※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.52掲載の後半を抜粋したものです。
朝から湯船の湯を抜いて、熊が崩した中島の石を組み直していた。形を見極め、子犬くらいの大きさの重い石を、慎重に積み上げていく。地味で骨の折れる作業で、すでに腰が痛く、二の腕がぱんぱんだ。ただ、幸いなことに、この中島は思った以上に頑丈で、全壊は免れていた。思い返せば、時折ホロが巨大な狼の姿に戻って、寝そべったりしていた。それに湯を抜いたら、昨日にミューリがぶちまけたままとりこぼしていた魚の成れの果てが何匹か見つかり、良い掃除の機会にもなった。
とでも思わなければ、つい眉根に皺が寄り、ため息が出てしまう。
「いつもすまないな……コル」
こちらの不機嫌を察したのか、青い顔で石を組むロレンスが、弱々しく言った。
二日酔いらしいのだが、責任感の強い人なので、娘の不始末をそのままにはしておけないのだろう。
「ミューリの奴も悪気はないと思うのだが……加減を知らないというか……」
「い、いえ」
そう答え、石を積んでから、少し力なく笑った。
「いえ……少し、そう、ですね」
がちゃり、と積み上げた手に重い石が、たちまち気苦労の塊に思えてくる。
「ただ、手伝いもせずにどこに行ったんだまったく」
夜が明けて湯船の惨状を見たロレンスは、珍しくミューリにこんこんと説諭していたが、馬耳東風ならぬ狼耳東風だろう。当のミューリの姿も、ここにはない。
もっとも、ミューリがここにいたとしても、あの細腕では石を持ち上げるのも一苦労だろうから、余計な手間が増えるだけかもしれない。とはいえ、誠意を見せるのは大事だと思う。おとなしく側に腰かけて、しゅんと反省していればとは思う。
「もう少しでもおとなしくしていれば、あれほど可愛い娘もいないのだが……」
ロレンスは真面目な顔で親馬鹿なことを言っているが、確かにミューリがおとなしくしていれば、さぞ可愛らしいだろうとは思う。よく笑って、朗らかで、元気に満ち溢れ、あれでいて気のつくところもある。悪戯ばかりだが、基本的に悪意はない。
母親のホロのような老獪さ、とまではいかなくても、ほんの少しおとなしくなってくれればいいのに。そう思いながら湯船の底に転がっている石を拾い集めていたら、遠くからそのホロの声が聞こえてきた。
「ぬしよ」
決して大きな声ではないのに、風に乗って運ばれてくるようによく聞こえる。ホロがロレンスを呼ぶ時の「ぬしよ」には独特の柔らかさがあるので、そのせいかもしれない。
顔を上げると、湯屋に繋がる渡り廊下に、珍しく前掛け姿のホロが、両手を肘まで白くして立っていた。どうやら、干し葡萄のパンを作っているらしい。
「竈の火を少し見てくりゃれ。わっちでは火加減がわからぬ」
「ああ……って、ハンナさんはまだ帰って来ないのか」
「季節が良いからのう。まあ、たまには羽を伸ばすのもよいじゃろ」
ハンナもホロと同じく人ではなく、どうやら鳥の化身らしい。普段は誰よりも勤勉に炊事場で働く才女だが、時折、こういうことがある。
「それより、ぬしよ、火じゃ」
「ああ、ええっと」
と、ロレンスはこちらを窺った。
「どうぞ」
笑顔を向けたのは、ロレンスとホロが、自分の雇い主であるからではない。村一番のおしどり夫婦は、見ているだけで幸せになれる。
「すまん。すぐ戻って来るから」
「コル坊のぶんもあるからの。楽しみにしててくりゃれ?」
ホロはそう言って踵を返し、ロレンスが追いかけて行く。
目で追っていれば、ホロがおもむろに顔を突き出して、ロレンスに鼻の頭を掻かせていた。
客もいないので隠していないホロの尻尾が、わっさわっさと揺れている。
あんな二人を見ていたら、石組みの労苦も和らぐというものだ。
気を取り直してまた一つ一つ石を組み直していたら、不意にぞくっと寒気がした。
あるいは、予感だったのかもしれない。
「兄~様~~!」
あらゆるものを笑顔で蹴散らすミューリの声に、胃がきゅっと縮んだ。夏や、特に冬ならばミューリも悪戯をする暇がないくらいに忙しいのだが、時間のある最近は、誰かがその熱量を引き受けなければならない。
石をまた一つ積み、ため息をついてから振り向こうとしたら、腰のあたりにすごい衝撃を食らった。
「ぐっ!?」
「兄様!」
