※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.54掲載の前半を抜粋したものです。
山奥の温泉郷に湯屋を開き、数えてみれば十余年になる。つまりは、行商人として独り立ちしてからよりも、湯屋の主人として働いていたほうが長くなっていた。
なるほど歳もとるわけだ……と、馬車の荷台の上で仰向けに寝転び、空を眺めていた。
「これ、たわけ、まだ起きられぬのかや?」
そこに、そんな言葉と一緒に毛皮が顔の上にかぶさった。太陽の光をたっぷり含んだ干した藁束みたいな匂いと、煮詰めた蜂蜜のような甘い香りがする毛皮越しに空を見上げると、良く梳かれた綺麗な毛並みがきらきらと光っていた。
「お前が荷馬車を動かしてくれたって構わないんだがな。長年俺の隣で手綱さばきを見てきただろう?」
毛皮の下から返事をすると、わっさわっさと毛皮が動いて顔を意地悪くこすられた。
「わっちゃあヨイツの賢狼ホロじゃ。誇り高き狼が馬の手綱などひけるものではありんせん」
顔の上から毛皮がどかされると、不服気に腕を組んだ少女がこちらのことを見下ろしていた。
亜麻色の髪の毛と赤味がかった琥珀色の瞳。それから、髪の毛と同じ色をした三角の大きな獣の耳と、外套の下で右に左にと揺れているふさふさの尻尾。出会ったのはもう十年以上前なのに、その見た目は昔と全く変わっていない。
ヨイツの賢狼と名乗ったホロは人ではなく、麦に宿る精霊の類いであり、狼の化身だった。
「……なら、もう少し待ってくれ。腰が痛くて……」
「はあ……」
ホロはわざとらしくため息をついて、腕を解くとがさがさと荷物を漁りだした。
「これが雄の勤めの結果ならまだしもじゃがのう」
横目に呆れた目で見られてしまう。
「あの町での祭りはもう何日前のことじゃ? それで御者台に一日座っておったら腰痛で動けなくなるとは、まったく情けないのう」
布袋から大きなパンとバター、それにチーズと蜂蜜まで取り出していた。
「お、おい、いっぺんに食べる気じゃっ……痛っ、つつ……」
どれもついこの間まで逗留していた町、スヴェルネルで、両替商組合からお礼としてもらった品物だった。湯屋を開いているニョッヒラの村の代表として訪れ、スヴェルネルの大きな祭りの手伝いをした。亡者の祭りと呼ばれるそれは、町の広場に放った羊や豚を捕まえ、その場で捌いていくというなんとも豪快なものだった。ロレンスは狼であるホロの助けもあって、並々ならぬ活躍をできたのだが、寄る年波には勝てなかった。
日を追うごとに体の肉と節々が痛み、なんとかまともに動けるようになったかと思って町を発てば、このありさまだった。
「たわけはおとなしく寝ててくりゃれ。わっちはわっちで楽しくやっておくからのう」
そんなことを言って、一抱えもある丸パンをちぎるでもなく、そこに直接バターを塗りつけていく。湯屋では一人娘のミューリや客の目があるのでもう少し行儀が良いが、ここは誰の目があるわけでもない森の側の街道脇だ。
たっぷりバターを塗りつけるや、ホロは大きな口をあんぐり開けて、かぶりつく。
パンの皮が砕けてこぼれるのもお構いなしに、ぱたぱたと尻尾を振って、ご満悦だった。
「ったくもう……」
なにを言っても無駄だと観念したロレンスは、力を抜いて空を眺めるしかない。
そうしていると、ホロは三回パンにかぶりつく合間に、一度くらいはちぎったパンをロレンスの口にも渡してくる。その欠片が随分小さいのは、分け前を与えるのを惜しんでいるのではなく、食べやすいような配慮だと自分に言い聞かせる。
塩をたっぷり利かせたバターのおかげで、小麦パンの甘さがより引き立っていた。
むぐむぐと空を見ながら咀嚼し、飲み込む。天気も良くて、風もない。
こんなふうに過ごすのもまあ、悪いわけではなかった。
「こうしておると、昔を思い出すのう」
小鳥が数羽、草原から森のほうに飛んで行く。その羽音に釣られたように、ホロが葡萄酒の入った皮袋を手にしたまま、ぼんやりと言った。
遠慮会釈なく明るいうちから酒を飲み、酔っぱらっている、というわけでもなさそうだ。
「また、旅に出たいか?」
