※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2020年5月号掲載を抜粋したものです。


 鳥になってその町を空から見下ろせば、黄金色と茶色の絨毯にぽこぽこ茸が群生しているように見えるだろう。内陸の交易で栄えるサロニアは、おおむねそんな町だった。

 かつては近隣の農村が産品を持ち寄って交換していただけの空き地に、ある日放浪の聖職者が現れて庵を構えた。近くに教会が無かったため人々が足しげく通うようになり、それを目当てに商人が現れ、市が立ち、宿ができ、道が作られて町となった。

 今では年に二回の大市が有名で、今年の秋の大市も大変な賑わいを見せていた。

 しかし、一見盛況な大市はその実、大きな問題を抱えて軋みを上げていた。牢に放り込まれる者まで出る始末だった。

 町の人々が困りあぐねていたところ、その問題はとある旅人によってたちまちのうちに解決された。その手際があまりに魔法じみていたので、町の年代記に記されることとなったほど。

 人心荒むサロニアに、風変わりな一組の旅の夫婦が現れた……という一文から、その年代記は始まっている。

 夫は一介の元行商人だと名乗るが、サロニアに来る前には呪われた山と呼ばれる土地の謎を解明し、デバウ商会に高値で売ってみせたという。その凄腕の元行商人は、この地サロニアで町中の人々が抱えていた借金を、銅貨一枚も使わずに消してしまったのである。

 だがそんな希代の慧眼の持ち主も、幼な妻には頭が上がらない様子で、サロニアの町ではたびたび手綱を握られている様子が目撃されていた。

 いや、実はその奥方こそ商いの知識を授けているのでは、と囁かれるようになったのは間もなくのこと。それも奥方はずいぶん若く見えるのに、妙な迫力があったせいだろう。

 亜麻色の髪に赤みがかった琥珀色の瞳。古風なしゃべり方をする、老獪にして可憐な少女。

 酒の飲みっぷりも豪快で、挑戦した町の男どもが軒並み音を上げる始末というのだから、件の元行商人が丸め込まれるのもむべなるかな。

 そんな二人は秋の始まりに町にやって来て、サロニアの問題を鮮やかに解決してみせると、しばしの旅情をサロニアで楽しんだ。神の御加護がありますように――。

 と、町の年代記の下書きを読み終えたホロの鼻が、得意げにぷくりと膨らんでいた。

 隣で同様に文字を追っていたロレンスは、苦笑交じりに言うほかない。

「なんで俺よりお前のほうが文字を割かれてるんだ」

「わっちゃあ賢狼ホロじゃからな。この書き手はよくわかっておる」

 見た目こそ年若い少女のようなホロであるが、その実は頭に三角の大きな獣の耳、腰からはふさふさの尻尾を生やした、御年数百歳にもなろうかという狼の化身だった。

 かつては神と呼ばれたような存在なので、確かに一介の湯屋の主人であるロレンスが張り合える存在ではないが、得意げにしている様は少女そのものだ。

 ホロは日々の出来事をせっせと日記に記すことを趣味としているが、やはり自分で記録するのと他人に記録されるのとでは大違いらしい。

「これは絵にならぬかのう?」

 港町アティフの壁画の件で、味をしめたらしい。

「お前は絵にも描けない美しさだから」

 ホロは喜びかけたが、誤魔化されたと気が付いて唇を尖らせる。

 ふたりは静かに睨み合ったが、やがてどちらからともなく笑い合う。

「下書きを返しに行くついでに、飯でも食べるか」

「んむ、たまには魚も食いたいのう」

 これもアティフで新鮮な魚のうまさを知ってしまったせいだ。

 ロレンスは財布の重さを確かめたかったが、ホロが手を伸ばしてくるのに気が付いた。

 その手を掴むと、ホロはにこりと屈託なく笑う。

 顔を見せられたらもう負けだ。

 年代記どおりだなとロレンスは胸中で笑い、二人そろって宿の部屋から出たのだった。



 ロレンスとホロが年代記の下書きを返しに教会に向かうと、ちょうど昼の礼拝が終わったところのようで、ぞろぞろと人々が出て来ていた。何人かの商人はロレンスに気が付き、帽子を軽くとって挨拶していく。すっかり有名人になってしまったなと面映ゆい気持ちでいれば、その横ではホロが胸を張っていた。