したたかに胸を石組みにぶつけたが、ミューリはけたけた笑いながらこちらの腕を引いた。
「ねえねえ、兄様、聞いて聞いて!」
「……」
ごほ、と咳き込みながらミューリを見やると、頬には泥がつき、頭には蜘蛛の巣がつき、虻の群れにでも襲われたのか、剥き出しの二の腕のあっちこっちに虫刺されらしき痕があった。
どこでなにをやっていたのか、と尋ねる間もなく、蹴鞠を投げられた子犬のようにはしゃぐミューリは、興奮のあまりに普段は隠している獣の耳と尻尾をポンと飛び出させ、まくしたてた。
「あのね! 森の中ですごいもの見つけたんだ! 兄様絶対驚くよ! だからね、あのね、今から森に行って兄様の――」
と、そこまで言った時だった。
湯船と同じで、自分にも許容量があるのだと理解した。
「えっ……あ、兄……様?」
さしものミューリも、こちらの表情に気付いたようだ。耳が伏せられ、尻尾がぺたんと力なく垂れた。ロレンスは娘が可愛い余りに怒れないが、自分は違う。血こそ繋がってはいないが、可愛い妹だと思えるからこそ、怒らなければならない。
「ミューリ」
その名を呼ぶと、ミューリがびくりと身をすくめた。
ただ、戸惑いきったような顔のミューリは、それでもなお、躊躇いがちに口を開く。
「あ……あの、ね? 兄様、その……これから森で、ね?」
この期に及んでもなお遊ぼうとする様子に、ある種の畏敬の念を抱いてしまうが、度を越えている。
静かに見据えて、言った。
「いい加減にしなさい」
ミューリは幼い子供ではなく、根は賢い少女だった。冷たい一言がどういう意味を持つのか、きちんとわかっている。
胸を呪いの石弓で射抜かれたように凍りつき、茫然とこちらを見つめていた。
「私は仕事があります」
自分のことを兄と慕ってくれるのは嬉しいが、いつまでも幼子としては扱えない。
兄代わりとして、ミューリを諌める必要があった。
「石を拾うので、どいてください」
殊更無感情に言って、しゃがみこみ、石を拾い集めた。ミューリが熊にとっくみあいをさせたせいで壊れた石組みの欠片だった。ミューリがこの石を持てなくとも、昨晩のことに責任を感じて、側でおとなしくしていればまだ許せただろう。
だが、ミューリはロレンスから説諭されると、朝からどこかに行ってしまっていた。その格好と発言を見るに、森で遊びほうけていたらしい。
母親のホロも時折相当に奔放なことをしてのけるが、あちらは歳を経て自制というものを心得ている。誰かが、この元気すぎる銀色の若い狼に慎みを教えるべきだった。
「……」
「……」
こちらから話しかけなかったし、ミューリはこちらの作業を見つめたまま、動けないようだった。ミューリは、怒鳴られ叱られるのには慣れているし、むしろ場合によっては叱ると嬉しそうにすることさえある。しかし、冷たく突き放されるのには慣れていないし、普段も、たとえば生返事をするとものすごく不機嫌になる。
もちろん、ミューリが謝って、反省の色を見せれば万事済む話だし、実を言うと自分は怒っているのではなく、少し悲しかったのだ。自らの不始末で誰かが労苦を強いられているのに、とんと気にかけず自分は遊びほうけている。ミューリがそういう娘であってほしくなかった。
石が一つ積み上げられると、そのたびに、がちゃりという音でミューリは小さく身をすくめていた。そちらを見ずとも、ミューリが泣きだしそうなのはよくわかった。
手を体の前で握ったり離したりして、立ち尽くしていた。ミューリはロレンスに叱られた時もしゅんとした様子を見せるが、それは演技だ。今のミューリの様子は、およそ演技からは程遠かった。
ごつ、と一際大きい石を積み上げてから、ため息とともに言った。
「手伝うつもりがないなら、部屋に戻っていなさい」
そして、反省していてほしい。
ミューリは伏せられた耳の先の毛が震えるくらい体を強張らせていたが、やがて、うなずいた。あるいは、泣きだすのを寸でのところで堪えて、背中を丸めたのかもしれなかった。
なんにせよ、火の消えたようなミューリはうなだれ、一歩、二歩、と下がった。
それで一度止まったのは、こちらがなにか優しい言葉をかけるとでも期待していたのかもしれない。無視して石を積み上げていたら、ミューリは諦めたのか、背中を向けて、とぼとぼと歩いて行った。
湯の抜かれた湯船から出て、湯屋に向かうミューリの背中を見れば、しきりに顔を拭っているようだった。そんな姿を見ると胸が痛んだが、ミューリの成長には必要なことだろう。
