※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2019年5月号掲載の前半を抜粋したものです。
ロレンスが宿の扉を開けると、部屋の真ん中に少女が立っていた。
絹のように滑らかな亜麻色の髪の毛と、力仕事とは無縁そうな華奢な体つきは、貴族出身の娘を思わせる。年のころは若く、せいぜい十の半ばといったあたりだが、体を逸らし気味に胸の前で腕を組み、足は肩幅に開いてでんと構えている様には妙な迫力があった。
しかも顔はしかめっ面、眉根には深いしわが寄っているとなれば、遊び惚ける亭主にいよいよ立腹し、今日こそとっちめようと待ち構える気の強い幼な妻、と余人は思うかもしれない。
ただ、部屋の真ん中に立つ少女は、扉を後ろ手に閉めるロレンスのほうを見ていなかった。
視線は壁の一点に向けられたまま動かず、そこには一葉の紙が貼られていた。
その様子は、ロレンスの記憶が確かならば用事のために部屋から出ていく前も同じだった。
かつては行商人として鳴らし、今は温泉郷ニョッヒラで湯屋の主人に収まっているロレンスは、十年とちょっと前に娶った妻であるホロに向かって、こう言った。
「なにがそんなに気に食わないんだ?」
財布や護身用の短剣の類をテーブルに置きながらロレンスが言うと、ホロは体がさらにのけぞるほど大きく息を吸って、忌々しそうに吐く。
「この絵は後世まで残りんす。情けない様子を何百年後かに見て、後悔したくないからのう」
なんと御大層なことを、とはロレンスも思わない。
なにせこのホロは見た目どおりの少女ではなく、真の姿は見上げるばかりに巨大な狼であり、麦に宿りその豊作凶作を司ると言われた存在なのだ。描かれた絵が何百年も残るとなれば、ホロは何百年後かに再び絵の前を通りがかることが十分にあり得る。
お気に召さない絵を残されるのはとても重大な問題だろうとわかるが、ロレンスには不可解な点がある。
「最初はあんなに大喜びだったのに?」
ロレンスの指摘を、ホロは黙殺した。
ロレンスはやれやれとため息をつき、壁に貼られている絵を見やる。それはある大きな絵の一部になる下描きの、さらに素描といったもので、ロレンスとホロの人物像が木炭で描かれていた。
その大きな絵とは、つい先日、滞在している港町アティフにて、にわかに持ち上がった騒ぎを解決する際に必要となったものだ。ロレンスは騒ぎの中心にいた余禄として、自分たちを絵の中に描いてもらえるよう取り計らって3もらった。
自分の絵が残る機会など、それこそ貴族でなければまずあり得ない。しかもタダとなれば文句のつけようもないのだが、ホロには色々とあるらしい。
そして、ロレンスとしてはホロが喜んでくれないといくらタダでも意味がない。そもそもこの絵に自分たちを入れてもらおうとロレンスが画策したのは、ホロのためだったのだから。
何百年と生きるホロは、日々の出来事を後で思い出せるように、毎日せっせと日記を記しているが、表現に限界のある文字とは違い、絵ならば姿かたちまでも残すことができる。
だから当初、ホロは自分たちの絵が残るという事実に大喜びだったし、それ以上に自分の姿を絵にしてもらうという初体験に大興奮だった。
絵描きの職人が何枚か描いた素描のうち、一枚を譲り受けてからのホロは、それこそ鼻の頭に炭がくっつくくらい食い入るようにして眺めては、自慢の尻尾を振ってにやついていた。
それが一昨日あたりから、なにが気に食わないのか難しい顔をしているのだ。
「情けないってのが特にわからないけどな。よく描けてるじゃないか」
むしろ美化されているほどでは、と思うがそんなことを口にすれば狼の爪と牙で八つ裂きにされてしまうので、ロレンスはもちろん黙っている。
ロレンスの胸中を知ってか知らずか、ホロは鼻から大きくため息をつく。
「わっちの可憐さは確かに描かれておると思いんす。じゃが、この絵は何百年も残るんじゃ。数多の者が眺めるじゃろうし、わっちを知る者もおるかもしれぬ。その時、この可憐なだけのわっちが描かれておったらどうじゃ? 賢狼の威厳が減じるじゃろうが!」
腰に両手を当て、ふんすと鼻を鳴らす様は、絵の中のホロよりももっと幼く見える。
何百年と生きている割に、ホロは妙に子供じみていることがある。
ロレンスはホロと出会ってしばらくは、ホロが人の姿をとると少女の見た目になるために子供じみているのかと思ったが、ニョッヒラで湯屋を経営し、数多の年寄権力者たちを相手にして確信したことがある。年を経た者は皆、子供じみてくるのだと。
いわんや何百年と生きてきた狼をや、だ。
「とはいえ、題材からなにから全て決められた絵だからなあ。お前も作業の様子を見ただろ? 一介の湯屋の主人が口を挟める規模じゃない。俺もびっくりしたよ」
絵の発注元は、港町アティフにて鰊の卵の取引に従事する、様々な土地に住む富裕な商人集団だった。投機性の高い商品である鰊の卵取引は、おおっぴらにできる賭けごとということで遠方の地の大商人がわざわざ駆けつけるほどの人気だったのだが、折しも世間に吹き荒れている教会の改革の機運のせいで、綱紀粛正を図る若き司教に目を付けられた。今年の賭けが開始され、盛り上がり始めた矢先に中止の」横やりが入ったところを、ロレンスの機転とホロの協力で、頭の固い司教を丸め込んだのだ。
その丸め込みの一環として発注されたのがこの絵なのだが、富裕な商人たちが一獲千金を狙って集う遊び場の存続に関わる話だけに、ちょっと額の中に絵を収めて終わり、という代物ではなかった。鰊の卵取引を行う建物の壁に、漆喰を塗ってその上に大々的な絵を描くという代物で、呼び寄せる予定の絵描きとその弟子やらを合わせたら、数十人を数えるという。
現在はその絵を描く場所の選定と整備のために、建物をすっぽり覆う木の足場が組まれ、近隣からかき集められた石工と大工が、建築を司る職人組合の監督のもとに作業に励んでいた。すべての作業が終わった暁には、近隣に轟く町の名所になるに違いなかった。
そんな大資本の大事業の中、ただの湯屋の主人風情が顔を突っ込み、うちの嫁が可愛いだけの絵にされるのは嫌だと言っているので……などとどうして言えるのか、ロレンスには皆目見当もつかなかった。
「じゃが、大儲けのためには無理をとおすのがぬしの信条ではなかったのかや! わっちゃあぬしの最も大事な伴侶のはずじゃろう! わっちが喜ぶ以上の大儲けがあるとでも!?」