ロレンスは行商人として、あちこちを巡り歩いている最中に、ホロと出会った。それからはホロの故郷を目指した珍道中で、目が回るような騒ぎに何度も巻き込まれた。
あの頃となにひとつ変わっていないようで、見上げるホロの横顔はやっぱり少し変わっているような気がする。
そのホロが、こちらを見下ろして苦笑した。
「たわけ。そんなわけなかろう」
立ち上がり、スカートにしこたまこぼれたパン屑を払うと、ホロは大きく伸びをする。
辺りの景色を眺めつつ、その口の端は満足げに微笑んでいた。
「わっちゃあ毎日湯に浸かれるあそこが良い。ぬしの作った湯屋じゃ」
こちらを見下ろすと、ホロはにっと牙を見せて笑う。
ロレンスの目が細められたのは、なにも太陽がまぶしかったからではなかった。
「湯に入れば腰痛もたちまち治るだろうしな」
「まったくじゃ。それに、まだ夜は冷えるからのう。野宿になっては困りんす」
太陽が出ている間はぽかぽかしていても、森の暗がりなどにはまだたっぷりと雪が残っている。日が暮れれば恐ろしく寒くなり、ホロの尻尾なしではとても寝られたものではない。
「これで風邪でもひいたら目も当てられないからな。夏に向けて準備しなきゃいけないこともたくさんあるし、なにより新しい人手が来る。寝泊まり用の部屋の用意と、仕事の割り振りも考え直さないとならない。さっさと帰って取りかからないと……って、どうした?」
やるべきことをあれこれ確認していたら、ふと、ホロに睨まれていることに気がついた。
怒っているのとは違う、痒くても掻けない足の指の霜焼けを見つめているような顔だった。
「なんでもありんせん」
そして、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
しばらくそんなホロのむくれた横顔を呆けたように見ていたロレンスは、ようやく気がついた。それから、苦笑してしまう。
「なあ、まだ納得してくれてないのか?」
ホロは、ちらりとも視線を向けてこない。
「なんの話じゃ」
挙句に、とぼけてみせる。
「まったく……」
ため息をつきつつ無視もできないのは、ホロのそれが半分は冗談にしても、もう半分は本気だろうからだ。この間のスヴェルネルのお祭りの最中、自分たちは思いもかけない連中と出会った。それは温泉郷であるニョッヒラと直接の商売敵になりそうだと話題になっていた者たちだったのだが、その正体がなんと、人ならざる者だった。しかもよりにもよってというべきか、鳥でも兎でも羊でもなく、狼なのだ。
南の地で傭兵をしていたという彼らは、偶然手に入れた特権状を手に、この地に安息の地となる温泉郷を作るべくやってきた。それが案の定というか、その特権状に起因する面倒事が起こり、ロレンスは彼らの問題解決に手を貸した。
丸く収まり万事めでたし、と思いきや、丸く収めた際に切り取った角のことを忘れていた。
どうしても彼らの内の一人は、別の場所で暮らす必要に迫られてしまったのだ。
だが、ちょうどそこに居合わせた湯屋の主人は、それまで湯屋を支えてくれていた生真面目な青年と、悪戯ばかりだがそれなりに手伝いもこなしてくれていた一人娘が旅に出てしまい、人手に困っていた。ならば湯屋に雇えば一石二鳥となる。
問題はと言えば、その人物が、見た目に若い娘だったこと。それと、その娘が狼の化身だということも、ホロにはなにか思うところがあるらしい。
かといってホロには、雇うことになった娘、セリムを追い払うこともできないのだ。そうすればセリムは行くあてがなくなり、南から共に旅をしてきた兄たちとは遠く離れて暮らすことになってしまう。人ならざる者が一人で見知らぬ町で暮らすのは大変なことだろうし、孤独については人一倍敏感なホロなのだ。セリムを雇うことそのものには反対しないのだが、狼らしい縄張り意識が、理性の裏側を爪で引っ掻くらしかった。
「今更若い娘が来たところで、なにかあるわけもないだろう」
何度かそう言ってみせても、ホロは心底のところでは納得しきっていない。
「たわけ。そんなこと心配するはずがありんせん」
