※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.49掲載の前半を抜粋したものです。



 雪をかぶった針葉樹が、寡黙な兵士のように佇んでいる。辺りは静かで、遠くから鳥の声だけがいやにはっきりと聞こえていた。

 空に雲の一つでもあれば色々と想像ができたのに、今日に限って空は海の底のように青い。

 どんな顔をしていいかわからず、足元ばかりを見つめがちだった。

「では、参りましょう」

 声が聞こえ、振り向くとすべての準備が整っていた。

 先導の司祭役が、生真面目な顔のまま一礼をする。その後ろには、二人の男がそれぞれ身長ほどの棒を抱えるようにして持っていた。彼らは二本の棒で、随分と重そうな鉄の紋章を捧げている。その後ろにさらに六人ほどの男たちが左右に分かれて並び、肩に棺を担いでいた。

「神と精霊のご加護があらんことを」

 司祭が厳かに唱え、一行がしずしずと歩き出す。すると、沿道の針葉樹の下から戸惑いがちに人が出てきた。

 ある者は着飾り、ある者は仕事から抜け出てきたままだった。彼らは森で人と出会った鹿のようにまごついていたが、司祭に促されると棺に近寄り、各々別れの挨拶を囁いていた。短いながらも、一生懸命に考えたとわかる、心のこもった一言ばかりだった。彼らの言葉を聞いていると、まるで自分に向けられているかのような気持ちになり、少しだけ顎を引いた。

 いや、そう受け取って構わないはずだ、と思い直したのは、曲がり角に差し掛かり、ふと来た道のほうを向いたからだ。

 そこには一軒の建物がある。建てた当初こそやや気負いが見え隠れしたものの、いつの間にか角が取れて、どっしりとその場になじんでいた。少なくない人々の協力があったにせよ、ここを守ってきたのは自分たちにほかならない。そのことに、胸を張ってよいはずだ。

 そんな胸中の想いが聞こえたのか、棺の前で紋章を掲げる男たちが、支えの棒を殊更に高く上げた。冬の太陽に照らされて鈍く輝くのは、一枚の看板だ。

 そこに刻まれているのは、一匹の狼と――。

「神のご加護のもと、無事に神の家にたどり着くことができました。私たちの仲間の魂は、ここで永遠の安息を得ることでしょう」

 田舎の山奥のこと、教会代わりに急遽改装した納屋の前で司祭が宣言すると、人々は恭しく頭を垂れた。司祭は頷き、男たちが納屋の中に棺を運んでいく。少し間を空けてから納屋に入ると、すでに祭壇の前に棺が置かれていた。男たちはこちらに道を譲るかのように、左右に分かれて外に出て行った。扉が閉められたのは、ある種の気遣いだろう。

 ゆっくりと棺に歩み寄り、側に腰を下ろした。

 花の中に横たわるその顔からは、今にも間抜けな寝息が聞こえてきそうだった。

「まさか、俺がお前の葬式をすることになるとは思わなかったよ」

 ロレンスはそう言って、棺の中の、薄くおしろいの塗られた頬を指で撫でた。

「ホロ」

 扉の向こうから、物悲しげな鐘の音が聞こえてくる。

 ある、よく晴れた冬の日のことだった。



 ◇◇



 昼食の残り香が漂う食堂に、湯船のほうから穏やかなリュートの調べが聞こえてくる。

夜が明ける前から働きづめで、ようやく一息つけたのは午後も遅くなってからのことだった。

「秘湯の地、ニョッヒラ。されど、夢見心地なのは客だけか……っと」

 湯屋“狼と香辛料”亭の主人ロレンスは、首を傾けてごきりと鳴らした。苦労の種は、いくらだってある。

たとえばここを利用する客のほとんどは高位の聖職者たちで、彼らは基本的に我儘だ。どうしても早朝の祈りを捧げたいと言われたら、はいと答えざるを得ない。そのために聖典を用意したり、燭台の蝋燭の長さを切り揃えて火をつけたり、祈りを捧げる際に床に膝を突いても痛くないようにと毛織物を敷いたりもしなければならない。

 彼らがこちらの苦労も知らずにおお神よと祈っている間に、湯船の掃除に取り掛かる。昨晩遅くまで湯につかっていた連中がそのまま放置している食器類を下げ、ごみを捨て、湯に浮いている落ち葉を掻きだし、母屋から湯船までの凍りついた道を溶かすために湯をかけて回る。たまには、こっそり湯につかっている獣連中を追い出すこともある。

