※2023年1月7日発売の『狼と香辛料ⅩⅩⅣ Spring LogⅦ』試し読みとなります。発売されるものと一部内容が異なる場合がございます。


 領主は笑顔でこそなかったものの、丁寧に名乗った。

「マチアス・エギル・トーネブルクだ」

 膝をつくべきか否かロレンスは迷ったが、そのわずかな時間で、領主マチアスは顎をしゃくった。

「そなたに話がある」

 即座に切り捨てず、お縄にもかけないとは、領主の決めた計画を台無しにしようとやってきたよそ者を前にしているにしては、ずいぶん寛容なことだ。

 ただ、ロレンスもほどなく気がついた。このマチアスは寛容というより、どちらかというと色々なことに疲れ諦めている、といったほうが近いのかもしれない。

 ロレンスはマイヤーたちの様子を見てから、慣れない槍を持って立っている兵たちを見た。

「余とそなただけだ」

 森の中で始末されるとロレンスが考えた、とマチアスは思ったのだろうが、ロレンスが本当に心配しているのは別のこと。彼らがへたに暴力に訴えたせいでホロが怒りだし、全員を森の肥料に変えてしまうことのほうだ。

「そなたの噂はここ最近とみに耳にしていたからな。話をしてみたいと思っていた」

 耳にしたのは、サロニアにおける木材商人たちとの関税交渉の件だろう。

 ロレンスはうなずき、ホロに目配せした。ホロのほうも今のところは不穏な空気を感じていないようで、ふんと鼻を鳴らされるだけだった。

 ロレンスは念のため腰に差している短剣の位置と留め金を確認してから、一足先に歩き出していた領主を追いかけ、二歩後ろをついていく。

 道は村に向かうのとはまた別のもので、おそらくあの親方が日々森の中の用事で使うものなのだろう。貴顕を前にロレンスから話しかけるわけにもいかず、二人とも黙って森の中の道を歩いていく。木々の隙間から差し込むまだらの光が、領主マチアスの毛皮の外套に小鹿の紋様のようなものをつくりだすのを見ていたら、ようやくマチアスが口を開いた。

