※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.61掲載の前半を抜粋したものです。


 昼間は随分暖かくなったが、夜になるとまだまだ寒いという初春の頃。

 北の地の温泉郷ニョッヒラの湯屋は、どこも冬の湯治客が帰った後で気が抜けている。

 けれど、村の中でもひときわ山の中に佇む湯屋だけは、その日も遅くまで明かりが灯っていた。

 そんな“狼と香辛料亭”の広間には、多くの人が詰めかけている。身なりの良い大商人風の者もいれば、一見すると修道士にも思える初老の男もいる。頬に切り傷をこさえた獣のような面構えの傭兵までが揃っていて、いかに様々な旅人が集うニョッヒラであっても、多彩な顔ぶれといえた。身分も生き方もばらばらな彼らに共通するのは、随分気楽な様子でくつろいでいたこと。ニョッヒラの湯に日が暮れるまで浸かり、湯冷ましに葡萄酒などを啜っている。

 もっとも、彼らが楽しげなのは、酒だけが理由ではない。

 彼らがこの日、ここに集まったのは、示し合わせてのことではなく、この湯屋にお祝いの言葉を届けるために、たまたま集った人々なのだから。

「では、僭越ながら」

 広間に集い、思い思いにくつろいでいる者たちの視線を集めたのは、湯屋の主人であるロレンスだ。行商人として身を興し、今年で湯屋を構えて十年目になる。物腰はすっかり湯屋の主人だった。

 広間の中心に歩み出たロレンスに従うのは、髪の毛を短く刈り込んだ獣のようなルワードだ。

 北の地では知らぬ者のいない勇猛な傭兵団の長である彼が、両手の上に緋色の布を広げ、小さななにかを恭しく載せている。

 そして、例え神が相手であっても我を貫きとおそうかというルワードが、暖炉の前に歩み寄ったロレンスの横で、膝をついて両手を差し出した。

「……恐縮です」

 広げられた緋色の布に、ちょこんと載るモノへと手を伸ばそうとしたロレンスは、やや冗談めかしてそう言った。狼のような傭兵が、にやりと笑う。

 と、ロレンスが手に取ったのは、金色の貨幣だった。

 そこには一人の女性の横顔が刻まれている。長い髪の毛の、目を閉じてうつむきがちに微笑む女性であり、頭には豊かに実った麦穂が巻かれていた。

 ロレンスが特別に打ち出してもらった貨幣であり、素材である金以上の価値はない。

 けれど、この貨幣には特別な意味がある。

 ロレンスは万感の思いを込めて、その貨幣を暖炉の上に置かれた板に嵌めた。円形に穴がいくつか空けられたもので、金貨を飾れるようになっている。

 最初はちょっとした貯金のつもりだった。

 湯屋の商いが上手くいかなくなったら、これを元手にまた行商に戻ろうと。

 けれど、湯屋は開業から大人気で、年を重ねるごとに賑やかになり、客を断ることすらあるほどだ。

 板に空けられた穴は全部で十個。毎年そこに一枚ずつ嵌めてきた。

 ロレンスはその十個目の穴に、金貨をぱちりと嵌めた。

「おめでとうございます」

 悪戯っぽく笑みを湛えながら、臣下のような口調でルワードが楽しげに言う。

 広間に集った客たちが口々に祝いの言葉を述べ、ロレンスが応えていたその時だ。

「さあ新たな門出に、酒盛りじゃ!」

 貨幣の中ではおしとやかに微笑んでいた女性が、そう叫ぶ。

 獣の耳と尻尾を有した御年数百歳の麦に宿る賢狼にして、ロレンスと手に手を取ってこの湯屋を作ったホロである。

 いつもならホロの酒癖を注意するロレンスも、今日ばかりは細かいことを言いはしない。

 早速ジョッキになみなみと葡萄酒を注いでいたホロを、姫のように抱え上げる。

 そして、客が囃し立てる中、酒をこぼすまいと必死なホロの頬に、酒よりも熱い口づけをしたのだった。



 扉の向こうから、いや、木窓の向こうから聞こえるのだろうか?

