※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.60掲載の前半を抜粋したものです。


 鉈を振り下ろしたように、眠りから覚めた。

 毛布の中の動悸は、なにか悪い夢を見ていた名残だろう。ここ数日、ずっとそうだった。

 セリムは天井を眺め、ゆっくりと息を吸って、目を閉じる。ここは安心していい場所なのだから、と言い聞かせる。セリムが寝ているのは、きちんと屋根のある部屋の、虫の湧いていない亜麻布が張られたベッドだ。毛布は暖かくて柔らかく、香油が振り撒いてあるのか微かに甘い匂いがする。これまでの旅路からは考えられないような、恵まれた環境だった。

 セリムは南の地から放浪の果てに、数奇な縁を経て、温泉郷ニョッヒラにて暮らすことになった。ニョッヒラでも評判の湯屋、『狼と香辛料亭』に仕事を得たのは、幸運というよりも、奇跡に近い。

 だから、湯屋で働き始めた頃には、悪い夢ばかり見た。旅の途中で潜り込んだ村の納屋で、ほっと一息ついて眠ろうとしたら火事に巻き込まれたとか、そういう類の夢だ。

 自分の身に起きた幸運を信じられず、早晩唐突な終わりが来る、と身構えていたのだろう。

 そういうこともなくなったのは、北の地のそのまた果てにあるようなニョッヒラの、いつまでも後を引きずる寒い季節が終わり、新緑の季節になってからだった。

 仕事が大変かどうかと言われると、決して楽ではないが、過酷ではない。セリムは都市部の商会でも、田舎の農村でも、田園地帯の貴族の屋敷でも働いたことがあるが、湯屋というのはそれらすべてを足し合わせたような場所だった。

 たくさんの人が行き交い、仕入れが膨大な量に上るという意味で商会のようで、肉、魚、山菜は多くを自分たちで調達して、調理して、加工して、次の季節のために貯蔵して備え、建物の整備も基本的に自分たちで賄うというところが農村のようで、一方で、湯屋は客を迎え入れるために常に一定の格式に調度品やらを整えなければならないという意味で、貴族の屋敷めいている。やることは多岐に渡り、砂漠の砂を数えるように終わりがない。

 とはいえ、もっと働けと棒で叩かれることもないし、重労働の後に黴の生えたパンを恩着せがましく与えられるわけでもない。むしろ、仕事で失敗をしてしまっても、優しい主人は怒り狂うどころか、なぜ失敗したのかの原因を突き止めて、改善さえしてくれた。

 セリムがベッドで横向きになり、隣に置いてある文机に視線を向ければ、そこには主人の聡明さと優しさがある。木窓の隙間から差し込む月明かりを受けて、綺麗に磨き上げられた丸い硝子が光っていた。その湾曲した硝子をかざせば、小さい文字もくっきり見える、眼鏡という代物だ。

 自分の目が、他人に比べてあまり良くないということなど、セリムはついぞ気がつかなかった。なにかにぶつかったり、物を取り違えたり、読み書きを間違えるのは、単に自分がどんくさいだけなのだと思っていた。

 湯屋の主人であるロレンスからそれを渡された夜は、嬉しくて、楽しくて、ずっと月の下で文字を眺めていた。

 この湯屋でいつまでも働けたらいいのにとセリムが思ったのは、眼鏡を受け取った日の夜、金色に輝く月を眼鏡越しに眺めた時だった。

 しかし。

 セリムは目を閉じ、ため息をつく。ここのところはあまり気分が晴れなかった。

 しばらく見なくなっていた悪い夢も再発している。正確には、今までとはまた違う悪い夢を見るようになった。

「ふう……」

 セリムは自分の弱さに辟易する。兄にこの様を見られたら、きっと叱られるだろう。

 けれど、とセリムは言い訳をしたい。枕に顔をうずめ、ぎゅうっと抱きしめた。自分の胸の中にある不安をそうやって押しつぶそうとしたところで、もちろんなんの効果もない。

 それに、そうこうしていたら木窓の外から足音と、井戸に桶を放り込む音が聞こえてきた。

 湯屋で一番早起きの、炊事場を采配するハンナが起きてきたらしい。

 朝食の用意と、一日の食事の下ごしらえは、それだけで大仕事だ。手伝わなければならない。

 セリムは体を起こしてベッドから出ようとして、最後にもう一度、枕に顔をうずめて大きなため息をつく。

 息を吐き切ったら、ようやく顔を上げて、諦めたように起床する。

 今日も一日が、始まったのだった。



 朝は水汲みと、掃除と、火熾しと、湯屋に客のいる時は二日に一回、いない季節は四日に一回パン焼きがある。

 粉をこねてしばし寝かせて、日が昇る頃に村共同のパン窯に赴いて、パンを焼いてくる。

 パンを焼きたい人たちがそれぞれ薪を持ち寄って銘々焼くのだが、最初はパン窯も冷えているので、余計に燃料が必要になる。二番目以降は、すでにパン窯が温まっているので、少ない燃料でいい。そのため順番はくじ引きだ。

