※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2019年5月号掲載の中盤を抜粋したものです。


 ロレンスとエルサは歩み寄ると握手をし、軽く抱擁を交わす。

 エルサとは、十年以上前にホロと出会ってすぐの頃、ホロが帰り道を忘れた故郷のヨイツのことを調べる過程で知り合った。そしてホロと結婚する際には、式を取り仕切ってくれた大切な人物でもある。

「またお会いしましょう、なんていう手紙を受け取りましたが、まさかこんなすぐに実現するとは思いませんでした」

「あの馬の方はきちんと手紙を届けてくれたようですね」

 ニョッヒラの湯屋にやってきた人ならざる者の一行の中に、遠方の地へと手紙を届ける生業の者がいた。適役というかなんというか、馬の化身だった。

「それにしても、お子さんが生まれたばかりだったのでは?」

「それは一昨年の話ですよ。三人目ですし、今は上の子たちが世話をしてくれてます。一番上の大きな子供も、たまには私から叱られることなく生活してみるべきですから」

 エルサの夫はとても気の良いエヴァンという青年だが、エルサとは正反対に、大らかで細かいことにこだわらない性格だった。あれは明らかに嫁の尻に敷かれる部類だろうなと、ロレンスは自分のことを棚に上げて思い出す。

 ロレンスとエルサが旧交を温めているところに、ホロが面倒くさそうに口を挟んだ。

「それより、わっちらは長旅で疲れておるんじゃがのう。旅人はもてなすのが、ぬしら教会の連中の信条だった気がしんす」

 エルサはきょとんとしてから、ホロの嫌味にも楽しそうに微笑み返す。子供のわがままには慣れたもの、という感じだった。

「そうでしたね。今はちょうど人が出払っているのですが、その分、部屋はたっぷり空いていますよ」

「湯で埃を流したいんじゃが、ここは湯浴みはできるのかや」

 すっかりニョッヒラの湯がある生活になじんでいるホロだ。アティフでも時折湯を沸かしては桶に張って浸かり、頭まで潜りたいと喚いていた。

「できます」

「なんじゃと!」

 目を輝かせたホロに、エルサは澄まし顔でこう答える。

「あなたが自らの手で水を汲み、薪を割り、火を熾しさえすれば」

「……」

 蜂蜜色の瞳のエルサは、背筋をぴんと伸ばしてこう言った。

「怠惰はいけません。働いてこそ、善き一日というものです」

 まだ行商人だったころ、エルサは絵に描いたように生真面目な女助司祭だった。ロレンスたちの旅に同行する、まだ子供だったコルに、礼儀作法を授けたのもエルサだ。

 お行儀という点では、娘のミューリに負けるとも劣らぬホロも当時から叱られていた。

「ロレンスさん、馬は表に?」

「はい」

「荷ほどきの後に、足を洗う水と、お食事をお出ししましょう。ご安心を。炒った豆と庭の草ではありません」

 最後の台詞は、いたずらっぽくホロに向けられていた。

 ホロはぷいとそっぽを向いて、どちらが長い時を生きる賢狼か、まったくわからなかったのだった。



 大きな教会施設なら、貴族や旅の聖職者の表敬訪問が少なくないので、必ず宿泊施設が併設されている。ロレンスたちはそのうちの一室に部屋を借り、荷ほどきを終えてから外に出た。

 聖堂の敷地内にある菜園の側では、エルサが腕まくりをして井戸から水を汲んでいた。

「足を洗えばだいぶさっぱりしますよ」

 聖典には貧者の足を洗う聖者の話がいくつも載っているが、ホロはもちろんそんなものにありがたみを感じる性格ではない。

 ホロがあからさまにふくれっ面でいると、エルサはロレンスに視線を向けてくる。

「仲が良いのは大変結構ですが、あなたは少し伴侶を甘やかしすぎなのでは?」

 エルサに叱られ、平謝りするしかない。

「ほら、ホロ、冷たい水でも気持ちいいぞ」

 桶になみなみと張られた水で、ロレンスは手と足を洗う。ホロは嫌そうな顔をしつつ、近くにあった大きな石に腰掛けると、ついっと足をロレンスに向けて差し出してくる。

 ロレンスはエルサの呆れたようなため息に耳を痛めつつ、姫の靴を脱がせ、ローブの下に穿いているズボンの裾をまくり、足を洗ってやる。するとあれこれ文句を言いながらも、それはそれで気持ちよかったらしい。顔つきはなお不機嫌そうだったものの、尻尾はふわふわと揺れていた。

「それにしても、エルサさん一人でここを管理しているんですか?」

 食事の準備のために火を熾す必要があると、エルサが薪置き場に向かうので、ロレンスが薪割を肩代わりした。足をロレンスに洗ってもらって満足したのか、ホロも特に不満を言うでもなくついてくる。

「山向こうの大市のことはご存知ですか? それが終わるまでは、聖堂と村の主だった人たちはみんな、そっちに行ってしまっているのです。村の収穫を可能な限り高値で売り、冬を超えるための物資を可能な限り安く仕入れる必要がありますから。土地勘や人脈のない私はお留守番です」

 エルサの話を聞きながら、ロレンスは斧を振り下ろしていく。ぱこん、という薪割の音を気に入ったらしく、ホロは割れた薪を拾い集めては、新しい木をせっせと置いていく。

 ロレンスには、投げた棒きれを拾ってきては喜ぶ犬のようにしか見えなかった。

「とはいえ、一人のほうが気楽ということもあります。ここは掃除のしがいがありますから」

 几帳面なエルサの台詞には、苦笑するほかない。

 ひととおり薪を割り終えると、ロレンスはエルサに案内され、外から炊事場に入る。

「それにしても、あなた方がニョッヒラから出て、こんなところに来るなんて驚きです。一体なぜ?」

 炊事場の棚から火口と火打石を取り出しながら、エルサが言う。

「話せば長くなるのですが……私も聞きたいところです。なぜエルサさんがここに? お住まいの村からは、だいぶ距離がありますよね」

「私もこんなところまで来るつもりはなかったんです。元々は近隣の教会から、文字を読める人が足りないから手伝いに来てくれと言われたんです。臨時で、教会のため込んだ資産や、特権状の確認をしていたにすぎません。それが今年の夏前のことですね」

 エルサは話しながらかんかんと火打石を叩き、たちまち火がついた。

 ホロはその様子を見て、意地悪くロレンスに「すごいのう」と言ってくるが、火を熾すのに手間取ったのは最初の数日だけだと憮然とする。

「そして、教会が急に身づくろいを始めたのには、どうやらコルさんが関わっているらしいと聞いて、驚くやら、なにか納得するやらです」

 エルサはロレンスが持ってきた薪の中から、燃えやすそうなものを竈に放り込んでいく。

 適当に投げているように見えて、燃えやすいように積み上がっていくあたりがさすがだとロレンスは思った。

「私たちもそれが原因です。コルの旅に、一人娘のミューリがくっついていってしまい、最近は便りも少ないので一度様子を見に、と」

 エルサは蜂蜜色の瞳をロレンスとホロに向け、意味ありげに苦笑した。

 親ばか、とでも思われたのかもしれない。

 ロレンスは咳ばらいを挟み、言った。

「ごほん。では、エルサさんは、あっちを手伝ったら次はこっち、とやっているうちに、こんなところにまで来たということですか?」

「大体そんなところですが、あなたたちが見上げていた絵のことが、最大の理由ですね。道が交わるのにも、それなりに理由があります」

 あそこに描かれていたのは、ヴァラン司教領の発展と衰退の歴史であり、魔法としか言いようのない技術をもたらした錬金術師に、今なお何者かが居座るという呪われた山の様子だ。

