※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2019年8月号掲載を抜粋したものです。


 ヴァラン司教領からは、上背の高い壮年の村人が一人、ついてきた。

 ロレンスはラウドから押し付けられた証文を手にしているので、持ち逃げしないようにという監視だろう。村長やらだと宿屋組合に顔が割れているので、普段は荷の積み出しを手伝うくらいで、あまりサロニアにやって来ない者が選ばれたらしい。

「あっしはどうしていれば?」

「そうですね……では、用心棒のふりをお願いします」

 村では鋤を持ち、藁束を抱えているのだろう。日に焼けた精悍な顔つきと盛り上がった肩の筋肉は、黙っていれば長い傭兵家業から足を洗ったばかりの者にも見える。

「じっとしてればいいんですかね。農作業はともかく、喧嘩はからっきしですよ」

「それで充分です。しかめっ面でお願いします」

 ロレンスが言うと、無精ひげをぞりぞりと撫でた男はふんと鼻を鳴らしていた。

 宿屋組合に向かう道すがら、後ろについて来る男をホロはちらちら気にしていたが、こっそりとロレンスに「なかなか良い麦の匂いがする」と耳打ちしてきた。

 それだけで機嫌がよくなっているようなので、これからご機嫌斜めの時は麦穂の匂いでも嗅がせようかと思っていたところ、宿屋組合に到着した。

「今やこやつらはぬしの仲間じゃな」

 サロニアの宿屋組合の紋章はジョッキとナイフのようで、その二つが交差する鉄製の看板がぶら下げられていた。

「俺は今でも商人のつもりだし、ニョッヒラの湯屋はどちらかというと商会だよ」

「ふうん? まだまだ若いと言い張る老人みたいな口ぶりじゃ」

 ホロの軽口にロレンスは肩をすくめたが、次に続いた言葉にはやや目を見開く。

「じゃが、わっちはぬしの隣におらんほうがよさそうじゃな」

 ロレンスが首をかしげると、ホロは呆れた顔を見せた。

「たわけ。前に起こったことを忘れたのかや」

「前に?」

 聞き返すと、ホロは嫌そうに顔をしかめた。

「ぬしが大損して、金を貸してほしいと巡ったときの話じゃ」

 ホロと知り合って程ないころ、武具の取引の罠にはまり、資金繰りに窮したことがあった。

 それで少しでもいいから金を借りられないかと、あちこちの店を回った。周囲を見回す余裕もなく、ホロを連れたまま金策に駆けずり回り、女連れで金の無心とは馬鹿にしているのか、と怒鳴られた。