ホロは言ってのけるが、いくらかはそういう理由があるとわかっている。自分がどれほどホロのことを大切にしているか、ロレンスは滔々と語ってみせたいところだ。そもそもが、谷を二つ越えた山向こうに落としてきた手袋を匂いで探し当てるような狼のホロと、一つ屋根の下にいるのだから隠し事ができようはずもないことは、誰よりもホロがよく理解しているはず。
だから、理屈ではなく感情のこと。
ロレンスはそんなホロを見て、可愛いなと思う。
賢狼ホロも、自分にだけは間抜けな姿を見せてくれるのだと。
「……なにをにやにやしておるのかや」
底冷えのする目で睨みつけられ、目を逸らす。
この季節にホロを怒らせたら、寒い夜に一人で寝る羽目になってしまう。
「なんにせよ、セリムさんを迎え入れる頃には、夏の忙しさが待っている。あれこれ考える暇なんてないさ」
「……」
ホロはむくれたまま返事をしない。いつもならばそんなホロを抱きしめて、どうどう、と機嫌を取るところなのだが腰痛でそれもままならない。やれやれと思っていたら、ホロは獣の耳と尻尾を落ち着かなげに動かしながら、遠くを見つめていた。
「わっちが心配しておるのはそんなことではありんせん」
そして、ホロには珍しく、口の中でもごもご呟いたかと思うと、外套のフードをかぶり直していた。なんだろうかと思ったら、遠くから微かに赤ん坊のむずかるような声が聞こえてきた。
こんな街道で赤ん坊? と首を捻れば、遅れて独特の鐘の音が聞こえてきた。
ホロがご機嫌斜めになったのは、彼らの存在にいち早く気がついてたからかもしれない。
狼であるホロとは相いれない存在。
羊飼いだ。
「たわけ」
ホロは誰に呟いたのかわからない言葉を残して、毛布を頭からかぶってふて寝してしまったのだった。
かろん、ころん、という少し籠もったような音をさせながら、杖の先端にくくりつけられた羊飼いの鐘が揺れている。彼らはその杖を身分の証に、町の外で羊を育てるのだ。
日がな一日移動を繰り返し、羊が逃げたり野犬に襲われたり、あるいは盗まれたりしないようにと夜もろくに眠れない過酷な職業だと聞いている。その上、町には時折しか戻らないために、町の人々からは余所者として扱われることが多い。
それどころか、普段の仕事姿を滅多に人に見られないために、誤解を受けることも多い。獣の言葉を解し、情を通じ、神をも畏れぬおぞましい行為に耽っているなどという偏見に晒される。昔、旅の途中で知り合った羊飼いの娘も、そうだった。
そんな彼らの頼れる相棒は、大抵が一匹の牧羊犬だ。羊の群れをまとめあげ、時には主人と共に盗人を追い払い、あるいは、羊を狙う狼と戦う。狼の化身であり、羊肉には目がないホロからすれば、羊飼いほど相性の悪い相手はいない。
ふて寝してしまったのは、羊飼いの相手はお前がしろ、ということなのだろうとロレンスは理解した。腰痛を堪えて体を起こしたのだが、そこから見えた光景に目を擦った。
なんとも奇妙な様子だったのだ。
「神の御導きに感謝します! 旅の方よ!」
羊飼いが少し距離を開けたところで立ち止まり、大きな声で叫んだ。続いて牧羊犬がわんと大きく吠えると、羊の群れが動きを止めた。結構な数がいて、十や二十ではない。大所帯だ。数もさることながら、体の下半分を泥だらけにした羊たちは丸々と太っていて、いかにも健康そうだった。羊飼いの腕が良い証拠だろう。
元気いっぱいに好き勝手鳴きまくる羊の群れを前に、白髪交じりの山羊髭を生やした気のよさそうな羊飼いが立っている。
なぜかその肩に、牧羊犬を担いだままで。
「私は羊飼いのホラッドと申します!」
牧羊犬は栗色の長い毛並みで、肩に担いでいるとホラッドの髪のようにも見えてしまう。
ホラッドと名乗った羊飼いは顔に深いしわが刻まれるような年頃の男なので、なんともその按配が奇妙だった。
「私は行商人……ごほん。私はニョッヒラにて湯屋を営むクラフト・ロレンスと申します! なにかご用でしょうか!」
羊たちの喚き声に負けないように声を張り上げると、ホラッドは返事をもらえただけでも感謝するように、深々とうなずいた。