ホロが指をさして指摘する様に、ロレンスは小さく肩をすくめるばかりだ。
「大儲けを狙うような気性は改めろ、と常々躾けられているからな」
もちろん躾けようとしてきたのは、意外に保守的なところの強いホロである。
「それに、その絵でも十分お前の威厳は伝わるよ」
「……」
ホロは人の嘘を聞き分ける耳を持っている。
むぐっと口をつぐんだのはロレンスの言葉に嘘がないと耳ではわかったからだろうが、顔がゆがむほどに歯噛みしているのは、なぜ嘘がないのかと訝しんでいるからだろう。
ロレンスは小さく笑ってから、種明かしをした。
「少なくとも俺はその絵を見るたびに、顔がこわばるだろうからな」
なにせこの絵のそもそもの発端となった騒ぎに巻き込まれたのは、ロレンスが鰊の卵取引の掛け金を取り上げられそうになったからだった。しかもそれが、ホロの勤労精神に珍しく火がついて、せっせと手間賃仕事に励んでいた横での出来事となれば、ホロに首根っこをつかまれる話としては十分すぎる。
「ぬしはわっちをたばかってばかりじゃな!」
「十年以上一緒にいるんだ。扱いくらい心得るさ」
「たわけ!」
はいはいとロレンスは肩をすくめ、開け放たれた木窓から外を見た。
「それより、飯に行かないか? 職人たちが続々と町に呼び寄せられているから、日が暮れたらどこも混むぞ」
湯屋を開く前は行商の旅暮らしだったので、ホロもそのあたりのことはわかっている。無駄な争いで時間を失えば、宿の台所を借りて薄味の麦粥に生の大蒜、という食事になりかねない。
「ふん。ぬしは命拾いしたのう!」
「この後の支払いまでの短い命かもしれないがね」
ホロは眉を吊り上げると無言でロレンスの腰を叩き、外套を頭から羽織るや、不機嫌そうに暴れる尻尾をその下に収めたのだった。
ロレンスたちが滞在している港町アティフは、もともと賑やかな港町だったが輪をかけて賑やかになっているように見えた。今まさに町の中に入ってきたばかりで港の様子に見入っている旅人や、町に豚や鶏を売りに来たついでに魚を買おうとしているらしい近隣の農夫に、港に到着する船からどやどやと流れ出してくる船乗りや荷運び人たちなどで、港沿いの広場はごった返していた。
人が多いせいで屋台からはどんどん食べ物が消えていき、ロレンスとホロは二手に分かれて確保することにした。見目麗しい演技派のホロは、食べ物屋で買い物をすると優遇されるので羊肉と魚の屋台を回らせ、ロレンスは酒を確保しに走った。
どんな食べ物も酒がなければ味気ない、というわけで肘鉄の食らわせあいになっている量り売りの屋台にかじりつき、なんとか酒を確保することができた。
ロレンスがふらふらと歩いているところ、聞きなれた声が耳に届く。
「ぬしよ、こっちじゃ! こっち!」
目ざといホロは宿と宿の間の路地に作られた立ち飲み場で、しっかり席を確保していた。
「ほほう、良い香りの葡萄酒ではないかや。山の果実酒には飽きてきたところじゃ」
ホロはスグリのような酸っぱい果実酒も好きだが、がたつくテーブルの上でまだ脂が弾けている羊肉と魚の揚げ物となれば、冷えた麦酒か葡萄酒だろう。
「ところで、麦酒はないのかや?」
案の定、ホロに指摘された。
「高い葡萄酒だから買えたんだ。安い麦酒や果実酒は殴り合いの奪い合いだ」
そんな大袈裟な、とホロは指摘しなかった。フードの下の狼の耳をひこひこと動かせば港の喧騒は大体把握できるはずなので、ロレンスにしては頑張った、とでも思っているのだろう。
「お前は首尾よく集められたらしいな。見事なもんだ」
ロレンスがそう言って羊肉をひと串手に取るころには、ホロはさっそく木樽の栓を抜いていた。顔が隠れてしまうくらいの木樽を両手で持ち上げ、直接葡萄酒をごくりごくりと飲み始める豪快な様に半笑いになってしまう。それは数日分のつもりで買ったんだが……という小言は、向けるだけ無駄だろう。
ホロのそんな様子に近くにいた席の男たちは目を丸くし、ホロが「ぷはーっ」と満面の笑みで息継ぎをすると、やんややんやの騒ぎになった。
黙ってじっとしていれば旅の修道女にも見えるホロの飲みっぷり食いっぷりは、見た目の落差と相まってか、いつも旅先で人気の的だ。それを見世物にして金をとれば食費も浮くのではなかろうか、と何度考えたことかわからない。
「けふっ。うむ、良い葡萄酒じゃ」
口の端に垂れた葡萄酒をぺろりと舌で舐めとりながらホロは言って、魚の揚げ物に手を伸ばす。この港町に来るまでは、魚など嫌じゃ、腹の足しにならぬと騒いでいたくせに、塩漬けではない新鮮な魚のうまさにすっかり篭絡されている。そんなホロを横目に、今度はロレンスが木樽に口をつけ、鼻を通り抜ける爽やかな葡萄の香りを楽しんだ。
「ま、わっちにかかれば造作もありんせん」
「ん?」
ロレンスも魚の揚げ物をざくりとやっていたら、ホロのそんな言葉に視線を上げた。
「ああ、食い物を集められたって話か」
「んむ。人垣の外でおろおろしておれば、筋骨隆々の熊みたいなのが肩に抱え上げてくれて、ほかの客を蹴散らしてくれてのう。そのまま肩の上から注文して、受け取って、礼にひと串食わせたら大喜びじゃった」
ホロは目を細めて、ことさら楽しそうに語っている。
お使いに来たもののまごついている修道女、という体で演技したのだろうが、ホロのこの手の手練手管はいつものことだ。それに、貞淑を求められる妻がほかの男の肩に乗るなど言語道断、というような感情をちらりとでも見せれば、ホロは尻尾を振って食らいつくだろうことがわかっていた。
あっちこっちに置かれている罠を気づかない素振りで避けながら、ロレンスは少し反撃を試みる。
「絵には文句つけているくせに、存分に可憐さとやらを利用しているじゃないか」
呆れ気味の言葉に、魚から羊肉に移っていたホロは、犬歯を煌めかせながら肉を噛みちぎって見せた。
「たわけ。可愛いだけのわっちじゃと思われたら困るということじゃ」
「……さようでございますか」
ロレンスがため息をついて葡萄酒の樽に手を伸ばそうとしたら、ホロに奪われてしまう。
「んっく、んっく……ぷはーっ! それで? ぬしはわっちを部屋にほったらかしてここ数日、昼間なにをしておったのかや」
海が目の前にあるせいか、料理の味付けはどれも塩が利いていて、酒が進む。悪酔いされても困るので、ロレンスはホロに小麦パンを用意しながら答える。
「小銭の両替だよ」
「ほう?」
