※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.62掲載の中盤を抜粋したものです。
翌日、くしゃみでロレンスが目を覚ますと、ホロはすでに起きだして御者台に座っていた。
熱心に書き物をしているので、昨晩は焚き火に近づけないせいで書けなかった、日記を記しているのだろう。
どんな悪口と不平不満が書かれているのかと思うと、ロレンスはちょっと怖い。
昨晩眠る頃には硫黄の粉も燃え尽きたのか、それとも単に鼻が慣れたのか、それほど臭くなかったので焚き火の横で寝た。今は白い灰の中で、炭が赤く熾っている。
「匂いは消えてるのか?」
ロレンスが尋ねると、ホロは大きなため息をつく。寒さはさほどではないが、空気が湿っていて、白い息が朝日の中に舞った。
「なんとかの。まったく、あれが狼除けとして売りに出されたらさぞ効果的じゃろう」
「……ちょっと考えておこう」
ホロは冗談のつもりで言ったらしく、ロレンスの真面目な返答にたじろいでいた。
「とりあえず、朝飯にするか……。昨晩は温かい物が食べられなかったしな」
「ぬしは鍋の肉を食べておったではないか」
灰の中に新しい薪を足しながら、ロレンスは肩をすくめた。
「思ったほど匂いが移ってないって言っても、信じなかったのはお前だろ」
ホロはむうううと唸って、御者台から降りてくる。
「荷台の硫黄はまだましじゃが、あれもさっさとどうにかしてもらいたいものじゃ」
昨晩は荷台で、硫黄の袋の隙間に挟まるようにして眠っていた。
「お前は昔の旅でも、荷台になにか積むと怒ってばかりだったな。魚を積んだりとか、金物類を積んだ時とか」
火が大きくなり始めた焚き火に、鉄鍋をかけ、塩漬け肉と、ニョッヒラから持ってきた卵を落とす。卵は割りさえしなければ日持ちがよく、食事の幅が広がるので重宝する。麦みたいな粉ものを運ぶ時などは、よく中に沈めておいたものだ。もちろん、今回は硫黄の粉の中に保存してある。よほど長い時間沈めなければ、硫黄の匂いはそうそう中身にまで届かない。
「もっとうまそうなものを積んでくれれば、わっちも怒りなどせん。干した果物や、砂糖漬けなんかがよいのう」
尻尾をぱたぱた振って、うっとりとそんなことを言う。
「たわけ。甘い物は高いんだよ」
ホロの罵りを真似して言いながら、パンに切り込みを入れ、いい具合に焼けた卵と塩漬け肉をへらですくいあげて、おまけのチーズと一緒に挟む。
「ほら」
「ふむ」
ホロはパンを受け取り、すぐにかぶりつくかと思いきや、しげしげとパンを見つめていた。
「どうした?」
「ふむ」
ホロはうつむいてパンを見つめた姿勢のまま、視線だけをロレンスに向けた。
「わっちゃあ昨日の肉を食べておらぬ。その分を足すべきじゃと思いんす」
朝からその食い意地には恐れ入るが、甘やかしてはだめだ、とロレンスは気を引き締める。
「だめだ。旅には予定というものがある。それを守らないとひどい目に遭うってのは、お前も以前の行商の旅で知ってることだろ?」
わがまま放題に見えるホロだが、押してもだめな時というのはきちんと察して、身を引くことができる。普段のロレンスがホロのわがままに押されてしまうのは、つい甘やかしてしまいたくなる気持ちを見抜かれているからだ。
なので、毅然と言い放てば、ホロは不服そうながら、渋々とうなずいた。
「ぬしは昔から頭が固い」
「慎重だと言ってくれ」
ホロはちらりとロレンスを見て、肩をすくめる。
昔の旅を思い出して、よく慎重などと言えたものだ、ということだろう。ホロと旅をしてからは、ホロの前でつい見栄を張ったりして、危険な儲けに手を伸ばしたりしていた。
それよりなにより、つい昨晩も、焚き火ひとつで手間取ったのだ。説得力などあろうはずもない。
「……昨日は久しぶりの旅の初日だったからな。これからは順調だ」
言い訳のように、つい口にしてしまう。
