※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.51掲載の後半を抜粋したものです。
「くっくっくっ」
食事時にそんな話をすれば、ミューリと全く同じ顔の少女が笑っていた。
しかし、こちらの笑い方には妙な迫力があるし、髪の色が違う。見た目はミューリとまったく同じ十余の少女のようでありながら、その実は御歳数百歳の麦に宿る狼の化身、賢狼ホロだった。
頭の上に大きな三角の耳と、腰からはふさふさの尻尾を生やしたホロは、ミューリの母親であり、また狼と香辛料亭の主人、ロレンスの良き妻でもあった。
「笑い事ではありませんよ……」
「いいではないか。結局無事だったのじゃろう?」
「これを無事といってよければですが」
ばくばくと飯を食べるミューリは、顔から腕から包帯でぐるぐる巻きだった。包帯の下には薬草と豚の脂と硫黄が少し足された、特製の軟膏がたっぷり塗られている。傷だらけのミューリを見て仰天したロレンスが、傷が残ってはならないと無理やり巻きつけたのだ。
「父様も兄様も大騒ぎしすぎだよ」
「うまくいったからいいようなものの、失敗したら大怪我していたでしょう」
そう言っても、華奢な肩をすくめられるだけだった。
心労のため息をつくと、ホロがけらけら笑っていた。
「それで、わっちの亭主はどこに行ったのかや」
「ロレンスさんでしたら、ミューリが無理やり手伝わせたアルヴォ村の男の子の騾馬を探しに行って、ついでに村のほうまで謝りに行きましたよ。今後の納品に関わるからって」
ニョッヒラは山奥の村なので、物資の流通に限りがある。周辺の集落の者たちと関係が悪化すれば、それだけで店を畳まなければならなくなるかもしれない。
「大丈夫だよ」
しかし、事の張本人のミューリがそんなことを言う。
「なにをもってそう言うんですか?」
尋ねると、ミューリは母親と同じ耳と尻尾をぱったぱったさせながら、夏頃に森で山ほど採って来たコケモモの蜂蜜煮を、苦いライ麦パンに塗りつけていた。こちらの問いはひとまず置いておいて、溢れんばかりに蜂蜜煮を塗りたくったパンにかぶりつくと、酸っぱさになのか耳と尻尾の毛がちょっとだけ逆立っていた。
普段は、母親のホロと違って耳も尻尾もしまっているが、仰天したり激怒したり、感情が大きく揺れ動くとたまに勝手に出てしまう。基本的には、出しているほうが自然体らしい。
「はにをって……むぐむぐ。だって、あの子、私のこと好きだもん」
「……」
呆れ返るこちらをよそに、ホロは大笑いだった。
「雄はたわけじゃからな」
「そうそう」
塩を利かした茸のスープをずずーっと啜るミューリを前に、もはや言葉もない。
ミューリはすっかり、この家に君臨するホロを小さくしたような娘になっていた。
「まったく……」
ミューリの父親たるロレンスは、ミューリがホロそっくりになるにつれ、逆にやり込められることが多くなった。ホロは豪放磊落な性格なので、細かいことは気にしない。なので、自分がしっかりしなければならなかった。
しかし、ミューリを立派でおしとやかな娘に、という奮闘は、どうにも徒労に感じられることばかりだった。
「とにかく、それを食べたら文字の読み書きの練習ですからね」
「え~……」
「えーじゃありません」
「ま、そうじゃな。文字の読み書きくらいはできたほうがよい」
そう言うホロは、豚肉の塩漬けに岩塩をたっぷり振りかけて頬張っていた。
そして、その一言にミューリは首をすくめてホロを見やり、耳と尻尾をしょげさせておとなしくなる。
「……はあい」
群れの序列ははっきりしている。
ホロ、ロレンス、自分、ミューリ。
それが最近はミューリの上昇著しく、時折足蹴にされそうなので、機を見てホロが介入してくれる。ホロの言葉だけは、ミューリは必ず守る。森の掟みたいなものが血の中に刻まれているのだろう。賢狼の前では、若い仔狼はおとなしい仔犬のようなものだ。
「では、用意して部屋に来るように」
「はあい」
ミューリは面白くなさそうに返事をして、腹いせとばかり、新しいパンに手を伸ばしたのだった。
蝋燭に火をともし、聖典を開いて読誦していたら、扉がノックされた。
ただ、音のする位置が妙に低い。
怪訝に思って扉を開けると、包帯を取ったミューリが、大きな毛布を抱えていた。