 もちろん一番目を引いてしまったからといって、主人であるロレンスから怒られることもないのだが、セリムはできれば一番目がいいと思っている。なぜならパン窯に集うのは、詮索好きの村の女性たちばかりだから。

 冬の終わり頃にぽっと現れたセリムなどは、格好の餌食だ。

 それに、狼と香辛料亭は、話題に尽きない湯屋だった。

「ただ今戻りました」

 くじはそこそこ当たりと言える四番目だったが、パンが焼けるのを待つ間に、たっぷりと詮索の矢に晒された。炊事場に戻る頃にはすでに疲れて、すっかり夜も明けきっていた。

 焼き立てのパンを盛った籠を炊事場の作業台に乗せると、柄杓を手に鍋をかきまぜていた恰幅のいい女性、ハンナがちらりとセリムに視線を向けた。

「おやご苦労様」

 そして、籠にかけてある布巾をめくり、満足げにうなずく。今回もきちんと良い頃合でパンが焼けたらしく、セリムはほっとした。鼻が人より良いので、パン窯の中がどうなっているかは見ないでもわかる。焦がしてしまうとすれば、それはパンを取り出す手際が悪く、もたついてしまうせいだった。

「さすが狼様だね。焼け過ぎず、焦げ過ぎず。すぐにパン屋で働けそうだよ」

「パン窯で焼ける頃合だけを見計らう仕事があれば、の話です。鼻で焼き加減の香りはわかっても、大きなパン生地をこねる力がありません」

 セリムが困ったように笑いながら言うと、ハンナもまた笑った。

 セリムは人の娘の姿をしているが、その実は人ではない。

 人よりも長い時を生きる森の住人であり、真の姿は白色の狼だった。

「そうだね。セリムさんはもう少し肉をつけたほうがいい。朝食、そこに置いてあるよ」

 ハンナと比べたら、腕周りは倍くらい違うかもしれない。

 湯屋の仕事には力仕事も多いから、できればもっとがっしりしたいところだ。

 とはいえ、セリムは食うや食わずの旅暮らしが長かったせいか、それとも生来そうなのか、あまり食が太くない。朝もさほど食欲がわかないのだが、調理台のほうには小麦にライ麦を混ぜたパンと山菜のスープ、そこに塩漬け肉がちょっと添えられていた。

 せっかくハンナが用意してくれたのだし、食べるのも仕事だ、とばかりに椅子を持ってきてスプーンを手に取ったが、やはり手はあまり進まない。

 早く食べて次の仕事に行かないと、と思っていると、後ろからにゅっと手が伸びてきた。

「沸かした山羊の乳に葡萄酒を混ぜて、蜂蜜とパン屑を溶かしたものだよ。これなら飲めるだろう?」

 振り返れば、ハンナだった。

「あ、ありがとうございます……」

 風邪をひいた時の子供の飲み物みたいだが、滋養がたっぷりなのは間違いない。

 それに、甘い香りが強張った喉を柔らかくしてくれた。

「最近はずっと、そんな調子だねえ」

 甘くて濃い山羊の乳を啜っていると、ハンナが呆れ笑いながらそう言った。

 セリムが思わず首をすくめると、ハンナは肩を揺らして笑う。

「責めてるんじゃないよ。セリムさんは真面目だからねえ、考えすぎなんだよ」

 ハンナは腰に腕を当て、やれやれとばかりにため息をつく。

 こうやって気にかけてもらうのも、今日が初めてではない。

「ですが……」

 と、セリムが言いかけたところに、炊事場にどやどやと人が二人ほど入ってきた。片や背の高いのっぽの青年で、もう一人は背の低いずんぐりとした中年の男性だった。手には山菜が山盛りになった笊と、豆の入った籠をそれぞれ提げている。食事の下ごしらえをしていたらしい。

「ハンナさん、山菜と、豆の莢取りが終わりましたよ……っと、セリムさんもおはようございます」

「お、おはようございます……」

 山羊の乳が注がれた木の椀を手に、セリムは体を縮めて炊事場の隅に寄った。

「いやあ、良いパンの匂いですね」

 背の低いほうが呑気に言うと、高いほうがてきぱきと笊や籠を片付けてしまう。

「ハンナさん、次はどうすればよいですか? チーズは先ほどひっくり返してきまして、表面も塩水で磨いてあります。果実酒は、朝晩が冷えこんだので、少し暖炉の側に置いておいたほうがいいかもしれません」