パンに切り込みを入れ、そこに串から外した羊肉とチーズを挟み、辛子種から作ったソースをかけて、ホロの前に置く。放っておくと肉だけを食べ続けるホロは、やや不服そうにフードの下で片耳をパタパタさせた後、パンを開いてさらに肉を数枚追加して、こんもり膨らんだパンにかぶりついていた。
「ニョッヒラを出るときにたくさん貨幣を預かっただろ。この町の司教とせっかく知り合えたんだから、その伝手で預かってきた貨幣を小銭に両替できないかと思ってな」
世間が好景気に沸いているのは結構なのだが、商品を売り買いするための貨幣が不足していて、どこも困っている。ニョッヒラから外に出たロレンスは、その少額の貨幣を手に入れるお使いを頼まれていた。
「ふむ。じゃが、あんべ……むぐ、なんで、ぬしは毎日出かけておるんじゃ? 一回で済まぬのかや」
「似たような陳情の人で、長い行列ができてるんだよ。三日前に並んで、今日、ようやく謁見がかなったんだ」
あまりに行列が長いせいで、日暮れとともに町の衛兵が順番待ち用の木札を配り、翌日また並びなおすという形式になっていた。なので夜はきちんと宿で眠れたが、それでも日中立ちっぱなしだった。
すると当然のように、駄賃目当てで代わりに並ぶ商売をする奴が出てくる中、ロレンスは節約の呪文を唱えて耐えていた。
「ああ、それで夜中に足が攣って、間抜けな声を上げながら起きてたのかや。情けないのう」
「……返す言葉もないし、ニョッヒラの湯が恋しくなったよ。しかも、結局小銭に両替できなかったんだからな」
「ふむ? じゃが、確かほれ、教会には寄付とやらで小銭が集まると言っておったじゃろ」
「そのことはみんなが知っている。同じ目的で大勢詰めかけていれば、よそ者に回ってくる分などあるはずがない」
両替商で手数料を払えばもちろん両替してもらえるが、とんでもない金額を吹っ掛けられるのが目に見えている。そもそもその両替商たちでさえ、おそらくはあまり割の良くない交換比率で、教会から小銭を調達しているはずなのだから。
「それでおめおめと帰ってくるようでは、わっちがぬしを旦那様と呼ぶ日は遠そうじゃのう」
「元から呼ぶ気などないだろうが。それにいまさらしおらしくされたら気味が悪いよ」
酒が回って上機嫌なホロは、にししと歯を見せて笑っていた。
「ま、小銭は手に入らなかったが、なんとかその伝手になりそうなものは手に入れてきたよ」
「ほう?」
ロレンスは胸元から一枚の紙を取り出すと、テーブルの上に広げて見せた。この辺り一帯の地図だ。
「小銭が集まる場所は限られていて、みんながそのことを知っているから競争が発生する。だったら、どうすればいい?」
「簡単じゃ。誰も知らぬ場所に赴けばよい」
「そのとおり」
羊肉が残っている串をホロに向けたら、身を乗り出してきたホロに食われてしまう。
「んむ、むぐ……じゃが、そんな都合の良い場所などあるのかや」
「滅多にないが、あるにはある。そしてそこにたどり着くには伝手というものが必要で、その伝手はこの俺にならある、という塩梅だ」
得意げなロレンスのことをホロは無視し、視線を地図に落としながらパンにかぶりつく。
ホロの意地悪なつれない態度に慣れているロレンスは、へこたれずに言った。
「こないだの騒ぎの時、力を貸してくれた初老の大商人がいただろ?」
「んむ。ずいぶん身なりの良い、どこかの行商人とは違う感じの良い雄じゃったな」
「……ごほん。元は強大な商人組合で貿易船を率いていたらしく、提督なんて呼ばれてる人だがな、その人が司教様に口を利いてくれて、司教様から依頼という形で請け負ったんだよ」
「ほう?」
ロレンスは自分たちの今いる町、アティフに指を置いて、すっと右下に沿わせた。
広大な平野が広がる、この地域一帯の穀物庫と呼ばれるところだ。
その平野と海側の地域を隔てる山の麓に、指を置いた。
「南東に向かった先に、内陸部と海側の地域をつなぐ大きな町がある。穀物の取引が盛んだ」
「ほう、良いではないか。まあ、わっちの麦が一番なのは間違いないがのう」
ホロは首から提げている巾着袋を指で弾いて、得意そうに鼻を鳴らす。
すでに酔ってそうだな、とロレンスはこの後のことが心配になりつつ、続けた。
「で、この時期は取引に従事する商人たちが大挙して押し寄せるから、大市が開かれている」
「ほほう、なお良いのう!」
喜色満面のホロに微笑み返し、ロレンスは地図上に記された大きな町から、少しだけ左下に指をずらした。
「しかし俺たちが向かうのは、その大市が開かれている町から南西にずれたここ。山がちのあまり使われていない街道沿いにある、小さな司教領だ」
たちまち、灰でも吹きかけたかのようにホロの顔から明るさが消える。
ロレンスはそんなホロの様子に口許がゆるみかけるのをこらえながら、要点を述べた。
「この司教領はこの町の聖堂と縁が深く、兄弟分らしいんだが、問題を抱えている。特権と商いをめぐる問題に巻き込まれていて、ぜひとも商人の手を借りたいと思っているものの、多くの商人がこの時期は自分の取引で精いっぱいだ。そこで信用ができ、なおかつ腕の立つ商人をご所望ということで、俺に白羽の矢が立った」
ロレンスがそう言ったところでホロを見れば、酔いが本格的に回り始めたのか、瞼がやや落ち気味になっていた。ホロはどこを見るともなしに、赤い顔で黙々と魚の揚げ物をかじっている。ロレンスはため息をつきつつ、木樽をそっとテーブルの上から片づけて足元に置いた。
「大市の賑やかな騒ぎを楽しみたければ」
と告げると、ホロの狼の耳がフードの下でぴんと張り、目にわずかに正気が戻る。
「ここの問題をさっさと片づける必要がある。大市が終わってしまったら、ほかの商人が嘴を突っ込んでくるかもしれないしな」
地図を見つめていたホロは、瞼をゆっくり一回閉じると、大きくうなずいた。
「それは、急ぐ必要があるのう……」
「理解してくれて助かる。じゃあ、絵の件は問題ないし、さっさと出発しても構わないな?」
ロレンスに向けられたホロの赤い瞳は、酔いで潤んでいる。
うまく焦点が合わないときのような、もどかしそうな顔をしているのは、未だ見ぬ大市の賑わいと、この町に残って引き続き絵のことでぐだぐだしたり魚の揚げ物を食べたりすることを、頭の中で天秤にかけているのだろう。
「どうする?」
その問いにホロはため息とともにうなずき、ひっくと大きなしゃっくりをしたのだった。
酔いつぶれたホロを背負って宿に運んだ日の翌日、二人はすでに街道の上にいた。旅の技術はいくらか錆びついていても、いつでも旅立てるようにという準備だけは怠らない。