 そうこうしていると、炊事場の煙突から煙が上がり、新たな戦いが始まる。朝食の準備だ。聖職者ならば朝食は質素に簡単に、という考えなどまるで無い。寝る寸前まで飲み食いし放題の客は、朝飯もたっぷりと要求する。

 一人で三人分の仕事をこなす才女である料理担当のハンナの横で、ロレンスはひたすらに食器を洗っていく。湯屋の主人が皿洗いなど、と言っている場合ではない。普段はこうした下働きをやってくれる人材が二人もいなくなってしまったので、背に腹は代えられなかった。

 それからは五月雨式に朝食を摂りにやって来る客の相手をし、湯船に向かう客に手ぬぐいや羽織るものを用意し、楽師や踊り子の面々がやって来たらその差配もしなければならない。湯船が大小いくつかあり、場所によって稼ぎに差が出るため、楽師や踊り子たちが揉めないようにと、誰がどこで芸を披露するかは主人であるロレンスが決めなければならなかった。

 さらに、彼らがより湯船を華やかに演出できるようにと、緑の葉をつけた生木や花、あるいは刺繍の施された天幕といった小道具も準備しなければならない。このあたりをけちるとおひねりが減り、おひねりが減ると楽師たちは別の湯屋に行ってしまう。音も踊りもない湯屋ほど寂しい場所はない。もちろん、踊り子たちを冷たい濡れた石の上で踊らせるわけにはいかないので、前日の内に暖炉の火で乾かしておいた毛織物を敷いておくのも忘れてはならない。

 そして、最後の朝食の皿を片付け終えるのとほぼ同時に、気の早い客の昼飯を並べなければならない。

 まるで土砂降りの雨を全て鍋で受け止めようとするかのような仕事量に、徒労感に襲われることもままある。しかし、とにかく必死にこなせばいつかは終わる。

 それに、この大騒ぎももうしばしの辛抱のはずなのだ。

「ご苦労さまでございます」

 ロレンスが静かになった食堂の片隅に腰を下ろして一息ついていると、娘と呼ぶのは微妙に失礼にあたるようなハンナがやってきた。恰幅が良いわけではないが堂々とした雰囲気で、朝からの大騒ぎにも疲れた様子一つ見せていない。十人の子供を女手一つで育てていると言われたら、うっかり信じてしまいそうだ。そのハンナが持つお盆には、たっぷりの煮豆と厚切りの燻製肉、それに葡萄酒が載っていた。まだじうじうと脂が爆ぜている燻製肉には、たっぷりのニンニクと芥子が添えられていて、冒涜的なまでに良い匂いがする。ロレンスは唐突に朝からなにも食べていないことを思いだし、唾を飲んだ。

「ハンナさんこそ、今日もご苦労様」

 とはいえ湯屋の主人のこと。食事にがっつく前に、感謝の言葉を忘れない。ハンナはそういうロレンスの如才なさに気がついているのかいないのか、食器を並べ、器に葡萄酒を注いでくれた。スプーンで煮豆を掬って口に運ぶと、きついくらいの塩気が疲れた体に嬉しかった。

「急に二人も人手がなくなって、私は構いませんけどね、旦那さまに倒れられたら元も子もありませんよ」

 塩辛い食べ物を葡萄酒で流し込む贅沢に打ち震えつつ、燻製肉を切り分けて一切れ頬張った。

 旦那さま、という呼ばれ方にも、ようやく慣れてきた。

「もちろん新しい使用人を雇うつもりですが、この騒ぎも長続きしないでしょう。山の下では、そろそろ春がやってくる頃ですし」

「あらあら、もうそんな時期でした? 山の中は冬が長すぎて、季節の移ろいを忘れてしまいますねえ」

「ハンナさんは、春を心待ちにする、というわけでもありませんか」

 雪が深々と降り積もる山の中でなくとも、冬という季節は忍耐という言葉と同義だ。

 人も動物も木々もなにもかも、春の解放を夢見ながら、身を縮めている。

「そうでもないんですけれど、春になると皆さん下山して、夏までしばらく湯屋が暇になるでしょう? それがちょっと憂鬱ですねえ」

 腕を組み、頬に手を当てながら遠い目をするハンナに、ロレンスは苦笑する。忙しく立ち働くのが生きがい、というのはロレンスも同じはずだったが、ハンナは別格だ。使用人としてはこれ以上ないほど心強い存在でありつつも、人並みに春の解放感を楽しみにし、最近は以前ほど無理の利かなくなった体のために春の一休みが恋しい身としては、ハンナの言葉は少し耳が痛かった。