「ご苦労様。それじゃあ、旦那様たちのために、干し肉でも拵えてもらおうかしら」

 ハンナは鷹揚に答え、棚から大振りの刃物を取りだした。

 セリムはその様子を内心ハラハラとして見ていたのだが、ハンナは堂々とこう言った。

「それとも、泣いて逃げ出すかい?」

 挑戦的な笑みは、恰幅のよいハンナにとてもよく似合っている。

 そして、炊事場にやって来た男二人は、顔を見合わせてから、苦笑した。

「まさかまさか。そんな初心な頃が確かにありましたけれどもね」

「ははは、まるで今は世にこなれたかのような言い方だ」

「なにおう?」

 そんな軽口をやり取りしながら、一抱えもある大鹿の肩肉と、大ぶりの刃物を持って炊事場の裏手に出て行った。

 彼らを見送ってから、ハンナはセリムを振り向いた。

「あれくらいでちょうどいいんだよ。あの人らだって、変に気を使われたら困るだろうさ」

「……」

 セリムはハンナを上目づかいに見て、結局、手元の椀に目を落としてしまう。

 最近、気分が沈みがちの原因の一つが、彼らだ。

 別に彼らが嫌いなのではない。どう接していいのかいまいちわからないのだ。

 なぜなら、セリムは狼の化身であり、彼らは、兎や羊の化身なのだから。

「私も本当は木の実だけを食べるような鳥だけれどね、食事の領域では、奥様にだって負けやしないよ」

 胸を張るハンナも人ではなく、湯屋の主人であるロレンスの妻ホロもまた、そうだ。ホロはセリムと同じ狼で、かつては賢狼と呼ばれた、見上げるばかりに巨大な威厳に満ちた狼だ。大恩があり、しかもホロたちはそれを恩に着せないのだから、たとえホロが鼠の化身であっても、セリムは身を粉にしてでも彼らのために働こうと思っただろう。

 ただ、同族の狼であるという気安さがあるのは間違いのないことだった。

 そこにやって来たのが、八人の人ならざる者たちだった。最初は湯屋に客としてやって来たと思ったら、なぜかこれからしばらく湯屋を手伝うことになっていた。彼らは全員が、馬や兎、羊や鳥という、草を食んだり木の実を食べたりする者たちだ。

 セリムが狼である以上、相容れないところは少なくない。食事の際に彼らは肉を食べないし、一方ホロやセリム、それに主人のロレンスが食べるのは、彼らの仲間なのだ。

 彼らとて世を渡ってきた者たちで、今更そんなことで動揺したり、嫌悪したりということはないのもわかっている。もしそうであれば、賢狼ホロがいる湯屋だと噂になっているらしいこの湯屋には、そもそも来なかっただろう。

 ならばハンナのように、大鉈を渡して干し肉を作ってこいと言われたら、干し魚を作るようにできるはずだ。

 もちろん、セリムが彼らと働きたくない、という意味ではない。湯屋の仕事は忙しく、客が来た夏場は目が回る思いだった。そして、これからやってくる冬こそが、ニョッヒラの繁忙期だという。むしろ彼らが手伝ってくれることには、感謝さえしている。

 とはいえ、セリムがハンナを前に首をすくめてしまうのは、また別の事情があるからだった。

「まあ、セリムさんは人に指示を出すのが得意そうには見えないからねえ」

 ハンナの苦笑に、セリムはため息をつく。ベッドの中でもたくさんついてきたのと同じものだ。セリムは両手で包んだままの椀の中身を飲むことも忘れ、ぽつりとつぶやいた。

「ホロ様とロレンス様は、なにを考えてらっしゃるのでしょうか……」

 いわずもがな、セリムはホロとロレンスが大好きだ。南から微かな希望にすがって北までやって来て、自分たちの計画性のなさと不運から、あわや路頭に迷いそうになったところを救われた。けれども、それがなくたって二人の人柄は好きになるのに十分すぎる。

 しかし、人である行商人と、狼である賢狼が、手に手を取っての大冒険の果て、北の地に湯屋を構えたなどというお伽噺かなにかを実現してきた故だろうか。二人にはどうにも現実離れしているところがあって、ある日唐突に、とんでもないことを言いだしたのだ。