昼ごはんの時にでも、反省したかどうかと問いかければ、またいつもの明るいミューリに戻るはず。
そう思いながら石を組み上げる作業を続け、太陽が真上に来る頃になってようやく、ひととおりの作業が終わった。後は、村の中でも石組みの名人と呼ばれる人に頼み、石と石の間に楔形の木を打ち込んで、がっちりと安定させればいい。積み上げるだけでは駄目なのは、経験や人間関係と同じだ。
腰を伸ばし、腕の筋を伸ばし、一息つく。喉も乾いたし、腹も減った。
ホロの干し葡萄のパンも焼けている頃だろうし、蜂蜜酒と一緒に食べたら最高だろう。酒飲みのホロが見たら、甘すぎる組み合わせに呆れ顔をするかもしれない。
ただ、備蓄してある蜂蜜酒がまだあっただろうかとふと思う。原料の蜂蜜はそれだけでも素晴らしい甘味料であり、また保存料にもなるので、決して安い物ではない。加えて、蜂蜜酒が酒飲みの口には甘すぎることもあってか、村では蜂蜜酒の製造は後回しにされがちだった。
新緑のこの季節に出回り始める蜂蜜を確保しておかなければ、とあれこれ算段をつけながら歩いていたら、ちょうど湯屋からホロが出て来るところだった。
「なんじゃ、正確な腹時計じゃな」
昼食に呼びに来ようとしてくれたらしい。
「太陽の位置ですよ」
天を指差すと、ホロは子供のように空を仰いでから、視線を戻してふむとうなずく。
「コル坊は昔から理屈っぽいからのう」
「いい加減、坊はやめてください」
苦笑しながら言うと、ホロはミューリの尻尾よりも一回りは太い尻尾をわさりと振った。
「ぬしらなど、いつまで経っても子供同然じゃ」
数百年を生きる賢狼ホロに言われては、反論のしようもなかった。
「大体、子供でないと言うのなら、なぜぬしらは喧嘩などしておるのかや?」
謎かけふうに話すのはホロのいつもの茶目っ気だろうが、その中身が気になった。
「喧嘩?」
聞き返すと、ホロは憮然として両腕を胸の前で組んだ。
「わっちの可愛い娘を泣かしおって。コル坊がわっちの子同然でなければ、頭から噛みついておるところじゃ」
ミューリと同じ色の目と顔で見つめられているのに、その印象は全く違う。
ホロは昼食に呼びに来たと言うより、このことを言いに来たのだろう。
「いえ、ですが、それは」
ミューリを泣かせたのは理由のないことではありません、と言おうとしたところを、ホロの呆れるような笑みと、悪戯っぽくこちらの胸に突き立ててきた人差し指で止められた。
「事情は知っておる。ミューリに唆された熊が中島を壊して、ぬしらが直しておるのに張本人は山で駆けまわっておった。温厚で公平なぬしでさえ怒るのも、まあ、むべなるかな」
そこまでわかっていて、なぜミューリに味方するような口調なのだろうか。
ホロはこの湯屋の中では、ミューリに対して最も手厳しいし、容赦もしない。ミューリはホロの言うことだけは絶対に聞く。問題は、それほどの権威を持つホロが滅多に口出ししないことだ。あるいはそれが狼らしい子育てなのかもしれないが、時折歯がゆく思うこともある。
そんなわけなので、珍しくミューリに味方するようなホロを前に、戸惑ってしまう。
「ふむ。まあ、わからぬようじゃから、ぬしからはまだ坊の字を取れはせんのう」
ひよこが尻にくっつける、卵の殻のように。
賢狼は、慈しむように目を細めた。
「ミューリは確かにお転婆じゃが、たわけではありんせん」
「それは……はい」
「それに、あれはぬしのことが大好きじゃからのう」
にしし、とからかうようにホロは笑うが、ミューリが自分に懐いてくれていることを疑ったことはない。
「私もそうですよ。とても大事な存在です。ですから、もう少し落ち着きと、慎みを持ってほしいのです」
「ふむ」
しかし、ホロはそんな言葉にたちまちつまらなそうな顔をして、こちらの胸に突き立てていた人差し指を離し、今度は少し強く突いてきた。
「うちの雄共は皆、要らぬ考えばかり巡らせて目を曇らせておる」
どういう意味か、と思う間もなく、ホロは踵を返して湯屋に向かって歩いていた。
「ほ、ホロさん」
「ミューリは喉が嗄れるほど大泣きして、今は泣き疲れて眠っておる。ぬしらが仲直りするまで、葡萄パンはお預けじゃ」
ホロはそう言って、湯屋の中に入って行った。
一人残され、立ち尽くしてしまう。
仲直り?