「そなたはケルーベの人間なのか?」

 意外な一言、というわけでもなかった。ロレンスはすぐに、このマチアスがなにを心配しているのかわかったからだ。

 マイヤーの話の中で、ケルーベとカーランはどんな関係にあったか思い出せばいい。そしてトーネブルクは、カーランと大きな計画に乗り出そうとしている相棒だ。

 しかしカーランとの計画の邪魔をしにきたケルーベの密偵がいるとして、お前は密偵なのかと尋ねるのならば、もう少し色々と配慮が必要だろう。

 マチアスは愚鈍には見えないから、答えは彼の中ですでに決まっているのだ。

「ケルーベに赴いたことはありますが、サロニアでは教会の司教様に頼まれて、仕事を引き受けました」

「領主権を餌にされたとも聞いたが」

 ロレンスは少し微笑む。

「怖れ多いことですが、もしかしたら、領主様と肩を並べて歩いていた未来があったやもしれません」

 二歩後ろを歩くロレンスを振り向いたマチアスは、疲れた顔にわずかな笑みを見せ、隣にくるようにと手ぶりで示す。

「マイヤーはなんと言ってそなたを連れてきたのだ? どんな褒美を約束して?」

 この森の中では対等だ、と示すことによってロレンスの腹を割ろうというのならば、マチアスはなかなか気さくな君主だ。

 ロレンスもいまさら駆け引きもないだろうと、特に考えることなく答えた。

「私のせいで貴重な森が枯れようとしていると言われました。それから、私の商人としての力量ならば、計画の金勘定が合わないと示せるとおだてられまして」

 嘘ではないのだが、マチアスがあからさまに疑いの目を向けてきたので、こう付け加える。

「褒美については、蜂蜜や干しきのこなどを約束されました。湯屋の経営に必要でしょう? との言葉を添えられて」

 マチアスはそれでようやく、マイヤーがロレンスのどんな尻尾を掴んで引きずってきたかを、理解したらしい。

「なるほど、守るべきものがあるのは、時に人を弱くする」

 領主は立派な口ひげをつまみ、ため息をつく。

「それに私の金勘定ときたか」

 マチアスは乾いた笑い声をあげていた。

「金がない金がないと、頭を抱えていた私のことをよく見ていただろうからな」

 ロレンスがその横顔を見ると、マチアスは気安く肩をすくめてみせる。

「我が祖父や父は、厳しい時代にこの森を守るため戦いぬいた。いや、それしか考えていなかったというべきか」

 ロレンスは相槌も打たず、じっと続きを待つ。

「木材を売るか、森を切り開いて麦畑を拡張すれば、必要な金は手に入ったはずだ。けれどそうはせず、借金を重ねていった。あっちの敵を賄賂で懐柔し、こっちの敵には雇った傭兵を差し向けて、見事乱世を乗り切ったわけだが」

 マチアスは胸を張り、森の清々しい空気を大きく吸い込んだ。

「残されたのはこの森と、莫大な借金だ」

 この世にタダのものはない。

「まあ借金だけならば、ゆっくりでも返し続けられるだろう。我が息子の代では終わらずとも、孫の代には終わるはずだ」

 最初から踏み倒すつもりで金を借りる領主の話がいくらでもあることから、マチアスはかなり良心的な領主に入るだろう。

「しかし余も、金貨や銀貨の話に詳しいわけではない。手練れの商人の手にかかれば、余を説得するのはたやすいと思ったわけだな。違うかね」

 ようやくマチアスの視線が向けられてきたので、ロレンスは誤魔化さずにうなずいた。

「お許しを」

 マチアスは皮肉っぽく笑っていた。

 あまり穏やかな方法とは言えないが、森を切り開くには現実的ではないくらい狼駆除の費用がかかる、と示す計画だったし、それはとてつもない効果を発揮するはずだった。それでもなお計画を進めようとするのは暗君以外にあり得ないと、誰の目にも明らかになったはずだ。

「もちろん、どんな提案をされたとしても、余は計画を推し進められる。しかしそれではどう見ても、愚かなのは余ということになる。それでは困るわけだ。わかるだろう?」

 マチアスは臣下を力づくで支配するのではなく、従うに足る領主であったうえで、臣下についてきて欲しいと思っているらしい。それゆえに、ロレンスの存在にことさら気を揉んだようだった。合理的に計画のだめだしをされるようなことは、なんとしても避けたかったわけだ。

 けれどそうすると、自然に導かれることがひとつある。

「私見を述べさせていただいても?」

 ロレンスの問いに、マチアスは苦笑する。

「余とそなたは肩を並べて歩いている。もちろんだとも」

「では失礼して。領主様は、いかような条件であろうとも、カーランからの提案を受け入れるしかない状況に陥っているということですか」

 その指摘は、自分の領地の運命の手綱を他人に握られている間抜けな領主、と言われているも同然なのだが、マチアスは怒りもせずに細く長いため息をついた。

「祖父と父、それからまあほかならぬ余も、この森を守りすぎたのだな」

 マチアスは遠い目で森の奥を見通してから、ロレンスを見た。

「教会から長いこと異端疑惑をかけられている」

「それは……」

 と、ロレンスの頭の中で新たな水路が開き、いっせいに新しい絵が描かれていく。

「なる、ほど」

 ホロも目をみはるくらいに良い森を見回して、ロレンスはうめいた。

 マチアスは森を切り開くという、その行為そのものを必要としていたのだ。

 決して神聖不可侵な森ではないと、異教徒のように森を崇拝しているわけではないと世の中に示す必要があったのだ。

 マチアスは疲れたように肩を落とす。

「教会を巡る情勢は大きく揺れ動いている。守旧派も、守旧派を責め立てる薄明の枢機卿派も、自陣営のために必死だ。仲間でない者は敵であるという雰囲気だ。わかるかね」

 わかります、なぜならその薄明の枢機卿は私の息子と呼びたいくらいの青年なのですから。

 ロレンスはそんなことを口にする自分を一瞬想像してから、ごくりと言葉を飲んで答える。

「領主様がいずれの陣営につくにしても、この森のことが問題になっていると」

「いかにもそうだ。どちらかの味方につかねば、両方から敵だと見なされる。しかしどちらの陣営につくにしても、この森には異端の匂いが染みついている。あまりにも良い森で、あまりにも深すぎる森だからな」

