※2023年1月7日発売の『狼と香辛料ⅩⅩⅣ Spring LogⅦ』試し読みとなります。発売されるものと一部内容が異なる場合がございます。
トーネブルクには、森を取り囲むようにいくつかの集落があり、そのうちのひとつが、市も立つような領地の中心地となるらしい。領主の館はそれら集落のどれからも距離を取った、森の南にある池のほとりにあるとのこと。
マイヤーが案内してくれた道は、その最も大きな村に続いているらしい。
とはいえ道はわずかに道とわかる程度で、頻繁に外の世界から商人や旅人がやってくる感じではない。
なので、マイヤーの後について歩いていく途中、すぐにその人影に気がついた。
一人の老人が切り株に腰掛けていて、ロレンスたちを認めるや待ちかねたように立ち上がる。
これから向かう先の村の村長であることを、マイヤーが教えてくれた。
「おお、あなた様が! 村の市にくる商人たちが噂しておりましたとも。魔法のように商いの問題を解決してくださると!」
「魔法だなんて。神の御加護ですよ」
迷信深い村人に魔法使いだと思われると後が厄介だが、村長の顔つきは村が崩壊するか否かの瀬戸際だと言わんばかり。マイヤーによる紹介もそっちのけで、咳き込むように話し始めた。
「森を切り開くようなことがあれば我らの生活はままなりません。いいえそれどころか、大いなる災いが近隣の土地一帯に振りまかれることでしょう!」
まるで聖職者の説教のような大仰な物言いだ。ホロは神妙な顔でうなずいているが、ロレンスのそれは商人としての仮面だった。
大袈裟な物言いをいちいち真に受けていたら商人はやっていけないのだが、村長のほうもロレンスのそんな態度を敏感に感じ取ったらしい。
「これはものの喩えではないのです、商人様よ」
驚いて見やると、老人特有の水っぽい目が、ロレンスをじっと見据えていた。
「領主様はなにもわかっとらんのです。森など切り開いたら、我らの豚や山羊をどのように肥やせばいいのか。そしてそれが、どんな事態を引き起こすのかと!」
前のめりに語る村長をなだめるでもなく、マイヤーはロレンスたちの少し先を、相変わらず道を確かめながら進んでいる。
その後ろ姿をちらりと見てから、ロレンスは尋ねた。
「豚……ですか?」
てっきり、丸裸にされる森の危機を、異教徒めいた森への愛着によって語られるのだとばかり思っていた。ついでに現実的な問題として、森を切り開く際に労働力として駆り出される、いわゆる賦役の辛さを聞かされるのだろうと。
しかし、出てきたのは山羊や豚という予想もしていない単語だった。
ロレンスの戸惑いに満足したのか、村長は深くうなずいた。
「森の恵みなどと町の民は申しますが、森でとれる蜂蜜や木の実などは些末なものです。木材ですら最大の恵みではありません。森が絶対に失ってはならないのは、名もなき下草たちなのです」
ロレンスは愛想笑いや安易な同意さえすることができず、知見を求めてついホロを見てしまう。しかし誰よりも森に詳しいはずのホロでさえ、不思議そうな顔をしていた。
「森の下草は我らが山羊や豚の餌となります。あなた様が旅に暮らす商人様なら、大事な積み荷を運ぶその馬が、森に自生する野の麦で育つことはご存知でしょう」
馬の飼料として売られるのは、人が食べるにはあまりにも草に近いカラスムギなどだ。そこはもちろん、ロレンスにもわかる。
「それら森の下草を失えば、我らは山羊の乳や豚肉を失うだけではないのです。あなたは、サロニアからやってこられたという。ならばあの地方の見事な小麦畑をご覧になられたはずだ」
三度あらぬ方向に話が向いて、ロレンスは悔しさもあって口ごもる。
「ええ、まあ……その、見事なものでした……が?」
「そう、見事なものだ。しかし我らが領主様は、あのサロニアを含む周辺地域の小麦畑が、一体どれだけの家畜の糞で肥やされているかをご存じないのだ」
長年のきつい農作業によって、無駄なものをすべてそぎ落とされたような老人だった。その村長が、ゆるぎない自信を込めて話している様子には、おいそれと反論できない説得力がある。
ロレンスも商いの中ではその最底辺を支えるともいえる行商で各地を回った身であり、世の中の細部というものをつぶさに見て回ってきた自信がある。
しかし、この村長がしているのは、その行商人の視界にさえ入らないような、もっと根本から大地を支えるような話なのだ。
「家畜を養うのに必要な草の量など、手を土で汚さない人々には想像もつかんでしょう。休耕地や牧草地に生える草だけで足りるはずもない。その足りない分を領地の外まで一手に引き受けているのが、トーネブルクの森なのです。我らがどれほど苦労して、いわば家畜の糞の交易をしているかと領主様が知れば、なんとご自身の領地は一大交易地ではないかと、仰天なさるはずだ」
商人の目に映るのは、市場に並ぶ商品に限られる。鰊の卵でさえ賭けの対象にする商人たちであっても、家畜の糞は取り扱わないし、ましてや豚や山羊の餌など気にしたこともない。家畜は大地にあるなにかを勝手に食べるものであり、馬と違ってわざわざ銀貨を費やしてまでなにかを食べさせるようなものではないのだから。
ロレンスが言葉に詰まっていると、こんな話は関所ではおくびにも出さなかったマイヤーが、ロレンスをじっと見ていた。おそらく関所では商人や旅人たちの自由な空気が支配的過ぎて、肥やしと大地を巡るような話は聞き流されると思ったのだろう。
なにかを話すには、それにふさわしい時と場所がある。
そしてその効果は、存分に現れていた。
抜け目ないマイヤーが、満を持して口を開く。
「ロレンス殿。私はもちろん盗伐などから森を守る役目を負っていますが、日々監視するのは、勝手に家畜を放して草を食べつくす者がいないようにということなのです」
「家畜の糞は畑の黄金です。撒いた麦の種が実って三倍になるか、それとも七倍になるかは、まさに雨のように糞を降らせられるかどうかにかかっています。そしてそれらは、どれだけ餌を食べさせられたかにかかっているのです」
撒いた麦に対して、三倍程度の収穫にしかならない畑というのは珍しくない。そういうところは自分たちで食べる分と来年の播種用に確保すればもうなにも残らないから、ちょっと不作の年にはたちまち困窮してしまう。市場に麦の詰まった袋を並べ、近隣の土地から麦の産地と呼ばれるような土地ならば、五倍は欲しい。その中でも最も肥沃と名高い土地でさえ、七倍になれば神に感謝して然るべき大豊作。
行商人時代の知識でどうにかわかるのは、そのくらい話が市場に近くなって、ようやくだ。まさか家畜の糞による施肥がそこまで大事だったとは思わなかったし、その家畜を支えているのが実は森の下草だなどと。
行商人時代に麦を取り扱い、あちこちの村に出入りしていたものの、村のことを知り抜いているようで、やっぱりほとんど知らなかったわけだ。
