※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.58掲載の前半を抜粋したものです。
狭い村ならば、住民のすべてが、互いに互いのことを知っている。よその家の昨日の夕食から、暖炉の前で寝そべる犬の調子まで筒抜けだ。それは温泉郷ニョッヒラでも変わりはしない。
ただ、この手のことで見落としがちなのは、自分に関する噂だけは、なかなか耳にしないということだろう。
「ホロ」
湯屋“狼と香辛料亭”の主人であるロレンスは、晩飯の後、寝室で蝋燭の芯を切りながら妻の名を呼んだ。
亜麻色の長い髪。華奢な肩。ささくれ一つない綺麗な指先とくれば、貴族の娘と思われることもしばしばだ。年の頃は十四か五という見た目も相まって、初めて宿にやって来る者の中には、新婚だと勘違いして祝福してくる者までいる。
しかし、楚々とした見た目は仮初のものだ。ホロの真の姿は御年数百歳の、見上げるばかりに巨大な狼の化身であった。
そんなわけでロレンスに名を呼ばれたホロは、健気な様子で振り向くことも、初々しいはにかんだ笑顔を見せることもない。頭の上の耳を機敏に動かして、おざなりな返事とした。
髪の毛と同じ色の、三角に尖った獣の耳だ。
「ちょっと、話がある」
ロレンスのため息交じりの口調に、ホロはようやく顔を上げる。
食事を終えてからずっと、寝室の机にかじりついていたのだ。
「なんじゃ?」
目を細め、眉根に皺が寄っていて、いかにもうるさそうにしている。だが、ロレンスはもう一度ため息をつくと、そんなホロの頬に手を伸ばす。
「インクが付いてる」
「む」
ロレンスの指に拭われると、ホロは細めていた眼を閉じて、獣の耳をぱたぱたとさせる。
ふさふさの尻尾も揺れているので、機嫌が悪いわけではない。
目つきが悪いのは、疲れているからだ。
「まったく……」
ロレンスはホロの目尻を、両手の親指でぐりぐりと揉んでやる。それから、閉じた瞼の上にそっと親指の腹を当てると、ホロはじゃれつくように瞼の下で目をぐるぐると動かしていた。
「手拭いを湯に浸してくるか?」
宿には高位の聖職者など、書き物の仕事に従事する者が多い。
彼らから目の保養法を聞けば、温かく湿った布を瞼の上から目に当てるとのことだった。
「ん~……」
しかしホロはろくに返事をせず、ロレンスの手を掴むと自分の首筋に当てる。揉めということだろう。仕方なくロレンスが手を動かすと、ホロはだらしなく体重をロレンスの手に預け、ご満悦で尻尾を振っている。あからさまな我がままでも、素直に喜んでもらえるとロレンスはつい嬉しくなって世話を焼いてしまう。
はっと我に返り、今日くらいは小言を言わなければならないと思い直す。
少し前からこのホロが夢中になっている、机に広げられた紙にびっしりと文字を書き込む作業について、だ。
「今日、村の寄合に行ったら、噂を聞いた」
「んむ?」
首の後ろを揉んでいたロレンスの手を、ホロはよいしょとばかりに自分の肩に乗せる。
今度はここを揉め、話はそれからだ、ということだろう。
まるで召使いの扱いだが、気持ちよさそうに耳と尻尾をぱたぱたさせているし、ロレンス自身こういう触れあい方は嫌いではない。そういう意味では、ホロが急に書き物に夢中になったことは悪い話ばかりでもなかった。
羽ペンやインク、覚え書き用の紙に、清書用の羊皮紙、手元の文字を拡大するための硝子や、夜遅くまで起きているために使用する蝋燭に至るまで、結構な費用がかかっているが、元は取れているような気がする。なにより、ホロが書きとめているのはとても大事なことなのだ。
ホロは狼の化身であり、何百年と生きる。翻ってロレンスはただの人であり、遠からずその寿命は尽き、ホロを残して旅立つことになる。いつか必ず一人残されるホロは、そのために今の幸せな時間を何度でも繰り返せるようにと、日々の出来事を書きとめることにした。
それはそれでよい。提案したのもロレンスだ。
だが、ホロはいつだって、極端なのだ。