ホロは口の端に卵の黄身をくっつけながら、はいはいとばかりに耳をぱたぱた振ったのだった。
その後、川沿いの関所にたどり着いた。川にいくつもある税の徴収所としては、一位、二位の大きさのところだ。南の内陸から延びている街道の終着点でもあるため、ちょっとした賑やかさがある。
内陸地からは穀物や家畜の加工肉、金物類などの品が運ばれてきて、川上からは毛皮や木材、それに川下からは海の魚や遠国からの輸入品などが運ばれてくる。
関所脇の旅籠で一泊しようかとも思ったが、到着したのが昼前だったので、食事をして、少し休憩した後に出発した。
その際、川沿いに海に向かうという話をしたら、宿の主人から船の利用を勧められた。
随分熱心だったが、川沿いの旅籠は川を行き来する船頭たちと共同で船を所有していたりするので、船に客が乗れば二度おいしいのだ。
旅慣れぬ修道士ならばあっさり引っかかるだろうが、ロレンスは元行商人だ。
損得勘定をして、結局陸路を選んだ。
野宿を嫌がるホロは船に乗りたそうだったが、船賃の分食事の質が下がると伝えたら、陸路を渋々受け入れた。
そして、ニョッヒラを出て、四日目のことである。
「……で? どうなんじゃ?」
御者台では、ホロが背中を丸めて、頬杖をついている。
対するロレンスは、地図を片手に辺りをうろうろし、途方に暮れていた。
「……迷った」
その言葉を、自分自身への死刑宣告のように搾りだしたロレンスは、恐る恐るホロを窺った。
御者台の上のホロは、優しく笑いはしなかったが、怒りもしない。
「まあなんとなくそんな気はしておったからのう」
「船を勧められたのは、本当に親切心だったのか……」
なにが悪かったのかはわかる。
川沿いに海までの道が続いているので問題なかろうと思ったら、途中でひどい崖崩れのために、地図上の道がふさがれていたのだ。
それで地元の人たちが切り開いたらしい新しい道を通ったのだが、どうやら樵や狩人が使う道と交差していたらしく、そちらにいつの間にか迷い込んでいた。
しっかりと踏み固められ、荷馬車も十分に通れるなだらかな道だったし、炭焼き小屋などもあったので、てっきり商業路だと思い込んだのだ。新しい道ならば、使い込まれた炭焼き小屋などあるはずもなかろうに、気がついた頃には、地図には全く存在しない崖を横切り、峠を越え、深い森の中に迷い込んでいた。
「この辺りはもうわっちの縄張りでもありんせん。幸い、ややこしいのはおらぬようじゃが」
ホロは空を見上げて、鼻をすんすんと鳴らす。
空と言っても、この辺りはニョッヒラとは全然違う植生で、非常に背が高く太い木があちこちに生え、空をほとんど覆ってしまっている。
地面にまで光がろくに届かないので低木が少なく、それでかえって荷馬車で進むには困らない道ができている。
鬱蒼としているのに森の奥まで妙に視界が届き、時折変な視線を感じてぞくりとする。
大方は狐や鹿だし、森の王の中の王たるホロがいれば、恐れることなどほとんどない。
それでも、ロレンスは人なのだ。森の深淵には、本能が恐怖する。
「そもそも人が滅多に入らぬ土地のようじゃな。この道も、道というより、大雨の際の水が通るせいで綺麗に均されておるんじゃろう。落ち葉がすごくてわかりにくくなっておる」
そうだ、そういう人を惑わせる罠みたいなものも山にはあった。
幸い、積み荷には匂いのきつい硫黄の袋がたっぷり積んであり、ホロは狼の鼻を持つ。
引き返すだけなら問題はないはずだ。
「……引き返そう。こうまで森が深いと、太陽の位置で方角すらわからない」
ロレンスは馬の口を取って、荷馬車を回頭させようとしたところで、ふと気が付く。
ホロが、随分無表情だった。
ロレンスは己の間抜けさが情けなく、言った。
「怒ってくれてもいいんだぞ」
むしろそっちのほうが気が楽だ。
すると、ホロはきょとんとして、ロレンスを見た。