「この司教領から人伝に助けを求められた時には、さすがに遠かったので躊躇いましたが、ヴァラン司教領の成立物語を聞いて、興味を惹かれました。父が収集していた異教の神の話に、新しいものをひとつ付け加えられるのではないかと」

 ロレンスたちがエルサの下を初めて訪れたのも、エルサの育ての父が収集した本を目当てにしてのことだった。

「結果は?」

 鉄鍋を竈の上に置き、水瓶から水を注いでいたエルサは、器用に肩をすくめた。

「あなたたちが来ることになりました。アティフにて、手紙を預かってきたのでは?」

「……ということは、エルサさんが、困っていた代理の司教様ですか?」

 水瓶を片付けたエルサは、自身が着ている服の襟を指さした。

「司祭ですよ。女の身で助司祭の助の字が取れただけでも大出世です。もっとも、臨時のことですけれど。夫もいて、子もいるのに司祭だなんて、教会もいい加減なものです。あまりに人手がなくて、私のような者も駆り出さなければならないくらいなんですよ」

 エルサはそう言うが、文字が読めて、昔は村の教会を託す聖職者を探すため、旅にも出ていた。見識が広く真面目なエルサの評判はもともと村でも高かったろうし、頼られるにはそれなりの理由がある。

「ですが、アティフの教会に助けを求めるにせよ、この状況を詳らかにすれば、相手は不信感を抱くでしょう? よその村から来た女司祭が取り仕切っているだなんて、乗っ取りかと思われかねません。ですから、応援を頼む手紙には臨時の代表者と書きました。嘘ではありません」

 四角四面で原理を重んじ、やや息苦しいほどの印象があったエルサだが、最後にいたずらっぽく微笑む様からは、強かになったのだ、と理解できた。

「なんですかその顔は。私も少しは世の渡り方を学びますよ」

 エルサは責めるように言う傍ら、鍋に塩や大蒜を大胆に放り込んでいく。村ではてきぱきと家を切り盛りしているのだろう様子が窺えた。

「鍋物でもよいですよね?」

「肉は入るのかや」

 ホロの問いに、エルサは肩をすくめた。

「あなたたちを招いたのは私たちですから、肉食を戒めるわけにもいきません」

「よい心がけじゃ。ちなみになんの肉かや?」

「あなたは狼でしょう。道中の草むらを見てきたのでは?」

 エルサのこなれたあしらい方に、今日はなんのご飯? とじゃれつく子供の相手をしている様子が重なって見えた。

「兎じゃな!」

「この辺りの数少ない名物です」

 ホロは目を輝かせ、尻尾をわさわささせていた。

 現金な様子に、エルサは苦笑する。

「ですが、援軍に商人を希望というのは、なおさら意外ですが」

 そう尋ねるロレンスの横で、エルサは上機嫌なホロに対し、兎肉を村人から受け取ってきてほしいと頼んでいた。肉のためなら多少の面倒はいとわないホロは、軽い足取りで炊事場から出て行った。

 いつもなら自分の獲物たるロレンスがほかの女性と二人きりになると、笑ってしまうほどやきもきするホロだが、さすがにエルサとの仲は疑わないらしい。

「呪われた山と呼ばれ、近隣の村人たちは薪を拾いにすらいかないような土地です。聖職者を呼んでも、話がややこしくなるだけです。ですが儲けのためなら呪いだろうがなんだろうが気にしない商人なら、果敢に森の中に分け入って、山の頂になにがあるのか見に行ってくれると思いました」

 エルサの商人観がよく窺える発言だったが、間違ってはいない。

「ということは、山になにがいるのかは、エルサさんもわかっていない?」

「はい。そもそも私が呼ばれたのは、この大聖堂の財産の整理や特権の確認です。やることは山ほどあるのです。それに自分の村の仕事もありますから、本格的に冬が来るまでには帰りたく思っています。山に赴くなんてとてもとても。ならば折を見て話しを集めよう、と思ってもこの大聖堂に勤める人たちはよその町で教会法学を修めてきた人たちばかりで、地元の人間ではありませんし、地元の人たちに私が話を聞くのは、ちょっと憚られます」

 どこかよその土地からやって来て、地域に伝わる異教的な話を聞き集める女司祭となれば、確かに要らぬ疑惑を招くだろう。新手の異端審問官か、それこそ乗っ取りをたくらむよその土地の密偵なのではないか、と。

「それに、当てにしていた大聖堂の書庫にも、記録らしい記録が残っていないのです。道中の旅籠で聞き集めてきた話のほうが詳しいくらいです。あなたたちが見ていた絵が大聖堂に残っているのですから、当時の人は後世に残すべき話だと思っていたはずなのですけれど」

「歴代の司教様たちは調べなかったのでしょうか」

 その問いに、エルサは肩をすくめた。

「枯れて久しい鉄鉱山で、しかも異教めいた逸話のある場所など、なかったことにするのが正しい判断です。異端審問官に目をつけられたら、ろくなことになりません」

 臭いものには蓋をしろ、というわけだ。

「一方で、私の好奇心だけでなく、現実的な問題もあります。あまり活用されていない土地があるのは大問題です。この司教領が寂れているのはひと目で明らかでしょう? ろくに鉄も出ない山などさっさと売って、そのお金で井戸を掘るなり、街道を整備するなりしたほうが人々の生活の改善に役立ちます。ですが近隣の者たちはこの土地の逸話を知っているでしょうから、取引には及び腰になるはずです。そこで遠方の地の、商人さんなのです」

 話がアティフの司教に寄せられた応援を求める手紙に繋がった。

 ロレンスはエルサの合理的な判断に、感嘆のため息をつくばかりだ。

「遠方の地の商人なら、呪われた山の噂や土地の経緯など聞いたこともない買い手を見つけられる、と」

 エルサは答えず、微笑んだ。

 こんな広い大聖堂に、よそ者であるエルサが一人で留守番を任されているのも納得がいく。

 誰もが安心して、留守を任せることだろう。

「まあ、山になにがあるかを確認しに行くことについては、お任せください」

 炊事場の出入り口から外を見ると、麻縄で鈴なりにくくられた兎を抱えて走ってくるホロの姿が見えた。賢狼などとどうして自称できるのかという、満面の笑みの阿呆面と言っていい。

「肉と酒があれば、うちの者は良い働きをしてくれます」

 エルサは肩をすくめつつ、鍋に塩をもう一振り追加する。

 酒飲みは味の濃い食べ物が大好きだ。

 エルサはすっかり、ホロの上手を行っているようだった。



 兎肉の鍋とささやかな葡萄酒で腹を満たしてから、ロレンスとホロはエルサの案内で大聖堂の宝物庫に向かっていた。石造りの地下室は牢獄のようにも見えるし、ところどころに魔よけのための悪魔の彫刻が置かれているのでなおさらだ。

 辿り着いた最奥部で、エルサは手のひらにも収まりきらないほど大きな鉄の鍵を差し込み、重い鉄の扉を開けた。

「あの蛇のおった穴を思い出すのう」

 エルサの村には巨大な蛇の伝説があり、教会の地下はかつてその蛇が巣穴にしていた洞穴と繋がっていた。地下室に棚が並び、ぎっしりと羊皮紙や書物の類が積み上げられている様子もそっくりだった。