 その一方で、無駄を嫌う行商人上がりの身としては、越冬と避暑の間の余りにも閑散とした時期が靴の中の小石のように気になっていた。その間も多少の客が呼べれば、一休みしつつ仕事をこなして稼げるのだが、なかなかうまくいっていない。

「それはそうと、奥さまはまだお休みに?」

 昼もとっくに過ぎているのだが、この湯屋の女主人の姿はない。

 ロレンスは煮豆を口に運び、自分へのご褒美として輸入物の高価な葡萄酒を飲み、燻製肉にたっぷり芥子を載せて噛みついてから、言った。

「あいつは春が待ちきれない類ですから」

「あらあら」

 ハンナは小さく笑って、「夕食の下ごしらえをしてきます」と炊事場に戻って行った。

 ロレンスはそれからゆっくりと食事を続け、食べ終えたら食器を自分の手で洗った。そのついでに小さな酒樽に葡萄酒を詰め直して、湯屋の二階の自分たちの寝室に向かった。

 日中はほぼすべての客が湯船のほうにいるので、建物内はひどく静かだ。扉を開けて寝室に入ると、開け放たれた木窓の向こうから、湯船の騒ぎがかすかに聞こえていた。

「おい、いつまで寝てるんだ?」

 ベッドの上の膨らみに声をかけても、うんともすんとも言わない。ずいぶん小さく丸まっているのも、開け放たれた木窓を閉じる労すら取りたくない、ということなのだろう。

 呆れてため息をつきつつ、ロレンスが羽ペンと紙束の置かれた机の上に葡萄酒を置いてもなお反応がなかったので、少し心配になる。

「ホロ?」

 声をかけても身じろぎ一つしない。ロレンスはベッドに歩み寄り、そっと毛布をめくってみる。露わになるのは、齢十余といった頃の少女の寝顔だった。普段はなるべく若く見られないようにと髪形や服装を工夫しているのだが、こうしていると幼さすら感じさせた。貴族のような長い髪の毛を有し、染みひとつない珠のような肌は、生きる糧を得るための辛い仕事とは無縁に見えた。目を閉じ、微動だにせず、静かにそこに横たわっている様子は、あらゆる苦痛や苦悩から解放されているようだ。死ぬならばこんなふうに死んでみたいものだ、と思わせるほど安らかな顔、というのが一番近いかもしれない。

 ロレンスがその頬にそっと指を這わせると、少女の耳がぴくぴくと動く。それも、ずいぶん大きく、尖った耳だ。亜麻色の髪の毛よりも一段濃い色の毛に覆われた、三角の耳。それは一言で言えば獣の耳であり、頭からぴょこんと生えている。なんとなれば、腰からは立派な毛並みの尻尾まで生えている。ホロは見た目どおりの年若い少女ではなく、その真の姿は人を軽く丸呑みにできるほどの狼であり、麦に宿り数百年の時を生きる精霊の類だった。

 それがなんの縁か自分の嫁に収まった幸運を、ロレンスは神に感謝しても感謝しきれない。

 ただ、日々の生活というものはおとぎ話のようにいきはしないのだ。

 一向に変化のない寝顔と違い、右に左にとやや忙しない耳を見て、ロレンスはため息交じりにこう言った。

「飯を食べたかったら、起きて食堂まで下りて来い」

 その一言に、ようやく寝顔が変化を示す。目を閉じたままさらにぎゅっと目をつぶり、横向きに丸まっていた体をさらに縮め、耳がふるふると頭の上で震えている。毛布の下ではきっと、耳と対になる獣の尻尾も、震えていることだろう。

「くぁっ……あふ」

 最後にそんな間抜けなあくびをして、ホロがうっすら目を開く。

「起きたくありんせん……」

 そして、か弱い深窓のお姫様みたいな我儘を口にする。

「ここのところ毎晩……遅くまで寝かせてもらえぬからのう……」

 ちらりと向けられた目は、少しだけ非難がましい。

 とはいえ、ホロの言葉は間違いでもない。

「そこは……まあ、感謝している」

 ロレンスは言って、腰をかがめてホロに顔を寄せた。

「しかし、眠り姫もこれで起きるはずだろう?」

 頬に口づけをすると、ホロは目を閉じてくすぐったそうに耳をひくひくとさせる。

 同じ屋根の下で十年も暮らせばさすがに飽きるかと思ったが、そんな気配はみじんもない。

 幸せなことだ、と一人笑うと、ホロもまた笑っていた。

「まったく、たわけじゃのう」

「毎晩のお勤めに疲労困憊なのはわかるけどな、いい加減起きてくれ。繕い物の仕事がたまってるんだ」

 ロレンスが現実的な話をすると、ホロも諦めたらしい。最後に大あくびをして、ごそごそと毛布から這い出した。他の仕事をやらせると不満たらたらだが、針仕事は意外にホロの性にあっているらしく、仕事も丁寧だ。

