を横に振る。
「作り話をしているような素振りはありんせん」
その答えに、ロレンスは大きなため息をつくほかない。
「面白くない結果になっても、恨みっこなしだぞ」
森を切り開くのが人々のためになるかもしれないし、領主からは恨みを買って、湯屋を守る必要が出てくるかもしれない。それにカーランはなにかものすごく面倒な計画の一環としてトーネブルクの森に手を伸ばしていて、ロレンスたちはそこに巻き込まれた挙句、銀貨一枚分の儲けにもならないかもしれない。
けれどもロレンスよりも長い年月を生きた賢狼は、ついこの間にこんなことを言っていた。
「それはそれで、ぬしとの旅の思い出じゃ」
どんなことでも二人なら。たとえ寂しくても、つまらなくても、苦しいことでさえも、すべてが今を生きていることの証になるからと。
それはひどく退廃的な考え方だと聖職者なら言うかもしれないし、この場では都合のいい言い訳以外の何物でもないように聞こえてくる。
そして実際に、言い訳でしかない。
世の中悲観的に考えればいくらでも考えられて、ホロはその悲観的な物の見方のせいで、ロレンスとの旅をやめようとしたこともある。それを跳ねのけたのはロレンスで、ホロもまた本当は誰かの手を握りたがっていた。
そしてその手を握った結果が、今の楽しい毎日なのだから。
「お前はずるい狼だよ」
結局、こうなることは最初から決まっていたと言えるのかもしれない。
賢く生きるだけならば、自分たちは互いの手を取らなかったのだから。
「……ついでに、食らいついたら二度と離さぬ狼じゃ」
ロレンスの手を取ったホロの笑みは、素直な感謝を見せるもの。
黄金よりも貴重で、熟成した葡萄酒みたいに退廃的な報酬だ。
ロレンスは愚かな自分を笑いながらホロの手を引き、深く抱きしめた。
それからいささかの時間を挟み、マイヤーに話を受けることを伝えたのだった。
船に乗る旅人のため、川に沿って馬を運んでくれる馬屋は、一日遅れで関所に到着した。ロレンスは彼らから自分の馬を受け取ると、今度はしばらく関所に腰を落ち着けるという商人を見つけ出した。その商人相手に交渉し、港町カーランで荷馬車を受け取れる契約書にいくばくかの銀貨を載せることで、その商人が使っていた荷馬車を譲り受けることができた。若干年季の入った代物だったが、贅沢は言えない。
「紙切れ一枚と握手だけで交換とはのう。相変わらず、ぬしらのやり取りは奇妙なものじゃ」
たったそれだけで、見知らぬ者と、本当にあるかも定かではない商品を担保に、あっさりと取引してしまう。商人たちの信用を下敷きにしたやり取りは、ホロには何度見ても不思議な光景なのだろう。
しかし、馬を荷馬車に繋ぎながらロレンスは苦笑いだ。
「そんな奇妙な取引の最たるものが、口づけひとつで誓ってしまった、永遠の愛だと思うんだがね」
積み荷の硫黄の粉が詰まった袋を足先でつついていたホロは、もちろん頬を赤く染めるなんてことはない。ふんと鼻を鳴らしてみせるだけだ。
「まったくのう。わっちもたいした口車に乗ってしまいんす」
「契約に見合った商品をせっせと納品しているはずでございますよ」
馬を繋ぎ終わり、荷物を荷台に乗せ始めたロレンスの言葉に、ホロは不敵に笑う。
それからひょいと、荷台に飛び乗った。
「ま、悪くはありんせん。もちろん今回のこともあわせてのう」
荷台の縁に肘を載せ、頬杖をついての含みのある笑み。
「働き甲斐のあることですとも」
ホロは牙を見せて笑うと、ようやくロレンスから硫黄の詰まった袋を受け取って、荷馬車に並べ始めていた。
「準備のほうはよろしいですか?」
荷を積み終わる頃、馬にまたがったマイヤーがやってきた。
「ええ。道案内のほう、よろしくお願いします」
ロレンスより先に御者台に座っていたホロを今少し端に寄せ、ロレンスは手綱を握る。
マイヤーはさすが森林監督官というべきか、巧みな馬さばきで出発した。