「領主様が森を切り開けば、賦役によって我らが生活を困窮させられるだけではありません。森から下草が失われ、近隣一帯の家畜がやせ衰え、川の水が枯れるかのように麦畑が枯れれば、誰も彼もが路頭に迷ってしまうことになるのです」
麦畑に何百年といたホロは、この話を最初から理解して、ロレンスにこの問題にあたるよう仕向けたのだろうか。
そう思って再度ロレンスが隣を見たら、ホロは御者台でふくれっ面だった。
麦畑の危機に怒っているのかと思ったが、ホロがロレンスと目を合わせようとしなかったことで、遅ればせながらロレンスも気がついた。この家畜の糞を巡る農法は、ロレンスのような商人はもとより、森の精霊ですらもあずかり知らぬことなのだ。
それで思い出すのは、ホロが何百年と豊作を司っていたパスロエの麦畑を、人の知恵で築き上げた農法によって用なしにされ、追い出されたことだった。今も村長は森の木々の種類と下草の生い茂り方の関係や、家畜の放牧の周期と麦の収穫の関係について熱心に語っているが、神様のかの字だって出てこない。
豊作を祈願して光の届かない黒い森に捧げものをするような時代は、とっくに終わっているのだ。ホロは森を守りたい気持ちでいっぱいだったのに、もう森のほうは、ホロたちの住処ではなくなっていた。
「よいですか、商人様」
ロレンスははっと我に返り、ホロから視線を村長に向け直す。
「いわばトーネブルクの森は、ここから荷車で出かけられる土地一帯の麦の生産を、足元から支えているといってもよいのです。しかし領主様はそんな大地の理屈を忘れ、海の連中に唆されてしまったのです」
村長の吐き捨てるような言葉に、マイヤーが言い添える。
「海の港町は、陸の町や村とは違う理屈で動きます。彼らにとっては、麦など町を通過する商品のひとつにすぎません。なんなら不作になるのなら、船で外国から輸入した麦を高く売れるとさえ思っているでしょう」
儲かりそうな商品なら節操なくなんでも荷馬車に積み、町から町に運んでいたロレンスには耳の痛い一言だ。
「ただ、領主様がカーランに賛成した理由も、まあ……一理あるといえば、あるのです」
マイヤーがそう言う頃には、単に草が刈られただけの粗末な道から、普段から人が通って踏み固められたそこそこの道になって、森の側に広がるわずかながらの平野と畑も見えてきた。
サロニアより収穫が早いのか、麦の収穫はだいぶ前に終わっているようだ。
「港町カーランの目的は、木材だけではありません。森に道を通したうえで、地図を書き換えようとしているらしいのです」
「地図を?」
ロレンスが聞き返すと、村の中心部が見えてくる。
収穫された麦や、その他の野菜、それに森でとれた木の実や蜂蜜も並んでいるらしいささやかな市の立つ広場には、その規模からは意外なほど多くの人が集まり、荷馬車もあった。
小さいながら活気に満ちた、ロレンスにもなじみ深い農村市場だ。
「領主様は、森と引き換えに、この市場が地図から消えるのを防ごうとされたようなのです」
ロレンスはうなずきかけたが、おかしいことに気がつく。
「ですが、森を切り開いてしまったらそれも」
深い森の側の村だが、木材の切り出しが主な産業には見えない。村の経済を支えるのは森のおかげで地味が肥えた畑であり、家畜たちのようだ。
「領主様は、この麦と蜂蜜の匂いを、鉄と炭袋で贖えると思っているのです」
「その鉄を打つ鍜治場からは、近隣一帯の麦畑の燃える匂いがすることでしょうな」
関所の居酒屋で、マイヤーは領主が計算違いをしていると言った。
なるほど、その計算違いはただトーネブルクの森のみならず、広くサロニアの麦畑にまで影響を及ぼしてしまう。
これは絶対に間違えてはならない計算なのだと、ロレンスは理解しはじめたのだった。
狼と香辛料ⅩⅩⅣ 第二幕
よそ者が村で歓迎されることなどめったになく、しかも領主の決めた計画をご破算にするためにやってきたとなれば、なおのこと慎重になる必要がある。
マイヤーとともにロレンスたちを出迎えた村長でさえ、必要悪として自分たちを見ているだろうと、ロレンスは感じ取っていた。魔法のように商いの揉め事を解決するという評価も、そんな気持ちから出てきた言葉だろう。
そのためにロレンスは、村に商いにきた旅商人がよくそうするように、教会の客という身分で滞在することになった。
司祭は好々爺の人物で、ロレンスたちを他意なく歓迎してくれたし、サロニアでの活躍も当然のように知っていた。特に鱒の養殖場を立ち上げた伝説的な在野の聖職者の話を熱心に聞きたがり、ロレンスは暖かい海からやってきたラーデン司教の話をしたのだった。
ロレンスとしては司祭から村と森の状況を詳しく聞きたかったが、この老司祭は信仰に篤く、村の人たちから尊敬されている反面、村や領地の経済には疎く、領主と領民の魂に平穏が訪れてくれればいいのですがと悲しげに言うのみだった。あちこちの教会のずさんな経営のために飛び回っていたエルサがいたら、またかと目をぐるりと回したことだろう。
そんなわけで、にこやかではあるがあまり収穫のない晩餐を終えた後。
ホロも肉が控えめで落ち着きすぎた食事が物足りなかったらしく、旅人用の客間に腰を落ち着けるや、積み荷を解いて燻製肉を取り出していた。
けれどいつもの浮き浮きした様子ではなく、マイヤーから受け取った蜂蜜酒も、口数少なにすすっている。
森が危機なのは同じでも、村人たちが心配しているのは森という存在そのものではなく、ましてやそこに住む精霊のことなどではなく、家畜の糞のことだった。ホロからしたら怒るのは筋違いとわかっていても、不貞腐れるに十分なことなのだろう。
その一方で、ロレンスは話の重大さをひしひしと理解し始めていて、実りのない晩餐を少しでも埋め合わせようと、司祭からある物を借り受けてきた。
「なんじゃ、ぬしはなにを借りてきたんじゃ?」
ロレンスが蝋燭の灯りで文机に広げたものを見たホロが、怪訝そうに言った。
「地図だよ」
マイヤーは、港町カーランは地図を書き換えようとしている、と言っていた。さらにトーネブルクの領主は村の賑やかな市場を守るため、森を切り開く決心をしたというようなことも言っていた。
商いのコツは、相手の立場に立って物事を考えることだ。
「教会はなにかと人が立ち寄るところだからな、地図は結構信頼できる」
「どっちがどうなんじゃこれは」
文字を読める者は少ないし、それは地図も変わらない。そもそも大多数の人たちは、生まれた村から一生出ることがないのだから、地図など見る必要がない。それは真夜中の森でも方角を見失わず、行き先を確かめたければひとっ走りして山の尾根に登って遠くを眺めれば事足りてしまう狼にとっても同じこと。
それでもホロがいくらか地図を読めるのは、これまで幾度となく、ロレンスと一緒に蝋燭の灯りの下で地図を眺めてきたからだった。
「こっちが北で、俺たちが船に乗って下ってきたのはこの川だな。そこから南に下り、ここが今いるところかな」
