※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.59掲載の前半を抜粋したものです。


 空の青さが濃くなって、森からは緑の香りが溢れてくる。一年の半分近くを雪で覆われる山奥の温泉郷ニョッヒラにも、夏がやってきた。

 湯屋“狼と香辛料亭”の主人であるロレンスは、夏の空気を胸いっぱいに吸い込む一方、別のことでも夏の到来を実感していた。

「……まったく」

 記帳に使うインクを取りに寝室に向かった時のことだ。ロレンスは扉を開けて、呆れたようにため息をついた。

 湯屋の中で妻のホロの姿が見えなかったので、どこでなにをしているのかと思えば、寝室のベッドで呑気に眠りこけていた。ベッド脇の机の上には飲みかけの麦酒が置いてあるので、ちびちび飲みながらごろんと横になって空を眺めていたら、うとうと寝入ってしまったのだろう。

 この季節、木窓を開け放てば涼やかな風が頬を撫で、小鳥のさえずりが耳にくすぐったい。真っ青な空に浮かぶ雲をのんびり眺めて過ごせば、それに勝るもののない最高の贅沢だ。

 その真っただ中にいるホロは、間抜けな猫みたいに仰向けで口は半開き。右手は腹の上に置かれていて、すう、すう、という寝息と共に上下している。

 じっと眺めていると、時折右手が腹を掻いていて、ロレンスは苦笑した。

 ベッドで寝ているのはどう見ても齢十余の少女であり、そんな年頃の娘がはしたない、と言うところだろうが、生憎とホロは見た目どおりの少女ではない。真の姿は麦に宿り、その豊作を司る、見上げるばかりに巨大な狼だった。

 なので、頭には髪の毛と同じ亜麻色の毛に覆われた獣の耳があるし、腰からはふさふさの尻尾が生えている。手入れを欠かさない尻尾の毛が、今も木窓から漂う夏の爽やかな風に揺られていた。

 そして狼らしさは、その耳と尻尾だけでなく、寝相にも現れている。

 ホロは寒い季節は狼のように体を丸め、うつ伏せで眠るのだが、暖かくなるにつれて段々体が伸びてくる。この季節にはすっかり手足を投げ出して、仰向けになる。怖いものなどなにもなく、ただこの世を謳歌するのみと。

 なんとも平和な、いや、間抜けでさえある光景だった。

 自分の寝相で季節の到来を確認されていると知ったら、ホロはきっと怒るだろう。

 もちろん、毎年の楽しみが無くなってしまうので、ロレンスは注意深く隠している。

 今年もホロの様子を楽しんでから、ベッド脇の机に視線を向ける。そこには紙と羽ペンが出されたままで、文字の横にはやや不格好な絵が添えてあった。昨日収穫してきたスグリの絵で、紙の上にも実がいくつか転がっている。

 スグリはそのまま食べられなくもないが、顎にひびが入りそうなほど酸っぱい。ホロは時折わざわざ酸っぱい実をそのまま食べて、尻尾の毛を倍に膨らませていた。

 この季節にどっさり集めたスグリは、砂糖で漬けこんだり、蜂蜜で煮たり、あるいは酒にしたりする。

 ロレンスは黒い実を一つ手に取って、手のひらの上で弄んだ。そして、木窓の外を眺めて大きく深呼吸をしてから、ホロが眠るベッドの脇に腰かける。

 油断しきって一向に目を覚まさないホロの寝顔をしばし眺めてから、掌の上のスグリを指でつまみ、ホロの唇にそっと当てる。

 獣の耳がぴくんと動き、瞼がわずかに震えたので、目を覚ますだろうかと思ったがそんな兆候はない。それどころか、狼特有の警戒心はどこへやら、唇を堅くすることすらなかった。

 食い意地の張った賢狼様は、食い物が口に触れると寝ていても唇がもぐもぐと動き、あっさりと生のスグリを口に含み――。

「んぐっ……むっ……」

 ぷちゅっと実を噛みしめた、その直後だ。

「むーーーー!」

 あまりの酸っぱさに、ホロが飛び起きた。

「む、んぐっ……んっぐ。な、なんじゃっ!?」

 起き上がった拍子に無意識に呑み込んだようで、ホロは自分の喉と胸を慌てて撫でていた。

 取り乱している様を楽しみながら、ロレンスはホロが飲みかけのまま放置していた麦酒を渡してやる。ホロはこれ幸いとすがるように麦酒を飲んでいたが、ようやく事の次第に気がついたらしい。机の上のスグリと、ベッド脇に座って笑っているロレンスがいれば、結びつけるのは難しいことではない。

 赤味がかった琥珀色の瞳が、めらめらと輝きだす。

「……この……たわけが!」

 昔ならばその剣幕に恐れおののいていただろうが、ロレンスがホロを娶ってもう十年以上になる。噛みつかんばかりのホロの手から、飲み終わったジョッキを受け取って、その口の周りについた白い泡を親指で拭ってやる。

「目が覚めたか?」

 ホロは笑っているロレンスを睨みつけ、ロレンスの手首を両手で掴むと、力任せにごしごし自分の口の周りを拭っている。最後に手の甲に噛みついて、ふんっと不機嫌そうにそっぽを向いた。