「これらは特権状の山ですか?」

「それは四分の一くらいですね。とにかく領地が多岐にわたるので、そこに住まう人々の課税台帳や、所有権の確認証など、細々としたものが大半です。書籍は技術書ですね。岩塩鉱や鉄の鉱山の採掘法や、精錬法などが記されていました。埃が積もっていたので、もう長いこと誰も触れていない、無用の長物のようです。これも売ってしまおうかと思っています」

 やや黴臭く、ホロは何度かくしゃみをして、ローブを鼻にあてていた。

「私がお見せしたいのは、こちらです」

 手に燭台を持ったエルサが先導する。

 兎鍋を食べながら、エルサは自分が調べた限りの呪われた山の話をしてくれたが、育ての父が残した異教の神々の本をすべて読んでいる彼女であっても、あの絵の謎はよくわからないようだった。

 それに、山や森にとんでもない化け物がいるという噂は、世の中で珍しいわけではない。その大半が作り話、よく言えば目的あってのものであることはロレンスも知っている。

たとえば化け物がいて村人は誰も入れないから本来支払うべき税金を免除してほしいとか、よそものが山や森の資源を取りに来るのを防ぎたいといった理由で、そういう作り話をこしらえる。

 大聖堂に呪われた土地の記録が残っていないこともあり、エルサは当時のなにか政治的な意図からそんな話が広まったのではないか、と考えていたが、それも理解できる。

 しかし、ある日特権を整理しにこの宝物庫に入ったとき、隠されるように置かれていたものに気が付いたのだ。

「それが、これですか?」

 エルサが覆いの布を取ってロレンスたちの前に明らかにしたのは、巨大なといってもいい、金ぴかの鐘だった。

「五十年前の出納帳に、新しい鐘の発注記録が残っていました。今、鐘楼にぶら下がっているのはその際に新しく鋳造された鐘です」

「では、これはその前の?」

 エルサはうなずき、燭台の蝋燭で別の蝋燭に火をつけ、鐘の下のほうを照らした。

「ここを見てください」

 ロレンスとホロは揃って覗き込むようにして、息をのんだ。

「えっ……噛み、痕?」

 ホロならその中に隠れられるのでは、というくらい大きな鐘の一部に、穴が四つ、並んで開いていたのだ。

「そう見えますよね。あなたはどうですか?」

 その穴のひとつひとつは、握りこぶしが入るほどではないが、指なら二本くらい簡単に入ってしまう。そして、ホロの牙を見たことのある者ならば誰でも、想像せざるを得ない。

「わっちら狼は、金物は嫌いじゃ」

 ホロはそう言ってから、鐘に開いた穴に鼻を近づけていた。

「……匂いは残っておら……くしゅっ」

 ホロはくしゃみの後に鼻をこすり、さらにロレンスの袖に鼻をこすりつけてくる。

 よほど嫌な臭いだったのだろう。

「伝説なら伝説で構わないのですが、この鐘がここにあって、まさか、と思ったのです」

 ロレンスは鐘を見下ろして、唸る。もしもこの鐘に噛みついた何者かがいるのならば、旅籠で聞いた、山に入ったまま誰も出てこなかったという話はあながち作り話ではないのかもしれない、と思えてくる。

 しかし、そこに呆れたようなため息が聞こえ、見れば鼻をぐずつかせていたホロだった。

「たわけ」

 鼻声で言うと、ホロはこんとつま先で鐘を蹴った。

「あんな高い塔の上にぶら下がっておった鐘じゃろう? どうやって噛みつくんじゃ?」

「あっ」

 ロレンスがエルサと合わせて口を開くと、ホロは呆れたように首を回した。

「鳥に歯は生えておらぬしのう。仮に鉤爪じゃとすると、四つの穴はおかしいじゃろう」

「た、確かに。爪なら三つで、反対側にもあるはずだな」

「それに、これは力任せで開けた穴ではありんせん」

「え?」

 聞き返すやいなや、ホロはいきなりロレンスの脇腹を力任せにつかんできた。

「痛っ! な、なんだいきなり!」

「たるんだ腹でなくとも、掴めばひしゃげるじゃろうが」

 手を離したホロに、エルサが感心したようにうなずいた。

「確かに、鐘の形は奇麗なままですね」

「こんな穴が開くほど噛みついたら、形が崩れるかひびでも入りそうなものじゃが、まったくそんな気配がありんせん。それに、この穴は妙じゃ」

 ホロは蝋燭の明かりに照らされた穴を見て、目を眇めた。

「どうやったら、こんな穴になるんじゃ?」

 ロレンスは改めて穴を見てみるが、ホロの言うことはよくわからない。金属に犬が噛みついたとしか思えない歪な穴が四つ、並んで開いている。

 しかし、鐘は高い鐘楼の上に吊るされていたはずだし、噛みついたのだとしたら当然起こるべき歪みやひび割れもないという指摘は、無視できない。

「素直に考えるのなら、この鐘は伝説とは全く無関係というところじゃが……」

 合理的な推論だが、ホロ自身、あまり信じていないように思える。

 ロレンスは、こう尋ねた。

「あらゆる妙な点を差し置いて、ひとまず、何者かが噛みついた痕だとする仮定を受け入れたとしたならば」

 ホロとエルサが、ロレンスを見る。

「お前にどうにかなりそうな相手か?」

 蝋燭の灯が、風もないのにゆらりと揺れた。

 あるいはそれは、ホロが不敵な笑みを浮かべたせいかもしれない。

「わっちゃあ賢狼ホロじゃ。月を狩る熊以外なら、そう簡単に負けはせん」

 麦に宿り、見上げるばかりに巨大な狼の化身。

 ならば次の行動は決まっていたのだった。



 日が暮れ、畑仕事に出ていた者たちは家に戻り、夕食の後は蝋燭代ももったいないからと明日に備えて眠る。

 そんな時刻になるのを待ってから、ホロは狼の姿を露わにした。

『ぬしは待っておればよいというに』

「たわけ。お前は案外喧嘩っ早いからな。任せてられるか」

 ホロの口真似をしたロレンスに、ホロは不服そうに巨大な尻尾でロレンスの体を払う。

 ひっくり返ったロレンスの抗議など聞く耳も持たないホロに、エルサが言った。

「できる限り争いは避けてください。何者かがいるのであれば、そっとしておくという選択肢もあります」

『相手次第じゃな。話の通じる奴ならよいが』

 エルサはうなずき、ロレンスがホロの背中にまたがるのを手伝ってから、教会の紋章を手に握る。

「神の御加護がありますように」

『ぬしは相変わらずいい度胸じゃ』

 古代の森の精霊相手では、教会の神も新参者だ。ただ、習慣としてそうしていたらしいエルサは、ホロの指摘に目をぱちくりとさせてから困ったように笑っていた。

『さて、振り落とされても、拾わぬからな』

「お前が意地悪しなければ落ちやしないよ」

 言うが早いか、ホロはわざとらしく身震いしてから唐突に走り出した。

 振り向けばエルサは手を振っていたが、ロレンスはすぐにホロの毛を強く握り、体を押し付ける。ぐんぐん速度が上がり、耳を切る風の音でホロの足音も聞こえなくなってくる。夜空は雲間から時折月が覗く程度で、ロレンスの目には夜闇のすすき野原が真っ黒な湖にも見えた。