 ニョッヒラならばこのくらいの森は珍しくもない。ニョッヒラよりもっと北に行けば、文字どおり誰一人足を踏み入れたことがないような、ホロたちの息吹が直接感じられるだろう森というのが本当にある。

 けれどこの近辺はとっくに人の支配下になり、遠くまで見通せる平野が当たり前。

 深くて黒い森というのは、あまりに特殊な存在なのだ。

「挙句に我が家の帳簿は借金まみれとなれば、余に手段を選ぶような贅沢は許されないのだよ」

 ロレンスはうなずき、頭の中で状況を整理する。

「では森を切り開くというのは、木材を売って金を稼ぐ手段である一方、領主様がこの深い森の中でヒキガエルを崇拝し、泉に捧げものをする異教徒ではないと示すことでもあると」

 典型的な異教徒の表現に、マチアスはかっかと笑っていた。

「そのとおりだ。カーランとしても我が森に道を通すことができれば、彼らの発展につながるのだ。教会のお偉方とのやり取りも、日ごろからウィンフィール王国と取引のあるカーランが仲介してくれる。我らは木材の切り出しと道の通行を許可することで、長年の異端問題と借金問題をまとめて解決することができる。余の代で息子たちのためにすべてを清算しようと思えば、神が与えたもうた好機と言わざるを得ない」

 それゆえに、マイヤーや村長がどれだけ森の危機を語っても、マチアスは聞く耳を持たなかった。そして業を煮やしたマイヤーが、いよいよ反論の余地を許さない対抗策を出しかねない商人を連れてきたので、マチアスはすべてを曝け出す方法を選んだ。

 いや、とロレンスは思う。

 マチアスはそんな単純な領主ではないはずだ。

「私にその話をする理由が、領主様にはあるはずだと思うのですが」

 マチアスは家の恥をロレンスに晒している。どこのものとも知れぬ、馬の骨にだ。

 森の中でこんなふうに散策し、たくさんの選択肢を考えてきたのだろうマチアスは、ゆっくりとロレンスを見た。

「サロニアでのそなたの活躍は、カーランを経由して私も耳にしていた。サロニアからの木材割り当てが多ければ、それだけ余の森からの木材の積み出しは減るはずだったから、実にやきもきしたものだ」

「……恐れ、入ります」

「はっは。けれどもな、そなたがサロニアにて活躍した件について耳にした時、余が最も気にしたのは、実は木材のことではないのだ」

「木材、ではない?」

 ロレンスの躊躇いがちの問いに、マチアスは言った。

「そもそもカーランの者たちの手腕を信じてよいものかどうか、不安になったのだ」

 ややきな臭い雰囲気に、ロレンスは無言で領主を見やる。

「サロニアでの木材の関税交渉は、カーランの者たちが描いた計画の一環だった。だとすると、その実力はいかほどなのだと考え直さざるを得なかった。なにせふらりと現れた行商人にさえひっくり返されるようであれば、それ以上の計画などなおさら覚束ないだろう」

 その懸念は理解できたが、同時に確かめなければならないことがあることにロレンスは気がついた。それはマイヤーと出会った時からずっと、頭の隅にあったことでもある。

「ひとつよろしいですか。カーランはなぜ、それほどまでに木材を?」

 マチアスはうなずく。

「余が異端ではないと示すことにも通じているがな、カーランは世の中で不足している木材と引き換えにして、教会側の恩寵を得ようとしているのだ」

 特に異端見なされているわけでもなさそうなカーランが、どうしてわざわざそんなことをするのか。そう問うのは、商いを知らない者だけだろう。なにせ教会以上に大きな商売相手は、この世に存在しないのだから。