「お前が紙とペンを手に宿をうろうろしているからな、噂になってるんだと」
「ほう」
ホロはもっと右を強く、とばかりに頭を左に傾ける。
ロレンスがやや指に力を込めると、狼というよりも猫みたいに喉の奥で唸る。
「狼と香辛料亭の女将は、詩作にでも目覚めたのか、それとも、神との対話をしたためているのかってな」
「ほう……んん、ん~む……あー、そこじゃ、そこ」
真面目に話を聞かないホロに、ロレンスが若干の怒りを込めて指を動かしたところで、当のホロは尻尾の毛を膨らませて感じ入るだけだ。
それでもしばらく黙って肩もみを続けていたら、おもむろにホロが言った。
「それで? それのなにが問題なのかや」
ようやく聞く気になったかとホロの肩から手を離そうとしたら、それは阻止された。
ロレンスは諦めて、ホロの肩もみを続けながら答えた。
「周りが変な憶測をしてるんだよ」
ホロはうんともすんとも言わないが、耳がこちらを向いているので、聞く意思はあるようだ。
「かいつまんで言うと、お前がこの宿を出て、どこかの修道院にでも入るんじゃないかと噂されている」
その瞬間、ホロの耳がぴんと伸びた。
そして、ゆっくりと首を回してロレンスのことを見る。
「なんじゃ、それは?」
怪訝そうな顔なので、本当に訳が分からないのだろう。
ロレンスは説明をやや躊躇ったが、誤魔化しても仕方がない。
「お前の見た目は若いだろ。だから俺じゃ飽き足らなくなったんだろうって野卑な噂だ」
ホロはやっぱり不思議そうな顔だ。
「年寄りの夫に嫁入りした若い妻が、ある日修道院入りを決意するというのはな、大抵、若い妻が体を持て余した末の浮気か、離婚のためなんだよ」
こちらを見るホロの目から、光が無くなった。唇はなにかを言おうとしたまま、形を成さずに固まっている。
そんなホロをじっと見つめているロレンス、という様子を余人が見れば、自分の不貞を疑われた妻が、心に深い傷を負っている場面だ、と思うかもしれない。
しかし先にため息をついたのはロレンスで、吐いた分の息は、後ろからホロの髪の毛に鼻をうずめて取り戻した。
「俺もまだそこまで老いちゃいない自負がある」
首に回していた手は、ホロの体を抱きしめている。
ホロが咳き込んだように体を揺らしたのは、笑っているからだった。
「くふ。腑抜けのぬしも、たまには男の子みたいなことを言うんじゃな」
ホロはロレンスの手首をさすり、皮を指でつまむ。
「じゃが、言わせておけばよいではないか」
よっぽど悔しかったのかや? とホロが珍しく気遣うような声音で言う。
ロレンスは一拍間をおいて、言った。
「うちは客商売だ。一体誰が、若い妻に逃げられた男やもめの宿に泊まりに来たがるんだ? そういう噂だけでも、客からの印象は悪くなる」
ホロはきょとんとして、それから、疲れたように笑う。
「確かにそうじゃな」
「それに、お前もうかうかしてられなくなるんだぞ」
「ほえ?」
「立派な宿はそれだけでひと財産だ。後釜を狙う奴らもいるし、世の中にはこの手のことになるとお節介な連中が多い。お前が出て行く前から、どこかの貧しい領地で慎ましく暮らす、気立てのよい没落貴族の末娘の売り込みが舞い込むだろうさ」
その点、ホロは裏山で鼠がくしゃみをしても聞きつけるほど耳聡いし、やきもちと嫉妬にかけては貴族の娘様など比較にもならない。
湯屋の妻の座を狙い、若くて可愛らしい娘がしゃなりしゃなりとやって来る様を想像するだけで、ロレンスは身の危険と、ホロの機嫌をとる大変さにげんなりする。
よって、村に流れているらしい噂は、迷惑千万なのだ。
「ふむ……」
自分の獲物を横取りしようとする輩は、なんであれ排除せねばならない。
そんな顔をしたホロは数瞬考え込んで、面倒くさそうな目をロレンスに向けてくる。
「で、わっちにどうしろと? 人前でぬしにかじりつけばいいのかや?」
そう言って、ホロはロレンスの手をそっと撫でながら、流し目を向けてくる。
