ホロから聞いた話はいまいち要領を得ないところもあったが、エルサ自身の知識と合わせてまとめると、おおまかにはこうだ。
まず大市のために数多の商人たちが集っている今、長いこと懸案となっていた諸々の問題を話し合おうという場がもたれ、そこで関税の話になった。
葡萄酒商人と麦酒商人が永遠の敵同士ならば、麦酒商人はパン屋の組合と原料となる麦の奪い合いを演じる敵同士であり、パン屋は伝統的に肉屋と仲が悪いから、誰かの言い分を聞くと誰かの怒りを掻き立てることになる。
おおまかには、敵の敵は味方の理論や、利害があまり対立しない者同士で徒党を組んで、自分たちの言い分を通すのが定石だが、赤く染められた外套を羽織ったその土地の領主が一方的に裁くこともあるし、神の意志に則りくじ引きで決めるところ、あるいは顔役たちで無記名の投票にかけるところなどもある。
サロニアの町は教会の司教が采配役を務めるが、ほかならぬ教会自体が町の権益に多大なる利害関係を持っているため、割を食う参加者たちは容易に言うことを聞こうとしない。そこで双方の陣営とも、町にぽっと現れた、大きな発言力を持つが特にしがらみのないロレンスを担ぎ出そうとして、各々が褒美を約束したらしい。
特に高関税に苦しめられていた材木商人たちが、関税を下げるためにロレンスの勧誘に熱心だったのだが、まさに教会がその関税から利益を上げていたため、あのお調子者の司教はロレンスにとんでもない約束をして味方に引き入れようとした。
それが、サロニア近郊の土地と領主権を買い取らないか、つまり貴族にならないかというものだった。
「ぬしは仕事が早いのう」
ロレンスと会議の状況をホロから大まかに聞き出した後、エルサは細かいところを調べるため、いったんホロと別れて別行動をとっていた。日が暮れる頃になって、今度は町の広場に隣接した居酒屋で再会した。町は太陽が落ちようともますます賑やかになっているようで、店に入りきらない客を捌くため、軒先にいくつも長テーブルと長椅子が置かれている。そこでは旅装束の人間や近隣の農村からやってきた者たち、それにもちろん町の人間も合わさって、一年の数少ない大騒ぎを満喫していた。
そんな彼らがエルサの姿に気がつくと、急に居住まいを正して声量を落としていた。エルサは何食わぬ様子で微笑を返してから、ホロに調べてきたことを報告したのだった。
「あなたはあの後からずっと飲んでいるのですか?」
エルサが合流したときにはすでに、テーブルの上に一杯目とは思えない葡萄酒と、肉が綺麗に食べられた豚か羊のあばら骨が皿に乗っていた。
「たわけ。土地だの領主だのの話じゃったろう? わっちゃああのたわけがまたなにか騙されておると疑っておるが、そうではない可能性もあるじゃろ」
「……まあ、可能性としては」
「たまには道の真ん中で兎が寝ておることもありんす。あれは酸っぱい葡萄じゃとひねておっては、わっちゃああのたわけと一緒になることはできんかった」
長い時間を生きているからか、それとも元々の性格なのか、ホロにはやや厭世的な、悲観的なところがなきにしもあらずだが、ロレンスはこの狼を照らす太陽となれているらしい。
「本当に良い取引の可能性も捨てきれぬから、そっちから調べてみようと思っての」
しかしあのお調子者のようでいてなんだかんだ抜け目のない司教が、おいそれとうまい話を持ち出すだろうか、とエルサは思う。ホロの当初の見立てどおり、ロレンスが司教に一杯食わされているほうが納得できる。
あるいは単純にホロとしては、なんだかんだ最愛のロレンスが貴族になれるかもと目を輝かせていることに水を差したくない気持ちがあって、本当においしい話かもしれないと無理に思い込もうとしているのだろうか。
その辺りの葛藤は推し量るしかないが、なんであれホロの見出した妥協点が、その隣に座る者なのだろう。
「この土地のことなら、こやつが詳しいかもと思っての。ぬしと別れてからひとっ走りして呼んできたんじゃ」
「ええっと……あんまり人の世のことはわからないかもしれませんけれど……」
ホロの隣で身を縮めている娘は、縮めてもなおホロより一回りは大きいターニャだった。