「まことにここでロレンス殿とお会いできたのは神の御導き! もしも我が身を憐れんでいただけるならば、スヴェルネルまで乗せて行ってはもらえないでしょうか!」
ホラッドはそう言って、揺する ようにして肩の上の牧羊犬を担ぎ直している。牧羊犬はおとなしく担がれたまま、油断なく羊の群れを見張っていた。
「私たちはそのスヴェルネルから来て、これから北に戻るところなのです!」
スヴェルネルからここまでは、ちょっとした距離がある。日暮れまでにはたどり着かないだろう。この季節に野宿をしたくなければ、このまま北を目指して、街道沿いの旅籠にたどり着くしかない。
「おお……そうですか……」
同じ方向への相乗りならば、という期待があったのだろう。
ホラッドは落胆して、肩の上の犬が危うくずり落ちそうになった。
「どうかされたのですか!」
羊飼いが旅人に話しかけることがないわけではない。羊飼いにはなにか魔術的なところがあると信じられているから、道中の加護を願い出る者たちがいるし、自ら申し出て小遣い稼ぎをする羊飼いもいる。
しかし、ホラッドはそんな感じではなかったし、なによりも肩に牧羊犬を担いでいる羊飼いなど、初めて見た。
「実は、我が相棒が尖った石を踏み抜いてしまい、歩けないのです!」
その言葉で、ようやく気がついた。ホラッドの肩に担がれている牧羊犬の右前脚には、布が巻かれていた。
「それは……」
自分もかつては町の中に住まず、道の上に生きる行商人だった。その時の、唯一と言っていい話し相手の荷馬が怪我をしたらどう思うだろうか。
息がつまり、視線を荷台に落とした。
そこでは、狼の化身が毛布をかぶってすねている。
「ホロ」
やり取りはすべて聞こえているし、こちらの気持ちは口調から伝わっただろう。
雪がまだ残り、道は雪解けと凍結を繰り返して泥だらけ。そんな折りに街道のど真ん中で頼みの綱の牧羊犬が怪我をして、歩けなくなってしまった羊飼い。
見捨てられるはずもない。
「野宿になるかもしれないが……」
毛布の上から、やや躊躇いがちに、手を乗せた。牙を剥いた獰猛な狼が飛び出してくることもなく、毛布を膨らませているふさふさの尻尾が揺れたかと思うと、言葉が返ってきた。
「寒かったら暖かくしてくれるんじゃろうな」
ホロ流に言い直せば、スヴェルネルで買いこんだ蒸留酒を飲んでもいいか、ということだ。
「酔い潰れて寝込んだら、その後の世話も引き受けよう」
「ふん」
ホロの鼻を鳴らす音がして、交渉成立だ。
「ホラッドさん!」
その名を呼ぶと、相棒の足の様子を気にしていたホラッドが顔を上げた。
「お力になりましょう!」
すると、たちまちホラッドは笑顔になった。
「ありがとうございます!」
「それで、町までお送りすればよろしいのですか!」
足元でホロはわざとらしく両耳を押さえていたが、いよいよ喧しくなる羊たちの鳴き声のせいもあったろう。
「いえ、今そのことを考えていたのですが、一晩以上かけて町まで送っていただいても、私はお礼ができません!」
そんな水臭いことを、と言いかけたとき、ホラッドは続けた。
「代わりに、少しだけ、羊を見ていてもらえませんか!」
「羊を?」
思わず独り言のように呟いて、聞き返してしまう。
まさかその間に相棒を担いで走って町まで行くとでも言うのだろうか。
「そっちに、仲間がいることを思い出しました!」
ホラッドはそう言って、ロレンスの後ろのほうを指差した。
まさか山賊が裏側に回り、挟み撃ちにする罠なのではと背筋に冷たいものが走ったが、それならホロが気がつかないはずもない。我が最強の番狼は、毛布の下で不満げに耳を押さえて頬を膨れさせている。
「この季節は炭焼き小屋に知り合いの炭焼きがいるはずなのです! そこに相棒を預けてきますので、それまで羊を見ていて欲しいのです!」
どれだけ腕利きの羊飼いでも、森の中にこれだけの大所帯を連れこんで無事に済むはずがない。ただ、それならば次の旅籠に向かっても日暮れに間に合うかもしれないし、羊を見ていることくらいならできるだろう。
「わかりました!」
ホラッドはほっとしたように笑い、羊の群れをかき分けて近づいて来た。
栗色の毛をした牧羊犬は、不安そうに羊の群れを振り向こうとしている。
