※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.55掲載の前半を抜粋したものです。
仲間が山道で滑落した時から、神の試練は始まっていたのだろう。幸い、その時は大事に至らなかったが、折からの長雨でがけ崩れがあちこちで起き、山の奥深くで立ち往生したりした。
近隣の村で雇った馬子は、しばらくの間は威勢が良かったが、月夜に狼の鳴き声が聞こえたあたりから様子がおかしくなった。ある日の昼ごろ、昼食の足しにと茸を取りに行ったまま、行方をくらませた。
我々は、狼の遠吠えが頻繁に聞こえる深い山の中に、置き去りにされたのだ。
幸い、道から外れているということはなかったので、とにかく前に進めばどうにかなる。神の名を唱えながら、加護を信じてぬかるみを歩き続けていた。
だが、食料が尽きはじめる頃になっても、鬱蒼とした木々の向こうに明かりは見えなかった。雨も多く、何度も巨木の下や崖下で天幕を張り、まんじりともせず苔に水が落ちる様を見つめていた。
いよいよかもしれない、と思ったのは、長雨が三日続いた時だった。
咳をしている者が多いのは、天幕の下が茸の苗床と変わらないからだろう。たっぷりの脂を引いたなめし革の外套でさえ、水を吸ってふやけ、立派な黴が生えている。我々はこの外套のように、この森の中で塵に還るのかもしれなかった。
もちろん、神の名の下に仕えてきたのだから、死ぬことは怖くない。与えられた己の使命を、しっかりと果たしてきた自信はある。
それに、最後の調査がかの有名な温泉郷、ニョッヒラだったのは悪くないことだった。
かつて戦乱の嵐が吹き荒れていた時代でさえ、ただの一度も戦火に見舞われなかった土地であり、笑いと音楽が絶えないという評判に負けない賑やかさだった。あの雰囲気に酒が入りでもすれば、なるほど、湯けむりと相まって、目の前に仇敵がいたとしても気がつかないだろう。
だが、それゆえに不逞の輩が逃げ込むには好都合とも言える土地だった。
しかもニョッヒラの土地には毎年、南から高位の聖職者がこぞって湯治に訪れる。彼らのような偉大なる神の僕を狙い、邪悪な意図を隠した何者かが、湯に異端の思想を溶け込ませていないとも限らない。
我々は教皇庁の命を受け、十数年ぶりにニョッヒラの地を訪れていたのだ。
そこの賑やかさは相変わらずで、放蕩と悦楽の園だった。
名誉ある大司教が、鼻の下を伸ばして踊り子を追いかけ回す様など珍しくもない。朝から酒を食らい、昼も食らい、夜も食らい、ようやく次の朝頃に眠るような者たちもいた。彼らの不品行には呆れつつ、自分たちの使命は異端の摘発であって、堕落の監視ではない。
我々がかの土地を訪れたのは秋も深まる頃で、冬の間逗留した。仲間は村の湯屋に散り、その湯で、食堂で、神を冒涜する者が謀をしていないかと目を光らせていた。そう、我々は異端審問官なのだから。
自分が割り当てられたのは、十数年前に来た時はまだ存在しなかった湯屋だった。
山奥や、孤島の村というのは、変化を嫌う。ニョッヒラもまた、例外ではない。表向きは湯を掘り当てさえすれば誰でも店を構えることができる、とは言われているが、めぼしいところはとっくに掘り尽くされている。その規則は事実上、既得権益を守るための障壁だった。
もう長いこと新しい湯屋などできていないはずだったので、村に新しい湯屋ができていると聞いた時は驚いたものだ。しかも、随分繁盛しているという。
事前の調査では、魔術を使って湯を掘り出し、客をたぶらかしている、という噂も確認された。成功した新参者には必ず付きまとう風評ゆえに、真に受けることはないが、ことはニョッヒラである。
その湯屋の逗留には、不肖の私が選ばれた。神の名の下に、真実を明らかにしようとはりきった。しかし、そこで見たこと、聞いたことは、私の心を多いに悩ませた。
なぜなら、件の湯屋は一見まっとうなようでありながら、もしもまっとうだとしたらどうしてそれほど繁盛するのか、謎だったのだ。
しかも、その湯屋は随分山の中にあり、村の外れのさらに外れと言ってもいい。金払いの良い客ほど好む立地であり、同時に湯を掘り出すのはとてつもなく困難な場所であった。
魔法を使って掘り出した、という噂もあながち嘘ではないのかもしれない。
しかも、その客筋も妙だ。
誰の紹介でこの湯に来たのかと湯船で問えば、彼らが口にするのはあちこちの権力者や有力者ばかりだった。どれも、かつて湯屋の主人が行商人をしていた頃の知己だと言う。
さらに調べを進めれば、その湯屋は北の地一帯を急速な勢いで支配している大商会の、デバウ商会とも深いつながりがあるという。
一介の行商人に、そんなことがあり得るのだろうか?