「あの時ぬしに払われた右手の痛み、わっちゃあ忘れたわけではありんせん」

 お前さえいなければ、と八つ当たりをしてしまった。

 ホロは恨めし気に、赤みがかった琥珀色の瞳でロレンスを見上げてくる。

 できれば思い出したくない、苦い過去だ。

「あの時のことを思い出すと今でも背中に嫌な汗をかくが、俺もあの時のままじゃない。まあ、見てろ」

 ロレンスの言葉にホロは訝しげな眼をしつつ、肩をすくめて口をつぐむ。

 ロレンスはひとつ大きく息を吸って頭を切り替えると、宿屋組合の扉を開けた。

 一階は組合員が集まり会議をしたり飲み食いをしたりする、酒場に似た空間になっている。

 今もテーブルにはちらほらと人がいて、浮かない顔で酒を飲んでいた。

「私はクラフト・ロレンスと申します。組合長さんはいらっしゃいますか」

 ロレンスが名乗りを上げると、その場にいた者全員が胡散臭そうな顔をしたが、奥に座っていた太鼓腹の一人が立ち上がった。

「私が組合長だが、なんの用件かね」

「これはこれは」

 ロレンスはわざとらしいくらい慇懃に頭を下げてから、咳ばらいを挟んで、言った。

「お忙しいところ恐縮ですが、ラウド商会から証文を預かってまいりまして」

 斜め後ろからホロの胡乱気な視線を感じたし、その場の空気が一気に硬くなった。

 しかしロレンスは怯むこともなく、微笑んだまま宿屋の組合長を見つめ返していた。

 水を打ったような沈黙が続く中、やがて組合長の苦笑が漏れた。

「こいつあ間抜けな商人さんだ。あの古狐に一杯食わされたな?」

「そうですかね」

 泰然としたままのロレンスに、組合長が笑顔を消して鼻白む。

「悪いことは言わん。その証文とやらを持ってとっとと帰りな。ラウド商会からなにを聞かされたかは知らないがね」

 わざわざ険悪な空気にしおってどうするつもりじゃ、とホロからの視線を受け流してロレンスは言った。

「いえ、話はまさにそんな感じでしてね」

「んん?」

「私は証文を押し付けられた口なんです。すごい手際でした。ですから……突き返す口実が欲しいのです」

 卑屈な笑みを見せると、組合長は目をぱちくりとさせてから、他の組合員と目配せしていた。

「なんだ……そうなのか?」

「ええ。農産物の売り掛けが焦げ付きそうでラウド商会に乗りこんだら、これを押し付けられた挙句、追い出されました」

 まだその目には胡散臭げな色が残っていたが、組合長がロレンスの近くにいた組合員に顎をしゃくって見せると、組合員は椅子から立ち上がって、ロレンスの手にしていた羊皮紙をひったくるように受け取った。

「……確かにラウド商会の証文だ。あの強欲爺め。けったくそ悪い」

 悪態をつきながら、証文をロレンスの胸に乱暴に押し付けてくる。

 後ろに控えている用心棒のふりをした村人が身じろぎし、隣ではホロが口の中で牙を噛み合わせていたが、ロレンスはこんなことでいちいち怒りはしない。

「それで、いかがでしょう? 宿屋組合として支払えない理由をお聞きできればと」

 約束を守れずにいて平気な者などそうそういないし、なぜお前らは借りた物を返せない無能なのだとよそ者からいきなり聞かれたら、普通ならたたき出されるところだ。

 しかしロレンスがあまりに堂々と、真正面から来たせいだろう。

 組合の名誉と利益を守る組合長は、テーブルに手をつくと大きなため息をついて、言った。

「理由を聞いたら、その証文はラウド商会に突き返すんだな?」

「理由によります」

 たちまち組合員たちの眉が吊り上がり、何人かが立ち上がった。そこを組合長が手で制す。

「やめろ。呑気に女連れで来てるんだ。こっちにも理があるってわかってるんだ。そうだろ?」

 ロレンスが無言でほほ笑むと、組合長はばりばりと頭を掻いた。こういうやり取りは慣れていないのか、ホロはきょとんとするばかり。以前はホロがいたせいで、不真面目だと怒鳴られたが、今はその不真面目さが有利に働いている。

「ラウド商会はもちろん、他の商会にも説明してるがな……支払えないんだよ」

「証拠を見せてもらっても?」

 おい、お前、と何人かが声を上げたが、組合長は唇をひん曲げた後、帳簿台に歩み寄って、分厚い紙束を取り出した。

「うちの組合は内部で注文を受けて、組合として各商会に注文を出す形式だ。わかるか」

「色々な町を見てきました。わかります」

 野放しにしておけば資金力のあるところが買い占めをするかもしれない。葡萄酒も肉もパンもない宿屋は、たとえベッドが奇麗でも客が入らないので、宿屋同士の争いをなくすため、注文を組合が取り仕切っているのだ。

 ついでに組合が注文をまとめていれば、仕入れ先に強い圧力を持つこともできる。

「ラウド商会への支払いは……まあ、このとおり、あんたの持ってる証文と一致している」

「ですね」

「そして……これが支払いの滞っている者たちの一覧だ」

「く、組合長!」

 何人かが思わず叫ぶ。そこには宿の名前がずらりと紙に記され、数字がびっしり記載されている。組合を通じて仕入れを行ったにも拘らず、その代金を支払っていない者たちだ。

「一時の恥で支払いが猶予されるなら、恥をかけ。それとも、この商人さんが証文を手に教会に駆け込むところを見たいのか?」

 ラウドは同じサロニアの町の中で商売をする商会だが、ロレンスは明らかによそ者だ。祖父の代からの付き合いがあるラウド商会ならば、いがみ合ってはいても、なんだかんだ同じ町の人間として、最後の一線を越えるようなことは絶対にしない。だが、よそ者ならば後先考えず、頼れる権威に頼ってしまうことが十分にある。