元々はエルサが手伝いを頼まれていたヴァラン司教領に伝わる、呪われた山に住んでいた栗鼠の化身だ。確かにこの近隣の土地のことなら、百年単位で知っていそうなので、ターニャを呼んだのは正しい選択かもしれない。
ただ、それならば落ち合う場所は選ぶべきだったかも、とエルサは思った。
なぜなら、周囲の男たちの視線が集まるのは、酒飲みの場で僧服を着ている自分が目立つからだとエルサは思っていたのだが、どうやらそうではないと気がつき始めていたからだ。男たちの目当ては、ふわふわの巻き毛を持ち、エルサやホロにはない曲線美を有するターニャのようだった。
そして近寄ってきた男たちは、ターニャに声を掛けようとしては町の有名人であるホロやエルサの僧服に気がついて、曖昧に笑って退散していく。
ホロはまったく気にしていないし、ターニャはそもそも男たちの視線に気がついていないので、エルサも気にしないことにした。
「ターニャさんは、ウォラギネ家という名前をご存知ですか?」
エルサは町に逗留しているヴァラン司教領の聖職者から、司教の詳しい目論見を聞いた後、教会に戻って町の年代記を紐解いてきた。司教がロレンスに約束しているのは、ウォラギネ家がかつて治めていた土地と、その領主権となる。
もちろん譲渡ではなく売却を、ということだったが、領主権のようなものはお金を積んでもなかなか買うことが難しいので、購入できるという時点で、普通に考えるととてつもない申し出なのだそうだ。
「ええ、ええ、聞いたことがあります。一時有名になりました。ちょっと前のことですけど」
ターニャは果実酒と合わせて小麦パンをかじっていたが、なんだか腑に落ちない顔をすると、途中で自分で焼いてきたらしいどんぐりパンを小袋から取り出し、嬉しそうに食べながらそう答えた。
「ちょっととはいつの話じゃ」
どんぐりパンはどちらかと言えば飢えを凌ぐために焼かれる類のもので、ホロなどはターニャが嬉しそうに食べるのを見て、渋みと苦みを思い出すような顔をしていた。
「えーっと……お師匠様がくる……よりも前ですね。山が荒れてた頃でしょうか」
「錬金術師たちが山にくるより前ということは、五十年以上昔、百年よりかは手前、というところですか」
彼女たちのような人ならざる者の時間感覚はそんな具合なので、ホロが自分のことを小娘呼ばわりするのも無理のないことだとエルサは思った。
「確か、大地をのたうつ大蛇を討ち取った勇者様、ということだったかと」
向かいの席に座るホロの狼の耳が、頭巾の下でぴょこんと跳ねた。
それからエルサは自分に向けられた視線の意味にもちろん気がついたが、特に動じることもなくターニャに質問した。
「その伝説については教会の年代記にも残っていました。本当のことなのですか?」
「えーっと……どうでしょう? 私はあんまり開けた土地が好きではないので、こっちにはほとんどきたことがありません。その話も、山で鉄を掘る人たちから耳にしました」
「なるほど」
エルサがうなずくと、なにやらやきもきしていた感じのホロが口を開く。
「それはぬしの村を守っておった奴ではないのかや」
ターニャが目をぱちくりとさせ、ホロとエルサを見比べる。
エルサはホロの言葉にすぐに返事をせず、温めすぎて酒精の飛んだ、ちょっと酸っぱい葡萄酒を啜ってから言った。
「どうでしょう」
その言葉には複数の意味が含まれていた。
ひとつには、その大蛇がエルサの生まれ育った村であるテレオの村の守護神としてあがめられていた大蛇かどうかということ。
もうひとつには、その蛇が本当に村を守っていたかどうかという点だ。
「ぬしは教会の手先じゃったな」
ホロの棘のある言葉に、ターニャはなにか不穏な空気を察して背中を丸めていたが、エルサはもちろん受け流す。
「どこに行ったのか、本当にいたのか、いたとしても村でなにをしていたのか定かではありません。私としては、あなたを見て半ば確信していますけれどね」
「はあ? わっちがなんじゃ」
口の端に焼き肉の脂をつけたままのホロに、家に残してきた騒がしい家族たちの食事風景が重なった。
「ちょっと長い冬眠を、たまたまあそこでとっていただけではないかと」