人心を惑わす魔術の使い手なのではないか。さもなくば、どこぞの大国が潜り込ませている密偵なのでは? なんであれ、神の家に仇為す者となれば、教皇庁に上申しなければならない。
そう思い、つぶさに湯屋の様子を見ていたが、やはりわからなかった。
一体あの湯屋に、どんな特別なことがあって人が集まるのかと。
とはいえ、要監視の対象として教皇庁に具申するのは簡単だが、善良なる神の子羊を火刑台に送るようなことがあってはならない。そのせいで、教皇庁までの長い道すがら、結論をどうするか思い悩んでいた。
どうせ時間はいくらでもある。
飽きずにしとしとと振り続ける雨に苔が濡れるのを見つめながら、あの湯屋のことを考えることにしよう。
その湯屋の名は、“狼と香辛料亭”と言った。
水路で川を上るにせよ、陸路を歩いて行くにせよ、最初に気がつくのはその匂いだ。
独特の硫黄の匂いは目に見えそうなほどに濃い。
そして、それに鼻が慣れる頃になると、木々の向こうに湯煙が見えてくる。
そこまで来れば、風向きによっては楽師の奏でる陽気な音色が、かすかに耳に届いてくる。
道を進んで最初に目にするのは、貸し馬屋だ。足が太く毛の長い馬が繋がれ、通りを行く者たちを物怖じせずに見つめている。見慣れた体型の馬も多く繋がれていて、そちらは逗留客が連れてきたものだろう。
馬屋の先には、間口を大きく開いた工房にも思える建物があるが、湯屋への口利き屋だ。間口を広く取っているのは、雪の季節に大荷物の客を中に入れる必要があるからだという。ニョッヒラに仕事をしに来た楽師や軽業師もここで仕事先を斡旋してもらうようで、背の高い女たちが集まって髪の毛をいじり、身軽そうな男が逆立ちをしてうろうろして、芸をさせる小熊に餌を与えている者もいた。神よ、御加護あれ。
そこから先はどこの宿場町でも同じような、旅に必要な代物を扱う店がぽつぽつと並び、やがて村の広場に出る。広場は村沿いの川にある船着き場と一緒になっていて、結構な賑やかさを見せている。
船着き場から降りてくるのは、もちろん客だけではない。湯治に訪れる客が多ければ、それだけの人数をもてなすための大量の物資がいる。まるで戦前夜のような騒ぎで、荷揚げ場には見上げるばかりに荷物が積み上げてあった。
また、その横では鉄籠の中で火が焚かれ、たくさんの鉄棒が火に突き刺さっていた。
なにかと思って眺めていると、村の役人と思しき者たちが積み荷を点検し終わるや、火から鉄棒を抜いて、積み荷に押し当てていた。
どうやら行き違いにならないように、焼き印を押しているらしい。
荷物を受け取りに来るのはそれぞれの湯屋の小間使いだろうが、大人もいれば子供もいて、髪の色や眼の色、顔立ちがてんでばらばらだ。忙しい時と暇な時の差が激しい仕事なので、出稼ぎの者が多くいるのだろう。
湯屋の名を間違える者も多いだろうし、言葉が通じるかどうかさえ怪しい。
焼印は理にかなった方法だと感じ入った。
しかし、それでも揉め事は起こるらしく、なにやら大声で怒鳴り散らしている者がいた。
旅装ではないので、土地の者だろう。積み上げられた木箱を前に、頭を掻きむしっている。
揉め事の内容は聞き取れなかったが、あまり仕事には関係なさそうなので、深入りはしなかった。
そんな広場を離れても、騒がしさは大して静まらない。
あちこちに食堂や木賃宿があり、日も高いうちから多くの者が飲み、食べている。
これが市壁に囲まれた町ならば荒んだ雰囲気になりそうなものだが、そういう感じはない。おそらく騒ぐ者たちが皆、主人の湯治についてきた者だからだろう。彼ら従士は湯屋に泊まれるわけではなく、誰もが入れる村の湯に浸かり、雑魚寝の木賃宿で寝る。