「くうっ、寒い!」

「ほら、羽織っておけ」

 寒さに身震いしているホロに毛織物のローブを着せ、葡萄酒を軽く注いで器を渡す。

「少ない」

 子供のような一言も軽くかわす。

「飲むにしても飯を食べてからだ。女主人が昼から酔っぱらってたら体裁が悪いだろ」

「相変わらず固いのう」

 ホロはぶつくさ言いながら、葡萄酒をすする。

「それで? 昨晩はどうだった?」

 ホロの小さな背中に恭しく手を回し、姫を案内するかのように寝室から出て、ロレンスは尋ねた。

「ぬしは最近すぐ寝てしまうからのう」

 ホロが肩を軽くぶつけてきて、抗議の意を示す。

 ロレンスはやや身をかわしつつ、咳払いをした。

「そっちのことじゃない」

 そして、付け加える。

「そっちはまあ……その……頑張りたいところなんだが……」

「くふ。今は忙しい時期じゃからな?」

 たっぷりの含みに怖いものを感じつつも、ロレンスはなにかを約束するかのように、ホロを軽く抱きしめておいた。

「それで昨晩の山の見回りじゃが、まあ大丈夫じゃろう。危なそうなところは全部雪を崩しておきんす」

「そうか。ご苦労様」

 ここのところ雪が降り続き、しかも日差しは春の到来が近いため、雪崩が心配だったのだ。

 この頃は下山する人々で山道の交通量も増えている。だから、ここ数日はホロが夜中に狼の姿に戻り、山の要所を見回っていた。

 とてもではないがロレンスにどうこうできることではなく、ホロに任せっぱなしなのが心苦しい。一応の気休めとしては、ホロはホロで狼の姿で山を走り回れるのがよい気晴らしになっているようだったこと。それと、深夜と明け方の隙間に戻ってきて、冷え切った体のまま誰もいない湯船に飛び込むのもちょっとした楽しみらしいことだった。

「客が帰りきるまでしばらく夜は大変だが、よろしくな」

「構わぬ。この湯屋は、来る時も帰る時も笑顔なのが売りじゃからな」

 湯屋の経営は、一人でなにもかもをこなす行商とは違う。それを大変だと思うこともあるが、こうして力になってくれる存在がそばにいれば、その大変さは大きな喜びに変わる。ロレンスが笑顔で頷き返すと、ホロもまた、少女のように笑っていた。

 それから一階に到着すると、ホロはもそもそと薄手の毛織物を頭にかぶる。客の誰も彼もが四六時中酔っ払っているので大丈夫そうな気もするが、ホロの耳を見られるわけにはいかない。ニョッヒラでホロのことを知っているのは、この湯屋の者だけだった。

 食堂に入ると、足音を聞きつけていたのかハンナが頃合よくホロのための食事を持ってくる。量はさほどでもないが、豆と肉の比率が自分の時よりもたっぷり肉に偏っているのを見て、苦笑した。まだまだ若い自覚がありつつも、寝起きにこれだけの肉を食べるのはさすがにしんどいだろう。

 麦に宿る狼の化身であるホロと自分とでは、寿命に大きな差があるというのはとっくの昔に覚悟していた。しかし、少しずつその事実を目の当たりにする機会が増えている。

 頭で理解するのと、体験するのとではまた話が違う。

 そう思うたびに、もっと毎日を噛みしめよう、と思い直す。

「それに、ぬしよ」

「ん?」

 おてんばな少女そのままに、肉をうまそうに平らげるホロの様子を眺めていたら、そのホロがおもむろに言った。

「大変なのはぬしのほうじゃろう。人手が足りなくててんてこ舞いではないのかや」

「ああ、それはまあ、大丈夫だ。忙しいのももう少しだろうし、なによりコルには少し甘えっぱなしだったからな。旅に出たいと言われたら、引きとめられんよ」

 十年以上前、ホロと出会ってあちこちで騒ぎに巻き込まれながら旅をしていた時、一人の少年、コルと出会った。当時は神学を学ぼうとする放浪学生で、年若い少女の見た目のホロよりもさらに若かった。

