※この短編は電撃文庫MAGAZINE 2020年5月号掲載を抜粋したものです。
ホロを背負って宿に戻るのは何度目だと呆れるが、ホロも多分こうしてもらえるとわかっているから、油断しがちなのだろうとはわかる。
それに時折、演技ではないかと疑う時もあるが、もちろん気が付かないふりをする。
商人は客の要望に応えるのが喜びだ。
姫が全力で甘えてくるのなら、全力で甘やかすのみだった。
「さすがに冷えるな」
酒場から外に出ると、夜はすっかり秋の空気になっていた。ホロに上から毛布でも掛けてもらったほうがよかったかな、と思ったが、さすがに過保護すぎるかと苦笑した。
ずるりと背中から落ちそうになるホロを背負い直し、ロレンスは一歩一歩宿に向かって歩いていく。
「こいつ……年々重くなってる気がするんだよな……」
見た目は変わらないのに不思議なものだと思ったが、ふと、そうではないのかもしれないと気が付いた。ホロが重くなっているのではなく、自分の足腰が衰えてきているのだろうと。
こうしてホロを背中に担いで寝床まで運ぶのも、いつかは遠い日の思い出になってしまう。
ホロのわがままについつい答えてしまうのは、ホロの視点に立った時のことを想像してしまうからだろう、とロレンスは思っていた。
ホロだけがいつまでも見た目が変わらずに、自分だけが老いさらばえる。ホロは置いて行かれる側の身で、その日のことを想像すると、ロレンスはどれだけホロを甘やかしたって、甘やかし足りないと思っている。
自分は永遠には、ホロのことを守れない。死が二人を分かつ時までは、という結婚の誓いは、ロレンスが先に去ることの決まっている話なのだから。
宿の軒先に出ている露天の飲み場で、客たちから軽く囃され、苦笑しながら部屋に向かう。店主はもはや無言で先回りして扉を開け、ついでに万が一のための桶を用意してくれた。
やれやれとホロをベッドに下ろそうとしたら、ホロは目が覚めていたらしい。
自分から足を伸ばして降りて、とすんと尻もちをつくようにベッドに腰掛けていた。
「見慣れた光景だな」
ロレンスが笑うと、ホロは背中を丸めて、うー、と力なくうなる。
「気分悪いか?」
顔色はだいぶ戻っているが、念のために聞くと、ホロは顔を横に振る。もちろん酔っ払いが大丈夫じゃないと返事をした試しなどないので信用ならないが、ホロは首を横に振るだけではなかった。
手を伸ばしてこちらの袖をつかみ、隣に座って欲しそうにしてきた。
「はいはい」
弱っている時のホロは見た目よりも幼くなる。歳を取れば取るほど子供じみてくる、なんてよく言ったものだ。ロレンスがホロの右隣に腰を下ろすと、ホロはロレンスの肩に額を当て、言った。
「悪酔い、してしまいんす……」
自ら不調を口にするということは、だいぶ落ち着いてきたらしい。
ホロの背中に左手を回し、右手でホロの手を取った。
「途中でラウドさんが来てしまったからな。寂しかったか」
からかうように言うと、ロレンスとつないでいるほうの手にぎゅっと力を込めてくる。
「悪かったよ」
そう言って、ホロの耳の付け根に口づけをする。
ホロの尻尾は高価な香油を使って手入れをしているので、文字どおり花のような甘い香りがするが、耳のほうにはまた別の甘さがある。濃いホロの匂いがするのだ。
あまり嗅ぐとホロが嫌がるのでほどほどにすると、ホロは不意に言った。
「寂しかった、というのは近いかもしれぬ」
「……」
ロレンスはやや驚き、顔が勝手に気遣うような笑みを浮かべてしまう。
「いや、寂しかったんじゃ。それで悪酔いしてしまいんす」
ホロは自分から、耳の付け根をロレンスの頬に擦り付けてくる。
あまりのホロの気弱さに言葉を返せないままだったロレンスは、ようやく思考が追い付いてくる。
「……そう言えば、ラウドさんが来る直前、なにか言いたそうにしていたよな」
ラーデンのことでなにか気が付いたのだろうか。
思えばあの時から、ホロの表情は浮かなかった。ロレンスは答え合わせを求めるように、ホロとつないでいるほうの手を軽く揺さぶった。
ホロの小さな手が、力なく揺り返される。
「あれこれ頭を巡らすぬしは……たわけじゃということに気が付いてのう」
「ん?」
聞き返すと、握っている手に軽く爪を立てられる。
「ぬしは、たわけじゃ。わっちを驚かすくらい聡明なのに。答えは目の前にあったのに」
まるで謎々みたいだが、ホロは続けて言った。
「あるいは、わっちもかもしれぬがのう。鼻と耳が良いせいで、目が悪いことに気が付いておらんかったように」
ニョッヒラにいる時、そんな話になった。ホロはいつまで経っても文字が下手なのだが、どうやらその原因が目の悪さにあるようだと。硝子を磨いて作った、文字を拡大する眼鏡を渡すと、覗き込んで驚いていた。
では、その話を敷衍すると?
