ある日、年代記を閉じる音がぱたんとするわけではない。

 太陽は相変わらず東からのぼるし、日常は続いていく。

 けれどもその時、確かに世界を書き換えるような物語が終わったのだと、人々の空気からわかった。

 そこにいる者たちの祖父の祖父の祖父までさかのぼる遥か昔なら、我慢できずに自らも飛び込んでいたかもしれない、と少しだけ思った。

 けれどその物語は、結末をほんのちょっと群衆の中から覗いた程度。

 新しい物語の主役たちを眩しく眺めていたら、かつての物語の相棒が手を握ってきたので、軽く微笑み返し、賑やかなお祭り騒ぎの町にまぎれていった。

 そんなささやかな喧騒の記憶も、遠くなりつつある頃。

 賢狼ホロは、あのまま旅を続けていたほうが良かったかもしれない、と思ったのだった。

「面倒な話じゃが、しばらくたくさんの人間が山を行き交うようじゃ。木を切り倒し、岩を動かし、土を掘り返す。わっちのほうからあまり森を荒らすなと伝えてはおるが、事情を知らぬ森の連中が揉め事に巻き込まれぬよう、ぬしらのほうから気にかけてやってくりゃれ」

 ホロがそう言うと、居並ぶ面々が重々しくうなずいた。

 頼みを聞いてくれるのはありがたいのだが、こんなにかしこまられると居心地が悪い。

 広く土地を治めて『賢狼』をやっていたのは、もうずいぶん昔のことなのだから。

 ヨイツの森を出た後は、南の村で手慰みに麦の豊凶を司っていた程度で、おおまかには呑気に暮らしていた。その後の旅となると、輪をかけて、たわけていた。

 もう土地の者たちを導くような気概はないし、せいぜい握れるのは間抜けな雄の手綱だけ。

 そう思っていたのだが、そうもいかないのが現実というものであるらしい。

 居を構えればそこが縄張りとなり、縄張りを頼ってきた者たちをむげに追い返すわけにもいかないのだ。

 おまけに今や、その来訪者たちの手がなければ湯屋の経営が立ち行かないとなれば、なおのこと『賢狼』の仮面をかぶるほかない。

「では鹿たちにはこの私が」

 そう言ったのは背の高い青年だ。

「兎たちはお任せあれ。穴兎たちが堤に穴を開けないよう、言っておきませんとね」

「鳥たちには今少し、今年の子育ては山奥でするように伝えておきます」

 ずんぐりした男や、線の細い娘たちが続けて言う。

 すんと鼻を鳴らせば、それぞれ鹿に兎に小鳥の匂いがする者たちばかり。

 この人の世で肩身狭く暮らしている者たちであり、どういう風の吹き回しか、狼のいる湯屋を手伝っているのだ。

 元々は人ならざる者が経営する湯屋とやらを見物しにきただけで、ならば貢ぎ物のひとつでも置いたらさっさと地元に帰って欲しいところなのだが、いかんせん湯屋『狼と香辛料亭』は万年人手不足である。

 子供の頃に拾ったコル坊は良い雄になったと思ったら旅に出てしまったし、娘のミューリはそのコルについていってしまった。いや、ミューリのほうはいないほうが面倒ごとが減るかもしれなかったが、それでもコル坊の穴を埋められるものでもない。

 それに、ホロも認めなくてはならない。

 手を握ったかつての旅の連れは、もうあの頃とは違うのだと。

 夜通し酒を飲み、一日中荷馬車を駆るなんてことは到底できやしない。

 夜に部屋で蝋燭の灯りを頼りに紙を眺めているその背中に、ふっと胸が詰まることがある。

 青々とした麦わらで編んだ人形も、時が経てば緩み、やがて朽ちていく。

 ただ、それを承知で手を取ったのだ。

 だからホロは、心底面倒だと思いながらも、居並ぶ面々に言った。

「しばらくこの湯屋とニョッヒラは、大きな仕事のせいで面倒なことになりそうじゃ。みんな、頑張ってくりゃれ」

 草を食み木の実をついばむ者たちが、揃ってお任せあれと顔を輝かせている。

 その親しみという名の圧に、ついホロは視線をそらしてしまう。

 すると部屋の片隅にいた同じ狼の化身のセリムが、困ったように微笑み返してきたのだった。



 頭に三角巾を巻きつけ、腰にも余計に布を巻きつけて、耳と尻尾を隠して人前に出る。

 誇り高きヨイツの賢狼がなぜそんなことを、という段階はとうに過ぎたのだが、愛想笑いというものはいつまで経っても慣れるものではない。

 それが相手を魅了して、意のままに操ろうというものであれば、まだしも楽しみがある。

 しかし湯屋の客相手にそんなことをしても、厄介事が増えるだけ。

 かといって不愛想では、湯屋の空気が悪くなる。

 そう考えると、ただただお転婆の限りを尽くして客から拍手喝さいを受けていた娘のミューリは、あれはあれで湯屋の仕事に貢献していたのかもしれない、とホロは思うのだった。

 とはいえ、客相手に食事を運び終わったホロが、炊事場に入るなりため息をついた理由は、それだけではなかったのだが。

「お疲れですねえ」

 呆れるように笑ったのは、湯屋での調理を一手に担っているハンナだ。

「愛想を振りまく相手が、客だけではないからのう」

 ホロは言って、甘酸っぱいソースのかかった半生の鹿肉をひと切れ拝借した。

 ちょっと前まで南の地に旅に出ていて、広めた見分の中には当然食べ物も含まれている。

 肉塊の表面を軽く焼き、次にほどよく茹で、最後にもう一度じっくり蒸し焼きにしたものを薄切りにすれば、まるで仕留めたての肉のように瑞々しくありながら、火の通った柔らかな触感をもたらす素晴らしい肉料理になる。

 南の連中はさらにそこに、尻尾の毛がやや膨らむくらいに酸っぱくて甘いどろりとしたソースをかけるのだ。

 葡萄酒を基にして、なにやら山ほどの材料を甕に詰め込んで寝かせてつくるものらしく、連れなどはその調理法を書き留めていたらすごく嫌そうな顔をしたが、きっと費用と手間のことを考えたに違いない。

 けれど今の『狼と香辛料亭』には、各地よりやってきた人ならざる者たちがいて、それぞれに様々な知識と技能を持っている。

 やりたいと思ったことは、大体誰かがうまくやってくれる。

 しかも、人ならざる者の力を使って。

 おかげで料理の質も、湯の整備も、部屋の調度品の良さだって、その評判の高さは留まるところを知らなかった。

 ことさら彼らをこき使っているわけではなく、ホロなどはむしろ、彼らの張り切りように日々圧倒されるばかり。

 むしろ彼らは、ここで全力を尽くせることが楽しくて仕方ないような感じだった。

 各地よりやってきた人ならざる彼らは、肩身が狭いという表現では表しきれないような生活を送っていたはずだと、ホロにも想像がつく。

 でもここでは、人の前では人の振りをしつつも、その苦労を分かち合う者たちがいて、なによりそこを仕切るのはヨイツの賢狼なのだ。

 湯屋の奥まったところにある休憩部屋では、兎やら羊やらがその姿のまま、のんびりくつろいでいる。それだけでも、彼らが熱心に働くのに十分な理由らしい。

 そんなわけで、多くの者たちが心から、この湯屋を支えようとしてくれている。

 ホロが南の麦畑でたわけた雄につきまとわれ、手を握られ、仕方なく握り返した結果にできたこの湯屋は、確かにあの旅と同様に、未来永劫受け継がねばならないものだとホロは思う。