そして、とにかく人数が多いので、食堂は道にテーブルを広げ、屋根も壁もない湯に浸かる者たちは裸で道を渡って酒を買いに来る。
道の隅で固まっているのは、おそらくどこかの大司教か修道院長に従ってニョッヒラに初めてやって来た、新米の僧たちだろう。
僧服の形式がばらばらなので、互いに面識などなかろうが、この混沌の中で唯一、話の通じる相手と思って固まっているらしい。その様子は、丸っきり子羊そのものだった。
彼らの前を通りがかったら、ちょうど半裸の美女の踊り子に声をかけられているところで、目を白黒させていた。彼らが誘惑に勝つことを願って、その前を通り過ぎる。
村の奥に向かうと、段々と人も少なくなり、大きな建物が増えてくる。入口に大きな紋章旗が翻っているところは、貴族が丸ごと借り上げて逗留しているのだろう。
山の傾斜を感じるほどに村の奥に行くと、もはや互いの湯屋同士は木立に遮られて見えなくなる。船着き場の喧騒は、時折聞こえる小鳥のさえずりに代わっている。
喧騒から離れれば離れるほど、湯の効能が高く、格が高い湯屋とみなされるらしい。
なにせ、湯を掘るのも大変なら、その後に建物を構えるのもまた大変で、それだけの資金力を持たなければ到底開業にこぎつけることもできない。
ならば、ニョッヒラの村の中でも、もはや完全に森の中に分け入って、最後にきつい坂を上らされてようやくたどり着けるそこは、よほどの金に支えられているに違いなかった。
建物そのものは質素な感じではあったが、裏手のほうからは賑やかな様子が伝わってくる。
湯屋の前には船着き場の再現のように、あれこれの荷物が積み上がっている。
小麦、塩漬けの肉や魚はすぐにわかる。腸詰もはちきれんばかりに中身の詰まった物が、文字通り木箱から溢れだしている。ずらりと並べられた陶製の甕は南でよく見かけるもので、中身はオリーブの油だろう。恐ろしくわがままな南の聖職者や貴族たちの要望なのだろうが、どれだけの手間と金をかけて運ばれて来たのかを考えると、首を振るしかない。中身が窺えない物も、容器からしてしっかりしているので、中身は諸々の奢侈品、高級品だろう。
そして、それらの積み荷にも、すべて焼き印が押されている。
その紋様は遠目にもすぐにわかり、湯屋の建物の軒先にもあった。
遠吠えをする狼の意匠。
湯屋”狼と香辛料亭”の看板だった。
「あー! なんで数が合わないの!」
と、急に荷物の陰から大きな声が聞こえてきたかと思うと、ぴょこんと小さな頭が飛び出した。
灰に銀粉を混ぜたような、不思議な色合いの髪の毛をした子供だった。
「ねえ、兄様! これ絶対おかしいよ!」
小間使いではなく、湯屋の主人の子供だろう。手にした石板を振り回しながら、湯屋の入り口から中に向かって大声を張り上げる。長い髪の毛なので、娘のようだ。年頃の娘が大声ではしたない、と眉をひそめる間もなく、手近な麻袋の中からなにかを掴んで口に咥えるのが見えた。随分なお転婆らしい。
「何度も数えたけど小麦粉が足りてない! それにこれ、ライ麦の粉が混ぜられてると思う! だから信用ならないって言ったのに!」
まだ背丈は小さくとも、随分な目利きのようで感心する。
粉にしてしまうと、麦粉を判別するのはなかなかに難しい。混ぜられたら尚更だ。
水で練っても、パン屋の職人でもなければ最後まで気がつかないかもしれない。
そんなことを思っていると、別の声が聞こえてきた。
「なんの騒ぎかや。騒々しい」
