※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2019年8月号掲載を抜粋したものです。
エルサは信頼できる村人に聖堂のことを頼み、ロレンスたちとともに大市を目指した。エルサは馬に乗れないし、山道は荷馬車でも十分に通れるとのことだったので、ロレンスたちの荷馬車で行くことになった。
荷台にはニョッヒラから持ってきた硫黄などが積んであってごちゃついてはいたが、エルサ一人くらいなら問題ない。
そう思っていたのに、荷馬車の雰囲気は若干妙なことになっていた。
荷馬車はがたごととのんびり馬にひかれていくが、その速度は普通に歩くより少しだけ速い。そのために、駄賃を払った疲れ知らずの小僧ならばいざしらず、知り合いの女聖職者を歩かせるのはやや気まずい。エルサは歩きますよと言ったのだが、荷馬車に乗せるのがどう考えても適当だろう。
しかし、そこにホロが妙な難色を示したのだ。乗せることそのものを拒否したというよりかは、その乗せ方について。
ホロとエルサは真逆の性格で、ホロのほうがなにかと意識していることから、エルサを荷台に乗せて自分とロレンスが隣り合わせに御者台に座っていては、後ろが気になって落ち着かない、というのはわかる。かといってエルサが御者台にロレンスと揃って座る選択肢はあり得ないし、エルサに手綱を握らせてホロとロレンスが荷台に座るのはもっと変だ。
結局、ホロとエルサが荷台に乗ることになったが、対角線上に位置して最大の距離を設けている。エルサはホロのほうをまったく気にしていないが、ホロは尻尾を膨らませている。
多分、荷馬車の上は自分の縄張りという意識が強いのだ。ついついロレンスは忘れかけてしまうが、ホロは狼なのだから。
とはいえホロ自身、自分の縄張り意識の強さに思いもかけず振り回されている感じなので、茶化すのはやめておいた。きっと本気で怒る、とロレンスは長い経験からよくわかっていた。
妙な緊張感を孕んだ荷馬車はそれからほどなく山に入り、秋から冬へと移り変わりつつある道を、さくさくという落ち葉の立てる音を楽しみながら進んでいった。
道中、昼食のために馬車を止めたら、エルサが食事がてらに大市のことを説明してくれた。
ヴァラン司教領から東に進んだ先にある大市は、サロニアという町で年に二回行われているらしいこと。春の大市は池の中から魚が飛び出すような勢いで、秋の大市は豚が森でどんぐりを掘り出すような騒ぎだということ。
エルサはその話をヴァラン司教領の者から聞いたらしいが、その比喩がとても気に入っているようだった。
行商で生計を立てていたロレンスとしては、その騒ぎの楽しさも大変さも知っているので、曖昧な笑みになってしまう。しかもホロがそんな大市に赴けば、きっとまたあれこれねだるに違いないのだから。
そう思っていたら、気がつくとホロの姿がなかった。荷馬車の上での独り相撲で疲れ果てたのか、食事中は妙におとなしかったし、すねているのかもしれない。
探しに行くべきだろうか、とロレンスが腰を浮かしかける頃、ホロが戻って来た。聞けば、山道から少し離れた場所に、ターニャ宛の手紙を木に打ち付けていたらしい。
一応大聖堂を任せた村人に言伝はしてあるが、と言うエルサに、ホロは答えた。
ターニャが根城にしている山はだいぶ離れているが、間違いなく自分たちがこの山を通過したことに気が付くだろうし、ターニャは大昔に知り合って別れた錬金術師たちの再訪をずっと一人で待っている。ロレンスたちが山を越えてどこかに行ったと知ったら、ひどく取り乱すだろうと。
珍しく気を回すものだ、と思ったのもつかの間のこと。エルサを気にしてか、いつもより拳二つ分ロレンスから離れて枯れ葉の上に腰を下ろしたホロは、立てた膝に顎を乗せて背中を丸めていた。肩こそ合わせてこないが、尻尾はロレンスの背中に回している。
なんのことはない、知り合った親しい誰かがどこかに行ってしまうということは、ホロ自身が恐れることなのだ。
年を取らず、見た目は娘のミューリと瓜二つなのに、母と娘の立ち姿には言葉に言い表せぬ違いがあるのは、きっとホロのこういう内面がにじみ出ているからだろう。ホロの子供みたいな振る舞いにロレンスが弱いのは、それがある種の演技だとわかっているからだ。
ホロはいつか音楽が止むとわかっていて、一緒に踊ろうと手を伸ばしてくる。
その無邪気さの下に隠れているものを、ロレンスは放っておくことができない。
荷馬車にエルサをどうやって乗せればいいかと苦悶している間抜けなホロと、長い時を経てきて悲しみと希望を同じ箱にしまっておける賢狼のホロ。