 影絵の世界を疾駆するホロの背中で、ロレンスは束の間にホロの世界を垣間見る。

 互いになんでも知っていると信じている最愛のホロだが、その実、人ではない狼だ。

 普段はほとんど意識することなどなくても、こういう時に強く彼我の差を思い知る。

 けれども力強い毛皮に思い切りしがみつけるのは案外嫌いではない、と伝えたら、ホロはきっと照れるような、嫌そうな、苦しそうな顔で尻尾をうねうねさせるだろう。そんな想像に笑いながら、若干の恐怖に耐えていた。

 どれくらいそうしていたのか、やがて耳元で暴れ狂う風が幾分和らいで、ホロが地面を踏みしめる軽やかな音が聞こえるようになっていた。

 顔を上げればいつの間にか雑木林の中にいて、木立の向こうに雲がかかった月が見える。山の麓に到着したらしい。

 馬でも数刻かかるような距離と聞いていたが、さすがの健脚だった。

「こんな大雑把に縄張りに入って大丈夫なのか?」

 もし何者かが山にいるのなら、少し様子を見てからのほうが良いのではないかと思った。

『普通の鹿やらの匂いしかしておらぬ』

 ホロの背中の上にいるとわかりにくいが、ホロは器用な足運びによって、多少の段差や岩くらいなら、背中をほとんど揺らさないままに乗り越えていく。

 なんだかんだ言って背中の自分のことを気にかけてくれているあたり、ホロは素直ではない。

「あの顔が描かれていた山がどこかっていうのはわかりそうか?」

『ひとまず一番峰の高い場所に向かっておる。高みから眺めればなにかわかるやもしれぬ』

「そうだな」

 ロレンスが答えると、ホロは速度をやや上げた。あるいはそれは、山道に入って傾斜がきつくなったせいかもしれなかった。歩いて登ったら骨が折れそうなそこも、ホロは平地を馬が走るような速度で登っていく。足取りも、呼吸も、大きな尻尾が揺れる動きも、ホロが楽しみながら山を登っているのだとよくわかる。

 ホロの住処は町ではない。

 深い森の中こそ、ホロの居場所なのだとロレンスにはわかった。

『到着じゃ』

 と、ホロが足を止めたのは、木のまばらな、一見するとちょっとした広場のような場所だった。自分で思っていたよりも強い力で毛皮にしがみついていたのか、こわばる手をほどき、腹ばいになったホロの背中から慎重に滑り降りる。

 地面はふかふかの落ち葉が幾層にも積み重なっていて、掘れば良い土が出てきそうだった。

「元禿山の鉄鉱山には見えないな。いくらかでも井戸から水が出ているのは、これのおかげか」

 落ち葉を軽く蹴ると、どんぐりがぱらぱらと舞うし、暗闇に目が慣れてくると、あちこちに若木が生えているのが見えた。

『そうでもありんせん。山のそこら中に鉄を含んだ石が捨てられておって、わっちの鼻には嫌な臭いばかりじゃ。日の高いうちに来れば、ぬしの目でもすぐに異様さがわかるじゃろう』

 ホロは言いながら、大きな鼻でロレンスのことを小突く。嗅ぎなれた匂いが欲しくてそうしているようだったので、口吻の鼻筋あたりを手で掻いてやったら尻尾をぱたぱた振っていた。

「呪い……というのがなんなのかわからないが、鉱滓が捨てられているなら、鉱毒のことを言ってるのか? それにしては木が多くて、のどかに感じるが……」

 代わりに、亡霊がふっと現れてもおかしくない雰囲気ではある。

『ふむ』

 ロレンスに甘えるように鼻を寄せていたホロは顔を上げると、鋭い目で周囲を見渡している。

『なにかが今もおるかはわからぬが……なにかがおったのは間違いありんせん』

 驚いてホロを見ると、ホロは森を見よとばかりに視線を向ける。

『山の木の種類が妙じゃ』

「種類?」

『放っておいたらこんなふうにはならぬ。ここに生えておるものは全部、冬に葉を落とし、実をつけるものじゃ。それに、山裾からずっと、どの木も大体規則正しく生えておってのう』

 実をつける落葉樹は、良い薪になり、茸の苗床にもなる。それで規則正しく生えているとなれば、思いつくことはひとつしかない。

「植林か。ここは自然に緑が戻ったわけじゃないのか?」

『おそらくのう。それも、見渡す限りそうじゃ。こんな光景、わっちゃあ見たことありんせん』

 何百年と森を眺めてきたホロには、この山のおかしさがわかるらしい。

『そもそもこんな広範囲に緑が戻るのには、放っておいたら百年単位で時間がかかりんす。禿山になったのがたかだか数十年前じゃろう? 間違いなく誰かが手を入れておったはずじゃ』

「村人たちという可能性は?」

 ホロは大きな鼻から、ロレンスに向けて息を吹きかける。

『蟻の群れのような人数が必要じゃな。それに、人はもう少し賢い。こんな好みの木ばっかり植えるようなたわけた真似はせんじゃろう』

 好み、という言い方にロレンスは引っかかった。

「山に木を植えたやつに心当たりが?」

『あのへたくそな絵の、一部も謎が解けておる』

 ホロは不満げに鼻を鳴らすと、責めるような眼をロレンスに向けてきた。

『やはりあの港町の絵は描きなおすべきじゃと思いんす。きちんと絵を描かねば、後世に正しい話が伝わらぬ』

 まだ絵のことを諦めていなかったのか、とロレンスはやや呆れつつ、ホロに聞き返す。

「解けてる謎は、山頂の顔のほうか? それとも?」

『顔の側におった、天使のほうじゃ。あれはぬしらの言う天使などではありんせん』

「だけど、羽が生えてたよな?」

『たわけた絵じゃからそう見えただけじゃ。あれは羽ではありんせん』

 神の顔を支えている者の背中には、羽のようなものがくっついていた。けれどあれが羽ではないのだとしたら?

 ロレンスがホロを見やると、森の王は言った。

『栗鼠じゃ。栗鼠の背中まで届く尻尾が、羽のように見えておるんじゃ』

 その瞬間、ロレンスはこの森の様子にも気が付いた。それから、どうして短期間で膨大な数の木が生えて、しかも実を成す種類のものばかりなのかも。

『穴を掘って木の実を埋めるのは連中の得意技じゃからのう。ついでに口の中に山ほど木の実を詰めて持ち運べる。さぞ作業がはかどることじゃろう。まず間違いなく、この森を作ったのは栗鼠じゃ』

 謎だらけだった伝説の一部が、いくらか光で照らされた。

 しかし、疑問も残る。

「栗鼠だとすると、あの鐘の噛み痕は謎のままだな。いや、栗鼠なら手の爪の痕という可能性もあるか?」

『力自慢の栗鼠が鐘を握り潰そうと? 栗鼠の小さな手であの穴が開くなら……それこそ山のような大きさの栗鼠じゃろうな』

 ちょっと想像できないし、その場合はなんにせよ、なぜ鐘は歪まず、ひびも入らなかったのかがわからない。

「手っ取り早いのは、その栗鼠から話を聞くことだが……山にいるかどうかわからないか?」

『あっちこっちから鉄の臭いがするせいで、鼻がうまく利かぬ。まあ、これほど御馳走だらけの山を作ったのなら、間違いなくどこかに潜んでおるはずじゃ。遠吠えをしてよいのなら、山の向こうまで、出て来いと伝えられるんじゃが』