だが、仲直りもなにもない。自分とミューリとのことは喧嘩ではない。あれはミューリに対して、正しさを知ってもらいたいと思ってしたことだ。ミューリに対して含むところなど何もない。
そう確信しているつもりだったのに、ホロの言葉と態度に、だんだん自信がなくなってくる。
もしも本当にミューリに正しさを教えるだけならば、わかりやすく、落ち着いて伝えたってよかったはず。なにも、ミューリが一番傷つきそうな方法で示す必要はなかった。
ならばなぜ、自分はあんな振る舞いをしてしまったのだろうか。
ゆっくりと記憶の塵を払っていけば、そこにあるのは単純な感情だった。
ミューリから一言、謝って欲しかったのだ。正しさなどどうでもよく、今後悪戯をしないと誓わせるでもなく、ただ一言謝ってほしかった。
そうすれば、ミューリが森で遊びほうけていようと大して気にはならなかっただろうと思う。なにせ、元々ミューリの細腕では石組みにほとんど役には立たず、かといってずっと側で沈痛な面持ちで座られていたとしても、きっと困っただろうから。
それになにより、ミューリにはいつだって、笑っていてほしいのだから。
「……ああ、そうか……」
あの時の自分の感情に思い当たり、呆れるように額に手を当てた。
自分はあの時、自分のことをないがしろにされた気がして、苛立っていたのだ。
だからこそ、わざとミューリを傷つけるような振る舞いをしたのだ。
自分はミューリのことを大切に思い、常に心を砕いている。それなのにこの仕打ちなのか? と至極個人的な苛立ちを抱いていたのだ。神の教えの下の正しさ云々などではなく。
そう気がついてみれば、これは確かに喧嘩だった。
しかし、ミューリが謝りの一言もなく遊びほうけていたのは事実で、事の発端も完全にミューリのせいだ。天秤は釣りあっていないような気がする。ホロがそんなミューリに味方するのは奇妙に思えた。ましてや、喧嘩両成敗みたいに、葡萄パンはお預けなどと自分に言い残している。それとも、自分が大人の器量を見せるべきだったからだろうか、と思いつつ、ホロが自分とミューリ、あるいはロレンスでさえ等しく子供扱いしているのは、結構本気のことだろう。
渡り廊下の真ん中で立ち尽くし、首をひねる。
なにかおかしかった。
一体なにを見落としているのか……と思ったら、湯屋の正面入り口のほうから足音が聞こえてきた。この時期に客はないだろうから、村の誰かが来たのかもしれない。
ただ、その来訪者は湯屋の扉を叩くわけではなく、躊躇いもなく進む向きを変えたのが足音からわかった。こちらに向かってくると、目隠し用の木立の隙間を慣れたようにすり抜けて来たのは、見知った顔だった。
「うわっ!」
侵入者はぎょっとして大声を上げていた。人がいるとは思っていなかったようだ。
「こんにちは、カーム君」
近くの湯屋の子供で、ミューリとは同い年の遊び仲間だ。
遊びの誘いに来たのだろうが、やたらに重装備だった。長い棒を肩に担ぎ、大きな麻袋とおぼしきものを畳んで紐で結わえ、斜めに背負っている。さらに奇妙なのは、小脇に抱えている、たっぷりの葉がついた針葉樹の枝の束だろう。
一体どんな遊びをするつもりなのか、見当もつかない。
「あ、コルさんか。こんにちは。ミューリの奴いますか? 家で待ってたのに全然来なくて」
「ミューリですか? えーっと……」
まさか自分が泣かしたせいで泣き疲れて眠っているとも言えず、言葉に詰まってしまう。
ただ、家で待っていた、という言葉にふと引っかかる。
「ミューリと遊ぶ約束を?」
「はい。森の奥に行こうって。父ちゃ……親父も一緒に行くから、手伝いを終えて準備して待ってたんですけど」
より男らしい親父と言い換えたところに、年頃の少年の見栄が感じられて微笑ましかったが、内容が妙だ。カームの父親も連れて森に?