エルサもホロと出会うまでは、世に伝わる異教の神々の伝説に、超常なる存在の威厳のようなものを勝手に感じていた。けれどいざホロと出会い、彼らの世界を覗き見る機会に与ってからは、多少の感覚の違いこそあれ、自分たちと変わらないのだと理解した。
懐から小さな手ぬぐい手に取り、テーブルに身を乗り出すと、うるさそうに嫌がるホロの口元を拭ってやってから、エルサは続けた。
「あまりに静かすぎるところで眠るのは、きっと寂しいでしょうからね」
ホロはその言葉の指し示すところにますますむくれていたが、エルサはくすりと笑い、ターニャを見やる。
「ターニャさんにはわかりませんよね。私の生まれ故郷の村には、大蛇の伝説があるのです」
「えっと……あ!」
「気にしないでください。私も見たことはありません。ただその蛇がいたという大きな洞穴が残っていただけですから」
ターニャはそれでも申し訳なさそうに頭を低くしていたので、エルサは事務的に話を続けた。
「それで話を戻しますが、ウォラギネ家はかつてこの平原をうろついていた大蛇を討ち取ったという功績を以て、平原の一部の土地を賜り、領主に任じられたようです。そして当地の教会は、彼と蛇の戦いにおいて神の力を授け勇者を助けた、とありました」
ホロがふんと鼻を鳴らす。
「わっちゃあその神とやらをついぞ見たことがありんせんがのう」
「でしょうね。おそらくこの伝説は、双方の権威付けのために作られたものではないでしょうか。当時この周辺はまだ異教徒の脅威が色濃く残っていたでしょうから、教会としても存在感を示す必要があったはずです。どんな些細なことでも手柄にしたがったでしょうね。反対に勇者と称されたほうは、ぽっと出の戦士が領主として民を支配する権威付けのため、教会の後ろ盾が欲しかったのだと思います」
珍しくもない話だが、ここには妙な点がある。
「私が不思議なのは、この町の関税の少なくない部分について、ウォラギネ家が権益を所有していたということなんです。それも、年代記には、大蛇を倒したからという理由が記されていました」
「むう……?」
ホロは形の良い眉をしかめ、隣のターニャをちらりと見た。
多分、単純になにか知らないかと視線を向けたのだろうが、二つ目のどんぐりパンをうきうきと取り出していたターニャは、なにか悪いことをしたかと首をすくめていた。
「また、ウォラギネ家は一代か二代続いただけで絶えてしまったようで、その後の土地と領主権、それにどっさりの関税の権益が教会に遺産として寄付されました。ロレンスさんは」
と、エルサは一度言葉を切った。
「この権益や土地、それに領主としての名前一式を手に入れる権利、それにかつての城砦に住む権利を報酬として約束されているようなのです」
「う~む……」
ホロは難しい顔をして、唸る。
「褒美が過大すぎぬかや」
どう考えてもお人好しの夫がまたぞろうまい話で騙されている、という顔だ。
「単なる譲渡ではないようなので、そこはなんとも。けっこうな金額になるとは思いますが、お金を貯めた大商人が貴族になりたくてもなれないことがあるように、こういうものは買えるだけでも奇跡に近いという性質のものだという意味では、確かに過大かもしれません。なにせ、町の関税の揉め事の仲裁をしたら、領主になれると言うんですから」
「それであやつは舞い上がっておるんじゃな」
ホロは大きなため息をついて、口を引き結ぶ。
けれどそこにあるのが怒りでなさそうなことに、エルサは気がついていた。うまい話にたぶらかされていると呆れてばかりいるのではなく、輝かしい未来に心躍らせている伴侶に冷や水をかけるのが気が進まないといった感じだった。
ロレンスがホロを甘やかしているならば、このホロもまた同じらしい。
ホロが小さな村で麦の豊作を司っていた頃、どんなふうに振る舞っていたかエルサにはなんとなく想像がつく。きっと、子供が寝る前にせがむ類の、牧歌的な時間だったことだろう。
そんなホロが唸る横で、どんぐりパンを食べていたターニャが、ふとなにかを思い出したように言った。
「あ、大蛇の話なのですけれど」
「なにか思い出しました?」