「まったく、なんなんじゃ!」

 見栄っ張りなホロは不意打ちにとても弱い。あまりやると本当に機嫌を悪くしてしまうのだが、たまにはこんなホロを見て仕事の憂さを晴らしたって罰は当たらないだろう。

 ロレンスはホロの頭を撫でようとして、手で払われた。

 拗ねている様がたまらなく愛しかったが、本気で怒らせる前にこう言った。

「仕事だよ。お前の出番のようでな」

「……」

 横目に思い切り嫌そうな顔を向けてから、ホロはため息をついて、ベッドを降りたのだった。



 ロレンスが大きな古びた地図をテーブルに広げると、埃が舞ってホロがくしゃみをした。

「ぐすっ……なんじゃこれは」

 鼻を擦りながらホロが不満げに言うが、その言葉を聞いて、ロレンスの顔はもっと不満げになった。

「覚えてないのか」

「むう?」

 きょとんとしたホロは、地図とロレンスの顔を見比べてから、「むっ」と唸った。

「ああ……ふぁっ、くしゅんっ! ぐすっ……なんじゃこんな懐かしいものを引っ張り出して」

 ようやく思い出したらしい。

 広げられた地図には各種の書き込みがなされ、一部には酒をこぼした染みも付いている。

 それはロレンスとホロがこのニョッヒラに湯屋を構える際、どこに湯屋を据えるのがよいかと検討するために拵えた地図だった。いわば、北の地に自分たちの居場所を見つけるという、かつての宝の地図だ。

「宝の地図は、宝を見つけたらもう用無しじゃからのう。すっかり忘れておった。たまにミューリのやつが眺めておったくらいじゃろ」

 手拭いでホロの鼻を拭ってやると、尻尾をぱたぱたさせたホロがそんなことを言う。

「で? これがなんなんじゃ。まさか、二軒目を建てるつもりかや?」

 湯屋“狼と香辛料亭”の別館を作り、商いを拡大させていく……なんてことを夢見ていたのは昔の話だ。今は自分の湯屋を慎ましく、それでいてどこにも負けない湯屋にするほうが大事だった。

「いや、お前にお願いしたいのはな、ここから、ここ」

 と、ロレンスはニョッヒラの村から、西に向かって指を滑らせる。

 いくつもの山が折り重なり、村とも呼べない集落でさえ存在しない、深い森の続く土地だ。

「この間を繋ぐ道を見つけて欲しいんだよ」

「道じゃと?」

 怪訝そうに聞き返すホロに、ロレンスは言った。

「狼の姿で何度も行き来してるだろ?」

「それはそうじゃが……いや、それ故じゃ。こんなところに道などありんせん」

 ロレンスが指示したのは、温泉郷ニョッヒラと、とある土地を結びつける直線だった。

 その先にあるのは一軒の建物であり、そして、一時はニョッヒラの商売敵になるのではと懸念された所だった。

「わかってる。これから切り開くんだよ。けど、歩きやすいところとか、難所とかわかるだろう? それと、もう一つ」

 ロレンスは、ホロの狼の耳の先を指でつついた。

「森の連中にも、ここだけは人に踏み入って欲しくない場所というのがあるはずだ」

 その言葉に、ホロは眉根に皺を寄せ、唇を尖らせるように引き結ぶ。

 赤味がかった瞳がロレンスを睨むのは、面倒な仕事を持ち込みおって、というところだろう。

「面倒な仕事を持ち込みおって」

 思ったとおりの言葉がホロの口から出てきたことに、ロレンスは疲れたように笑って肩をすくめた。

「大体、これはあれじゃろうが。セリムと、あの眷属連中が作った宿場だかに続く道じゃろ? いいのかや? ぬしらの商売敵だった気がするんじゃがのう」

 セリムとは、湯屋で働いてくれている若い娘のことだが、これもまた人ではない。ホロと同じような狼の化身で、同じく狼の化身である兄やその仲間と共に、南の地方から安住の地を求めて北にやって来た。紆余曲折の末ロレンスたちの湯屋で働くことになったのだが、セリムの兄であるアラムたちは別だった。彼らはニョッヒラから西に向かって山を越えた先で、修道士の振りをしながら聖人の奇跡にあやかった宿場を経営することになっていたのだ。

 アラムたちがそこに居を構えるという噂に、ニョッヒラの湯屋の主人たちが商売敵の出現かと色めきたったのは記憶に新しい。

 ただ、セリムの兄であるアラムたちにそんなつもりはないし、そもそも彼らが拵えた宿場には、ニョッヒラと敵対するだけの収容力や湯があるわけではない。

 加えて身内のセリムがロレンスの下で働いていることと、なにより彼らにとってホロの存在というのがまた大きかった。

 そのどれ一つをとってみても、アラムがこう申し出るのに十分なものだったろう。

 ――私たちの宿場にやって来た巡礼の旅人を、ニョッヒラの湯屋で受け入れてもらえないでしょうか。

 ロレンスはその頼みを受け取って、ニョッヒラの湯屋の主人たちが集まる寄合で報告した。

 万事につけ保守的な彼らだが、商いに盲目なわけではない。

 湯の客を取りあうわけでもなく、むしろ巡礼目当てにやって来た客が村にも来てくれるなら、決して悪い提案ではないと理解した。さらには、アラムたちの宿場とニョッヒラとがつながれば、ニョッヒラにやって来た客たちにとっても、一つ楽しみが増えることになる。長期の湯治客の無聊をいかに慰めるかが湯屋の主人たちの腕の見せ所だが、そうそう案があるわけではない。そこに、新たな巡礼場所ができて、数日かけて客が物見遊山に出かけてくれれば、その間は仕事が楽になるというものだ。