ロレンスはゆっくりと考えて、答える。
「……俺は、なにか偏った考えばかり巡らせていた?」
理詰めで考えれば、ラーデンの行動は不可解だった。司教への抜擢は村娘が王子に見初められるくらいの奇跡なのに、それを断る理由がある。しかもどう考えても、ラーデンが司教になれば、村の基盤は将来に渡って安定するというのに。
もしもラーデンが村のことを何よりも大事に考えているのなら、たとえ自分になにか不都合があったとしても、飲み込んで司教になる道を選ぶような気さえする。
だとすると、ラーデンを縛っているのは、理屈ではないなにかだ。
自分は理屈の話ならば、商いのような話ならば一家言ある。
しかし、ロレンスがホロに敵わないのは、もっと湿っぽい、人の機微にまつわる話だった。
「わっちゃあずっと、あの大木のようなやつのことを考えておった」
熊でもなく岩でもなく、大木。
確かにラーデンは、大木のような男だ。
「なぜあの頑固者は、周りからの気遣いを受け入れぬのかとな」
ホロもそこから思考を開始していたらしい。つまり少なくとも、スルトたちは本気でラーデンのことを気遣っている。
しかし、出発点が同じだけで、ホロはロレンスとは全く別の方向を見ていたらしい。
「わっちゃあ……なんと贅沢な、と内心苛々したものじゃ」
ロレンスがはっとしたのは、ホロの気持ちがわからなかったからではない。
踏んではいけないものを踏んだ時のような気付きがあったからだ。
「……それって」
ロレンスは思わず言葉を濁してしまうが、ホロは目を閉じて笑った。
「そうじゃ。パスロエ村の話じゃ。わっちが長いこと、おった村」
ホロは昔話のように、どこか眠そうに語る。
「それから、わっちが追い出された村」
ロレンスは息を呑むように、大きく吸う。
パスロエの村は、ロレンスにとってはホロと出会えた村だが、ホロにとっては、大切ななにかを失くした村でもあった。
「わっちは大事にしていた当の村人から、村を追い出された身じゃ。そのわっちからすると、あの大木はなにを贅沢なことで喚いておるんじゃ、と思いんす」
冗談めかしているものの、半ば本気なのだろう。
背中の後ろにある尻尾が、やや膨らんでいた。
「とはいえあやつの苦しみもまた、嘘ではなさそうじゃ。迷い、苦しんでおった。命をかけて守って来た者たちに、心底から心配されておるのに、なぜ? とわっちは思いんす。理屈に合わぬ。じゃからのう」
ホロは、ロレンスにもたせ掛けていた体を起こす。
「わっちゃあ、想像してみたんじゃ。あの大木になった気持ちで」
「ラーデンさんの?」
ホロはうなずくと、苦笑のような、痺れた足を触られたような顔を見せた。
「そのラーデンとやらは、自分が村から追い出されると思っておるのではないのかや?」
「ん……え? 追い、出す?」
あまりにわけがわからず、聞き返してしまう。
「追い出す……というのとは違うかのう。じゃが、似たようなことじゃ」
まったくわからない。
スルトたちの気遣いは本物だったし、スルトたちがラーデンを追い出す陰謀を巡らせているのなら、ホロがその耳で気が付いたはずだ。
どういうことかと見返せば、ホロは呆れたように笑っていた。
「考えてもみよ。自らのすべてをかけて作ってきた養殖池じゃろ? そこの魚がすべて死んでしまっておるんじゃ」
「だ、だが、村の人たちはこれまでのことを心底感謝しているはずだ。鹿を利用して別の稼ぎを見つけたのだって、これ以上ラーデンさんに負担をかけないためだろう?」