「む……怒る?」
ロレンスが観念するように首をすくめると、ホロは軽く辺りを見回してから、ふんと鼻を鳴らした。
「自分に任せろと大言壮語するのは、ぬしのいつものことじゃしのう」
なんの棘も悪意もない口調なのが、余計に傷つく。なにより、言い訳のしようもないので、ロレンスには怒る権利もないのだが。
「それに、ここに来れたのは悪くありんせん」
「……?」
ホロの口調は、雨の降る森のように穏やかだった。
「良い森じゃ」
船賃をケチった挙句に道に迷ったというのに、ホロはうっすらと微笑んですらいる。
罵倒されるよりもよほど不気味だったが、ロレンスの胸が急にざわついたのは、ホロがそのまま森の中に消えてしまいそうな気がしたからかもしれない。
慌てて頭を振り、森を改めて見回してみた。
「良い……か? 普通の森に見えるが……」
むしろ低木や下草に乏しく、森としては価値が低そうに見える。あれだけ天井を木の葉で覆われてしまうと風も入りにくく、茸もあまり採れないだろう。唯一価値を持つ巨木を切りだせば、あっという間に禿げてしまう性質の森だ。
「ぬしの目にはそう映るかもしれぬが……香りじゃ」
ホロは目を閉じ、大きく息を吸う。ロレンスも釣られて鼻で息をしてみるが、腐葉土の香りは確かに心地よくも、よくある匂いだ。
「人の鼻ではわからぬかものう。蜜の匂いじゃ。森全体が、甘く香っておる。おそらく……大きな木が蜜を湛えておる」
「花があるようには見えないが……樹液か? 樹液が採れるなら、小遣い稼ぎになるかもしれないな」
膠に混ぜたり、隙間風を塞いだり、蒸留酒の香りづけなんかにも使い道がある。
しかし、ロレンスの商人らしい発言に、ホロは苦笑いだった。
「ぬしはいつもそれじゃな」
「大事なことだ。なにせうちには大食らいがいる」
「ついでにあるじ様は方向音痴だしのう」
この状況でホロを言い負かせるはずもない。
ロレンスは反撃を諦め、馬を歩かせ始めた。
「道案内を頼む。それとも、引き返さずに海に向かう道が見つけられたりするか?」
どこか名残惜しそうに森の奥を見つめていたホロは、小さくため息をつく。
「わっちが狼に戻れば方向くらいはすぐにわかるがのう。この荷馬車があると、たとえ方向がわかってもまっすぐには進めぬ。いったん人の作った道に戻るのが結局早いじゃろう」
森の中には崖もあれば沢もある。ホロが側にいても道に迷うのは、道が真っ直ぐではないからだ。ロレンスが己の間抜けさを改めてホロに謝ろうとした、その時だった。
「む?」
ホロが背筋を伸ばし、あらぬ方向を見た。
「どうした?」
ホロの耳が右に左にと動く。ホロの耳はノミの咳払いだって聞きつけるほどによい。
何者かがいくら忍び足で歩こうとも、たちまち聞きつけるに違いない。
「なんだ? 熊か、野犬か? それとも……山賊か?」
ロレンスは即座に御者台に飛び乗り、座席の下にしまってある短剣を手に取った。
旅をしていれば荒事は避けられない。
来るなら来い、と構えていたら、ホロが言った。
「蜂じゃ。こんな季節に珍しい」
「蜂?」
ほどなく、ロレンスにも微かに羽音が聞こえてきた。
ただ、姿が見えずきょろきょろしていたら、不意にホロがロレンスの腕を掴んできた。
それも、爪を立てて、痛いくらいに。
「お、おい!? 痛いんだが、どうし――」
ロレンスの言葉がそこで途切れたのは、ホロが目を見開いて、耳と尻尾の毛をブラシのように逆立てていたからだ。
「う、あ、うっ……」
と、声にならない声を喉の奥で鳴らすホロに、よもや蜂の大群かと思ったのだが、大木の木陰からすいっと姿を現したのは、ごく普通の一匹の蜂だった。
しかし、その様子がちょっと妙だと思った瞬間、ホロが悲鳴を上げた。
「ぎゃー!」
聞いたこともない悲鳴に、ロレンスがぎょっとする間もなかった。ホロが巣穴に潜り込もうとする兎みたいにロレンスの胸にすがりつく。耳は伏せられ、尻尾は雷雲を前にした時のようにパンパンに膨らんでいる。