諦めてこちらを見ると、目は理知的な、深い焦げ茶色だった。
「ロレンス殿に神の祝福がありますように」
「いえ、なんにせよもうしばらくここに留まるつもりだったのです」
「それは……」
荷台の傍までやって来たホラッドは、ホロに気がついて得心したようにうなずいていた。
「遠目には、てっきり小僧連れかと思いましたら、飛んだ邪魔を……」
「誤解です。この間のスヴェルネルでの亡者の祭りに参加して、腰を痛めてしまって休んでいたのですよ」
ホラッドはぽかんとこちらを見つめ、笑っていいものかどうか困ったようにしていた。
「それとホラッドさん」
と、ロレンスは言った。
「私が羊を連れて逃げるかもしれないとは思わないのですが」
ホラッドは曖昧な笑みを消すことなく、青味の強い瞳をこちらに向けてくる。
どんなに辛い毎日でも、そんな顔をして、夕日を眺めているかのような雰囲気だった。
「不思議なことですが、毎日羊を見ていると、なぜか人を見る目が養われるのです」
ロレンスは肩をすくめ、うなずいた。
「それに、道は泥だらけで、森は雪だらけ。あっちの草原は綺麗に雪が残った草原です。少なくとも春が来るまでは、ロレンス殿のことをどこまでも追いかけられます」
そのとおりだ。
「では、しかと羊をお預かりします。水は? 葡萄酒もありますよ」
「ありがたい。水だけもらえますか」
荷物から皮袋を取り出すと、ホラッドはロレンスに断ってから、荷台に相棒を下ろして水を飲んだ。それから、手に水を乗せ、相棒にも飲ませる。牧羊犬は尻尾を振りながら主人の手から水を飲んでいたが、ちらちらと毛布の下のホロの様子を窺っていた。
「では、行ってまいります。さほど遠くないので、羊がいなければすぐ戻って来れるはずです」
肩に再び相棒を担ぎ直したホラッドは、そう言った。
「炭焼き職人が不在だったり見つからなかったら、これも神の御導きと思って、スヴェルネルまで同行しましょう」
ホラッドは眩しそうにこちらを見て、頭を下げた。
そして、森の中に迷いもなく分け入っていく。
「さて」
ロレンスは呟き、荷台に立てかけられた、羊飼いの杖を手に取った。
「短い時間とはいえ、これだけの数をまとめられるかな……」
めえめえと鳴き喚く羊たちは、見張りのホラッドとその相棒がいなくなった途端、箍がゆるんだ樽のように、早速ばらばらになろうとしている。
ロレンスは立ち上がろうとして、体中の節々の痛みにうめき声を上げた。
「ううぐっ……くそっ、まったく」
しかし動かしているうちに多少はましになるはずだと信じて荷台の縁に手をかけたら、さっと杖を奪われた。見やれば、ホロがむすっとしたまま杖を手にしていた。
「ぬしは本当に嫌味じゃな」
「ええ?」
「わっちゃあ食っちゃ寝ばかりのたわけではありんせん。わっちゃあ、ぬしのなんじゃ?」
行商時代、ホロからそんな質問をされて、ロレンスは言葉に詰まった覚えがある。
足元ばかりを見て歩き、小銭が落ちていたら神の御恵みだと本気で考えていたような頃の話だ。目の前にある巨大な宝石のことが信じられなくて、手を伸ばすのが怖かった。
だが、今ならばはっきり言える。
「俺の可愛い自慢の嫁さんだよ」
ホロは目を見開き、耳と尻尾をばたばたと音がするくらいに振る。
「たわけ」
「そうでしょうとも」
ホロは身軽に荷台から飛び降りる。小柄で華奢なせいで、羊飼いの杖がずいぶん大きく見えるが、それはそれで趣がある。
ただ、威勢よく外に降りたホロは、そのまま羊をまとめ始めるのかと思いきや、急に振り向いて車輪に足をかけ、荷台の上に身を乗り出してきた。
「なんだ、どうした?」
がさごそと荷物を漁るホロは、真剣な顔でこう言った。
「尻尾が泥で汚れてしまいんす! 尻尾用の服があったじゃろう!?」
ホロもこの数年でいくらか変わった。
多分、甘やかした自分のせいだろうなと、口には出さず、ロレンスは思ったのだった。
2017年3月10日更新の『狼と羊の毛づくろい≪後編≫ 』に続く。
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