「私がこの湯屋を預かるなんて……半年はおろか、一ヶ月でさえ、どうなるものか……」

 食事が喉を通らず、夢見が悪く、ため息ばかりなのは、それが原因だった。

 セリムはある日の朝、今日も主人夫婦の役に立てるように頑張ろうと起きてくれば、ホロに言われたのだ。

 ――ぬしよ、来年の春か夏ごろまで、わっちらは旅に出る。じゃからのう、代わりに湯屋をまとめておいてくりゃれ? なあに、人手は新しく八人も増えておる。

 北の地に流れてきた自分たちを助けてくれたのは、ほかならぬホロであり、ロレンスだ。

 どんな頼みごとにも、否と答えられるわけがない。

「まあ、いきなり湯屋の采配を任せたって言われたら、驚くかもだけれどねえ。なにせあの二人は、二人の物語の中に生きてるから」

 わずかな慰めと言えば、ハンナが同情を示してくれることだろうか。

「けれどもお二人なりに、問題ないと思うからこそ、任せたんでしょう。ロレンス様は人の世に精通した商人様だし、ホロ様は言わずもがなの賢狼様。もっとも、ロレンス様の前では随分可愛らしいけれど……聡明だもの。無理なことは言わない人たちだよ」

 ハンナの言葉も、理屈ではわかる。

 そうなのだろう、と。

 しかし、うまく飲み込むことはできなかった。

「お二人は、私のことを勘違い……買いかぶっている気がしてならないんです……」

「そうかね。セリムさんがここで働いてくれてるのは、旦那様がたにとっちゃ幸運以外のなにものでもないと思うけど」

 セリムがハンナに視線を向けると、ハンナは肩をすくめて、指折り数えはじめた。

「だって、文句も言わず、休みもせず、朝から晩まで働いてくれる。しかも、文字の読み書きもできる。数字も扱える。私はだめだもの。十以上は数えられやしない」

 そんなことなかろうに、とセリムは思うが、ハンナは炊事場から梃子でも動かないので、元々一つのことしかやりたがらない職人気質なのだろう。

「で、あっという間にコルさんの後釜に収まって、なんだか難しい書き物仕事をしているでしょう?」

 コルのことをセリムは直接には知らないが、几帳面で、優秀で、おそらくは心優しい青年なのだろうということは、コルが記したという文字や数字の綺麗さを見ればわかる。

「記帳……とか、仕入れのことは、教えてもらっただけですから……」

「いやいや。コルさんはあれで、ホロ様やミューリお嬢様にからっきし弱いからね。たびたび余計な物を発注させられててねえ。ロレンス様から隠すために、炊事場の棚やらを占拠されて困ってたよ。セリムさんになってからは、それがぴたりと止まったから」

 ロレンスたちの一人娘であるミューリも、セリムは会ったことが無い。噂に聞くだに、いたずら盛りの仔狼という感じだったが、ホロの娘ということなのだろう。

 そして、自分が帳簿を預かるようになってからそういうことが無くなった、というのはなんとなくわかる。ホロは自分と同じ狼だから、同族としての見栄みたいなものがあるのだ。

「ほかにも、蝋燭は作れる、繕い物ができる、チーズも扱えるし、酒も仕込めるだろう?」

「貧しい旅暮らしでしたから、ひと通りは……」

「なに言ってんだい。他の湯屋の料理番ともたまに話すけどね、玉ねぎ一つ剥けやしないのがごろごろいるんだよ」

 そうなのだろうか。

 セリムは力がない分、兄たちの足手まといにならぬようにと、とにかく必死に生きてきた。

 当たり前のことだ、と思ってしまって、褒められてもなんだか水の底で魚が喋っている言葉を聞くかのようだった。

「とにかく、セリムさんになら任せても大丈夫だってあの二人は思ったんだよ」

「はあ……」

 セリムはなお腑に落ちなかったし、湯屋の采配はやっぱりできる気がしない。

 指示を出す相手はほとんど初対面で、あまつさえ肉を食べない者たちで、自分が彼らより湯屋のことを知っていると言っても、せいぜい半年分程度に過ぎない。そのうえ、最も忙しいという冬の経営は自分自身も未経験なのだ。

 やはり無理だ、でも……とセリムが頭を抱えていると、ハンナの大きなため息が聞こえ、顔を上げた。

 そこにあるのは、優しげな、困ったような笑顔だった。

「結局、セリムさんが自信を持てるかどうかという話なんだろうけど……一つ、良いこと教えたげるよ」

「良いこと?」

 すると、ハンナは随分悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「あの二人は、自分たちの物語の中を生きてるって言ったろ? 旅から戻ってきて、湯屋がしっちゃかめっちゃかになってたとしても、大して気に留めないと思うけどね」

「えっ」

 セリムが目を見開くと、ハンナは大きな肩をすくめた。

「セリムさんの不安は、うまく仕事を采配して、湯屋をまとめ上げ、あのお二人が帰って来るまで立派に保てるかどうかわからない、だろう? その点についてはあんまり心配しなくてもいいと思うんだよ」

