※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.62掲載の前半を抜粋したものです。


 たまたま居合わせた旅人たちと会話を盛り上げたい時、定番となる話題は決まっている。

 近隣の治安状況や、貨幣相場、それにどこの町のあれが美味い、などだ。

 中でも、長く旅に暮らしている者たちが最も夢中になる話題がある。

 それは、いつの季節が旅に最適だろうか? というものだった。

「わっちゃあ暑いのも寒いのも嫌じゃ」

「なら、春か秋か?」

「春は悪くありんせんが、気忙しくていかん。冬の雪のせいで、泥まみれになるしのう」

 そう言って膝の上で毛皮を櫛で梳いているのは、荷馬車の御者台に座り、頭からすっぽりとフードをかぶった小柄な少女だった。全体的に質素な身なりで、装飾品らしいのは首から提げた巾着だけだったが、よく見れば、服の袖も腰巻の裾も決してほつれてなどいないのがわかる。

 地味ながら非常に仕立ての良い服に身を包み、フードの下からは長く綺麗な亜麻色の髪の毛が覗いているとなれば、旅の修道女か、ともすれば遠くの領地に見合いに行く途中の良家の娘だと思うかもしれない。

 しかし、その少女は修道女でも貴族の娘でもなく、それどころか人ですらなかった。

 少女の名はホロ。かつてヨイツと呼ばれた地を治め、はるか南の地では豊作の神と呼ばれたような、麦に宿る巨大な狼の別の姿だ。手元の毛皮も、単なるひざ掛けの類ではなく、ホロの腰から生える尻尾だった。

「旅に出るならば、今のように秋じゃ。風は冷たかろうとも日が出ておればぽかぽか暖かいし、夜は夜で温めた酒を啜る楽しみがありんす。それに、これから冬に向かおうとする、あの、少し寂しいような、落ち着いた雰囲気じゃ。わっちのように知的な賢狼にはぴったりじゃろう?」

 御者台の上で尻尾を梳くホロは、上機嫌なようで饒舌だった。それにつられてか、尻尾の毛並みもいつもよりふわふわとしている。

 そんなホロの隣に座るのは、元行商人のロレンスだ。十年以上前、ひょんなことでホロと知り合い、少なからぬ冒険の果てに一緒になった。今は温泉郷ニョッヒラにて、湯屋“狼と香辛料亭”の主を務めて十年ちょっとになる。

「確かに、お前の毛皮の色だと秋の森はぴったりだな」

 ホロは尻尾がなによりの自慢で、狼の時の毛皮も褒められると素直に喜んでくれる。

「ただ、秋が好きなのは、食い物が美味い季節だからだろう?」

 ロレンスが苦笑交じりに言ったのは、ホロがせっせと尻尾の毛づくろいをしながら、焼き栗を頬張っているからだった。

「美味い物を食べることに勝る喜びなどありんせん」

 からかいにもめげず、ホロは喜色満面に焼き栗をかじり、尻尾の毛づくろいを続けた。

 やれやれと小さく鼻を鳴らすと、ロレンスは荷馬車の手綱を握り直す。

「ま、今回は爪に火を灯すような商売の旅じゃない。道中美味い物でも食べて、楽しもう」

 ホロは仔狼のような大きな瞳をロレンスに向け、嬉しそうに笑っていたのだった。



 ロレンスとホロの二人が荷馬車に揺られるのは、ちょっとした用事で村を出る以外だと、おおよそ十年以上ぶりのことになる。

 温泉郷ニョッヒラに居を構える前、ロレンスには一つの村に留まりずっと暮らす、という生活がうまく想像できなかった。行商人として広い地域を行脚しているのが当たり前だったし、すぐにまた旅に出たくなるのでは……という不安が無いわけではなかった。

 しかし、湯屋の経営は忙しく、それ以上に楽しかった。娘が生まれたこともあって、旅への郷愁などに駆られる暇さえもなかった、というほうが正しいかもしれない。あっという間に十年以上が過ぎていた。

 なので、今回のことも、ロレンスが思いついたのではない。ニョッヒラの村を出て、少しの間旅に出よう、と言い出したのは、ホロのほうだった。

 とはいえ、ホロはどちらかと言わず出不精だ。一日中ごろごろして、酒と温泉でのんびりできるのならばなにも不満はないという性格なので、もちろん旅の提案には理由があった。