 このたわけを一人前にしたのはこのわっち、とでも言いたいのだろう。

「あら、ロレンスさん」

「こんにちは。エルサさん」

 教会に入れば、聖典を重そうに抱えたひっつめ髪の女司祭と出くわした。

 ホロと出会ってすぐの頃、ホロの故郷を探す旅路で知り合った古い知己だ。

 ホロとの結婚では立ち合いも務めてもらった人物で、エルサのぱきぱきとした性格も相まって、ロレンスなどはホロに次いで頭の上がらない人だった。

「年代記の下書きを返しに来ました。読んでいてややこそばゆかったですが」

「それにふさわしい仕事をされたということです。私は今でも信じられませんよ」

 人々の借金を、銅貨一枚使わずに消してみせる。言葉だけで聞くと確かに魔法だが、ひとつずつ解いていけば、それほどおかしなことでもない。

 ロレンスが年代記の下書きが書かれた紙束を渡すと、エルサはそこにまだ秘密が残されているかのように、丁寧に受け取っていた。

「エルサさんなどは、その後のほうが大変だったのでは?」

 ロレンスが人々の借金を消してみせると、当然、同様の方法でほかの人たちの借金も消せるのではないかということになった。しかし話題は借金というやや後ろ暗いことでもあったし、人同士の繋がりの連鎖を解きほぐす作業であったので、サロニアの教会が中心となって処理をした。そういう時に頼られるのは、数字と文字に強く、同時に信仰心もあるエルサだった。

「三日ほど気合を入れたら片付きましたよ。大したことではありません」

 凛とした蜂蜜色の瞳は、強がりを言っているようにすら見えない。

 さすがです、と頭を下げれば、エルサは「そうそう」と言葉を継いだ。

「今朝がたの荷馬車で、面白い物が届いたんです。あなたたちに渡そうと思って」

 そんなエルサの言葉に、後ろであくびをしていたホロも興味を引かれていたが、エルサが差し出したのは、分厚い聖典と一緒に抱えていた冊子だった。

「薄明の枢機卿様による、聖典の俗語翻訳の抄訳です。大変すばらしい訳だと思います」

 薄明の枢機卿様、という言葉だけは、珍しくいたずらっぽく。

 それに面白い物と言って聖典にまつわる冊子を取り出してくるのは、なにもエルサが信仰にすべてを捧げる女聖職者だからというわけではない。

 その薄明の枢機卿とは、ロレンスのとてもよく知る青年コルの、世に知られた二つ名なのだ。

 エルサなどはそのコルが子供の頃、食事の礼儀作法から仕込んだいわば師の一人であり、あのコルが立派になってという感慨と、ちょっとしたおかしみがあるのだろう。

 ロレンスにとっても、かつて旅の途上で拾った少年がいまや立派な人物として世に聞こえているのを見れば、誇らしい一方で、男としては若干悔しいようでもある。

 様々な感情の去来を楽しみながら冊子を受け取ると、ホロが隣から顔を差し込むように鼻を鳴らして匂いを嗅いでいた。

「なんじゃ、あやつらからの手紙というわけではないのかや」

「ええ。おふたりがどこにいるのかは、町に出入りしている商人の方々にも聞いてもらっていますが……あの町で見たとか、この地方で悪徳教会と戦っているとか、いやいや聖者の山に信仰問答をしに行っただとか、どうもみんなが好き勝手に語る伝説上の人物みたいになっているようで。有名になりすぎるのも善し悪しですね」