 そして同じ理屈は、長年いがみ合っているラウドには見せられない組合の恥も、よそものになら見せられる、ということを可能にする。

「……結構な金額ですが、この方たちの支払いが滞っている理由をお聞きしても? なにせ、宿はどこも大繁盛ですから」

 組合長はぱたんと帳簿を閉じ、億劫そうに言った。

「見たところ行商人か? 宿を使う側であるあんたにはわからないかもしれないが、宿の商いもなかなかに辛いものでな」

 ニョッヒラで湯屋を経営しているとは言えず、ロレンスは神妙な様子でうなずく。

「ここみたいな町では、客はほとんどが常連の商人だ。この町にやって来て前回の大市の清算をしたり、買い付けをするために長いこと宿泊し、情報収集のために仲間とよく飲み食いする。つまりは安定して部屋を埋めてくれる上客なわけだが、上客ゆえに厄介なところもあってな」

「後払いですか?」

 ロレンスの言葉に、組合長は肩をすくめた。

「いかにも。散々飲み食いもするが、全部つけ払いだ。とはいえ、すべてをつけにしたら到底回らないから、大体が大市の中日で一度清算するのがならわしだ」

 ここまで言われたら、なにが言いたいかはわかる。

「その支払いが滞っている?」

「ああ。今年は特に遅滞が多いし、その連中が支払いをできない理由というのが……」

「別の誰かが支払いをしてくれないからだ……と」

 組合長がうなずくと、組合員、つまり宿の主人の幾人かがロレンスの周りに集まってくる。

 用心棒の振りを頼んだ村人が、本物の用心棒よろしく警戒するし、ホロも喉の奥でうなり始めた。しかし彼らはロレンスに詰め寄ると、暴力ではなく口々に不満を言い始めた。

「俺たちだって支払いはしたい。ラウドの爺やら商会の連中にでかい態度を取られたら我らの恥だ! だが、特に今年は支払いを待ってくれと泣きつく者が多くて難儀してるんだ」

「そうだそうだ。特に今年はあれだ、木材を扱う商人の奴らがひどくてなあ。運んできた木材を売っても売った先の連中が支払いをしないから待ってくれなんて言いやがる。木材の値上がりでたっぷり儲けてるはずなのに、まるで被害者面だ!」

 木材の値上がりは知っている。それのおかげ、といってはなんだが、あの呪われた山が高値で売れたのもそれが理由だ。

「まあ、最も目立つのがそれってだけで、数え上げたらほとんどの商人が、支払いをちょっと待ってくれって泣きついてるんだ。連中は来年も、再来年も、下手をすれば弟子の代に渡って泊ってくれる。泣きつかれたら待たざるを得ん。だが、連中は飯を食うし酒も飲む。うちはうちが生き残るために仕入れをしなければならん。実際、パン屋や肉屋にも支払いが滞っているが、内実を理解しない馬鹿な商会の連中が、まるでうちが悪の巣窟みたいに言いやがるんだ」

 その場にいる皆が賛同する。

 ロレンスがちらりとホロを見ると、ホロは面白くもなさそうに肩を上下させた。どうやら彼らは言い逃れのための、いい加減なことを言っているわけではないらしい。

「皆さんの苦境、大変よく理解できました」

 ロレンスは言って、ラウド商会の証文を胸に収めた。

「それに、組合長さんには胸襟を開いてもらいましたし」

 帳簿を見せるだなんてよっぽどだ。ロレンスが来る前に散々あれこれ詰め寄られて、言い訳も面倒だという気分だったのかもしれない。

「いや、話を理解してくれて嬉しいよ」

 組合長は手を差し出し、ロレンスはしっかりと握る。それを見て、他の組合員も文句を言ってすっきりしたのか、握手を求めてくる。現金払いならぜひうちの宿へ、なんて声も出て苦笑が漏れ出ていた。彼らはごろつきでも、悪人でもない。支払いが苦しい者には慈悲を見せ、自らが支払いをできなければ責任を感じている、普通の町の住人たち。

