※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2020年5月号掲載を抜粋したものです。


「私たちの村がありますラーデン司教領というのは、そもそもこの地方の俗称のようなものなのです」

 スルトはまずそう言った。

「山間の、実りの少ない狭い土地を切り開かれたラーデン様は、それはもうすばらしい神の教えの実践者です。私たちを導く、われわれ村人全員の父親のようなお方です。そのラーデン様の偉業にちなんで、ラーデン司教領と呼ばれているのです」

 立派な髭を生やした酒場の主人が、なんとか卿と呼ばれたり、そういうあだ名に近いことなのだろう。旅をしていれば、確かにそういう俗称で呼ばれる土地が無いこともなかった。

「ラーデン様は、正式な聖職録を?」

 その問いには、司教が答える。

「これはサロニアに残っている記録から述べることなのですが」

 司教は咳ばらいをして、妙な前置きを挟む。

「ラーデン様はおよそ四十年ほど前でしょうか。この地に存在していたらしい教会の代理として、現在の土地を当時の所有者である貴族から寄付されたそうです。ですので、聖職録を受けている聖職者、ということではありません」

 この地に存在していたらしい教会、という言い回しに、ロレンスは口元がにやつきかけるのをこらえた。翻訳すると、ラーデンという人物は教会の関係者を詐称して土地の寄付を受けた可能性がある。

「ただ、ラーデン様のその行いによって、多くの人々が救われました」

 ロレンスの胸中の言葉に返事をするように、司教が言った。

「四十年前と言えば、このサロニアでさえ、異教徒との戦の前線になるような頃のことです。年代記にも残っていますが、大変な混乱だったそうです。そこにラーデン様が現れ、人の住めなかった山にため池を作り、魚を増やして戦火に惑う人々を受け入れたのです。川に死体があふれて魚が取れなくなった時、ラーデン司教領の魚にて飢えをしのいだ、という記述もあります」

「なるほど」

 なぜエルサが肩入れするのかが見えてきた。

 そこに、スルトがたまらずといった感じで、言葉を挟む。

「我が家もまさに戦火で焼け出されました。私がまだ嫁をもらったばかりの若かりし頃、妻と乳飲み子を連れ、噂にすがるようにしてラーデン様の村を目指したのです。焦げた服の袖から、まだ煙が立ち上るような中、疲労困憊で村にたどり着いた時のことです。ラーデン様は編んでいた網を放り投げ、私たちを迎えてくれました。その時のことを今でも鮮明に思い出します。あの方は、神の遣わされた御仁です」

 スルトは胸元の教会の紋章を握りしめ、祈るようにそう言った。

 ロレンスはその様子に、ゆっくりと息を吸い、飲み込んだ。教会に村の人々が押し寄せているのは、彼らがみな、似たような境遇で、ラーデンに救われた者たちだからだろう。しかもラーデンはそれほどの善行を積みながら、正式な聖職者ではないらしく、それは村人たちにとってとても歯がゆいことなのだ、とわかってきた。彼らはラーデンに正当な評価がなされるよう、いてもたってもいられず、サロニアまでやって来たのだ。

 とはいえ聖職録の取得には賄賂がつきもので、司教になるための資金を借りたいとなれば、そういうことに使う以外の方法が思いつかない。

 そこはどうなっているのかと司教を見やれば、心得ています、とばかりにうなずかれた。

「司教位の授与につきましても、ラーデン様の信仰心を耳にされた教皇庁直々のことなのです。ですから、ロレンスさんが懸念されているような、賄賂……というようなことではありません」

 エルサを見ると、エルサは無言でうなずきつつ、司祭を示す肩帯を指さした。エルサは結婚もし、子供もいるのに、司祭に叙された。教会が改革の機運でてんてこ舞いのため、猫の手も借りたくてエルサのような有能な人物に職位を授けているのだ。