 なのでこの状況というのは、確かに喜ぶべきことなのだろう。

 しかし、見返りなく手に入るものなどないのだ。

「奥様は、なんだかんだ真面目ですからねえ」

 奥様、とわざとらしく呼んだハンナをじろりと睨むが、湯屋ができて以来ずっと胃袋を握られ続けているため、ホロも敵わない。

 微笑み返されてしまっては、まるで娘のミューリみたいに、背中を丸めてむくれるしかない。

「働く者たちの手前、わっちだけ酒を啜っているわけにもいかぬじゃろうが……」

 南に旅に出ている間、湯屋の指揮を任せておいたセリムは見事その役を果たした。多くの人ならざる者たちと共にせっせと働き、なんなら出発前よりも盛況になっていた。

 ならばホロはのんびり酒を啜り、干し肉を食み、尻尾の手入れをして優雅に過ごせるはず……と思っていたのだが、皆が働いてくれているのにひとり自堕落に過ごしていたら、どうか。

 荷馬車の上でたわけに手綱を握らせて、自分は荷台でのんびり過ごすのとはわけが違う。

 彼らが慕ってここに来てくれた手前、彼らが懸命に働くのであれば、賢狼としてはそれにふさわしい立ち振る舞いをせねばならない。

 おかげで湯屋が完璧に運営されればされるほど、ホロは気疲れするのだった。

「それに新しいお客様も、ひっきりなしですしねえ。私は料理の腕が存分に振るえて満足ですけれど」

「どこで噂を聞きつけてくるのか知らぬがのう。一応は、知らぬふりをしてやってくるから、まだしも助かっておるわけじゃが……」

 賢狼が女将として居座る湯屋だと聞きつけ、人ならざる者たちが目を輝かせてやってくるのであれば、少し前からはそれ以上に目を輝かせ、なんなら恍惚とでも呼べそうな感動とともにやってくる人間の客が増えた。

 彼らは揃って上品で、礼儀を弁え、朝から晩まで湯に浸かって酒を浴びるように飲むというわけではないので、手間がかからないという意味では上客だ。

 しかし代わりに湯屋の中をじっくり見分し、湯屋の建築の際、コル坊が職人の見よう見まねで嵌めた床板やら石畳やらを見ては、感嘆のため息をついて祈りを捧げている。

 要はコル坊と娘のミューリの大冒険にあてられた者たちが、どこかから噂を聞きつけて湯屋にやってきているのだ。

 悪さを為すわけではないし、大切な秘密を共有し合っているような雰囲気なので、まだ大騒ぎにはなっていないのだが、ホロとしてはなんとなく落ち着かない。

 遠回しにコル坊やミューリの話を聞きだそうと話しかけられるのもまた、鬱陶しい。

 ただ、聖女ミューリの姉君であられましょうか、と厳かに声を掛けられるのは、まあ、悪くないのであるが。

「それにあのたわけも、その手の客が来ることがあまり嬉しくなさそうじゃしな」

「あら」

 ハンナはわざとらしく驚いて見せるが、具沢山のスープをそれぞれの皿によそう手際にはまったくよどみがない。

「あのたわけは胸が詰まると、すぐに食事が細ってしまいんす。ぬしもわかっておるじゃろうが」

 肩をすくめるハンナは、先刻承知だ。

 病や体の疲れとはまた違う理由なので、ハンナは食事の味付けを濃く、塩気を多めにしてあのたわけの食欲を引き出すようにしている。

「旦那様も真面目な方ですから」

 そこにはちょっとの呆れと、からかいが含まれている。

 お似合い、という意味なのだろう。

 ホロが牙を剥いてみせると、ハンナは澄まし顔で「料理があがりましたよ」などと言ってみせる。

「ですがほら、おかげで旦那様も、いよいよこのニョッヒラの中で欠くべからざる一員になりつつありましょう?」

 ハンナの言葉に、ホロはため息をつく。

 その目元の小さな笑みは、ホロが炊事場に立ち寄る度に愚痴を言う理由が、決して単に仕事が忙しいからだけではないとわかっているからだ。

「それはそうなのじゃが……」

 ここのところ、あのたわけは日中ほとんど湯屋にいない。

 なんならセリムもいない。

 自分のことを差し置いて、たわけと別の雌が二人、揃ってなにかの仕事にかかずらっているとなれば、しばし前ならば尻尾がダニに噛まれたかのようにムズムズしたはずだ。

 けれど今は、そんなことは欠片もない。

 代わりに残されるのは、寂しさだけ。

 日が暮れてしばらく経ち、ようやく湯屋に戻ってきたたわけにしがみつきたくとも、疲れているのがひと嗅ぎでわかる。

 むしろあのたわけがこちらの尻尾に顔をうずめるのを我慢しなければならないし、たくさん交わしたかった会話の、ほんの一部を終える前に眠りに落ちたあのたわけに、毛布を掛け、尻尾に涎を垂らされる前に引っこ抜かねばならない。

 それほど毎日働いているのは全部、ニョッヒラの里にとって、大事な仕事のため。

 頭ではそのことがわかっているが、ホロは少し尻尾の毛がぼさついてしまう。

 毎晩疲れ果てて眠りに落ちるたわけを前に、寂しいというのもある。

 でも本当の理由は、たわけがあまり楽しくなさそうだからだった。

 自分たちはニョッヒラの新参者であり、どこかまだよそ者扱いが抜けなかった。

 けれどあのたわけはニョッヒラのこの先を左右する、とても大きな仕事の中心にいる。

 しかもそれは今までのように、面倒な仕事を押し付けられたのでも、新参者のしごきとしてそうされたのでもない。

 あのたわけにしかできぬからと、頼られ、信用され、そこにいるのだ。

 そしてあのたわけは、行商人としての経験からか、ここぞという時には絶対に踏ん張らねばならないことを理解している。

 それがホロにもわかっているので、口を出しはしない。

 湯屋を盛り立て、このニョッヒラに太い杭を突き刺して盤石とするのも、すべてはこちらのことを考えてのことなのだから。

 ただ、今まではなんだかんだ大変そうでも、その大変さを楽しんでいる感じがあった。

 間抜けの飼い犬が、はち切れんばかりに尻尾を振ってぜえぜえ息を切らしながら獲物を咥えて走って戻ってくるようなものだ。

 それが今は、その手の楽しさをあのたわけの寝顔から感じない。

 歳のせいか? とも、その寝顔を見下ろし、髪の毛を手で撫でながら思うのだが、セリムの話を聞いたりこっそり仕事の様子を覗きにいけば、その仕事ぶりは往時と変わらない。

 楽しくもないことに全力を尽くすのは、自分が湯屋の仕事の中で周りの人ならざる者を前に、見栄を張っているようなものだろうかともホロは思うのだが、よくわからない。

 特にそういう時、あのたわけはいかにも取り繕った笑顔と共にそつなくこなすものなのだが、そういうわけでもないのだ。

 セリムに聞いても、あのたわけの仕事ぶりは素晴らしく、ニョッヒラの重鎮たちからも実に頼りにされていて、たわけ自身も手ごたえややりがいを感じている……ようにしか見えないと言う。