 寄合では満場一致で賛成となったが、問題があった。

「それが、道かや」

「獣道でもあれば助かるんだが、それだって勝手に使ったら森の住人に迷惑がかかるだろう」

 腕組みをしたホロは、喉の奥で唸りながら耳をばたばた忙しなく動かしている。

 森には森の掟があるというので、穏便に済ませようと思うと大変なのだろう。

 その巨大な狼の姿に戻って力づくで言うことを聞かせる、というのはホロの性分に合わないのでなおさらだ。

「人の足では一日で行ける距離でもないから、途中に宿泊用の小屋も必要になる。近くに熊の寝床があったり、鹿の通り道があったりしたらお互いまずいことになるだろう? お前なら、そのへんの按配がわかると思って」

「むう~~~……」

 ホロは唸って、大きく息を吸うと、子供みたいに足を投げ出した。

「セリムにやらせたらどうじゃ。わっちの名代じゃと言えば森の連中も納得すると思いんす」

 セリムもまた狼の化身なので、確かにこの仕事ができないわけではない。

 しかし、セリムは湯屋の切り盛りに必要欠くべからざる人員だ。

 朝から夕まで湯屋のこまごまとした仕事を一手に引き受け、夜は夜で蝋燭の明かりを頼りに、磨いた硝子片である眼鏡を使って書き物仕事に勤しんでくれている。

 ロレンスが本音を憚りなく言えば、心地の良い今の季節、涼風に誘われるままにベッドに寝転んで昼寝ばかりのホロは、セリムの半分くらいしか役に立っていない。

 もちろん、そんなことを言えば一家の危機に陥ることが目に見えているので、ロレンスは元行商人らしく、知恵を巡らせた。

「お前にどうしても頼みたい理由があるんだよ」

「……ふん?」

 どう言い包めるのか聞いてやろう、とばかりにホロの疑り深い目が向けられる。

 ロレンスは殊更殊勝な様子で、ホロに耳打ちするように口を開いた。

「ニョッヒラに湯治に来ている客は、高齢の人間が多いだろう? アラムさんたちの宿場までは、彼らの多くが歩いて行くことになる」

「……それは、わっちもまた年寄りじゃという意味かや?」

 御年数百歳のホロだ。

 唇の下に牙がちらりと覗いたが、もちろんロレンスは慌てずに言葉を添えた。

「違うよ。セリムさんに任せないのは、この姿のためだ」

「……う、む?」

 ロレンスはホロの頬に手を当て、親指の腹で目尻を擦ると、ぽんぽんと頭を撫でた。

 そこにいるのは、おとなしくしていれば幼ささえ感じられる、少女のようなホロだ。

「新しく道を切り開くのは大変な作業だから、まず道順を決めるだけでも揉めることになる。寄合のだらだらした会議に任せていたら、道ができるのはいつになるか見当もつかん。でも、この体で歩ける道なら、ニョッヒラの客のほとんどが歩くことができる。だからこの道にすべきだって説得できるだろ?」