「うむ。そのとおり。じゃがな、わっちがそやつじゃったら……」
ホロは木窓から夜空を見て、ロレンスを振り向いた。
そして、頭突きでもするかのように、胸に額を当ててくる。
「寂しいと思いんす」
「寂……しい?」
ホロはロレンスに顔を見せないまま、うなずいた。
「パスロエの村の連中もな、人の知恵と力で、麦を豊作にする方法を編み出した。わっちがおらんでも麦を豊作にできた。わっちゃあ元々、村の麦を良く実らせてくりゃれと頼まれておったのじゃから、誰が豊作にしようとかまわぬはず。誰が豊作にしようと、豊作になるなら喜ぶべきことだったはずなんじゃ」
「……」
声の調子から、ホロが今にも泣きそうなことがわかって、ロレンスもまた苦しくなってしまう。
ただ、ロレンスが泣きたくなるのは、別の理由もあった。
ホロの言いたいことが見えてきて、はっきりと、自分のうかつさに辟易していたからだ。
「あの大木の村の池もそうじゃ。理由のひとつに、故郷の再現などという夢みたいな話があるのは、おかしくありんせん。じゃが、第一の理由は、人の腹を満たすためだったはずじゃ」
ホロは鼻をすすり上げ、自身が賢狼ホロとしてパスロエの村を守っていた時のことを思い出すかのように、言った。
「人の笑顔のためだったはずじゃ。新しい家族に新たな住処を与えるためだったはずじゃ。ならば、方法などどうでもよいはずなんじゃ。理屈の上ではの……」
理屈の上、という言葉の時だけ、ホロは顔を伏せたまま、はっきりと笑っていた。
それはパスロエの村でひどく傷ついた自分自身のことを、間抜けだと嘲笑う自傷の笑みにも見えた。
ホロはパスロエの村で、時の流れの中で忘れ去られ、あまつさえ古い時代の悪い風習の象徴だと見なされて、大きな狼の体が消え入りそうなほど、傷ついていた。
そもそも故郷に帰りたがっていたのだから、後ろ足で砂をかけて出てやるくらいでちょうどよかったのに、それができなかった。
理屈ではないから。
しがらみや思い入れというのは、割り切れるものではない。
「自分の中に別の誰かがおるような気持ちじゃ。それはきっと、あの大木もそうじゃろう。なりはでかいが、知恵の詰まった男に見えた。あの白髪のむらおさの言うことも、気持ちも、全部わかっておるはずじゃ。なのに心が言うことを聞かなかった……そんなところじゃろう」
スルトやボームたち村人のみならず、サロニアの司教や、エルサまでもラーデンをほめそやしていたし、気にかけていた。鹿の話だって、そもそもはラーデンがあまりに働きすぎるので、ということだった。皆がラーデンのためを思っていた。
だが、当のラーデンからしたらどうか。
自分が村の人々のために作り上げてきた養殖池から魚がいなくなっても、村人たちは自分たちの力で稼ぎを見つけてきてしまった。養殖の復活に奔走するのは自分だけで、あろうことか村の人々からは、村のことはしばらく忘れて一年ほど遠くに向かい、司教になって来てくれないかと告げられる。
ならば、ラーデンの耳にはこう聞こえたとしても、おかしくなかったのだ。
司教になってくれ。今のあなたが役に立つことは、それしかないから。
振り払ってもまとわりつく深夜の闇のように、ラーデンにその言葉がまとわりついただろう。
「それに、あやつは膝が悪かったじゃろ。きっと、鹿猟にも参加できないんじゃ」
「えっ」
それは心底驚いた。
「なんじゃ、気が付かんかったのかや」
顔を上げて鼻をすすり上げるホロに問われ、間抜けを晒すようにうなずく。