 それらのあれこれを勘案すると、まだはっきりと尋ねるような段階でもなさそうだった。

 あのたわけがなにかを隠す時、それには相応の理由がある。

 賢狼の前では隠し事などできないとわかっているので、なおさらだ。

 隠しているということは、聞いてくれるなという意思表示である。

 おかげでホロは、湯屋のどこでもいまいち気を抜けなかった。

 皆の手前賢狼であらねばならないし、忙しくて構ってくれないたわけはなにやら仕事に対して一物抱えている。

 自堕落な顔と本音を曝け出せるのは、炊事場のハンナの前でだけ。

 その炊事場でさえ、食材の水洗いや下ごしらえを終えた者たちがどやどやと入ってきてしまったので、息抜きの時間も終わりだ。

 湯屋『狼と香辛料亭』の、賢狼の仮面をかぶらねばならない。

「さて、もうひと踏ん張りじゃな」

 自分に言い聞かせるようにホロは言い、立ち上がったのだった。



 ニョッヒラの山は随分人里離れたところにあるとはいえ、そこには呆れるほど遠くから多くの人がやってくる。

 しかも人の世ではそこそこの立場にいる者たちが少なくないので、ニョッヒラの湯で交わされる噂話もそれ相応のものとなる。

 だから自分と連れがひとつの物語の終わりを見届けて、それからさらにゆっくり周遊して、遠回りして、たまに喧嘩をして寝床を別にして、そろそろ湯が恋しくなってきたというあたりでニョッヒラに戻ったら、全員が準備万端、こちらを待ち構えていた。

「ホロ様、本当によろしかったんですか?」

 ニョッヒラに戻った連れが、待ち構えていたニョッヒラの者たちに取り囲まれ、大きな仕事に巻き込まれるのを遠巻きに眺めていた時、セリムにそう聞かれた。

 自分たちの代わりに湯屋を預かってくれていたセリムも当然、留守の間のニョッヒラの様子をつぶさに見て、なんならその変化に里としてどう対応すべきかという寄合にも参加していたという。

 けれどその一言は、湯屋の経営を代理する者としてではなく、一頭の狼としての一言だった。

「なに、ここがヨイツであれば、文句のひとつも言ったがのう」

 ホロはそう言って、苦笑したのを覚えている。

 ヨイツの賢狼であって、ニョッヒラの賢狼ではない。

 ここは間抜けの連れがせっせと拵えてくれた居場所であるが、狼の故郷ではない。

 だから大事に守るということの意味は、ヨイツとは少し違う。

「川沿いの道を整備して、さらに山を少し切り開くという話じゃろう? そうすれば人の往来が増え、湯屋が増え、ここはますます賑やかになるという。それにほれ、あのたわけが熱心になっているのには、仕事のちょっとした報酬のこともあるじゃろ」

 万事自信なさげなセリムは、ホロの言葉に一層肩を小さくした。

 普段は隠している狼の耳が、あのたわけがいかにも好きそうな感じに伏せられる様子が想像できた。

「確かに……今回の村の拡張と道の整備をうまく進められたら、ロレンスさんには優先的な土地の確保権が与えられる、とのことでした」

「まったく、二軒目じゃと。ミューリの妹か弟が欲しいのかのう」

 ホロが苦笑しながら言うと、セリムはちょっと頬を染めて目を逸らした。

「まあ、二軒目云々は、留守を任せていたぬしの手際の良さと、湯屋にやってくる者たちのためかもしれぬがな。つまりは、ぬしらのための新しい湯屋じゃ」

 セリムは少し緊張したように背筋を伸ばしていた。

 セリムはその血族たちと小さな群れをつくり、しばらく南で暮らしていたらしいが、にっちもさっちもいかなくなって、『狼と香辛料亭』の噂を頼りにやってきた。

 自分たちが旅に出ている間は湯屋を任せ、見事過ぎるほどに見事なほど切り盛りしていた。

 しかも、だ。

 その間にも時折人ならざる者たちがうわさを聞きつけて、湯屋にやってきたらしい。

 けれど人手は足りていて、客として滞在するにはちょっと料金が高すぎる。

 おかげで彼らのほとんどは、ここに本当に『狼と香辛料亭』なるものがあるとわかっただけで満足して帰っていくのだが、ちょくちょく、川を下った先の町に滞在して、仕事を見つけてそこで暮らし、湯屋に空きができるのを待っている者がいるらしい。

 その町を治める人ならざる者の血を引く領主からは、湯屋に戻る途中に立ち寄ったらその話を厭味ったらしくされたものだ。

 その一方で、なんだか人の世でとんでもない名声を確立したらしいコル坊のおかげで、ニョッヒラを目指す旅人が激増し、おそらくこの先もっと増えるだろうというのが、多勢の見立てである。

 となれば、二軒目を建てる理由は申し分ない。

 それに、二軒目ができたなら、稼ぎはそちらに任せ、一軒目には自分とたわけ、それにセリムとハンナという面子だけを残してのんびり経営すればいい。

 連れは多分、そういう計画を描いているだろうと、ホロは予想している。

 ならば、となおのこと思うのだ。

 セリムとのやり取りを思い出しながら、ニョッヒラの里の中を流れる川沿いを、大普請の大騒ぎを眺めながらそぞろ歩き、ホロは服の下に隠している尻尾がやや膨らむのを自覚する。

「なぜあのたわけは、楽しそうではないんじゃ?」

 愛が冷めたから、などと不安に思うことはない。

 あのたわけがどれだけ自分を好いているかは、ホロ自身がよく知っている。

 ならば川沿いの道を整備し、山を切り開いた里の土地を増やすことに対し、狼である自分が心を痛めるかもしれないとか、そういう心配をしているのだろうかとも思うが、これも妙だ。

 鉱山のように禿山にして、人も獣も住めぬ土地にしてしまう、という話ではない。

 それにホロ自身も、この大普請にはちょっと乗り気なのだ。

 この間の旅で、この世にはまだまだ美味いものがあるのだと改めて実感したし、人の往来が増えて美味いものが手に入りやすくなるのなら、それに越したことはない。

 あのたわけに南の地方の美味いものをねだると、二言目には、輸送費が……だった。

 道が整備されれば、その輸送費とやらも下がるはず。

 しかも、湯屋の二軒目の話である。

 それは新しく加わったニョッヒラの中で、縄張りを拡張しても良いと認められたことを意味している。湯屋を作るには新しい湯脈の発見が条件とはいえ、そんなものヨイツの賢狼にかかればちょちょいのちょい。

 儲け話が大好きなあのたわけには、またとない好機だろうに。

「ふうむ……」

 ホロは再度呻き、丸太が束ねられて川を下る様を眺め、この大騒ぎで落ち着かないのか、巣穴から顔を出して足元をちょろちょろする野鼠の親子に目を細めた。

「今少し我慢してくりゃれ」

 ホロはそう言って、つまみ食い用に、財布よろしく腰に提げている袋から干し葡萄を取り出して、野鼠に分け与える。

 嬉しそうに受け取った彼らは、ちょっと喧嘩しながら巣穴に戻っていった。

 その様子を見て思い出したのは、南の地で不肖の娘と義理の息子を助けてくれた面々と、顔を合わせたことだった。

 その中には鼠の群れを統率し、しかも船乗りだという風変わりな者がいた。信仰を学ぶのが好きだという奇妙な狼もいて、羊の娘がいるとわかった時には、たわけの目の色が変わって羊毛取引の話を持ち掛けていた。