 ホロは自分自身の体を見下ろし、なんだかずいぶんか弱い上目づかいになる。

 ロレンスは、あらんかぎりの力を振り絞り、言葉に力を込めた。

「セリムさんよりお前のほうが可愛らしいからな。村人に対する説得力が違う」

「……」

 赤味がかったホロの琥珀色の瞳が、じっと無言のままロレンスに向けられる。綺麗な宝石のような瞳はまばたきひとつしなかったが、ふと瞼が閉じられると、目線が逸らされた。

「ふん」

 ホロは小さく鼻を鳴らし、唇をちょっと尖らせる。

 耳と尻尾が、嬉しそうにぱたぱたしていた。

「ぬしは口だけは達者じゃからな。口車に乗ってやりんす」

 不機嫌そうな体を装うホロに、ロレンスはあくまでも慇懃に頭を下げる。

「助かるよ」

 ホロはロレンスを横目に見てもう一度鼻を鳴らすと、目を閉じて肩をぐいとロレンスに向けて突き出してくる。

 ロレンスはやれやれと笑い、構って欲しがりの狼をぎゅっと抱きしめた。

「で? わっちが適当に道になりそうなところへ線を引いてくればいいのかや」

「いや、村の狩人や樵、それにアラムさんたちも同行するから、検分に混ざってきてくれ」

 腕の中で心地良さそうに目を細めていたホロが、たちまち気難しげな顔になる。

「なんじゃ、他の連中がおるのかや? あまり人目につきくたないんじゃがのう。ぬしも困るじゃろうが」

 ホロは人ならざる者であり、歳を取らない。この村に来て十数年、なるべく姿を隠していたのはその辺りのことを誤魔化すためだったが、もうひとつ理由がある。

 ホロは結構、人見知りなのだ。

「頼むよ。俺はようやくこの村の一員に認められてきてるんだ。ここで妻たるお前がうまくやってくれたら、いよいよ村の仲間入りだ」

 群れで暮らす狼のホロは、殊更この手の話に敏感だった。

 それに、たった一人、誰からも感謝されない村で麦の豊作を司っていた経験もあるホロは、疎外感を抱き続けて暮らすことの辛さをよく知っている。

 顔は正直嫌そうなままだったが、結局、肩の力を抜いてため息をついていた。

「まったく……わっちゃあ面倒なところに嫁にきてしまいんす」

「助かる。ありがとう」

 ロレンスがもう一度ホロのことを抱きしめると、ホロは尻尾をわさわさと振った。

「ま、たまにはぬしとの散歩も悪くありんせん」

 そう言って笑顔を向けてくるホロに、ロレンスは罪悪感を覚える。

 ホロはもちろんその様子に気がついて、きょとんとした。

「む……う?」

「悪い……俺は湯屋に残らないとならない」

 ホロは小さく目を見開いて、口をつぐむ。獣の耳が悲しげに震え、しゅんと伏せられる。

 一緒に山歩きができるのだと喜んでくれていた可愛いホロに、なんと声をかければ……と思ったものの、尻尾の毛の膨らみ具合に気がついてため息をつく。

「あのな、演技でもそういうのやめてくれ」

 するとたちまち泡が弾けるかのように、ホロの顔から悲しみの色が抜けた。

 代わりにあるのは、冷え冷えとした目だ。

「ふん。わっちを山に追い立てておる間、ぬしはなにをするのかと思ってのう」

「少なくとも、麦酒をちびちびやりながらベッドで昼寝、なんてことはない」

 もちろん当てこすりだとホロはわかっているので、むうっと睨みあげてくる。

「それともお前が俺の仕事をするか? さっさと終わらせないとまずいから、きちんとやってくれるならそれでもいいけど」

「む……ぬ、ぬしの仕事?」

 湯屋の仕事は毎日共通の湯屋の維持の仕事と、季節ごとに行う仕事に分かれている。特に後者は食べ物の収穫や保存の加工などが多いので、大量、かつ、面倒なものが多い。ホロはこの時期はなんの仕事だったかと思い出そうとしているようだが、ロレンスはこう言った。

「客の土産用の、硫黄の粉の天日干しだよ」

「あっ」

 湧き出る湯には、黄色がかった硫黄の粉が溶けている。ただの硫黄とはちょっと違うようで、関節の痛みや腫物、切り傷などに用いると効果がある。と言われている。効能を信じている客は、それを湯に溶いて飲んだりもする。ロレンスは過去に試して腹を下したので積極的には勧めないが、客が欲しいと言うのならば用意するのが商人だ。

 ただ、湯が沸き出る源泉あたりに溜まったそれは、一度素焼きの壺に入れて水だけを抜いた後、天日に晒して干さなければならない。客のほとんどがこぞって買い求めるので、その準備も大変だ。かといって薪で火を熾して粉を乾かしていたら大赤字なので、晴れが多い夏のこの季節に、まとめて用意しなければならない。そして、その用意がまた一筋縄ではいかない。

 水が抜けた後の湿った硫黄の粉はずしりと重く、壺の中から固まった粉を掻き出すのは一苦労だ。しかも亜麻布の上に晒してからは棒で砕いてよく伸ばし、今度は乾いた粉を集める作業もあって、それを延々と繰り返す。

 ホロなら、三往復目には根を上げること間違いなしだ。

 ロレンスがじっとホロの顔を見つめていると、損得の天秤を頭の中でいじっていたホロは、不意に笑顔になって、こう言った。

「……ま、わっちもこの湯屋の一員じゃからな。わっちらが村の仲間になれるよう、頑張らねばならぬようじゃ」

 山歩きのほうがまだしもまし、と結論が出たらしい。

 ロレンスがやや冷ややかな目を向けると、ホロは文句あるのかと睨み返してくる。

 もちろん、やることをやってくれれば文句はない。

 ロレンスは肩をすくめ、ため息をついた。

「美味いものを用意するようにハンナさんに言っておくから、きっちり頼んだぞ」

 すると、手の甲をつねられた。

「たわけ。わっちがいつもそうやって食い物で釣られると思うのかや」

「なら要らないのか?」

「そんなことは言っておらぬ」

 ふんすと鼻からため息をつくホロに、ロレンスは苦笑するしかなかったのだった。



 狼のホロの背中に荷物を括りつけることは何度かあったが、人の姿でそうするのは珍しいかもしれない。筆記用具と昼食を詰めた背嚢を背負わせ、山道で邪魔にならないようにきつめに紐を結わえておく。

 それから、他の村人と行動を共にするので、耳と尻尾を隠す必要があった。耳はフードをかぶるとして、問題は尻尾のほうだ。

 結局、木を隠すには森の中ということで、腰巻にふかふかの毛皮を用いることにした。夏といえど、日の届かない森の中は結構冷えるのでちょうどいいだろう。

 あとはホロの振る舞いと、怪しまれた時には口八丁を信じるしかない。

「じゃあ、頼んだぞ」

「んむ」

 外出用の服に身を包んだホロは、案外嫌な顔をせず、むしろ乗り気なようだった。

 出発の際には、背伸びをしてわざとらしく顔を向けてくるので、ロレンスはやれやれとホロの頬に口づけする。

「くふ。良い子にしててくりゃれ?」

 寂しがりの甘えん坊はどっちなんだとロレンスが苦笑すると、ホロは牙をちらりと見せて笑い、湯屋の前の坂を下りていった。ほどなく村の狩人たちと合流して、修道士姿のアラムが深々と頭を下げてよこす。ホロが最後に大きく手を振って、見えなくなる。

