かつては農村が点々としていただけの平原に、ある日神から遣わされた聖人が庵をこしらえた。神の愛に飢えていた民が庵を訪れ、やがて人々の交流が生まれ、商人が引き寄せられた。いつしかなにもなかった平原に、庵を中心とした市が立つようになり、ついには町となった。
大まかにはそんな創建神話を持つサロニアだったが、真実のところは正体の怪しい人物が口八丁で住み着いて、時流に乗って発展し、町としての体裁を整えていったのだろう、というのが知り合いの行商人の弁だった。その話を聞いた女司祭エルサは、さもありなんと思いながら、はちみつ色の目でサロニアの賑やかな様子を見渡したものだった。
エルサは元々サロニアからはずいぶん離れた村で暮らしていたのだが、今はそこに家族を残して各地の教会を回っている。どこの教会も世の流れに翻弄され、体勢を立て直すのに四苦八苦しているため、エルサのように実務能力に長けた人物が必要とされているのだ。エルサは教会のためになるならばと請われるままに移動しているうち、こんなところにまでやってきていたから、もちろん信仰には篤いほうである。
ただ、サロニアの創建神話の裏側を聞いても冷ややかなのは、世の中には「本物」というものが少ないのを知っているだけのことだった。
そんなわけで、サロニアの町の教会がいまいち信用のおけない司教に率いられていても驚かなかったし、どうやらまたぞろ金銭を巡ってひと悶着起きている様を目の当たりにしても、小さなため息しか出てこなかった。
「なんじゃ、辛気臭い」
サロニアの町は、大市を締めくくる祭りに沸く真っ最中だが、そこだけはひっそりとした路地にある居酒屋の軒先でエルサが昼食を採っていると、聞き慣れた声がして顔を上げた。
「奇遇ですね」
エルサの言葉に返事をせず、座っていいかどうかも確認せず対面に座り、慣れた様子で店の主人に注文を出しているのは、亜麻色の髪の毛が映える歳若い少女だ。
とはいえその見た目に反して妙に世慣れた雰囲気なのは、その少女のような見た目が仮の姿であり、真実のところ数百年を生きる狼の化身であるからなのだが、エルサはこのホロを見やるたび、狼という存在の印象が自分の中で変わっていくのを実感する。
それがいいことなのか悪いことなのかわからないが、どういうふうに変化しているかをこの狼の化身が聞いたら、きっと怒るだろうとエルサはわかっている。
「ぬしがこんなうらびれた悪い場所におるとは意外じゃな」
主人が運んできた葡萄酒と、肉やら野菜やらがごろごろ入ったごった煮の器を受け取り、ホロが言った。
「まさにその煮物がおいしいんですよ。それに、静かですからね」
「そういえばぬしは気取った教会の手先ではなく、小さな村の小娘じゃったのう」
子供が三人もいるのに今更小娘と呼ばれるのは逆に面映ゆいが、何百年と生きる狼の化身からすれば、初めて出会った十数年前というのは、ついこの間くらいの感覚なのだろう。
エルサはそんなことを思いながら、麦酒に口をつける。
「しかも昼から酒とは良い御身分じゃ」
「神でさえ週に一度は休まれたものです。私はなすべきことをなしていますよ」
普段から深酒やだらしのない生活をエルサにちくちく刺されているホロは、面白くなさそうに顔をしかめ、火がとおりすぎて固くなった鶏肉を、牙を見せながら軟骨ごと噛み砕いていた。
「こちらこそ意外です。ロレンスさんと一緒ではないのですか」
この麦の豊作を司るという狼の化身は、どういう神の御導きなのか、少し抜けたところのある行商人の男と夫婦になった。二人が結ばれる手助けをわずかながらでもしたエルサとしては、彼らの夫婦仲が良好なのは喜ばしいことだが、いかんせん暑苦しいほどに仲が良い。
あるいは仲が良すぎてまた喧嘩でもしたのかと思えば、若い見た目には不釣り合いな、年季の入った様子で肩をすくめたホロは、葡萄酒を啜りながら答えた。
「あのたわけは町で人気者でのう。朝からどこかに行ってしまいんす」
頭巾の下に隠された狼の耳が不機嫌そうに揺れていた。