「で、ですがそんなこと……」

「あたしは十年以上あの二人を見てきたからそう思うんだけど……まあ、自分の目で確かめるほかないだろうね」

 セリムはハンナの言うことに懐疑的だ。なぜなら、ハンナは頼りがいがある一方、細かいことはあまり気にしない、たった一人で身軽にどこででも生きて行けるような性格に見えるからだ。そして、ハンナのほうもまた、セリムにそう思われているとわかっているような顔をしていた。

「騙されたと思って、そういう目を持ってあの二人をごらんよ。しかも、旅の準備の真っ最中だ。あたしの言うことがわかると思うけどね」

「……」

 セリムはなお懐疑的だったが、ハンナはそれで話は終わりだとばかりに、手をパンと叩く。

「ほらほら、さっさとそれを飲んで仕事に戻って頂戴。旦那様たちの旅の準備に、新入りたちに仕事を教えなくちゃいけないし、冬に向けての支度もそろそろだよ」

 そうだった、とセリムは仕事のことを思い出して、我に返る。

 まだ胸の中にはたくさんの疑問や不安が残っていたが、手元の椀の中にある、山羊乳と一緒に飲みこんだ。

 まだほんのりと暖かくて甘いそれは、随分飲みやすくなって、胃に収まってくれた。

「ご、ごちそうさまでした」

 一気に飲んだので、ちょっと喉の奥がせり上がってしまう。

「はいよ。お仕事頑張りな」

 手を付けていない朝食は、ハンナが昼ごはんにするとのことだった。

 セリムは日常の仕事の流れに身を投げながら、頭のどこかではハンナに言われたことを考えていた。

 二人の様子を見たらわかるとは、どういうことだろう。

 たくさんのものをいっぺんに飲み込み、ちょっと膨れたお腹をさすりながら、セリムは思う。

 けふっとげっぷが出てしまったのは、未だ消化しきれない、不安のせいだった。



 狼と香辛料亭の主人夫婦が旅に出るという話は、別に隠し事でもなんでもない。

 特にロレンスは村の湯屋では一番の新参だから、旅に出ている間に村の義務をこなせないことを事前に伝えておく必要がある。

 代理はこのセリムが……と、セリムは村の倉庫兼会議所に連れて行かれ、他の湯屋の主人たちに紹介された。

 こんな小娘になにができるのか、という蔑みと猜疑の視線には、旅暮らしで慣れている。やったこともないことを慣れていると口にして、やれそうにないことをできると約束して、どうにか仕事を手に入れていたからだ。

 ただ、ロレンスの名代など勤まるはずもなかろうことは、むしろ他の湯屋の主人たちより自覚しているつもりだった。

 ロレンスはまったく気にしていないようだったし、紹介されてしまったからには、もう後には引けない。それに、ロレンス自身の日々の立ち回りのおかげか、同情的な言葉をかけてくれて、協力を申し出てくれる湯屋の主人たちも何人かいた。

 やるしかないのだと腹を括ることは初めてではないのに、自分の命がかかっている時よりも緊張した。一日でもいいからホロやロレンスたちの旅に出る日が遅れて、一日でも早く帰って来てくれないだろうかと祈っていた。

 しかし、世の中というのはままならないものだ。

「ヘンライさんのところが、太陽銀貨で三十枚分と、ダドリーさんのところが、リュミオーネ金貨で五枚分と、トレニー銀貨で二十三枚分……」

 湯屋の帳場台で、隣に座るロレンスが読み上げる言葉を、セリムは紙に記していく。

 広々とした帳場台の上が今は物で一杯になっていて、紙に文字を書くのも埋もれるような姿勢になってしまう。

 そこにあるのは、セリムが旅に暮らしていた頃には滅多に手にすることのできなかったほど高質な金貨や銀貨と、乾き切っていないインクの黒さが際立つ、証文の数々だ。

「ヒューゴーさんのところが、太陽銀貨五十三枚、ランブルク銀貨が十五枚……」

 読み上げられる名前はニョッヒラで湯屋を営む者たちの名で、貨幣の枚数は、ロレンスが旅に出るにあたって湯屋の主人たちが託そうとしている両替のための金額だ。金貨や質の良い銀貨は、普段の買い物に使うにはあまりに高額すぎる。そのままでは不便なため、銅貨などの少額貨幣に替えてきて欲しいというわけだ。

 なぜそんなことを頼まれているかと言えば、ニョッヒラの村のみならず、今は世界中で商いが活発らしく、お釣りや細かい買い物のための貨幣が不足しているせいだった。ロレンスが旅に出るのなら、ついでに外の世界で両替をしてきて欲しい、ということらしい。