 その日の晩には、歯形が残るくらいに噛みついてやったのだが。

 とにかくコル坊とミューリの大冒険は、実に賑やかで、自分たちのそれに輪をかけたものであったことがよくわかった。

 関わる者たちも多く、その過程では、なんと地図を書き換えるような道を切り開く計画もあったとかで、狼の姿に戻って少し見に行ったくらいだ。

 北の地や南の地というのは、所詮人が定めた区分に過ぎないが、土地が変われば森の空気も違うし、生える木々だって違う。

 そんなニョッヒラとはまた違った趣の山が連なる、高く険しい山の上にある石の都市から、黒い土と暖かい気候の平野の土地まで、真新しい道が切り開かれていた。

 掘り返された土、切り倒された木、削られた石やらにやや胸がざらつきはしたものの、そこを通る人々には誇らしさがあったし、よくもまあこんな道を作ったものだと感心するほかなかった。

 きっと多くの者たちがそこを通り、たくさんの物語が生まれるのだろうなと思ったものだ。

 しかもその道にはコル坊の名がつけられ、道中の特に名所とされる、崖上から遠くの南の地が展望できる宿場町には、ミューリの名があった。そのミューリは、太陽の聖女様と呼ばれ、ずいぶんおしとやかな少女だと語られていると聞いて、笑うに笑えなかったのであるが。

 それほどに世の中には、あの二人の痕跡が深く残っていたし、今もなお深まり続けていると聞いた。

 つまりコル坊の名には、とてもとても大きな力が、宿っている。

 そしてその力こそが、ニョッヒラの川沿いの道を整備して、山を切り開けるだけの人手と資材を集められる力なのだった。

 自分たちのことを今や遅しとニョッヒラで待ち構えていたニョッヒラの重鎮たちは、湯屋にやってくる者たちの話から、世間の状況を正しく理解していたわけだ。これから先ますます発展するであろうニョッヒラのため、里をあれこれ整備しておきたいが、それには金だけでなく人を集める伝手も必要になる。

 そしてあのたわけの湯屋にいた青年こそが、世に名高い人物なのだとすれば。

 連れはあれこれを勘案して、その大きな仕事を引き受けた。

 太陽の金貨を打ち出したデバウ商会や、コル坊の名を冠する道を切り開いた山岳都市や、それに羊の住まう国の王族やらにも手紙を出し、ついでに儲けのためなら割と働いてくれるあのエーブとやらにも連絡を取り、眩暈がするほどたくさんの職人やらを手配した。

 その大騒ぎが、今のニョッヒラの様子だ。

 森の熊や鹿、営巣する鳥などには迷惑千万だろうが、山を切り開く代わりに果樹を植え、山の恵みを増やすからと約束することでなだめてある。せっせと山に木の実を植えて管理することも、これも旅の途中で知り合った栗鼠の娘に頼んである。

 放っておくと胡桃ばかり植えそうなので注意が必要だが、きっとうまくやってくれることだろう。

 そして世の中をひっかきまわした張本人たちであるが、聞くところによれば、コル坊とミューリは身分を隠して諸国を放浪しているらしかった。

 しかもその途上で、なにやら妙なことをしていると聞いた。

 土地に残る古い歴史や昔話を掘り起こし、教会から異端だと断罪されたそれらの名誉を回復しているらしい。

 南の地から戻ってくる途中で何度か見かけたのだが、薄明の枢機卿と称される青年を描いた絵には、いつも白銀の狼が添えられていた。大冒険の最中、その青年を助けたのが白銀の狼だからという理由だという。

 そのため南の地では狼の人気が跳ねあがり、同時に教会が迫害してきた狼にまつわる昔話にも、再考がなされているらしい。

 麦畑の豊作凶作を司る神と呼ばれていた賢狼としては、なんとも苦笑いしてしまう事態だが、コル坊はその流れを率先して強めているのだとか。

 おかげで湯屋には、コル坊に名誉を取り戻してもらったという人ならざる者がちらほらやってきて、下働きでもなんでもさせて欲しいと言うのだ。

 確かにコル坊とミューリを育てたのは自分たちだが、彼らはすでに旅に出ている。

 その恩恵にあやかるのは、いささか面映ゆい。

 もっとも、その名声を頼って、あの二人が旅の途中で築いた人脈を恃んでニョッヒラの普請をしている時点であれなのだが──。

 ホロはそこまで思って、はたと足を止めた。

 ──もっとも、その名声を頼って──?

 視線の先では、自分たちが南に向けて旅を出た時にはそれが原因で大回りする必要のあった大きな岩が、大勢の人々の力によって川に落とされている真っ最中だった。

 それを取り除ければ、道は随分まっすぐになり、わざわざ山道に入らずに済む。

 道を平たんに広くすることもできるから、荷馬車に荷物を積んだまま進みやすくなる。

 人と物の往来が円滑になれば、それだけニョッヒラは栄えていく。

 その大勢の職人やらを遠巻きに監督し、その間もひっきりなしに色々な者に話しかけられているのが、かつてはしょぼくれた顔でひとりで荷馬車の荷台に座り、足下に銅貨の一枚でも落ちていやしないかと目を凝らしていた行商人だ。

 世界のすべてを商ってきた、みたいな顔をしているくせに、こちらがちょっと上目遣いに見上げるだけで、たじろいでいた。そんなことを思い出し、ふっと笑ってしまう。

 今ではすっかり図太くなったが、ホロは腰に手を当て、遠巻きに眺めて思うのだ。

 あれは、なにも、変わっていないようだと。

 少し疲れたように見えることがあっても、中身はなんにも変わっていないと。

 良くも。

 それから、悪くも。

 ホロはどうして連れがこの大々的な仕事の中心にいて、楽しくなさそうなのか、ようやくわかったのだった。

 儲からないからでも、大変だからでも、山と森を荒らすことに狼が怒るかもと怯えているからでもない。

 それは、ホロが楽しくて尻尾を揺らしてしまうようなことだった。

 あのたわけは、出会ったころからずっと男の子なのだ。

「まったく」

 その呟きが聞こえたわけではなかろうが、たわけの連れがふと顔を上げ、川の対岸から見ているこちらに気がついた。

 間抜けで嬉しそうな顔をして、犬が尻尾を振るように手を振ってくる。

 仕方なく軽く手を振り返してやってから、考える。

 さて、どうしたものか。

 湯屋『狼と香辛料亭』は、笑いの沸き起こる湯屋と言われている。

 その主人が楽しくなさそうなのではよろしくない。

 賢狼ホロとして、一肌脱ぐべきだと思った。



ほぼ間違いあるまい、とホロには自信があったのだが、念のために探りを入れることにした。

 けれどあのたわけもいくらたわけとはいえ、今までからかいすぎたせいか、妙な勘の良さを身に着けてしまっている。

 狼がうろうろしていたら、すぐになにかに気がついて、へたくそながらに尻尾を隠してしまうだろう。

 けれど幸いにして、湯屋には人ならざる者がずらりといる。

 彼らに理由を話したら、あっという間に会話を集めてきてくれた。

「川沿いに道ができれば、今までよりも大きな船を川上まで引っ張れるようになる。どれだけ湯屋の皆が助かることか。いやあ、ロレンスさんがいてくれてよかった」

「いえ、いえ。そもそも今まで道を維持してこられた皆さんのおかげで、私たち夫婦がこのニョッヒラにやってくることができたのですから」

 そんな会話を、川の船着き場の近くで馬の青年が聞きつけてきた。

「ロレンスさん、ちょっといいかね。わしらの聞いていた職人への費用なんだが、勘定が合わんのだ。向こうもこの支払いが正しいと言い張って譲らんのだが、一言言ってくれんか」