自分の生涯を賭すに足るものが、そこにはある。
そうこうして昼食休憩を終え、再び荷馬車を進めていくと、やがて山の尾根を越えて遠くに大きな町並みが見えてきた。内陸部の物流の要のひとつ、サロニアの町だ。
「ふうむ。風に乗って小麦の香りがしてきそうじゃ」
ホロは目を細めて牙を見せた。苦手なエルサが自分の縄張りである荷馬車の上にいることにも、ようやく慣れてきたらしい。
「食べきれぬパンに酒。最高じゃのう?」
過食を戒めるエルサの小言などどこ吹く風。
いつものホロの様子に、ロレンスは笑って手綱を握りなおしたのだった。
サロニアの町は、見上げるばかりの市壁がそびえるところではなかったが、周囲には空堀と土塁が巡らされ、町の中心部には教会の鐘楼も見つけられた。町はゆったりとした作りで、あっちこっちに広場があるのも、昔は近隣の農村の物々交換所だった名残だろう。今では山ほど農産物が積み上げられ、賑やかに取引がなされていた。
どこの広場はこれ、と商品が決まっているようで、取引を仕切る身なりの良い商人や、おそらく半年や一年ぶりの再会になるのだろう商人たち同士の親しげなやり取りも見えた。
そういう露天の取引所がいくつも集まって、ついに年に二回の大市になったのだろう。
「ここで取引しているのはいまいちな小麦じゃな? あっちは馬の餌用の燕麦じゃ。んーむ、あそこは炒りたての大麦じゃ。醸せば良い酒になるじゃろう」
町に入る頃にはエルサが荷馬車を降りていたこともあってか、ホロはいつもの様子を取り戻していた。鼻をひくひくさせては、子供みたいにロレンスの服の袖を引っ張って大騒ぎだ。
「エルサさん、司教領の皆さんがいる宿までの道のりはわかりますか?」
こういう町は中心の教会にいったんたどり着けば、そこからどこにでも行ける。ひとまず荷馬車をそちらに向けていたのだが、ロレンスの問いにエルサはあっさり首を横に振る。
「わかりません。私もこの町には初めて来ましたから。人に道を聞きましょう」
そして、言うが早いか道行く人を捕まえていたのだが、誰もかれもが忙しそうにエルサの問いかけを振り払ってしまう。
五人目の商人風の男に至っては、エルサを見るとぎょっとして小走りに駆けて行った。
「……彼に神の御加護がありますように」
エルサはそんなことを言っていたが、やや動揺していたのかもしれない。
「ぬしは顔が怖いからのう。説教されると思ったんじゃろう」
ホロが妙に嬉しそうに言うので、ロレンスは頭を小突いておく。
「この時期は皆さんお忙しいのでしょう」
エルサは曖昧にうなずきつつ、そっと自分の頬に手を当てていた。顔が怖い、というのは割と気にしていることのようだ。
ロレンスは再度ホロの頭を小突いてから、通りかかった職人の小僧を御者台の上から捕まえた。忙しいんだとかなんとか一丁前のことを言っていたが、銅貨を握らせると渋々教えてくれた。
そして、小僧もやっぱりエルサのことをちらちらと気にしていた。
「女性の聖職者が珍しいのかもしれませんね」
ロレンスはそう言いつつ、彼らの反応はどれも物珍しさからくる感じではないとわかっていた。そもそも旅人が多く集う大市なのだ。
いったいなんなのかと思いつつも、ひとまずはこの町に逗留している者たちとの合流を優先させたのだった。
ロレンスたちが職人の小僧から聞いた宿に赴けば、一階の酒場部分からは人があふれかえり、宿の前では少なからぬ者たちが酒を片手に地面に座り込んでいた。
見た目は良くないが、彼らはごろつきではなく取引待ちの商人だろう。聖職者の格好をしているエルサを見るとぴたりと口をつぐみ、手元の酒を背中に隠す者もいた。
昼間っから酒を飲んでいるところを聖職者に見つかったら小言の一つも食らおうものだから、その反応は理解できる。首をすくめて身を縮めている彼らに対し、エルサは小さなため息とともに、「飲みすぎませんように」とだけ言って、素通りしていた。
しかし、エルサが宿に入っていくのを外にいる者たちは目で追いかけているし、どうにもその反応が妙だ。酒場の中も急に静まり返り、咳払いひとつ躊躇われる硬い沈黙が立ち込めている。ホロとロレンスは宿の前に止めた荷馬車の上で、互いに顔を見合わせた。
「エルサさんの顔が怖いって、冗談だよな?」
「……たわけ」
その冗談を口にしたホロ自身、戸惑っているようだ。
宿の裏手に回って厩を預かる小僧に荷馬車を任せて宿に入ると、ひそひそ声で何事かをささやき合う商人たちの奥で、エルサが幾人かに囲まれていた。
「エルサさん」
呼びかければ、エルサを取り囲んでいる者たち全員が振り向いた。