 ラーデンに目をつけたのも、信仰で名高い人物を取り込んで人心の掌握に努めたい、というところだろう。

 だとすると、わからないことがあった。

「では一体、なににお金を使われるおつもりなのでしょう?」

 その問いに、スルトが大きなため息をついた。

「ラーデン様が司教様になろうとしたら、教皇庁というのがある南の国まで行かなければならず、一年からかかるという説明を受けました」

 路銀や生活費? とも思ったが、それならば町で寄付を募ったって集まる気がした。

「ラーデン様はその話を聞くと、ならば司教の話は断る、と仰ったのです。一年以上も村を空けることはできないと。村の魚の養殖が再び回復するまで、村を放っておくことなどできないと」

 責任感の塊のような人物なのだろう。

 ロレンスは感心しつつうなずきかけたが、ふとそれが止まった。

「あれ、ですが、村は魚だけではなく、鹿猟とそれにまつわる加工でうまくまわっていると聞きましたが」

 むしろ養殖がなくてもなんとかなっているのでは。

 スルトはロレンスを見て、悲しげな眼をしていた。

「そのとおりです。私たちはラーデン様に助けられてばかりですから、少しでもラーデン様の負担を減らそうと、養殖場に病の兆候が表れ始める前から、懸命に魚に代わる稼ぎを探しました。そうしていると、神の御加護か山向こうのヴァラン司教領に緑が戻ったおかげで、我が村にも鹿が多く現れるようになりました。今では鹿肉と、毛皮、それに皮ひもの加工で十分な生活を送れています」

 ヴァラン司教領はかつて鉱山として開発され、丸裸になっていた。

 しかし栗鼠の化身であるターニャによる懸命な植林で、再び緑を取り戻したという。

 土地と土地をつなげてきた元行商人のロレンスは、そういう土地同士の繋がりに殊更嬉しくなる。ターニャにも知らせてやろう、と記憶に残しておく。

「ですから今回の話は、まさに神様が用意してくれたものだと思いました。ラーデン様はしばしの間村の仕事から離れ、休むことができますし、信仰の篤さが世に認められて司教になるのですから。私たちはラーデン様に是非と、この案を勧めました。しかし、私たちがいたらないせいか、魚の養殖が覚束ないうちは村を留守にできないと、断られてしまったのです」

「では、養殖復活のための資金を?」

 スルトはうなずきもしないが、否定もしなかった。

「私たちが欲しいのは、ラーデン様が安心して村を離れられるくらいのお金です」

「……」

 魚の養殖の復活は難しい、と思っているのだろう。むしろ池という性質上、病が流行ると一瞬ですべてが駄目になる養殖には、この先あまり頼らないほうがいいのでは、と考えている節さえあった。

 ただ、彼らの動機は痛いほど理解できた。ホロの顔をうかがうまでもなく、彼らは心の底から、ラーデンのことだけを考えて行動している。

 エルサが手を貸すのも納得できるし、サロニアの教会としても手を貸したい理由がわかる。

 その一方で、どんな名目で金を貸せばいいのかわからないというのもまた、事実だった。

 本当なら町の商会から金を借りられたらいいのだろうが、ラーデンが本物の司教になるためと言われたら、どこの商会も二の足を踏むはずだ。

 教会に関する周囲の目が日に日に厳しくなっている時勢が、まずは第一。

 それに村の運営を左右するくらいの金額ということなのだろうから、そこでも怯むだろう。

 特に権力者に金を貸すのはとても勇気がいることで、どんな理由で踏み倒されるかわかったものではない。特に教会関係者が顕著で、あれは寄付だったはず、とでも言われたらそれでおしまいなのだ。

 そんなわけで貸し手になれるとしたら教会しかありえないが、村に金を貸した直後にその村の立役者が司教になったと記録が残れば、賄賂のための腐敗した金だったのでは、と指摘されたら返事に窮するだろう。