 娘であるミューリに初めてのお使いを命じた時とはまた違う、不思議な感傷にロレンスは気の抜けた笑みを浮かべていた。

「あの、ロレンス様」

 と、そこに声がかかる。

 斜め後ろで一緒にホロのことを見送っていた、湯屋で働く娘セリムだ。

「やはり私が行ったほうがよかったのではないでしょうか……」

 肩までかかる髪の色は薄く、狼の姿に戻ると実に神々しい白い毛並みのセリムは、申し訳なさそうな顔、というのがとても板についている。

 昔はホロから、ぬしは幸薄そうな娘が好きなのじゃろう? と散々からかわれた身としては、セリムの扱いには注意しなければならない。

「いえ、最近のあいつは仕事に手を抜き過ぎですから。セリムさんがいなくなったら、湯屋が回らなくなってしまいます。あいつの昼寝の様子は、セリムさんも知っているでしょう?」

 セリムはやや恐縮するように肩をそびやかしていたが、ホロの様子を思い出したらしい。

 素直にうなずこうとして、慌てて首を横に振っていた。

「い、いえ、私は働くのが好きですし、ホロ様も要所では快く手を貸してくれますから」

「そこなんですよ。どうにもあいつは、船が沈みさえしなければいいと考えがちでして。もっと速く漕ごうという気概に欠ける」

 むしろ必死なロレンスのほうが変、と言わんばかりだ。

 唸るロレンスにセリムは困ったように笑ってから、ゆっくりとこう言った。

「あるいは、それが長く生きる秘訣なのかもしれません」

 どちらの顔も立てようと微笑むセリムは、とても良い娘だった。

「そうですね。天秤の片方ばかりに錘を乗せては倒れてしまいますから」

「はい」

 にっこり笑うセリムに、ロレンスも笑顔を返す。ホロが側にいたら半目で睨まれそうだったが、笑顔を武器に使わない素直なセリムを、少しは見習ってほしいとロレンスは思う。

「あ、それとロレンス様にご報告が」

 見送りも終わったので湯屋に戻ろうとしたところ、歩きながらセリムが言った。

「昨晩、収支の計算をまとめていたのですが」

「なにか齟齬が? いや、まさか赤字でした?」

 眼鏡を手に入れてからのセリムはめきめきと読み書きの腕を上げ、あっという間にコルと同じ仕事を任せられるようになっていた。

 がむしゃらに働くのではなく、丁寧にたゆみなく仕事を積み上げる性格のセリムは、特に帳簿を任せるのにうってつけだった。

「いえ、貨幣のお話です」

 そう言われた瞬間、ロレンスはすぐに理解した。

「ああ……小銭ですか……」

 ため息交じりの言葉に、セリムは申し訳なさそうに肩身を小さくする。

「仕入れの際の支払いを各種の銀貨でやりくりしてみたのですが、どうしても小銭が足りなくなってしまいまして……」

「セリムさんの責任ではありません」

 ロレンスはその言葉でセリムを安心させてから、頭を掻いた。

「寄合ではその話も出ましてね。今年はどこの地域も商いが大賑わいのようで、貨幣が払底してるんですよ」

「つまり……手当てはしばらくできないと?」

 首をすくめ、上目づかいに尋ねるセリムは、今から支払いの貨幣をどうしようかと頭を悩ませているようだった。

「大きな買い物には為替を使って凌ぐとして……こまごまとした支払いや、客からの両替ですよね」

 特に、客からの両替の要望が大きい。彼らの長い湯治の楽しみの一つに、湯で披露される踊り子や楽師の宴がある。暇に飽かせた好色の老人どもは、艶やかな踊り子の汗ばんだ肌に、ぺらぺらの銅貨をおひねりとして張り付けて、にっこり微笑んでもらうのを生きがいにしているところがある。

 ほかにもニョッヒラの村には自家製の酒や菓子を売り歩く者たちがいて、ちょっとした軽食の支払いに小銭は必要だし、従者を従えている者たちは彼らに小遣い銭を渡す必要がある。

 小銭がなければ、あらゆる人が不便をするのだ。

「代案を考えておきますから、その間なんとかやりくりお願いします」

「わかりました」

 従順な娘なのでセリムは嫌な顔一つしないが、両替やらで客の矢面に立たされるのはセリムだ。ロレンスとしては心苦しいものがある。

 ぺこりと頭を下げてから仕事に戻っていくセリムを見送り、ため息をついた。

「代案……代案、なあ」

 ロレンスは腰に手を当て、空を見上げた。

 山深い場所に佇むニョッヒラの、さらに山の中に分け入った宿だ。最寄りのまともな町までは、川に山道にと数日分の距離がある。貨幣の問題は大きな町の両替商でさえ頭を悩ますことなのだから、こんな山奥の湯屋の主人に解決の当てがあるわけもない。

 建物の向こうの湯殿からは、楽器の音色と客たちの楽しそうな喧噪が聞こえてくる。

 この笑いと喧騒を絶やさないのが、湯屋の主人たるロレンスの務めだ。

 ここは自分とホロの見た夢の棲家なのだから、諦めるという選択肢はない。

「とはいえこの世は、夢を見るのにも一苦労だな」

 ロレンスは苦笑とともに呟き、仕事に戻ったのだった。



 村の寄合は、夏と冬の繁忙期ならば月に一度、それ以外の暇な季節には二度行われる。それに加えて、なにか問題が起これば適宜集まるという形だった。

 普段は早々に湯屋の主人たちの飲み会と化すのが常だが、ここ何回かはわりかし真面目に話し合いが行われていた。

「えー、では、聖セリムの宿場までの道の件は、順調に進んでいるということで」

 妻たるホロが参加しているということで、ロレンスが道の検分の件について報告した。どのあたりに道を作るのがよさそうかという案にも、ホロのような娘が歩けるのだからというのが効いたのか、湯屋の主人たちから特に反対は出なかった。