「さて……まずはどこの町に行くべきか、だが、あの二人は今どこにいるんだか……。最後の手紙は、ウィンフィール王国の南のほうの町から送られて来たんだよな」

 ロレンスが膝の上に広げた地図の上には、一葉の手紙がある。そこには二人分の署名があり、一人はロレンスとホロの間に生まれた、娘のミューリのもの。今年で十二か三という年頃で、世間的には嫁入りの話が出始めてもおかしくはない。

 もう一人の署名は、字面からして生真面目さが窺える、聖職者を志して旅に出た青年コルのものだ。

 ロレンスがホロと行商の旅をしていた頃に知り合った仲で、湯屋の経営もずっと手伝ってくれていた。なんなら、ミューリが産まれてからはその世話をほとんどしてくれていたと言ってもいい。

 湯屋では、コルのことを兄様と呼んで懐いているミューリの姿があった。

 血は繋がらずとも、美しき兄妹愛。

 そんなことを呑気に思っていたのは、自分だけだったのだとロレンスが知らされたのが、ひとつ前の冬のこと。コルが夢である聖職者になるために村を出れば、ミューリもまた、その後を追いかけて出て行ってしまったのだ。

 ロレンスには青天の霹靂だったのだが、妻であり、ミューリの母であるホロはすべて知っていたらしい。

 ホロがミューリを送り出したのなら、ロレンスにはもうどうしようもない。

 それに、いつか娘は嫁に出さなければならないのだ。

 相手がコルであるならば、それだけで良しとせねばならない。

 ロレンスは自分に言い聞かせつつ、やっぱり胸中穏やかではなかった。

「春先に、ニョッヒラよりも寒いらしい海から手紙を寄越しておったのう」

 そんなロレンスの胸中を知ってか知らずか、ホロは尻尾の毛先を熱心によじって整えながら、思い出すように言った。

「ああ。俺も行ったことが無いような北の島嶼地域だ。その後、南下してウィンフィール王国に渡って、春を過ごして、夏を越えて、今は王国の南のほうにいるらしいが……手紙の間隔が広がりがちなんだよな……。手紙にそうとは書かないが、やっぱり苦労しているのでは……」

 ロレンスは旅の危険と、過酷さをよく知っている。便りが無いのは良い便り、なんて気楽なことを言えはしない。

 街道には盗賊がいて、町にはごろつきがいくらでもいる。それでなくても、病や、怪我のことだってある。運悪く旅の途中に雨や雪に捕まれば、飢えや寒さで死ぬことだってある。

 可愛い一人娘のことを思うと父親たるロレンスは胸が張り裂けそうだが、ホロはあっけらかんとこんなことを言う。

「なあに、わっちらに手紙を書くより楽しいことがあるんじゃろ」

 ロレンスがホロを見やると、尻尾の手入れはひと段落したのか、栗の殻をぱきりと割って、中の実をむぐむぐと頬張っている。

「送られてくる手紙は、いつも楽しそうな匂いがしておる」

「……楽しい……そう、だな。旅は楽しいものな。美味い食事や、美しい景色に心奪われることもあるだろう」

 自分に言い聞かせるように言うロレンスを、ホロが横目で見る。

「ぬしがそう信じておるなら、わっちはなにも言わぬが」

「……」

 意地悪された犬のように、ロレンスはホロを見る。

 ホロはそれを意地悪とさえ思っていないようで、むしろいい加減ロレンスの諦めの悪さに呆れているようだった。

 そして、ロレンスもまた、そこのところはよくわかっている。

 娘が生まれた時から覚悟はしていた。いつか、必ず、誰かの元に行ってしまうのだと。

「……二人が幸せなら……もちろん、それで、いいさ……」

 搾りだすように言うと、ホロはくつくつと笑ってから、ロレンスの体に身を寄せた。

「たわけのぬしが、たわけたことに苛まれているのは呆れるがのう」

 ホロの自慢の尻尾が、わさりと揺れた。

「わっちだけは、必ずぬしの側におる。なにがあっても」

 優しげな笑みを浮かべ、ホロが真っ直ぐにロレンスのことを見つめている。

 普段のホロは、二度寝に朝酒もしばしばで、働きたくないと毛布を離さないことも日常茶飯事だ。客から遠方の名物料理の話を聞いては、あれが食べたいと駄々をこねることだってある。