 見た目は完ぺきに、有罪を示している。

「いかがでしょう、ロレンスさん。私どもサロニアの教会としては、ラーデン司教領の皆様の力になりたいと思っています」

 司教のそんな言葉が向けられる。

「こちらのエルサ司祭に、ロレンスさんのお力をお借りできないかと相談したところ、そこに不正が無ければきっと協力いただけるだろう、とのことでした」

 そしてエルサは、不正はないが問題があると見た。それは正しい見立てだ。

「不正……という点ですが、要するに、教会と村の間に直接の金の貸し借りの記録が残らなければよい、というわけですよね?」

「はい。なんだか悪いことのように聞こえてしまいますが……」

「いえいえ。自然に生えるものだからと言って、髭も髪の毛も手入れしないというわけにはいかないでしょう? 帳簿も同じことです」

 エルサは笑っていいものかどうかひどく困るような顔をしていたが、司教は遠慮なく笑顔になる。

「それでは、ロレンスさん」

「はい。確実に案を出せるというわけではありませんが、私の知識でよろしければ。為替証書を使えばできそうな気はします」

「おおっ」

 司教が顔をほころばせ、スルトが目を見開いて立ち上がる。

「あの、あくまでも協力ですから。まだ方法を思いついたわけではありませんよ」

 二人の喜びように、慌てて念を押す。

 お金の流れに嘘をつかず、それでいて、村と教会が一本の線につながらないようにする。

 そういう時に商人が用いる方法はいくつかあるが、ひとひねりが必要だろう。

「ええ、もちろんですとも。しかし町中から借金を消してみせたロレンスさんです。今回もきっとやり遂げてくれるでしょう」

 司教の調子の良い言葉に、ロレンスは笑顔が引きつってしまう。

「早速村の者たちにもこのことを伝えませんと。皆、やきもきしておるでしょうから」

 スルトはそう言って、テーブルを回り込むとロレンスの両手を強く握り、隣のホロにも頭を下げる。ただ、ロレンスはその様子に、ふと、不安を感じた。引き受けると言ったものの、なにか見落としているような気がしてきたのだ。

 金の貸し方についての不安ではない。そういう技術的なことではなく、もっと根本の……。

 そんなことを思いつつも、なんなのかわからない。もどかしく思いながら、スルトが部屋から出て行くのを目で追っていた。

 そして、スルトが扉に手をかけた、その瞬間だった。

「む?」

 隣でホロが唸り、次いで扉の向こうから、なにか騒がしい声が聞こえてきた。

 スルトも怪訝そうに扉に耳を近づけ、ロレンスたちのほうを見る。

 ただ、スルトには心当たりがあったようだ。

「村の者たちが騒いでいるようです。今すぐに静かにするようにと――」

 そこまで言いかけた瞬間だった。

「お待ちを!」

「お待ちください!」

 そんな声が聞こえてくる。

「お待ちくださいラーデン様!」

 ロレンスが目を見開くのと、扉が開けられるのはほとんど同時のことだった。

「ラーデン様!」

 真っ先に声を上げたのはスルトだったし、その瞬間にロレンスは自分がなにを見落としていたのか気が付いた。ラーデン司教領の村の成立過程や、現状、それにスルトたちの動機や、ラーデンに対する強い思いも知ることができた。

 しかし、話題に出なかったことがある。

 まさにこの、ラーデンその人の考えだ。

「スルト! なぜ私を村に置いていくような真似を!」

 その声量は山の熊のごとくで、ラーデンは思索と祈りに明け暮れる、隠者のような老人ではなかった。服こそ修道僧のようなものを着ているが、禿頭で顔のしわが彫ったように深く、がっしりした体つきもあって大木が人に化けたように見える。その人物がいかに粘り強く仕事をしてきたかは、長い年月を力仕事に明け暮れてきた者だけが持つ、分厚い両手が証明している。