「うー……新鮮な海の魚が意外に美味かったからのう……もうしばし町におってもよかったかもしれぬ」
旅立ちの日にしてはすっきりしない空模様で、西からは冷たい風が吹いてくる。
荷馬車の荷台で荷物に寄りかかり、毛織物の肩掛けを羽織ったホロはいつもの日記を書きながら、そんなことをぶつぶつ言っていた。
「大市の開かれる町は、穀倉地帯とこちら側の海に面した地域を隔てる山の麓にある。平野と山、北と南、東と西の品々が集まり、それこそ山ほどの果物だって並ぶらしい」
荷馬車の手綱を握るロレンスの言葉に、ホロの耳がぴんと張ってフードを持ち上げた。
「当然その果実を使った酒も豊富だし、穀物取引の中心地なんだから、パン焼き職人も数多いて、果物をたっぷり使った菓子パンが目白押しとのことだ」
ばさ、ばさ、と箒で掃くような音がしたのは、期待と興奮に膨らんだホロの尻尾だろう。
ロレンスが声なく笑っていると、唐突に後頭部を叩かれた。
「痛てっ。おい、なんだよいきなり」
「たわけ! そうやってわっちを食い物で釣ろうとするからじゃ!」
「そういうわけじゃない。これからしばらくまた味気ない旅暮らしだからな。我慢の先にはご褒美があると思えば耐えられるだろう?」
「耐えた先でも節約を強いられるやもしれぬからのう!」
それで節約してくれたことなんてあるのか、と言いたいところだが、なんとアティフの町でホロは手間賃仕事に精を出していた。
いくら商人の血を忘れまいと思っているロレンスでも、昔のようなことを言うつもりはない。
「お前が働いて稼いだ金はきちんと勘定してある。ついでに、俺が鰊の卵に賭けた金もな。その範囲ならけち臭いことを言うつもりはない。結構な贅沢ができるはずだ」
「ふん」
ホロは鼻を鳴らすと、ひょいと身軽な様子で荷台から座席に飛び乗ってきた。
アティフを発ってまださほどでもないため、街道にはたくさんの旅人がいる。
ホロの耳と尻尾を見咎められないかとひやひやしたが、一足先に冬が来たかのような、曇天の寒い日よりなのでだれもかれもが毛織物やら毛皮やらをかき寄せている。ホロの外套の下から見え隠れする尻尾は、風変わりな防寒具と見られるだけだろう。
ロレンスの隣に座った当のホロも、飼い犬が寝床を作るかのようにもそもそと毛織物やらを敷きなおしたり羽織りなおしたりして、満足いくように整えている。熱心な様子が面白くてロレンスが眺めていると、最後に自慢の尻尾を膝の上に置いたホロはこう言った。
「ついでにこの尻尾の貸し賃でも取って稼ぐとするかのう?」
毎日香油を振りまいて、櫛で手入れをしているふわふわの毛並みだ。しかもホロの血が通う生きた毛皮ときているので、こういう寒い日はなによりも温かい。膝掛けの下に入れてくれるのと入れてくれないのでは、旅の快適度が段違いだ。
「阿漕なことを……」
にしし、と笑うホロにため息をついて見せてから、ロレンスはびしりと手綱で馬の背を叩く。
「まあ、そんなことしなくとも、この後の仕事で力を貸りることになるかもしれないからな。しっかり働いてくれたら、礼はきちんとするとも」
「ほう」
甘噛みでじゃれつくのも飽きたのか、ホロは膝の上の尻尾をひと撫でしてから、共有する膝掛けの下に入れてくれた。
「それで、どんな用件と言っておったかや。昨日は少しばかり飲みすぎてしまってのう」
少しばかり……とロレンスは口の中で呟いてから、酔いつぶれたホロを世話したことを飲み込みつつ、答える。
「きっかけはアティフの町と同じだ。コルとミューリの引き起こしてる騒ぎの影響だよ」
道の向こうに消えようとしているアティフをホロは振り向き、ロレンスに向き直る。
「どこの教会も修道院も、長いこと蓄財に耽ってきた。それは単なる金銭欲だけでなく、儲ければその分で施しができるとか崇高な考えもあったわけだが、やっぱり悪弊も大きかった。そのうえ経営に秀でた者が重宝されてきたから、商人顔負けの連中がのさばることになって、さらに問題が大きくなった」
ホロはうなずきつつ、大きなあくびをして、にじんだ目じりをロレンスの肩にこすりつけてくる。興味なさそうに見えもしたが、きちんと聞いていることはフードの下の耳の動きで分かっていたので、ロレンスは後を続けた。
「で、そういった問題の積み重ねが今度の教会の改革をめぐる騒ぎの発端になったから、特に急進的な地域では、人々の不満を逸らすため、教会は偉い聖職者を片っ端から配置換えしているらしい。が、それはそれで新たな問題を生んでいる」
「ふむ。話が見えてきんす。総取っ換えをしたはよいが、その後のことまでは考えておらなかったわけじゃな」
と、ホロが視線をきょろきょろさせているのは、干し肉かなにかを探しているのだろう。
後ろの荷台に置いてあるとわかったらしく、唇を尖らせていた。
「そのとおり。しかも地域の人々に改革の成果を見せるため、特にまじめな人たちを取り立てているから、余計に問題が大きくなった」
「コル坊は賢いが、商いに向いておるとは思えぬ。先だっての町のあやつらも、コル坊に憧れて町の商いに茶々を入れようとしておったのじゃろう?」
アティフの町を神の教えのもとに取りしまろうと、熱意に燃えていた若い司教は、口調までコルに似せているような気がした。アティフでコルとミューリの活躍とやらの話も聞き集めてみたが、どこまでが作り話で、どこまでが事実なのかまったくわからなかった。おそらく誇張がほとんどだと思ったが、異教徒と教会の戦が終わって平和になり、大きな話題に飢えていた人々が持ち上げるのにちょうど良い題材だったのだろう。目立つのが大好きなミューリはともかく、コルの気苦労がしのばれた。
ロレンスが肩をすくめると、ホロはもう一度大きなあくびをしていた。
ホロは基本的に、食べているか寝ているかのどちらかだ。
「ふわあ……あふっ。じゃが、それでわっちの力を借りるかもしれぬ、というのはわからぬ」
「まあ、俺もそうならないことを願ってはいるんだが」
と答えると、膝掛けの下から尻尾がするりと抜かれた。
「おい、違うって。礼をしたくないから、という意味じゃない」
ホロは疑るような視線を向けつつ、渋々尻尾を戻してくれた。
「まったく……尻尾を人質に使うのやめてくれよ」
「ぬしはわっちの尻に敷かれたくてたまらないようじゃの?」
くつくつと笑うホロに、ロレンスは疲れたようにため息をつく。昨日は散々飲んで食べてぐっすり寝たので、今日は元気が余っているらしい。