 そういうわけで、ロレンスの人望か、湯屋の広々とした帳場台には現金の詰まった袋が積み上げられている。

「……今、いくらくらいになってますか?」

 貸した貸さないの言い争いにならないよう、持ち込まれた金額を記した証文を手にしたロレンスが、目頭を揉みながら言う。朝から天秤を前に、持ち込まれた貨幣に不正が無いか、計量して確かめているのだ。

「えーっと……太陽銀貨が四百二十二枚、リュミオーネ金貨が四十一枚、リュート銀貨が二十二枚、ランブルク銀貨が三十七枚、ティダーライン司教領銀貨が二十二枚と……」

 手元の紙に延々と続くのは、今まで見たことも聞いたこともなかった銀貨の羅列だ。しかも微妙な枚数だけ預けられている。紙の下のほうには、一枚とか二枚だけ預けられた銀貨もある。

 ロレンスが目を閉じたのは、きっと目の疲れからではないだろう。

「……皆揃って、邪魔な貨幣を押し付けようって肚か……」

 やっぱりそうなのか、とセリムは胸中で呟く。

 旅をしていて気がつくのは、通り過ぎた町の数よりも多い貨幣の種類だ。特に別の土地に向かった時は、同じ銀貨でも買えるものが増えたり減ったりということが多かった。ともすれば使えないこともあって、相当に難儀した。

 遠方の地からの客が多いニョッヒラでは、この地域では流通しておらず使い道に困っている貨幣も溜まっているのだろう。

「まあ、貨幣はまだましなんですよね……これを担いで持って行くわけでもありませんし」

 ロレンスは元行商人で、色々な商人の魔法を知っている。

 セリムはてっきり貨幣を担いで旅に出るのだと思っていたら、金額を紙に書いた為替証書というものだけを持って旅に出るらしい。それがあれば、どこそこの商会が必ず現金に換えてくれる、という証拠になるらしく、あの町に向かうにはこの商会の証書、という具合にうまくつなげていけば、大量の貨幣を担いで持って行くのと全く同じ効果が得られるらしい。

 自分の言葉など欠片も信用されない旅が長かった身としては、商人同士の信用関係というものは、魔法以外の何物にも見えなかった。

「問題は、あっちなんですよね……」

 視線の先、開け放たれた玄関から見える湯屋の軒先では、馬氏と鹿氏がせっせと立ち働いている。彼らは軒先に積み上げられた大小さまざまな麻袋の口を開けては、中の匂いを嗅ぎ、かき混ぜ、重さを確かめて、手元の蝋版になにかを書きとめている。

「あれを、すべて売ってくるおつもりなんですか?」

 セリムが控えめに尋ねると、ロレンスは意地悪された犬みたいな顔を見せて、目の前の天秤を指で揺らした。

「すべてとはいかなくても……どうにかしないといけないでしょうね」

 ロレンスのため息の先にあるものは、硫黄の粉の詰まった袋だった。

 正確には硫黄そのものではなく、ニョッヒラの湯から採れた温泉の素らしい。湯に溶けばいつでもどこでも温泉気分が味わえるので、ニョッヒラ定番の土産品だ。

 しかし、人気がある一方、文字通り湯水のように湧いてくるので、いくらでも採取できる。

 ロレンスが旅に出ると聞いた湯屋の主人たちは、これ幸いと納屋に積み上げられていた在庫品を、すべてロレンスに押し付けようとしているのかもしれない。旅に出るのならば、これを行く先々で売ってきてくれないか、と。

 ロレンスがお人好しなのは間違いないが、ニョッヒラでは新参者らしいので、先達の頼みを断るという選択肢はないのだろう。

 放浪の暮らしを体験したことがあれば、新参者が新しい場になじむのがどれほど大変で、また大切なことか、身に染みて理解できる。

 パン窯の前で散々向けられた詮索の目は、いつでも、そして簡単に、敵意に変わるのだ。

「売った分のいくらかは手間賃としてもらえるみたいですし、これは他の湯屋の人たちからの信頼の証です。頑張って売ってこないとなりませんね」

 いつも前向きなロレンスは、一転笑顔になってそう言って、貨幣の計量作業を再開した。

 隣でそんな主人の横顔を見やるセリムには、かける言葉もない。まじめで誠実なロレンスを見ていると、セリムでさえ、時折歯がゆくなる。この優しい主人の力になりたいが、自分にはこれといってなにもできないことが辛かった。

 と同時に、ロレンスがせっせとこの村で築き上げてきたはずのわずかの信用を、自分が留守を預かることで台無しにしてしまいやしないかと、改めて緊張する。なにか問題があって寄合に呼ばれるようなことがあれば、自分がロレンスの名代として問題に対処しなければならないのだから。