 ラーデンは、信仰心に篤い聖職者というより、義理堅く人情を優先させる職人のようだ。

 そのラーデンが、怒り出したいような、泣きたいような、そんな複雑な顔をして、ラーデンを止めようとする村人を振りほどこうとしている。

「ラーデン様、なぜここに……」

 スルトがそんなことを言うと、暴れるラーデンの脇からひょいと顔を見せた少年がいた。

「祖父ちゃん、なんでって、ラーデン様ぬきで話を進めちゃだめだろ」

「ボーム! お前が連れてきたのか!」

「ラーデン様と茸狩りに行ってこいなんて、怪しいと思ったんだ。祖父ちゃんの馬を借りたぜ」

 ラーデンを安心させるために金を借りることを、そもそも当のラーデンはどう思っているのか、それを聞き忘れていた。

 そして、答えは明らかだ。

「スルトよ、確かに村長はお前だが、聞けぬ命令がある!」

「ら、ラーデン様! 命令だなんてそんな! 私たちはただ、ラーデン様のことを思い――」

「ええい、こざかしい言葉はもういい! スルトよ、村に帰るぞ! 魚の世話が待っている!」

「ラーデン様お聞きください! 私たちはラーデン様と村のためを思ってここに来たのです!」

 村人たちがラーデンの体を押さえつけようとするが、腰のひとひねり、腕の一本釣りで大の男が猫のように吊り上げられ、振り回される。

 スルトは今にも泣きださんばかりだし、どうやらスルトたちに反旗を翻し、ラーデンをサロニアに連れてきたボームという少年もラーデンに加勢している。

 口の回る司教はこういう時はおろおろするばかりで、ホロは突然の大騒ぎに笑っている。

 なんなんだこれは、とため息をついたときのことだった。

「やめなさい!」

 ばん、という机を叩く音がする。

 皆の視線が集まった直後、エルサが眉を吊り上げて怒鳴った。

「ここは神のおわす教会です! どんな理由があろうと騒ぐことは許しませんよ!」

 前髪が声だけで揺れそうなほどの迫力は、普段から三人の男児とひとりの旦那を叱っている母ならではのものなのかもしれない。

 ラーデンもスルトも、もちろんボームも目を丸くし、他の村人も同様だった。

「神はいつでもあなたたちを見ているというのがわからないのですか! 恥を知りなさい!」

 しなる鞭のように叱りつけられ、男たちは揃って首をすくめている。

 静まり返った広間で、ホロがくつくつと喉を鳴らしていた。

 ロレンスはため息をついて、言った。

「スルトさんは司教様と、他の村の人と一緒に別室へ」

 スルトはたちまちなにか言おうとしたが、腰に両手を当てたエルサに睨みつけられ、少年のように小さくなっていた。

「ラーデン様と……それと、ボーム少年。私とここに残ってください」

 ラーデンとボームは祖父と孫くらいの年齢差だが、互いに顔を見合わせている様は友人同士のようだ。

「ほら、皆さんてきぱきと動く!」

 エルサの一声に、人々は羊の群れのようにのろのろと動き始めた。

 スルトはなお心残りがあるような顔でラーデンを振り向いたが、ラーデンはそんなスルトに気が付きながら、振り向こうとはしなかったのだった。



 エルサは声を張り上げて喉が痛い、という体で酒を持ってきて、各々に注いだ。

 ラーデンは大きな体を窮屈そうに椅子に押し込め、器の中を覗き込むように黙っていた。

「クラフト・ロレンスと言います」

 ロレンスはまず名乗る。

 すると案の定、ラーデンは律義な性格のようで、顔を上げた。

「……ラーデン」

 短く、一言だけ告げる。

「あまり聞かないお名前ですが、家名でしょうか。それとも?」

「ラーデン様はただのラーデン様だよ」

 口を挟んだのは、少年のボームだ。

「俺の名前はボーム。スルトは俺の祖父ちゃん」