「それでな、その困り果てている新任司教の悩みというのは、新たな赴任地の財産を把握しようと特権状を確認していたら、とんでもない土地が領地内にあることが分かったんだと」
「とんでもない土地?」
ロレンスは隣に座る、御年数百歳の狼の化身を見ながら、こう言った。
「堕天使が居座る、呪われた山だそうだ」
ヴァラン司教領、と手紙にはあった。
元々は人がほとんど住んでいない寂しい土地だったが、獣道に近い道が山を越えた先の大市につながっていたおかげで、なんとか生き延びてきたようなところだった。
それがある日、大富豪の商人が通りがかり、農夫が兼業するみすぼらしい旅籠で客死した。それまで吝嗇に吝嗇を重ね、あまり整備されていない街道を通って大市に向かおうとしたのも、道中の関税を支払いたくがないためだったというその大富豪は、臨終の際に己の吝嗇を悔い、看取ろうとする農夫に己の全財産を託すことにした。望みはここに教会を建てること。
財布に残る数枚の金貨を託されたのなら、農夫はしめしめと懐にしまったかもしれなかったが、託されたのは城が建つほどの莫大なものだった。
農夫はこれは神の使命なのだと理解し、熱心に遺言のとおりに行動し、聖職者を呼び寄せ、教会を作り、街道を整備し、手に入る限りの土地や特権を手に入れて財産の防衛を図った。
また、地を耕す農夫ゆえ地勢の選別眼があったのか、はたまた神の恩寵か、確保した土地の中から岩塩や鉄が採れることが判明した。街道沿いのぽっと出の小さな教会は莫大な利益を上げ、たちまち司教座を賜る独立した司教区になった。
ヴァランとはその伝説の農夫の名前であり、それがおよそ二百年前のことだった。
「わっちゃあ夫選びを間違ったかのう」
港町アティフを旅立って四日目。前日に泊まった旅籠で聞き集めたヴァラン司教領の話を日記に書きながら、ホロはそんなことを言った。
「そうかい。ちなみにそのヴァランは、酒も肉も絶って、夜明け前から深夜まで働き詰め。妻や子供にも同じ生活を強いていたようだ」
昨晩も旅籠では随分酒を飲んでいたホロを、ちらりと見やる。
中指と薬指の間に羽ペンを挟み、人差し指と親指で豚の腸詰をつまんでいたホロは、豚の腸詰とロレンスを見比べてから、にっこりと笑う。
「わっちゃあぬしが大好きじゃ」
「酒と肉を貢ぎ続ける限りにおいてな」
疲れたように言うロレンスに、ホロは楽しそうに笑いながら肩をぶつけてきた。
「まあ、それが幾分誇張された伝説にせよ、そうやって大きくなった司教領だ。代々金儲けに邁進していたが、うまくいっていたのは、せいぜい百年程度の話だったようだ」
「富の源が枯れたんじゃったか?」
「らしいな。最初に岩塩鉱が地下水のせいで水没して放棄され、今は採掘用の穴を下っていくと、塩辛い地底湖になっているそうだ」
「塩漬けを作るにはよさそうじゃがのう」
確かに、とロレンスは小さく笑い、旅籠の主人から聞いた話の続きを思い出す。
「かくして、膨れ上がった人口を養う必要のあった当時の司教領は、鉄鉱山の事業に注力せざるを得なくなった」
話を日記に書き留めるホロの顔が曇るのは、森に住む狼ゆえ、森を破壊する鉱山は昔から嫌いだからだ。
「じゃが、それも枯れたんじゃろう?」
悪は滅びた、とばかりのホロに、ロレンスは曖昧にうなずく。
「最初に枯れたのは鉄ではなく、森のほうだったみたいだ」
「……」
ホロは贔屓の騎士が馬上試合で負けた姫君みたいな顔をして、日記に視線を戻す。
「それまでは鉄の鉱石を掘り出し、その場で精錬して鉄製品まで作っていたらしい。普通の町にある組合のような掟がなかったというから、自由な作業場にひかれて多くの職人が集まったという。さぞ賑わったろうな」
ホロは不機嫌そうに鼻を鳴らし、荒い筆致で羽ペンを動かしていく。
「だが、冶金には膨大な量の燃料が必要になる。そもそも鉱山採掘には、坑道を支えるための梁やら、排水用の水車などで木材を必要とする。そこで働く人が多く集まれば、煮炊きのための薪や、家を建てる建材も必要だ」
「挙句に、木を切り倒した近隣の土地は、鉱山の毒によって容易によみがえらぬしのう」
自業自得じゃ、とホロは唇を尖らせている。
「野放図に膨れ上がった鉱山街は、膨らむのと同じ速度でしぼんだらしい。それがおおよそ、七、八十年ほど昔の話だと」
「ふむ」
ホロにとってはついこないだのことだろうが、ロレンスからすると生まれる前の話だ。
「木材が枯渇して人々の生活そのものを支えられなくなると、鉱山自身が疲弊していたこともあって、鉄の産出は激減した。しかも薪がないから精錬もできず、重い鉱石を苦労して遠方の町まで売りにいかなくてはならない。儲けは当然減り、それはさらに人の離散を促し、土地は急速に寂れていった」
「で、今も山は丸裸、かや」
忌々しそうにホロは言う。
「いや、そうはならなかった」
「む?」
ホロが意外そうに顔を上げた。
「というかお前やっぱり覚えてないじゃないか。酔ってなどおらぬ、と言い張っていたくせに」
ホロは誇り高い狼のはずだったが、澄ました様子で知らん顔。昨晩の酩酊の様子も全く覚えていないようだ。
とはいえ、ホロが深酒を全く反省しない理由はロレンスにもわかっている。ロレンスがそういうホロの世話をなんだかんだ楽しんでいる、とホロに見抜かれているからだ。
因果なことだとロレンスはため息をつきつつ、続けた。
「疲弊した鉱山と、収入を失ったがその場に残らざるを得なかった人々、それに完全な禿山が残された。そこに現れたのが、錬金術師の一行だ」
生意気な小娘みたいにそっぽを向いていたホロが、真剣な目でロレンスを振り向いた。
「いつだったか俺たちが追いかけた鉱山技術に関する禁書も、執筆者は錬金術師だったな」
この世を神が作ったかどうかはおいておくとして、ホロのような古代の精霊が跋扈する森を切り開き、人の支配下に置く技術を開発するのはいつも錬金術師だった。
その意味では、ホロにとって錬金術師の名は、羊飼い以上に忌み嫌うものだろう。
「けれどもまあ、話はここから妙なことになっていく」
ロレンスは言って、ホロが傍らに置いている木の皿から腸詰をひと切れ失敬し、口に運ぶ。
「錬金術師たちは鉄の鉱山を掘る技術の代わりに、精錬のほうに魔法を用いたんだ」
「魔法?」
おとぎ話のような存在のホロだが、漆黒の森に住まう魔女を見たことがあるかと聞いたとき、怪しげなキノコを食べて夢を見ておる者たちならば見たことがある、とにべもない返事が返ってきた。