地図のてっぺんを、サロニアから流れ出る川が左右に描かれている。その右端にサロニアが、川を下った先の、地図でいえば左上の端っこにあるのが、おそらく港町カーランだろう。地図の下、つまり森の南端には大きな池か湖らしきものと、その近くに領主の館らしき建物の絵があり、そこをさらに南に下っていけば、森を回り込むように東西に延びる道で地図が終わっている。
そして北と南の間を占めるのは、灰色に塗られた圧倒的な面積の森だった。
ロレンスたちのいる村は、広大な森の北東部分にくっついている。
「マイヤーさんの話では、この森を突っ切って、南に出る道を作るように森を切り開くということだった」
燻製肉の中に軟骨があったらしく、ホロの口からは、ごりっという不穏な音がした。
蝋燭の火が赤い瞳を照らし、牙が光っている。
「たわけじゃな」
そう言って、新しい燻製肉を力強く噛みちぎる。
「商人の目からは、港町や領主の計算もわからないでもないんだが」
森は北東から南西へと斜めに広がっていて、名前から丘だろうと推測できる個所があちこちにある。おそらく容易に歩いて抜けられる森ではなく、七つもあるという村のほとんどが森の外にあり、森の中にある二つの集落でさえちょっと奥に入った程度なことから、本当に手付かずの森なのだろう。
教会を訪れた人々が次に向かう目的地への道を記したこの地図もまた、どの道も森を大きく迂回して書き込まれている。
「港町カーランがここ。それから地図を南に下った森の南端にあるこれは、湖か池なのかな。とにかくここから小さな川がさらに南に流れている。ということは、もしも森の中を突っ切ってこの池まで道を作れれば、ここからは船に乗って簡単に積み荷を南北に運搬できる。便利な商業路のできあがりだ」
森の北からの道が南の池につながれば、そこには渡し船の桟橋が作られ、荷を保管する倉庫が作られ、商人や旅人の泊まる宿がきのこのように生えてくるだろう。周辺は深い森なのだから、建物の建材や船の素材には事欠かない。炭焼き小屋と鉄鍜治場を作ればいいというのも、商人なら真っ先に考えることだ。
南と北の地をつなぎ、北側は海の港町へと続いているのなら、鉄や炭、それに木材を輸出するにも流通路として最適だ。たちまち賑やかな村となるのが想像できた。
「人が通れば税を徴収できる。木材も飛ぶように売れる。新しい村ができ、人口も増える。地図は大きく、書き換わる」
ホロの尻尾が、不機嫌そうに左右に大きく揺れた。
「じゃがこの計画を受け入れぬ場合、ここの村の火が消えると言っておったな。それはなんでじゃ?」
ホロが地図に指さしたのは、ロレンスたちのいる村だ。
木窓から顔を出して外を見たら、形の良い指先が空に見えたかもしれない。
「それは港町カーランの置かれた立地のせいだな。ほら、この森」
ロレンスはトーネブルクの森を指し示す。
「この森とこの地図を取り巻く、もっと大きな地図を想像してみればいい。港町カーランが内陸部と商品をやり取りするには、この森が邪魔になっている。彼らはサロニアから流れてくる川を頼らなければならないはずだが、それは川沿いの領主たちにも一目瞭然だ」
ホロは顎を上げてから、下げた。
「首根っこを押さえられておるわけかや」
港に船がやってきても、内陸部の町や村とやり取りできなければ倉庫で商品が腐るのを待つほかない。内陸部に輸出する唯一の道が川であり、ロレンスがその川沿いの領主の一人だったら、間違いなく弱みに付け込んで関所に重い税をかける。
だから内陸部に自由の利く道を通したがっている。
ホロは口に咥えていた燻製肉を、ぴこぴこと上下させる。
「トーネブルクの領主がカーランの提案を断るならば、新しい道は森の西側を大きく迂回せざるを得ないとかなんとか言って、領主を脅したんだろう」
ロレンスが地図の左端を指でなぞる。
「森の西側に道を作られてしまうと、この村を経由して南に向かっていた商人たちの、ただでさえ細い流れが完全に途絶えてしまうはずだ。少なくともカーランからの商人は、山ほど税を取られる川をさかのぼってまで、森の東側に回る理由はなくなってしまう。するとどうせ立ち寄るのだからと手がけられていた商いもなくなり、ここの村人たちは自らの背に荷物を背負い、遠くに売りに行く必要に迫られる。道も悪いからなおさらだな」
ホロは燻製肉を咥えたまま、もごもごと咀嚼している。きっと、ロレンスたちがここに来るまでに渡ったおんぼろの橋のことを想像しているのだろう。
「とはいえカーランとしても、この広大な森を迂回した西の道を簡単に作れない理由が、なにかあるはずだ。それならさっさとそっちに道を作ってしまえばいいんだからな」
地図が途切れているのでわからないが、もっと海沿いにいけばそちらには既存の道がすでにあるのだろう。そちらとあまり距離が近いと、その道が通る領主たちと競合してしまうとか、そういう問題があるに違いない。
カーランはおそらく、これから発展しようとしている、後発の港町なのだ。しかし周辺はすでに古株の権力者たちがどっしりと構えていて、カーランが割り込む余地はほとんどない。
どんどん体が大きくなるのに、服が小さいままで苦しむ子供みたいな話なのだろうと予想できた。
「そもそも、新しく道をつくるのは大変なことだしな」
ロレンスは言いながら、ホロの手にあるマイヤーからもらった蜂蜜酒に視線を向けると、ホロは渋々渡してくれた。手を伸ばし、一口すすってからホロに言葉と一緒に返す。
「川ならば税を徴収しやすいが、普通の道だとそうもいかない。だから領主は通常、道の敷設や維持費用を、周辺に住む者たちの賦役という形で賄うしかない。村人たちは権力で強制され、週に三日とか四日とか、タダ働きさせられる。その間、もちろん畑は放置され、生活は苦しくなる。俺はてっきり、その手の困難で村がつぶれると訴えられると思ったんだが」
けれどあの村長は、家畜と、麦畑の肥料としての糞と、その家畜を支える森という循環の話に終始していた。
「あの感じだと、賦役はあるにしてもあまり重くないんだろう。つまりは領主がなかなかのお人好しで、村人を酷使するつもりがないということでもある。ただそうなると、足りないものは別のなにかで埋め合わせる必要が出てくる」
ホロは酒を口にしようとして、やめていた。その理知的な目が、地図に注がれている。
「道を作るという意味では、森の中を通る道のほうが何倍も困難な仕事になる。けれどこっちなら、道を切り開く際に伐採する木材が手に入る。その後の鍜治場の建設など、諸々の見返りを見込んで、道を作る費用に充てることができる。特にカーランは木材が欲しいらしいから、トーネブルクの領主にあれこれ妥協してでも、そろばんが十分あうと考えた。一方の領主からすれば、森を迂回されるよりかは提案を受け入れたほうが得なのではないかと考えた。たとえ、森の豊かさをいくらか失うにしても」
「ふむ」
「それにマイヤーさんは優秀な森林監督官みたいだから、領主から命令されて、森の中で最適な道筋を見つけろと言われたら、見つけてしまったんじゃないかな」