 またアラムたちの宿場の名前は結局、聖セリムの宿場ということで落ち着いたらしい。その土地に聖女が銀に姿を変えて眠っている、という奇跡を演出する際、大司教に向かってセリムが自分の名前をそのまま名乗ってしまったのだから仕方がない。

 それに、ロレンスの湯屋で働く娘がセリムでも、まさか二人が同一人物だとは誰も考えもしないだろう。

「道の開拓の際の費用の分担や、切り出した木材の売却、小屋の建築費用などについては、後ほどということでよろしいかな」

 異議なし、と他の湯屋の主人たちが口を揃える。冬ほどではないにせよ、人の出入りの多い夏の季節に金の話をされても混乱するだけだ。繁忙期は、どこの宿屋も自分たちがどれだけ儲かっているのかなどほとんど把握できていないだろう。

「さて、残る議題だが……」

 と、議長の口が淀む。

「我々が陥っている、深刻な小銭不足についてだ」

「スヴェルネルの両替商はなんと?」

 誰かが、待ってましたとばかりに声を上げた。

 スヴェルネルとは、ニョッヒラが様々な物資の納入を頼っている、この北の地では交通の要になっている町のこと。貨幣が余った時も足りない時も、まずはこの町の両替商を通じてやり取りする。

「こちらに渡すどころか、もっと貨幣を寄越せと言われるかもしれないな」

「春にあれだけ渡したのにか?」

 ニョッヒラの村では、冬の繁忙期が終わると、村の湯屋に支払われた大量の貨幣をスヴェルネルの両替商に持ち込むのが恒例になっている。春は冬の間に滞っていた商いが一斉に始まる影響で、貨幣の相場が上がることから町に貨幣を持ち込むとまとまった儲けになるのだ。

「デバウ商会のほうは?」

 その言葉は、ロレンスに向けられた。北の地一帯の経済に大きな影響力を持ち、同時に最も信用度の高い貨幣を鋳造するデバウ商会とは、行商人時代からの深い仲だ。

「手紙で問い合わせたのですが、夏の間はどこの鉱山も雪解けの水が出るので、直ちに造幣をするのは難しいと」

 貨幣を打ち出す打刻槌があっても、地金が無ければ貨幣を打ち出すことはできない。

 デバウ商会は自前の鉱山を抱えているが、産出が追いつかないのだろう。

「まあ、打刻槌を抱えているところは、どこも地金の確保に血眼だろうな。この状況ならば、貨幣を打てば儲かるんだから」

「おお、ぴかぴかの銀貨が懐かしい!」

「出入りの商人も、最近はどこも為替の振出ばかりで、商いをしている気になれないとぼやいてたよ」

 為替は紙に金額が書き込まれた証書の一種だ。重い貨幣をいちいち運ばなくてよいという便利さがある一方、どれだけ巨額でも紙切れ一枚にすぎない。ありがたみがないというその気持ちは、ロレンスにもわかる。

「踊り子へのおひねりも為替証書にできたらいいんだがなあ」

 誰かの軽口に、皆が笑う。

「紙きれを貨幣の代わりだと言われても、踊り子たちはにこりともしないだろうさ」

 どれだけぼろぼろでも、貨幣はあの貨幣の形だから、皆が価値を認めるのだ。

「なら、俺たちにできることは、踊り子や楽師、出入りの商人や物売りたちに集まった貨幣を、なんとか使わせて回収することくらいか」

 彼らも目ざといので、手に入れた貨幣をどこに持ち込むのが一番得かを理解している。

 残念ながらニョッヒラはその候補には上がらず、貨幣は外に持ち出されることになる。

「あるいは、俺たちが歌って踊って見せるとかな」

 その冗談に一際大きな笑いが起こる。

 とはいえ、半ばやけくそに近い笑い方なのは、目の前の貨幣不足はどうしようもないことだったからだ。

「結局、耐えるしかないということだな」

 議長の疲れた一言に、湯屋の主人たちの嘆息が重なる。

 重苦しい沈黙が流れかけた、その時だった。

「わしらが踊ったり歌ったりすることはできないかもしれんが」

 と、口を開いた主人がいた。ニョッヒラの村で一番美味い食べ物を出すという湯屋の主だ。

「小銭をかき集めるのにもってこいの催し事があったろう。それでいいんじゃないか?」

 そんなのあったか? と周りがざわざわする。

 ロレンスも首をひねっていると、まさにその当の主人から視線を向けられていた。

「ほら、ロレンスさんの言いだしたことだ」

「えっ」

 たちまちロレンスに注目が集まった。

「偽の葬式だよ」

 顔が熱くなったのは、恥ずかしさではない。

 嬉しかったのだ。

「ああ、まだ生きてる奴を棺に入れて……だったか?」

「そういやそんな案があったな。面白そうな話だったが、あれって結局どうなったんだ?」

 人は今際のきわにならなければ、愛する人にさえ、大切なことを言えなくなる。ならば生きているうちに葬式を挙げて、普段は言えない気恥ずかしいことを伝えてみよう、なんていう催し事の提案だった。

 ニョッヒラは夏と冬に客が集中し、春と秋は閑散とするため、その暇な時期に人を呼べないものだろうか、ということに対するロレンスの提案だった。

 試しにやってみたら費用も掛からず受けもよかったのだが、何事につけ保守的で腰の重い湯屋の主人たちのこと。準備やらなんやらで面倒くさかったり責任を負いたくなかったりで、なんとなくそれっきりになっていた。

