※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2019年8月号掲載を抜粋したものです。
ラウド商会はサロニアの町が大きくなり始めたころ、南の地方から一旗揚げにやって来た家族が興した商会らしい。今の当主が四代目で、規模は中堅どころ、評判もそこそこだという。
それなりの大きさの商会にはありがちだが、基本的にはなんでも取り扱うものの、主な商品は葡萄酒だという。需要が絶対になくならない酒類は、限られた商会にしか取り扱い免状が発行されないのが普通だ。このことから、ラウド商会は町での地位も悪くないはずだとわかる。
「おかしな投機に手を出していたり、ということもないんですよね?」
荷物番の若者たちが用意した葡萄酒も、おそらくラウド商会の扱う物だろう。ちょっと酸っぱい葡萄酒を啜りながら、ロレンスがまず尋ねたのはそれだった。
「我々も商いの失敗を疑いましたし、ここは麦と農産物が集まる大市ですから……賭けのような取引には事欠きません。ですが、顔見知りだらけです。隠すなんてことはできません」
たとえば来年に実る麦を売り買いする先物取引などは、大儲けできる代わりに大損をすることもある。ロレンスもついこないだ、鰊の卵取引で痛い目を見かけた。
「では商会は儲かっているようでした?」
その問いに、説明に立つ聖職者と村人が顔を見合わせた。
「間違っていたとしても責めはしません」
エルサの言葉に、ほっとしたように村人が口を開く。
「私たちは信用していないのですが……ラウド商会の主人は、そう主張しています」
可能性としては十分にありうる。ロレンスがやっぱりとばかりにうなずくと、商いの世界になじみのない者たちには意外だったらしい。
「で、ですが、儲かっているのならどうして我々への支払いを拒むのでしょう? なぜ経営に行き詰まっているのでしょう? つじつまが合わない気がします」
木窓の前に陣取って町を眺め、秋のそよ風に吹かれながら酒を飲むホロを横目に見てから、ロレンスはそのホロにしたのと同じ説明をした。儲かっている商会でも潰れることがありうること。帳簿の上の計算と、現実の金庫の中身の差からくる問題の存在のこと。
彼らは騙し絵を見せられたような顔をしていたが、ロレンスが気になるのは商いの話に付け加えられた、厄介なおまけのほうだ。
「ラウド商会に向かう前に確認したいのですが、この町の教会が介入してきた理由と、その時の雰囲気を教えてもらえませんか? つまり、ここの教会ならそういうことをいかにもやりそうなのか、それとも、皆にとって意外なことだったのか」
前髪を風にくすぐられて気持ちよさそうに目を細めていたホロだが、空になったジョッキを逆さに振って中身がないとわかると、ようやく部屋の中に向き直った。
ホロの耳は人の嘘を聞き分ける。
エルサのことは信用できるが、ヴァラン司教領の者たちまで信用できるかはわからない。
エルサが厄介な決断を恭しく任されているように、よそものの商人が体のいい生贄にされることだってある。なにか隠しごとや誤魔化しをするようなら、それは良くない兆候だ。
呑気に問題に首を突っ込めば、明日は自分が罪に問われているかもしれない。
そして森の中の暗躍合戦ならば、ホロの目を欺ける者はいない。
「わ、我々の知りうる限りでよろしければ……」
ホロとロレンスの視線に気圧されたのか、ヴァラン司教領の聖堂では主司祭を務めるという男が、説明してくれたのだった。
高利貸しは地獄の最も深いところで業火に焼かれる罪だが、適切な利子ならばその限りにない。それと同じことで、教会は金銭の貸し借りを全面的に禁止しているわけではない。
困っている者に持てる物を分け与えるのが最良だが、例えば一晩の毛布を旅人に貸すのもまた褒められることであり、借りた物を返す際に礼をするのもまた信仰に適ったことなのだから。
「ですから、適度な借金であれば信仰的に問題にはなりえず、今回のことは町の商人たちのみならず、私たちもまた驚きでして……」