 なので、ホロが御年数百歳の賢狼なのだということを、ついつい忘れがちだった。

 しかしホロはやっぱりホロらしく、麦が実る大地のようにロレンスのことを支えてくれる。

 この旅もまた、ホロがロレンスのためを思って、言いだしたことなのだから。

 ミューリのことが心配でしょうがないロレンスを安心させるため、あるいはある種の諦めをつけさせるために、一度ミューリたちに会いに行こうではないかと。

 ホロがそんなふうに気を遣ってくれて、ロレンスは言葉にならないほど嬉しかった。なんなら、ミューリたちに会いに行けることそのものより嬉しかった。

 ホロが隣にいてくれるのなら、他に望むものなどなにもない。

 かつての自分もまた、心の底からそう信じたがゆえに、人の身でありながら狼であるホロの手を取った。

 微笑むホロの真摯なまなざしに、ロレンスは自然と顔がほころんでしまう。

「ああ、そうだな。お前がいるものな」

 その言葉に、ホロはにこりと笑顔を見せる。長い時を生きてきた、おおらかな賢狼の笑顔だ。

 ロレンスはホロの肩にそっと腕を回し、抱き寄せる。ぎゅっと腕に力を込めると、ホロの尻尾が嬉しそうにぱったぱったと振られている。

 こうしてホロと二人きりでいられる時間が増えただけでも、旅に出た甲斐があるというものだった。

「で、ぬしよ」

「ん?」

 ロレンスの腕の中で少し身じろぎし、ホロが見上げてくる。

「わっちゃあまず、スヴェルネルに向かうのがよいと思いんす」

「スヴェルネル?」

 ニョッヒラから一番近くにある、大きな町だ。

「んむ。あの町になら、夏の間に大きくなった羊や豚、それに鶏がおるじゃろう? それに、ミリケのたわけもおるしのう。あそこはいつ行っても甘い物があるからよい」

 ミリケとは、ホロと同じような悠久の時を生きる獣の化身であり、町の顔役だ。

 ホロとは反りが合わなそうに見えて、案外仲良くやれているらしい。

 前回ミリケの元を訪れた時は、紫色の花を砂糖に漬けたお菓子が出た。

「……スヴェルネルだと、海に出るのが遠くなるんだよな」

 ロレンスが地図に目を落としながら答えると、不意に頬に視線を感じた。

「急ぎの旅ではないじゃろ?」

「それはまあ、そうなんだが……」

 ロレンスは言いつつ、うきうきとした様子のホロを、冷めた目で見た。

「お前、まさかスヴェルネルに寄り道させるために、健気な様子を見せたわけじゃ……」

「ん、なっ」

 ホロが狼の耳をぴんと張り、目を見開いて絶句した。

「わ……わっちゃあ、ぬしのためを思って……」

 耳が伏せられ、肩が落ち、尻尾はしなびて、体全体でホロはしょんぼりとしてみせる。

 ただでさえ華奢な体つきなので、いかにも哀れを誘う見た目だが、ロレンスだって伊達にホロと十年以上暮らしていない。

「桃のはちみつ漬け」

「っ」

 狼の耳が、本人の意志ではどうにもならないふうに、ぴくんと跳ねた。

 ロレンスが半目にホロを見ると、ホロは開き直って睨みつけてくる。

「ぬしのわっちに対する想いなどその程度のものかや!」

 ホロの気遣いを疑いはしないが、下心は下心だ。

「まだ旅は始まったばかりなんだぞ。いきなり贅沢していたら後が続かない」

「たわけ! 大体、ぬしには後ろの荷物を売る仕事もあるじゃろう? 人の多い町ならなおはかどるじゃろうが」

 ホロが言うのは、荷台に積んである大量の袋のことだ。中身はニョッヒラの温泉から採れる硫黄の粉で、ロレンスたちが旅に出ると知った他の湯屋の主人たちが、代わりに売ってきてくれと託してきた。