そうして領主とカーランの参事会は、互いに採算が取れると踏んで、手を組んだ。
「これが、商人の世界の話」
ロレンスは、言った。
「狼だとどう考える?」
問われると、ため息をつくように鼻を鳴らしたホロは、ベッドに腰掛け直した。それから筋ばった燻製肉を首を振って噛みちぎっていたのだが、ホロがこんなふうに狼みたいな振る舞いをするときは、大抵機嫌が悪い。
「そんなところに道を作るのは、愚の骨頂じゃ」
ロレンスは地図を見て、ホロを見る。
「それは、村長さんの話したようなことか?」
森の恵みが失われる。ホロも家畜を放牧して小麦畑に施肥をするような農法のことはわからずとも、森の植生のことなら誰よりもつぶさに見てきたはずだ。
「人が多く歩き、その道沿いでは炭を焼いて、鉄を作るんじゃろう? そうなるとその道は森を通るただの道ではありんせん。大きな森を真っ二つに分断し、まったく別の森をふたつ作るようなものじゃ」
ロレンスの反応が鈍いとわかったようで、ホロはため息をついて言葉を続けてくれた。
「例えば狐じゃ」
「狐?」
「ぬしら商人は、荷物を運ぶ道を頼りに土地のことを考える。これはいわば猫じゃ。猫は軒先から軒先に至る道を縄張りに生活しておるからな」
面白そうな話で、ロレンスは椅子ごとホロのほうを振り向いた。
「領主やらは典型的な犬っころじゃ。ここからここまで自分のもの、とその紙っ切れを塗り分けていく」
「狐は?」
「狐はその両方に似ておるが、貪欲さでずぬけておるからのう。ある程度の広さがない森には住み着かぬ。大きな森をふたつに分けたら、縄張りがふたつになるわけではありんせん。単に連中には狭すぎて、どちらにも住めなくなるだけでありんす」
へえ、と感心しかけたが、その話がどうつながるのかよくわからないでいると、できの悪い弟子を見るような目をホロから向けられてしまう。
「狐がいなくなれば鼠が増えて、小鹿も襲われなくなるから生き延びやすくなりんす」
「ん……? あっそうか」
「鹿も鼠も、どちらも多すぎれば木の芽をかじり、森を痩せさせる原因じゃ。そういう森は背の高いとげとげの葉の木々ばかりになって、暗くてがらんとした森になるんじゃ。山羊やら豚やらを肥やしたいのなら、あまり良い森とは言えぬじゃろうな」
とげとげの葉の木々というのは、針葉樹のことだろう。背が伸びにくい広葉樹は鹿やらの食害に会いやすく、背が高く伸びていく針葉樹ばかりが生き残る。すると天上で光を遮り、足元にはほとんど新しい草木が生えなくなるから、まさに村長が熱心に語っていた麦畑を支える下草たちに、とても大きな影響が出てしまう。
「見た目は奇麗などんぐりみたいなものじゃ。虫穴ができておったら、間違いなく中は食い荒らされておる」
森の中に道を通し、炭焼き小屋や鍜治場を作り、さらにはサロニアからの木材輸入の代わりにトーネブルクの森から木材を切り出す。その結果として森の見た目こそ維持できたとしても、内部は大きく変化してしまう。
それはまさしく、虫が木の実に小さな穴を開け、内部を食い荒らすように。
「わっちからすれば、そんな森でもやがて蘇るのを見ていられるがのう」
口ぶりから、それは人の人生の尺度では測れない、悠久の時の長さだとわかる。
それは自然と、村長やマイヤーの話がもはや大袈裟な誇張ではないことを示している。
「ただ、マイヤーさんも、きっと領主に説明したはずだよな?」
ロレンスの言葉に、ホロはなにも言わず酒を啜っていた。多分、マイヤーの優秀さから、マイヤーならそのくらいわかっているはずだとホロも思ったのだろう。
だとすると領主は縁の遠い話に理解が及ばなかったのか、あるいは理解したうえでそこまでひどいことにはなるまいと思って、カーランとの計画を進めようとしたことになる。それで進退窮まったマイヤーは、サロニアで見かけたロレンスに泣きついた、というところだろうか。
ロレンスはため息をついて椅子から立ち上がり、不貞腐れているホロの隣に座ると、そのままベッドに仰向けに倒れた。
天井を見つめていると、ホロがなんともいえない顔で、見下ろしてくる。
「少なくとも紙の上では、よくできた計画だと思うんだよ」
それゆえに、領主はおそらく前に踏み出した。懸念はあるが、懸念のまったくない商いの計画は、詐欺か検討不足かのいずれかだ。領主の決断が愚かとも思えない。
マイヤーは、領主のそろばん勘定の誤りを正してくれと言っていた。その計画はそもそも成り立たないものだと。
さて、森と麦畑を守るためにどうするべきか。
ロレンスが大きなため息をつくと、ふと、腰掛けたままのホロの横顔に視線が向いた。
敏いホロはすぐに人の視線がわかるようで、耳をぴんと立てている。
けれどロレンスのほうを振り向かなかったので、ロレンスはこう言った。
「よくも厄介な問題に放り込んでくれたな、なんて思っていないよ」
ホロの尻尾が、たちまち深呼吸した兎みたいに膨らんでいた。
「犬も歩けば骨を見つけるって言うだろ」
「……」
ホロが肩越しに振り向くが、なかなか見られないくらい嫌そうな顔だった。
「なにか行動すれば、必ずなにかしら起こるという、古い人間の残した言葉だよ」
ロレンスは少し笑いながら、左手の手元にあったホロの尻尾の毛に指を絡ませる。
たちまち尻尾は逃げ、ロレンスの手の甲をびしりと叩いた。
「禍福はあざなえる縄のごとく」
しつこくホロの尻尾の毛を指でつまみ、糸を撚るように指に絡ませる。
「良いことも悪いことも、撚った縄のように交互に入れ替わる。そしてその縄は、大事な存在を繋ぎとめる頑丈な縄だ」
いたずらされる自分の尻尾を見つめていたホロは、納得しかけたような顔をしてから、顔をしかめた。
「後半は嘘じゃろうが」
「まだことわざにはなってないが、きっとニョッヒラには広まるだろうと思っている」
ホロは目を細め、それから疲れたように肩を落としていた。
「それにこの問題にここで出会えてよかったよ。サロニアくらい大きな麦の産地で実りが悪くなるなんてことになったら、巡り巡ってニョッヒラが仕入れる麦の値段にも影響するはずだからな。仮に領主の説得に失敗しても、俺たちは先回りして対策を取れる」
商いの話になると熱のこもり方が違うのか、ホロは疑うでもなく聞いている。
「よほどへまをしなければ、この話は俺たちの得にしかならない」
マイヤーからの話を受ける時には自分を騙すようなことまでして自分を納得させたが、この言葉は嘘でもない。
ロレンスはホロの尻尾の毛を指でつまむのをやめ、手のひらで撫でた。
二日酔いやら移動やらで、やや手入れが滞っている尻尾だが、相変わらずふかふかだ。
あんまり尻尾をいじられるのが好きではないホロは、やや嫌そうだが、甘んじて受け入れていた。それは解決策もなさそうな問題にロレンスを巻き込んでしまった、という負い目かもしれない。
けれど商人の舌は二枚ある、なんて言われることもあるように、実はロレンスにはひとつの考えがあった。