 ロレンスとしては自分が面倒を引き受けてでも、と思ったが、村の中では最も新参者なので、あまり出過ぎた真似をすれば鼻つまみ者になりかねない。

 それでいつしかそのことも忘れてしまっていたが、意外な復活を見た。

「葬式ならば献灯で蝋燭を売れるし、寄付箱を回せば踊り子や楽師、出入りの商人たちも小銭を払わざるを得まい。お遊びだからほんの気持ちの小銭でいい、というところが肝だ。もちろん、銀貨を入れられたのなら、それはそれで儲けものだしな」

 皆が、なるほど……とばかりにうなずいている。

 そこに、議長役がぱんぱんと手を叩いた。

「確かに一石二鳥だ。夏からこの調子だと、冬はもっと貨幣事情が厳しくなるのは目に見えている。ならば、今すぐには無理でも、秋には開催できるように検討してみるのは悪くないと思う。如何か」

 普段は些細なことでさえなにひとつ決まらない寄合だが、狭い村ではなにかが決まる時は一瞬だ。賛成、という声が手と共にあがり、ロレンスは自分の案が村に受け入れられた瞬間を目の当たりにした。

「では、そういうことで。とはいえ今からあれこれ決めることもなかろうし、ひとまずは聖セリムの宿場の件が片付いてからだな」

 やるべきことは山積している。

 ざわざわと騒がしくなった中、ロレンスは提案をしてくれた湯屋の主人に目線を配る。

 相手はすぐにロレンスの視線に気がつき、その意味も悟ったようだが、肩をすくめられた。

 客のために食事の創意工夫を怠らない主人だから、ロレンスのためだとか関係なく、有用そうだから提案したまで、ということなのだろう。

 だが、なんにせよロレンスは嬉しかった。これで自分もさらに一歩、村の輪の中に入れたはずなのだから。

「さて今日はひとまずこれでしめて、宴会といこうか。今年最初の果実酒の出来も確かめたいところだしな」

 湯屋の主人たちから同意の拍手が出て、皆がいそいそと宴会の準備を始める。

 冬ほどではないにせよ、夏も忙しいので日の高いうちから酒が飲める寄合は、これを一番の楽しみにしている者が多い。

「今年の夏は茸もよく採れてなあ。おおい、炭の準備はどうだ!」

 どかどかと食材や酒樽が運び込まれてくる。

 いつもこの宴会は気を使うばかりだったが、今日は楽しく飲めそうだ。

 赤ら顔で帰ったらホロが怒るだろうが、今日くらいは許してくれるだろうと、そんなことを思ったのだった。



 貨幣の問題が暗雲のように垂れこめている一方で、アラムたちの宿場と繋げる道の調査のほうは、順調に進んでいるようだった。

「それでのう? 座る時はいつも新鮮な草を刈ってきて敷いてくれて、ちょっとした崖を越える時は男どもに背負われたり、時にはそこいらの枝で簡易の輿を作り、その上に座って引っ張り上げてもらいんす」

 うつぶせになり、尻尾をふりふりさせているホロは、ロレンスに足を揉ませながらそんなことを楽しげに語っていた。

「まったく姫になったような気分じゃ。たまにはああいうのも悪くありんせん」

 今まさに姫のように甲斐甲斐しく世話をされているのでは? という言葉を、ロレンスは飲み込んだ。なんにせよ道の調査に一緒に赴いているアラムや狩人たちと気が合ったようで、楽しい気分でいるところにあえて機嫌を損ねる理由はない。

「あのアラムとやらも、最初は無礼な小僧じゃと思ったが、なかなかどうして。森の中ではそれなりに鼻が利きんす。狩人も人にしては腕が立つほうでのう。森の掟によく通じておる。わっちがおらんでも問題なかろう」

 ホロが人を褒めるのはとても珍しい。あるいはその評価は、今日の調査から帰ったホロが、腰から兎を三羽ほどぶら提げ、ホロの顔ほどもあるおいしい茶色の茸をいくつも背負っていたのが理由かもしれないが。

「なら道も作れそうか」

「んむ……う~、もっと強く……」

 歩き通しで疲れているのは間違いないようで、足の裏を強めに押してやると尻尾の毛を逆立てて唸っていた。

「はふう……で? ぬしのほうはどうだったんじゃ?」

 枕を抱くようにしてうつぶせになっているホロは、そのままの姿勢で言った。

「どうって、なにがだ?」

「今日は寄合じゃったろうが」

 いつもなら寄合がどうだったとかは聞いてこない。そういう時は基本的にロレンスが酒を飲みすぎた時だ。匂いがそんなに残っていたかなと思うと、ホロの尻尾が器用に曲がってロレンスの手をぱしりと叩く。