遊びにしては、あまりに大袈裟だ。それに、ミューリが湯船に来た時のことを思い出した。
あのね! 森の中ですごいもの見つけたんだ! 兄様絶対驚くよ!
そのすごいものは、村の大人を連れて行くようなもの。となると、本格的な狩りかなにかしか思いつかない。それにしては、カームの装備がそぐわない。
そして、ミューリの言葉の続きを思い出した。
だからね、あのね、今から森に行って兄様の――。
ミューリは、なにをしに行こうとしていたのだろう?
「まあ、見つけたのはミューリだから、ミューリがいなくてもきちんと分け前出すからって言っておいてもらえませんか? 他の奴らに見つかったら、先に取られちゃうかもしれないので、早く行かないと」
麻袋を背負い直しながら、カーム少年はそう言った。
「俺もちょくちょく探してたんですけど、大人には敵わないし、けどミューリは大人も怖くて行けないような場所に平気で行くから、すっごいもの見つけたんですよ」
楽しそうなカームの話に、ミューリが喜び勇んで自分のところにやって来た時の格好が思い出される。一言で言えば、ずたぼろだった。
「あの、ミューリは山で一体なにを見つけたんですか?」
胸を締め付けるようななにかは、後悔に似た感情だ。
その質問は、本当はカームにではなく、ミューリにするべきだったのに、と。
「あれ、聞いてないんですか?」
カームはきょとんとしてから、にかりと笑う。
「馬鹿でかい蜂の巣ですよ。で、蜂蜜酒を作って欲しいからって、うちの親父に頼み込んで来たんです」
カームの父親のサイラスは、この村で一位二位を争う酒づくりの名人だ。そして、蜂蜜酒。
ミューリはその年頃らしく、背伸びに興味津々なので機を窺っては酒に手を出そうとしている。だが、今回の目的を疑うようなことは欠片もなかった。
ミューリは、反省していたのだ。悪いと思っていて、でも石組み作業には役に立てないし、言葉だけではきっと足りないと思って、できることを最大限考えて、実行に移したのだろう。
最近、自分が蜂蜜酒を飲みつけていることを知っていたからこそ。
自分はなぜ、あの時、ミューリの話を聞かなかったのか。あの時に話を聞いていれば、なにより嬉しい心遣いだったに違いない。
ホロが怒るのは当然だ。
もうあとほんの少し、ミューリのことを信頼していれば、すれ違わなかったのだから。
「カーム君」
「はい?」
少年に、言った。
「代わりに私ではだめですか?」
カームはしばしきょとんとしていたが、大人っぽく肩をすくめてから、言った。
「しこたま刺されますよ?」
望むところだ。
罰には、痛みが伴わなければならないのだから。
顔と言わず腕と言わず、あらゆるところを布で巻き、怒り狂う蜂を針葉樹の生木を燃やした煙で追い払い、巣を棒で突いて麻袋の中に落とす。あとは袋の口を閉じて、逃げる。
文字にすれば簡単だ。
だが、日暮れ頃にようやく『狼と香辛料亭』に帰りついたら、出迎えてくれたホロがぎょっとして後ずさった。
「……随分色男になったのう」
強張った笑みを見せつつ、ホロの目は成長した誰かを褒めるようなものだった。
「ミューリは?」
「部屋じゃ。あの能天気が、まだめそめそしておる。よっぽどのことじゃのう?」
その言葉には、遠慮なく責めるような響きが含まれている。
「じゃが、ぬしは行動したようじゃからの」
ホロは横に避けて、湯屋に入れてくれる。なんとなくだが、ロレンスもこういう場面を度々ホロと繰り返してきたのではないか、と思った。
「あ、ホロさんにちょっと協力してもらいたのですが」
「んむ? なにかや?」
「ちょっと、味見をして欲しいのです」
味見、の一言に正直なホロの耳がぴんと立つ。こちらの腕に抱えられている樽を見て、相好を崩していた。
「お安い御用じゃ」
それから炊事場に向かい、あれこれ準備してから、ミューリのいる寝室へと向かったのだった。
扉をノックしても、返事はなかった。