 それに、セリムも最近は村の事情が少しずつ呑み込めてきている。狼と香辛料亭のロレンスがいつまでも新参者扱いされている原因は、新参の割りに売り上げでニョッヒラの湯屋の大半を凌いでいるから、というのが理由の一つにありそうだった。新顔の成功を快く思っていない者が、それなりにいるようだ。

 彼らに付け入る隙を与えてはならないことを考えると、セリムは他所の湯屋の主人を恨むのではなく、優しく理知的な主人の横顔に、ほんの少しだけ恨みがましい視線を向けてしまう。

 自分にそんな役目を渡さないでくれ、と。

 加えて、ロレンスが硫黄の粉や高額貨幣の両替を押し付けられ、それらのすべてとはいかなくとも、多くを処理してこなくては村に戻って来づらいことは明らかだ。それはつまり、ロレンスたちの帰郷が遅れることでもある。

 事情が分かっていてもなお、セリムはロレンスたちに一刻も早く村に戻って来て欲しかった。自分をこの帳場台に一人で座らせてほしくなかった。ロレンスたちの期待に応えたい一方、それだからこそ、自分が立ち向かわなければならない問題の大きさに怯んでしまう。

 自分が失敗すれば、それがたちまち大好きな主人の損になってしまうというのは、元来気の強くないセリムには、泣きたくなるような状況だった。

 そうこうしていると、ふっとセリムの耳に聞き慣れた足音が届いた。

 顔を上げれば、二階からホロが降りてきていた。

「なんじゃ、随分おおごとじゃな」

 帳場台の様子を見たホロは、開口一番にそんなことを言った。

 ホロの様子はいつもとちょっと違い、狼の耳と尻尾を隠していない。いつもは窮屈そうに頭に布を巻き、スカートの下に尻尾を押し込めている。

「本当におおごとはあっちだよ」

 ロレンスが軒先を指差すと、ホロはすんと鼻を鳴らして、肩をすくめていた。

「二階から見ていんす。表からも裏からも硫黄の匂いで、鼻が馬鹿になりそうじゃ」

 裏手には湯船がある。不思議なことだが、人が入っていないと随分濃い硫黄の匂いが風に乗って漂ってくる。

「まったく、ぬしのお人好しも大概にせねばな。断るということを知らんのかや?」

 硫黄の売却や貨幣の両替が減れば、それだけ二人の帰還も早くなる。セリムはホロの言葉に、胸中で強い賛同を送る。

「責任と信頼というやつだよ。俺の村での立場も、それなりになってきたということだ」

 常に聡明なロレンスが、ホロの前ではなぜか間抜けに見える。

「たわけ。体のいい使い走りにされておるだけじゃろ」

 ロレンスの言葉をばっさり切ったホロは、帳場台の中に入ってくる。セリムが椅子を譲ろうとしたら、それは手で制された。

「作業はもうしばらくかかるのかや?」

 ホロの言葉は、帳場台の上の貨幣の山やら天秤やらを眺めながらだ。

「お前がセリムさんにだけ仕事を押し付けずに手伝ってくれたら、早く終わるかもな」

 自分の名を出されてどきりとしたセリムは、ホロと目が合ってしまう。

 ホロは優しく目で笑うと、ロレンスのほうには冷たい目を向けた。

「たわけ。ぬしがケチで町で買いたくないと言うから、冬の道中で着るための繕いものが山ほどあるんじゃ。それとも、この辺りにある金貨を摘まんでも良いと?」

 その真の姿ならいざ知らず、人の姿の時のホロは、セリムよりも年若い華奢な少女だ。繕いもののための指ぬきが、武骨な籠手に見えるほど指も細い。

 これから秋が深まり、冬になれば、防寒具はとても大切だろう。

「構わんが、道中の食事代や酒代から引いておくからな」

 ただ、ロレンスもやられっぱなしではない。

 ホロはむうっと口を引き結んでいる。

 いつもの二人の様子だが、セリムはいくら眺めていても飽きないくらいに好きだった。世の中にはこんなにも幸せになれる人たちがいるのだと、希望みたいなものを感じるからだ。

「で? 用はなんなんだ? ちょっかい出しにきただけか?」

「なに、ぬし用の毛皮の採寸をと思ってのう。今朝、毛皮の仕立て職人たちが村に来たそうじゃ。どこの湯屋も冬用に色々頼むじゃろう? 早めに頼まぬとろくなものが残らぬし、注文が混むじゃろうが」