 ロレンスが村に湯屋を構えてかれこれ十年を超えるが、最も新参の者であるがゆえに、その立場は強くない。先達から頼まれれば、嫌と言うことはできない。

 道中売り歩かなければならないのだが、確かにおいそれと捌ける量ではない。

「スヴェルネルはニョッヒラの湯屋すべての仕入れ先だ。湯から採れる硫黄なんて溢れかえってて、今更売れるわけないだろう」

「む、ぐっ……」

「このまま西に向かって、川に沿って下って行って、アティフという港町に向かおう。この季節なら港に陸揚げされる魚も豊富で、脂がのっててうまいぞ」

「魚なぞ腹の足しにならぬ……うう……鶏の詰め物……豚の丸焼き……牛の肩肉……」

 まるで満足に飯も食わせてもらっていない下女のように、ホロはかすれ声で呻いている。

 さっきまで焼き栗をあれほど頬張っていたのに、とロレンスは呆れるしかない。

 いや、甘い栗を食べて、塩辛い肉が食べたくなった、というところだろう。

「そう言いながらも、アティフで魚料理をおかわりするお前の姿が目に浮かぶがな」

 山奥のニョッヒラでは、川魚を除けば食卓に並ぶのはすべて塩漬けだ。鰊が大半で、時折鱈や鰈などが後に続くが、概ね毎日食べたい代物ではない。

 しかし、海沿いの町でしか食べられない生魚は、煮てよし、焼いてよしだ。

「それに、貿易の要なら、新鮮な葡萄酒もあるだろう」

 ホロの耳がぴくんと動く。

「干し葡萄や、運が良ければ生の葡萄もあるかもな」

 葡萄は比較的暖かい場所でないと採れないので、生のものはまずこの地方では食べられない。

 ロレンスの話など聞く気もないとそっぽを向くホロだが、ごくりと生唾を飲み込んでいた。

「どうする?」

 その問いに、ホロは口をつぐんだまま。

 ぽく、ぽく、と馬の蹄の音と、荷馬車のがたがたという音だけが響く。

 森の中に開かれた道の上を、小鳥が数羽、さえずりながら飛んでいく。

 良い季節だ、とロレンスが空を見上げながら目を細めていれば、肩に頭突きを食らった。

「……たわけっ」

 ふくれっ面のホロが、短く言う。諦めたらしい。

 年甲斐もないホロの様子に、ロレンスは思わず苦笑する。ただ、そこには自分自身へ向けたものも含まれている。

 湯屋ではもちろん、ホロの食い気との攻防はあった。しかし、概ねそれらは炊事場を任せている下女のハンナの役目だったから、こんなにも真正面からやりあうのは久しぶりで、懐かしくあるのと同時に、楽しかったのだ。

 行商の旅の時はいつもこんなだった。

 口元がほころぶのは、このやり取りがたまらなく愛しいからだ。

「旅に出たって気がしてきたよ」

 それまでと異なる口調に、たちまち、ホロの耳のみならず尻尾までもがぴんと伸びた。

 そして、ホロは不承不承といった感じでロレンスを見上げた。

「ならば――」

「ま、ほだされて財布の紐は緩めないけどな」

 そう言うと、ホロは憮然とした顔で応えた。

「ふん。最初からすべてまきあげるのも、かわいそうじゃからのう」

「よく言うよ」

「なんじゃ」

「なんだ」

 そんなやり取りをしながら、荷馬車はのんびりと道を進んでいく。

 最後にお互い顔を見合わせ、大笑いしたのだった。



 山奥の温泉郷ニョッヒラには川が流れていて、急ぎの場合や、雪深い季節はそちらを船で行き来するほうが多い。

 ただ、荷馬と荷馬車ごと乗せようと思うと、それなりに大きい船を借りて、人員も船頭一人というわけにはいかなくなる。

 予算やらを考慮した結果、ロレンスたちは荷馬車に揺られて旅に出たのだが、空が色づき始めた頃、一行はまだ道の途中にいた。木と木の間に天幕を張り、石を並べて作った小さな竈の前で、ホロは膝を抱えてふくれっ面だった。