奥から出てきたのは、少女と瓜二つのまた別の少女だった。
頭にゆったりと布を巻いているが、そこから覗く髪の色は亜麻色で、ほんの少し背も高い。
双子の姉だろうかと思うが、亜麻色の髪の毛をしたほうは、なにか妙な迫力があった。
「麦粉がきちんと揃ってないし、混ぜ物がしてあると思う。あと、兄様は?」
「コル坊なら爺どもに呼ばれて風呂場じゃ。しかし、混ぜ物とはのう」
銀髪の少女は、亜麻色の髪の少女に遠慮するように道を譲る。
亜麻色の髪の少女は麦粉の入っている袋に鼻を近づけていた。
「ふむ。混ぜ物はともかく、数が足りないのは船着き場がてんやわんやなのかもしれぬ。この季節は仕方ありんせん」
「見に行ったほうがいい?」
銀髪の少女が尋ねると、亜麻色の髪の少女は、ぺしんと相手の頭を叩いた。
「たわけ。遊びに行くつもりじゃろうが」
「ち、違うよ……」
「宿で暇しておるのがいくらでもおるじゃろう。荷を運び込ませて、ついでにそやつらに見に行ってもらえばよい」
「え~……。ついて行ってもいい?」
銀髪の少女が言うと、亜麻色の髪の少女が冷たい目を向ける。
銀髪の少女は、狐に見つかった白貂みたいに体をすくめていた。
「それより、あれはなんじゃ?」
と、大量の物資越しに、亜麻色の髪の少女がこちらを示す。
ようやく気がついてもらえたらしい。
「え、誰だろう。私、知らないよ?」
「まったくこのたわけは……」
呆れた物言いに銀髪の少女は不服そうだったが、睨まれると萎縮していた。
随分上下関係がはっきりしているので、瓜二つだが歳の離れた姉妹なのかもしれない。推定するところの姉のほうが随分古風な喋り方なのは、どこか遠い土地からここに嫁いできて、古老から言葉を習ったりしたのだろうか。
そう思ったが、それだと銀髪の少女と姉妹だという推測に辻褄があわない。姉妹揃っての輿入れは、珍しいことだ。
仕事柄、理屈の合わないことは妙に気になってしまう。
そんなことを考えていたら、荷物越しに言葉を向けられた。
「で、ぬしはなんじゃ。たくはつなら間に合っていんす。湯のほうにいくらでもその手の連中がいるからのう」
たくはつ、という言い方が舌っ足らずで、そこだけは妙に可愛らしい。不思議な少女である。
とりあえず、居住まいをただし、切り出した。
「私はグラン・サルガードと申します。こちらに逗留されているバウハ修道院長様の紹介で参りました。一冬お世話になると、院長様からお話がいっているかと」
そう伝えたものの、相手の反応は芳しくない。胡散臭そうな視線を隠そうともしない。
多分、こちらの旅装のせいだろう。裾の擦りきれた長衣の重ね着と、首には保存食と野宿の際の虫除けを兼ねた、大蒜を鈴なりにしたものを首飾りのように下げている。身長ほどもある杖は道中で拾った棒きれで、野犬除けや泥濘の深さを計ったり、洗濯物を干したりと大活躍してくれた。髭も防寒のためにしばらく剃っていない。
そんな具合だから、手の指は爪の間から皺の隙間まで、びっしりと真っ黒く汚れている。
物乞いと見られても仕方ない。
托鉢、と言ったのは、こんな寒い山奥の地方では、物乞いが生きていけないからだろう。
「ふーむ……まあ、いろんな客がおるからのう」
「お部屋が無ければ、私は納屋でも構いません」
「それは大丈夫じゃ。どちらかというと……別のことが心配じゃな」
「別のこと?」
聞き返してから、思い当たる。
「失敬。蚤や虱が気になるようでしたら、一度川で身を清めて参りましょう」
ここはある程度富裕な者たちが集う湯屋だ。街道の木賃宿とは違う。
「それもあるが、こっちじゃ」