「村の人たちに取り押さえられようとしても、振りほどいてたのは?」
「左足だけで踏ん張っておった。馬に一人で乗れぬというのも、乗り降りが危ないからじゃろ」
ホロは目じりを自分の手で拭っていた。
そんなホロの様子を見るともなしに見ながら、ラーデンのことを想像した。今なお大きな体と膂力を見れば、若い頃がどれほど力に満ちていたか容易に思い浮かぶ。
ロレンスでさえ、例えば酔いつぶれたホロを運ぶ時に体の衰えを感じ、ひどく寂しくなるし、老いというものを実感することがある。
ならばこれまでの人生を、体の頑丈さで切り開いてきた者ならば、その衝撃は一入だろう。
膝が痛く、作業に支障が出ている中、養殖の魚が全滅してしまう。膝のせいもあってか、養殖の再起は思うようにはいかない。とどめとばかりに、村人たちが軽くこなしてしまう鹿猟にも参加できないとなったら、その心境やいかに。
椅子に座っていてくださいと告げられるラーデンの姿は、想像すればあまりに痛ましかった。
魚の養殖に執着する理由は、故郷の海のことがあるからなんかではない。
ラーデンは、手のひらから零れ落ちていく水を、必死にこぼすまいとしているのだ。
かつて自分が村の中心だった時、空を支える巨木であった時の思い出を。
それが今は、村人の先頭に立つ者はかつて背中の後ろにいた者で、己の信念を支えてくれた膝でさえ、言うことを聞いてくれない。
そして、これからもっと体は衰えていく。村での役割は減っていく。
ラーデンは時の急流に飲み込まれ、溺れようとしているのだ。
「居場所がなくなるかもというのは、怖いことじゃ」
ホロは広い世界で、ただ一人残される恐怖を知っている。必要とされなくなる残酷さを知っている。
そんなホロが、ロレンスを見た。
泣いているかと思ったら、笑っていた。
「理屈の堂々巡りをするぬしを、わっちはたわけじゃと言ったがのう」
ホロはもう一度、笑顔のまま鼻をすすり上げる。
「わっちも本当は教会ですぐ気が付くべきじゃった。でも、できんかった。なぜならのう」
ホロははにかむような笑みになって、言った。
「ぬしはわっちに居場所をくれた。甘やかされて、そういう悲しいことをすっかり忘れておった。湯の溢れる、実に居心地の良い場所じゃからな」
屈託のない笑顔だけに、ロレンスは余計に胸が締め付けられる。
自分はホロにたくさんのことをしてやれていると実感できた。
けれどそれでさえ、ホロの孤独を永遠に癒すことはできやしない。
この時間を止められるように願って、ホロの華奢な体を強く抱いた。
そしてロレンスの口をついて出たのは……憎まれ口だった。
「ついでに酒も飯も出てくるし、言うことなしだろ」
ホロの狼の耳がぴんと立ち、腕の中で身じろぎする。
「たわけ! わっちゃあ真面目に――」
「だからだよ」
怒るホロを抱きしめたまま、胸中のざわめきをどうにか押さえつける。
そしてホロを腕から離し、その鼻の頭をつまんだ。懸命に、悪戯っぽく笑いながら。
「お前の気持ちを正面から全部受け止めたら、今すぐお前に一切合切貢ぎたくなってしまう。そうしたら、一年後の酒代がなくなってしまうだろ?」
ホロの気持ちは巨大な酒樽に似ている。少しずつ小分けにしないと、すぐに飲みすぎ、酩酊し、頭から樽の中におっこちてしまう。
「エルサさんからは、家計の大事さも学んだばかりだしな」
その名を出すと、ホロの顔が面白いくらいに不機嫌そうになる。
「そもそもここ何日か飲みすぎだってのもあるが」