平服を着た聖職者風の男が三人、服はそれなりに良い仕立てだが、垢ぬけなさから領地の村を代表して町に来たとわかる村人が二人ほど。年齢は揃ってロレンスより一回りから二回りは上だった。
「こちらが?」
「はい。私の古い知り合いで、ロレンスさんとホロさんです」
「初めまして」
差し出したロレンスの手を、彼らはやや警戒しながら握ってくる。湯屋で顔なじみの客ばかり相手にしていたから忘れていたが、昔はどこに行っても大体こんな感じだった。
「ひとまず部屋のほうへ」
階上の部屋に赴くと、荷物番なのだろう若い村人が二人、部屋の前の廊下に座り込んで札遊びをしていた。慌てて札を片付ける彼らに案内されて、大きな一続きの部屋に通される。
「あまりいい雰囲気ではありませんね」
エルサの一言に、年上のはずの彼らが揃って面目なさそうに顔を曇らせる。
「村の者たちが数人、ラウド商会に詰めていますが、あまり状況が芳しいとは言えず……」
「町全体も賑やかではありますが、平和なのは表面だけです。エルサ様は、そのお召し物で町に入られて、なにか言われませんでしたか?」
聖職者風の者がエルサに敬称をつけていることにやや驚く。エルサはあちこちに請われ仕事をして、その流れでヴァラン司教領にたどり着いたというから、どこかで高位の人間の知己を得たのだろう。教会には独特の上下関係があり、聖職者としての階位は臨時の司祭でも、エルサは教会の中で結構な名声を得ているのかもしれなかった。
「特になにもありませんが……いえ、そうですね」
と、エルサはロレンスに目配せしてきた。ロレンスはエルサの言葉を受け取る。
「皆さん、エルサさんの僧服に驚かれている感じがありました」
すると聖職者風の男が答える。
「そうでしょうとも。先日、ついに牢に放り込まれる者が出たのですよ」
「え?」
エルサのみならず、ロレンスも驚いた。呑気に窓の外を眺めているのはホロくらいのものだ。
「それで僧服に警戒されるということは……異端審問官ですか?」
ロレンスの問いに、ホロがようやく興味を惹かれたように見る。人ならざる者にとって、異端審問官は天敵だ。
「いえ、捕まったのは商人です。我々もよく知る人で、誠実な商いをされる方だったのに……」
「少し前からそうなるのでは、と噂されていましたが、今やそのせいで町の人々は一皮めくれば群れからはぐれた狼みたいに警戒していますよ」
どういう意味じゃ、とホロが言いたそうな顔をしていたので、その背中にそっと触れて落ち着かせてから、ロレンスは言った。
「ということは、捕縛の理由は限られますよね」
エルサを見やると、信仰の問題に通じ、世知にも長けた女聖職者は言った。
「借金ですか」
借りた物を返さないのは、相手の信用を裏切る行為にほかならない。
金を借りて返さないのは、信仰上の罪となりうるのだ。
「こんなに町は賑わっているのに、誰もかれもが借金を返せなくて汲々としています。路上で多くの者たちが酒盛りをしているのも、金を貸した者が逃げ出さないか見張っているともっぱらの噂です」
あるいは、そういう噂がまことしやかに流れるほど、多くの人々が切羽詰まっているか。
「私たちが持ち込んだ村の商品もとっくに売り払われたにもかかわらず、ラウド商会は代金を支払ってくれていません。司教様と村長、それに手伝いの者たちが五人ほど商会に詰めて商会を責め上げていますが、芳しい返事は一向に」
「そもそもほかの村の連中も同じような状況らしくて、商会では誰が先に支払いを受けるかでいがみ合いだとか」
「村には多少の備蓄がありますが、このままだと冬はかなりひもじいことになりかねません。エルサ様のほうの首尾はいかがですか。聖堂にはいかほど財産が?」
エルサは司教領の財産管理を任されていた。
そのエルサが、表情も変えずに胸元から為替証書を取り出した。
「呪われた山を、デバウ商会に売却することができました」
「おおっ」
「なんとっ」
全員が色めき立つ中、エルサは咳払い一つで彼らを落ち着かせる。
「山の秘密を解き、デバウ商会を紹介してくれたのは、こちらのロレンスさんとホロさんです」
エルサの言葉に、彼らは先ほどの警戒心もどこへやら。痛いくらいに手を握ってきたり、熱い抱擁を求めてきた。
「素晴らしいことです! そのお金があれば、冬を越すための資材を十分に買えましょう。いやあ、一時はどうなることかと思いましたが、これで司教様や村長様たちも安心されましょう。早速、皆の者を呼び戻して、買い物に向かいましょう」