だが、ロレンスが旅籠の主人から聞いた話が本当なら、錬金術師たちは正真正銘の魔術師だったと言えるだろう。
「彼らは木材を使わずに、鉄を精錬してみせたらしい」
ホロはだてに何百年と生きていないし、ロレンスと旅をするようになってからは多くの町を訪れてきた。持ち前の頭の良さで、見たこと、聞いたことは、都合の悪いこと以外、滅多に忘れない。それを魔法だと鵜呑みにする前に、別の可能性を口にした。
「あの臭い泥炭を使ったのではないかや?」
「泥炭なら火は熾せるが、火力が圧倒的に足りない。周辺から石炭が出るわけでもない。ましてや瀝青ですらない」
瀝青は燃える水と呼ばれる黒い液体だ。高価な代物で、ロレンスもそれは燃料としてより、船などが腐らないように防腐処理で使うところを見たことがあるだけだ。
「錬金術師たちは火を使わずに鉄を精錬する魔法を生み出し、それでわずかに産出する鉄の鉱石を精錬して、残っていた人々の窮状を救ったらしい。薪を使わずに鉄を精錬できれば、笑いが止まらない程に儲かるからな。しかも火を無から生み出せるのなら、禿げた山に緑が戻るのを助けることもできる」
「ふむ」
最後のところに強い関心を示したホロは、「それで山は戻ったのかや」と聞いてきた。
「なんと、戻った」
「ほほう」
花が咲くように笑う、とはそのことだろう。ホロのそんな笑顔にロレンスも嬉しくなるが、話はそれだけで済まないはずだと、ホロ自身が理解していた。
「じゃが、めでたしめでたしとなるようなら、ぬしはわっちの力を借りるかもしれぬ、とは言わぬじゃろ?」
「まあな。ついでに、呪われた山、なんて呼ばれるはずもない」
ホロは形の良い眉を動かし、眉間にしわを寄せる。視線が宙を泳ぐのは、話のつじつまを合わせ、一本につなぐ串に想像がつかなかったからだろう。
「火を使わずに精錬してみせたことが、コル坊のような連中から魔術と見なされたのかや」
人の常識を揺るがすことは、なんであれ悪魔の仕業、神への冒涜とみなされる危険がある。
「俺もそれを考えたし、俺に仕事を依頼したアティフの司教もその可能性を考えているらしい。山にやってきたのは錬金術師ではなく、人を惑わせる堕天使だと」
「ではぬしは、背中から羽を生やし、山羊の頭をして、馬の脚を持つようなのが山をうろついておると?」
麦に宿る見上げるばかりに巨大な狼の化身が、教会で語られる悪魔の話をする。ロレンスが知っている人ならざる者は、もう少し親しみやすい獣の化身たちだ。
「そうは思わない。ただ、今でもその山には出るらしいんだ」
「出る?」
ロレンスは、酔いつぶれて眠りこけるホロをよそに、蝋燭の明かりを頼りに話す旅籠の主人の口元を思いだす。
もさもさと動く髭の隙間から出てきたのは、こんな言葉だった。
「山に人が入るのを頑なに拒む、何者か。火を使わずに精錬する技術そのものは、まだ山の中に眠っているらしい。それは巨万の富を成す技術に違いないし、過去に幾度もそれを手に入れようと人がやってきて山に分け入った。だが……」
「帰ってきた者はいない、と?」
「しかも、枯れたはずの鉄鉱山を掘り続ける亡霊が夜な夜な現れては、かーん、かーん、と石を打つ音が山から聞こえてくるらしい」
よくある話、といえばそうだが、ロレンスにはほかの者たちが持ちえない知識がある。
たとえば、湯けむり漂うニョッヒラの温泉地を、ちょくちょく巨大な狼がうろついているということなど。
世の中には人知を超えたことが実際にありうるのだ。
「亡霊はともかく、山になにかがいるのだとしたら、お前ならわかるんじゃないか?」
ホロの耳と鼻は文字どおり狼のもの。本気を出せば広い山でもたちまち見つけられるだろう。
「それはそうじゃろうが……」
しかし、ホロは言葉を濁し、荷馬車の座面に足を乗せて膝を立てた。
「本当になにかがいるとわかったら、どうするつもりじゃ?」
そこにあるのは、不安そうな目だった。よもや亡霊がいたとしたら、なんてロレンスは思い、自分の間抜けさに呆れた。山にいるかもしれない何者かは、きっとホロと同じ世界に住むものだ。だとしたら、なにかしらの事情を抱えているに違いなかった。
例えば森をよみがえらせてくれた錬金術師に感謝し、彼らの残したものを今でも健気に守り続けようとしているとか。
普段の振る舞いからは想像しにくいが、ホロは基本的に心優しく、傷つきやすい。
山に残されたかさぶたを剥がすのは、気が進まないのだろう。
「お前の不安はわかるが、ヴァラン司教領の司教様がお望みなのは、その土地をこれから先どうするかの、判断の根拠となるようなことだ。商人を探しているのは、その点良い兆候だ。損か得かで判断しようとしているってことだからな」
ホロはロレンスをじっと見て、ゆっくりと目を閉じる。
「つまり、ぬしの口八丁がそれなりに効く、という意味かや?」
「そこはまあ、司教様からどれだけ信用されるかにもよるだろうが」
ホロは大きく息を吸うと、嫌そうに吐く。
「山向こうにあるという大市が終わるまでに、丸め込めるんじゃろうな」
「それも山になにが残されているかによる」
ホロの狼の唸り声が喉の奥から一瞬聞こえたが、そうとしか言いようがないことはホロにもわかっている。
ほどなく鼻を鳴らし、立てた膝の上に顎を乗せて、すねた女の子みたいに背中を丸めていた。
「愉快な話が残っておるはずもなかろうに」
ロレンスと出会う前、麦畑で長いこと独り過ごしていたホロは、そのせいなのか元々の性格なのか、未来を暗く考えがちだ。
反対に、ロレンスは次こそ儲かると思うからこそ前に進む、懲りない商人だ。
「たとえそうだとしても、俺たちが行くことでその山にいるなにかを助けられることだってあるだろう? 俺たち以外の誰かが行ってみたところを想像してみればいい」
司教が商人を探しているのなら、間違いなく土地の処分を考えている。誰に売るのか、どのように売るのかは、その土地の今後に関わる重要なことだ。
「それに、もしも気の合う人ならざる者なら、うちの湯屋に働きにきてもらったっていい」
「……」
ホロがげんなりしたような眼をロレンスに向けるのは、ロレンスの言葉に嘘がないとわかったからだろう。
「ぬしはいつも楽天的なたわけじゃ」
「じゃなきゃお前の手を握ってここまで来なかったさ」
ホロは静かな赤い瞳をロレンスに向け、それから降参するように笑ってみせた。
「たわけ」