「それに元々、この町の聖堂参事会は商いに優しいと評判なので、なおさらです」
その言い方にやや棘が含まれていたのは、信仰的には潔癖であろうエルサの手前だったからだろうか。商いにうつつを抜かす聖職者の仲間に見られたくない……。
しかし、当のエルサは特に興味を示すでもなく、じっと話の続きを待っている。
「商いに優しいのには、なにか理由が? その……例えば、寄付が盛んとか」
ロレンスの遠回しな言い方に、主司祭も他の者も、ややためらいがちに首を横に振った。
「そういうことがない、とは申しませんが……適正な範囲のことだと思います」
「それにこの町が商いに優しいのは、歴史的な経緯を考えれば自然なことかと」
ホロもエルサもそろって興味を惹かれたようだった。
聖職者たち同士で目配せのしあいがあったが、結局年かさの主司祭が説明を引き継いだ。
「サロニアの聖堂の起源は、まだここが見渡す限りの野原だったころに遡ります。周辺の農村が物々交換をしたり、収穫を商人に売却するために立っていた不定期な市だった場所に、小さな礼拝堂が建てられたのです。そこに布教に熱心な放浪司祭が住み着いたのが、町の始まりと言われています」
ロレンスの経験が正しいのなら、誰の縄張りでもない賑やかな場所に住み着くような放浪の聖職者は、よくてはみ出し者、ともすれば聖職録など一度も持ったことのない、ただの口のうまい男だったりする。
「その後の司祭様の尽力もあり、不定期な市にやって来る商人用の旅籠が建ち、人が集まり、町の様相を呈し、ついに大市が立つようになるのと歩調を合わせ、正式な司教区となりました。そういうわけで、サロニアの教会の歴史は、商人とともに発展してきた歴史なのです」
「だとすると、突然借金の罪で商人をとらえたのは、昨今の時勢のせいでしょうか?」
ロレンスの問いにホロが少し身をすくめた。
今、世の中は信仰のありかたをめぐって大きく揺らいでいる。おおむねのところは、やりたい放題だった教会側の自業自得なのだが、その大渦を掻きまわしている中心にほかならぬ不肖の娘ミューリとコルがいるため、他人事ではない。自分たちが育てた者が世に出て大きな影響を与えているというのは、誇らしいようであり、恐ろしいようでもある。
それに、長いこと倉庫に放ったらかしにされていた大きな木箱を動かせばわかるように、ものすごい埃が立つものだ。
コルとミューリの冒険の影響は大きく、それが必ずしも良いことばかりを引き起こしているわけではない。ロレンスが遠路はるばるエルサの居るヴァラン司教領までやって来たのも、もとはと言えばそういう厄介ごとが原因なのだから。
とはいえ、まさか世に聞く教会改革の旗手がロレンスの息子同然とはつゆ知らず、主司祭の男は重々しくうなずく。
「まったくそのとおりで……薄明の枢機卿殿には、迷惑とは申しませんが……」
聖堂に勤める一人の聖職者として、重々しいため息をついていた。傍若無人に見えて意外に周りの目を気にするホロは、彼らの困り顔に猫のように目をそらしていた。
「私たちの司教領にも大司教区より通達がありまして。財産を適正にして、神の御心に適うようにせよと。そのために我々はエルサ様にご助力いただいているのです。それから……司教様も含めて私たちが雁首揃えてこちらにいますのも、実はこの問題に関連して、前々から不穏な噂を耳にしていたからなのです」
「不穏な噂?」
ロレンスが聞き返すと、エルサが口を開いた。
「取引が盛んな市場町にある教会や聖堂には、悪徳の温床になりうる取引をなくすように、と特別な指示が出されているのです。あなたも身に覚えがおありでは?」
アティフでの鰊の卵取引の話はエルサにもしてある。
ロレンスは「ううむ」とうなった。
「ということは、麦や農産物の先物取引も、賭けと見なされて禁止されるかもしれない、と」
