※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2020年2月号掲載の前半を抜粋したものです。
温泉郷ニョッヒラといえば冬の逗留だが、夏は夏で人気がある。
山奥に位置するのでそもそも涼しい気候だし、熱い湯に浸かった後は、冬の間に氷室に溜め込んだ雪でキンキンに冷やした麦酒や葡萄酒が飲めるとなれば、罪深い酒飲みたちには抗いがたい誘惑となる。とはいえ冬に比べたら人も少ないし、楽師や踊り子も夏の間はそれぞれの縄張りでの興行に忙しくて姿を見せない。おかげで夏のニョッヒラはそこそこ客がいて、ほどほどの賑やかさというとても良い季節となる。
湯屋“狼と香辛料亭”も、客たちが連れ立って泊りがけの釣りに出かけてしまったこともあり、朝から静かなものだった。
「くあ~……」
と、大きなあくびをしているのは、客たちを釣りに送り出すや、暖炉の前にお気に入りの敷物を敷いて、薄手の毛布を肩にかけて犬のように丸まっているホロだ。いつもは人目があるために窮屈そうに隠している狼の尻尾を、ご満悦な様子でぱたぱたとさせつつ、静かに寝息を立てている。暖炉の中では丁寧に灰をかぶせられた熾火が柔らかな温かさを湛え、涼しい夏のニョッヒラには絶妙な心地よさとなっている。もちろんホロの側には、目を覚ました時に舐める用の酒が置かれていた。
毎日を自堕落に楽しむことにかけては余念のないホロに、湯屋の主人であるロレンスは小さく笑ってしまう。ロレンスは開け放たれた木窓から外を眺め、細々とした仕事は明日でもいいか、と思い直す。ホロを見習い、この平和な時間を楽しむことにしよう、と。
そう思ってホロの側に腰掛け、綺麗な亜麻色の髪の毛と一緒に狼の耳を手で梳くようにすると、ホロは少しうるさそうに目を開けてから、ロレンスの膝に顔を乗せてくる。
そしてホロの尻尾がもう一度、満足げに揺れる。
こんな時間が永遠に続けばいい。
そう思った直後だった。
けたたましく宿の扉が開けられるのと同時に、少女の元気いっぱいな声が響き渡る。
「大変! 大変! すっごいお話聞いてきた!」
それからどたばたという足音に床が揺れ、少女はさらに大声で叫ぶ。
「兄様ー! どこー! にーいーさーまー!」
声の主は娘のミューリだ。ついこの間、その成長を祝っておめかしし、親しい人々を前にお披露目したばかりだというのに、相変わらずお転婆気質が抜けないのだった。
「……なんなんじゃあのたわけは……」
見た目こそ娘のミューリと瓜二つだが、御年数百歳のホロは、不機嫌そうにそう言った。
「すごい話を聞いてきたとか言ってたな。またなにか悪戯でも企ててるんじゃないのか?」
「それにしては、コル坊を呼んでおったな」
ロレンスとホロが出会い、旅をしていたころに知り合ったかつての少年コルは、今ではすっかり湯屋の屋台骨を支える大事な要員であり、今ではミューリに兄と慕われた本当の家族のようだった。
「悪戯するならコルの奴を呼ぶのはおかしいか……」
しかしあの慌てよう、とロレンスが嫌な予感に眉根を寄せていると、ホロが横着して寝転がったまま酒に手を伸ばす。
それから、不意に狼の耳を立てると嫌そうなため息をつく。その理由は、ほどなく判明した。
「母様! 父様! どこー!」
叱られてばかりのミューリが自分たちを呼ぶのは珍しいが、ろくなことではあるまいと、ホロのため息が重々しかった。
昼を前にして、ロレンスは肉の腸詰が詰まった袋と鍋、それに大きな麻袋を畳んで背中に括り付けていた。隣に立つコルはパンの詰まった袋と、奇妙なことに聖典を小脇に抱えていた。
「いってらっしゃいませ。お土産期待しておりますよ」
今朝がた釣り客を見送ったのとまったく同じように、炊事場を預かるハンナがロレンスたちを送り出してくれた。
そんなハンナに元気よく返事をし、手を振ってから駆け出すのは娘のミューリ。その後を追うのは面倒臭そうな顔をしつつ、それなりに楽しそうなホロで、その後に荷物を背負った男連中が続く。
「コル……せっかくの休日にすまないな……」
「いえ、ロレンスさんこそ」
お互いにそんなやりとりをしていたのだが、こんなことになったのはもちろんミューリのせいだった。
「山に悪魔が出た?」
目をらんらんと輝かせ、銀色の狼の耳と尻尾をわさわささせたミューリは、そんな話を聞きつけてきたのだ。どうやらあまり人の入らない山に探検に出かけた村の子供が、血相を変えて戻って来たのだという。
「山は母様の縄張りでしょ? 悪魔がいるなら退治しなくちゃ!」
冒険譚が大好きなミューリはそんなことを言って、拾ってきた木の枝をびゅんびゅん振り回していた。ロレンスとコルは顔を見合わせて、年頃の娘がはしたないといつものお説教をしようとしたのだが、意外にも口を挟んだのがホロだった。
「こないだ雨が降ったじゃろ。山の中は茸がよく実っておるはずじゃ」
湯屋で最も発言力があるのは主人のロレンスではなく、ロレンスを尻に敷くホロだ。
そんなわけで、ついでに茸狩りにでかけることとなった。
★2020年2月10日更新の『狼と実りの夏≪後編≫ 』に続く。
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