 物怖じしない性格のボームを、ホロは一目で気に入ったらしい。「俺に酒はないの?」とエルサに聞いて怒られている様子に、楽しそうに笑っていた。

「で、ロレンスさんは祖父ちゃんの味方なの?」

 ボームは単刀直入に聞いてくる。

 祖父とはいえ、村長の意に反した行動をとるだけはある。

「今のところはどちらの味方でもないよ」

「でも、教会とつるんで祖父ちゃんの言うとおりにしようとしてたんじゃないの?」

「頼まれたからそうしようと思ってたが、どうも事情が複雑そうだ。君たちの話も聞きたいと思っている。だからスルトさんたちにはお引き取り願った」

 ボームはじっとロレンスのことを見つめていたが、鼻を鳴らして目を逸らす。

「村長は、教会から金を借りようとしていたのか?」

 ラーデンが口を開き、ロレンスはその問いにうなずく。

「村の総意ではなかったのですか」

「……」

 ラーデンが黙り、ボームが口を開く。

「ラーデン様と、俺たちみたいなラーデン様の味方以外はそれに賛成」

 なんとなく村の雰囲気は理解できた。

「祖父ちゃんたちは町に商いをしに行くなんて言ってたけど、俺やラーデン様を山に追い立てるようにしてたから、怪しいと思ったんだ。で、案の定村に戻れば、大人のほとんどが町に行ったって聞かされた」

「それで馬を駆って?」

「そうだよ。ラーデン様はひとりだと馬に乗れないから」

 ボームが手綱を握り、ラーデンがその後ろに乗る姿はやや奇妙ながら、なにか微笑ましいものがある。

「借金の話は、無かったことにして欲しい」

 ラーデンがそう言った。

「村はこれまで借金をしてこなかった。この先も借金は必要ない」

「ですが、スルトさんはあなたが村の経営に不安を抱いている、と言っていました。その不安を消すために、お金を借りたいと」

「……」

 ラーデンは黙る。

「その不安は、養殖がうまくいっていないからですか?」

 ラーデンは否定も肯定もせず、じっと器を見つめていた。

「俺は養殖がうまくいかなくなったのは、皮なめしのせいだと思ってるよ」

 口を挟んだボームが、苛立ちを隠さず言った。

「鹿皮の加工をやめたらいいんだよ。そうしたら池に魚を放すことができる。村は元通りだ」

 皮なめしが水を汚すことは間違いない。ちらりとホロを見たのは、皮なめしが原因かどうか調べに行く選択肢もあるだろうかと思ったから。

 ただ、ラーデンがボームに視線を向けて、こう言った。

「皮なめしはおそらく関係ない。村長たちは、きちんと水源を分けている」

「でも」

 抗弁しようとしたボームを、ラーデンが視線だけで黙らせる。

「不安はある」

 ラーデンが、ロレンスに向き直る。

「鹿猟は……そう、不安定だ。私は村に養殖を取り戻したい」

 朴訥とした語り方は、森の樹木の精霊のよう。ただ、ロレンスは隣で本物の森の精霊が、フードの下で耳をかすかに動かしたような気がした。

「それに、私は司教になどふさわしくない」

「そうでしょうか」

 そう言ったのは、エルサだった。

「お話を聞く限り、あなたは世に溢れるほとんどの聖職者より、聖職者にふさわしいと思いました」

 黒いものは黒、白いものは白、と言ってのけるエルサの言葉には、妙な迫力がある。

 ラーデンはなにかを言いかけたが、結局口ごもってやめてしまった。

 エルサはそんなラーデンにややもどかしそうにしてから、言葉を続けた。

「私は請われ、あちこちの教会で帳簿の整理を請け負っています。どこの教会にいる司教様たちも、経歴はご立派ですが、ほとんどの人がろくに聖典も読めず、お金の使いかたはさらに杜撰です。そういう人たちを一掃して、真に信仰のある人が司教になったら、と常々思っていました」

