※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.56掲載の前半を抜粋したものです。


 山から雪が消えて、木々が芽吹き、世界が色鮮やかになる。

 冷え切った石のようだった冬の空気が、柔らかい土の匂いへと変わっていく。

 冬から春へ、春から初夏へと移り変わる様は、毎年のことなのにいつも新鮮な喜びがある。

 とはいえ、世の中が活動的になれば相応の仕事がたくさん待っていて、楽しいものもあれば、楽しくないものもある。

 その中でももっとも厄介な仕事が、ついに今年もロレンスの元にやってきた。

「むぐ……ぐっ……へっくし!」

 湯屋狼と香辛料亭の主人であるロレンスは、鼻になにかが入ったくしゃみで目が覚めた。寝ている間に、顔の上で蜘蛛が巣でも作ったのかと思ったが、どうも違う。

 なんだと思って、顔を撫でると、ほどなく正体が知れた。羽織っていた毛布をめくれば、そこは大変な有様になっていた。

「おい、起きろ」

 同じ毛布の下では、少女かと見紛うような娘が眠りこけている。亜麻色の髪の毛が美しく、一見すると貴族のようだが、それにしては肉付きが貧相なのでいいところ修道女だろう。

 もちろん、ロレンスが神の目を盗んで連れ込んだわけではなく、妻のホロだった。

 つまりは後ろめたいことなど特にないのだが、このホロには人に知られたくない事情がある。それは、毛布を剥がれても体を丸めて眠りこけている、呑気なところではない。

 その頭には三角の獣の耳と、腰からは大きな尻尾が生えていることであり、かつてはホロ自身が神と呼ばれ、崇められていたような、狼の化身であることだ。

「またこの時期か……」

 なんの夢を見ているのか、半笑いにも見える間抜けな寝顔のホロを見下ろしていると、自称賢狼はおもむろに大きな尻尾を動かした。ロレンスは、たちまちもう一度くしゃみをする。

 毛布の下は茶色の毛だらけで、もちろんその毛色は、眠りこけるホロの尻尾と同じもの。

 今年もまた、毛の生え代わりの時期がやって来たのだった。



 温泉郷として名高いニョッヒラは、冬だけでなく夏もまた人気がある。村を流れる川に作られた船着き場では、今日も山ほどの荷が下ろされていた。

 そんな船着き場の隣にある飲み屋で、ロレンスは財布から取り出した銀貨を、丁寧に並べた。

「こちらになります」

「ふむ。デバウ銀貨が……七枚。重さもよござんすね。縁が削られてない綺麗な貨幣を見るのは久しぶりですな」

 ロレンスが並べた銀貨を数えていくのは、随分鼻のでかい男だ。あまりに大きく見えるのは、もしかしたらいくらかは、酒焼けで赤くなっているせいかもしれない。

 男は樵が商人の真似をしているような恰好をしていて、まさしくそんな感じのことを生業にしている、遍歴の木工職人であった。

「毎年ありがたいこってす。しかし、奥さまは随分長い髪をお持ちのようだ」

 麦酒と豚の腸詰が置かれたテーブルには、歯が綺麗にそろった櫛が三十個ほどある。職人はこの村にやって来る踊り子たちにも櫛や髪飾りを作っているが、櫛を購入する量は、自分が圧倒的だろうとロレンスは自覚している。

「暇を見つけては、毛を梳ってましてね。出費がかさんで困りものですよ」

 太陽の図柄が彫り込まれたデバウ銀貨は、銀の品位が高い立派な貨幣だ。

 それが七枚。

 まっとうな市民として家族を養う町の熟練職人が、一日働いて銀貨一枚半から、多ければ二枚なので、浪費のほどが知れようと言うものだろう。

「こちらはありがたいですが、金属製にしちゃどうです? 金鍍金のいいやつなら、ずっと錆びずに、しかも髪を傷つけない。ひとつあったら長いこと使えますよ」

 職人は、自分の食い扶持を減らすようなことを口にする。多分、櫛ばっかり何十個も作るのにうんざりしているのだ。腕がいいのにどこの町の組合にも属さず風来坊なのは、元来、同じような仕事の繰り返しが嫌な性格だからだろう。