案外人見知りで、そのうえ寂しがりな面もあるこの狼は、一人で町をぶらつくくらいなら、小言を言ってくる苦手な知り合いと卓を囲むほうがまし、とでも思ったのだろう。
「確かに立て続けに大きな問題を解決されましたものね」
最初はこのサロニアの町の人々を苦しめていた、複雑で莫大な借金の問題だった。大市の取引のためにやってきた商人たちが、揃いも揃って借りた金を返せない状況に陥っていたところを、銀貨の一枚も費やさずに多くの借金を消して見せたのだから、まさに魔法と言えるだろう。
それだけでも町の年代記に名を残すのに十分なところ、かつてはサロニアの飢饉も救ったことのある養殖池の開拓者を巡る問題まで解決し、最終的には広場に穴を掘って海に見立てた池で盛大な劇が演じられた。
今はそこに湯を張って、ニョッヒラから持ってきたという温泉の素を入れ、大人たちは湯に足を浸したり子供たちが飛び込んだりと、大市の賑わいに花を添えていた。
ただ、それらの問題を解決したロレンスの横には常にホロがいて、妙な迫力と酒の飲みっぷり、それに偉大なる商人クラフト・ロレンス殿の手綱を握る幼な妻として認識された彼女の人気もまた、高いはずだったのだが。
「ロレンスさんだけではなく、あなたもお酒のお誘いは多いのでは?」
ちょっと前には、大市を締めくくる祭りに供される酒の選定を任され、昼間から泥酔していたはずだ。
今は酒飲み相手に困るはずもなく、無類の酒好きなので誘いを断る理由もなかろうと思ったのに、エルサの対面に座るホロは顔を背けて疲れたような顔をしていた。
「ああいうのが楽しいのは最初だけじゃ」
「……構われすぎて辟易、というところですか」
尊大なようで寂しがり。けれどあんまり持ち上げられるのは嫌。この異教の神にはそういう面倒なところがあるのだが、それこそ神と呼ばれるような者たちの性格なのかもしれない。
エルサはぬるくなった麦酒を飲もうとして、ほとんどジョッキが空なことに気がついた。
昼ご飯も食べ終わっているので、そろそろ教会に戻ろうか。
そう思っていたところ、目の前ではホロが陰鬱そうな顔で葡萄酒を舐めているし、鶏肉をばりばり噛み砕いただけで煮物も全然減っていなかった。
挙句になにやら落ち着かなげに背中を丸めていれば、エルサにも察するところがある。
エルサの口からため息が出てきたのは、出会った頃からなにも変わっていないという呆れと、昔と変わらないその様子に、なんだかほっとするところがあるからだ。
「ご主人、葡萄酒の追加を!」
店の奥に向かって空のジョッキを掲げて注文を出すと、向かい側の席でホロが目を丸くしていた。
「単に暇なだけなら、あなたは宿でごろ寝しているはずです。なにか私と話したいことがあったのでは?」
御年数百歳で、賢狼とさえ呼ばれるようなホロなのに、首をすくめて口をつぐんでいる。そんな様子に、まったくうちの子供と同じだとエルサが胸中で呟けば、それが聞こえたかのようにホロがエルサを見た。
「……笑わぬかや」
エルサは臨時とはいえ、女司祭の身だ。
「人の悩みを笑うようでは、神の僕は失格です」
ホロはそれでもなお一瞬目を逸らし、葡萄酒の残りを一息に飲み干すと、エルサに負けじとばかりにもう一杯注文したのだった。
往時は数多の村人たちが彼女の前に跪き、御託宣やらありがたいお言葉やらを賜っていただろうに、葡萄酒を手にしながら背中を丸めがちに話すホロの様子は、歳を取りすぎて子供に戻った村の長老たちにそっくりだ。
「あのたわけはわっちのことをなにもわかっておらぬ」
決まり文句まで一緒なのだな、とエルサはある種関心ながら、話を促した。
「というと?」
「あやつがなんだかややこしい話に呼ばれておるのは知っておるかや」
「ややこしい話」
今、ロレンスはサロニアの町では最大の有名人であり、彼に任せればどんな問題もたちどころに解決すると評判だった。商人たちのいがみ合いから夫婦喧嘩の仲裁役にまで引っ張り出されているらしいが、さてそのうちのどれだろうとエルサは思案を巡らせた。