「ええっと……ああ、これはですね、同じ貨幣の名前ですが、つい何年か前に改鋳されてまして。ずいぶん価値が下がってしまって、太陽銀貨で計算し直すと、おおむねこの数字です。この辺に出回っている両替表だと、まだ古いままなのかもしれません」

「おお? ああ、なるほど! さすが旅に出ていただけはある。わしらでは南の地から来た職人の事はよくわからんからなあ。つい、騙されているのかもと」

「いえいえ。全部、職人を手配する際に注意事項として書いてもらっていたことです。優秀な商人さんがあれこれ手を回してくれていなければ、私も同じように呻いていたはずです」

 そんなやりとりは、村の寄合所の軒先に止まって羽の手入れをしていた小鳥の娘が、聞いてきた。

「ニョッヒラが伝説の秘湯などと言われていたのは、もうずいぶん昔のことだ。足しげく通ってくれていた諸侯が、足腰悪くなって来なくなったなんてことが珍しくない。それに、つまるところこのニョッヒラが人気だったのは、北への大遠征によって南から多くの諸侯がやってきたからだ。もうそれもなくなって久しく、遠からず南の者たちはこんな北の辺境のことなど忘れてしまうだろう。だからどこかでわしらは腹をくくり、こうしなければならなかった。まったく、ロレンスさんには感謝してもしきれない」

「私自身、妙な星のめぐりあわせに翻弄されるばかりで、どうにかこうにかつかめた藁束が、たまたま麦を実らせてくれただけです。私は……ええ、私はなにもしていませんよ。すべて、そうですね。神の、思し召しにて」

 日がとっぷりと暮れても、かがり火を炊いて様々な仕事が遅くまで続いている。

 そもそもニョッヒラの湯屋に来る客たちは宵っ張りなのだ。

 村の重鎮たちが顔を合わせ、夕食を取り、さらにその後もせっせと働いた後、ようやく一日が終わろうかという時刻。

 川沿いをそぞろ歩く二人の会話を聞きつけたのは、ほかならぬ狼の耳である。

 夜の帳が降りていれば、まずもって羊より間抜けのあのたわけに気づかれることはない。

 ただ、ホロはやっぱりと確信する。

 情けない声音は本音だろうけれど、ホロには大きな三角の耳だけでなく、よく利く鼻もある。

 眼だけはどうやらあまり良くないらしいと、何百年も生きてきてようやく気がついたのだが、そこはそれ。

 今更あのたわけの顔をじっくり見て、幻滅したくないのでちょうど良い。

 ホロは尻尾を一振りして、夜の森に消えた。

 そして音もなく真っ暗な森の中を歩きながら、呟くように言った。

「すまぬがのう、うちのたわけたちに連絡を取って欲しいんじゃ。最後の手紙はなんたらいう土地から送られてきたが、今もそこにおるかはわからぬ。スヴェルネルにいるミリケというたわけが、デバウ商会の兎と通じておる。あやつらならコル坊とお転婆娘がどこにおるか知っておるはずじゃ。それで、伝えて欲しいんじゃ」

 足元には兎が、肩には小鳥が、少し離れたところを鹿が歩いていて、森を出た道の先では、馬と羊の化身が手提げの燭台を持って待機してくれている。

「用件というのはのう──」

 ホロは一度口を閉じ、にやりと笑って、右の牙で唇を舐める。

「なんだか妙なことをしておって、良い知らせしか寄こさぬが、本当は難しくてどうにもならぬことのひとつやふたつあるじゃろうと」

 森から出れば、気を利かした者が軽く上着をかけてくれる。

 ヨイツの賢狼と呼ばれていた頃とはまた違う、気の使われ方。

 これはまあ、これでも悪くはないかと、ちょっと思う。

「賢狼ホロが、どんなことでもたちどころに解決してやりんす──と」

 ホロがそう言うと、蝋燭の火を吹き消すように、動物の気配がなくなった。

 手提げの燭台を提げた牛の化身だけが、いつものようににこにこ微笑んでいる。

「お節介と思うかや」

 ホロの問いに、牛の化身はますます笑い、首を横に振る。

「まったく、たわけばかりじゃ」

 その直後、ため息をついたホロの大きな三角の耳は、遠くにくしゃみの音を聞きつけたような気がしたのだった。



 ロレンスにとって、大勢の人を使うのはこれが初めてではない。

 ちょっと前の旅でも、ちょくちょく訪れた町で人を采配することがあった。

 お互いに絡み合った借金のせいで、にっちもさっちもいかなくなっている町の商人たちを混乱から救い出したり、町の真ん中に大きな穴を開けて即席の温泉を作ったことだってある。

 書類仕事もまあまあお手の物で、名だたる修道院が綱紀粛正のため、溢れかえる財産を上手に処分したがるのを手伝ったりもした。

 それについこの間までの旅では、行商時代よりもさらに南の地にまで赴いてあれこれと見聞を広めてきたので、各地の貨幣相場だって両替商並みに把握していると自負している。

 そのすべてを踏まえたうえで、ニョッヒラが山を切り開いて里を拡張し、道を整備して物流を改善しようとする大事業でも立ち向かえる自信があった。

 心配性の狼は軽々しく引き受けて大丈夫かと訝しげだったが、たまに仕事の様子を見に来る時には大体いつも、つまらなそうな顔をしていた。多分、こちらが青息吐息、仕事に翻弄されて目を回すのを期待していたのだろう。

 もちろん、ロレンスにも一抹の不安はあった。

 単純に人手が足りなくて、セリムも駆り出さざるを得ず、湯屋がうまく回るかわからなかったことだ。

 湯屋には働き者の人ならざる者たちがたくさん詰めかけていたが、楽師の一団も音頭を取る者がいなければうまく曲を演奏することはできない。

 人見知りで自堕落なところのあるホロに任せて大丈夫かとやや気を揉んだが、それも取り越し苦労だった。ミューリがいると少しは母親らしく振る舞っていたように、ぜひ働かせてほしいと慕ってくる者たちがあれば、かつての賢狼としての矜持を思い出したようなのだから。

 ゆえに、なにも心配はない。

 ましてや不満などありようはずもなかった。

 でも、早朝から夜更けまで駆けずり回る中で、ロレンスはなぜか己の胸中に乾いた空気が吹き込むのを感じるのだった。

 最初は疲れかとも思ったが、そういう感じではない。

 あるいはどれだけ忙しい仕事といっても、つまるところ同じことの繰り返しであり、飽きからくる感情だろうかとも思った。

 とはいえもういい年齢だ。仕事とはそんなものであると承知しているし、森が切り開かれ、川沿いに平たんな道が姿を見せ始めるのは、常に新鮮な喜びをもたらしてくれた。

 それでもロレンスはふと、心の中に冷たい風が吹く瞬間に気づくのだった。

 大勢の職人を采配し、遠方の地の有力者や大商人と連絡を取って資材を管理し、ニョッヒラに集う各地から来た者たち同士の厄介な揉め事を解決し、生まれて初めて北の地に来て里心がついてしまった職人の頭領をこっそり慰めたりし、道の石を取り除くように問題を取り除き、普請を進めていく。

 でもロレンスは、まさにその前に進む一歩を踏み出すごとに、冷たい風が吹くと気がついたのだ。

 ──さすがロレンスさんだ。

 しかも心に吹く風は、そんな声に乗って届くのだった。

 ロレンスははじめ、意味が分からなかった。

 相手にはもちろん幾分のお世辞があろうが、心が籠っているかどうかくらいはわかる。

 そして商いの極意とは、誰かの役に立ってこそと信じているのだから、感謝され、褒められて、悪い気持ちになろうはずがなかった。

 それとも、褒められて得意になったところをホロにからかわれるという、いつもの流れが染みついているせいだろうかとも思った。しかしむしろホロは働き過ぎのこちらを気遣ってくれる風で、あまり触らせてくれない尻尾を枕にさせてくれるほど。

 それでどうして、心に冷たい風が吹くのだろう?