日々広い森を馬に乗って見回っているにしても、やっぱり着ている服が農夫風なだけで、その中身は貴族の臣下なのだ。背中に括り付けた小ぶりな弓も飾りではなく、野兎を見かけると馬上から見事に射抜いてしまう。こんな芸当は、専門の訓練をしないと腕利きの狩人でもできないし、どちらかというと戦のための技術だ。きっと森への侵入者を見つけた際にも、容赦なく弓を射るのだろうし、剣の心得もあるだろう。
また、領主が森で狩りをする際にはその先導役を務める仕事柄か、ロレンスたちと足並み揃えての旅路ではなかった。忙しなく先回りしては道を確かめ、通りがかった旅籠に射抜いた兎を手土産に持っていって、食事と休憩を店主と交渉してくれたりする。夜が近づくと近隣の村の小さな教会に案内してくれたし、ロレンスたちのことを完全に貴族扱いで、おかげで温和な老司祭とともに穏やかな夕べを過ごすことができた。
ロレンスだけならばこうはいかず、ノミや虱だらけの木賃宿を見つけるか、それが嫌なら焚火を焚いての野宿か、運が良ければ通りがかった村で交渉して、藁のベッドを貸してもらうのが関の山だ。
ホロがどうして陸路の旅に難色を示すのか、理由はたっぷり揃っている。
「旅のお供に一人欲しいのう」
ニョッヒラから出発した当初は、ロレンスが火を起こすのにも手間取っていたことへの当てつけだろう。ロレンスが肩をすくめていると、前方でマイヤーが馬から降りていた。注意を促す先を見れば、小川におんぼろの橋がかかっている。
「これはまた年季の入ったものですね……。歩いて渡河できそうなところは?」
橋の下を流れる川自体は、川と呼ぶのもおこがましい細長い水たまりだが、水は案外澄んでいる。水べりも草が繁茂し、ところどころ雑木林になっていたりする。それでようやく気がついたのだが、今まできた道を振り返れば、いつの間にか平野が消え、代わりに起伏と木立が増えていた。
「この近辺は昔から湧水が多いせいで、あっちこっちにこんな小川があるんです。私の祖父の祖父の代には、大きな川がとおっていたとかで」
もちろんすぐに、勇者に討ち取られた大蛇の話だろうとは分かった。
あまり意識していなかったが、かつてサロニア付近に存在した川の行く先が、この近辺の土地なのだろう。
「どこも湿地のようになっているので、下手に渡ろうとすると荷馬車だと泥にはまって身動きが取れなくなってしまうやもしれません」
ロレンスはうなずき、ホロに目配せする。
やれやれとホロも御者台から降りて、関所で積み込んだ荷物を下ろしていく。
「神の御加護がありますように」
ホロが嫌な顔をするのに気がつかない振りをして、ロレンスは割と本気で神に祈りながら、馬に空の荷馬車を引かせて橋を渡っていく。
みしみしと嫌な音を立てる橋に冷や汗をかきつつ、トーネブルクがどうして広大な森林を維持できているらしいのか、その理由の一端が分かった。この近辺は高い山があるわけではないものの、土地が平坦というわけでもなく、こんなふうに池だか川だかわからないものがあちこちにある。これだと畑にするわけにはいかないし、水捌けの悪いところは病が広がりやすいから、人が住むにも適さない。もちろん、戦で攻め立てるのも大変だ。
トーネブルクが深い森をこの時代にまで守り通せてきた理由には、誰にとっても活用しにくいという土地の事情が、一役買っているだろう。
「なんとか無事に渡れましたね」
帰る頃にはこの橋が崩れて、川に住む小魚やえびの住処になっていても驚きはしない。マイヤーが先回りしてあれこれ道を確かめているのも、わざとらしい気の使い方ではなくて、本当に危ないからなのだ。
「さあ、行きましょう。もう少しです」
のんびりした旅とは程遠いが、ホロの機嫌がそこまで悪くなかったのは、この頃にはロレンスの鼻にもわかるくらいに、深い森を思わせる水と土の濃い匂いがあったからかもしれない。
それからほどなく、ひときわ早く馬を走らせていたマイヤーが、分かれ道に立っているのが見えた。道の片方はそのまま南に続き、もう片方は小さな獣道のようなもので、西に折れている。その先にはいよいよ、木々の生い茂る黒い森が見えていたのだった。