「ぬしのところも関係しておると聞いていんす」
「ははあ」
すぐに思い当たることがあった。
「町の関税を決める話し合いですか」
「よくわからぬが、あれそっくりな町の商人たちが角突き合わせておるそうではないか」
「そのようですね」
軽い返事にむっとしたのか、ホロが眉根にしわを寄せた。
けれど、エルサもまたため息をつくと、ホロはきょとんとしていた。
「私もその問題で、教会にいたくなかったのです。まったく呆れた話ですから」
それでわざわざこんなところで昼食を採っていたのだが、不意にエルサの耳に、ぱたぱたと毛織物をはためかせるような音が聞こえてきた。
「ほうほう」
ついさっきまで生気のない顔をしていたホロが、人の困り顔を見てたちまち元気になっていた。楽しそうに服の下でふさふさの尻尾を振っているのだが、まったくいい性格だと思いつつ、あけっぴろげなホロのそういうところがエルサは嫌いではない。
「町の集会所で話し合われているのは、この町に流入するたくさんの商品の関税についてです。この葡萄酒が安く飲めるか高く飲めるかを決める作業、と言えばわかりやすいでしょうか」
ホロは手元のジョッキを見て、話ごと飲み込むかのように葡萄酒をごくりと呷った。
「葡萄酒を安く輸入したい葡萄酒商人もいれば、商売の競争相手である葡萄酒に高い関税をかけて欲しがる麦酒商人もいるわけです」
「ふむ」
「そういう利害の調整役を担う人は町によって様々ですが、この町ではおおむね教会が引き受けています」
町の創建神話にひとりの聖人がいた、というせいもあるだろうが、本当のところは教会が町の関税から大きな利益を挙げる利害関係者の一人だからだ。
「そういえばここの教会の主は実に生臭かったのう。酒飲み仲間としては楽しいたわけじゃが、ぬしは嫌いそうじゃな」
「悪い人ではないと思うのですが、いかんせん調子のよいところが多く……」
元々エルサが助っ人として呼ばれていたのは、ヴァラン司教領という土地にある聖堂だった。そこでロレンスたちと再会し、助けを借り、聖堂の財産を高値で売ることができた。その話を聞きつけたサロニアの司教は、サロニアの厄介事も体よくエルサに押し付けていたのだ。仕事をすることそのものはエルサも苦ではないのだが、なんとなく釈然としないところがあった。しかもそれが清貧や節制を旨とすべき教会の、金儲けに通ずることとなればなおさらだ。
エルサはついつい愚痴を口にしてしまったことにはっと気がついて、咳ばらいをすれば、目の前でホロが楽しげに歯を見せて笑っていた。
「ごほん。とにかく会議ではお金を巡る利害がむき出しになりますから、みんな自分たちの言い分を通したくて必死です。そこで発言に絶大なる重きを置かれるロレンスさんが担ぎ出された……ということだと思うのですが」
それでホロが不機嫌そうにしているというのは、自分の相手をしてくれなくて寂しいということだろうか。けれどそれだけならば本人にそう言えばいいのではないかと思うのだが、この二人には昔から自分の気持ちを相手に伝えないまま、勝手に悶々としているようなところがある、とエルサはよく知っている。
似たもの夫婦ということなのかもしれないが、近くにいるほうの身にもなって欲しいとエルサは胸中で呟いた。
「あれが町で大事な役目を担っているらしいことはわかりんす。それに、わっちを一人にする罪滅ぼしはたっぷり受けておる」
小さな胸を張って自慢げに言うホロに、エルサははいはいと返事をしておいた。
「じゃが、そもそもそんな話に頭を突っ込んでおることが問題なんじゃ」
「そうですか? 町の人たちが頭を悩ませているのは事実ですし、いつかは解決されなければならないことです。ロレンスさんという部外者ならば、かえって町の利害調整にはうってつけでしょう。彼は彼の責任をとてもよく果たしていると思いますし、町の中で活躍すれば、あなたも鼻が高いのでは?」
「それは、そうじゃが……」