 湯屋で住み込みの手伝いをするコルは、静かな部屋の中で階下の騒ぎに苦笑した。

 湯屋にいるのは気心の知れた古い知り合いばかりだから、どれだけ騒いでも困ることはない。

 誰かが早速楽器を持ち出したらしく、陽気な音色まで届いてきた。

 明日は二日酔いの者たちで、湯屋中がうめき声に満ちているかもしれない。

「ねえ、兄様、まだあ?」

 と、そんなコルの前で、不満げな声が上がる。

 背もたれの無い椅子に座り、コルに背中を向けていた女の子だ。

「早く下に行かないと、ご飯無くなっちゃうよ」

 行儀悪く椅子をがたがた揺らし、苛立ちを隠しもしない。

 肩越しに振り向いた顔は、階下で大騒ぎに興じている母親のホロにそっくりだ。違うのは、その銀粉を混ぜたような不思議な色合いの銀髪と、腕白小僧みたいな元気さだろう。

「ミューリ、あなたは今日から、そういうことを慎まないとだめなんですよ」

「ええ~……?」

「何度も説明したでしょう」

 コルの言葉に、ミューリはものすごく嫌そうな顔をする。

「ほら、前を向いてください」

 ミューリは渋々前に向き直るが、首をすくめて反逆の意志を示している。

 ミューリはコルが仕える主人夫婦の一人娘だが、生まれた時から一緒のために、コルにとっては歳の離れた妹のような存在だ。

 不貞腐れているミューリの髪の毛を櫛で梳きながら、コルはやれやれと笑う。

「今年の春で十年目の節目を迎えるこの湯屋と同じで、あなたも今年は節目の歳でしょう?」

「……」

 ミューリは返事もしないし、振り向きもしない。

 代わりに、母親譲りのふさふさの尻尾と、機敏に動く獣の耳が少しだけ動く。

「今までのような蛮行はおしまいです。あなたはこれから、大人の女性の仲間入りをするのですから」

 齢も十を数えれば、貴族の娘でなくたって、そろそろ結婚相手を意識する頃だ。それまで棒を振り回して野良を駆けまわっていたお転婆も、料理や裁縫を学び、掃除の手順や家の手入れの方法を学ばなければならない。

 ミューリとコルがこの部屋にいるのは、ミューリがこれから大人になるためのお披露目を行う準備のためだった。なので、今のミューリが着ている服を近所の遊び仲間の少年たちが見たら、笑い転げるか、呆気に取られることだろう。

 いつもは絶対に着ないような、布をたっぷり使ったふんわりとしたスカートを穿き、革紐を呆れるくらいに交差させて体を締め付ける装身具を着け、その上から飾り布があしらわれた上着を羽織り、貞淑さを示すためのケープを纏っている。