 エルサの言葉に、ラーデンは苦笑しながら目を閉じた。

「あなたはきっと、強い信仰の持ち主なのだろうとわかる。そんなあなたからそう言われるとは、私の生き方もさほど間違ってはいなかったと慰められる」

 見た目はいかにも体力ですべてを切り開いてきたようなのに、言葉の選び方は本物の聖職者のようだ。

「私は本気です」

 エルサの言葉に、ラーデンは目を開けて、逃げるようにボームを見た。

「どうも皆、私のことを買いかぶりすぎる」

「ラーデン様」

 ボームが嫌そうに言うと、ラーデンはため息をついた。

「ロレンス殿と言ったか。私はラーデン。ただのラーデンだ。故郷は若いころ、それこそこのボームの歳の頃に捨てた。もうかれこれ四十年は前だろう。本名を知っている者は、おそらくもうこの世にはいない」

 外での長年の力仕事は、独特の皮膚を形作る。汗と塵、それに太陽によって鞣された特殊な革細工のようになる。ラーデンの禿頭と両手がまさにそうで、ラーデンは自身の両手を見つめながら言った。

「私の故郷はラーデリの寒村だった。ラーデリと言ってわかるだろうか?」

 ラーデンの口にした国の名前に、思わず息を呑む。

「知っています……が、まさか、そんな遠方から?」

 隣に座るホロが、小首を傾げて見上げてくる。

「えっと、ほら、以前、氷に蜂蜜と檸檬をかけて食べる貴族の話をしただろう? 一年中夏の、灼熱の砂漠の国。それがラーデリだ」

「はは、そんな伝説のお菓子の話が確かにあったな」

 ラーデリはサロニアからなら、いったん西に向かって海に出て、船に乗らなければならない。

 陸路なら半分くらいの行程で済むが、途中の急峻な山脈を越えるのに命がけの旅になる。

 そして、どちらにせよ最低で三か月、下手をすれば半年くらいかかるだろう。

 大陸の南端まで行き、宝石を溶かしたような色の暖かい海に出会ったら、そこからさらに船に乗って島をいくつも辿り、対岸の陸地に渡る。

 それほどの遠方の地であり、ロレンスも名前しか聞いたことが無い。

「ラーデリ……それでラーデンなのですか」

 きっとこの近辺を探し回っても、ラーデリ出身の者などにはまず出会えまい。本名を本名だとわかってくれる者になどまず出会えないから、代わりに故郷の国の名を身にまとう。

 そういう心境は、旅暮らしをしていたからなんとなくわかる。

「私の村は吹けば飛ぶような寒村だった。しかも暖かい海は鮫だらけで、まともに魚など捕れない。私たちの村は……こちらの言葉でなんと言ったか、とにかく海の宝を探すことで生計を立てていた。滅多に採れず、収穫は一年に一回あるかないか。海賊みたいなものだった」

 海で獲れる宝というと、例えば嵐の後に浜に打ち上げられる琥珀などが有名だが、ラーデンが海賊だったならさぞ有名な一味を率いただろうと思えてしまう。

「一度も収穫のない年が三年続き、村は崩壊した。その頃には私は天涯孤独だったから、海の先を見てみたいと思って貿易船に漕ぎ手として乗り込んだ。海の宝石探しで腕っぷしはあったから、重宝された」

 舟の漕ぎ手は刑罰に使われるような重労働だ。ラーデンの体はその頃に形作られたのだろう。

「船から船を乗り継いで、いつの間にか寒い土地まで来ていた。あの頃は教会と北の異教徒との戦が盛んで、どの船にも理想に燃えた聖職者が乗っていたものだ。私が神の教えに触れたのは、その時だ」

「この土地にやって来たのも、その頃のことですか?」

「ん? ああ、そうだ。師匠……と呼んでいいのか、あの方にくっついて戦地を目指していた。ただ、昔はこの辺もひどい有様で、私はそれ以上先に進めなかった。向かおうとする先から逃げてくる人々を見捨てておけなかったのだ」