「余は決して、この森に愛着がないわけではない。トーネブルク家が何代にもわたって守りぬいてきた森だ。それにおそらくマイヤーや村長が説明したろうが、この森は周辺の土地の麦畑も支えている。余はこの森の貴重さを誰よりも理解しているつもりだ。しかし帳簿は借金まみれ、挙句に異端ではないのかと疑われていれば、領地の維持そのものが危ぶまれているのだ」

 背に腹は代えられず、マチアスは危険を承知で賭けに乗った。

 しかし当の計画の首謀者の実力に、疑問符がついてしまった。

 とすると、マチアスがそんな話をロレンスに洗いざらいしてみせるのは、単なる愚痴を聞かせたかった、というだけであるはずがない。

 ロレンスがそこまでたどり着くのを待っていたかのように、マチアスは不意に領主らしい無表情でロレンスを見た。

「余の味方になってくれぬか。余の名代となって、カーランの者たちの計画を見直してくれまいか。たとえば教会側に不利な契約を結ばされていないか、あるいは……」

 誰もいない森の中でなお、マチアスは声を潜めた。

「考えたくないが、余を騙していないかと」

 おそらくもっともロレンスに頼みたかったのは、この部分だろう。

 マチアスはマイヤーたちの懸念や訴えを無視し、カーランとの計画を推し進めている。その手前、マチアス自身がカーランの計画に不安を覚えても、協力してもらえる相手がいないのだ。

 この頼みに否と答えれば、その腰に提げられた長剣で切り捨てられる……などという緊張感すらなくて、マチアスがいかに無力感を抱いているかがよくわかった。

 マチアスは良い領主なのだ。

 そして良い領主ゆえに、様々なことに縛られる。

 それに、ロレンスがマイヤーの頼みである、森の維持に応えるのももはや望み薄だった。それはマチアスに暗躍がばれているからではなく、マチアスには選択の余地がないからだ。

 このマチアスの領地は異端と見なされているために、なにも手を打たなければ教会を二分する争いの隙間に落っこちて、麦粒のように粉砕されてしまいかねない。借金があるので、領地はばらばらになって金の亡者に食い散らかされるだろう。

「確認ですが」

 と、ロレンスは言った。

「借金はカーランの者たちに?」

 だとするとマチアスの立場はかなり苦しくなる。カーランがマチアスの弱みに付け込み、杜撰な計画に巻き込んでいる可能性はかなり高くなる。

「いや、ケルーベの強欲商人どもだ」

 ずいぶん強い口調なのは、借金を巡って不快なやり取りがずっと、それこそ父や祖父の代から続いているせいだろう。

 マチアスがカーランと手を組んだのは、マチアス自身もケルーベに対抗しようとするカーランに肩入れする理由があるからのようだ。

 諸々の駒の配置が見えてきた。

 ロレンスがなおも森のためにできることがあるとすれば、思い切りマチアスの味方をすることだろう。

「こちらからもお願いがございます」

「……金か?」

 お前もかという顔のマチアスに、ロレンスは不敬ながら肩をすくめてみせる。

「マイヤーさんにはお咎めなしと約束してください。ここの森が末永く存続するためには、きっと彼が必要でしょうから」

 マチアスはぽかんとしてから、困ったように笑った。

「咎めるだと? そんなこと、思いもしなかった」

 なんという馬鹿げたことを言うのだとばかりに、咳き込むように笑っていた。

「マイヤーは誰よりも森を愛している。この余よりもな。あれは森のことしか考えておらん。だからカーランの人間がこの森に道を通すときには、絶対にいてもらう必要がある。海の連中がどんな馬鹿げたことをしでかすか、わかったものではないのだから」