 温泉郷ニョッヒラを、己の夢と信仰のために飛び出した青年コル。

 たちまちこの世に大きな波紋を投げかける大冒険に身を投じたようだが、ロレンスにはコルが今どこでなにをしているのかを知りたい、非常に強い動機があった。

「便りが無いのは良い便りじゃ。それにこんなものが出回っておるということは、どうせまたぞろ、玉ねぎをかじって眠気をこらえながら部屋に籠っておるんじゃろう」

 ホロは冊子を手にとって、ぺらぺらと振ってみせる。

「その隣でつまらなそうにしておるたわけの様子も目に浮かばぬかや?」

 ホロの意地悪そうな笑みに、ロレンスは唇を尖らせる。

 そんな様子を前に、エルサがちょっと笑って言った。

「聖女ミューリ、と評判ですよ。いつも笑顔を絶やさない、太陽のような慈悲をもたらすのだとか」

 ロレンスはその言葉に、喜ぶやらげんなりするやらだった。

 コルの動向が気になるのは、コルのことを息子同然に思っているのもあるが、最大の原因はコルにくっついて旅に出てしまった一人娘ミューリのためだった。

 旅に出てしばらくは手紙がちょくちょくきたが、やがてその間隔が開き始め、ここのところは滞っていた。二人の身になにかあったのでは、という心配は、二重の意味を伴っている。

 旅の途中になにか困難に見舞われたのではないだろうかという懸念。

 それから、血のつながらない兄と妹であったはずの二人の関係に、大きな転機があったのではないかという懸念だ。

「このたわけは全く諦めが悪い」

「うちは男ばかり三人ですが、遠くの町でお嫁さんと暮らすと言われたら、確かに寂しい気がします」

「そういうものかのう。旅で立ち寄る先ができるし、その土地の美味い物をよこさせることもできるじゃろ」

「それはあるかもしれませんね」

 謹厳実直なエルサと、年経た狼らしく大雑把なところのあるホロは、ちょくちょく意見の対立を見ているが、この辺りでは話が合うらしい。

「ほれ、ぬしよ。さっさと正気を取り戻してくりゃれ。わっちには町の大市を締めくくる、祭りの準備という大役があるからのう」

 背中を冊子で叩かれてしまう。

「準備って……酒が飲みたいだけだろうが」

「たわけ。わっち以上に酒を飲める奴がこの町にはおらんのじゃからな。責任をもって、祭りで使われる酒を選ばなければならぬ」

 こういう時に節制を説いてくれるエルサも、確かに祭りの準備の一環なので、小言は諦めたらしい。

「毎年どこの蔵の酒を使うかで揉めるらしいので、ホロさんに決めてもらえるならその点は助かっているようですが」

「ほれ、ぬしよ」

 ふふんと顎を上げるホロに、ロレンスはエルサと一緒にため息しかない。

「いつもの葡萄酒じゃない。麦の蒸留酒なんだから、飲みすぎるなよ」

「たわけ。いつわっちが飲みすぎたと言うんじゃ?」

 教会でこれだけ堂々と言えるのだから、ロレンスとエルサの小言など届くはずもない。

「つまみはなにがいいかのう。咳き込むくらい煙を利かした干し肉か……はたまた蜂蜜菓子などというのも、案外捨てがたいんじゃ」

 うきうきしているのが、服の下で落ち着かない尻尾からもうかがえる。

「ほれぬしよ」

「はいはい。それではエルサさん」

「また後ほど」

 ホロに手を引かれるロレンスに、エルサは呆れたような、それでいて少し羨ましそうな苦笑いを浮かべていた。

 それから数刻後。

 ロレンスはご機嫌な様子で酔いつぶれたホロを背中に担ぎ、宿に戻ったのだった。



 サロニアの町は春と秋に大市が立ち、近隣のみならず、遠方からも商人やらがやってくる。

 さらに秋の大市の終わりには、収穫の感謝と来年の豊穣を祈る大きな祭りが開かれることになっていた。

 かつては行商人だったロレンスは、もちろん様々な土地の祭りに参加してきたが、その時は祭りの浮かれた空気に便乗し、いかに商品を高く売るかに腐心していて、ろくに楽しんだことがなかった。いつも足元を見て、一日に一歩でも多く歩き、他の商人より寸刻でも早く次の町に行くことを考えているような生活だった。