 山の麓から少し離れた場所には、普通に村々がある。水が悪いのか畑が少なく、代わりに牧草地が多いので羊や山羊の数も多いはずだ。そこに狼の遠吠えが聞こえたら、彼らの生活に間違いなく悪影響が出る。

「それは最後の手段にしよう」

『ならば地道に探すしかありんせんが、まあ、ここで寝ておれば向こうが気が付くじゃろ』

 ある日突然、御馳走だらけの楽園に巨大な狼が現れたとしたら。

 栗鼠としては、確かに用向きを聞きに来るくらいはするかもしれないなと思った。

「じゃあ、野宿か? なんにも用意してないが……っうわ!?」

 ロレンスは話している最中に、ホロの尻尾に絡めとられるようにしてひっくり返るが、背中は柔らかい毛皮に受け止められた。

『わっちの毛皮で寝るのが不満かや?』

 大きなホロの赤い瞳が、牙と一緒に向けられる。

 ロレンスならばホロの機嫌の良さはひと目でわかるが、余人が見れば今にも哀れな旅人が食われようとしていると見るだろう。

「そういえば、エルサさんと初めて出会った時も、こうしてひと晩明かしたよな」

 エルサの村と近くの町の確執から起きた争いに巻き込まれ、逃げ出した先の森で野宿した。

 懐かしいなとホロの尻尾の毛を撫でていたら、尻尾の毛先で顔をはたかれる。

『わっちの毛皮の中でほかの雌の話をするとは、よい度胸じゃな』

 背中を預けているホロの脇腹の向こうから、雷雲の轟きのような唸り声が聞こえてくる。

「今晩は冷えそうだから、少し熱くなってもらったほうがいいかと思って」

『たわけ』

 ホロは体を丸めると、鼻先でロレンスを小突く。

 そして、ひとしきり意地悪すると満足したのか鼻を鳴らし、くつろいだように四肢を伸ばして耳をぱたぱたさせた。

『確かに久しぶりじゃ』

 ホロはずいぶん嬉しそうだった。

 ニョッヒラでは、ホロは時折用事を見つけては狼の姿に戻り山をうろうろしていたが、ロレンスがそこに同行することはあまりない。それにニョッヒラも客が多いので山にはちょくちょく人が入り、頻繁に狼の姿に戻れるわけではない。

 ロレンスのことを懐に抱いて嬉しそうにしているホロの様子に、ロレンスは思わずこう言っていた。

「お前は、こういうの嫌なのかと思ってたよ」

 人は人。狼は狼。

 そういう歴然とした事実を突きつけられることを、ホロとロレンスは避けてきた。

 ホロはロレンスの言葉に顔を上げかけ、途中で思い直し、再び力を抜いて落ち葉の毛布に顎を乗せた。

『その時の気分によるのう』

 やや細められた赤い瞳は、自嘲のために笑っていたのだろう。確かに、ホロはニョッヒラでも機嫌が悪い時、狼の姿に戻って温泉に浸かっている。

「気まぐれはお姫様の特権だ」

 そう言ってホロの毛皮を撫でてやれば、楽しそうに尻尾の毛先が揺れていた。

『まったく、たわけじゃな』

 ホロは呆れたように言って、目を閉じる。

 ロレンスも小さく笑い、体の力を抜いてホロの毛皮に身を沈めた。

 暖かく、森の匂いがする毛皮の中で、眠気はあっという間にやってきたのだった。



 山で寝ていたら、山にいる何者かは向こうから気が付く、というホロの考えは正しかったらしい。夜を明かし、ホロの案内で鉱毒の混じっていない沢まで連れて行ってもらい、その側で火を焚いて、ホロが捕まえてきた野兎を捌いて焼いていた時のことだ。

 大きな尻尾をぱったぱったさせながら兎の焼け具合を見守っていたホロが、急に顔を上げたかと思うと、ロレンスがなにかを言うより早く駆け出していた。

 それはロレンスを山頂にまで連れてきた時のようなものではなく、まさしく一陣の風のように落ち葉を巻き上げながら、あっという間に見えなくなるような、森の狩人にふさわしい俊敏さだった。

 呆気にとられたロレンスだが、ホロが山で道に迷うことも、ましてや焼いている肉の場所を忘れることもあるまいと思い直した。肉を焼く作業に戻って、ひと足先に脂の滴るもも肉に舌鼓を打っていたときのことだ。

 沢の脇にある崖下から、にゅっとホロの耳が見えたかと思うと、一息に大きな体が現れた。

「おお、おかえ……り?」

 ホロの口には、見たこともないほど巨大な栗鼠がぶら提がっていた。

『わっちらの様子を窺いに来ておった』

 首根っこ咥えられていた栗鼠は、ホロの口から解放されても小さく丸まったままだった。

 体と同じ大きさくらいある独特の尻尾は震え、頭を抱えるようにうずくまっている。

 立ち上がればロレンスの身長を超えるのでは、というような栗鼠だが、今は真ん丸な毛皮の塊にしか見えない。

「言葉は通じるのか?」

『ほれ』

 ホロの鼻先につつかれると、栗鼠はびくりと顔を上げた。

 ロレンスは栗鼠と目が合った瞬間に、理解する。知恵を宿した目というのは、すぐにわかるものだ。

「私たちは、この森を荒らしに来たわけではありません」

 そう言うと、体の割に小さい口がもぐもぐ動いたが、言葉は出てこない。

「もちろん、この狼があなたの命を狙うこともありません」

 栗鼠は口を閉じ、ちらりとホロを振り向いた。

『場合によるがのう』

 そしてホロがにやりと牙を見せると、たちまち丸くなってしまう。

「おい」

 ロレンスがホロをたしなめると、ホロはぞろりとホロは再び牙を見せながら、ロレンスを挟んで栗鼠とは反対側に腰を下ろす。

 すると、栗鼠は少しだけ顔を上げ、ロレンスのほうを見た。

『あなたは……人、なのでは?』

 なぜ狼と手を組んでいるのか、と言いたげだった。

「元行商人にして、今は湯屋の主人をしている、クラフト・ロレンスと言います」

 名乗り、手を差し出すと、栗鼠はつぶらな瞳でロレンスの手と顔を見比べてから、おずおずと手を伸ばしてきた。体の割に小さい手とはいえ、ロレンスの手よりも少し大きかった。