ホロの尻尾をいじくりまわしていたのは、その考えをまとめるためだ。
ロレンスは自分のことをそれほど優秀とは思っていないが、周りと比べて有利なことはあると思っている。それはホロという存在であり、そういう存在がいると知っているからこそ、他の人間が想像もつかない角度で物事を見ることができる。
この森を切り開く計画もまた、そうだった。
「要は領主の計算が合わないようにすればいいって話だからな。そういうことなら、やりようはあるかもなと思う」
ホロが驚いて目を見開く。
「本当かや?」
「多分な。ただ、ちょっと確認は必要だから、明日はマイヤーさんに言って……」
ロレンスは話しながら、大きなあくびが出てしまう。なんだかんだ移動が続いているし、久しぶりに大きな問題に直面して、自分が思っている以上に頭を使い続けていたようだ。
眠るなら蝋燭を消し、木窓を閉じて、この季節はもう夜中は冷えるから毛布をかけなければ……と思うのだが、億劫で目が開かない。
けれどふっと瞼の向こうの明かりが消え、ぎいっと木窓の閉じる音がした。それからひときわ大きくベッドの木組みがきしんだかと思うと、毛布が掛けられた。
いつもならロレンスが繰り返す就寝前の作業だが、年に一回くらいはこういうこともある。
「わっちゃあ豊作を司る狼じゃからの」
毛布の下でホロが呟いた。
ロレンスはその夜、土に埋められる種籾になった夢を見た。
せいぜい良い花を咲かせられるように、頑張らねばと思ったのだった。
老司祭と一緒に聖堂で朝の祈りを捧げ、神に感謝しながら祭壇に捧げられていたぱさぱさの古いパンを渡されて仕方なくかじっていたら、マイヤーが迎えにきた。
ついでに村の共同パン窯で焼きあがったばかりというパンも持ってきてくれたのは、領主が村に滞在した時に、老司祭と一緒に質素な食事をした後のお決まりの対応なのだろう。
「私のほうでも、ロレンス様にはなにをお見せするのがよいかと考えていたのですが」
朝の農村を歩きながら、自分の顔ほどもある焼き立てのパンにかぶりつくホロに微笑んでから、マイヤーはロレンスに向けて言葉を続けた。
「村の鍛冶屋……でよろしいのですか?」
むしろ小さな市と麦畑を見たほうが、より問題の核心に迫れるのではと言いたそうなマイヤーだが、ロレンスはうなずき返す。
「ええ」
マイヤーは昨日の村長の話が伝わっていないのではないかと気を揉んでいるようだが、ロレンスは鍜治場にこそ用があった。頼まれたら否とも言えず、マイヤーはロレンスたちを連れて森のほうに歩きだす。
鍜治場は水と木材を大量に使うので、大体こういうところでは森の中にある。
「それと昨晩、司祭様に領地の地図を見せてもらいました。あの地図が信用できるのだとすれば、領主様の判断はもっともだと思うところもありまして」
うなずくマイヤーに、こうたずねる。
「港町カーランも、町を発展させるためには内陸部に向けた道をどうしても作る必要がある、ということであっていますか?」
「あっています。カーランは良港を抱えているのですが、このトーネブルクの森があるせいで、内陸に向けてはロレンスさんたちも利用されていた川だけが頼みの綱です。ただ……」
マイヤーが言葉を濁すと、山羊と羊の群れがちょうど前方を横切っていく。
家畜を追いやる村人がマイヤーに丁寧にあいさつしていたので、彼らもこれから森に入るのだろう。
「森に道が敷かれたとして、いかほど人が利用するものなのか、私にはそもそも疑問なのです」
村長はともかく、少なくともマイヤーは森の荒廃だけでなく、領主のそろばん勘定に誤りがあると思っている。
「港町カーランが領主様に約束しているほどの利益はあがらないと?」
貴重な森を切り開く代わりに、領主は諸々の利益を見込んでいる。木を伐りだすついでに作られる道をカーランからの商人が通り、そこで徴収される通行税は結構な金額を見込んでいるに違いない。
「森を抜ける道は、確かに一見便利かもしれません。森の南の端から流れ出る細い川に乗れれば、ロエフ川にまで続いています。しかし途中にめぼしい町はありませんし、その下流にはケルーベ、上流にはレノスというふたつの大きな町が控えているといっても、レノスはケルーベの忠実な僕のようなものですし、カーランにとってケルーベは意地悪な兄のような存在なのです。似たような商品を取り扱う、同じ港町ですからね」
昨晩ホロがしてくれた、縄張りの話が思い出される。
町には商圏があり、それは猫と犬を足したような縄張りを描く。
流通する商品には限りがあり、それをより多く確保したほうが勝つのだから。
「ケルーベは自分の縄張りに、カーランが出張ってくるのをよしとしないでしょう。そもそもカーランが森のずっと西側、海に近い道を使いたがらないのは、そこはケルーベの縄張りであり、関税を巡っていざこざが絶えないせいなのです」
昨晩地図を見ながらあれこれした類推は、大体あっていた。
そしてマイヤーも、カーランがそのことをわかっていないはずがないと思っている。
となるとお人好しの領主が騙されて、一番割りを食う格好になっているはずだ。
マイヤーはその可能性を、その狩人のような目で見据えている。
「しかし商人でもない私がそんなことを言っても、領主様は聞く耳を持たないのです。私が海の魚の取り方について話すようなものと思われているのでしょう」
誰がなにを語るのかというのはとても大事なことだ。
「そして森の下草と麦のことは、あまりに遠大な話です。森と、畑と、広い空の下で多くの時間を過ごす者だけが理解できる話です」
ものごとの思いもよらない連鎖は、商いをしていればしょっちゅう目にする。それゆえにロレンスも、村長たちの話をすぐに手触りまでわかりそうな話として理解できたし、なによりホロという森の民がいる。
しかしロレンスは、マイヤーと話しながらもあまり悲観はしていなかった。昨晩ロレンスがホロの尻尾を撫でながら考えたことであれば、多分、領主の考えを揺さぶることはできるはずだと、ほぼ確信していたからだ。
マイヤーの先導を受け、村から離れて森に向かって進むと、たちまち家がなくなり、木々が多くなっていく。緩やかな坂道を登っていけば、そこはすぐに深い森の中。
村の中は小石が目立つ踏み固められた地面だったのが、草の生える土に変わり、足が沈み込む腐葉土に変わる。さらにその上にたっぷり枯草が積もっているせいで、雲の上を歩いているようだ。
朝の森の中は湿った土の匂いがして、目を閉じるとニョッヒラにいるような気にもなってくる。それでもどこか違う匂いだなと思っていたら、かさこそ頭上で音がして、木の上を栗鼠が走っているのが見えた。足元ではちょっと間の抜けた鼠が枯葉の隙間から飛び出し、慌てて木のうろに隠れたりと、ニョッヒラの森よりだいぶ賑やかなようだった。
「良い森じゃ」
しばらくマイヤーと言葉を交わしながら歩いていたが、昨日の旅路のようにマイヤーが再び先んじて道の様子を見にいくと、ホロがぽつりと呟いていた。