寝ているのかもしれないが、まだ泣き明かしているのかと、不安になって扉に耳をつける。
一応、静かだった。
もう一度ノックしてから、深呼吸をして、扉を開けた。
「ミューリ?」
軽く扉を開けた時点で、一度その名を呼んだ。枕なり水差しなりが飛んでくるか、罵声が飛んできたら、もう少し時間を空けようと思った。
しかし、特に拒絶の意志はなかったので扉を開けきったが、ベッドの上では見事なくらい、頭から毛布をかぶって丸まっていた。
「……」
丸まった姿は、絶対に顔も見たくない、という現れのようでいて、どこか冗談めかしているようにも見える。
ただ、気まずくて仲直りの一歩を踏み出しにくいのなら、歩み寄るべきは一応の年上の自分な気がした。
「ミューリ」
もう一度名を呼ぶと、毛布の塊がもぞりと動いた。
「いい加減、機嫌を直してください」
懇願するように言うと、まん丸の毛布の隅が、少しだけ開いた。
「……怒ってるのは、兄様じゃない」
不貞腐れたような言い方だったが、少しつついたら弾けて割れてしまいそうなくらい、弱々しい声だった。
「もう怒っていませんよ」
そう言って、机の前から椅子を取り、ベッドの側に置いて、腰を下ろす。
「顔を見せてくれませんか?」
「……」
毛布を掴んでいるその手だけが見えている。
小さくて、華奢な手だ。
「……兄、様」
毛布の隙間から、聞き慣れた単語が聞こえてきた。
「なんですか?」
「……ごめんな、さい」
その言葉は聞き慣れているようで、初めて聞くような気もした。
「で、でも、あの、ね、私は、その」
「ミューリ」
その名を呼ぶと、また泣きだしそうな震えた声で言い募ろうとしていたミューリは、ヤドカリのように毛布の奥の奥に引っ込んでしまう。
脱力するように小さくため息をついて、言った。
「ホロさんから聞いてましたけど、本当にひどい声ですね」
「……」
ミューリの声はからからだった。喉が擦り切れたように、聞いているだけで咳払いをしたくなるような痛々しさがある。ひたすら泣いて、すべての水分が出てしまって、なお泣いたのかもしれない。
ひどいことをした、と思う。
崖から落ちて血まみれになっても笑っていられるミューリだが、その小さな胸の奥にある心は、とても柔らかいのだ。
「薬を持ってきました。喉に効きますよ」
「……」
ミューリが、少しだけ殻の奥から顔を覗かせるようにもぞもぞとする。
「ホロさんにも手伝ってもらいました。味は保証つきです」
手にしていた小さな木の器に差してある匙を手に取り、もう一度よくかき混ぜてから、ひと掬いした。
「うん。おいしい」
味見をすると、偽りなくおいしい。
昼ごはんも食べていないらしいミューリは、たちまち興味をそそられたらしい。
「いりませんか?」
そう尋ねると、ミューリはそれでもなお躊躇ってから、のそのそと毛布の奥から顔を出した。
「……いる」
その姿は病み上がりのようだった。滅多につかない寝癖だらけで、顔はむくんでいる。
目の周りは特に真っ赤に腫れあがって、それでいて張りがないので死人のようにも見える。
こうなった原因が自分だと思うと胸が痛んだが、挽回はできる。
匙をミューリのほうに差し出すと、やつれきったミューリはなんの構えもなく口を開き、それを受け入れた。
斜めに折れたままだった獣の耳がぴんと伸びたのは、その直後だった。
「こ、これっ」
ミューリは驚き、それからようやく、こちらの様子にも気がついたようだった。
「あ、に、兄様、その顔……」
「蜂の巣取りがあんなに大変だとは思いませんでした」
どれだけ防御していても、蜂はどこかから潜り込み、刺してきた。
あっちこっちが腫れ上がり、しばらくは顔を洗うのも難儀しそうだ。
「ところで、薬のほうはどうですか? 蜂蜜にしょうがのしぼり汁と、少しだけ葡萄酒を加えています。宮廷の歌姫が風邪を引いた時などにも、よく食べるそうです」