「ミューリ、扉を蹴るのはやめなさいと何度も言っているでしょう」
ミューリは返事すらせず、さっさと部屋に入るとベッドの上にどさりと毛布を置く。この季節は寒いうえ、自分の部屋に暖炉などという贅沢な代物はないのでそれはわかるが、なぜ羊毛を詰めた枕まであるのか。
「母様、父様の迎えに行っちゃったみたい。暖炉に勝手に火を入れたら尻尾を丸刈りにするって言われたから、今日はここで寝かせて」
大抵のことはミューリの自由にさせるホロだが、さすがに火の扱いだけは厳しい。
「兄様のベッド久しぶり! わは、藁束固い! ちゃんと交換してるの?」
山に自生している家畜の飼料にする種類の麦の束をまとめ、その上に亜麻布を敷いてベッドにしてある。ミューリが寝転んで固く感じるのは、ミューリの体重が軽いせいで藁束を固く縛りつける必要がないからだ。
小さい頃はよく一緒に寝ていたが、長じてからは別々に眠るようにしていた。特に寒い地方なので、真冬は服を着て眠ると逆に風邪をひく。人肌で暖を取るのが普通だ。
それが習慣とはいえ、神の僕として、あるいは善き兄代わりとして、ミューリには乙女の恥じらいを持ってもらいたい。あとは、暗闇の中だとミューリはホロそっくりなので、時折びっくりするからだった。
「そうしてると本当に寝てしまいますよ」
ミューリの特技は横になったらすぐ眠れること。今もすでに静かになっていて、あわやというところで腕を掴んで引き起こす。
「う~……」
「ほら、しゃんとして!」
細い肩を掴んでも、かっくんと首が折れてしまう。
ただ、本当に眠いのなら尻尾が丸まっているはずなので、眠いふりだろう。
「それ以上演技するなら、床で寝てもらいますよ」
「……」
ちらっと片目を開けて、ミューリはえへへと笑った。
「兄様怒ってばっかり。聖典に書いてあるでしょ? 汝、怒りに身を任せるなかれ」
「そういうところだけ覚えて……」
ため息をつくと、ミューリは軽やかにベッドから下りる。毛布を手に取って体に巻きつけ、椅子に座った。
そんなミューリの前に、旅人が用いる旅の慰めのための説教集を開き、木の板と尖った木の棒を用意する。木の板には蝋が引いてあって、引っ掻いて文字を書く。文字でいっぱいになったら、蝋燭で炙って溶かせば何度でも書き直せる。
「でも眠いのは本当だから、早く終わらせて寝たい」
「同感ですね。ロレンスさんが帰って来なければ、明日は早くから一人で仕事ですから」
「まるで私がなんのお手伝いもしていないみたいな言い種だね」
「では、夜明け前に起きて井戸の氷を割ってくれますか?」
ミューリの耳はパタッと伏せられ、かりかりと文字を書き始めた。
決して怠け者なわけではないし、どちらかといえばよく働くほうだ。問題は朝が弱いのと、仕事に取り掛かるまでが長いこと。それから、客におだてられるとすぐ乗ってしまうところだろう。
そんなミューリを後ろからやれやれと眺めていたら、三行ほど文字を書いたミューリは、早くも落ち着きなく尻尾をわさわささせ始める。
「あーあ、また忙しい冬が来るのかあ」
ニョッヒラには夏もそれなりに人は来るが、やはり本番は冬の時期、雪が深々と降り積もるこれからだ。
「春から夏、秋と散々遊んだでしょう?」
ニョッヒラは北方に位置するので、確かに春から秋まで駆け足だが、それでも楽しめることは山ほどある。春は山菜、夏は木の実と魚獲り、秋は茸と果実採集。それに加えて、狩りも時折そこに混じる。
「だから冬はぐっすり寝たい」
「……狼は冬眠しないと思いますが」
「狼は勉強もしないよ」
ああ言えばこう言う。
「では、勉強を嫌がり、悪戯ばかりなのは、ミューリが子供だからですね」
子供扱いされると最近のミューリは少し不機嫌になる。
「ここ、違ってます」
後ろから手を伸ばして文字を指差すと、ミューリはぎゅっぎゅっと文字の溝を爪で潰す。
「大した悪戯なんてしてないけどな」
ぶつぶつと言って、文字を書く。
盾を橇代わりにして湯船を渡ろうなんてことをしておいて、なにを言うのかと呆れてしまう。
「なら、どんな悪戯なら、大したことなんですか?」
かりかりと文字を書いていたミューリは、華奢な肩をすくめた。
「兄様、ここは?」
「そこはですね」