「……いきなり野宿かや……」

 頑張れば川沿いの関所にある旅籠までたどり着くかと思ったが、荷馬車を駆っての山道は、久しぶりゆえに速度が出なかった。

「柔らかいベッド……分厚い毛布……温かい湯船……たっぷりの肉と葡萄酒……」

 目を閉じて祈れば、ぽんとそれらが出てくるに違いない、と信じているかのような呟きを無視して、ロレンスは小麦とライ麦が半々の、黒みがかったパンをホロに渡す。

「ほら、これはわざわざライ麦を混ぜて焼いてもらったんだ。昔を思い出すだろう?」

 以前の行商の旅では、白い小麦パンなどなかなか食べられなかった。カチカチに固まった真っ黒いライ麦パンを、気の抜けた麦酒に沈めてふやかして食べていた。

 湯屋の怠惰な生活にすっかり慣れきったホロは、うきうきしているロレンスを見て、信じられないという顔をしていた。

「普通に小麦のパンでよいではないか……」

「完全に小麦だけだとすぐ腐るからなあ。真冬ならともかく、まだ暖かい日があるし、山を降りたらなおのことだ」

 ロレンスは喋りながら小さな鉄鍋を竈の上に渡し、塩漬け肉を薄く切って載せていく。

 肉の存在に、ホロはようやくため息交じりにパンをかじりはじめた。

「もっと肉は分厚く切ってくりゃれ」

「倹約、倹約」

 さっさと塩漬け肉の塊をしまってしまうロレンスを、ホロは泣きそうな顔で睨む。

「路銀が余ったら、帰り道は豪勢にしような」

 商人の笑みをホロに向けると、御年数百歳の自称賢狼は、幼い女の子みたいに唇を尖らせて眉尻を下げていた。

「たわけが……それより、さっさと肉を焼いてくりゃれ。こんな黒いパン、苦くて酸っぱくてとても肉がなければ食えぬ」

「ああ、ちょっと待っててくれ……よっ、んっ……んん?」

 ロレンスは背中を丸めて火打石を叩くが、植物の穂から作った火口はうんともすんともいわない。

「きちんと乾いてるよな……よっ……はっ……!」

 かん、かん、と石を打ち合わせるが、そもそもうまく火花が熾らない。湯屋では自分で火を熾すことなどなかったので、すっかり勘が鈍っているらしい。

 しばらく奮闘して、手と丸めていた背中が痛くなり、うーんと体を伸ばすと、冷たい視線のホロに気が付く。

「……も、もう少しだ」

「そう願いんす」

 ため息とともにホロに言われ、ロレンスはなにくそと火打石を再び叩く。

 それからホロのわざとらしい欠伸を三回聞いたものの、なお火はつかない。

「……出発前に練習してくるんだったな……」

「先が思いやられるのう」

 呟くホロを苦々しく見やると、つんと目を逸らされる。

「むぬ……」

 かがみこんで火打石を叩いていると、たちまち体のあちこちが痛くなってくる。というか体の関節が明らかに昔より硬くなっている。

 歳を取るとはこういうことなのか……と愕然としていると、「まったく」とホロのため息交じりの声に我に返る。

「怒りで簡単に火がつくようなら、ぬしのことをからかうんじゃがなあ」

 もはや責める気もないらしいホロに、ロレンスは憮然として答える。

「いいや、それなら俺が通りがかった羊飼いの娘でも食事に誘ったほうが早いだろ」

「ほう、どういう意味かや?」

「賢狼様ならすぐにわかるだろうに」

 ロレンスとホロは睨みあってから、同時にため息をついた。

「寒い冬ではないからまだましじゃが……硬くて黒いパンと、生の塩漬け肉の夕食はぞっとせんのう。今日のところはわっちがひとっ走り湯屋まで戻って、種火を受け取ってくるかや?」

 ホロの真の姿は見上げるばかりに巨大な狼であり、一晩で山を三つ越えることだって簡単だ。

「いや……それは最後の手段にしよう……提案はありがたいが」

「ふうん? まあいいじゃろ。ぬしの男の子としての意地もあるじゃろうし」

 ホロにからかわれるが、よもや火も満足に熾せなくなっているなどとは思わない。

「この調子だと、ミューリのほうがよほど逞しく村の外で生きていけるかもしれないな……」

 ロレンスが情けなさから本気で落ち込んでいると、基本的に優しいホロは困ったように笑う。

「あれは人の姿で平気で山の奥まで狩りに赴くからのう。わっちにもできんせん」

 ホロが人の姿でいる時は、要所要所では狼の能力を発揮できるが、基本的には見た目どおりの少女のものだ。

 一方でミューリはホロと変わらぬ体格でありながら、すばしっこい獣のように山を駆け巡ることができる。なにより、驚くべきはその技術力と知識だ。罠を張って獲物を捕まえることもできるし、捕らえた獲物を解体して、皮をなめして、肉を干して、細腕にも拘らず疲れ知らずの体力できりもみ式で火を熾したら、肉が焼けるのを待つ間で獣の腱を使って弓まで張ることができる。