 ──さすがロレンスさんだ。

 みんなは本当に感謝してくれて、自分もまたそれにふさわしい仕事をしているはずなのに、その言葉はロレンスのがらんどうの胸の内で、乾いた音を立てるのだ。

 ロレンスも初めて経験することで、わけがわからなかった。それに目の前にはとにかく仕事が山積みなので、だましだましやっていた。

 ホロはなんとなく不調を嗅ぎつけているようで、たまにもの問いたげな顔をしていたが、ロレンス自身も言葉にできないし、へたに心配させたくなかったので口にしなかった。

 なにせそれ以外は、なんの問題もないのだから。

 しかもこの仕事の先には、素晴らしい利益が待っていたのだ。

 里を拡張し、二軒目の湯屋を建て、ホロを慕ってやって来てくれた人ならざる者たちを丸ごとそちらに放り込み、さらにセリムに管理してもらう。日々の儲けはそちらで稼ぎ、本館のほうでは気心の知れた客だけをわずかに泊まらせて、悠々自適の生活を送ればいい。

 それに人ならざる者たちだけで運営する湯屋は、文字どおり、未来永劫湯屋として機能し続けて、寂しがりの狼の帰る場所となるだろう。

 そんな暮らしが、もう、すぐ目の前にある。

 どれだけ疲れていたって、朝目が覚めるのを待ちきれないというものだ。

 けれど張り切れば張り切るほど、足下の砂が崩れるかのように、胸のうちの空虚さも増していった。

 ロレンスは、やはりホロに相談すべきかとも思った。

 でも、なんで言えばいいかわからないし、ニョッヒラの者たちに褒められるのが嬉しくないだなんて、まるでここにいることに飽きたと思われかねなかった。

 確かに南への旅は楽しかったが、ずっと旅暮らしをしたいかといえば、微妙なところなのだ。

 ミューリとコルの華々しい旅の結果を覗き見て、羨ましさよりも眩しさのほうが勝ったくらいで、ロレンスは若者たちの様子を見たら小さく微笑んで、隣のホロの手を引いて歓声に沸く広場を後にした。

 その後だって、結局コルとミューリとは顔を合わせていない。

 二人が世話になった人々に会い、礼を述べる機会こそあったが、コルとミューリの二人は信じられないくらい高い地位の人々から文字通りに袖を引っ張られているような状況だった、ということもある。

 ホロも元気そうな二人を見れただけで満足のようで、南の食べ物や色とりどりの布に興味津々だった。

 今更自分たちが顔を出すようなことではないのだ。

 こうして旅路を終えてニョッヒラに帰ってきたら、思いもよらず里の皆からこんなにも必要とされていた。

 こんなに幸せなことがあるだろうか?

 それなのにロレンスは、一歩踏み出すごとに流砂の中に沈み込むような、そんな気持ちのまま過ごしていた。

 その、ある日のこと。

「ぬしよ」

 耳になじんだその声は、ほんのわずかな違いでも、実にたくさんの感情を表現すると知っている。間抜けだった頃は何度も聞き間違えて怒らせてきたものだが、今はすぐにわかる。

 なにかあったのだ。

「どうした?」

 普請の様子を見て回り、記録を取っていたロレンスは、仕事の手を止めて振り向いた。

 するとホロが紙きれを手にして立っていた。

「手紙じゃ」

 そう言って差し出し、押し付けてくる。

 それからホロが視線を向けた空には、旋回する大きな鳥がいた。今すぐにでも返事を持って帰ろうとしているのだろう。

 それだけのことが起きたのだ、とすぐに理解する。

 ロレンスは手紙を開き、短い文面に目を通す。

 息を飲み、顔が歪み、奥歯を噛みしめた。

「……二人、が?」

 ホロがロレンスのことを見て、小さな肩をすくめた。

「スヴェルネルまで来るんじゃと。それで主に直接話がしたいと」

 コルとミューリの二人から、自分に話したいことがある。

 ロレンスは、来るべき時が来たのだとすぐに悟った。

 思い出したのは、川の検問所で途方に暮れている、やせっぽちの小さな幼い少年だった。

 そのコルが立派に成長し、湯屋を手伝ってくれて、娘が生まれてからは兄代わりを買って出てくれた。

 そのコルが聖職者になるという夢のため、湯屋を出た。

 ロレンスとしては心から応援した。

 でも、でも、だ。

 娘のミューリがそれにくっついていってしまうとは、思いもよらなかったのだ。

「……お前は、なにか、知ってるのか?」

 ロレンスが途切れ途切れに尋ねると、ホロはふんと鼻を鳴らす。

「知ってたとして、手紙の差し出し先は、わっちではなくぬしじゃ。一家の長として、きちんと向きあいんす」

 そんなのもう答えじゃないか、とロレンスはホロを見たが、この話では常にミューリの味方だったホロは、つんとそっぽを向く。

 むしろいい加減諦めろということなのだろう。

 それに、ロレンスとて反対するつもりがあるわけではない。

 ただ、ただ今少し、心の準備をしたいだけ。

 父様! と無邪気な笑顔と共にしがみついてきてくれたミューリの、いつもじっとり湿った温かい体を思い出す。抱き上げてやれば抱き上げてやったで、おとなしくしているのは一瞬のこと。すぐに袋に入れた鯉みたいに暴れて、落っことしそうになった。

 そうしてそろそろ抱き上げるのも難しいか、なんて年頃になった頃には、気づけばミューリはコルの側にばかりいるようになった。いや、擦り傷だらけで山を走り回っているほうが長かったか? やや記憶が混濁しているが、雷の夜に駆け込むのは少なくともコルの部屋だった。

 いや、コルは素晴らしい青年だ。

 それは認めざるを得ない。

 むしろその素晴らしさを世界が認め、それ故に歴史に名を遺すような偉業を成し遂げたのだ。

 それで一体なんの不満があろうか。

 ロレンスは手紙を閉じ、目を閉じた。

 せめて見栄を張りきろう。

 そして若者たちの新しい門出を祝うのだ。

「……二人がスヴェルネルに到着するのは、いつのことだ?」

 ロレンスの問いに、ホロが呆れたような、でも優しい笑みを見せたのだった。



 スヴェルネルは、ニョッヒラから川で下った先にあるいくつかの町や村の中で、最も大きい街であり、古くから毛皮と琥珀の交易で栄えていた。

 しかもそこを治める領主は人ならざる者の血を引くため、この大普請でもなにかと世話になっていた。なので急ぎの用事があるためスヴェルネルに行ってきますとロレンスが言い出しても、誰も怪しむ者はいなかった。

 それと、コルとミューリが直接ニョッヒラに来ない理由も理解できる。

 彼らが姿を現わせば、大混乱になるのだから。

 湯屋に来る客たちも、今や大半がコルやミューリの生まれた聖地を巡る巡礼者のようなありさまで、よその湯屋から見学に来る者たちまでいる。

 そもそもニョッヒラの大普請が、コルとミューリの伝手を期待して執り行われたものだ。そうでなければ、険しい山道を切りひらくための職人団を、軽々しく南の地から呼び寄せることなどできはしない。