賢狼と自称している割には、そういうわざとらしいことが大好きだし、ロレンスが嫌がったりするとなお喜ぶので、冷静に対処する。
「普通にしててくれ」
「むう」
つまらぬ、と頬を膨らせるホロに、ロレンスは呆れてため息をつく。
「あと、あんまり紙束とペンを手にうろうろしないでくれ。目立つんだよ」
「むむう……」
二回目の唸り声は、最初のそれとちょっと違う。
「その日になにがあったかを書くだけなら、寝る前のわずかな時間で済むだろう?」
しかしホロは朝起きてから夜寝るまで、片時もペンと紙を手放さない。
「たわけ。そんなことでは大事なことを見逃すかもしれんじゃろうが」
「そんなに毎日あれこれ起きないだろ……というか、ちょっと、今日の分を見せてみろ」
「む、こ、これ、やめぬか、これ、たわけっ」
子供みたいに隠そうとするので、ロレンスは珍しくホロを押さえ込んで、机に置かれている紙を奪う。
ホロはなおも取り返そうとするが、ロレンスが椅子から離れると、それ以上は追いかけてこなかった。
「見られて困るようなことでも書いてるのか?」
「そんなことありんせん!」
「ならいいだろ……しかし、随分びっしり書いてあるな……これをまた羊皮紙に書きうつすのか?」
ホロが毎日手にしてうろうろしているのは、ぼろ布から作られる安い紙だ。そこに覚え書きや下書きを記しておいて、あとで羊皮紙に書きうつす。羊の皮から作る羊皮紙は抜群に頑丈で、火災に巻き込まれても燃え残ることがあるので、ホロが何百年と読み返すのに向いている。
「えーっと……相変わらず字は下手だな……」
「だまりんす!」
インクを乾かすための砂を摘まんで投げつけてくる。
ホロは手先が器用なのに、字は下手だった。目があまり良くないせいで、形がわかりにくいのだ。
「どれどれ。朝、起きる。煮玉子二つと、チーズを乗せて暖炉の火で炙ったふかふかの小麦パン。付け合わせは昨晩の残りの腸詰二切れと、鶏の胸肉。食後に麦酒をいっぱい」
随分豪華な朝飯なので、嬉しくて記したのだろうか。そう思うものの、後生大事に書き残しておくことなのか? とホロを見やると、ホロはむくれてそっぽを向いていた。
「食事の後、湯で騒ぐ客から、酒を寄越せと言われる。どうせ酔っているので、そろそろ危なくなっている葡萄酒に蜂蜜を混ぜて出してやったら、特級の酒だと大喜び。支払いは茨の冠をかぶった雄の横顔の銅貨で七枚……七枚!?」
ロレンスが驚いてホロを見ると、ホロはふふんと得意げだ。
「茨の冠って……キュイジーヌ銅貨だろ。いいところ四枚だろうに……」
「わっちが手ずから運んでやったからのう。駄賃も込みじゃ。別に高い酒じゃと言ったわけではありんせん」
「……」
勘違いしたのは確かに客のほうだし、葡萄酒の味を良くするために商人たちは知恵を絞る。
蜂蜜で甘くして、生姜の辛味で酒精を誤魔化し、卵白と石灰で上等の酒のように澄んだ色にしたりする。
客も当然警戒するわけなので、喜んで支払ってくれたのなら受け取るべき。
そうは思うものの、なんとなく釈然としない。
「昼前に踊り子と楽師がやって来る。賑やかな騒ぎを聞きながら、日が高いうちに暖炉の灰を掃除する」
「真面目に働いておるじゃろう?」
にこにこして、尻尾を振りながらそんなことを言う。
ホロは尻尾に灰が付くといって暖炉の掃除はいつも誰かに押し付けていたのに、確かに珍しいなと思ったら、続きがあった。
「灰の中に粘土で包んで仕込んでおいた玉ねぎが、良い具合に蒸し焼きになっていた。粘土を割って、刻んだ緑色の香草と、南から来た油をかけて、塩を振って食べる。麦酒が無いのが残念である……」
「あっ」
ホロはしまったという顔をしていた。客の誰かから聞いた玉ねぎの食べ方なのだろう。
珍しく暖炉の掃除をしていると思ったら、ちゃっかりつまみ食いをしていたわけだ。
ロレンスの視線に耐えきれなかったのか、ホロが椅子から立ち上がる。
「もういいじゃろうが、ぬしよっ」
「お前、ほかにもこんなことばっかりしてるんじゃないだろうな」
ホロは紙を取り返そうとするが、身長差がある。