「それが金物はどうしても使いたくないと言い張りまして」

「ははあ。そういう娘っこもままいますな。髪が傷つくんだとかなんとか。まあ、金の櫛じゃなきゃ嫌だと言わないだけましかもしれません」

 職人は笑って麦酒をぐびぐびやって、最後に盛大に息を吐く。

「しかし、あと数年は注文を受けさせてもらいますが、その先はどうなるかちょっと」

 受け取ったばかりの銀貨を、表裏と眺めてから財布にしまう職人は、そんなことを言った。

「最近は目が悪くなり始めましてね。櫛の歯を揃えるのが難儀なんですよ」

「そうでしたか……。できればずっと作って欲しかったのですが」

「なあに、その際は知り合いの職人を探しておきますよ。町の工房の連中なら、数を揃えるのは得意ですからな」

 その代わり、職人組合の手数料やら輸送費などがかかり、同じ値段ならば品質は下がる。

 ホロをどうにか説得しないとと思っていると、職人は麦酒を飲みほし、残っていた腸詰を摘まんで口に咥え、立ち上がった。

「それじゃあ、あっしは次の湯屋で仕事がありますんで」

「あ、すみません。ありがとうございました」

 気の短い職人らしく、すでに歩き出していて、ロレンスの言葉には手を上げて応えていた。

 ロレンスはやれやれとため息をついて、自分の分の麦酒を飲み、手提げの袋にどっさり入った櫛を抱え、湯屋に戻ったのだった。



 湯屋にはお客がすでに入っているので、抜け毛の季節になると、ホロは大抵寝室に籠もりがちになる。抜け毛があっちこっちについて掃除が大変になるのと、特徴的な狼の毛が客の目につけば、夜中に森から狼がやって来てうろついているのでは、と不安がられるからだ。

 ロレンスは受け取った櫛を届けに寝室に赴くと、ホロは歯の欠けた櫛でせっせと毛を梳いているところだった。

「ほら、新しい櫛だぞ」

 書き物机の上に広げて、一つ手に取ってホロに向けて放り投げる。いつもはベッドの上で毛繕いしているホロだが、今は窓際に移動させた椅子の上にいた。

 窓枠のところには葡萄酒かなにかが置いてあって、随分優雅なことだ。

「ふむ。相変わらずここの櫛は良い木の匂いじゃな」

 新しい櫛に鼻を近づけ、すんすんと嗅いでいる。

 釣られて自分も嗅いでみるが、確かに木を削ったばかりの爽やかな匂いがする。

「やはりわっちの尻尾には、このような森の香りこそがふさわしい」

 ホロはご満悦な様子でそんなことを言っているが、いくらかは牽制だろう。浪費を心苦しく思いつつ、金属製に変えられては困ると思っているのだ。

「なんでもいいが、毛は散らかすなよ」

「たわけ」

 ホロはそう言うが、この時期は部屋をいくら掃除しても切りが無い。ロレンスはほとんど反射的に、壁に立てかけてある箒を手に取って床を掃いていく。

 すると、ホロは椅子の上でむくれていた。

「ぬしは年々嫌味になるのう」

「ん? 確かに歳を取って、渋味が増したかもしれないな」

 ロレンスは腰を伸ばし、自分の顎髭を撫でながらそんなことを言った。

「まあ、今年は尻尾が一本減ったから、それだけでもだいぶましだ」

 湯屋にはもう一人、獣の耳と尻尾を持った者がいた。それが一人娘のミューリなのだが、湯屋で働いていた青年コルの旅立ちにくっついて、湯屋を出て行ってしまったのだ。そのことは今なおロレンスの胸を締め付けるが、悪いことばかりではない。特に、ミューリはホロとは違って尻尾の手入れにあまり興味が無いらしく、抜けるに任せていたりしたので余計に大変だった。