ホロはいよいよ唇を尖らせる。
「金は使っておらぬ」
町の困難を解決したということで、確かに酒場に行けば誰かしらが酒の差し入れをしてくれる。とはいえ飲みすぎの自覚はあるらしく、ベッドの上に足を上げ、膝を抱えるようにしてそっぽを向いてしまう。
ロレンスはため息交じりに笑い、言った。
「お前が酔いつぶれてたら、その間、寂しいじゃないか」
ホロは呆気に取られたように口を半開きにして、ロレンスのことを見つめていた。
そして、固まっていた顔が緩んでくると、嬉しさをかみ殺すように、口の片方を吊り上げ気味にした。
「……たわけ」
「たわけだとも」
「まったく、これじゃからぬしは――」
「いつまでも可愛い男の子なんだよ」
間抜けだなんだとホロに言われるので、自分からそう言ってやる。
先手を取られたホロは悔しそうに、けれども嬉しそうに笑っていた。
「理屈じゃないよな」
自分が間抜けなのもそうだが、ラーデンの話だ。
理はスルトのほうにある。
だが、理屈ではどうにもならない感情が、ラーデンにはある。
「んむ。問題はあやつの不安じゃ。あの大木も、本物の大木ではありんせん」
それはホロの真の姿が見上げるばかりに巨大な狼で、人など簡単に丸呑みにできるものだとしても、ホロの心までが分厚い毛皮で覆われているわけではないのと同じこと。
彼らがすれ違ったままにしておくのは、パスロエの村にホロを一人残してくるようなものだった。
「だが、どうしたらいい?」
ロレンスが独り言のように呟くと、ホロがロレンスの頬にそっと触れてくる。
「ぬしが用意してくれたニョッヒラの湯屋で、たくさん見ておるではないか」
「ニョッヒラで……ああ、貴族の代替わりか」
親子二代でやってくる貴族たちの話。権力にしがみついて離れたくない者たちを、困った人だと思っていたこともある。
けれども、彼らが自分の居場所を失う恐怖におののいていたのだとしたら、今はいくらか優しくできる気がした。
「代替わりの儀式は、まずは功績を褒めまくるのが定番だったよな」
「感謝の言葉はいくら向けても、向けすぎることはないからのう。理に適っておる」
そういうことだったのか、とロレンスは今更ながらに学ぶ。ニョッヒラにいた頃は、そういうものかと深く考えずにいた。
「じゃあ、ラーデンさんの功績とは?」
問うまでもなく、なにもなかった山間に池を作り、魚を増やし、人々の腹を満たしたこと。
けれどそれならば、本当に感謝を示すとなると、養殖の再開に向けて村を挙げて全力を尽くすことになる。資源と労力に限りが無ければそれでもいいのだろうが、スルトさんたちは鹿にまつわる仕事をようやく安定させたということだった。
それを放り出し、不安定な養殖に戻るというのは、危険ばかり大きいことになる。
なにかもうひとつ、別のことで感謝を示せないか。
ラーデンが費やしてきたものすべてを輝かせる、なにかだ。
「あの大木は、生まれ故郷の海で宝石を採っておったんじゃったか。ほれ、ミューリが好きな吟遊詩人の物語で、そういう落ちの話があるじゃろう?」
「それってあれか? 池の魚は確かに村の人たちにとっての宝石でした、めでたしめでたし……みたいな演出ってことか?」
「……言われてみると、なんとも安っぽいのう」
ロレンスはうなり、ふとテーブルの上に聖典の抄訳が乗っていることに気が付いた。
「そういえば、ラーデンさんは聖典の一節を覚えていて、山間に池を掘ったって言ってたよな」
「魚を増やす話じゃったのう」