「そうです。私たちも冬を越えるために様々な物資を買い付けますが、店に並んだものを買うようにはいきません。未来の麦や油や肉を予約するのは普通のことです。それは時として、賭けにみられることもあります」
商いの手法の多くは必要から生まれたことだ。ロレンスは追従ではなく、うなずいた。
「万が一でも先物取引が停止されれば大混乱ですよね。では、そうならないように念のためにここに来たら、もっと別の問題が持ち上がったと」
「はい。商いを止めれば大混乱が起こるのは目に見えています。この町の司教様もそれは理解しています。しかし、まったくなにもしないでいては、悪徳に手を貸しているとみなされます」
「そこでサロニアの司教様は一計を案じたわけですが……驚くべきことに、むしろ商いのため、良かれと思ってそうしたとか」
意外な一言だった。
「良かれと思って? 商人に縄を?」
「はい。今、この町は誰も彼もが借金を抱えて身動きが取れなくなっています。こんなにも商いが活発なのに、おかしな話です。そこで業を煮やした司教様が、神の威光を借りて、商いが円滑に回るように一石を投じたのだと」
皆が借金に苦しんでいるのは、誰も借金を返さないからだ。ならば借金を返さないのは悪いことだと見せしめを出すことで、借金返済を円滑に進めようとする。
理屈はわからないでもないが、ロレンスは苦い顔をせざるを得ない。
「結果は真逆になりませんでしたか?」
主司祭や村の人々は顔を見合わせ、まるで自分たちの失策だったかのようにうなだれた。
「そのとおりです。このままでは自分たちも投獄されると恐れ戦き、ますます金庫から金貨を出さなくなる一方、借金の取り立ては苛烈になりました。主だった商会の主人たちが角突き合わせて相談することで、どうにか取引が止まらずにいるような状況だそうです。ですが、銀貨一枚分もよそに多く渡すものかという剣幕で争っているとか」
こんがらがった糸の両端を、考えなしに引っ張ればどうなるか。
残っていた余裕はなくなり、ますます糸はきつく絡み合う。
「なぜこんなことになっているのでしょう?」
主司祭が、困り果てたように言った。
「町はあんなにも、商いで賑やかなのに」
開け放たれた木窓の向こうからは、活気に満ちた町の様子がよく見える。
辻での取引は盛んで、宿屋も酒場も人であふれている。
「我々の間では、この町に悪魔が潜んでいるのではないか、とも」
主司祭の横に控えていた男が、弱々しく言った。エルサは片眉を吊り上げたし、主司祭は男の言葉にぎょっとしていた。
この賑やかなサロニアの町が不可解な理由で軋みを上げているのは、市場の人ごみに悪魔が潜み、その悪魔が問題をこっそり引き起こしているからだ。
ありがちな発想ではあるが、エルサの目は思いのほか厳しい。
「その話は、どこまで本気なのですか?」
エルサの問いに、主司祭が慌てて口を開く。
「サロニアの司教様を含め、皆、正しい信仰に生きております。根も葉もない噂でございまして……決して悪魔のような存在などというのは……」
彼らが慌てているのは、教会の卑しからぬ者に伝手のあるらしいエルサを通じ、異端審問官を呼ばれるかもしれないと思ったからだろう。そんなことになれば、サロニアと隣接し、取引を行っているヴァラン司教領もとばっちりを食うのが目に見えている。ましてやまさに現場に居合わせているのだから、ろくなことになるまい。
とはいえ、エルサが反応したのは純粋な信仰というより、ホロのことを気にしていたような気がする。ホロのような人ならざる者が紛れ込んでいて、なにか不可思議な力を発揮しているのでは。
エルサの視線を受けたホロは、あほたわけ、とばかりに唇を曲げてそっぽを向いていた。
ロレンスは彼らのやり取りを前に、ゆっくりと息を吸って、大きく吐いた。
ここで得られる情報は全部得られた気がする。
ならば元行商人にできることは、決まっている。
「では、その悪魔を探しに行ってみましょうか」
商いとは歩くこと。
全員の視線が、ロレンスに集まったのだった。