 ジョッキとナイフがあしらわれた看板のぶら下がる軒先に出て、ロレンスは小さくため息をついた。

「で、どうするんじゃ?」

 ホロの問いにロレンスは答えず、村人のほうを見た。

「“干し草と鎌亭”という宿屋がどこにあるかご存知ですか?」

 村人はきょとんとして、「サロニアで一番大きな宿だから」と答える。

「案内してください。あの帳簿の中で、一番未払いが多かったです」

 ホロと村人は揃って意外そうな顔をした。

「ここの連中が嘘をついているかと確かめに行くのかや?」

 呆れたような、やや怒ったような言い方なのは、自分の耳を信じないのか、ということだろう。宿屋組合の者たちは嘘を言っていなかった。本当につけを支払わない客たちのせいで、仕入れ先である商会に支払いをできないのだ。

「嘘を確かめに行くんじゃない。真実の中身を見に行くんだよ」

「ん、む?」

 怪訝そうな顔をするホロの肩をぽんと叩き、村人に案内を乞う。

 商いはすべてが糸でつながっている。

 ならば辿って行った先がすべての元凶のはずなのだから、ここまで来たら見に行くべきだ。

「さて、本当に悪魔がいるのかどうか」

 大元で支払いを拒んでいる吝嗇の誰か。ロレンスたちはにぎやかな町の中を歩いて“干し草と鎌亭”に赴き、たむろしていた商人に声をかけた。一人目と二人目は外れたが、三人目で目当ての商人にたどり着いた。

「……本当に? 本当にお前らは、教会の代理じゃないんだろうな?」

 警戒心丸出しなのは、木材商人だ。ロレンスは、デバウ商会が近隣の山を買ったのだが、木材の値段を調べているという口実で話しかけた。そこはさすが木材商人で、ヴァラン司教領の山だろうと感付いたらしい。すると連想するのは、教会から借金の罪を断罪され、牢に放り込まれた哀れな商人の話だ。

 ロレンスは「神に誓って」と商人の笑顔で言って、話を聞いた。

 木材商人は宿屋組合やラウド商会と全く同じく、不機嫌そうに取引先の文句を滔々と述べた。

 どうやら木材を取り扱う商会に売却したが、まともに支払ってくれていないらしい。デバウ商会の怒りを買いたくないなのなら、この町の商会に木材を売るのはやめておくんだな、とまで言っていた。

 宿に滞在している出入りの商人は、木材商人に限らず似たり寄ったりのようで、羊毛商人や油商人、鰊の燻製を専門に取り扱う商人も困り果てているとのことだった。

 ロレンスは礼を言って彼に葡萄酒を一杯おごる。

 ホロと村人は、次はどこに? と言わなかった。

 心得た様子の村人は「こっちだ」と道案内し、木材を取り扱う商会に赴いた。

 木の香りが漂う天井の高い荷揚げ場では、また文句を滔々と聞かされた。

「職人だ! すべては連中の怠惰が原因だ! 材料を仕入れるだけ仕入れて、自分たちは製品を作らずにその値上がりを待ってやがるんだ! 向こうが苦しい時、今までどれだけうちが原料を先貸ししてやったと思ってるんだ! まったく恩知らずが! それで、お前はどっちの味方なんだ? んん!?」

 詰め寄られるところを村人に助けられ、這う這うの体で商会を後にする。

「じゃあ次は職人だ」

と言うロレンスにホロはげんなりとしたが、ロレンスはもちろん足を止めなかった。

 それに、職人組合は今までのようなところとは毛色が違うので、木工職人の組合会館までやって来たところで、ホロには離れているようにと言っておいた。

「馬鹿野郎! うちの職人たちがそんなことするわけないだろうが! ぶん殴られてえのか!」

 胸ぐらを掴まれ、屈強で短気そうな親方たちにも詰め寄られ、壁に押し付けられた。

 見張りの村人が助けようとしてくれたが、多勢に無勢だし職人の親方たちは揃いも揃ってがたいがいい。

「うちの職人たちはきっちり一流の品を納品してるんだ! それに支払いをしない連中の味方をするってんなら、ただじゃおかねえぞ!」

 散々小突かれ、脅され、なんとか解放されてホロと合流すれば、なにがあったかはもちろん一目でばれる。ホロは胡乱な目で職人組合の建物を見て牙を噛み合わせていたが、むしろ優しく解放してくれたほうだろう。ロレンスはホロの両肩を落ち着かせるように軽く叩き、笑ってみせた。