「この道、昔の川の跡なんだってな」
誰かが木を切り倒し、丁寧に切り株も掘り起こしたような森の中の道は、周囲の地面よりもずいぶんくぼんでいる。雨が降るたびに少しずつ削られた溝がやがて川になり、その川でさえも巨木の倒木や落ち葉の堆積で流れが変わってしまう。森は常に変化し生きているのだということを、ロレンスはいつだったかニョッヒラの山奥でホロから教えてもらったことがあるが、トーネブルクの森はずいぶん活きがいいわけだ。
マイヤーの言によれば、トーネブルクの森を含む周辺地域は湧水が多く、そのせいもあって地形が起伏に富んでいるのも影響しているのだろう。
道を通すとしたらおそらく、この天然の川跡の通路をたどっていくつもりなのだろうが、ロレンスは実地に森の様子を見て、自分の予測を確信する。
これならばきっと、うまくいくだろう。
ホロはロレンスの考えていることがわかっているのかいないのか、夜が明けてからも詳しく尋ねてくることはなかったし、ロレンスも説明しなかった。説明にはちょっと状況の助けを借りたかったからだ。
頭上を木に覆われた森の中の道を、自分が子鼠になったような気になりながら歩いていくと、やがて道の先が急に明るくなっているのが見えてきた。そこは鬱蒼とした森の中の広場であり、魔女でもたたずんでいそうな静かな池のほとりである。
そしてその池のほとりに、今にも崩れそうなほど苔むした、二棟の建物が並んで建っているのだった。
「嫌な匂いじゃ」
不機嫌そうなホロの言葉にロレンスは小さく笑い、マイヤーと共に建物に近づいていくと、ロレンスでもわかる炭と鉄の匂いがした。森の馥郁とした香りとは違う、鼻の奥をこするようなとげとげしい匂いだ。
「おんや、マイヤーさんじゃねえか」
二棟ある建物の内、一棟は壁がない東屋形式になっている。屋根の下には用をなさなくなった鉄製品や、炭の山があって、そこで埋もれるようにして、もろ肌の壮年の男が体中から湯気を立てながら作業をしていた。
「今日も忙しそうですね」
「へっ。暇をしてたら森に飲み込まれちまうからな」
親方と呼ばれた男は背後の森を振り向いてから、分厚い革の手袋を外し、ロレンスとホロをじろりと一瞥する。
「弟子入りってわけじゃあなさそうだが」
ホロは森の民代表として抗議を示すためか、ふんとそっぽを向いている。代わりにロレンスが笑顔で挨拶しておく。
「こちらは旅商人のロレンス様と、その奥様です。森に道を通す件で、私たちのお味方を」
親方はマイヤーの紹介に、ほう、とうなずいた。
「そいつは失礼した。ここは煙っぽいだろ。中で話そう」
ホロが不機嫌そうなのを、炉から立ち上る独特の金属臭のせいだと思ったらしい。
森の中で操業する鉄鍛冶の親方は、隣の建物の扉を開けて、中に入っていく。親方についていくマイヤーにロレンスも続こうとしたが、ホロが動かないことに気がついて振り向いた。
鍜治場の敷地に入りたくない、ということかと思ったが、ホロは森の奥のほうを見つめていたのだ。
まるで、森の中の仲間から呼ばれたかのように。
「ホロ」
ロレンスは、その名を少し強く呼んだ。
「俺を置いていかないでくれよ」
どこか茫洋としていたホロが、ロレンスを振り向いた。
「俺だけじゃ食べきれないくらい、干し肉があるんだから」
遠い森の奥を見つめていた赤い瞳に、ゆっくりと光が戻ってくる。
夢の一場面のように森と同化しかけていたホロの輪郭が、くっきりと明らかになる。
「んむ。人の世は森の中よりうまいものが多いからのう」
森に帰るのは今しばらく後回し。
ロレンスがホロを伴って建物の中に入れば、ちょうど親方が濃い麦酒を用意してくれたところだった。
醸造鍋は自分でこしらえた自慢の一品らしく、それで仕込んだ麦酒を水のように飲み干した親方は、忌々しげに言葉を放つ。
「森は湧き出る泉のようなものだ。湧き出る以上に汲み上げたら、やがて枯渇するってのが世の理だ!」
建物自体恐ろしく古いし、おそらく代々特権を得て森の中で操業している鍜治場なのだろう。
壁にはもはや現役とは思えない道具類が誇らしげに飾られているし、十年や二十年でそうはなるまいという風格を湛えている。
ロレンスはそれらの品をざっと見て、もちろんすぐにお目当てのものに気がついた。それから、ホロが建物の中に入ってたちまち、表情を硬くしていたことにも。
「だから俺は別に、この鍜治場の特権を守るためだけじゃなく、森のために領主様の計画は間違いだと思ってるんだ」
森の中に道を通し、木材を切り出したり新しい鍜治場を作ったりするのは、この親方の領域を荒らす行為となる。だから親方が計画に反対するのは、特に意外なことでもない。
「私も諸国を遍歴してきましたが、これほどの森にはなかなかお目にかかれません。できればそっとしておくのがよいと思っています」
ロレンスの言葉に、親方はうんうんとうなずいている。
「ですから領主様のお考えを、できれば翻したいという意味でお尋ねするのですが」
ロレンスは、森の住人にとっては敵の拠点である鍜治場の建物の中で、所在無げにしているホロをちらりと見てから言った。
「この森に新しく鍜治場を作るとしたら、どれほどの苦労が予想されると思いますか」
「うん……うん?」
親方には意外な質問だったようで、肩透かしを食らったような顔をしていた。
「鍜治場を作る……苦労?」
「はい。鍜治場の作りやすさとでも言いましょうか」
「いや、商人さんよ。俺は新しく鍜治場を作るのは馬鹿げてるって話をしてるんだ」
森に住む頑固一徹の職人らしく、筋肉ではちきれんばかりの両腕を組んでいる。炉の火で縮れた長い髭の奥でむっつりしている顔には、すごい迫力がある。
なにが起きても動じることなく、すべてを自力で解決できるし解決してきたという自負に満ちたその様子は、手伝いの小僧の姿が見えないことからも、きっと文字どおりの一人親方なのだろう。
実際、この部屋には鍜治場のための道具のほかに、生活に必要なあらゆるものが揃っているのがすぐにわかった。部屋の隅にはぼろきれが積み上げられ、ちょうど親方の体格にへこんでいるのを見ても、この親方が村にある家に帰るのではなく、ほぼこの森の中の鍜治場小屋で過ごしているのがよくわかる。
ロレンスは駆け出しの行商人の頃、商売敵のいない、道が悪くて他の商人がいかないようなところばかりを狙って商っていた。
だから街中で羽ペンの先を舐め、商いとは数字を操ることだと思っている商人たちが実感できない様々なことを、身をもって知っている。
そのうちのひとつに、ホロと出会ったばかりの頃はそれが原因で喧嘩にもなったようなことがある。
ロレンスが聞きにきたのは、まさにそれだ。
「森の中に新しく鍜治場を作るのは、村の中に新しく家を一軒建てるのとはわけが違うはずです。ましてや、それを維持しようと思ったのならば」