よかったよかった、これで一件落着だ、とばかりに安堵しあう彼らを前に、エルサは為替証書をさっと胸元にしまってこう言った。
「どうやら聞いていた以上にラウド商会は困難に見舞われているようですね」
「え?」
戸惑う主司祭や村人を、冷たさすら感じさせる目でエルサは見ている。
その間に座っているホロが、なにか起こりそうだぞと、両者を見比べてわくわくしている。
「ラウド商会は長いことヴァラン司教領のために尽力してくれていたようですが……まさか、山を売却したお金で私たちだけが助かればそれでいい、ということではありませんよね?」
司教領の者たちが、明らかに困惑した。
「で、ですがエルサ様。下手に関わればろくなことにならないでしょう。その為替証書でラウド商会を助けるおつもりですか? 我々に支払いもしていない商会ですよ?」
「ラウド商会を助けられるのだとしたら、彼らを助けるのはなにも彼らのためだけと言うわけではありません」
「それは……どういう……」
エルサは、小さく咳払いをした。
「彼らが支払いをしていないということは、村の人々が丹精込めて収穫したものの代価を受け取っていないということです。彼らを助ければ、収穫の代価も戻りましょう。それをせずに放っておくことは、司教領にとっての損害のみならず、村の人々、ひいては神の子羊たちの労働への侮辱だと思わないのですか? 損失を別の利益で埋められたから、それでめでたしめでたしということですか? あなたたちの考えは、必死に働いた人たちのことをないがしろにしているのですよ!」
エルサの鋼鉄のような倫理観に、男たちは軒並み面食らっていた。それはロレンスでさえ例外ではなかった。
エルサがラウド商会を助けようとするのは、世話になったからでも、ましてや恩に着せるためでもなく、司教領の人々の労働の対価を守るためにだというのだから。
しかし、助けるために費やした費用が村の収穫の代金を上回ることだって考えられるのでは? そうなれば意味のないことなのでは……とロレンスは即座に思ったし、主司祭たちも思ったらしい。エルサは結局現実を見ていないのではないか、ともの言いたげな空気がにじみ出たその直後だった。
「帳簿類をすべて調べました」
「……?」
エルサは男どもを睨みつけ、矢のように指先を突きつける。
「あなたがたは根本的に金銭の扱いが全くなっていません! 浪費、使途不明、計算の間違い、とにかく杜撰です! お金の出入りを一体なんだと思っているのですか! 司教領が豊かだったころはそれで許されたかもしれませんが、それにしたって神に仕える者たちがその態度で許されるはずがありません! そんなあなた方が、こういう時だけ目の前の損得を考えるというのですか? いったいなんのために!?」
エルサの叱責に彼らは首をすくめ、身を縮めていた。
どうやらヴァラン司教領が金に困っていたのは、岩塩が採れなくなったり、鉄鉱山が枯れたから、ということだけが原因ではないようだ。豊かだったころの名残で誰も予算を管理せず、そういう態度は代替わりしても受け継がれ、なあなあで済ませていたのだろう。
ただ、エルサの叱責に背筋が伸びたのは彼らだけではなく、ロレンスもまたそうだった。
労働の結果、対価を受け取って、その対価で生きていく。となれば損より得が多くなければ生きていくことはできないが、エルサはそこに、なんのために? という疑問を付け加えた。
ロレンスは、気が付けばホロを見ていた。
金儲けそのものが大好きなのは間違いないが、そこには間違いなくもう一つの基準が存在する。そのためならば、得を捨てて損を取ることだってあるし、それは生きる上での価値を高める行為にほかならない。
エルサは一流の聖職者だ。
ロレンスは、衒いなくそう思った。
「ですから、この為替証書に安易に頼ることは許しません! あなたがたはこのロレンスさんに教えを請い、今すぐラウド商会の状況を調べ、しかるべき手を打つように! すべては村の人々の労苦に報いるため、そして神の御心に適うためです!」
年も背丈も二回りくらい下のエルサに叱られ、いい年をした大の男たちが背筋を伸ばしている。エルサはおそらく高位の聖職者からの口利きでヴァラン司教領にやって来たはずだが、彼らがエルサに頭が上がらないのはそれだけが理由ではないのだ。
「以上です! 神の御加護がありますように!」
エルサのお説教はそこで終わり、叱られた男たちはおずおずと、ロレンスの下にやって来たのだった。
★2019年9月10日更新の『狼と尻尾の輪舞≪第三部≫ 』に続く。
☆ひと足先に続きを読みたい方は、発売中の『電撃文庫MAGAZINE 2019年8月号』をチェック!