歯切れの悪いホロに、エルサはため息交じりに言った。
「そもそも、ロレンスさんはあなたに良いところを見せたくてそうしているのだと思いますが」
ヴァラン司教領の聖堂で再会してから、ロレンスのホロに対する甲斐甲斐しさは呆れるほどだし、十年ぶりだという旅にずいぶん張り切っているのも随所に見て取れた。
そしてこのわがままで乙女なところのある狼は、そういうことこそ好きそうなのにとエルサが思っていたら、ホロはひときわ大きなため息をついた。
「……立て続けに三回目じゃ。げっぷが出てしまいんす」
子供たちに構われすぎてぐったりしている、村に住み着いた老犬を見ているようだった。
ホロがなににげんなりしているのかエルサにも理解できたが、やっぱり結論は決まりきっている気がした。
「そうお伝えしたらどうですか」
嫁入りしたばかりの幼な妻でもなかろうに、とばっさり切って捨てると、ホロが背中を丸めて嫌そうに葡萄酒を啜った。
「それができれば苦労はありんせん。あのたわけを焚きつけたのは、その……ある意味わっちじゃからのう……」
真の姿に戻れば大軍勢でさえ蹴散らせそうな狼なのに、たったひとりの元行商人相手に尻尾を丸めているのだから、面白いものだ。エルサはそう思いつつ、この狼がまたどんな罠に自ら嵌まったのか少し興味が湧いてきた。
「焚きつけたというのは?」
ホロは丸めていた背中を伸ばしたものの、あらぬ方向を見ると肩と首を揃ってすくめ、何度目かわからないため息とともに言った。
「わっちゃあぬしの手助けもあって、あれと一緒になれた」
エルサが思わず目を見開いてしまったのは、ホロがいきなりなにを言い出すのかということ以上に、感謝されているらしいことに驚いたからだった。
「なんじゃその顔は……。ぬしの後押しがあったおかげでわっちらが一緒になれたことくらい理解しておる」
エルサがホロと同じ荷馬車に乗ったとき、ずっとホロの居心地が悪そうだったのは、どうやら大きな借りがあると認識していたことも原因にありそうだ。
「とにかく、あれと一緒になれた。わっちゃあ実に幸せじゃ。阿呆になりそうなほどにのう」
「それは……そうですね。はっきり言って、ロレンスさんに甘やかされすぎです」
御年数百歳の狼は、悪びれもせずに答える。
「あれは好きでそうしておる」
「そうでしょうとも」
所帯を構えて十数年だというのに、出会った頃より仲睦まじい。
エルサはその甘ったるさを押し流すように、葡萄酒を啜った。
「じゃが、わっちがあれの手を取ったということは、あれが進みたがっていた道からあれを引っ張りよせた、と言うこともできるじゃろう?」
「まあ……そうですね」
どちらかというと、危なっかしいところのあるロレンスをこれ以上放っておけない、というほうが近いのではないかとエルサは思ったが、ホロなりに思うところがあるらしい。
「あなたは、それが間違いだったと?」
「……あやつの前には、世を統べる大商人になれたかもしれぬ道が開けておった。じゃが、もう大騒ぎはこりごりじゃと、わっちはあやつの手を引いた」
エルサは生活圏があまり被らないので聞きかじりだが、北の地では絶大な権力を誇る大商会の危機を救い、そこに誘われていたという話は知っている。
確かにその話を受け、ロレンスの才覚とホロの知恵があれば、今頃はどこかの町でお大尽と呼ばれていた可能性は十分にある。
とはいえ、あのロレンスが町の名士となって数多の人の上に立っている様子も、エルサにはなんだかうまく想像できない。ニョッヒラの湯屋の主人に収まっているくらいがちょうど良いように思えるのだが、ロレンスのことが大好きなホロには、そう思えないのかもしれない。
まったく、恋は盲目だとよく言ったものだと肩をすくめていたところ、ホロが言った。
「それで……ついそのことを、口にしてしまってのう」
「……」
なんと愚かな、というのが顔に出てしまったのだろう。ホロが苦しそうにも見える顔で、唸りながら牙を見せた。
エルサはため息と咳ばらいを一緒に出して、そんなホロを見据えて言った。