「それはそうだが……」

 ロレンスはそう言って、ちらりと視線をセリムに向けてくる。申し訳なさそうな、いつも周りに気を使う、優しい人の眼差しだ。

「残りは私が引き受けます」

「……すみません、よろしくお願いします」

 セリムが微笑むと、ロレンスは安堵したように笑い返してから、ホロを見た。

「すぐ終わらせてくれよ」

「ぬしが以前と同じ体型をしておったら苦労はしないんじゃがのう」

「う、ぐっ」

 腹回りが気になり始めているらしいロレンスが狼狽えると、ホロは意地悪そうに笑っている。

 そして、何百年と生き、かつては広大な森を支配していただろう賢狼ホロは、無邪気な少女そのままに、ロレンスにぴったりと寄り添って二階に上がって行った。

 その二人の姿に、セリムは若干の呆れを混ぜつつ、つい頬を緩めてしまう。

 任された大役の重さに押しつぶされないで済んでいるのは、二人のあの仲睦まじさに水を差したくないからということもある。

 あの人たちの幸せを傷つけてはならない。

 セリムはそう心の中で呟き、作業を再開したのだった。



 八人も数が増えたので、夕食時はとても賑やかになった。ロレンスは湯屋の主人として、時折湯屋の客たちと食卓を共にしているが、ホロがそうすることは滅多にない。獣の耳と尻尾を隠さなければならないし、ホロは超然としているようで、自分より人見知りかもしれないからだと、セリムは最近気がついた。

 しかし相手が人ならざる者となれば、その気兼ねもない。どれだけ飲んで酔っ払っても耳と尻尾を見咎められることはないからのう、とうそぶきながら酒を飲み、ロレンスに苦い顔をされていた。

 とはいえ本当に全く気兼ねせず、楽しく食事をしていたかというと、そうでもない。ホロは豪放磊落に見えて、誰よりも気を使う。

 夕食後、セリムはホロに呼び出された。食事の片づけや、寝る前の明日の準備などを終えてから湯屋の外に向かうと、近くの木立の中にホロを見つけた。珍しく一人で待っていたので、ロレンスは他の者たちと談笑でもしているのかもしれない。

 そして、ホロの様子に、やはりホロは繊細な性格だと思った。

 その口には、食事の席では見かけなかった、干し肉が咥えられていたからだ。

「肉の無い鍋など食った気にならぬ」

 セリムの視線に気がついたのか、ホロが不機嫌そうに言った。憤懣やるかたない、と言わんばかりの素振りだが、彼らが来てから食事に肉がほとんどでなくなったのは、多分ホロがハンナにそう言っているからだ。不機嫌そうな様子は、彼らへの気遣いに対する気恥ずかしさ故だろう。

「それでは、兄たちの旅籠で肉鍋など振る舞ってもらいましょう」

 ホロがセリムのことを外に呼び出す時は、山を西に向かって二つ越えた先にある、セリムの兄たちの旅籠に向かうお供をさせることが多い。今日もそれだろうと思って、セリムはそう言った。

「たわけ。そんなことで行くのではありんせん」

 するとホロに言われて、セリムは首をすくめてしまう。

「ちょっと、これからの旅に関して、ぬしの兄たちに聞きたいことがあってのう。ま、おいおい話すことにして……さっさと向かうかや。遅くなっては明日に響きんす」

「は、はい」

 夜の山を越えるには到底人の足では無理なので、本来の狼の姿で向かうことになる。慌て気味に服を脱ぎ始めたところで、ホロがふと言った。

「肉鍋など頼んだら、迷惑にならぬかや」

 腰帯を解こうとしていた手が止まり、セリムはホロをきょとんと見つめてしまう。

 ホロが浮かべている、滲むような照れた笑み。

 ホロのどういうところが好きかと言われたら、まさにこういうところだ。

「兄はむしろ喜びましょう。確かこの間、大きな鹿を仕留めたと聞きましたし、今はまさに食べごろかと。少し干したほうが味が濃くなりますから」

「ほほう、楽しみじゃ」

 ホロはぱぱっと服を脱ぎ、一足先に狼の姿になる。相変わらず見事な毛並みと、雄大な姿だ。

「服はいかがしますか? 肉鍋をつつくなら、持って行ったほうがよいと思いますが」

 いつもはロレンスに預かってもらうか、その辺りの木のうろにでもしまっておく。

『そうじゃな。尻尾にくくってくりゃれ』

 セリムはうなずき、ホロの服を腰帯を使ってくくりつける。

『ついでにぬしのも』

 セリムが目をぱちくりとさせると、ホロは牙だらけの口で笑う。

『わっちの爪でその服をくくりつけろと?』

 確かにそうだ、とセリムは笑い、服を脱いでホロの尻尾に同じようにくくりつけ、狼に戻って夜の山を共に駆けたのだった。



★2018年3月9日更新の『狼と湯煙の向こう≪後編≫ 』に続く。
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