 それも今や当時の自分と同じくらいの青年になったのだ、と思うとロレンスは時の流れに恐ろしいものを感じてしまう。

 同時に、紆余曲折はありながらも、聖職者になるという目標を抱いていたコルに、ずっと湯屋で働いてもらっていることは少なからずしこりになっていた。

 そのコルが、ある日湯屋にやってきた者から聞いた話にいてもたってもいられず、ついに決心して旅立ちの許可を求めてきたのだから、応援する以外の選択肢などなかったのだ。

「しかし、春まで待ってもらえばよかったか……とも思うのは事実だが」

「ふむ。むぐ、むぐ……んぐ。まあ、コル坊も変に真面目じゃからのう。旅立ちの時期を見ていたら、またいつまでもぐずぐずしてしまったじゃろうよ。思い切りよく送り出したぬしの考えは、間違っておらぬと思いんす」

「そう言ってもらえると気が楽だ。なにより、前途有望な若者の邪魔になってはな」

 自分も錫製の器に葡萄酒を注いでいたロレンスの、殊更年寄りめいた物言いにホロは小さく笑っていた。

「とはいえ、まさかそれにかこつけて駆け落ちするとは思っていなかったんじゃがのう」

 がた、がちゃん! と錫製の器と葡萄酒樽が倒れ、長机の上に葡萄酒がさあっと広がった。

 ロレンスは葡萄酒のように溢れた自分の動揺を、必死に取り繕おうと器と樽に手を伸ばしたが、覆水は盆に返らない。音を聞きつけたハンナが布巾を手にやってきたが、ホロはその間、ずっと笑いっぱなしだった。

「くっくっく。ぬしは本当にたわけじゃのう。いい加減認めたらどうかや?」

「な、なんのことだ」

 ハンナの手伝いをするロレンスの声音は硬いままだし、ちらりとロレンスを見たハンナの顔にさえ、苦笑に似たものが浮かんでいる。

 ひとしきり葡萄酒を拭き終わり、ロレンスが椅子に座ると、ホロはナイフの先を小さく振って、ロレンスに向けてきた。

「コル坊はいい雄ではないかや? それでここを引き継いでくれたら万々歳だと思うんじゃがのう」

「ぐっ……」

 ホロの理屈は百も承知だし、確かにそのとおりだと思う。

 しかし、理屈でわかっているのと、実際にそういう現実を突きつけられるのとでは全く違う。

 ロレンスは日々、そのことを痛感している。

 しかも話が娘のこととなれば、およそ冷静ではいられなかった。

 そう。ここしばらくの湯屋の切り盛りが目も回るほど忙しいのは、幸いなことに客からの評判が良いだけではない。それは雑事をこなす若者二人が唐突にいなくなったせいで、ロレンスがその穴を埋めているからだ。そのうちの一人とは、件のコル。そして、全く予想もしていなかったもう一人が、ロレンスとホロの一人娘の、ミューリだった。

 旅に出たコルにくっついて、あろうことか一人娘も湯屋を飛び出してしまったのだ。

 その理由は? と問えば、もちろんいくつかの理由が合わさってのことだろうが、その中心にでんと居座るものがなんであるか、わからないはずがない。この村は狭く、湯屋はもっと狭い。誰が誰を好きかなんて、火を見るより明らかだ。

「あいつが結婚など、まだまだ早い」

 それでも精一杯理性に従った反論を述べたと思ったら、ホロのみならずハンナまで笑っていた。男はいくつになっても間抜けだと、女二人で確かめあうような笑い方だった。

「ならいくつになったら、早くないんじゃ?」

「む……う……」

「旦那さま、無理はなさらず」

 ハンナの励ましともからかいとも取れる言葉に懊悩しながら、ロレンスは結局、耳をふさぐことにした。理性でどうにかなることではない。わかってはいる。わかってはいるのだ。娘が生まれた時から、こんな日が来ることは覚悟していたのだから。

「くふ。駆け落ちした相手がコル坊でまだよかったではないか」

「駆け落ちではないだろう!」

 しかし、ロレンスは力強く反論してしまう。ホロとハンナがさらに楽しそうにけらけらと笑う。ロレンスは、他の湯屋の主人たちと酒が飲みたかった。

「大体、好いた相手に言いたいことも言わず我慢して、なんの得があるのかわかりんせん。むしろわっちの娘でありながら、遅すぎるくらいじゃ」

 どうやらホロはホロなりにやきもきしていたらしい。

 とはいえ、思っていることを言わずに抱え込む点では、ホロも人のことを言えた義理ではないはずだ、とロレンスは十年以上前の旅のことを思い出す。もちろん、そんなことを口にしたらどうなるかは目に見えているので、言いはしないのだが。