どうせなら肉にすればよいのに、とかホロは適当なことを言っていたが、ロレンスは少し手を伸ばして抄訳を手に取る。聖典丸ごとの翻訳ではなく、よく目にする説話に絞って訳されたものらしい。それはコルが眠気をこらえ、玉ねぎをかじりながら毎日勉強し、積み上げてきたものの成果だった。
ぱらぱらとめくれば、ロレンスも知っているたとえ話がいくつもあり、魚の話ももちろん載っていた。そして食べ物と絡んだ話は受けがいいものなのか、いくつか似通った説話が収録されていた。
俗語で書かれていると、こんなふうに簡単に読めるものかと改めて驚く。苦労して教会文字を覚えたことが馬鹿らしく思えてくる。
そうして頁をめくっていたら、ロレンスは目に飛び込んできた一文に心を奪われた。
「そういえばぬしよ、海の宝石と言えば……む、どうしたかや?」
ホロが怪訝そうにこちらを覗き込んでくる。
ロレンスが視線を手元の冊子に向ければ、ホロは目を眇めて文字を読み、たちまち尻尾を膨らませていた。
「ほほう、ほう!」
「これ、どうだ?」
ホロに尋ねると、ホロはロレンスが驚くくらい嬉しそうだった。
「わっちも今まさに気が付いたことがありんす。まるでぬしがその一文を見つけてくれるのを待っておったみたいなことじゃ」
「へえ? どんな?」
以心伝心、なんていう言葉もある。
もったいぶったように口をつぐんで見せるホロは、にやりと牙を見せて笑ってから、言った。
「珊瑚じゃ。海の樹木と言ったじゃろ?」
「ああ。それが?」
「では、村の連中が捕まえておるのはなんじゃった?」
「それは……ああ!」
鹿。
その頭には、樹木のような角が生える、森の民。
「それと、ぬしはほれ、あの臭い粉を売りつける話で言っておったじゃろ」
ニョッヒラで採れる硫黄の粉は、湯に溶けば温泉気分が味わえる代物だ。
町の人たちに粉が売れ、彼らは祭りの気分に浮かれて、こうも言っていた。
穴でも掘って温泉を作ろうか、と。
「村の連中がこれまで生きてこれたのは、あの大木のおかげでありんす。鹿の猟に目をつけたのは誰かの慧眼でも、それまで連中の腹を満たしたのは間違いなく大木の魚じゃ」
「だったら池の中に鹿の角を沈めて、言えるよな」
あなたの作った池は、確かに宝石で満ちていました。珊瑚のような、故郷の村ではついに手にとることの叶わなかったものではなく、現実に手にできる物として。
「それで、仕上げがこれかや」
ホロは聖典を示して言う。
そこには、神が未来の聖者に信仰を授ける、有名な場面が記されていた。
「ラーデンさんが司教になってくれないと意味がないからな。でも、これならいけると思う」
スルトたち村民とラーデンは、今でこそ互いに向いている方向が違ってしまっているが、それは彼らが本当に望んでいることではない。彼らはもっと先まで、ずっと素晴らしい未来まで、供に歩けるはずなのだ。
ロレンスとホロが、二人でニョッヒラにたどり着いたように、この先も楽しい毎日を送れるはずであるように。
「スルトさんたちはラーデンさんに感謝を示せるし、ラーデンさんには新しい役目を担って欲しいと伝えられるはずだ」
「ついでにあれじゃ」
ホロは、すっかり涙の乾いた顔で笑った。
「うまい鱒もそのうち食えるかもしれぬ」
ロレンスはホロの食い意地に笑い、そうかもな、と答えたのだった。
★2020年8月7日更新の『狼と宝石の海≪第五部≫』に続く。
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