一体なんなんだ、と戸惑う中、一匹の蜂がふらふらとロレンスたちに近づいてくる。
特に怒り狂っている様子もなく、なぜこんなところに人間どもが? と困惑しているような気さえする。
しかし、羽音が近づくとホロの震えはますます強くなる。こんなに蜂が苦手だったろうか、と気になった。蜂蜜は大好きだし、蜂の子を油で炒めたものも、百合の根みたいにほくほくして美味い、と喜んで食べていた。それともこれは特別な蜂なのだろうか。確かにその蜂はやや奇妙なのだ。黄色と黒の縞々模様はよくあるそれだが、なぜか体から白い紐のようなものを垂らしていた。
ロレンスは、頭上をふらふらと通過していく蜂をじっと見る。
両腕の中では、竜の襲来に怯える栗鼠みたいにホロが震えている。
そして、呑気な様子で目の前を通過していく蜂を見て、ロレンスは気が付いた。
「あ、こいつは」
と、ロレンスは思わず手を伸ばす。
蜂はあっさり捕まった。
正確には、蜂からぶらさがっていた、糸を摘まんだのだ。
ロレンスはすぐに腰から手ぬぐいを外し、突然のことに暴れている蜂を包む。
怒りの羽音が聞こえる中、気が付けばホロが真っ青な顔でこちらを見ていた。
「な、なにをしておるんじゃ?」
突然財布の中身を道端にまき散らしたって、ホロはこんな顔をしないだろう。ロレンスが持っている袋状にした手ぬぐいを、おぞましい物でも見るかのように横目にちらりと見て、すぐに顔を伏せてしまう。
「早く捨ててくりゃれ!」
ロレンスは肩をすくめ、言った。
「お前こそどうしたんだ。ただの蜂だよ」
すると、ホロはびくりと体をすくませた。
乙女なところが多々あるホロだが、蜂が怖いなんてか弱いことはなかった気がする。
「それとも、まさかこれってお前たちみたいな蜂だったりするのか?」
数百年を生き、人語を解する、森の精霊のような。
だとすれば申し訳ないことをしたと思うが、ホロはロレンスの胸にさらに潜り込むかのように、首を横に振った。尻尾は相変わらずぶるぶると震えている。
疑問顔のロレンスが、怒り狂った羽音を鳴らし続ける手ぬぐいの中の蜂を見やった時だった。
「だ、だめ、なん、じゃ……」
「ん?」
「どうしても、だめ、なんじゃ……」
ホロが弱々しく、涙声で言った。
「そ、それは、虫に食われておる虫……じゃろう? だめじゃ、どうしてもだめなんじゃ……」
「あー……ああ」
その言葉で、ようやく合点がいった。
人には得意不得意がある。屈強な兵士が雷に弱かったり、万物を愛する敬虔な修道士が蜘蛛だけはだめだったりする。
ホロが蜂やらの虫を苦手としているというのは聞いたことがない。けれど、どうしても生理的に無理な場合があるのだろう。それが、寄生虫に侵されている虫。森や山を歩いていれば、世の暗部としか思えない不気味な様子を目の当たりにすることがある。
「んー……けど、これは」
と、ロレンスが手ぬぐいをホロに近づけると、御者台から転げ落ちんばかりにホロは身を引いた。
「ひいっ!」
「お、おい、危ないって」
「い、嫌じゃ! 嫌じゃ!」
必死な様子のホロがちょっと可愛くありながら、ロレンスは言った。
「蜂にぶらさがってたのは寄生虫じゃない。ただの糸だよ」
ホロはそんな嘘に騙されるか、とばかりに顔を横に振る。
だが、ロレンスが苦笑交じりにため息をつくと、ホロはようやく、少しだけ顔をあげた。
「ほ、本当、かや?」
幼子みたいなホロの様子に、ロレンスは今までにない心の部分を刺激されつつ、答えた。
「ああ。間違いない」
その言葉に嘘が無いことは、ホロは聞き分けられたのだろうが、なお疑わしそうだった気持ちもわかる。
「じ、じゃが……なぜ、こんな、森の中で……」
「糸をぶら下げた蜂が飛んでるのかってことだよな。熊は糸巻き棒を扱えないだろうし」
ただ、ロレンスはそれに心当たりがある。