 そして、その爪を何気なく確認したが、あの鐘に開いていた穴には小さすぎる気がした。

「どうぞよろしく。そして、あちらはその……」

 ロレンスは気恥ずかしさもあって、咳払いをする。

「妻のホロです」

 栗鼠も呆気にとられた顔をするのだと、その時初めて知ったのだった。



 ほとんど気絶するくらいに驚いていた栗鼠は、はっと我に返っていた。

『人と、狼が……人と狼が!』

 ロレンスとホロを見比べて、大きな丸い栗鼠が体を弾ませるようにそう言った。

 ロレンスの勘違いでなければ、喜んでいるように見えた。

『では、人と栗鼠というのも夢ではないということですね!』

 今度はロレンスが驚く番で、思わず後ろのホロを振り向いたら、ホロもやや興味を惹かれる顔をしていた。

『ふふ、ああ、でも、私のようなものがお師匠様となど、おこがましい……いや、でも……』

 などと言って、両手をこすり合わせたり、尻尾を丸めたりしている。

 呪われた山で縄張りを守り、侵入者を亡き者にしている何者か。

 到底そんなふうには見えなかった。

「あの」

 と、ロレンスが声をかけると、栗鼠は弾かれたように背筋を伸ばし、目をぱちぱちさせた。

『こ、これは失礼しました』

 栗鼠は体を丸めて頭を下げると、下げた勢いよりも早く再び顔を上げた。

『ああ、そ、そうです! こんなことをしている場合ではありません!』

 栗鼠はその場で上下に体を弾ませて、尻尾を体よりも大きく膨らませていた。

『早くその火を消してください! 山の天使様がお怒りになられます!』

 山の天使、という言葉に興味をひかれたが、栗鼠の顔からは必死の様子が見て取れる。

 話を聞く必要もあるので、ひとまず従うことにした。

「わかりました。ホロ」

 ロレンスが名を呼ぶと、ホロは面倒臭そうにため息をついた後、大きな口を開けて焚火で焼かれていた兎を丸呑みし、側の沢に前足を沈めると、水を掻いて焚火を消した。

『これでよいかや?』

『ええ、ええ、大丈夫だと思います』

 栗鼠は安堵するように息を吐き、それから申し訳なさそうにロレンスを見た。

『それと……あなたたちも山を下りていただけないでしょうか。山の天使様がお怒りになられるかもしれません』

 再び出て来たその単語を、今度は逃さなかった。

「その山の天使様というのは、髭面の?」

 すると、栗鼠はぽかんとしてから、小首を傾げていた。

『いえ……私は天使様を見たことはありません。あなた様は、見たことがあるのでしょうか?』

「……」

 なにか話が噛み合わない。この山に木を植えたのはほぼ間違いなくこの栗鼠だし、あの大聖堂に描かれた絵の中の、不気味な顔の横に立っていたのもきっとこの栗鼠だろう。

 あの顔が山の天使ではないのか?

「この山に木を植えられたのは、あなたですよね?」

『わあ、そうです! そうです! 一度はなにもない禿山になってしまいましたが、ここまで戻ったのです! きっとお師匠様も褒めてくださると思います!』

 栗鼠は嬉しそうに、体を上下に揺すりながら言う。もしかしたら本人は飛び跳ねているつもりだったのでは、と思ったのは少し経ってからのことだ。そこら中にどんぐりが散らばる、見渡す限りに好みの木が植えられた山に住んでいるので、おそらく食べすぎだ。

 それは別にして、気になる言葉があった。

「先ほどからおっしゃる、お師匠様とは?」

『お師匠様は、私を弟子にしてくれました』

 栗鼠の顔であっても、嬉しそうに笑うことができる。

 しかも相手をとてもほのぼのとさせてしまう笑みで、ロレンスも引き込まれそうになってしまうが、この山の謎を解くには栗鼠から情報を聞き出さなければならない。

「お師匠様というのは……人ですよね? なにかの職人、でしょうか?」

『はい。お師匠様は、錬金術師と呼ばれている、すごい力を持った人です』

 嬉しそうに語る栗鼠を前に、ロレンスはごくりと息を呑む。

 大聖堂に残された伝説は、まったくの作り話ではないのだ。

『あなたも錬金術師様ですか?』

 その無邪気な問いに、不意に身構えた。

 朗らかで、愛嬌があって、少し間が抜けた人ならざる者。

 だが、それは本人が仲間と認める者に対しての態度であり、そうでない者に対しては突然豹変し牙を剥くというのは、迷い込んだ森の中で出会う化け物の話で定番の展開だ。

 錬金術師ではないとへたに答えたら、いきなりその爪で……と思った矢先のことだった。

『わっちらは急いでおる。ぬしの知っておることを荒らいざらい喋らねば、さっきの兎と同じような目に合うじゃろうのう!』

 ロレンスの前に進み出たホロが、牙だらけの口を開けて栗鼠に詰め寄った。

 黒いつぶらな瞳をした栗鼠がひっくり返るのには、十分すぎる迫力だった。

「おい、ホロ」

 慌ててホロを諫めるが、じろりと赤い瞳を向けられた。

『たわけ。この山の噂を思い出すんじゃ。山に入った者たちが二度と戻ってこないのだとしたら、山に人を埋めておるのはどいつじゃ?』

 人は人、狼は狼であるように、人ならざる者は人ではない。

 ロレンスの懸念を、ホロはもっと真剣に考えていた。なぜなら、ホロは人ではないからだ。

 いわば守ってもらったのに、ロレンスはそのことが少し悲しかった。

『わ、私はそんなこと、していません……』

 すると、落ち葉の中に頭をうずめていた栗鼠の声がした。

『わ、私は、その……山に入ってくる人たちに、熊のふりをして驚かしただけで……』

 頭隠して尻隠さずのまんまるな栗鼠は、尻尾を震わせながらそう言った。

 ホロは人の嘘を聞き逃さないし、それは栗鼠が相手でもそうだろう。

「どうだ?」

 ホロに視線を向けると、ホロは鼻からため息をつく。

『狼のふり、と答えておったら頭からかじるところじゃ』

『そ、そんなことは決して……』

 今にも泣き出しそうな栗鼠の目に、ロレンスは庇護欲を刺激されてしまう。

「ホロ、あんまり脅かすな」

『ふん』

 いくらかはわざと悪者のふりをしているのだろうが、ホロの牙はあまりにも迫力があり、森で木の実を集める栗鼠には効きすぎる。

「うちのが失礼しました」

『……』

 再度手を差し伸べると、栗鼠は困惑したようにロレンスを見て、ホロを見た。

「私たちは、教会の人から頼まれてやってきました。この山は呪われているという噂があるけれど、その真相を確かめてきてほしい、と」

 栗鼠はロレンスの手を取り、むくむくとした体を起こす。不安そうな顔は、ロレンスが教会の使いと名乗った以上に、ホロのことを恐れているように見えた。

『それは……私にこの山から出て行け、ということでしょうか……』

 栗鼠は小さな手を胸の前で合わせ、上目遣いにロレンスのことを見る。

 ロレンスはそれでようやく、ホロの不機嫌さに合点がいった。

 元々ホロはこの山に来ることに消極的だった。なぜなら、山に人ならざる者がいるせいで変な噂が立っているのなら、こういうことになる可能性が高いとわかっていたからだ。

 ホロを振り向くと、ホロはほれみろとばかりに、苦々しそうな顔でそっぽを向いている。

 しかし、ロレンスは道中、ホロにこうも言った。自分たち以外の者がここに来たとしたら、もっとろくなことにならないだろうと。

 ロレンスは咳払いをし、不安そうな栗鼠に向き直る。

「ご安心ください。後ろにいる妻のホロも、何百年と暮らしていた村の麦畑を追い出された身です。私は世に通じる商人ですし、あれは賢狼とまで呼ばれた誉れ高き狼です。この山にまつわるお話を調べ上げ、可能な限りあなたの味方をできたらと思います」