「はい、はい。掘り出した鉄を売りたいが、大蛇のせいで遠方の地と商いがうまくいかないと嘆いている人たちを見ました。それを覚えているのは、いい気味だ、と思ったからですね」
山を荒らされていた当時のことを思い出したのか、ターニャが少し怒ったように言って、好物のどんぐりパンに挑みかかるようにかじりつく。
「確かに巨大な蛇が陣取っておったら難儀じゃな。毒など持っておったらわっちも嫌じゃ」
「私は小さな蛇でも見かけたら、丸呑みにされる怖い夢を見ます」
エルサは二人の話に、なんとなく釈然としない。
「……あなたたちは、人を襲うのですか?」
エルサが異教の神々の話を集めていたとき、そういう話がないわけではなかったが、ほとんどが聖域を荒らされた場合だった。
それでなくとも、大蛇が平原をうろうろして人を襲うというのは、ホロたちを見てきたエルサの印象にはそぐわない。
「わっちゃあそんなことせぬ」
ホロがむっとしたように返事をすると、ターニャは顎に人差し指を当てながら言った。
「長ーい体を伸ばして、この平原で日向ぼっこをしていたのかも?」
ターニャの言葉に、エルサはホロと揃って想像してしまう。
牛も丸のみにするような巨大な蛇が、体を伸ばして平原に居座っていたとしたら、確かに悪さをしないとしてもそこにいるだけであらゆる物流が滞るだろう。
「ぬしのおる山からこっちにくる際、まあまあの眺めでこの土地を見下ろせたが、それほどの蛇となるとどんな大きさなんじゃ」
「私の集めた異教の神々の話では、頭のある場所と尻尾のある場所では天気が違うほどに長い蛇の話もありましたが……」
「そんなのがおれば、月を狩る熊も絞め殺されておったじゃろうな」
ホロの指摘はもっともだが、蛇の話が役に立つかもと思っていたらしいターニャがしゅんとしていることに気がついて、エルサは慌てて言葉を継いだ。
「な、なんであれ、尋常ではない大蛇がうろついているとなれば、のんびり輸送などできないのは同じことでしょう。勇者ウォラギネのおかげで大蛇が打ち払われ、交易が再開されたというのは、十分あり得そうなことです。その見返りが関税の徴収権、というのも筋がとおっています」
ターニャはおずおずとエルサを見た後、ほっとしたように笑ってくれた。
「まあ、なんだかよくかわらぬが、とにかく昔の功績によって決められた利益があって、それがあのたわけの目の前にぶら下げられておるというわけじゃ。とはいえ……領主じゃったか? そんな大それた権利一式が、あのたわけに買えるものかのう。よもやニョッヒラの湯屋を売るというわけではあるまいし……」
「えっ! ホロ様たちがここに住むのですか?」
ターニャは驚きに目を見開き、それから嬉しそうに目を輝かせた。
「ホロ様たちがここに住んでくれたら、私はとても嬉しいです」
「たわけ、そんなこと――……いや、わからぬ、まだわからぬからそんな顔をするでない」
ターニャは静かに暮らしていた山を鉱山開発で荒らされて、鉱脈が尽きてからはひとりで細々と山に木を植えていた。そこにたまたま立ち寄った錬金術師たちと仲良くなったが、彼らは旅に出たまま行方が杳としてしれず、健気にずっとその帰りを待ち続けている。
そんなターニャはホロにもすっかり懐いているし、ホロ自身、ターニャのことを気にかけていた。
見た目こそターニャのほうがホロより年上だが、大きな妹のようなターニャをなだめるホロの様子がおかしく笑っていたら、そんなホロたちの向こうに小さな集団を見つけた。サロニアの町で重要な会議が開かれる参事会の建物から出てきた、身なりの良さそうな商人たちだ。彼らは互いに握手をしたり、長い会議で凝り固まった体を伸ばしたり腰を叩いたりしている。
その中に見慣れた人影を見つけ、ホロもすんと鼻を鳴らすと後ろを振り向いていた。
「気が進まぬが、あのたわけからも話を聞くほかないようじゃな」
日が暮れはじめ、広場にはかがり火が焚かれている。人出も多く視界が悪いのに、女三人が居酒屋の軒先で固まっていれば、目につきやすかったのか、ホロが声をかけるより前にロレンスがこちらに気がついて、やや驚いたような顔をしてから笑顔で手を振って寄こしたのだった。
★2021年6月10日更新の『狼と香辛料 狼とかつての猟犬のため息≪第三部≫』に続く。