 しかし、ロレンスは箒を壁に立てかけて、ふと気がつく。

「いや、尻尾が減ったなんてないか」

「んむ?」

「セリムさんのことを忘れていた」

 セリムとは、少し前から湯屋で働いてくれている新しい娘のこと。妙な縁でここで働くことになったのだが、セリムもまた、ホロと同じような狼の化身だった。

「しかしまあ、ミューリ用に注文していた櫛があるから、それを渡せばいいか」

 使用人が働きやすいように気を配るのも主人の務め。

 ロレンスはそう思いながら、机の上の櫛の中からいくつか見繕っていたところ、ホロの手が横から伸びてきて、全部かっさらわれた。

「これはわっちのじゃ」

 あまりのことにロレンスは呆気に取られたが、すぐに我に返る。

「なに言ってるんだ。セリムさんもお前と同じように難儀してるはずだろ」

「あやつは耳と尾を隠せるから、必要ありんせん」

 ホロが即答した。

 ロレンスは一瞬納得しかけたが、いやいやと思い直す。

「ミューリも耳と尾を隠せるが、この時期は似たようなものだったろ」

 一人娘のミューリは、ホロと違って耳と尾を自在に出し入れできる。しかし隠したからと言って無くなるわけではないようで、なんにせよ手入れが必要だった。

「なんでそんな見え透いた嘘をつくんだ?」

 ロレンスが、諌めるよりも呆れて聞き返すと、ホロは悪びれたふうもなく、そっぽを向いて言った。

「あやつには金を渡して置けばよいじゃろうが。でかっ鼻の職人は村におるんじゃろう?」

 そのとおりなのだが、いくら櫛を使い潰すホロでも、そんなにたくさんは余るはず。

 ロレンスがそう思ったが、ホロの気紛れにあまり正論を返すと、妙にこじれることがあるのは経験から学んでいる。それに、櫛は腐るものでもないし、セリムに金を渡して別に櫛を購入してもらっても結果は同じだ。

 結局、ホロに従うことにした。

「わかりましたよ」

 そう答えると、ホロはなおなにか言いたそうな目を向けてきたが、ひとまず抱えていた櫛と袋は机に戻した。

「それはそうとじゃな、ぬしよ」

 ホロは椅子に座り直すと、真面目くさった物言いで、咳払いまでする。

 毎年のことなのに、いつも自分からは言いださない。

「はいはい、心得ておりますとも」

 ロレンスは呆れたように笑いながら、まだ森の香りを残している櫛を一つ、手に取ったのだった。



 たまねぎの皮を剥いていたら、いつの間にか一つのたまねぎから二つ分のたまねぎの皮が取れてしまったような、そんな錯覚を覚える。

 ホロの尻尾の手入れは、毎年そんな感じだった。

 新しい櫛を購入したら、最初の一梳きはいつもロレンスが行うことになっていて、それ以降はホロに頼まれたらやるという形式になっている。

 そして、今年はその回数がのっけから多かった。仕事がひと段落し、昼飯を食べ終えた後の寝室で、今日もホロはロレンスの膝の上で行き倒れたようにうつぶせになっていた。

 梳いたばかりの尻尾をゆらゆらさせ、呑気に微睡んでいる。

 賢狼様は尻尾の手入れには一家言あるようで、ロレンスと共に旅をするようになってから、しばらくは尻尾を触らせようとしなかった。そのことを思うと、ロレンスはホロが自分に心を許してくれていることを実感して、頬が緩んでしまう。娘のミューリがいなくなり、取り繕った母の体裁をすっかり脱ぎ捨てたホロの怠惰な様子にも、仕方ないなと笑うばかりだ。

 そんなロレンスは、櫛に絡まった毛を解き、山盛りになった抜け毛を袋に詰めていく。

 これで座布団でも作ったらよかろうに、といつも思うのだが、ホロは「わっちがぬしを尻に敷くのであって、その逆ではありんせん」とかたくなに拒否する。

 尻に敷く敷かないはともかく、商人の性として、なんとなく勿体なく感じる。ホロが羊であったなら、刈った毛をそのまま捨てるなんてありえないことだろう。

「……ふがっ」

 と、そんなことを考えていたら、ホロが変な声を上げて、体をびくりとさせていた。

 暖かい季節に屋外で眠りこけている犬そのものだ、と思うが、それを口にすればどうなるかは、ロレンスもよくわかっている。

「ほら、寝るなら毛布をかけないと風邪ひくぞ」

 親切心でそう言ったのに、ホロはうるさそうに顔めがけて尻尾を振る。

「おい、やめ……やめろって」

 ロレンスがホロの尻尾を払っていると、ホロはその隙に手を伸ばし、ロレンスの襟首を掴む。しまった、と思った時には引き倒されていて、狼に狩られた獲物だった。

「……これから仕事に戻らないとならないんだよ」

 ロレンスがそう言っても、しがみついているホロは尻尾をぱったぱったと振るばかりだ。

「まったく……ミューリが出て行ってから、すっかり自堕落だな」

 ホロは反論すらしない。

 それに、ロレンスも昼間に少し飲んだ葡萄酒が思いのほか利いているようで、昼寝の抗いがたい誘惑に襲われる。

 やるべき仕事はたんとあるが、一日手を抜いたくらい大丈夫だろう、なんていう悪魔のささやきまで聞こえてくる。

 だんだんゆっくりになっているホロの尻尾の動きに釣られ、ロレンスは瞼が重くなっていく。

 意識が途切れそうになったその瞬間、なんとか眠気を振り切って起き上がった。

「駄目だ駄目だ。ハンナさんもセリムさんも働いてくれてるんだから」

 まだ寝転がったままのホロは、恨めしそうな目をロレンスに向けてくる。

「部屋から出られなくて腐るのはわかるが、これを乗り越えたら楽しい夏だぞ」

 山では茸やら木の実やらが山ほど採れて、蜂もあっちこっちに巣をつくるから蜂蜜の川ができるほど。川魚は冬より夏のほうがうまいし、道の状態が良くなって往来が活発になれば、塩漬けではない潰したての新鮮な肉を食べることだってできる。