ミューリはこちらの顔と手元の器を何度か見比べて、ようやくくしゃりと笑ってくれた。
「おいしい」
「それはよかったです」
「もっと欲しい」
いつもの調子が戻ってきたようだが、勿論諌めることはない。
匙で掬って、ミューリの口に運ぶ。ミューリは嬉しそうに、尻尾をぱたぱたさせていた。
「あ、でも、あんまり食べたら兄様の分が……」
「大丈夫ですよ。蜂の巣からは溢れんばかりに蜜が取れましたし。それに、この蜂蜜も葡萄酒が入っているので放っておくとお酒になってしまうそうなので。早めに食べてください」
「……お酒になったやつも食べてみたい」
「それはだめです」
ミューリはぷくっと頬を膨らませたが、もういつものミューリだ。
ただ、わざとらしくむくれていた頬をしぼませ、笑い出した瞬間は、まるで今にも泣きだしそうな感じがあって、少しどきりとした。
事実、ミューリは笑いながら少し目尻を擦っていた。
「兄様の馬鹿」
詳しく意味は探らなかった。
「すみませんでした」
すると、ミューリは満足したように微笑み、さらに蜂蜜の薬を要求するように口を開けたが、ふと、こちらを見てなにかに気がついたような顔をした。
「どうしました?」
尋ね返すのと、ミューリがなんの前触れもなく身を乗り出し、こちらの頬に口づけをするのはほぼ同時だった。
ちゅっ、と象徴的な音を立ててから、ミューリは殊更ゆっくり顔を離す。
突然のことで動けないでいると、ミューリは小首を傾げて微笑んだ。こちらが神の教えの下に立てている、禁欲の誓いをミューリはもちろん知っている。しょっちゅうそれをからかわれ、いじくられる。
「ミューリ、あなたにはまたお説教が必要ですか?」
「悪戯じゃないよ。蜂の毒は吸い出すと治りが早いって聞いたから。これは治療だよ」
ああ言えばこう言う。
その上、ミューリは悪戯が大好きだ。
「それに、私も自分の腕とかは吸い出せたけど……」
ミューリはそう言って、おもむろに服の襟に指をかけると、ぐいっと首筋をこちらに向けた。
「ここも刺されてるの」
白くて細い首元に、確かに刺された跡がある。なにより襟をきわどい位置まで下げ、白い首筋を露わにするその様子がひどく扇情的で、蜂の毒よりも目の毒だ。あまりに仕草がそれっぽいので、きっと湯屋にやって来る楽師や踊り子の娘たちが、面白がってミューリにあれこれ教えているのだろう。
ただ、ミューリはミューリだった。年に見合わぬ妖艶さを見せたのは一瞬のことで、悪戯が楽しくて仕方がない、とばかりに尻尾をぱたぱたさせて、さらに前に乗り出してくる。
いつものミューリだとわかれば、こちらも冷静に対処できる。胸元から貝殻に入った軟膏を取り出して、浮き浮きと目を閉じて口づけを待っていたミューリの首元にちょんと塗った。
「サイラスさんのところからもらってきた薬です。大変効くそうですよ」
わざとらしく笑顔を向けると、ミューリは冗談でもなさそうに唇を引き結び、眉を吊り上げていた。
「もう、兄様なんにもわかってない!」
「わかってますよ。あなたの悪戯など、全部お見通しです」
「ぶーっ!」
ミューリは喚き、がばっと大きく口を開けた。
「蜂蜜!」
喉の奥まで見えるようなはしたない格好だが、ミューリには妙に似合っている。それに、その様子にはなんだか見おぼえがあるような気がした。
匙に蜂蜜を掬ってミューリの口に運ぶと、がちん、と音がするくらいその口が閉じられる。そして、理解した。その大口はきっと、いつか自分がミューリに頭から齧られてしまうのではないかという、予感なのだ。
「お代わりは?」
それでも、騒がず慌てず、そう尋ねた。
少なくともおいしい物がある限り、ミューリの機嫌は上々なのだから。
「いる!」
ミューリの声がよく響いた、新緑の季節の夕暮れのことだった。
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