ロレンスは肩をすくめ、手綱を握りなおすとぴしりとやったのだった。
奥深い山の上から海にまで下りてきたのに、またぞろ山に登ることになったが、ところ変われば山も変わる。
急峻な崖と奥深い木々、そこをさらに複雑にするあちこちに溝を掘り続ける小川の流れ、というニョッヒラの山に慣れていると、そこは山というよりも無限に続く緩やかな坂だった。
「背の高い草が続く土地に、時折思い出したかのように小さな林があるのは、散々荒らされた爪痕じゃな。野放図に森の木を切り倒すとこうなりんす」
風が吹くたびにさわさわと揺れるすすきの穂は、一見麦畑にも見えるがひどくもの悲しい。ロレンスも過去の行商の途中、戦乱で燃やし尽くされた土地で同じ光景をよく見かけた。
道そのものは広めに踏み固められていて、どちらかといえば立派な部類に入るのだが、すれ違う旅人の姿は皆無だ。おそらくこの道は、岩塩や鉄の生産で賑わっていたころに整備された名残なのだろう。
「実りをもたらさぬ気の滅入る土地じゃ。兎や蛇、狐にはまあまあ住みよいかもしれぬが」
「いっそ一帯に火を放って、畑にすればいいと思うんだが」
「川が見当たらぬからのう。過去に水源の山を荒らしまわったのなら、井戸を掘ってもろくに水が出ないんじゃろ」
荷馬車の旅も六日目に差し掛かり、互いに口数が少なくなるころとはいえ、その場の沈黙は疲れとは全く別のものだ。
御者台に座り、じっと前方を見つめているホロの頭に、ロレンスはそっと手を乗せる。
普段ならうるさそうに手を払うところだろうが、ホロは甘えるように静かに肩を寄せてくる。
盛りを過ぎた土地には、独特の寂寥感がある。
時の流れに取り残され続けてきたホロには、殊更気が滅入る光景なのだろう。
そうこうしていると、すすきの向こうにようやく山らしい山が見えてきた。まだかなり距離があるのでかすみがかってはいたが、話に聞いたとおり、今はとても禿山には見えない。
やがてぽつりぽつりと街道沿いに建物が現れ、ささやかながら井戸が掘られ、すすきの草原は畑に変わっていった。羊の群れも見かけるようになり、人々の生活の息吹を感じられると、ようやく雰囲気が明るくなってくる。
そしてたどり着いたのが、あまり裕福そうには見えない簡素な家が立ち並ぶ村と、その中心にそびえたつ、見上げるばかりの防壁を備えた巨大な石造りの建物だ。
ヴァラン司教領のすべての始まりとなった場所、ヴァラン大聖堂だった。
鉄の門扉はかつて鉱山を支配していたにふさわしい、重厚で背の高いものだったが、今は錆が浮いたまま開け放たれている。おそらく手入れがされておらず、開けたり閉じたりできないのだろう。防壁の内部、大聖堂の敷地も閑散としたもので、豚と数頭の山羊がのんびりと草を食んでいた。
かつては客が足を洗ったり、馬に水を飲ませたりしていたのだろう石造りの水道も、枯れて久しいのか草が生えていた。
ロレンスは厩と思しき場所に馬をつなぎ、アティフの司教からの手紙を携え、ホロと一緒に聖堂へと向かった。
「大きな建物じゃのう」
聖堂入り口に立つと、ホロが顔を上げて呆れたように言った。併設の鐘楼も高く、見上げるのに思い切り顔を上げなければならず、往時の勢いと権勢がしのばれた。
「それにしても、人の気配が全然ない気がするんだが」
「ふむ。じゃが、生活臭はきちんとありんす。それにそっちの通用の扉には手垢もついておる」
聖堂の大きな入り口が閉じられたままなのは、敷地の門扉が開け放たれているのと同じ理由だろう。脇に設えられている通用口は鍵が掛かっていなかったので、扉を開けて中に入る。
「ほほう」
「これは、すごいな……」
金がかかっている、と一目でわかる重厚な造りで、柱廊と天井は数多の曲線でつながり、細かな装飾が施されていた。
壁際には硝子付きの戸棚が並び、聖母像や装飾品が飾られている。高い天井から長い鎖でぶら下がっているのは、礼拝の時に焚く香炉だろう。ホロが近づいて鼻をひくひくさせては、くしゃみをしていた。
「掃除はされてるな」
「火がつけられておるのも蜜蝋じゃ」
手入れはきちんとされているが、建物の規模の割にあまりに人気がない気がした。ロレンスは妙に足音の響く聖堂内を、ホロと手をつないで歩いていく。
色付きの硝子で聖母や神の降臨の様子を描いた窓が続く廊下を歩き、やがて足を止めた。
床に色違いの石が敷き詰められ、教会の紋章をかたどっている交差路だった。
「ぬしよ」
と、ホロが天井に続く高い位置にある壁を指さしたのだ。
「……これは……」
そこに描かれた一大絵巻に、ロレンスは思わず口を手で覆う。そこにあるのは、最近の貴族の間で流行している、目で見たように描かれた絵ではない。省略と誇張によって描かれた人々は頭よりも大きい手を振り上げ、操り人形を思わせるぎこちない姿勢で、無表情に天を仰いだりあらぬ方向に視線を向けていたりする。
その粗削りさゆえになんとも言えぬ迫力があったし、一目でなにを表現しているのかもわかった。
このヴァラン大聖堂にまつわる伝説を描いたものだった。
鋤を担いでいるのは始祖たる農夫であるヴァランだろうし、天上の雲間から手が伸びているのは、神からの天命だろう。次の絵ではヴァランが奮闘し、教会町を作っていく様子が描かれ、土地から神の恩寵があふれ出す様子と、町の発展を神に感謝する人々が見える。
しかし絵に描かれた町はたちまち衰退し、人々は神へのとりなしの祈りなのか、天に向かって両手を伸ばし、舞い降りた天使が笛を吹いている。
「天使に角が描かれておる」
「描き足してあるな。後世の人間が、あれは堕天使だったと思ったってところか」
そして唐突に現れる、顔が見えないほどにフードを目深にかぶり、異教徒の魔術師のようにも見える一行は、錬金術師だろう。ただ、そこからが異様だったのは、旅籠で話を聞き集めたときにも感じた違和感そのままだ。
錬金術師たちが山の頂で神に祈ると、髭面の神の顔が唐突に山頂に現れ、天使の乱舞に合わせて雲がかかった山の上から下界の村々を照らすのだ。
「長雨に悩まされている土地で、晴天祈願の絵を見たことがあるが、それに似てるな」
「……下界の連中は笑っておるのかや?」
ホロが目を細めてしかめっ面なのは、あまり目が良くないせいで、小さく描かれている群衆は見えないのだろう。
「いや、無表情だな。両手を上げてるのは、喜んでいるようにも、命乞いをしているようにも見える」
「ふん、どっちも大差ないということかや」
ホロは吐き捨てるように言った。