なおも訝しそうにする親方の背後には、ギラリと光る大ぶりの斧や鎌があるし、なんなら長剣や槍まである。自分で作った品を飾っている、というにはあまりに使用感に満ちたそれらは、常にこの鍜治場を飲み込もうとする森そのものと戦うための道具類だ。
そして戦いある所に、戦勝の記念品あり。
壁に大きく掲げられているのは、親方と同じくらいの背丈の、立派な狼の毛皮だった。
「森の怖さを知らない町の職人たちが、背中に荷物を担いで森の中を歩いてくるわけです。そうしてどうにか鍜治場をこしらえた後には、そこで昼夜問わずの作業に入ることになります。どうですか? 彼らは無事、朝を迎えられるでしょうか?」
親方はロレンスの視線の先を追ってから、ははあと大きくうなずいていた。
「なるほど、そういう意味か。村の市に立ち寄る町商人の中にも、ちょっとこの鉄製品を打ち直してくれなんて言って、のんきにパンなどかじりながらふらふら森の道を通ってここにくる奴がいるが、俺はそういう間抜けに刃物は渡さんようにしている。森を知らない奴らが森で過ごすほど、危険なことはない」
親方はマイヤーを見て、それからロレンスに視線を戻す。
「森は敵地の真っただ中だ。月のない夜に鍜治場を狼の群れに囲まれたことは、一度や二度じゃない。小僧を置いていないのも、小僧らはすぐ森に飲み込まれてしまうからだ」
ちょっとした不注意で襲われ、姿を消してしまう。
そんな事故が何度かあったのだろう。
「ただ、もちろんマイヤーさんは、森を切り開いて道を通したり鍜治場を作るためには、狼対策の費用が掛かることを、領主様にすでに進言していると思います。いかがですか」
なにか言いたそうにしていたマイヤーは、もちろんとばかりにうなずく。
けれど口を開かないのは、ロレンスがその先の話を持っていると気がついているからだろう。
「私が思うに、領主様が狼の話を耳にしてもなお計画に賛成されたのは、うまく想像ができなかったからでしょう。狩りで森に入られることはありましょうが、数多の勢子や、マイヤーさんのような森に通じた者たちに囲まれての野営でしょうからね」
ロレンスの口上に、マイヤーがやや躊躇ったのち、言った。
「ロレンス様、確かにこの森には狼がいますが、そこまで危険かと言われると――」
「いえ、いえ、マイヤーさん。危険なはずです。あまりにも危険すぎて、狼の襲撃から身を守りながら道を切り開くなど、傭兵の千人隊長が必要な大事業になるはずです。その費用となれば、もはや青天井でしょう」
マイヤーや親方が戸惑うような芝居がかった振る舞いの最後に、ロレンスは茶目っ気たっぷりに微笑んでみせる。
それでようやく、二人はロレンスの言葉の意味に気がついていた。
「狼の害を演出すると?」
その問いに返事をする前に、ロレンスはさりげなくホロを見た。なにをさせられるのか想像がついているのだろうホロは、靴の中に小石が入ったような顔をしている。
「私たちの住む山奥深いニョッヒラには、凄腕の狩人がごろごろおりまして。彼らの扱う猟犬もまた、よその土地では狼と見まがうものばかり」
ロレンスたちが旅に出ている間、湯屋を切り盛りしてくれているのは、やはり狼の化身であるセリムだ。さらに彼女の兄や仲間がニョッヒラから少し離れた山奥で修道院を構えていて、何食わぬ顔で、礼拝をしたがる温泉客をもてなしている。ホロが彼らにひとつ頼めば、喜んで協力してくれるだろう。
ただ、狼が人を襲うという話はホロとの間では禁句に近いし、実際に親方は身の危険を感じて狼を討ち取ってまでいる。そこにさらに人と狼との対立を煽るような真似をするとなれば、ホロの顔が浮かないのも理解できる。
けれどロレンスは商人だ。
真冬のニョッヒラでさえ、氷を売ってみせる自信がある。
「それにこう考えてください」
ロレンスはホロにもちらりと視線を向けてから言った。
「トーネブルクの森の狼は、厄介で巧緻に長けているかもしれません。けれど長年渡り合ってきた彼らが、海の連中の甘い考えを正してくれるとしたらどうですか? それはなかなか、爽快ではありませんか?」
親方がほうと呻き、マイヤーが顎を引いている。
ロレンスは、誰が敵で、誰が味方かの線を引き直したのだ。
森の中では狼の敵である鍛冶屋の親方も、森の民と海の民という対立の中でなら、同じ森の民の狼の肩を持つだろう。そしてこれは、ホロにとっても同じことのはずだった。
これは狼がただ単に人の敵となる話ではない。森の民としての誇りを守るため、森の人間たちと共によそものと戦うのであれば、大きく話は変わってくる。
実際に親方は、ほどなくこう言ってくれた。
「森の恐ろしさを知らん海の連中に思い知らせてやるには、確かにいい機会かもしれん。そもそもこのトーネブルクの森の狼を、よその森の凡百の狼と一緒にされては困るからな」
敵としてその手ごわさに敬意を払う。
そんな様子の親方を見て、ホロがなんとも言えないむずがゆそうな顔をしている。
同じ話を昨晩、あのベッドの上でしたらどうか。
ホロは人との対立を恐れて、ロレンスの提案を蹴ったかもしれない。
けれど親方の反応を見やれば、親方もまた、単純に狼を憎んでいるわけではないのがわかるはず。状況が変われば、いくらでも仲間になれるのだと。
結局ホロが力なく息を吐いていたのは、狼にとっても悪い話ではない、と分かってくれたからだ。
「私は商人です。人は得をする以上に、損することを嫌がると知っています。この森には恐ろしく厄介な狼がいて、道を通すにはあり得ないくらい費用が掛かりそうだぞと目で見てわかれば、海の民であるカーランのみならず、領主様も考えを改めることでしょう」
道を通したり、鍜治場を新設するとなれば、森の中の調査はこの先もたくさんある。なんなら森が騒がしくなる前にという理由付けで、マイヤーに領主を狩りにつれ出してもらえばいい。その都度狼の脅威を思い知らせられれば、狼対策の費用が見積もりより跳ね上がりそうだということをしっかり骨身にしみて理解できるだろう。
これこそが、昨晩ホロの尻尾をもてあそびながら思いついたことだった。
「いかがですか。マイヤーさんや、親方にご協力いただけるようなら、早速知り合いの狩人たちに連絡を取りますが」
マイヤーと親方は互いに顔を見合わせ、揃って視線を壁に吊るされた狼の毛皮に向けた。
普段から森に入る者であれば、その恐ろしさは嫌というほど知っている。
「ロレンスさん」
マイヤーはロレンスに歩み寄り、右手を差し出してくる。ロレンスがその手を握ると、今度は親方が熊のような腕でマイヤーごとロレンスを抱きしめた。
ただその場でホロだけが、納得しつつも気乗りしない、という体なのだった。
計画の成功を祈願してとっておきの御馳走を昼食に用意しようと、マイヤーと親方が揃って森の中に入っていった。残されたロレンスは、鉄を打つためのものとは別の竈で、料理のための火の番を請け負った。ついでにその火がホロの機嫌に燃え移らないよう、気を配りながら。
「セリムさんには俺から頼むから」