 ラーデンは自身が崩壊した村から外に出た経験を持っているので、余計に見捨てられなかったのだろう。

「師匠は別れる際、私に置き土産として、今の村の土地に関する特権を手に入れて来てくれた。説教をすれば小鳥さえも聞きほれるという人だったから、簡単なことなのだろう」

 土地の取得はラーデンがしたわけではない、ということにややほっとする。

「私はそこを死に場所と定めた。故郷を失くした人たちの故郷とすることに決めた。私のすべてをここに捧げようと誓い、落ち葉の水たまりを掘り返し、ため池を作った」

「なぜため池なんじゃ?」

 ホロは思わずといった様子で聞いてしまったらしい。

 ただ、確かになぜ思い立って魚の養殖をしようとしたのかは気になるところだ。

 ラーデンはホロの問いに、少しはにかんだ。

「聖典の一節で、私が真っ先に覚えたのがその話なのだ。神は飢えた民衆にひとつのパンと一匹の魚をもたらされた。人はそのパンを二つに割き、片方を隣の人に、また別の人は魚を半分に切り、片方を隣の人に。そうしてひとつのパンと一匹の魚が、千人の飢えた人の腹を満たしました、という説話だ」

 パンと魚は隣人愛の喩えなのだが、ラーデンはそれを文字どおりに実行したのだ。

「その土地には戦火から逃れてきた者がひとり、またひとりとたどり着き、やがてうわさを聞き付けた者たちがやってくるようになった。ため池での魚の世話や池の拡張なら、女や子供でもできる。人々が一丸となって働き、毎年溢れるほどの魚が収穫できた。私が子供の頃には夢見ることさえできなかったほどの魚だ」

「うちの鱒は絶品なんだよ! ロレンスさんたちは食べたのか?」

 ボームの問いに、首を横に振るしかない。

「我々は今年初めてここに来たんだ。食べられないと聞いてがっかりしたよ」

「あー……」

 心底悔しそうなボームにラーデンは微笑み、話を続けた。

「それから色々あったが、あっという間に四十年だ。文字通り焼け出されて村にたどり着いたスルトの抱えていた乳飲み子が、大人になって子をなして、それがこんなに大きくなる時間だ」

 ラーデンの視線を受けて、ボームは照れたように唇を曲げていた。

「私は神の教えに従って生きてきた。だが、司教になどなるつもりはない。私はあの村を守り、あの村で死ぬのだ。望むらくは」

 ラーデンは天の国を仰ぎ見るように、天井に目をやった。

「私の体を池のほとりに埋め、そこから生えた木影に、丸々と太った鱒が集うような、そんな村であり続けてほしい」

 視線を下げたラーデンは、静かに言った。

「私の望みはそれだけだ」

 老いてもなお力強さの消えないラーデンの声には、かえって、老境に差し掛かった者の悲しさがより一層濃く滲んでいた。

 隣ではホロがうつむきがちに、膝の上で手をぎゅっと握りしめている。飄々としているようで、誰よりもこの手の話に弱い、優しい心の持ち主なのだ。

「では、ここの教会が、村の人たちが遊んで暮らせるほどのお金を貸したとしても」

 そんな冗談めかした言い方に、ラーデンは疲れたように笑う。

「私は教皇庁になど行かない。あの村から、離れる必要などない」

 ホロのフードの下でまた耳が動いたような気がしたが、ラーデンの絞り出すような願いにあてられたのだろう。

 ロレンスはホロを見やってから、言った。

「わかりました」

 ラーデンはロレンスのことをじっと見て、無言のまま頭を下げたのだった。



★2020年6月10日更新の『狼と宝石の海≪第三部≫』に続く。
☆ひと足先に続きを読みたい方は、発売中の『電撃文庫MAGAZINE 2020年5月号』をチェック!