「たわけ。ぬしが浮かれておることくらいわかりんす」

 目を閉じたままのホロは、なんでもお見通しと言わんばかりだ。

 そして実際にお見通しなのだから、ロレンスは御見それしました、とばかりにホロのふくらはぎを丁寧にもみほぐす。

「ああ、嬉しいことがあってな。ほら、偽の葬式を挙げようなんて企んで、試したことがあっただろう? あれが形になりそうなんだ」

「ほほう」

 しかもそれは貨幣の問題も解決してくれるかもしれない。

 村の一大事を解消したとなれば、周りからも一目置かれることになるはずだ。

「お前の手助けもあるし、俺はついに村の一員になれそうだ」

「んむ。それは、それは……善き……こと……」

 と、ロレンスが嬉しさと感謝をこめてホロの足をせっせと揉み解していたら、いつのまにかホロの尻尾がもったりと右に揺れたまま動かなくなっていた。

 見やれば眠りこけていて、半開きの口からは小さないびきが聞こえてきた。

 まだ夜は浅く、いつもならば酒を啜りながらロレンスが書き物の仕事をするのにちょっかいを出している頃だ。今日は飯こそたらふく食べていたが、酒はあまり飲んでいない。人の姿での山歩きは、案外良い気晴らしになっているのかもしれなかった。

 ロレンスはホロの頭を優しく撫で、毛布をかけてやる。その後いくらか書き物の仕事をしようかと思ったが、くう、ぷすう、と気持ちよさそうに寝息を立てているホロを見ていたら、そんな気もなくなってしまった。

 蝋燭を吹き消し、ホロを起こさないようにそっと同じ毛布の中に入ると、枕をホロに独占されていることに気がついた。

 まったくもうと思いつつ、目を閉じればロレンスもまた、あっという間に眠りに落ちたのだった。



 小銭の不足や道の調査など、色々ありながらも目の前の仕事を片付けていくだけで時間は過ぎていく。朝にホロが背嚢を背負って出かけて行くのも見慣れた光景になり、夜は昼間の出来事を話しながら眠りに落ちるのが恒例になった。

 一方で葬式の件は皆が忙しい季節ということもあって、ひとまず秋口まで保留となっていたが、小銭の問題はまさに今、日を追うごとに深刻になっている。石工を呼んで石の貨幣を作ったらどうだなんて話や、駄目でもともとで下山して、いくつか町を回って小銭を集めてくるのはどうだろうか、なんて話が主人同士の雑談で出始めた。

 前者はともかく、後者は多少希望が持てる。

 問題は冬ほどではなくとも忙しいこの季節、誰が村の外に小銭を集めに行くかだが、こういう役柄が誰に振られるのか、ロレンスも薄々勘付いている。

 行けと言われたら湯屋を閉めざるを得ないが、どうしようか……などという不安を胸の内に抱えつつ、その日の朝もいつものとおりホロを送り出した。

 すっかり山歩きが楽しくなったようで、今日は茸やら木の実やらを集めるための麻袋まで背負っていた。欲張って詰め込んで、重さにふらふらになって帰って来る様子が目に浮かぶ。良い酒でも用意しておくか、なんて思いながら、湯から出た硫黄の粉を湯屋の前の空き地で乾かしていた。

 そして、そろそろ昼飯にしようかと、顔を上げたその瞬間だ。

 木陰から姿を現したホロの様子に、数瞬、見間違いかと思った。

「……え? ど、どうした?」

 寂しさのあまりにお昼時に会いに戻って来た、なんて可愛い理由だったらよかったのだが、ロレンスもホロとの付き合いは長い。ホロの顔がやや不機嫌なことに気がついていた。

 ホロは無言で森の中から出てくると、ロレンスの前に立って、ため息をつく。

「ややこしいことになってのう」

 ホロが嫌そうに言うと、ふと視線がロレンスの後ろに向けられる。ロレンスが振り向けば、乾かした硫黄の粉をまとめるための籠を持ってこようとしていたセリムがいた。

「アラムと狩人らは山にまだおって見張っておる。わっちだけ人を呼びに戻って来たんじゃ」

 兄の名前に、セリムが目を見開いていた。

 見張る、という単語に、ロレンスは眉をひそめた。

「なにか物騒な話なのか?」

 ニョッヒラの村は辺境も辺境にある。そして、いつの世も人目を避けざるを得ない者たちは、そういう場所に逃げ込んでくる。

「そんな可能性がなくもないと言われてのう」

「う、ん?」

 ホロの要領を得ない返答に困惑すると、ホロは大きく長く、息を吐いた。

「コル坊がおればよかったんじゃが……」

 意外な名前に、ロレンスの眉根に皺が寄る。

「コルが?」

 もう十年以上前、ホロと二人で行商の旅をしていた時に出会ったコルは、長いこと湯屋の経営を支えてくれていた。

 そのコルの力が必要という言葉に、ロレンスは一つしか心当たりがない。声を潜めて言った。

「まさか……なにかミューリがとんでもない悪戯の痕跡でも残していたとか?」

 一人娘のミューリはとにかくお転婆で、悪戯三昧だった。他の村人に知られたら卒倒するような危険な悪戯も数知れない。

 そのミューリはコルを兄と慕って懐いていたので、ミューリの起こした問題は大体コルが解決していた。そこからの連想だったのだが、ホロが苦笑いしているのを見て、どうやら違ったようだとロレンスは気がつく。

「コル坊とミューリはお似合いじゃからのう?」

 ホロのからかいにロレンスが怯むと、ホロはそれでようやく、喉の奥に詰まっていた緊張が抜けたようだった。

「そっちではありんせん。コル坊のあれじゃ。難しい知識についてじゃ」

「コルの……教会の?」

 ややこしいこと、とホロは言った。

 ロレンスは妻の細い肩に両手を改めて置いて、湯屋の主人として尋ねた。

「なにがあった?」

 ホロが口にしたのは、確かにややこしいことなのだった。



★2018年1月10日更新の『狼と青色の夢≪後編≫ 』に続く。
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