 一人で山に放り出しても、しばらく逞しく暮らせるだろう。

「む、そうじゃ。そういえばあのたわけが、以前試しておったではないか」

「ん?」

 ホロはなにかを思いついたように立ち上がり、天幕の下から出て荷馬車に歩み寄る。

 なにをするのかと思っていたら、荷台に積んであるたくさんの袋から、一つを引きずり出してきた。

「なんといったか、ほれ、この黄色い粉が焚きつけに使えると聞いて、暖炉で試して大騒ぎになったじゃろう?」

「ああ」

 ロレンスはすぐに思いだし、苦笑いをした。

 あの時のことを思い出すと、実際に口の中に苦い物がよみがえるのだ。

「ルワードさんから確か聞いたんだよな。戦場で手早く火を熾す方法だって」

「試してみたらどうじゃ。ここなら多少臭くしても……まあ、わっちは遠くに離れておるが」

 ホロは言って、ロレンスの前に袋を置く。湯から採れた硫黄の粉が詰まった袋だ。

「焚きつけには、純粋な硫黄の塊のほうが向いているらしいが……まあ、試してみるか」

 そもそも火打石をうまく使えていないのが原因な気もするが、このまま焚き火なしでの野宿はロレンスもごめんだ。やれることはいろいろ試してみようと思い、火口の植物の穂に硫黄の粉をふりかけ、枯草や枯れ木の枝や薪にも擦りつけておく。

 そして、再びかがみこんで火打石を叩き……ついに綿毛のような穂に、赤く火がついた。

「おお!」

 昔ならなんでもなかったことなのに、ロレンスは思わず嬉しさに声を上げる。多分硫黄などはあまり関係なく、休憩したことで力みが取れたのだろう。

 なんにせよこの小さな種火を無駄にしてはならないと、手で覆い、息を吹きかけ、煙が上がり始めたところで、枯草に火を燃え移らせる。火はみるみるうちに大きくなっていく。

 なんだ、やっぱり簡単じゃないか。

 ロレンスは晴れやかな顔で体を起こし、ホロにそう言おうとしたのだが、その姿はすでにない。辺りを見回すと、随分離れた木陰から、顔だけ出してこちらを覗いていた。

「そんな大げさな……」

 と、ロレンスが笑った時だった。

 ぶすぶす、となにかが焦げるような音が聞こえ、振り向けば焚き火から色の濃い煙が上がっていた。

 直後、鼻を突き刺す臭気にロレンスは顔を覆う。

 鉄を焼いたような金物臭さと、硫黄の匂い。その刺激は鼻だけでおさまらず、口に含めば苦いし、目には涙が浮かんでくる。

「っ……!」

 記憶の中のものでも十分臭かったが、実際に直面すると記憶の何倍も臭い。

 ミューリが考えなしに暖炉にこの粉を放り込んだ時は、ロレンスの鼻でさえ一週間は宿の中が焦げ臭かったし、ホロは一ヶ月近く鼻をぐずぐず言わせていた。

 もうもうと上がる煙にロレンスでさえ耐えきれず、ホロの元に逃げ延びた。

「たわけ! こっちにくるでない!」

 死ぬまで共にいよう、と愛を誓った日々など一切なかったかのように、ホロが本気で拒絶する。ロレンスは若干傷つきながら、ふと足を止めたのは、ホロが手にパンを持っていたからだ。

 あんな地獄の焚き火の側で飯を食べたくないのは、ロレンスも同じだ。

 息を止めて焚き火に戻り、パンと麦酒の入った小さな樽を回収して、ホロの元に駆け寄った。

 ホロは鼻の頭に皺を寄せて思い切り嫌そうだったが、ロレンスが麦酒の樽を渡すと、渋々側にいることを許してくれた。

 しかし、なおもホロは嫌そうにロレンスの体の匂いを嗅いで、顔をしかめた。

「ぬしは、今夜は一人で寝るんじゃな」

 あの粉を使ってみろと言いだしたのは誰だ、とロレンスはホロを睨みつけたが、ホロは自慢の尻尾を守るように腕で抱いている。薔薇の精油を使って丹精込めて手入れをしているふわふわの尻尾に、嫌な匂いがついたらたまらないということなのだろう。

 本格的な冬はまだ先だとはいうものの、山の夜は冷える。ホロのふかふかの尻尾と、子供みたいに高めの体温があるかないかでは大違いだ。

 とはいえ、無理強いすれば本気で怒らせる羽目になるかもしれない。

 ロレンスはため息をつき、ぶすぶすと煙を上げ続ける焚き火を見て、もう一度ため息をつく。

 旅の一日目からしてこれでは、先が思いやられるというものだった。



★2018年7月10日更新の『狼と秋色の笑顔≪中編≫ 』に続く。
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