ホロは何百年と腰を落ち着けていた村の畑で古い約束を守り続け、可能な限り豊作にするため、時にはあえて麦の実りを悪くしていたという。一方で村人たちが望むのは毎年の豊作であり、麦の実りの良し悪しをホロの気まぐれだとみなしていた。
ロレンスがホロの背中に手を回すと、ホロは深呼吸をして、ふんと鼻を鳴らしていた。
「神が照らす光の先では、鉄鍛冶用の大金槌を持った男たちが、燃え盛る塊を叩いてる。鉄だな。荷物を背中に積んだ馬がいたり、商人風の男たちが両手を上げているのは……喜びの表現だろう」
「その隣のは、緑の戻った山じゃな」
「ああ、けど」
ロレンスが言葉を切ったのは、緑の戻った山の麓では、人々がひれ伏し、明らかに嘆いているからだ。
山の頂には無表情な髭面の神の顔がなお居座り、その横には不格好な羽を背中に生やした堕天使が立って、この種の絵に特有の、どこを見ているのかわからない顔をしていた。
ただ、少なくとも、山の麓の者たちを見ているふうではない。
廊下沿いに続けられていた絵物語の最後には、神の御慈悲を、という言葉が添えられていた。
「あの髭面の顔はなんなんだ?」
あまりに突拍子もなさすぎるのに、現れてからは常に絵の目立つ場所にいて、ますます不気味さに拍車がかかっている。
「ああいう変なのがおるということかや」
「顔だけなのはなぜなんだ?」
ほかの者たちは、どんな小さな人物にも体が描かれている。
顔しか描かれないのは、なにか意味があるのだろう。
「うーむ……人でないとするならば……」
ホロは悩むと、はっと顔を上げた。
「あ、ほれ、前の町でちょっと食べたじゃろう。あれではないかや?」
「え?」
アティフでは定番の羊、豚、鶏に始まり、特産の魚介類もまあまあ食べた。
だが、そのどれとも似ていないと思っていたら、ホロはこんなことを言った。
「蟹ではないかや?」
「蟹!?」
ロレンスは目を丸くしつつ、得意げなホロの顔から絵に視線を向ける。確かに蟹の甲羅に人の顔が現れたら、あんな感じになるかもしれないと思う。もじゃもじゃと左右に伸びる髭と髪の毛は、蟹の足を戯画化したものと考えられるし、体が無いのもうなずける。
それどころか、蟹があの爪でもって山に入り込んだ者たちを捕まえ、無表情に口に運ぶ様まで想像できる。
ロレンスは不気味さに体を震わせてから、頭を振った。
「いや、いや……」
冷静になれと言い聞かせる。
大体、山の頂上に蟹の化身がいて、それと鉄の精錬になんの関係が?
ましてや山の頂上から光を照らすなど、まったくわけがわからない。
「面白い案ですね」
突然、頭上から声が聞こえた。
あまりに突然のことで思わず飛び上がりかけ、慌てて天井を見上げるが誰もいない。
狼の耳を持つホロでさえどこから声が聞こえたのかわからないようで、困惑したように天井を見上げ、左右を見まわしている。
しかし耳は誤魔化せても、狼の鼻は誤魔化せなかったらしい。
「ぬしよ、あの一番奥の柱の陰じゃ」
ホロに袖を引かれ、振り向いた。ホロが示すのは、廊下の最奥にある柱だった。
護身用の短剣に手をかけて、すぐにここは大聖堂だったことを思い出す。
普通に考えたら教会関係者だ。不気味な蟹の話などをしていたから、頭の中がおかしなことになっている。ロレンスは気を落ち着けるように深呼吸をして、言った。
「私たちは旅の者です! アティフの司教様から命を受け、当地に参りました」
声は天井が高い石造りの聖堂の中を反響し、まるで輪唱のようだ。
「アティフの司教様から預かった手紙もあります。聖堂の司教様にお目通り願いたいのですが」
ロレンスの声は再び何度も響き、廊下の奥に消えていく。声が真上から聞こえたのは、この不思議な反響構造のせいだろう。
柱の陰にいる誰かからは返答がない。
あるいは、ホロの力を頼りにする必要があるような何者かだろうか?
不気味な絵の描かれた、かつての栄華を残すばかりとなった大聖堂。
人知を超えたなにかがうろついていても、それはそれでありそうなことだと思った。
「どうやら、本当に偶然のようですね」
そこに聞こえたのは、落ち着いた女性の声だった。驚いたのは、その声がすぐ側から発せられたように聞こえたからでも、どこか呆れるような、楽しげなものだったからというわけでもない。
ロレンスには、はっきりと、聞き覚えがあったのだ。
「ぬしよ」
ホロがロレンスを振り向くと、渋い表情をしていた。
「嫌な予感がするんじゃが」
そう言った直後、柱の陰からふらりと人が姿を見せた。
優雅な舞のように見えたのは、その人物の姿勢があまりに良かったせいだろう。
そして、想像にたがわず、ロレンスはその人物をよく知っていた。記憶の中よりもずいぶん大人になってはいたが、再会までの年月を考えればそれも納得のいくことだった。
「まったく、神の気まぐれは我々には理解しえませんね」
こちらに向かって歩いてくるのは、一人の女性だ。奇麗に結い上げてひっつめた髪に、蜂蜜色の瞳を持ち、やせぎすにも見えるが、背筋は力強いほどにぴんと伸び、所作には凛としたものが漲っている。
着ている僧服の襟に染め抜かれた色から司祭の位にいることがわかるが、誰もが思い浮かべる聖職者がいるとしたら、それはきっとこんな人物だろう。
「お久しぶりです、ロレンスさん」
相手はそう言って微笑むと、視線をロレンスの隣にずらした。
「それから、あなたは良くも悪くも、変わらないようですね。お酒の臭いいがしますよ」
「たわけっ」
ホロは言い返し、腕を胸の前で組むとそっぽを向く。
昔からこの二人は仲があまりよくなく……とロレンスは苦笑しかけ、いや、と思い直した。
一方的にホロが苦手意識を持っているのだ。
なにせ相手はあのコルをして、厳格な信仰の持ち主と言わしめ、一時は神学を修めるために師事していたような相手なのだから。酒があればあるだけ飲み、肉は脂が滴るものでなければならないと考えるようなホロと、相性がいいはずもない。
「まさかこんなところでお会いできるとは思いませんでした」
ロレンスは答え、その名を呼んだ。
「エルサさん。お久しぶりです」
「神の御導きのままに」
かつて行商の旅路の途中で出会い、大事な岐路でロレンスたちのことを導いてくれたエルサは、にこりと微笑んでうなずいたのだった。
★2019年5月10日更新の『狼とどんぐりのパン≪中編≫ 』に続く。
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