 突然現れた人間と、その妻だという見上げるばかりに巨大な狼の、妙な組み合わせ。

 こちらの言葉を信じてもらえないかもとロレンスは思ったが、栗鼠は不意に鼻をひくひくさせ、にこりと笑った。

『お二人の仲の良さは匂いでわかります。きっと、悪い人たちではありません』

 そんなことがあるのかと、ロレンスは思わず自分の服の匂いを嗅いでみるが、よくわからない。ひと晩ホロの毛皮の中で眠ったために、ホロの匂いがするくらいだ。

 そうこうしていると、ロレンスは当のホロに頭を小突かれた。

『ぬしの鼻はなかなかよく効くではないか』

 栗鼠は目をぱちくりとさせてから、恐縮するように肩を縮め、頭を下げる。

『じゃが、仲が良いのではありんせん。こやつがわっちから離れぬだけじゃ』

 ホロはロレンスの頭と言わず背中と言わず鼻先で小突いてくるが、多分仲が良いと言われて嬉しかったのだろう。ホロの尻尾に気がついていたロレンスは、仕方ないなとされるがままだった。

『それで、ぬし、名は?』

 ロレンスをひととおり小突いて満足したのか、ホロがそう言った。

 栗鼠は忙しなくまばたきをしてから、うなずいた。

『わ、私は、ターニャと言います』

『洒落た名前ではないか』

 ずいぶん可愛らしい名前だとロレンスも思ったが、栗鼠が嬉しそうに笑う様子を見ると、もうターニャ以外の名前は思いつかなくなっている。実に見事な名前だった。

『お師匠様がつけてくださった名前です。私の人の姿には、それがぴったりだって』

 人になれるのか、と驚いたその瞬間だ。

 軽い風が吹いたかと思うと、ロレンスの目の前には、栗色のふわふわの巻き毛を腰まで伸ばした、おっとりとした顔つきの娘がいた。

「いかがでしょう?」

 無邪気な笑顔だが、ロレンスの顔がこわばるのはターニャが無警戒に人の姿を取ったことにではない。錬金術師がターニャなどという柔らかい感じの名前をつけたのは、決して笑顔だけが理由ではないとわかったからだ。

 そして、後ろでホロがものすごいうなり声をあげた、その理由もまた。

『わっちゃあホロ、賢狼ホロじゃ!』

 牙を剥いたホロにターニャは再びひっくり返り、栗鼠の姿に戻っていた。

 ホロがなにに怒ったのかは理解できる。

 ターニャはこの森で、あふれんばかりの木の実を食べているようだ。

 たわわに実ったターニャのそれは、ホロには無いものなのだった。



 ターニャはすっかりホロに対し怯えていたが、人の前で異性が服を着ない姿を見せるのは誘惑に当たる、とロレンスが説明することで、ようやくターニャは落ち着いてくれた。

 ホロが怒ったのはそれよりももっと別のことなのだが、ホロも自分の怒りがあまりにばかげている自覚くらいはあるらしい。ターニャが誘惑のつもりなどなかったことを謝ると、渋々ながら受け入れていた。

 それでひとまず一件落着し、本題のこの山の話に入ることとなった。

『お師匠様たちは、ある日、この山にふらっと現れたんです。まだ山から人がいなくなってあまり時間が経っていなくて、私が木の実を植え始めたばかりの頃です』

 ターニャはロレンスたちの前を歩いているが、山の天使とやらのもとに案内してくれていた。

『その頃は、山にはまだ鉄を掘りに来る人がいて、私は困っていました。せっかく芽を出した苗木も根こそぎにされてしまいますから……』

 ターニャのふわふわの尻尾が力なく垂れる。

『すると、お師匠様は言いました。私が木を植えるのはとても良いことで、この先も続けるべきだと。なぜなら、この山の中には空から落ちてきた天使がいて、今も眠っているが、木がなくなってとても怒っているためだ、と』

 堕天使の話だろうが、木がなくなって怒る天使、というものをうまく想像できない。

『それで、これ以上怒らせると大変なことになるから、そのことを人々に知らしめて、人が山に入ってこないようにしよう、とおっしゃられました』

 ターニャは道行く先の岩を、やや難儀そうに乗り越える。

 ホロにあっさり捕まったのは、ホロが優秀な狩人だから、というばかりでもなさそうだ。

『するとお師匠様たちはどこかから炭を調達して、山に残されていた石から鉄を取り出すや、大きな門を作ったのです。私は、その門をずっとお守りしてきました』

「門?」

『はい。もう少ししたら、その門に着きます』

 栗鼠のターニャはもちろん四つ足で山道を行くのだが、歩くたびにもちもちと揺れ動く後ろ姿に先ほどの人の姿での裸体を思い出してしまい、なんとも落ち着かなくなる。

 後ろでホロがうなっているような気がするので、ロレンスは努めて視線を逸らしていた。

『お師匠様は、その門から天使様を呼び出して、お怒りの様子を人々に知らしめました。私は直接天使様を見られませんでしたが、ふふ……皆様の慌てようはすごかったです。お師匠様は偉大な錬金術師様です』

 振り向くターニャは本当に嬉しそうに笑っている。

 ターニャはどうやらはるか昔からこの近隣に住む栗鼠であり、山から鉄が出て人々が殺到してからは、禿山になるのをじっと見ていることしかできなかったらしい。

 それでもようやく鉄が出なくなり、人がいなくなってからは、せっせと山に木を取り戻すために働いていたが、鉄の残滓を求めてたびたび人が入り、ターニャの努力を踏みにじっていた。

 そこに錬金術師一行が現れて、ターニャのことを助けてくれた。

 そういう流れのようだった。

「その天使様は、もしかして、教会の鐘に、なにかしました?」

 その問いに、ターニャは足を止めて振り向いた。

『はい! びっくりしました! 天使様は門から出てくると、裁きの光を下されたのです!』

 裁きの光?

「噛みついたのではなく?」

『噛みつく?』

 ターニャは小首を傾げてから、鼻をひくひくとさせた。

『わかりません……私には気が付つけなかっただけかもしれません。ただ、お師匠様が門を開くと、天使様がまぶしい光とともに現れて、たちまち鐘の側にいた人たちが大騒ぎをしたのを覚えています。それから、教会の偉い人が錬金術師様の前に跪きました。それ以来、この山に近づく人はとても減りました。お師匠様の言ったとおりです』

 完全に、聖人伝がごちゃ混ぜになった、おとぎ話の類にしか聞こえなかった。例えば洞穴から光とともに聖人が現れ、人々の間に広がる疫病を治したなんていう話がある。

 それと同様に、錬金術師が作った門から天使が現れ、教会の鐘楼に裁きの光を下して人々が恐れおののいたとでも言うのだろうか。まだ雷を操ったという話のほうが信じられる。それならば、少なくとも空から落ちてきた堕天使という表現は理解できるからだ。

「ちなみになのですが、お師匠様……つまり、錬金術師の皆さんは、なぜこの山に?」

『お師匠様たちは、空のことを調べているのだとか』

「空を?」

『ですから、昼は天使様の門を作り、夜はずっと空の星の様子を調べていました。きっと、天使様がどこから落ちてきたのか調べていたのだと思います』

 ターニャは無邪気に笑っている。

 確かに話のつじつまは合う。しかし、ロレンスには依然として不可解な気持ちが残った。

 なぜなら、錬金術師は、商人以上に神を恐れないからだ。神や天使の存在を世界のだれよりも信じていない者を挙げろと言われたら、真っ先に錬金術師が思い浮かぶ。

 まさか本当に、そんな錬金術師たちが天使の住処を空に探していたのか?