「親方たちの苛々も本物だな。ついでにあっちの職人街を覗き込めば明らかだ。工房からは職人歌が聞こえ、木を打つ音が聞こえてくる。仕事を怠けてるわけじゃない」

「そうかもしれぬが……」

 よれた服を直すロレンスを前に、ホロが悔し気に呻いている。

「それより、一体誰が悪者なんですかい?」

 寡黙そうな村人が、辟易したように言った。

 無限に続く取引の連鎖。

 次に向かうところがたとえば刀剣職人組合だとしたら、片耳くらい削がれるかもしれない。

「少なくとも、木工職人に支払いをしていない連中がいます」

 村人はため息をつきつつ、諦めたように頭を掻く。ホロはロレンスがあっちこっちで罵声を浴びせられることそのものが気に食わないようで、不満げな顔だ。

 しかし、ロレンスには少し予感みたいなものがあった。

 誰も彼もが仕事をこなしているのに、その対価を支払ってもらえていないのならば……。

 取引というのは長い連鎖によって成立するものであり、どこかで誰かが流れを止めているはずだと考えるのが自然だ。

 そして、無限の広さに感じられる商いの世界も、本当に無限なわけではない。

 経験と知識が、ロレンスの魂に囁くのだ。

 今、自分は分かれ道に立っている。

 正しい道に辿り着く分岐点が目の前にある。

 それがなにかはっきりわからないが、間違いなく自分の中に答えがある。

「……ぬしよ?」

 立ち尽くすロレンスに、ホロが不安そうに声をかけてくる。

 赤みがかった琥珀色の瞳は、勝気にも、弱気にも、不安そうにも、優しそうにも色味を変える。変幻自在の狼の目。

 ロレンスはホロの目に、天啓を得た。

「ああ、そうか、そういうことか」

 商いは一続きの糸のよう。

 雑多に見える町の中には、目に見えない秩序がある。

「この行脚も、次の次で終わりです」

 村人とホロは、ロレンスが季節外れの日射病にでもやられたのかというような顔をしていた。

 しかし、ロレンスの中にはもはや強い確信がある。

 手掛かりは、町の中でホロといつも一緒にあるものの記憶だ。

「次はですね……」

 ロレンスは村人に耳打ちし、案内をしてもらう。

 そして、そこでは誰が悪者なのか、とは聞かなかった。悪者はあいつですよね、と確認するだけだった。ホロと村人の二人もまた、その建物の前に立った時点で答えに気が付いていた。

 ホロなどは外套の下で、明らかに怒りに尻尾を膨らませていた。

 木工職人組合の次に向かったのは、数ある木工品の中でも最重要にして、需要の高い商品である樽を必要とするところ。醸造組合だった。樽に詰めるものがなにかと言えば、酒である。

 ではその醸造組合が樽の代金も支払えないとなったら、悪いのは誰か?