 そんな忙しない旅の速度を落としたのは、ホロと一緒になってからのこと。

 そうすることで初めて気が付いた景色や、空気の匂いというものがある。

 祭りの準備もそのひとつで、町の人々にとって、実はそっちのほうが楽しみなのだと知ったのは、ホロの手を握ってからのことだ。

「ここはいろんな麦が集まってよいところじゃのう」

 二日酔いがようやく収まった夕方ごろ、宿泊している宿の軒先に並べられたテーブルに座ったホロは、性懲りもなく酒を手にしながらそんなことを言った。

 とはいえ薄い果実酒を舐めるように飲んでいるので、反省はしているらしい。

「町の人たちも借金がなくなって身軽になったのか、こっちの商いも順調だった」

「ほう。あの荷馬車に積んである臭いものが売れたのかや」

 せっかく町で有名になったのだから、その名声を使わない手はない。ニョッヒラから旅に出る際、山ほど持ってきた硫黄の粉を半分ほど売りつけることができた。お祭りの陽気に乗って、穴を掘って湯を張って即席の温泉を作ろうかなんていう話も出ていたので、もう少し売れるかもしれない、とロレンスはもくろんでいる。

「言うことなしじゃな」

 ホロはそう言って、目を閉じると夕方の少し冷たい風に前髪を遊ばせ、気持ちよさそうにしていた。

 日が暮れるまでにはもう少しあるし、祭りが近いと日が暮れても町は寝静まらない。昼間たっぷり寝ていたホロがまた深酒しなければいいがと思っていたら、店主が食べ物や温かいスープを持ってきてくれた。

「ふむ、酒を少々多めに飲んだ後は、これがたまらぬ」

 そんなことを言って、道中採ってきた茸を野菜と一緒に煮たスープをうまそうに啜っている。

「とはいえ、ひとつだけ心残りがありんす」

「ん?」

 スープの入った椀を置いたホロは、ひょろひょろの鰯を炙ったものを手に取り、頭からかじる。

「鰊でないだけましじゃがのう。本当ならこの町には、美味い川魚が並んでおるらしいんじゃ」

 海に剣を突き立てれば、それだけで何匹も取れると言われるほど溢れている鰊は、どんな内陸部に行っても必ず食卓に上る。しかも安いので冬の間はそればかり、ということにもなって、食にうるさいホロでなくても顔をしかめてしまう。

 対して川の魚は、川が黒々となるほどの魚影などまず望めず、保存のための塩が採れる海からは離れていることも多く、広く流通することが無い。その土地のうまい川魚は、その土地でしか食べられないことがほとんどだ。