 そんな途方もない偉業を成し遂げた二人を育て上げたという自負が、ないわけではない。

 彼らのことが誇らしくならないわけでもない。

 でも、ロレンスはふと、思うのだ。

 ニョッヒラの者たちからどれだけ褒められようと、この大普請のほとんどは──。

 ロレンスはその瞬間、はたと気がついた。

 まさか、そう、だったのだろうかと。

 ずっと心の中にあったあの空虚さは、これだったのか? と。

 そんな馬鹿なと動揺していたら、荷馬車の隣に座るホロがそっと手を重ねてきた。

「この期に及んで諦めの悪い」

 多分、ホロは勘違いしている。これから赴いて、聞きたくない報告を聞くのに動揺していると思っている。

 でも、子供を叱るような目と口調が、いっそ今のロレンスにはありがたかった。

 諦めの悪い。

 まさにそうなのだから。

 自分はずっと、諦めが悪かったのかもしれない。

 ロレンスはようやく、自分の胸の中に吹いていた風の正体を理解した。

 どれだけ頑張っても満たされないその理由が分かった。

 ホロはいつもこちらの落ち度に目を光らせ、意地悪く噛みつくのを趣味にしているが、本当に痛い所には牙を突き立ててこない。

 だからロレンスの不調に対し、ホロがなにか言いたげにしても口を閉じ、疲れてベッドに倒れ込んだこちらの頭を撫でてくれているのに、なにも伝えられないことには一抹の申し訳なさがあった。

 けれど今なら、口にできる。

 そしてホロに笑って欲しかった。

 そうすればきっと、自分も吹っ切れるから。

 ロレンスは小さく息を吸い、腹に力を込めて、口を開こうとしたその時だった。

 がさがさがさ! と荷馬車のすぐ脇の藪が大きな音を立てたのだ。

「ん、な⁉」

 野盗? と腰の短剣に手を伸ばした直後、白い影が荷馬車の荷台に飛び乗った。

 食い物狙いの野犬。

 行商時代にも何度か襲われ、それ以来、犬の食べられぬ玉ねぎをお守りのように荷台の脇に吊るしていたものだ。

 ホロと一緒になってからは嫌がるのでほどなくやめて、とかそんなことを思っていたら、再び藪ががさがさしはじめた。

「兄様! もう! 早く!」

 荷台に飛び乗った白い影が叫び、遅れて藪から人影が転がり出てきた。

「コ──」

 ロレンスが名を呼ぶより早く、荷台が右側に傾いだ。

 ミューリが身を乗り出して手を伸ばし、へたり込もうとするコルの手を掴み、力の限りに引っ張ったのだ。

「早く上がって! 父様!」

 呆気に取られているロレンスに、ミューリが言った。

「荷馬車、出して、早く、早く!」

 荷台の縁に足をかけ、両手でコルを引っ張り上げながら急かすミューリ。

 なんだか湯屋で何度も見た光景だと思いながら、ロレンスは愛娘との再会の喜びに口を引き結んでいたら、手を叩かれた。

 隣に座るホロだ。

「ぬしよ、しっかり手綱を握っておきんす」

「は? え?」

「ほれ、走りんす!」

 どこか楽しそうにホロが言って、御者台から身を乗り出すと荷馬の尻を手で叩いた。

 哀れな馬は狼に噛みつかれたと勘違いしたのか、ひひんと泣いて走り出す。

「おわ、わあ!」

 そんな情けない声は、自分のものだったか、それとも荷台の上で転んだコルのものだったか。

 がたごとと大きく揺れる馬車の上では、二頭の狼が楽しそうに尻尾を振っている。

「い、い、一体、全体、なんなんだ……」

 声が裏返りそうになったのは、全速力の荷馬車が怖かったから、というだけではない。

 もっと覚悟を決めて、腹をくくって会うつもりだったミューリとコルが、すぐ真後ろにいるからだ。

 どんな言葉を二人から聞かされても、笑顔で祝福できるようにするつもりだった。

 なんなら、そう。なんなら、孫の名前までいくつか決めていた。

 しかし舌を噛みそうなくらいに疾走する荷馬車の御者台では、まさにそれどころではない。

 というか、スヴェルネルで落ち合うはずだったのに、町まではまだ少し距離がある。

 いやそもそもが、なぜミューリとコルの二人は、藪の中から飛び出してきたのか。

 そう思って振りむこうとしたら、いきなり後ろから頭を抑えられた。

「ちょっと父様、ごめんね」

 ミューリがそう言って、子供の頃みたいに肩の上によじ登る。

 こんな揺れる荷馬車の上で、と注意する暇もない。

 肩と背中に足をのせ、器用に立ち上がるミューリの重さを痛いくらいに感じながら、わけもわからず隣のホロを見た。

 ホロはけらけら笑い、ご機嫌に牙を見せている。

 それからふっと背中が軽くなり、ミューリが言った。

「もう、こんなところまで追いかけてくるなんて、本当にしつこいんだから!」

 そう言うミューリは、慣れた様子の旅装束。

 腰にはやけに大きな剣を提げているのが気になるし、使い込まれた様子なのもさらに気になった。荷台で咳き込み、息を整えるので必死な様子のコルもまた、ずいぶんみすぼらしい旅の僧服だった。

「あ、父様」

 ロレンスは、母親譲りの赤い瞳と目が合って、息を呑む。

「久しぶり!」

 屈託のない笑顔に、なんと答えればいいのかわからず、ただうなずくばかり。

 しかも娘のほうは、つい昨日顔を合わせたばかりのように話し出す。

「もう、聞いて! 兄様のせいですごい面倒くさいことになってるんだから!」

「ん、え? な、なに?」

「新大陸のことを探してたんだけどね、あ、新大陸っていうのは海の遠くの遠くのほうにある誰も知らない土地でね、そこを目指してるんだけど、その途中にあるっていう砂漠の国ともまた違う土地にね、すっごい大きな、黄金羊のお爺さんより大きな、口から二本のものすごっく大きい、こーんな、こーーーんな牙を生やした人がいてね、あ、人じゃないか、でもちょっと名前がわかんなくて、とにかくそういう人がいて、こっちのほうに大昔に移り住んでいたらしいんだけど、教会のせいで悪者にされて、牙も一本折られて盗まれてね、その牙を取り戻してくれたら新大陸に向かうために力を貸してくれるって言うんだけ、ほ──むが⁉」

 怒涛のようにまくしたてるミューリの顔を掴んだのは、目の下にくまを作り、ちょっと痩せたように見えるコルだった。

「あなたは、ちょっと落ち着きなさい……。すみません、ロレンスさん、せっかくの再開がこんな形になってしまって……」

「い、や、それは、別に、構わないんだが……」

「はあ……ロレンスさんにこんな姿を見せて本当に申し訳ありません。ミューリには口を酸っぱくどれだけ言っても聞く耳を持ってもらえず、剣を振り回しては危ないことばかりで……」

「う、ん?」

「私も神の教えの下に生きる者です。何度くじけようとも神の試練だと思い、ミューリには今少し落ち着きと貞淑さを身に着けて欲しかったのですが、どうしても敵いませんでした。ミューリを預かりながら、こんな形でロレンスさんの前に立つことを、どうお詫びしてよいか──」