「ロレンスさんはあなたとの生活がなににも勝ると思って、あなたの願いを受け入れたはずです。その決断に後悔なんてしているとはとても思えません」
「わかっておる!」
ホロの荒げた声に驚き、小鳥が飛び立った。
そして、ホロはもう一度「わかっておる」と忌々しそうに言ってから、頭を抱えていた。
「久しぶりに旅に出て、気が緩んでおったんじゃ……。それに、荷馬車の上だの旅籠の夜だのには、考える時間が山ほどあってのう……。なにより」
と、ホロがテーブルを見つめながら、言った。
「見知らぬ暖炉の火に照らされたあやつは、わっちと過ごした時間の分だけ歳を取っておった。慣れた湯屋におると、気がつかなかったんじゃがな」
ホロの姿はエルサが出会った頃の少女のままで、きっとエルサが杖を突いて歩くような歳になっても同じままだろう。ホロにとっては、十年や二十年というのはほんのちょっとした寄り道に過ぎない。
けれど、ロレンスにとってはそうではない。
出会った頃と同じ感覚で旅をしていたら、ふとしたはずみに、あるいは薪の明かりが照らす横顔に、隠せぬ老いを見たのだろう。
エルサはホロが紙とペンを持ち歩き、日々の出来事を記していることを知っている。
容赦なく流れる時の奔流を、少しでも手元にとどめておくかのようなその行為。
エルサはもう、ホロのことを笑うことも呆れることもできず、テーブルの上の小さな手に、そっと自分の手を重ねていた。
「……わっちゃあ、あやつからとても大きなものをもらっておったんじゃと気がつきんす」
ホロは重ねられた手をじっと見ると、自嘲気味に笑って手を引いた。
「そんな折り、ぬしらの山を売るときに訪ねたデバウとかいう商会じゃ。あれがまた目も眩むほどの大きさでのう。賑やかで、活気に満ちて、きらびやかじゃった。こんな世界をあやつの手から奪ったのかと思ったら……なんだか急に怖くなってしまいんす」
エルサ自身もテレオという小さな村の生まれなので、ホロが受けた衝撃というのはなんとなく想像できる。巨大な都市の巨大な大聖堂を見て、一度も抱いたことのなかった出世欲というものの衝動に驚かされたこともある。
けれどそれはあり得たかもしれない夢の残滓のようなもので、いざ手に入れれば多くの輝きは失せてしまうたぐいのものだし、今とは違う道を歩んでしまえば、今まで歩んできた道で得てきたのと同じものを得られるとは限らない。
この人生という旅路は、やり直しの利かない残酷なものなのだ。いつもあの判断は正しかったのかと思いながら、足元に続く道を歩くしかない。
長い時を生きるホロならば、そのことをいくらかの諦めと共に受け入れていたろうに、それが最愛の伴侶の話となると、冷静ではいられなかったのだろう。
とはいえ、やはりロレンスがこの人生を後悔しているとは微塵も思えないので、そこに自信を持てないような発言は、なによりロレンスにとって失礼なことだとエルサは思う。あれだけ愛されているのだから、全力で、確信をもって、相手も幸せなはずだと信じるのが、呆れるほど愛されている者の責任というものだろう。
エルサは聖職に就く者として、故郷の村では夫婦たちの揉め事も仲裁している。なのでこの手の話は千回だって見てきた。人の何十倍も生きているあなたがどうしてそんな間抜けな穴に足を取られているのかと小言が喉から出そうになるが、ホロも自分のうかつさを十分に反省しているようだ。
しかもホロには、ホロ特有の事情がある。
奇妙なふたりの間を取り持った者として、エルサはホロが引いた手を無理に掴み、励ますようにぎゅっと握ってから離した。
「お話は分かりました」
町ではホロがロレンスの手綱を握っているなんて話になっているし、一見するといつもロレンスはホロのわがままに振り回されているが、ロレンスから離れられないのはむしろホロのほうだ。
かといって、ロレンスが完璧な王子様かというと、そんなこともないのが世の中というものである。