 そのためには、今こそ働いて準備を調えなければならない。

「それにそんなに暇なら、これの活用法でも考えたらどうだ」

 ロレンスがホロの抜け毛の詰まった袋を指差しながら言うと、ホロの目が面倒そうになる。

「毎年結構な量が取れるし、随分手間をかけてるんだ。勿体ないだろ。ほら、いつだったか貴族の娘がここに来た時、愛犬の毛で作った人形を持ってただろ?」

 随分できが良く、踊り子たちは結構な関心を持っていた。そういう商いをすれば儲けられるのではと思ったりもしたが、手間がかかると聞いて断念した経緯がある。

「お前の尻尾の毛なら、熊除けの御利益がたっぷりだろうし」

 狼除けとは言わなかったが、ホロの匂いがあれば、森の覇者たちは避けて通るだろう。

「たわけ」

 しかしホロは短く言って、ごろんと寝返りを打つ。

「わっちゃあ賢狼ホロじゃ。わっちの身体の欠片を安易に使うとな、災いが起こりんす」

「大袈裟な」

 笑うと、ホロに睨まれる。

 これ以上つつくと、本当に怒りだしそうだった。

「とにかく、おとなしくしてろよ」

 そう言い添えると、ホロは大きくため息をつく。耳も尻尾も力なく垂れて、げんなりしていた。

「部屋におるのは構わぬが……湯船に浸かりたいのう……」

「それだけはやめてくれ」

 山の中のことゆえ、狼がうろついているという噂には殊更敏感だ。湯船にぷかぷか狼の抜け毛が浮いていたら、自分の宿だけでなく、村を挙げての騒ぎになってしまう。

「なにかうまいものでも仕入れてくるから」

 結局食い物で懐柔するかしなく、ホロの耳がピクリと動く。

「ふむ……それなら、豚の丸焼きが良い」

「お前な、そんな無茶ばかり言うな。丸ごとの豚なんて簡単に仕入れられるわけないだろ」

 山の中で生きた豚を手に入れるのがどれほど大変か、ホロには何度か説明している。

 まずニョッヒラに出入りしている商人に注文して、商人が川を下った先の町の肉屋に連絡する。その肉屋は連絡を受けると市場に出向き、肉屋の組合が構える農家との取引窓口に欲しい豚の大きさや特徴を伝え、農家から持ち込みを待つ。運よく持ち込みがあって、しかも他所の肉屋から同様の注文が無ければ、ようやく手に入れられる。ニョッヒラに届けられるには、この工程を逆にたどり、しかも豚は生きていれば鳴きもするし糞もするし、逃げようとするのでそれを管理する特別な荷運びの人員が必要になる。さらには豚一頭となるとまとまった金額になるので、運搬や売買に関わる商人の間ではいくつかの契約が取り決められ、公証人が引っ張り出されることもあるだろう。

 とにかく、膨大な手間がかかり、費用が跳ね上がる。

 ケチや意地悪で買ってやらないのではない、ということをこんこんと説明しても、ホロはいつも懐疑的だ。

 今日もまたそれかと思っていたら、ホロは耳をひくひくさせながら、こう言った。

「無茶ではありんせん」

「あのな」

 ため息交じりに説明しようとしたら、ホロは体を起こして、ひょいと窓枠から外を見た。

「ほれ、ぬしよ、豚の行商じゃ」

「はあ? そんなうまい話があるわけ――」

 と、言いかけて、窓の外を見れば、確かに豚が繋がれ、歩かされていた。ホロの耳は、ぶひぶひという豚の鳴き声を聞きつけていたのだろう。

「ぬしよ、今日はあれを丸焼きにしよう。のう、ぬしよ」

 さっきまでの気だるげな顔が一転、うきうきしたホロが、子供のように服を掴んでせがんでくる。

 しかし、ロレンスが呆気に取られていたのは、豚が連れられてきたことにではない。

 それを連れていた人物を、よく知っていたからだ。

「ルワードさん!?」

 およそ豚を連れて歩くのが似合わない、歴戦の屈強な傭兵なのだった。



2017年7月7日更新の『狼と春の落とし物≪後編≫ 』に続く。
☆ひと足先に続きを読みたい方は、発売中の『電撃文庫MAGAZINE Vol.56』をチェック!