「そのお師匠様たちは、今、どこに?」

 ロレンスの問いに、ターニャは急に表情を暗くした。ふわふわの尻尾もしぼんでしまう。

『わかりません……。お師匠様たちは、世界中のあちこちで空を調べているらしく、ほどなくまた旅に出てしまいました。私はずっとここにいて欲しかったのですが……。だって、空なんて、どこに行っても同じだと思いませんか?』

 ターニャが空を見上げると、今日もやや天気の悪い曇り空が広がっている。

 ターニャはため息をついて、再び歩き出した。

『門はこの先です』

 足元に降り積もった落ち葉を踏みしめながら、ロレンスはターニャの後を追いかけていく。

 さらにその後ろを歩くホロは、さっきからずっと静かなままだ。

『着きました。ちょっと待ってくださいね』

 ターニャは小走りに駆けると、せっせと落ち葉を掻き分け始める。

 そこに、ぬうっとホロがロレンスを追い越し、荒く鼻息を吹いた。

『ひゃあ!?』

 ターニャの柔らかな体が波打つほどの風に、落ち葉が一気に吹き飛んだ。なんて荒っぽい、と呆れるのもそこそこに、落ち葉の下にあったものにロレンスは目を剥いた。

「これが、門?」

 それは大きな円盤だった。鈍色の鉄製で、直径はロレンスの身長ほどもあり、面全体が窪んでいる。そこに見事な彫刻が施してあるのだが、これがあの、大聖堂に描かれていた不気味な顔の正体か?

 しかし……とロレンスが断定を躊躇ったのは、そこに刻まれているのが、一人の少女の全体像だったからだ。

『これが、ぬしの言う天使かや』

 門に掘られた少女の姿は、門の大きさと出来栄えも相まって、実際に少女をそこに塗り込めたかのように見える。髪の長い、優しそうな、静かに眠るように目を閉じている少女は、天使というよりかは聖女に近い。

『いえ、これはお師匠様の一番弟子様です』

 ターニャは言いながら、ひょいと巨大な円盤の片側を持ち上げて、円盤を立たせた。ロレンスが驚いたのは、ターニャの意外な腕力にではなく、門というからには地下へと続くなにかに蓋をしていると思っていたからだ。

 しかし、それは単なる円盤のようだった。

 ホロは円盤の匂いを嗅ぐように鼻を近づけ、裏面に回ると目を見開いていた。

『ぬしよ』

 そして、ホロはこちらの名を呼ぶついでに、ターニャに目配せして、円盤をくるりと回転させた。

「あっ」

 そこには厳めしい髭面の男の顔が、円盤いっぱいに刻まれていた。

『こちらは天使様をお呼びするときに刻んだものです』

 ターニャは朗らかにそんなことを言うが、ロレンスはホロと無言で顔を見合わせる。

 絵に記されている役者は大体揃うこととなった。

『でも、その後は門から天使様が出てこないようにする必要がありましたから、反対側に一番弟子様の姿を彫ったのです』

「……その天使様が門の中から出ないことと、この少女の姿にどんな関係が?」

『はい。一番弟子様は人の姿をしていますが、私と同じように人ではありません。はるか南の、砂しかない世界から来た猫様なのです』

『ほう』

 人ならざる者だということで、ホロは少し興味を惹かれていた。

 ただ、錬金術師も人ならざる者を連れていたのなら、確かにターニャが山にいても驚かなかったろうし、手助けすることもあるだろう。

『天使様は羽をお持ちですから、猫には弱いのだとか』

 にこにこと語るターニャをよそに、ロレンスは彫り込まれた少女の様子に感心する。彫り物の出来の良さもさることながら、見目麗しいのとはまた違う、元となった少女の幸せそうな雰囲気が感じとれたのだ。

 人ならざる者を連れている、人である錬金術師。

 鳥の羽を持つ天使への牽制として猫を彫り込んだ、というのはいかにもとってつけたような理由に思えた。

 ロレンスは自分の中で急速に、先ほどまでの天使の存在を窺わせる話への興奮が冷めていくのを感じていた。この円盤が門であり、その奥に天使がいるという話は作り話だろう、と。

 なぜなら、錬金術師が厳めしい髭面の彫り物を消し、一番弟子と称する猫の化身である少女の絵を彫り込む理由など、一つしか思いつかないからだ。

『で、この下に天使がおるのかや。そいつ、虫ではないのかや?』

 ホロが円盤の置かれていた地面に爪を突き立てて、嫌そうに言う。焚火の際、腰かけるものが欲しいとうっかり石をひっくり返し、可愛い悲鳴を上げることが何度かあった。もっとも、それは町娘が虫を嫌がる理由とはちょっと違い、尻尾にノミやダニがついたら困る、ということなのだが。

『いえ……地面の下にいるわけではありません。これは、これだけで、門なのです』

『むう?』

「古代の異教徒の話にはよくあることだ。よく磨いた青銅の鏡を掲げて、神の世界につながっている窓だと言ったりな」

 ロレンスはそう言って、ターニャを見た。

「ターニャさんは、この門をずっと守っているわけですか?」

『はい。毎日全体を磨いて、それから……』

 と、円盤を静かに置くと、近くの岩の隙間に手を突っ込み、使い込まれたぼろぼろの麻袋を引っ張り出し、中から鏨や鑿を取り出した。

『天使様が出てこないように見張る一番弟子様の姿を綺麗に保ったり、最近は周りにお花の模様を刻んだりしています』

 そう言われれば、円盤に刻まれた少女がどこか華やかに見えるのは、花のような模様に取り囲まれているからなのだと気が付いた。かなり細かい装飾で、気の短いホロなどは一日で投げ出すような代物だった。

 それと同時に、ロレンスの頭の中で、もう一つ点と点が繋がった。

 この山に残る伝説のひとつ。

 夜な夜な響き渡る、亡霊たちが今も鉱山を掘り続けるという、かーん、かーん、という音。

「もしかして、ターニャさんは、夜に作業を?」

『はい。人に見られたら困りますから』

 自信たっぷりに言うターニャを前に、ロレンスはホロへと目配せする。

 ホロは呆れたように鼻を鳴らしていた。

「それはそうと、ターニャさんは、この門の開き方を知らないわけですよね」

『はい。ただ、お師匠様は、私の鏨の腕が上がる頃に、きっとまた来て教えてくれると言いました。それまではこの門の維持と、山に緑を増やすようにと』

 ターニャが手にしている鑿と鏨は、相当に使い古されている。きっと錬金術師から渡されたのだろう麻袋も、ほとんど入れ物として機能していないくらいに朽ちていた。

 旅籠で聞いた話や、エルサが大聖堂の記録から見つけた鐘の鋳造の記録から、ターニャが錬金術師と出会ったのは、五十年、六十年、あるいはさらに前のことだ。

 人の一生は、そんなに長くない。その錬金術師が伝説の賢者の石を手に入れ不老長寿にでもなっていない限り、この山に来ることは、きっともう、二度とない。

 ロレンスはそのことを言いかけて、思いとどまった。

 ホロの前だったということもあるし、ターニャの笑顔を消したくなかったのだ。

「見事な花の装飾ですから、きっとお師匠様も褒めてくださるでしょう」

 ロレンスの言葉に、ターニャは嬉しそうに尻尾を立て、ぴょんぴょんとその場で跳ねたのだった。



★2019年6月10日更新の『狼とどんぐりのパン≪後編≫ 』に続く。
☆ひと足先に続きを読みたい方は、発売中の『電撃文庫MAGAZINE 2019年5月号』をチェック!

★『狼と香辛料 Spring Log編』の次のお話は、『電撃文庫MAGAZINE』をチェック!