「町の側の川を見てみたが、あまりそんな感じはなかったけどな。それに、海からどれだけ離れても逃れられない月と鰊、なんてよく言ったもんだろ。まあ、これは鰯だが」

 ロレンスも鰯をかじると、心地よい苦みが口に広がった。

 もう少し炙ってあると好みだな、などと思っていたら、ホロが肩をすくめた。

「ほれ、宿の部屋から遠くを見ると、かすんだ山が見えるじゃろ?」

「ん? ああ」

 苦みが癖になって三匹目に手を出したところを、ホロに手を叩かれた。

「わっちらが通って来た山とはまた別のところで、そこに伝説の池があるらしいんじゃ」

「伝説の」

 適当に相槌を打ちながら、ロレンスは店主に向けて鰯が載っていた皿を振った。

「そこの鱒が絶品らしいんじゃが、今年に限って一尾も並んでおらぬというんじゃ」

「へえ」

 鱒なら木の葉で包み、茸とたっぷりのバターで焼いたりするのもいいな、とロレンスは湯屋の主人らしく、献立を考えたりしてしまう。

「どうもその池で特別に育てておった魚らしくて、魚の病が流行ってしまったんじゃと」

「池の養殖かあ。川のいけすと違って、難しいんだよな。ニョッヒラでもたびたび試みられたらしいが、あまりうまくいってないみたいだ」

「おかげで鰊か鰯ばかりじゃ」

 ホロは文句を言いつつも、確保していた鰯をバリバリ食べてしまう。

 もちろんよく肥えた鱒のほうが、麦酒によく合うだろう。

 それに、商いに携わる身として思うこともある。

「きっと祭りの時期に合わせて育てていたろうに、気の毒な」

 山の中の養殖池なら、近隣の者たちにとっては重要な収入源のひとつに違いない。病が流行った池に新しく魚を入れるのも躊躇うだろうし、困難が続くのが目に見える。

 そんなことを思っていたら、ホロの視線がふとなにかに引き寄せられるように、一点を向いた。ロレンスもそちらを見ると、こちらに小さく手を振ってみせるエルサがいた。

「なにか用かや」

 ホロの言葉にやや棘があるのは、宴席にエルサとなれば、小言がおまけでついてくるからだ。

 祭りで供される酒の選定の後、結局酔いつぶれた話はエルサの耳にも入っているだろう。

「あなたに節制を説くのも、神の僕たる私の役目ではありますが」

 エルサは呆れ交じりにそう言いつつ、視線をロレンスに向けてきた。

「用があるのはロレンスさんです。お願いがありまして」

「私に?」

 そこにちょうど店主が炙った鰯の追加を持ってきて、ホロが手を伸ばしたのはその炙りたての鰯と、ロレンスの首根っこだった。

「これはわっちのものでありんす。なにかこき使うからには、見返りが必要じゃのう」

 年代記にも書かれてしまったので、ロレンスは抗弁しない。頭から食われる鰯のように、身を細くして肩をすくめた。

「あなたにも見返りがありますよ」

「ふむ?」

「美味しい鱒を食べたくありませんか?」

 噂をすれば影。

 ロレンスはホロと顔を見合わせ、エルサの話を聞いたのだった。



 ホロが宿屋の窓から見た山と言うのは、ラーデン司教領と呼ばれる土地らしかった。

 エルサと共に呪われた山の謎を解決した、ヴァラン司教領のような広大なものではなく、小さな村が一つ収まる程度のものらしい。その司教領にある山奥の小さな村は、この辺りでは珍しく川魚の養殖業を営んでいた。よく肥えた鱒が特に評判で、サロニアの近くを流れる川では泥臭い鯉くらいしか取れないこともあり、人気商品の一つだった。それが数年前から魚に病が見られ、今年は特にひどく、全滅してしまったとのこと。しばらくは池の水が入れ替わるのを待つほかなく、鱒がサロニアの食卓に上るのはだいぶ先のことになりそうだった。

 と説明されたら、次に来るのは彼らの窮状を商いの知識で助けてはもらえまいだろうか、と予測できる。

 しかし主要な養殖業がなくなったから、かわりの食い扶持を探してくれというのはなかなかに難しい話である。それが容易にできるならば自分はたちまち大商会の主なのだし……と思っていたところ、教会に向かう途中にエルサから聞かされた話は、ロレンスの予想とは似ているようで、全然違っていた。

「借金の方法を見つけて欲しい?」

 主要な産業が無くなって困っているはずの村人たちなので、借金は理解できる選択肢だ。

「どこかの商会を説得して欲しいということでしょうか。それはなかなか……」

 借金は長期的な関係になる。ふらっと立ち寄った旅人が、適当なことを言うのは憚られる気がした。しかもサロニアはついこの間まで、借金の環が複雑に絡みすぎて身動きが取れなくなっていたのだ。