ロレンスは紙を頭上高くに掲げ、続きを読んだ。
「昼過ぎには暖炉沿いの煤取りをする。ほう、煤取りか」
どれだけきっちり作っても、暖炉から立ち昇る温かい空気を建物の中に循環させようとすれば、あちこちの隙間から煤が漏れ出してしまう。これもやっぱりホロは顔や手が汚れるからと嫌がっていた。
「ついでに、煙突沿いに置いておいた瓶の様子を見に行く……瓶?」
視線を胸元に下ろすと、ホロが嫌そうな顔をしながら背伸びをして、なんとか紙を奪い返そうとしている。
「瓶ってなんだ」
「……知らぬ」
諦めたホロは、身を引いて腕組みしてそっぽを向く。
不満げに揺れている尻尾を見やり、ロレンスは続きを読む。
「サイラスとやらは良いことを教えてくれた。今度、森でスグリが採れるところを教えてやらねばなるまい」
サイラスという名前に、ぴんときた。
ロレンスと親しい湯屋の主人の名で、ニョッヒラでも名うての酒造りの名人だ。
暖炉沿いに置かれた瓶となれば、酒でも仕込んでいたのだろう。
しかし、なんの酒だかわからない。麦酒は仕込みにそれなりの火と道具が必要だし、葡萄酒は葡萄がなければ造れない。果実酒の類だろうかと思うが、生の果実はこの辺りだと夏を迎えなければ手に入らないので、もう何週間か待つ必要がある。蜂蜜酒も、蜂蜜の管理は炊事場を預かるハンナに任せているので、そう簡単に盗み出せはしないはず。
もちろん、単なる吝嗇で咎めるわけではない。自分の知らない場所で勝手に酒を造っているとなると、いくら晩酌で酒の量を控えさせても意味がないからだ。
ホロは大丈夫だと言い張るものの、飲みすぎて体にいいはずもない。
「一体なんの酒なんだ?」
ロレンスが尋ねると、ホロは唇を尖らせる。
悪戯がばれ、コルに叱られ拗ねている娘のミューリそっくりだ。
あのお転婆娘が誰に似たのかは明らかだろう。
「黙っててもいいが、ハンナさんに言って、毎日の酒をうんと減らすからな」
「なっ」
殺生なとホロはロレンスを見る。
ロレンスがばさりと紙を振れば、がっくりとうなだれた。
「パンの酒じゃ……」
「パン? ああ、クワスか」
ライ麦の黒パンを水に浸し、酒精とわずかの蜂蜜があればできてしまう薄い酒だ。
苦みと酸っぱさが独特で、かなり好き嫌いの分かれる味になる。
「考えたな……ライ麦パンならハンナさんも口やかましく言わないからな」
麦は種類によって全く違うパンになる。最下級は燕麦で、ほとんどパンとは別物のなにかが出来上がり、時には馬が食べることさえある。最高級はもちろん小麦で、甘くてふわふわのパンになる。
その間にライ麦の黒パンが挟まるが、あまりに堅くて苦くてまずいので、大抵は小麦にライ麦の粉を混ぜてパンにする。金持ちばかりが宿泊する湯屋にそんな黒パンがあるのは、贅沢三昧の彼らが、たまに罪滅ぼしとばかりに節制することがあるからだ。
「まったく……賢狼ともあろうものが、隠れて酒なんて造って飲んでいたとはな」
ホロは痛いところを突かれたとばかりに首をすくめるが、すぐに反撃を試みる。
「たわけ! ぬしの財布が痛まぬようにと、わっちなりに知恵を働かせたんじゃろうが!」
「監視の緩い玉ねぎを暖炉で勝手に焼いて食ってたのに? しかも南から来た油って、オリーブ油のことだろう。遠路はるばる運んでくるものだから、高いんだぞあれは」
香草と合わせて食べるというのがまた小憎らしい。絶対美味いに決まっているのだ。
挙句にホロは小言に反省するどころか、ぶすっとふくれっ面をしている。
麦に宿り、その豊作を司る狼の化身なせいか、食い物への執着だけはすごい。
「はあ……ミューリの奴がいなくなって、少しは湯屋に平穏が訪れるかと思ったのに……」
一人娘のミューリは、歯が痒くて仕方のない子犬みたいに、あらゆる機会を見つけては食いついて、悪戯に精を出していた。
娘を前にすればさすがのホロも母としての威厳を保たねばならんと思うのか、賢狼の名にふさわしい落ち着きを見せていた。
しかしその一人娘も、湯屋を手伝ってくれていた青年コルを追いかけて旅に出てしまった。