 酒を取り扱う商会だ。

「あの禿げ頭が、わっちらをたばかっておったのじゃな」

 ラウド商会の前に立ち、ホロが赤い目を輝かせている。

 村人などは、見事な芸を見せられて感心するかのように頭を掻いている。

 支払いをされないせいで困っているが、それをひとつずつ辿って行ったら、出発点に戻って来た。

 ならば悪い奴は誰なのかとはっきりしている。

 鼠の親子は婿を探し、結局自分の巣に戻って来たのだから。

「と言いたいところだが、果たして」

 ロレンスが煮え切らないように言うと、ホロが一瞬呆気にとられた顔を見せた。

「なにを言っておるんじゃ。ぬしは狐の足跡を追いかけて、尻尾を捕まえたではないか」

 村人もうなずいている。二人の頭の中では、お前の悪事はお見通しだ、とロレンスが商会に飛び込んでラウドを絞り上げる様が展開されているのかもしれない。

 だが、そう簡単に話は進まない。

「ラウド商会が悪者に見えるのは、単に自分たちの出発点がここだったからだ。俺たちが木材商人で、木工職人組合に怒鳴り込んでいたとしたら、どう考える?」

「う、む」

 今までめぐって来た各地を想像し、最後にまた自分のところに戻ってくるところを想像したのだろう。

 取引は円環になっていて、どこが始点とも知れない。

「な、なんじゃ、これは……どういうことなんじゃ?」

「まるで自分の尾を食べる蛇ですな」

 村人の表現が的確だった。

「じ、じゃあ、どうするんじゃ? あの禿げ頭にいいようにされたままかや」

 ホロはすっかりエルサの味方のようだ。

 それに、これはラウドの元に怒鳴り込んで証拠を突きつければ済む話ではない。

「まあ、元行商人の俺だけの力じゃどうしようもないことだな」

 状況は把握した。

 けれども打つ手がない。

 少なくとも、元行商人には。

 ロレンスは殊更無力感を示すように肩を落として見せたが、対策案はすでに頭にあった。

 元行商人は短いような長いような旅を経て、たくさんの冒険から得難い財産を築いてきたからだ。それを使えばこの不思議な階段の絵を逆回転させ、解きほぐすことができる。

 さて、そろそろ種明かしをしてやろう、とロレンスがホロを見やった時のこと。

 ロレンスは凍り付いた。

 ホロが立ち尽くしたまま、涙をこぼしていたからだ。

「は? あ、えっ?」

 手で拭うこともなく、ホロは目を開けたまま、ほとんど無表情に涙だけをぽろぽろとこぼしていた。

 感情をうかがわせるのは、少し噛み締められた唇だけ。悔し気に噛み締められた、形の良い唇だった。

「お、おい、ホロ」

 慌てたロレンスはホロを抱えるように肩に手を回したが、ホロはやっぱりただ泣くだけだ。

 村人も慌てていたが、周囲を見回すと、ラウド商会の脇に路地を見つけ、そこを指さして教えてくれた。

 ロレンスは目礼をするだけして、ホロを抱えて人目のない静かな路地に連れて行った。

「おい、なんだ、どうしたんだ」

 手近な場所にあった木箱に座らせようとしたが、ホロはそれを拒み、首を横に振った。

 戸惑うロレンスはどうしようもなく、自分に取れる限りの行動をとった。

 つまりはホロをゆっくりと、刺激しないように両腕で抱きしめる。

 身を縮めて泣いているホロの体は、こんなに小さかったのかと驚くくらいだった。

「……すまぬ」

 と、ホロがロレンスの腕の中で言った。

「いや……別に謝る必要は――」

「違う」

 ホロは腕の中で首を横に振り、ぐっとロレンスの胸を押して体を離した。

 それはロレンスを拒絶したのではない。

 ホロが自責の念から、そうしているのがロレンスにはわかった。

「違うんじゃ……」

 ぐすぐすとなおも泣くホロはそう言った。ロレンスはホロが泣く理由に皆目見当がつかず途方に暮れる。それでも、これまでホロの手を握って長い時間様々なところを巡ってきたロレンスには、ホロの顔を見れば、理屈ではなく、感情として、どうすればいいのかはわかる。

 娘のミューリと違って、あまりに長い時を独りで生きてきたホロは、物憂げな暗闇に捕らわれることがある。ホロはなぜかホロ自身を責めていた。

 ロレンスはホロのことを少し過剰なくらいの力で抱きしめ直してから、両肩を掴んで目を覗き込む。

「話してくれるな?」

 涙に濡れた赤い瞳は、幼子のようにも見える。それはロレンスにだけ見せてくれる、ホロの弱みだ。

ホロはゆっくりとうなずき、ロレンスに促されて木箱に座ると、言った。

「兎に……ぐすっ、会いに……行ったじゃろう?」

 あまりに意外なことに面食らったが、兎がヒルデのことだろうとは分かった。

「ヒルデさんに? それは……デバウ商会に行った話、のことだよな?」

 ホロはうなずき、また涙が膝に落ちる。

「あやつらは……すごかった。大きな……大きな商会じゃった」

 デバウ商会は北の地の商いをほぼ支配し、独自の貨幣まで打ち出している。地理的な要因から大きな国が存在しない北の地では、事実上最強の支配者と言っていい。そのデバウ商会の本店となれば、今や城になっていたってロレンスは驚かない。

「あらゆる物があって……金貨が文字通り山積みじゃった……。あの兎はわっちの話を聞くや、賢そうな連中をすぐに呼び寄せて、あっという間に判断した」

 優秀な者たちがいくらでもいるのだろうし、忙しいから一つの案件に時間をかけられないのだろう。とはいえ、そうなるとホロが四日も留守にしていた理由が気になってくる。

 本当に酒と肉をせびって、飲み食いしていたのだろうか?