 それをようやく解いたところなのに、とロレンスが思っていたら、エルサは首を横に振る。

「いえ、違います。村の方は、すでに商会から断られてしまって、残るは教会しかないと言っています」

「……」

 すぐに言葉を返せなかったのは、エルサが不思議なことを言っているように聞こえたから。

 エルサは仮にも、文字どおり仮の立場らしいが、司祭の位を賜っている。しかもこの町での騒ぎを解決した一翼を担っていたことから、司祭という立場には不釣り合いなほどの発言力を持っているはずだった。

 困っている人のために手助けするのは神の望むところでもあるのだから、エルサが貸し付けたいと望めば、ここの教会を説得するのは難しいことではないのではないか。

「あるいは、彼らがお金を返せるかどうかの調査をして欲しい、ということでしょうか」

 エルサはいつでも背筋をぴんと伸ばし、ひっつめた髪は一日働いた後でも乱れない。

 そんなエルサが、いささか背中を丸め気味に言った。

「いえ、その点も問題ありません。養殖は何年も前から調子が悪かったのと、村の人たちが勤勉だったため、今は鹿狩りと鹿から作る皮ひもなどで生活は安定しているようです。ここは流通の要ですから、袋の口を縛る皮ひものようなものはいくらあっても足りません。ですから、借金も本当は必要ないようです。つまり……」

 と、エルサはロレンスを見た。

 いつも気丈なエルサが、困り顔をしていた。

「私たちはあなたに、教会が彼らにお金を貸す方法を見つけて欲しいのです」

 エルサの不安そうな顔は、異国の言葉を懸命に口にした後の少女のように見えた。

 実際、自分の言ったことが通じたかどうか確信が持てなかったらしい。

「えっと、私が言ったのは、教会が――」

「いえ、わかりました。大丈夫です」

 そう答えると、エルサはまだなにか言いたそうだったが、おとなしく口をつぐむ。

 とはいえ、言葉は理解できたが、意味が分からない。

「村の者どもは金が欲しいんじゃろ?」

 沈黙が流れたところに、ホロが言った。

「ぬしら教会は村の連中に金を貸したいんじゃろ? 天秤は釣り合っておるように思いんす」

 ホロの顔がどこか面倒くさそうなのは、この当たり前の理屈が当たり前ではないらしいとわかっているからこそのもの。事情がある、というわけだ。

 エルサは胸中で言葉を推敲するように、胸に手を当てて何度か深呼吸してから、言った。

「私としては、村の人たちがお金を求める理由に共感しました。ぜひ教会こそがお金を出すべきだと思います。ですが」

 と、こちらを見た時には、実に申し訳なさそうだった。

「ですが、教会の貸金行為はあまり褒められたことではありません。しかも今は、教会の悪弊を糺そうという嵐が吹き荒れる中ですから」

 エルサの顔がやや申し訳なさそうなのは、ロレンスたちを責めるつもりはない、という意味からだろう。

 ホロなどわかりやすく顔を背けたが、それはコルとミューリが教会をゆすぶっているせいで、世の中のあちこちでもうもうと埃が舞っているからだった。

 悪弊が降り積もった教会を掃うことそのものは正しいのだろうが、いかんせん、世の中にはきれいごとでは済まない側面がたくさんある。清貧を謳う教会が、たっぷりの寄付金で儲けている矛盾など最たるもの。

 そんなわけで、昨今は教会の金にまつわる話は非常に風当たりが強く、一見問題がなさそうなことにも疑問の目が向けられがちになっているらしい。

 そして世の中がそうなってしまった原因に、コルとミューリの存在がある、と言えなくもなかった。

「とはいえ、もし正しい行為のためならば、お金を貸しても問題にならないのでは? 高利でなければ、教会法にも反しませんよね」

 咎められるべきは高利貸しであり、例えば一晩の宿を借りたら恩を返すべし、と聖典にも書かれている。ならば金を借りたら多少の礼は神も許すところ、と神学的には解釈されていたはずだ。