ホロは日に日に母の仮面が剥げ落ちて、以前のような、荷馬車で旅をしていた頃のホロに戻っていった。
美味い食い物をねだり、隙あらば尻尾の手入れに勤しみ、夜は一滴でも多く酒を飲もうとする。朝は起きたくないとぐずり、夜はもう眠いと暖炉の前で目を閉じて、寝室まで抱いて運べと手を伸ばしてくる。
もちろんそのすべてを許しはしないし、コルとミューリが出て行ってからは単純に人手が足りていないので、ホロもそれなりに働いている。
大きな揉め事や騒ぎもなく、平凡な毎日を繰り返していた。
ホロはその平凡な毎日が、幸せだけれども忘れてしまうのが怖いと言っていた。だが、それもペンとインクと紙束を渡すことで解決した。
これで一件落着、平穏無事、家内安全、商売繁盛……と思っていたのに、この始末だ。
ロレンスは呆れるよりも、いっそ不思議に思う。まだなにか不満があるのか? と。
ホロはどれだけ我がままを口にしても、それはいつだって、許さないこちらが偏狭だと思わせるような絶妙なところを攻めてきた。
それが、書き記されているのは明らかに尻尾一本分以上は外にはみ出た悪行だ。
きっと紙束には、ほかにも数々の犯行が記されているに違いない。
どうしてしまったのだろう?
そもそも、こんな間抜けな証拠を残すところがホロらしくない。
ホロはこの紙束を書き始めて以来、気恥ずかしいのか内容をあまり見られたくなさそうだったので、その気持ちを尊重して見てこなかった。ならばしめしめと、ある種の勲章のように、ばれなかったことを誇らしげに記していたのだろうか。
ロレンスは怒るよりも悲しくなる。ホロはそんなさもしい奴ではなかった気がするのに。
玉ねぎは一緒に焼いて二人で食べたかった、とロレンスは思う。泥の包みを割って焼け具合に一喜一憂するなんて、いかにも楽しそうではないか。クワスだってセリムやハンナと揃って飲んだらもっとおいしかっただろう。安く、うまく仕込むにはどうしたらいいか、と二人で知恵を働かせるのだってきっと面白いはずだ。
ホロこそ、そういうことをよくわかっていると思ったのに。
ただ、そこまで思って、はたと気がつく。ホロはまたなにか自分の気がつかない悩みを抱えているのではないだろうかと。
しめしめと美味い物を独り占めする傾向が無いとは言い切れないが、酒まで密造して一人で飲んでいるとなれば話は別だ。自分には言えないことがなにかあって、その憂さ晴らしだとしたら? この紙束にその模様を逐一記したのは、自分には直接言うことができない特別の感情を思い出せるようにという、ホロなりのある種の暗号なのだとしたら?
そう考えれば、ロレンスにもホロの行動が納得できるような気がした。クワスみたいな苦くて酸っぱい酒を、一人で抱えて啜るホロの様子を想像するべきだ。楽しげな酒だとは到底思えない。もっと早くに気がつくべきだった。
今求められているのは、叱責ではなく、寄り添うことではないのだろうか?
たとえ暖炉に泥で包んだ玉ねぎを放り込み、柔らかく焼けたそれに香草をみじん切りにしてオリーブ油をかけ、最後に塩を振って食べたとして……食べたとして?
いや、やはり変だぞと思い直す。
なにか悩み事があって、それを紛らわすために隠れてなにかを貪るというのは、なんとなく理解できる。ヤケ酒なんかその最たるものだ。しかし、香草とオリーブ油をいそいそと用意して、塩まで振って万全の態勢で臨むだろうか? どう考えたって、その時のホロの顔はにやけている。
ロレンスはホロをじっと見る。目の前にあるすべてのことが、うまく収まらない。
ロレンスは目を眇め、口元は嫌そうに歪んでいく。
最後に出てきたのは、大きなため息だった。
「なあ、ホロ」
どうにでもしてくれ、とばかりにやさぐれた様子のホロが、ちらりと横目に視線を向けてくる。
2017年11月10日更新の『狼と飴色の日常≪後編≫ 』に続く。
☆ひと足先に続きを読みたい方は、発売中の『電撃文庫MAGAZINE Vol.58』をチェック!