僧服ではあまりに視線を集めてしまうので平服に着替えたエルサを中心に、ロレンスたちはラウド商会へと向かった。辻ではたくさんの農作物が取引され、食べ物の露店が所狭しと立ち並び、芸人一座の前には黒山の人だかりだ。
一見すれば町は年に二回の大市で平和に盛り上がっているように見えるので、その裏面がひっ迫しているとなれば、悪魔の存在を疑うのもわからなくはない。
「のう。ぬしにはなにかあてがあるのかや?」
エルサや主司祭たちが先頭を歩き、ロレンスたちはその後ろをついて行く形だ。
町の賑やかな様子に興味を惹かれつつ、ホロは声を潜めて尋ねてきた。
「悪魔がいるかどうかって?」
エルサの視線を思い出したのか、ホロは少し不機嫌そうな顔になる。
「あのたわけは、わっちらの類ではあるまいな、と思ったようじゃが」
「疫病にもよく同じことが言われるよ。人はそういうのが好きなんだ。町によっては、疫病に名前を付けて人形を作って、毎年崖から突き落とすくらいだしな。お前もそういう祭りのひとつやふたつ、知ってるだろ?」
元行商人のロレンスは、神の奇跡や悪魔の存在を信じていないのではない。悪魔役を押し付けられることの多いよそ者としての経験から、そういう話には冷めた目を持っているのだ。
「だから俺たちが注意すべきは、濡れ衣を背負わされ崖から突き落とされないようにすることだが……」
ホロもそのあたりのことは理解している。神と崇められていたのに、人の都合によって貶され、疎まれ、追われた身だ。
「一方で、エルサさんは為替証書という強力な銀の杭を持っている。本当に悪者がいるのなら、倒すこともできるかもしれない」
ホロはやや驚いたように目を見開いていた。
「あの兎はそんなすごいものをよこしたのかや」
「すごいもの……というか、単純にすごい金額だな。単なる野山じゃなく生産性の高い山だから当然だが、あの為替証書に書かれているのは文字通り山のような金額ってやつだ。金銭的な問題なら、あの紙一枚で王侯貴族級のものと戦える」
そんな金額とは縁のないロレンスとしては、伝説の剣を目の当たりにした子供のようにわくわくする。デバウ商会のヒルデは判断ひとつでそんな金額を動かせる、ということもまた、英雄譚の英雄の活躍を見るようで心が躍る。
「で、ぬしには悪者が見つけられるのかや」
浮ついたロレンスに、ホロは冷たくそう言った。
宿ではロレンスがホロの怠惰と深酒を戒め世話をする側だが、過酷な世間に出ればいつも慎重なのはホロのほうだ。
お遊び気分でいるなよ、と責めるような眼にロレンスは背筋を正し、答えた。
「商いの面白いところは、必ずすべてが取引の糸でつながってるところだ。ラウド商会から取引記録を辿って行けば、その先に悪魔がいるかどうかがわかる。単純な理屈だよ」
「ふうん……? じゃが、ぬしらは時に秘密を好み、そもそもこの町の連中が既にそれを確かめておるのでは?」
ホロの指摘ももっともだが、町の連中のことについてなら、ロレンスは断言できた。
おそらく調べていないし、ロレンスが調べたいと言えば、口を割ってくれる気がした。
ホロは半信半疑だったが、そこは元行商人としての腕の見せ所だ。
そしてラウド商会に到着し、予想はすぐに確信に変わった。
「誰が来たって払えんもんは払えんぞ!」
ヴァラン司教領からエルサと、エルサが雇ったという体のロレンスがラウド商会の主に面通りを願うと、たちまち飛んできたのがその怒声だったからだ。
「わしらは吝嗇や強欲で払わないと言っとるんじゃない! 払う物がないと言っているんだ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るのは、禿頭と白髭の老主人、ラウドその人だ。
執務室には商会の幹部が何人かいるが、長机に山盛りにされた帳簿の束から顔を上げもしない。そこからどうにか黄金の一滴を絞りだそうとしているのだろう。怒鳴り声も日常茶飯事らしく、ラウドが大声を張り上げても聞こえていないようだった。