「わっちゃあ呆気にとられてしまった……あの栗鼠が大事にしておったのは大きな山じゃ。そんな山の話を、ほんの一時で決めてしまった。ほんの一瞬なんじゃ。あの栗鼠のたわけが心の底から大事にしている、広い、広い良い山じゃ。それを、兎はまばたきの数回分で売り買いを決めてしまったんじゃ……」

 デバウ商会でホロがどんな衝撃に見舞われたか、ロレンスは容易に想像がついた。ヒルデのような大商人は、命より重い金貨を日々扱っていて、商いに通じるロレンスでさえ別世界の話だと思うのだから、ホロにはなおのこと衝撃だったのだろう。

 けれど、奇妙なのはホロがそれに驚きこそすれ、なぜ泣き出すのかということだった。ましてや、こんな時に。ロレンスが不思議に思っていると、ホロは暗闇の中で支えを探すかのように、ロレンスの手を握ってきた。

 そして、強く握りしめた。

「ぬしは……ぬしは、あの場におったかもしれぬ」

「……え?」

 呆気にとられたロレンスが聞き返すと、ホロが顔を上げて、ロレンスを見た。後悔に満ちた顔だった。

「ぬしは兎に誘われたはずじゃ。あの商会に来いと」

 あ、という形に口が動き、ロレンスはホロの瞳の奥になにがあるのか理解した。

 デバウ商会が分裂の危機に陥ったとき、ロレンスはヒルデの味方に付いて、彼らが復活する一助となった。その時、ヒルデはロレンスを生まれ変わろうとするデバウ商会に誘ってくれた。

 それをロレンスは断った。商人としてそれ以上妄想することすら不可能なほどの出世の道を。

 金に困った司教領が帳簿に強い女聖職者を呼び寄せ、栗鼠の化身がせっせと植樹をしていた大切な山の処遇を考えあぐねていた。栗鼠のターニャのために山を買う決断を、ふむ、とうなずきひとつで決裁したその羽ペンを、ロレンスが握っていたとしてもおかしくはなかった。

 それはなぜかと言えば、エルサが司祭たちを叱り飛ばしたときの話だ。

 損と得を天秤にかけたとして、得を選ぶのはなんのためか。

 そしてロレンスは黄金の道ではなく、森に降り積もった落ち葉の道を選んだのだ。

 その森の香りと、そこに住む狼のために。

「わっちは……ぬしの道を閉ざしてしまったのじゃと理解した。あんなにもすごい……あんなにも賑やかな商いの場で大勢の群れを率いているぬしがいるはずじゃったのに、わっちは……」

 落ち着きかけていた涙がまた溢れたところを、ロレンスはホロの頬に口づけをしてみせた。

「塩っ辛い涙だ」

 ロレンスは言って、笑う。

「もしも俺がデバウ商会に行って偉くなってたら、今頃お前の涙は酒の味がしたかもな」

 金は無限にある。だが、時間は無限にない。デバウ商会のような場所に行けば、千羽のキツツキと暮らすようなものだ。安眠の日など訪れまい。

 なにをするでもなく暖炉の火を眺めながら、ホロを膝の上に抱いてぼうっとするようなことはまずできない。森の木々の色付きから季節の移り変わりを楽しんで、春は山菜、夏は茸、秋は木の実を取りに森に入ることなんてできないだろう。

 代わりにデバウ商会では夕食の長テーブルに美食の限りの食材が並ぶだろうが、それが楽しいのは最初だけだろう。

 だが、ホロとの繰り返しの生活に飽きることなど絶対にない。

 ロレンスは自分の選択を微塵も悔いていない。だからホロがなぜ四日間もデバウ商会にいて、先刻感情の堰が崩れてしまったのか、わからなかったのだ。

 今ならば、エルサが手にしている為替証書の金額に、ロレンスが子供みたいなわくわくした様子を見せたときに機嫌が悪かったのも、理由がわかる。そしてラウド商会とこの町の奇妙な構図を前に、一介の行商人には手出しなどできない、と言ったあの時につながってくる。