と、ミューリの横から顔を近づけ、木の棒を受け取って例文を書こうとした瞬間だった。
ミューリが突然こちらの顔に両手を伸ばし、頬を左右から挟む。
そして、気がついた時には顔を近づけたミューリの長いまつげが目の前にあり、鼻の頭が互いに当たっていた。そして、唇にも。
凍りつく、というのは本当のことらしい。あまりのことにまったく動けなかった。
息もできずにいると、ミューリはうっすらと瞼を開け、少し逡巡するようにしてから、こちらを見た。
泣きそうな、それでいて嬉しそうな、熱に浮かされているような目だった。
ミューリはゆっくりと顔を離し、唇をきゅっとすぼめていた。
「このことは、父様に内緒ね?」
囁くように、笑顔なのに今にも泣きそうに、ミューリは言った。
あまりにも静かで、触れそうなほどに濃い沈黙。
ミューリが自分に懐いていることはわかっていたが、でも、まさか。
そう思った瞬間、なにかが胸の奥で熱を持った。ミューリの唇は離れたのに、そのせいで息ができなかった。音が聞こえそうなほど心臓が鳴っているのに、血の行き場がないように、胸が痛い。
なによりも、ミューリの恥ずかしそうにうつむいている姿だった。
唇には意外にざらざらとした感触がまだ残っていて、湯に浸かっているからか、ひどく硫黄の匂いもして……ざらざらとした?
ミューリの唇は冬でも荒れない艶々の桜色だ。
なにかおかしいと思うのと同時に、ミューリはこちらの頬を挟んでいた両手をすっと戻す。
ミューリの手と手の間には、包帯が橋のように渡されている。それはちょうど、まさしくちょうど、こちらの口を塞ぐのにぴったりな大きさだった。
顔を上げたミューリは、唇を三角にして、笑みを堪えていた。
「父様特製の軟膏だから、兄様の荒れた唇もつるつるになるかもね」
悪魔の笑みでそう言って、尻尾をわさわさ揺らしていた。
なにをされたのかようやく理解できて、思考の蓋がすぽんと外れた。
胸でつかえていた血液が、一斉に首から顔に上りだす。
「ミ、ミ、ミューリ!」
名を叫ぶと、ミューリは首をすくめて目を閉じて、それでもなお笑っている。
「もうー、そんな怒らないでよ」
「あ、あ、あなたは……」
「ほらほら、兄様の純潔も無事だよ?」
そんなことを言って、細い指でこちらの唇を押さえてくる。従順、純潔、清貧は神に仕えようと決意した者たちが誓う三つの徳。もちろんミューリはありがたい神の教えの意味として使っているわけではない。
しかし、この罪深く末恐ろしい少女になにを言ったらいいのかわからなかった。そしてなによりも、ミューリと目が合ったあの瞬間、湧き上がった感情にどう対処すればいいのかわからなかった。
「……今日は、もう終わりです」
「え? ほんと?」
ミューリは嬉しそうに言って、さっさと椅子から立ち上がる。それから体に巻いていた毛布を解いて、ベッドの上に丁寧に敷き始める。
虫を殺すように蝋燭の芯をつまんでを火を消すと、部屋が闇に落ちる。まだ毛布を敷いていたミューリの後ろに、のっそりと近寄った。
ミューリはなにか察したのか、慌てて振り向いた。
「に、兄様?」
返事をせず、そのまま手を伸ばし――。
自分の毛布を手に取った。
「私は床で寝ます」
「え?」
「床で寝ます」
短く答え、毛布を巻くと床に横になった。
「え、兄様? ねえ、え、なんで?」
本気で戸惑っているようだったが、聞く耳は持たなかった。
「一人で寝たら寒いから来たんだけど……」
固く冷たい床に体を横たえ、ミューリに背を向ける。
毛布を体にきつく巻きつけ、聖典をひたすらに暗誦した。
神よ我を守りたまえ。神よ我の罪を赦したまえ……。
「ねえ、兄様!」
梃子でも動かなかった。動いたら、色々なものがばらばらになりそうだった。
その後、ミューリは一人で寝て嘘くさいくしゃみも何度かしていたが、結局すぐにくうくうと寝息を立てていた。
それでもそれから数日、ミューリは少しだけ、おとなしかった。
たぶんこちらが怒っていると思ったのだろうが、それは怒っているのではない。
ミューリの顔をまともに見るのが恥ずかしいという、間抜けな理由のせい。
賢狼の娘、ミューリ。
末恐ろしい少女だった。
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