「あくまで黙認です。なにかの折にやり玉に挙げられるのでは、とここの司教様は躊躇っています」

 そう言われると、それも理解できる。

「特に村は窮状に陥っていないので、なおのことお金を貸すことは怪しまれると」

「貸せぬ理由はそれだとして、貸したい理由はなんなんじゃ? ぬしの話じゃと、魚を育てておる連中は、金に困っておらぬのじゃろ?」

 ホロの問いに、エルサがそちらを見る。

 そして、ふと前方に視線をやったのは、教会が前方に見えたから。

「あるいは、あなたたちの新鮮な耳で話を聞いてみて、判断いただけますか」

 村人たちの訴えが、お芝居並みにうまいということだろうか。

 それに、エルサはホロの正体を知る長い付き合いだ。

「わっちの狼の耳を頼るのなら、よーく冷えた麦酒じゃな」

 ホロの耳は人の嘘を聞き分ける。

 エルサはため息交じりに肩を落とし、教会へと歩を進めたのだった。



 サロニアの教会に着くころには空は紫色に変わっていて、町のあちこちにかがり火が焚かれていた。教会も夕方の礼拝が終わり、すっかり店じまいかと思いきや、教会の扉は開け放たれたままで、数人の女性がたむろしている。

「あ、いらっしゃったよ!」

 恰幅の良い女性が、ロレンスたちに気が付くや、指差して叫ぶ。するとたちまち教会の中からわさわさと人が溢れ出る。誰も彼もが垢抜けない感じで、町の人間ではなさそうだ。

 ロレンスは戸惑い、ホロが訝しげにエルサを見る。

 エルサは咳ばらいをして、声を張りあげた。

「サロニアの窮地を救ってくれた商人様をお連れしました! 道を空けてください!」

「おお、商人様!」

「あなた様が!」

「ありがたや、ありがたや」

 聖者が現れたとばかりに群がってくる村人たちを、エルサは文字通りかき分けて前に進む。

 ロレンスなどは市場で殴り合いながら商品の売り買いをしていた頃のことを思い出して楽しくなるが、意外に繊細なホロは、面食らってちょっと怯えているふうですらあった。

 肩を抱えるようにしてやって、エルサの後に続いて教会に入った。

 教会に入ると、祭壇が置かれた身廊では、礼拝用の長椅子に男たちが思い思いの様子で座っている。思い思いというのは喩えではなく、麦の計量をしている者もいれば、大きな鉈を研いでいる者もいる。もろ肌になって服の繕いをしている者もいるし、山羊までいた。

「ちょっと! 山羊を持ち込んではだめと言ったでしょう! 裏手につないできてください!」

 エルサに叱られ、山羊そっくりの男は慌てて三頭の山羊を外に連れ出していく。

 エルサがため息をついていると、奥の部屋につながる廊下から、司教が顔を見せた。

「エルサさん、こっちです」

 手招きされ、ロレンスはエルサと共にそちらに向かう。さらにその後を、教会前でたむろしていた人や、身廊にいた人たちがぞろぞろ着いてくる。

 そうして広間かなにかの前に到着すると、エルサが振り向いて、言った。

「ほかの方はこちらでお待ちください」

 ぴしゃりと告げられ家鴨の群れのように人々は足を止めたが、不満げにぶつぶつ言う様はまさに家鴨のよう。そこに、すらりとしたいかにも如才なさそうな司教が扉を開けてくれたので、ロレンスたちは中に入り、エルサが人々を締め出すように扉を閉じる。