「ですが、支払いをしている先もあるのでは?」
ラウド商会に詰めている村長たちから耳打ちされた話をエルサが口にすると、ラウドは額に浮いた血管が切れそうなくらい顔を真っ赤にさせた。
「当り前だ! 商いのいろはも知らんくせに口を挟むんじゃない! わしらはあんたらのためにこの店を潰すのを必死に食い止めているんじゃないか!」
利己的な商人が他人のことなど気遣うものか、とエルサの顔つきは言っているが、半分くらいはエルサの元々の顔つきが怖いせいでそう思えるだけだろう。
ロレンスを肩越しに振り向いてきたのも、そうなのですか? という純粋な疑問だ。
「信じられないかもしれませんが、他人への支払いが滞っていて気にならない商人はいませんよ。そうだとしたら、そいつは単なる詐欺師です」
「そのとおりだ!」
ラウドの声は相変わらず大きかったが、商人として紹介されたロレンスは話の分かる奴だと思ったらしい。肩で息をしつつ、いくらか落ち着きを取り戻していた。
「では、支払いに優先順位をつけているのも、正義だと?」
またぞろラウドが額に彫刻作品みたいな血管を浮かび上がらせかけたので、ロレンスが手で制した。
「不公平に見えるかもしれませんが、現実として、待てる支払いと待てない支払いがあるのです。皆さんは冬の到来までに物資が手に入ればなんとかなる。いや、もっといえば、春先に利子をつけて返済してもらっても、正味のところなんとかなるのでは?」
ロレンスが声をかけたのはエルサの後ろにいる、ヴァラン司教領の人々だ。
「まあ、それは……」
「貧しい家々には、聖堂の備蓄を渡すこともできますし……」
「では待てない支払いというのはなんでしょうか」
物怖じせず、あくまで論理の筋道を明らかにしようとするエルサの問いに、今度はラウドも顔を赤くしなかった。さすが大きな商会の年経た商人と言うべきか、エルサの性格が呑み込めたのだろう。
「待てない支払いは、取引を止められない支払いだ。それも、規模のでかい順に重要だ」
ラウドは言って、執務机の上の布巾をむんずと手にとって、荒々しく禿頭を拭っている。
その様子が面白かったのか、ホロが目をぱちくりとさせていた。
「今この町には山ほどの農産物が持ち込まれ、めまいがするほどの勢いで各商人の手に渡っている。半年前や一年前の大市で交わされた契約の清算も行われている。それらはこの町の中だけで完結せず、よその町のばかでかい商会ともつながっている。そして、それらの取引は絶対に滞らせてはならん。絶対にだ」
ラウドの説明にエルサは口を開かず、代わりにまたロレンスに視線を向けてきた。
「この町の問題なら、皆さんお知り合いですから話し合いができます。でも、取引先が遠方の町だとしたら、向こうの人たちにはこちらの事情が分かりません。もしかして騙そうとしているんじゃないか? と警戒されたりもするでしょう。それでなくても、市場町は世の中にたくさんあるのです。遠方の彼らは別の町で取引を始めるかもしれません。彼らの信頼を失わないでいるためには、ただ一つ、支払いをすることしかありません」
エルサはおとなしくうなずいた。
「では、その支払いをしているために、町の商いが苦しくなっているのですか?」
その問いには、ラウドが眉をしかめたし、ロレンスもよくわからなかった。
「息を吐いてばかりでは苦しくなるじゃろう」
ホロの一言で、ロレンスはようやく理解する。
支払うばかりで収入が無ければ、町の人々は理屈の上では、どんどん貧しくなる。
「おそらく違います。この町に来た商人たちは、手ぶらで帰るとは思えませんから……」
今度はロレンスがラウドに疑問の視線を送る。この町の取引ならば、ラウドのほうが把握しているはず。
「そのとおりだ。たとえば我が商会が、輸入する葡萄酒の支払いを滞りなくすれば、この商会は来年も変わらず商いをやっているだろうと信用される。そこでよその商人は、来年分の麦を我が商会で買いつけてから故郷に帰る。来年は葡萄酒を携えやって来て、麦を受け取り、また来年分の麦を買って帰る。商いはそういう呼吸のように、流れるものだ」