「ここ、人があまり入らない森だって言ってたよな」
「……? う、うむ」
ホロが顔を上げて応えるが、手ぬぐいの中の蜂がぶぶっと羽音を鳴らすと、びくりと体をすくませていた。
「多分、蜂の密猟をだれかがやってたんだろう」
「……」
ホロは目を丸くしてロレンスを見て、それから、手ぬぐいを見た。
「め、目印じゃというのかや?」
さすが賢狼だった。
「じゃが、ニョッヒラでは見たことありんせんが……」
「ニョッヒラだと、山が険しいからな。到底追いかけられないんだろ。でも、これだけ見通しの良い森なら、蜂に目印の糸を括りつけて、巣に戻るのを追いかけられる。ただ……こんな場所でやるってことは、人に見つかりたくない密猟者だろうな。普通の森だと、貴族やらの持ち物だから蜂の巣取りには金がかかる」
「う、む……つ、つまり」
ホロは、ロレンスのことを窺うように見た。
「蜂の巣が……あるのかや?」
「この季節だから、蜂蜜がたっぷり詰まっているかどうかはわからないが」
蜂蜜取りは春から初夏だ。
しかし、たっぷり蜂蜜を湛えた巣ならば、真冬でも採る価値がある。
ホロが濡れた目をごしごしと擦り、洟を啜った。
「蜂の巣……」
「元気出てきたな」
ロレンスのからかいの一言に、ホロが唇を尖らせて睨みつけてくる。
「追いかけてみるか?」
ホロには、三角の大きな獣の耳と、ふさふさの尻尾が生えている。革に羊毛でも詰めた球を放り投げたら、一目散に追いかけて行きそうな見た目だ。
犬扱いすると激怒するが、すでにホロの尻尾はぱたぱたと落ち着きがない。
「じゃが、蜂の縄張りは広い。時間は……いいのかや」
いつもわがまま放題なホロだが、本質はこっちだ。本当に欲しい物が目の前に現れると、躊躇ってしまう。自分の時もそうだった。これ以上好きにならないうちに旅を終えよう、などとホロは言ったのだから。
対するロレンスは商人だ。欲しいと思った物は、貪欲に手を伸ばす。
たとえば、ホロの笑顔などはその最たるもの。
「旅の醍醐味は、予定どおりに行かないことだからな」
そして、付け加える。
「火を熾すのにも苦労して、派手に道に迷うとか」
ホロが首をすくめて、くすぐったそうに笑う。
ロレンスは道化たように振る舞いながら、ホロの頬を指の背でこする。
「それから、旅は仲間の知らなかった面を明らかにしてくれる」
ホロのことなら尻尾の付け根の毛の渦の向きまで知っていると思ったのに、まさか虫にやられた虫の類が泣くほど嫌だなんて。
弱みを知られたと気が付いたホロは、嫌そうにロレンスを上目づかいに見る。
「……たわけ」
ロレンスは、あと軽く百年はホロのことを愛せると確信した。
「じゃあ、蜂を追いかけるか。荷馬車はここに置いてても大丈夫だよな?」
「人が踏み入るような場所ではありんせん。物盗りはないじゃろう。場所も……匂いでたぶん大丈夫じゃと思いんす」
「ああ、硫黄か。それなら袋を一個担いで、道中に撒いていくか」
「ふむ。そうじゃな……そうかや。くふ」
小さく笑うホロを見やると、くすくすと笑ったホロが楽しそうにしていた。
「お伽噺であったじゃろう。森で迷った小さな童が、迷わぬようにとパンをちぎって……」
「確かにそんな話があったが、お前がそもそもお伽噺みたいなもんだろう」
ホロは目をぱちくりとさせてから、また笑っていた。
ロレンスは手ぬぐいをホロに渡し、早速蜂の巣取りに使える道具をまとめていく。空の麻袋と、天幕を張ったり泥濘の深さを測ったり野犬を追い払ったりする時に使う棒。それから焚き火用の薪と、火打石。顔や体を覆うための、ありったけの布。
最後に、道しるべ用の硫黄の粉。
「よし、行けるぞ」
ホロは力強くうなずき、手ぬぐいを開いたのだった。
★2018年8月10日更新の『狼と秋色の笑顔≪後編≫ 』に続く。
☆ひと足先に続きを読みたい方は、発売中の『電撃文庫MAGAZINE Vol.62』をチェック!