 それでようやく人の熱みたいなものが遮断され、ほっと一息つけた。

「なんなんじゃ、一体」

 ホロがロレンスの腕の中で、悪い夢でも見たかのように言うと、広間に置かれた長テーブルの椅子から立ち上がる者がいた。

「わが村の者たちがなにかご迷惑を」

 生真面目そうな、小柄で白髭の老人だった。話の流れから、ラーデン司教領の村長だろうかとあたりをつける。

「大丈夫ですよ、村長様。みなさんお行儀良く過ごされていますから」

 交易で栄える町の司教らしく、さらりとそう言ってのける。

「村の者たちを受け入れてくださり感謝いたします。本来はこんな人数で来るつもりはなかったのですが……」

「お気になさらず。ここは神の子羊たちであるならば、誰にとっても我が家のようなものなのです」

 綺麗ごとを述べるのが司教の役目なら、実際に聖堂を掃除するのがエルサである。身廊に山羊を連れ込まれていたことを思い出したのか、エルサは頭痛をこらえるような顔をしていた。

「ところで、そちらは?」

「ああ、このお二人が、話に出ていたサロニアの窮地を救ってくださった商人さんです」

 急に話題にされ、ロレンスは慌てて商人用の笑顔を見せる。

「おお、なるほど。これはこれは」

 老人は律義に頭を下げ、こう名乗った。

「私はスルトと申します。ラーデン司教領の小さな村にて、村長を務めております」

「クラフト・ロレンスです。こちらは妻のホロ」

 名乗り返すと、スルトは外国で故郷の知り合いに巡り合えたかのような、ほっとした顔を見せた。

「ロレンス殿のお話は聞き及んでおります。あなた様のような人物にお力を貸していただけるとのこと、感謝の言葉もありません。ありがとうございます」

 どんな尾ひれがついた話を聞いているのかわからないが、曖昧に笑ってうなずいておいた。

「それで、私はどんなことにお力を貸せばいいのでしょう?」

 スルトと名乗った村長は、ロレンスの予想どおり、鱒の養殖が有名な村の村長のようだ。

 先ほどのエルサの話によると、エルサたち教会側としては彼らにお金を貸したいが、昨今の世情のため、教会が貸金行為を行うようなことは難しい。そのため、商人の知恵によって、彼らにお金を貸す方法を見つけてもらえないかということだった。教会に村人総出の勢いでやって来たからには、それなりの理由なのだ。

 しかし、ロレンスは最初、養殖業が壊滅し村での生活が立ち行かなくなったから金を借りたいのだと思ったが、そうではないらしい。身廊にいた男たちも、身なりこそ垢抜けなかったが、町で買い付けたと思しき食べ物や、手にしていた道具は質が良さそうだった。

 生活に困っているわけでもない村人たちは借金によってなにを望み、教会はなぜそれに肩入れしようと言うのか。

 ロレンスの視線の先で、スルトが居住まいを正すと、こういった。

「ラーデン様が司教になるためのお金を貸していただきたいのです」

 ロレンスの頭に真っ先に浮かんだ言葉は、聖職売買、という単語なのだが、そこに司教が割って入る。

「村長様、その言い方には語弊がありますな」

 そしてロレンスに向き直り、商人そっくりの笑顔を見せた。

「ま、とりあえずお座りになられては。ラーデン司教領を巡っては、繊細な事情があるのです」

 怪しげな言い回しに聞こえたので、ついエルサを見てしまう。謹厳実直で、曲がったことを許さない聖職者の鑑のようなエルサだ。高位の聖職録を得るために金を用意するというのは、まさに世で批判に晒されている教会の悪しき風習なのではと視線で問いかける。

 別にロレンスは潔癖な理由でそうしたのではなく、危ない橋を知らないうちに渡らされるのはごめんだからだ。

 するとロレンスの視線を向けられたエルサは、予想外にしっかりとロレンスを見つめ返してきた。

「お話を聴いていただけたらと思います」

 どうやらエルサの倫理観に照らしても問題ない話のようだった。

 胡散臭そうな顔をしていたホロも、エルサの性格はよく知っている。意外そうに目をぱちくりとさせていた。

「……わかりました」

 ロレンスはうなずき、言った。

「お聞かせ願えますか」

 ロレンスとホロは、村長と名乗ったスルトの向かい側に座ったのだった。



★2020年5月8日更新の『狼と宝石の海≪第二部≫』に続く。
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