亜麻色の髪の毛の少女は鼻をすんすんと鳴らし、にやりと笑う。
「珍しく本物のようじゃからのう。そんな恰好なのに一向に匂わん。肉と酒より、豆と水を好む連中じゃろう? ここは荒野の庵ではありんせん」
「ああ、なるほど」
何か月ぶりかに軽く笑ってしまう。
「禁欲は己を律するものであって、他者に豆と水を押し付ける口実ではありません。それに、たまの休憩は神も認めるところです」
「そう願うところじゃ。ミューリ」
と、亜麻色の髪の少女が言うと、銀髪の少女がピンと背筋を伸ばす。
「あれを湯船に連れて行って、毛繕い用の剃刀やら石鹸やらを用意してくりゃれ。荷物はわっちが片付けておきんす」
「えー、ずるい! 母様、父様に隠れて自分だけつまみ食いするつもりなの?」
ミューリと呼ばれた少女が、相手を母と呼ぶ。
よもやと思うが、そう言われると、二人の雰囲気は姉妹ではなく母娘にしか見えなくなる。
おそるべきは、母の若さだろう。
「たわけ。そんなことするはずないじゃろうが」
「するよ、絶対する! 砂糖壺だってあるし、ずるい! 私も舐めたい!」
そんなことでやりあう二人は、やっぱり姉妹にも見える。
なんにせよ微笑ましい。
湯屋の看板娘としては、どちらも立派なものだろう。
「それで、私はどうすればよろしいでしょう?」
苦笑交じりに尋ねると、母が娘の頭をひっぱたき、娘が渋々と、案内してくれたのだった。
楽師の奏でる演奏にあわせ、歌姫が歌い、踊り子が踊る。彼らに夢中の者もいれば、葡萄酒片手に雑談に興じたり、おお神よ、札遊び、サイコロ遊びに興じている者もいる。
彼らも長い旅を経てここに来ているせいか、あるいは国に戻れば貧者の救済や遍歴の修道士の受け入れで散々見慣れているせいか、ぼろぼろの自分が浴場に現れても誰も気にしていなかった。
剃刀で髭を剃り、短剣で髪を切り、石鹸で体を洗う。バウハ修道院長が途中でこちらに気がつき、その紹介で何人かと早速親しくなれた。
院長たちは日暮れまでここにいるらしかったが、自分は色々と見て回る必要がある。湯を後にし、湯屋から借りた服を着て、母屋に戻る。服は亜麻布のゆったりとしたつくりのもので、防寒のために羊毛がたっぷり詰まった上着もあった。
あまりに温かくてのぼせてしまいそうで、いつもの自分の服が欲しいと湯屋の中をうろうろしていたら、例の亜麻色の髪をした少女……少女と呼んでいいものか不明なのだが、とにかく彼女を見つけることができた。
その側には壮年の男性がいて、随分親密そうに体を寄せ合っている。
睦まじくしているのを邪魔するのも申し訳なく、こちらから声をかけるのは躊躇われたが、ほどなく少女のほうがこちらに気がついた。
「ほうっ、男前ではないかや」
楽しそうに言って、からから笑っていた。
「おかげさまでさっぱりしました」
礼を言うと、ひとしきり笑った後に、隣の男に目配せをしていた。
「さっき到着した客じゃ。あまりに小汚くてのう、先に風呂に入ってもらいんす」
遠慮のない物言いだが、少女の雰囲気にとてもよく似合っている。
ただ、隣の男は困ったように笑い、少女をたしなめていた。
「妻が失礼しました。主人の、クラフト・ロレンスと申します」
男は名乗り、歩み寄って、手を差し出してくる。妻というからには、やはりあの銀髪の娘は亜麻色の髪の少女の娘なのだろう。
思索と祈りの静寂の中で暮らす女性の中には、時折いつまでも若い者がいるが、これは中でも珍しい例だろう。
魔法を使って繁盛している店、という噂を思い出す。
永遠に歳を取らない魔女、という単語が脳裏をよぎる。