狼であるホロが、同じ狼の化身に猟犬の振りをしてくれなどと頼むのは、セリムたちは気にしないにしても気の重いことだろう。
それに人をあえて怖がらせることには、やはりこの心優しい狼には抵抗があるようだ。
「お前からは、この森の狼たちが本当に被害を出さないよう、説得してくれないか。その見返りは用意するからと」
ホロはなにかと狼の牙をちらつかせることがあるのに、本当に人と狼が対立するようなことを前にすると、驚くほどの繊細さを見せる。
ロレンスのことをお人好しとなじるのに、ホロのほうが根っこのところはお人好しなのだ。
「……わっちも久しぶりの旅に出て、浮足立っておったかもしれぬ」
木箱に座って背中を丸め、尻尾を神経質に揺らしているのは、自分の力を貸すなんて安易に口にしたことを後悔しているからだろう。
「ただ実際のところ、こうでもしないと領主の決めたことを翻すなんて無理な話なんだよ」
竈に薪を放り込みながらロレンスが言うと、ホロはむすっとしたままだ。
「ぬしが、こんなあからさまな手段に出るとはのう」
ロレンスより少し後ろにいるホロを振り向くと、ホロの目はロレンスを責めるように半分に細められている。なんだかんだ納得してくれたと思ったのだが、狼の力を使うことに怒っているのかと思ったその矢先。
ホロが不服そうに言った。
「ここで頼るなら、他に頼るべきところがいくらでもあったろうに」
「え?」
ロレンスが聞き返すと、ホロはぷいとそっぽを向く。
ぱちっと薪が爆ぜて、ロレンスは我に返る。
ホロは狼としてのホロたちの力を借りることに対して怒っているのではない。
今まで狼の力を使わな過ぎたことを、責めているのだ。
「湯屋を構える時に、お前の力を借りただろ」
新しい湯脈を見つけなければ新しい湯屋を構えるべからず。そんな掟がニョッヒラの湯屋の新規参入を拒んでいて、実際にめぼしいところは掘りつくされていた。
けれどホロの鼻と爪があれば、およそ人が掘りだすには多大なる幸運と労力が必要な湯脈でも、あっという間に掘りだせてしまった。それだけでもロレンスは、ホロの枕元に一生林檎をお供えするだけの感謝をするべきだと思っている。
「それに……なんだかんだ頼っていたような気もするが」
あれこれ思い返すが、ホロの表情は晴れないまま。
一人娘のミューリにそっくりな不服顔で、こんなことを言う。
「にっちもさっちもいかなくなって、ようやくじゃろうが」
ロレンスとしてはそれがホロへの礼儀だと思っていたが、ホロからすると単にやきもきするだけだったのかもしれない。それに、にっちもさっちもいかなくなりがちだったのは、ホロに格好いいところを見せたかったということもある。けれどたとえそのことを理解していたとしても、ロレンスから頼られるまでホロはずっと歯がゆく、やきもきしていたのかもしれない。
その経験があったからこそ、ここではこんなにあっさり頼るのか? とむくれているのだ。
ロレンスは木の枝で竈の中の隅をいじくってから、こう言った。
「切り札はいざという時に使うもので、今がそうだと思う。だって、ほら」
ロレンスは竈の火から顔を上げ、周囲を取り囲む深い森を見やる。
「こんな森を失うかどうかの分かれ道で、しかも未来の麦畑までかかっている。そうだろう?」
ホロの耳は人の嘘を聞き分ける。そしてその耳は、ロレンスの言葉が嘘かどうか、微妙な判断に迷ったらしい。話を逸らすようにも聞こえたろうし、真面目な気持ちとしても聞こえただろう。
そしてそのどちらであっても、ホロはむくれたままだったはずだ。
「ぬしは羊のくせに、こういう時だけちゃっかり掴みどころがなくなりおって」
じめついた目でそんなことを言うホロに、ロレンスはこう答えるしかない。
「わかりやすくてつまらなかったら、とっくに飽きて別の骨をかじりにいってるだろ」
むっと口をすぼめて目を見開いたホロは、それからたっぷりの間を開けて、ため息をつく。
それでようやく、いつもの賢狼らしい呆れた笑みを見せてきた。
「たわけ」
ロレンスは肩をすくめるばかり。ホロは座っていた木箱から立ち上がって、ロレンスの隣に腰を下ろし直す。
不機嫌はもう終わり、ということらしい。
「飯はなんじゃろうな」
「鹿じゃないか? けど、そんな簡単に森に入ってとれないか」
「この森ならば穴兎か、水が多いようじゃからな、あの尻尾が平べったい大きな鼠かもしれぬ」
「懐かしいな。あれもずいぶん食べてない」
ホロが言うのは水べりに住む大きな鼠のことで、その歯で木を削って巣をつくるという習性がある。そして水に住むからその肉は魚に近いという屁理屈で、聖職者も大手を振って食べられる人気食材だ。
「まだまだ食べておらぬうまいものが、世の中にはありそうじゃな」
「そうとも。ただ、俺の財布には限りがあるが」
ロレンスの肩に頭を預けていたホロは、ちょっと体を離して嫌な顔をする。
「ぬしはケチな商人様じゃ」
「昔も今も変わらずな」
ロレンスがホロに笑いかけると、ホロも苦笑し、またロレンスの肩に頭を持たせかけてくる。
そのふさふさの尻尾がくるんと丸まり、ロレンスを抱き寄せるように腰の後ろに回される。
森の中の静かな水辺で、薪の燃えるぱちぱちという音だけがする。
ホロが満足そうに目を閉じているのを見て、ロレンスはそっと一息つく。
サロニアでの過剰な頑張りによってトーネブルクの森が危機に瀕したことは、どうにかこうにか取り繕えそうだ。ホロの二日酔いではないが、自分も少しは自戒しなければ。
そんなことを思っていたのがホロの耳に届いたのかどうか、ふっと背中に当たっていたホロの尻尾が離れ、体を起こしていた。ロレンスがそんなホロの様子を確かめる間もなく、ホロはフードをかぶり直し、外套の裾で尻尾を隠していた。
マイヤーと親方がもう獲物を捕まえてきたのだろうか。
そう思って周囲を見回して、村に続く森の道の向こうに、ロレンスは人影を見つけていた。
確かにマイヤーと親方がいる。けれどその顔は浮かず、どちらかといえば獲物として狩られたといったほうが相応しいし、実際にそうなのだとすぐにわかった。
なにせその二人の後ろには、馬に乗って威風堂々とした、明らかなる領主御一行が控えていたのだから。
「そなたが噂の商人か」
馬上より向けられた視線と言葉に、ロレンスは咄嗟に逃げ道を目で探してしまう。
「我が領地の決定に、なにやら異を唱えているだとか?」
うなだれるマイヤーと親方。領主の馬の側に控えるのは、あまり着なれたふうでもない皮の鎧に身を包み、やや頼りなく槍を構える農兵らしき者が二人。
それからなにか気を揉んだ様子の、あの気の良い老司祭だ。
誰が告げ口したのかはそれで明らかで、走って逃げるのも現実的ではない。
ロレンスはホロを守るように立ち上がり、慇懃に頭を垂れた。
「クラフト・ロレンスと申します」
髪に白いものが目立つ領主は、立派な口ひげが揺れるくらい大きなため息をついて、馬から降りたのだった。