 どれもこの日のためにロレンスの古い知り合いたちが用意してくれた一級の品々で、本来ならば大商会の娘や、それこそ貴族の血を引いていなければ手に入らないものだろう。

 けれども、ミューリとくればそんな女の子らしい格好には舌を見せてげんなりして、着せるのも一苦労だった。

 なだめ、すかし、脅し、なんとか着せ終えた結果、落ち着きなく椅子の上でがたがた体を揺らしている。

「ミューリ、きちんと足を閉じて座りなさい」

「……」

 スカートの下で胡坐をかかんばかりだった足が、これ見よがしに閉じられる。

 今日の日のことを伝えたら、まるで調理場に連れて行かれる鶏のように抵抗したミューリだが、母親であるホロの一言によってなんとか言うことを聞かせている。

 そして今は、最後の準備である、髪の手入れを行っていた。

 コルが丁寧にミューリの髪の毛を梳いていると、またぞろミューリの足が落ち着きなく貧乏ゆすりを始めた。

 まったくもう、とコルは口を開く。

「もう少し我慢してください」

 服を着るまでにも散々抵抗したこともあってか、ミューリは大袈裟なため息をつくと、こう言った。

「じゃあ、なんか楽しいお話して」

 身なりにはとんと気を使わないミューリには、髪の毛を梳くなんてことはつまらなくて無意味なこと以外のなにものでもないのだろう。

 こういうところも少しずつ変わっていってくれることを願い、コルはひとまずお転婆娘に譲歩した。

「それでは――」

「お説教は嫌だからね」

 神の教えを今こそこのミューリに、という目論見は崩れ去る。

 それに、これ以上ミューリの機嫌を損ねたら、せっかくのお披露目が台無しになってしまう。

「わかりました。でしたら……」

 と、話題を探すコルに、ミューリが肩越しに振り向いてこう言った。

「ねえねえ、兄様たちがこの村に来た時の話は?」

「この村に来た時?」

「兄様や父様、母様たちが大冒険をしてきた話は何度も聞いたけど、それからのことは聞いたことが無いなと思って」

 ミューリは言って、やっぱりなにか落ち着かないのか、スカートを摘まんでばさばさする。

「兄様たちが来る前は、ここにこのお家は無かったんでしょ? 考えてみたら、なんかそれってすごい不思議だもの」

 なるほど、と思う。

 それに、階下ではまさに昔話に花を咲かせていることだろう。

「この家はそうですね……ロレンスさんがたくさんお金を稼ぎ、ホロさんが湯脈を見つけ、作られたんですよ」

「その頃には私もいた?」

 椅子に背もたれが無いので、ミューリはコルに背中を預けながらそう言った。

「ミューリ、髪の毛が結えないので……その頃にはまだいませんよ」

 ミューリの背中をそっと押すと、ミューリはくすぐったそうに笑って身をよじっている。

「最初の二年間……いや、三年でしたっけ……もうよく思い出せないのですが、しばらくは湯屋を作るための準備をしていました」

「穴を掘ったり?」

 小さい子たちは、なぜかあちこちに穴を掘りたがる。

「そうですね。柱を立てるための穴を掘ったり、湯を通すための溝を掘ったり……おかげで、いくらか逞しくなりました」

「全然そうは見えないけど?」

 悪気が無さそうなのが、なお辛い。

 コルは曖昧に笑ってから、続けた。

「床に石を敷き詰めたりもしましたよ。それから、たくさんの職人さんたちを采配して……ああ、思い出しました。忙しくて目が回るような毎日でした」

 日々の生活に埋もれていた記憶がよみがえり、コルは目を閉じて当時の様子に微笑んだ。

 すると、置いてきぼりにされたと思ったのか、ミューリが不満げに体を揺する。

「それで? 兄様、それからは?」

「ああ、すみません。それからは、湯屋が大体完成したところで、たくさんの人を呼んで開業のお祝いをしました。軒先に看板が下げられているでしょう? あの看板も、その時に吊り下げられたんですよ」

「へえー。ねえねえ、その時に私はいた?」

 自分の知らない時の話をされているせいか、ミューリは自分の登場がいつなのか気になるようだ。

「その時は……ああ、いたと言えばいましたが、まだホロさんのお腹の中です」

「ふぅん?」

「ミューリ、という名前を付けられたのは、湯屋落成のお祝いの席のことですよ」

 その言葉に、ミューリの獣の耳がぴんと伸びる。

「そうなの!?」

 勢いよく振り向くので、三つ編みにしようと選り分けた髪の毛の束が、手からするりと抜けてしまう。

 コルは無言でミューリの体を正面に向かせてから、言った。

「そうですよ。ホロさんの大昔の御友人の名前であり、ロレンスさんたちの大冒険を支えてくれた、ルワードさんたちの傭兵団の名前ですからね。ずいぶんあっさり決まったと記憶しています」

「ふうん。へえ~……えへへ」

 自分の名付けの瞬間を知って、ミューリはすごく嬉しそうだった。スカートから覗くふさふさの尻尾が、右に左に揺れている。

「それで、それで? 私が産まれたのは?」

「ミューリが産まれたのは……その年の冬です。ああ、そうだ……そうです……」

「ん?」

 言葉が淀み、髪の毛を束ねる手も止まるコルを、ミューリが不審げに振り返る。

 目を閉じたコルが見ていたのは、燃え盛る家の中で働き続けるような記憶だった。

「ねえ兄様、どうしたの?」

 手を掴まれ、ゆさゆさと揺すられて、コルは我に返る。

 あの時のことを思いだし、当時の焦燥感が胸によみがえる。

 その元凶のミューリが、きょとんと無邪気な目を向けてくる。

「……あなたが産まれてからの数年間は、きっとずっと忘れませんよ」

「え? えへへ、そうなの?」

 ミューリは嬉しそうな、照れたような反応を示す。

 確かにミューリが産まれたことはめでたいし、湯屋が華やかになった。

 いや、華やかに、という言葉はあまりに迂遠な表現だ。もっと正確を期すならば、火を放たれた、というほうが近いだろう。

 当時のことをもちろん知る由もないミューリは、純粋に嬉しそうに、コルのことを見つめている。



★2018年5月10日更新の『狼ともうひとつの誕生日≪後編≫ 』に続く。
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