「グラン・サルガードと申します。バウハ修道院長様の紹介で、参りました。ここはこの世のどこよりも神のおわす御座に近いと」
「神がお叱りのために近づいているせいではないことを、祈る毎日です」
主人のロレンスとやらはそう言って、静かに微笑んだ。
風呂で旅の垢を落としている最中、湯に浸かる客たちから話を聞き、ロレンスが元行商人であることは掴んでいる。仮に尻尾が生えているとしても、容易に掴ませる者ではなさそうだと、直感した。
「ところで、私の荷物と服はどちらでしょう。お借りしているこれは、私には少し暖かすぎるようで」
「荷物は部屋に運んでありんす。服は洗っておるところじゃ。あのまま部屋におられては、虫の棲家になってしまうからのう」
「こら、ホロ」
妻の名はホロと言うらしい。珍しい響きだが、どこかで聞いたことがあるような気がする。
異端の祭りと関連するようなものではなかったろうか、と考え込みかけていると、主人の視線に気がついて、我に返る。
「うちの者が失礼しました。どうにも口が悪く」
「あ、いえ、こちらこそあのような格好で失礼しました。たびたび、私もバウハ修道院長から叱られているのです。私は隠者なのではなく、単に無精なのでお恥ずかしい限りです」
異端を探りに行って、逆に異端の嫌疑をかけられることもある。
聖典に謳われている徳目は、従順、純潔、清貧であって、汚れていれば良いわけではない。
「しかし、そうですか……服を洗っていただいているとなると……」
「お部屋でお休みになられてはいかがでしょう。長旅でお疲れでは?」
「お気遣いありがとうございます。ですが、むしろこの土地に来て年甲斐もなくわくわくしております。暖かい服を借りていることですし、村を見て回ってこようかと思います。もしよければ、ついでに船着き場にも赴きましょう。さきほど、運び込まれた荷について、なにか問題があったようですので」
主人のロレンスは少し驚いたような顔をして、隣のホロを見た。
「ミューリが騒いでおってのう。荷が足らんと。麦の数が合わんらしい」
「そうなのか? うーん……村に売り込みに来た新興の粉屋だったんだが……安物買いのなんとやらだったかなあ……。あ、しかし、お客様にそんなことをさせるわけには」
「私は生来落ち着きのないたちでして、じっと暖炉の前にいるよりかは、賑やかなところをうろうろできるほうが楽しいのです」
ロレンスは申し訳なさそうにこちらを見てから、気持ちを切り替えるように笑顔になった。
「では、恐縮ですがお願いできますか。実は届けられた荷物を片付けるので手いっぱいだったのです。雪に降られては、色々な食べ物が駄目になってしまいますから」
「お任せください」
湯のほうも客でいっぱいだったし、廊下を少し行った先からは、談笑の声が聞こえてくる。
暖炉でもあって、客がくつろいでいるのだろう。一冬投宿するにはそれなりの金額がかかり、それだけの金を払える客がたくさんいるということになる。
この湯屋に運び込まれる荷のことを船着き場で聞きまわれば、ついでにこの湯屋の繁盛の秘密もわかるだろう。
もしも魔法を使っているのだとしたら、なにか怪しげな荷を仕入れている噂くらいあるはず。
それに、湯屋の主人の妻、ホロの若さも気になるところだった。
「それでは、早速見て参りましょう」
神の名の下に、そう言って微笑んだのだった。
2017年5月10日更新の『狼と羊の白い猟犬≪後編≫ 』に続く。
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