「教会の連中が多いせいで、その影響かのう」

「教会の?」

 ロレンスが尋ねると、ホロは頭の中から糸を手繰り寄せるように、ナイフの切っ先をくるくると回す。

「ほれ、あれじゃ。連中は今際の際にならぬと大事なことを言わぬ変な習慣があるじゃろう」

「ああ、告解のことか」

「うむ。それそれ」

 死に際して神へのとりなしを求めて、あれこれと司祭に告白することだが、そのほとんどが罪や遺言の類だ。中には狷介固陋の老人がついに秘めたる想いを家族に伝えたり、道ならぬ恋の告白を、なんていう話もあるにはあるので、ホロの思っていることも間違いではないだろう。

「大事なことは、言うべき時に言わねば意味がありんせん、ということじゃ」

 それは確かに、とロレンスも思う。特に自分がある程度歳を重ねてみて、時の流れの早さに慄いたということもある。若者はもっと生き急ぐべきだ。

 ただ、そうは言ってもなお、ミューリにはまだ恋だのなんだのは早いのではないか、とロレンスが思っていると、ホロが唐突に言った。

「孫の顔も早く見たいしのう」

「んな! まっ……!」

 ロレンスは絶句し、息を吸うことも吐くこともできなくなる。絶対に可愛いだろうが、ミューリはまだまだ子供だ。確かに世間的には嫁に行ってもおかしくない年齢かもしれないが、絶対に早い。そうに違いない。世間は世間、うちはうちだ。

 ロレンスが必死に迫りくる現実を押しのけていると、ホロは呑気に葡萄酒を飲んでいる。どっしり構えたホロは、ロレンスとの歳の差なのか、それとも男親と女親の違いなのか。

 コルが旅に出ると言ってあれこれ準備をして下山して、常々この山奥の村の外に広がる世界を見たいと言っていた娘が、どうやらコルの荷物の中に紛れ込んで家出をしたとわかった時もそうだった。

 旅に危険はつきもので、一人娘の身を案じて今すぐ戻るようにと手紙を書くのももどかしく、ロレンスが橇を走らせようとしたのをたしなめたのもホロだった。

 どうにかなるじゃろ、と笑っていた。

 可愛い子には旅をさせよ、という言葉もある。ホロのそんな様子を見ていると、それが正しいのかと思うものの、すべてを呑み込めるわけではない。

 うぐぐ、と唸るロレンスをよそに、ホロは湯船につかっているかのように、目を閉じてしみじみと言った。

「なんにせよ、初めての旅を楽しんでおればよいがのう」

 無責任なようでいて、案じていないわけではない。親としてのおいしいところをすべて一人でかっさらうようなホロに、ロレンスは恨めし気な目を向ける。

 ホロはそんなロレンスに苦笑して、やれやれとばかりに身を寄せてくる。

「すべては移ろう時の中。けれど、わっちだけはぬしの側にいつまでもおる」

 ロレンスより背の低いホロは、綺麗な形の瞳でじっとこちらを見上げてくる。

「それでもなにか不満かや?」

 そう言われたら、返す言葉なんてなにもない。何百年も生きるホロからすれば、目の前にあるすべてのことが、ほんの束の間の旅の一幕でしかない。ホロはそれが辛くて、ロレンスと別れようとしたことさえある。必ず見送らなければならないのなら、傷が深くならないうちに別れようと。そのホロが、別れの辛さよりも、今の楽しさを選んでくれたのだ。

 ロレンスは肩から力を抜き、降参した。

「滅相もございません」

「くふ」

 ホロは小さく笑い、こちらの肩に頭を預けてくる。賢狼と呼ばれたホロの頭にそっと手を置くと、その頭はすっぽり手に収まるくらい小さくて、丸い。

 自分の手に収まる幸せとは、きっとこのくらいが限度なのだ。

 そして、それで十分すぎるのだろう。

「酒のお代わりは?」

 ロレンスが尋ねると、ホロはこう言った。

「ぬしが付き合ってくれるなら」

 かなわないな、とロレンスは笑うしかない。

 ホロの頭に軽く口づけをして、呆れ顔のハンナに空の酒樽を渡したのだった。



2016年5月10日更新の『旅の余白 後編』に続く。
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