 ロレンスから可能性を奪ってしまったのはほかならぬ自分だと、ホロはそう思ったのだ。

「賢狼なんて二つ名は、返上したらどうだ?」

 ホロの頭を抱きかかえるようにして苦笑交じりに言うと、ホロがロレンスの手に爪を立ててくる。

「俺がどれだけ幸せか、理解できないんだから」

 ホロは体を硬くして、また泣き出しそうに息をひゅっと吸う。

 ロレンスはホロの頭をガシガシと撫でて、頭をこつんとぶつけ合わせた。

「それに、さっき俺がなにを言いかけていたか、知りたくないか?」

「……?」

 ホロがロレンスのことを見る。

 一人麦畑に置いて行かれた幼子のように、ロレンスを見た。

「一介の元行商人には太刀打ちできないが、俺には冒険を経て得てきた財産がある」

 にやりと笑って見せたのは強がりではない。

 ロレンス自身、楽しみでしょうがない計画が頭にある。

「お前と辿って来た冒険だ。その果てに俺はいて、お前といる。これからすることは、お前の手を取ったからこそ、できることだ」

 ロレンスは立ちあがり、ホロの前に立つ。

「それに商いってのはな、大きければそれだけ面白いってわけじゃない」

 ホロに手を伸ばすと、ホロは一瞬ためらったが、ロレンスの手を握ってきた。

「商いの魔法を見せてやる。せいぜい、俺のことを見直すんだな」

 それから悪戯っぽくホロの頬を指でつついてやれば、ようやくホロは歪にでも笑った。

「たわけ」

 ロレンスは笑い、ホロの手を引いて歩きだす。

 律義に離れた場所で待ってくれていた村人を捕まえ、ロレンスはあれこれと計画を伝えた。

 司教や村長など、司教領の財産に決定権を持つ者たちを、教会に呼ぶように。

 村人は困惑しつつも、町の取引の謎を炙りだしてみせたロレンスの言におとなしく従った。

 そして、ロレンスはホロの手を引いて町の中心部に向かう。

 そこにあるのは立派な教会であり、そこには古い知り合いのエルサがいる。

 ロレンスが知る限りの、最強の女司祭。

「……二人の仲の良さの秘訣をお聞きしても?」

 珍しくエルサがそんな冗談を口にする。

 多分そう言いたくなるくらい、ホロとロレンスは固く手を握り合っていたのだ。

「あなたが結婚式に立ち会ってくれたからですよ」

 エルサは呆れたように笑ってから、ロレンスが教会にやって来た用件を聞いた。

 みるみるうちに顔つきを変え、聖典と並んで置かれていた、サロニアの法典を手に取った。

 エルサがサロニアの司教と、この町の困難に教会の権威はどのように役立つのかと、あれこれ話していたらしい。

 そこにロレンスの商いの知識と経験が混ぜ合わされる。

「……理屈はわかりましたが、本当にうまくいくのですか?」

 エルサの問いは、司教の問いでもあるだろう。町の経済に良かれと思って商人を捕まえたら、町はますます混迷を深めてしまった。

 だが、ロレンスには絶対の自信がある。

 エルサが協力してくれたら、間違いなく解決する。

「信用してください。この町に足りないのは、まさにそれなのですから」

 遅れてやって来たヴァラン司教領の人間たちもきょとんとしていた。

 それでもこのまま座視していても事態がよくなるとは到底思えない。

 エルサは決断した。

「信用しましょう」

 エルサと握手をしようとしたが、その手はホロに握られたままだったことを思い出す。

 ホロの手を離そうとしたが、ホロはそっぽを向いて離そうとしない。

「まさか横取りなんてしませんよ」

 エルサは呆れたように笑い、ホロがますます唇を尖らせる。

「では、行きましょうか」

 こんがらがったものを解きほぐしに。

 ロレンスたちが連れ立って教会の外に出る。

 空は奇麗な秋の空だった。



★2019年11月8日更新の『狼と尻尾の輪舞≪第五部≫ 』に続く。
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