「は~?」

 コルに抑え込まれていた白い狼が、身をよじって拘束から抜け出していた。

「兄様勝手なこと言わないでよ! 貴族の晩餐でいつまで経ってもぎこちないのは兄様のほうじゃない! 兄様が間抜けなせいで、変装がばれたんだからね!」

「そ、それはあなたがお手洗いに行く振りをして、宝物庫に忍び込んで勝手に品物を盗み出してきたからでしょう! それはよくないことですから、話し合いで取り戻しましょうと事前に言っていたじゃないですか!」

「私は別に同意してないもの。兄様が勝手に言ってただけでしょ? どうせあいつら渡すつもりなんてなかったんだよ。それに見てよ、こんなひどい! 自分の二本しか生えない牙を勝手に折られて、こんなふうに作り替えられて、悪い王様の手に渡ってたんだよ!」

 ミューリが懐から取り出したのは、両手にちょうど乗りそうなくらいの、筒のようなものだ。

 非常に精巧な細工が施されていて、風合いから年代物だともわかる。

 最初は打刻槌かもと思ったが、その材質と、末端についた赤い色から、理解した。

「それ……まさか、象牙の印璽か?」

 ロレンスなど、酒場のうわさ話でしか聞いたことのない幻とさえ言える高級品だ。

 はるか南の、まばゆい緑色の海を越えたはるか先にある土地に住む、脅威の獣からとれる牙だという。粉にして飲めば万病に効き、それを加工して作った装飾品には精霊の御加護があるとかないとか。

 一体どれだけの黄金を積めば手に入るのか。

 いや、その貴重さは金銭で計れる価値ではない。

 ミューリも、悪い王様の手に渡っていたと言っていた。

 おそらく代々どこかの王家に伝わる逸品であり、この二人はそれを盗み出してきた。

 ならば藪から転がり出てきたのも……。

「父様!」

「ロレンスさん!」

 手綱を握るロレンスの後ろから、湯屋で何度も聞いた声が耳をつんざいてくる。

「兄様のせいで、悪い王様と悪い王様に協力してるおっきな商会を怒らせちゃったんだよ!」

「ロレンスさん、神に誓って言います。ミューリなりに良かれと思い、その牙の持ち主のために行動したことだけは間違いありません。ですがいかんせん後先考えないのです。それに東の地方の王や貴族、そして商業同盟が権力の根源として秘宝扱いしているこの象牙の印璽を盗み出してしまったことは事実です。もう、私たちの手に負えることではなく──」

「兄様勝手なこと言わないでよ! 傷ついてるあの人に同情して、絶対取り戻すからってさっさと約束しちゃったのは兄様じゃない! 父様! 兄様のことちょっと怒ってよ!」

「そもそもはあなたが新大陸の話を聞けるはずだからと、安請け合いしたのが原因でしょう⁉ それにあの方は持ち去られた自分の牙を取り戻したいのではなく、心の平穏を求めていたのですよ!」

「あー、もう! 父様! ねえ、父様!」

「ロレンスさん! どうか話を聞いてください!」

 その大騒ぎは、ホロが湯脈を探す時、うっかり大きな岩をどかして湯が噴き出した時のようだった。

 あの時は陸上で溺れ死ぬのかと思ったものだが、狼姿のホロに背中を咥えられ、落ち着いてみたらなんとも楽しい光景だった。

 これから自分たちの新しい物語が始まるのだという、そういう予感。

 湧き出す温泉を見ながら、まだ見ぬ湯屋の姿が煙の向こうに見えたものだ。

「……」

 ロレンスはミューリから首を引っ張られ、コルからは袖を掴まれていた。

 彼らは家を出て、旅に出て、立派なことを成し遂げた。

 その名声は留まるところを知らず、どうにかこうにかその名が届くニョッヒラのような土地でさえ、二人の名前を使えば大きな普請が行えるほどだった。

 ──さすがロレンスさんだ。

 ロレンスはふと、何度も向けられたその言葉を思い出す。

 さすがなんて、そんなわけがない。

 それは全部、全部、若い二人のおかげなのだから。

 自分はしがない湯屋の主人で、もう自分の物語を語り終えた行商人で、最後の積み荷を出荷し終わり、残ったのは御者台に座る愛する狼だけ。

 それでさすがと褒められても、それこそ、そう、狼の威を借る狐だろう。

 それで褒められるたびに居心地悪く、そして、認めねばなるまい。

 拗ねていたのだと。

 どれだけ歳をとったところで、簡単にすべてを悟った賢人になれるわけではない。

 ああ、それでか、とロレンスは気がついた。

 隣に座る狼が、先ほどから優しい顔をしているのは。

「二人とも、俺はもう、引退した行商人だよ」

 手綱を握り直し、ホロに尻を叩かれて死ぬ気で走っていた馬に、もう大丈夫と合図を出す。

 あるいはそれは、自分が自分の手綱を握り直せた瞬間だったのかもしれない。

「でも父様はまだ昔の商業組合と付き合いがあるんでしょ? 戦いには数が必要だもの! 父様の昔の伝手を借りたいの!」

「ミューリ、戦はしないと言ったでしょう! ですが、ロレンスさんに力を貸してもらいたいのは本当です。ハイランド様は別の仕事でかかりきりで、商人には強いはずのエーブさんですが、下手に頼るとどんな悪だくみをするかわからなくて……。それに私たちは世間で妙な注目を集めてしまっています。身を隠しながら大きなことを為そうとすると、そんな名声がいかに無意味なものかを実感します。ですから、私たちではこの件に立ち向かえないのです」

 はあ、とため息をついたのは、どんな気持ちだったのか。

 お転婆なままのミューリにか、それとも苦労を掛けてしまっているコルへの申し訳なさか。

 あるいは、隣ですまし顔をしている賢狼のせいか。

 ホロは一足先にこちらの胸の内にあるものを見抜き、策を弄したのだろう。

 あえて手紙ですべてを語らせなかったのもそうだ。

 絶対、絶対に、コルとミューリの結婚の報告だと思ったのに。

 ロレンスはもう一度、ちらりと二人の手を見た。

 指輪のような証は見当たらない。

 二人は変わらず仲の良い兄妹で、仲が良いのは自分たちだってそう。

 ホロと出会ってそろそろどれくらいか。

 二十年を数えるだろうか?

 ホロは人ならざる者であり、見た目はまったく変わらない。

 けれども多分、こちらも少し見た目がくたびれただけで、中身はなにも変わっていない。

 ロレンスの視線に気がついたホロが、あの頃のように、にんまりと笑った。

「ぬしはいつまで経っても、可愛い男の子じゃのう?」

 物語の主人公でないと気が済まない、あの頃のまま。

 自分たちの物語を語り終え、構えた湯屋から二人の若者を送り出した。

 その彼らの物語も幕を迎え、大団円。

 けれど太陽は引き続き昇っては沈み、人の生は続く。

 二十年は長い時間だ。

 でも、長い時を生きるホロでなくたって、まだまだたったの二十年とうそぶくこともできる。

「仕方ない」

 ロレンスは振り向いて、言った。

「それで、一体どんなややこしい話だって?」



 あちこちで色々な物語が生まれ、消えていく。

 その道を歩く者がいなくなる、その時まで。

 そしてその時というのは、今少し、遠くにあるらしい。

 でも、そのすべての旅路を振り向けるのは、狼だけ。

 彼女がみんなに語ってくれるかどうかは……お供え物の、林檎次第なのだった。