 あるいはマイヤーは、これだけマチアスから信用されているからこそ、マチアスの家が代々守り抜いてきたトーネブルクの森のために奔走していたのかもしれない。

「マイヤーには、そなたをここに連れてきたことの褒美を出さねばなるまいよ」

「……」

 ロレンスはマチアスの横顔を見つめる。

 その向こうに、領主としての葛藤が色濃く見えた。

「では話を戻しますが、先ほど領主様も言いかけましたよね。港町カーランが、領主様を騙そうとしている兆候が?」

「……いや。そこまで余も疑ってはいないし、疑いたくはない。あやつらが私の弱みに付け込み騙しているというより、あやつらが教会側に足元を見られているほうがありえると思うのだ」

 なぜなら、サロニアでの計画を一介の行商人にひっくり返されたのだから。だとすれば教会と仲介になってくれてはいるものの、どれだけまともに交渉できているかは怪しみたくなる。

「森を安売りさせられているかもしれない、ということですね?」

 マチアスは不承不承、うなずいた。領地の行く末を左右する事態なのに、他人に任せざるを得ない。そういう無力感に囚われているのが、そのしぐさでよくわかる。

 ロレンスは頭の中の帳簿にあれこれ書き留めながら、必要な欄が空白だったことに気がつく。

「最後にひとつ」

「なんだ。領地の恥をすべて伝えてある。なんでも聞き給え」

 マチアスが湯屋の客だったら、実に気持ちの良い客だろうとロレンスは思った。

「領主様は教会のどちら側の陣営に?」

 その問いにマチアスはついに目を閉じたし、ロレンスは問いを口にしてから、こんな軽々しく聞くことではなかったと、遅まきながら気がついた。なぜなら、マチアスが教会の守旧派に与するのならば、ロレンスはコルたちの敵に手を貸すことになるのだから。

 それとまったく同じ理屈で、マチアスからしてもロレンスが教会のどちら側に属するかは、命運を分けかねないことになる。

 けれどマチアスは愚鈍な領主ではなく、進まねばならない時には暗闇だろうと躊躇なく踏み抜く勇気を持っていた。

「余は薄明の枢機卿に共感する」

 それから伸ばされていた背筋が、やや自信なさげに丸まっていく。

「そなたがどう思うかは、わからんが……」

「いえ」

 ロレンスは、商人としての演技ではない笑顔を見せた。

「ほっとしました」

 マチアスは目をしばたかせ、笑った。あこぎな商人であれば、強欲と相性の良い教会の守旧派の味方をすると思っていたのかもしれない。

「しかし、そうであればちょっと気にはなりますね」

「なにがだ?」

「協力を求める対価に、薄明の枢機卿陣営が木材を要求しようとしますかね。特に、領主様の問題は、切実な信仰の話ですから」

 コルならばそんなことは絶対にせず、直接このマチアスと顔を合わせ、信頼できると見抜いたら握手ひとつで話を終わらせるのではないか。そもそもコルは、教会が権威を使って暴利をむさぼる世の中を糺したくて、ニョッヒラを飛び出したのだから。

 するとカーランがトーネブルクの弱みを利用して、巻き上げた木材を使って儲けようという考えがにわかに頭をもたげてくる。

 ただ、そこに口を挟んだのは世の中をよく知る領主だった。

「彼らの理想はそうであろうが……そう理屈どおりにもいくまいよ」

 コルもすべてのことに目を見張らせているわけではないだろうから、たまたまカーランの相手方を務めている者が、旧来の慣例に従って陳情を受け取った、という可能性ももちろんある。

「それに、カーランが薄明の枢機卿側の人間にやりこめられているのではないかと疑うのは、なにも彼らの交渉力に不安を覚えたから、というだけではないのだ」

「……と言いますと?」

「ついこの間のことだ。カーランと薄明の枢機卿陣営で話がほぼまとまり、後は余の決済を待つだけとなった。余はカーランの書記官が羊皮紙にしたためた契約書の草稿を確認するため、カーランに赴いた。そこで初めて、今回の計画にて薄明の枢機卿側に立つ人物と対面したのだ」