「その流れがどういうわけか、今にも滞りそうになっている。ですよね?」
ロレンスがラウドに水を向けると、ラウドは大きなため息をついた。
「わしらからすると、原因は明らかだがな」
憮然としたラウドは、吐き捨てるように言った。
「宿屋組合の連中だ。あいつらが商いの水路をふさいでやがるんだ」
「宿屋組合?」
他の商売敵の商会ではないのかとロレンスが意外に思っていると、エルサが言った。
「それは町で噂の、悪魔とやらが宿屋組合にいるのでしょうか?」
エルサの無邪気とも言える問いに、ラウドはむしろ呆れていた。
「まったく、坊さんどもはいつもそれだ。悪魔……まあ、悪魔的と言えるだろう。連中はうちから葡萄酒やらを大量に仕入れておいて、銅貨一枚だって支払いやしない。あれだけ客であふれているというのに支払うための金がないとは、一体どういう了見なんだ?」
宿が大盛況なのは一目瞭然だ。
「向こうは支払えない理由をなんと?」
「払えんもんは払えんと突っぱねるだけだ。まったく、あいつら宿屋組合は爺さんの代から吝嗇で有名でな。サロニアで商売をする人間の風上にも置けん。わしらのような商会がどれだけ連中のせいで苦労していることか……」
憤懣やるかたないという口調には、積年の恨みがたっぷり詰まっている。
この町の人々が、町の混乱をきちんと調べていないと思ったのは、これが理由だった。調べようにも、調べられない、というのが正しいのだ。
町の中には職分に分かれた組合がいくつもあって、先祖代々いがみあっている。パン屋組合と肉屋組合の争いはほぼ神の定めた運命という感じで、劇の演目になるほどだ。名誉と実益が絡む争いが激化して、流血沙汰に発展することだって珍しくない。
そういうわけで、生まれたころからの知り合いで、ご先祖様の時代から争いあっている町の人間であるからこそ、町のすべての状況を俯瞰するのが難しいのだ。
しかし、ラウドが宿屋組合を名指しで批判したということは、町での商いが目詰まりを起こしているのは、組合同士のいがみ合いから来るものなのだろうか?
ロレンスがそんなふうに考えを巡らせていると、ラウドがはたと言った。
「そうか、そうだ、あんたらに頼みがある」
見やれば、ラウドが執務机の上に身を乗り出していた。
「あんたらが代わりに、あの憎き宿屋組合を締め上げてくれんか?」
「え?」
エルサの戸惑いがちな一言など聞こえなかったかのように、ラウドは笑顔で素早くエルサの手を取った。
「そうだ、それがいい! あんたらは町の外、それもヴァランには増援でやって来た坊さんだと言ってたな? 宿屋組合の連中は、わしらと関係のあるものは犬の尻尾だって憎んでやまないからまともに話し合いなどできんし、一切合切耳を貸さんが、あんたらの言うことなら聞くかもしれん!」
ホロがもぞりと身じろぎしたのは、犬の尻尾のくだりのせいだろう。
「むしろあんたらの権威を使って連中を牢獄にぶち込んでくれたってかまわない! あんたらもいわば自分たちへの支払いを催促できるわけだし、一石二鳥だ、そうだ、そうしよう!」
「えっ、ちょっと、あの」
「ハンス! この方たちにわしらの取り立て用の証文をお渡ししろ! 連中の尻の毛までむしってもらおうではないか!」
さしものエルサもラウドの強引なことの運びに翻弄されて、あっという間にハンスと呼ばれた商会の幹部らしき男から羊皮紙の束を押し付けられていた。
エルサがそれをつき返せなかったのは、ハンスの死んだような目つきのせいかもしれない。それを突き返したら、その重みでハンスの心が折れてしまいそうだった。
「さあ、これでヴァラン司教領の話は一件落着だ! ああ、神に栄光あれ!」
サロニアで葡萄酒の取引を扱うラウド商会は、なかなかのやり手なのだった。
証文を押し付けられ、体よく厄介払いされたエルサは、ラウド商会から外に出てもなお呆気にとられていた。