「絶妙な甘さの蜂蜜酒に、無思慮に砂糖を足されているといったところですものね」
エルサの言葉に、ホロは心底げんなりした顔をしてみせた。
「まったくそのとおりじゃ。しかも今なお嬉しそうに、巨大な砂糖壺を持ってこようとしておる。そもそも、わっちの失言は、このあいだのややこしい借金の話で十分終わっておったはずなんじゃ。あのたわけはすべての借金を消してみせてから、こんな魔法が使えるのだから大商人になるなど簡単じゃとのたまいんす」
ちょっと子供っぽいところがなきにしもあらずだが、ホロの不安を払うには十分すぎるものだろうし、乙女趣味のホロの喜びは、決して小さくなかったはずだ。
しかし、とエルサは思う。あのロレンスを見てついつい羊を連想するのは、人のよさそうなところというよりも、加減の分からないというか、気の利かない鈍いところがあるからだ。
「そしてうまくいって味をしめ、今度は関税の話をうまくまとめて、あなたに成果を見せたがっていると?」
エルサの言葉に、ホロが長くて大きなため息をつく。
「……そのとおりじゃ」
愛する妻のため、何度だって格好いいところを見せたいという男心はわからないでもない。
神の僕であるエルサとしては、仲良きことは良いことではないかと思うし、その都度褒めて感心してやるのも良き妻の勤めではなかろうかと思いつつ、それはあくまで理屈の話だ。
エルサもまた所帯を構え、底抜けに人は好いがいささか鈍いところのある男を伴侶とした。
テレオの村での日々の生活を思い返し、旦那のエヴァンから同じようなことをされたらと想像するのは容易なことだ。初回はきっと嬉しいだろうが、二回目は笑顔が引きつって、せいぜい耐えられるのは三度目までだろうと想像できる。
「で、それだけならばまだしもじゃ」
「まだなにか?」
「そこにぬしの教会が出てきてのう。どうやら口車に乗せられておるようなんじゃ」
教会で口車と言われたら、誰が乗せているのかはすぐにわかった。
「司教様が?」
「んむ。その司教とやらは、あやつの協力を得ようと、妙な褒美を約束したらしい。それで」
ホロは葡萄酒に口をつけようとして、空だったのか意地汚く音を立てて啜り、エルサのことを胡乱げに見た。
「あのたわけは、貴族になるのも悪くないとか言いだしておる」
男はいくつになっても子供のまま。無邪気に夢を見て笑うロレンスの様子がエルサの目に浮かび、子供たちと一緒になって大騒ぎをしては自分に叱られているエヴァンの顔と重なった。
「どうもあのたわけは、娘のミューリがいなくなってから、以前の夢見がちなところが顔を見せ始めてのう。わっちの件をダシにしておるのではないかとすら思いんす」
「あー……」
村でもそんな相談を受けることがある。子供を育て終わったと思ったら、家にいる一番でかいのが子供みたいなことを言い出している、と村の女たちがため息をつく。
男たちはいくつになっても、まだ若い青年時代となにも変わっていないつもりなのだ。もちろんそういう前向きなところに惹かれて一緒になった経緯があるにしても、もういい歳なのだからしっかりしてくれと思うところでもある。
「そして得意満面、崖に向かって歩くのは羊の得意技じゃろう?」
確かにこんなこと、町の酒飲み仲間には打ち明けられなかったろうし、当の本人であるロレンスにも悪気があるわけではないので、ホロからは強く言えなかったのだろう。
きっとホロはあれこれ考えた末、偶然を装ってこの裏路地の居酒屋にやってきたのだ。
性格も生き方も真逆だが、エルサがホロを憎めないのはこういうところがあるからだし、似たような旦那と所帯を構えた同志として、見捨てておけなかった。
それに、どうやらあのお調子者の司教が一枚噛んでいるというのだから、聖職に就く身としても看過できない。これ以上教会の評判が落ちてはかなわないのだから。
「追加のお酒が必要ですね」
エルサはそう言って、葡萄酒を二杯頼んだのだった。
★2021年5月10日更新の『狼と香辛料 狼とかつての猟犬のため息≪第二部≫』に続く。