 物言いから、コルと出会ったわけではないというのがわかる。つまりコルから木材を要求されたわけではなく、そのことにロレンスはほっとしたものの、同時に嫌な感じもした。

 こんな大規模な取引は、きっと仲介するカーランにとっても初めてのことであり、慣れないことばかりのはず。対応は手探りの状況が続いたに違いない。

 それを不安な様子で見ていた領主の前に、いよいよ薄明の枢機卿側の人間が立つ。

 そしてその人物が領主を安心させるどころか、不安にさせたのだとすれば、マチアスがなにを思ったのかは手に取るように分かった。

「港町カーランの商人たちは、薄明の枢機卿の名を騙る詐欺師に騙されていると?」

「……」

 マチアスは答えなかったが、否定するにはあまりにも疑惑が強い、というところだろう。

 一度は信じて手を組んだ仲間を疑うなど、騎士道に反する恥ずべきこと、と思っているかどうかは定かではないが、マチアスは頭を整理するかのように口を開いた。

「カーランと交渉している相手が、確かに薄明の枢機卿側の人間だというのは、間違いがないらしいのだ。余の司祭も交渉の場に同席していたが、知己の聖職者が来ていたというからな」

 その司祭とは、先ほどマチアスに随伴していた、昨晩はロレンスたちをもてなした後に速やかにそのことを領主に報告した人物だろう。

「だが、余は相手方を前にした瞬間、契約をためらわざるを得なかった。森に住む者の勘というやつかもしれない。それでわずかばかりの悪あがきではあったが、一度持ち帰り、家臣たちと共に最後にもう一度考えたいと言った。しかしこの期に及んで、我らにできることなどほとんどない。いっそ破談にすべきかと、実際に何度も思った。だからマイヤーの奴がそなたのような協力者を求めて飛び回っていたのは、ある意味、余の気持ちの一部でもあったわけだ」

 マチアスの心労がしのばれる。

「そこにやってきたのが、そなただった」

 最後の最後で、掴める藁が漂ってきた。

 しかしロレンスには、マチアスがどうしてそこまで薄明の枢機卿の名代を疑うのか、やはりわからなかった。カーランも町を挙げての計画なのだから、裏取りはしているはずで、しかもウィンフィール王国ははるかかなたの遠国ではなく、海峡を挟んで泳いでも渡れそうな距離にある。司祭もまた知己の聖職者がいると確認しているらしい。ならば疑う要素が、どこにあるのか。

 そう思った直後に、マチアスは言った。

「狼だ」

「え?」

 ロレンスはぎょっと森の中を見回した。ホロが業を煮やしてやってきたのかと思ったのだ。

「あれは狼だった」

 マチアスは悪夢でも見たかのように目を見開いている。

「薄明の枢機卿の名代として、この交渉を受け持つ商人が、ウィンフィール王国からやってきた。余が見たこともない派手な格好をして富を誇示するその様子は、南の土地にいるという伝説の鳥のようでもあった。しかしあの商人の本質は、狼だ、それも邪悪な、油断のならない、森の奥で獲物を狙う――」

「領主様、落ち着いてください」

 ロレンスの声に、マチアスは怯えたように森を見回した。

「その人物は正統なる使者だと確かめられているのですよね? 名は、なんと?」

 名代の商人というのだから、ロレンスの伝手を使えばどこの誰かを確かめるのは難しくないはず。それこそコルに直接聞きに行ったっていい。

「あの狼は、そう……」

 ざっと大きな風が吹き、ロレンスは四つ足の獣の足音を聞いたような気がした。

「エーブ・ボランと名乗っていた」

「……」

 深い森に暮らす領主の直感は、伊達ではない。

 ロレンスが噛みしめたのは、奥歯か、それとも苦笑いか。

 なるほど疑うはずだと、即座に理解できたのだから。