「ぬしがやり込められるとは意外じゃな」
エルサにやり込められることの多いホロは、不思議そうでさえあった。ラウドにやり込められたエルサにやり込められるホロの尻に敷かれるロレンスとしては、少し笑ってしまう。
「まるで鼠の嫁入りだ」
「む?」
「ある鼠の親子は、娘の婿には強い者を選ぼうと言った」
ロレンスの言葉に、羊皮紙を手に途方に暮れていたエルサも顔を上げた。
「そこで猫に婿にならないかと持ち掛けたら、猫は自分の尻をいつもひっぱたく屋敷の下男のほうが強いと言った」
「ふむ」
「ならばということで、薪割をして休憩していた下男の元に行き、うちの娘の婿にならないかと鼠の親子が話しかけたら、うちの旦那様のほうが全然強いと言ってきた。そこで鹿狩りから帰って来た屋敷の主人に話を持ち掛けたら、なにを言う、私がどれだけお前らの被害に悩まされているか知らないのか、いい加減にしろ! と怒鳴られた」
「ほほう」
楽しげな様子のホロに向かい、エルサが調子を取り戻したようでこう言った。
「こうして鼠の親子は巣に戻り、結局鼠から婿を取りました、というお話ですね。うちの子も好きな話です」
ホロはけらけらと笑ってから、胸元や腰回りを手で探し、羽ペンも紙も宿に置いてきたことを思い出したらしい。
「あとでまた聞かせてくりゃれ」
ロレンスは肩をすくめつつ、ホロが喜んでくれたことに満足だった。
「人の世は輪っかになってつながっている……と言われても、今まさにいいようにしてやられた私には、なんの慰めにもなりませんけれど」
ラウドから羊皮紙を押し付けられたエルサは、やや恨みがましく言う。
「ですがエルサさんがそれを回収できれば、問題は解決しますよね」
羊皮紙を見せてもらうと、結構な金額が記されている。
「私たちへの支払いには若干足りませんが……それより、彼はこれで借金を返したつもりなのでしょうか?」
「まあ……これも貨幣の代わりと言ったらそうですからね。問題は、この証文では貨幣のように気軽に麦や肉を買えないことですが」
「それでは意味がありません」
エルサは答え、しばしあらぬ方向を見て黙考する。周囲にはどうしたものかと手をこまねいている司教や村長、それに主司祭たちがいる。
と、エルサはいつもの厳しい目つきになると、こう言った。
「私はこれから教会に行ってきます。ロレンスさんはこれの取り立てをお願いできませんか? もしも何事もなく回収できるのならば、それに越したことはありませんし」
「取り立ては構いませんけど……教会に?」
謹厳実直にして信仰の塊といったエルサが、羊皮紙をロレンスに手渡すと蓮っ葉な娘のように肩をすくめてみせた。
「ラウド商会が困っているのは事実のようですが……どうも納得いきませんから」
聖典の中で助けを求める者はいつだって、真摯に膝をつき、乞い願うものだ。
決して相手がひるんだ隙に証文を握らせて追い出すような輩ではない。
「牢に放り込まれたという商人と、こちらの教会の人間に、町の話を聞きに行ってきます」
ラウド商会は厄介な人物に疑念を持たせてしまったようだ。エルサは損得ではなく、原理原則で動く。
「なにか決断する前には、ぜひ商人としての私にご相談ください」
エルサが眉をひそめた理由は、すぐにわかった。
「私は狂信の異端審問官ではありません」
教会の名の下にラウド商会の主人を絞り上げれば、町に大変な騒ぎを引き起こすことになる、とは一応理解しているらしい。
「わかりました。では、私は先に正攻法で試してみます」
「お願いします。この町の出来事は、まるでおかしな騙し絵ですから」
エルサは辟易したように言った。
ロレンスは手元の羊皮紙を仰ぎ、埃っぽい匂いに口の端を曲げたのだった。
★2019年10月10日更新の『狼と尻尾の輪舞≪第四部≫ 』に続く。
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