「これは珍しい組み合わせですね」
ターニャの姿を認めてロレンスは明らかに戸惑っていたが、さすが歴戦の商人らしく、すぐに落ち着いた仮面をかぶり直していた。
「ホロ、飲みすぎていないだろうな?」
「たわけ」
亭主面されて不機嫌そうなホロだが、照れているようにも見える。ロレンスはもちろん軽く苦笑しただけで、腰元の財布を取り出すと中身も改めずにテーブルに置いた。
「エルサさんがいらっしゃいますから、安心して預けられます」
ここは自分のおごり、ということだろうが、如才なさにいっそ呆れてしまう。
「それでは、皆さんの楽しい夕べの語らいを邪魔するのもなんですから」
と、その場から立ち去ろうとしたのは羊の本能なのだろうか。
それを止めたのは、狼のホロだ。
「酒のあてはぬしの話じゃ」
「……」
ロレンスが商人の仮面で笑おうとしつつ、うまく笑えていなかったのは、ホロの様子になにか察するところがあったからだろう。
「それは、えーと……」
「座りんす」
ホロが言うと、ホロの隣に座っていたターニャはあたふたと席を空け、テーブルを回り込んでエルサの隣におずおずと座った。その途端、香水とは違う深い森のような甘い香りがして、エルサはどうしてターニャが男性たちの視線を集めるのかわかったような気がした。
「私はお祈りをするべきでしょうか?」
ロレンスからすれば、楽しい話が待ち受けている、とは思えまい。ましてやホロが不機嫌そうに酒に口をつけているのだからなおさらだ。
けれど、ホロのその不貞腐れた顔は、どうやってロレンスに話を切り出すべきかと考えあぐねているゆえのことだと、エルサにはわかる。
仕方ないと小さくため息をついて、エルサが口を開いた。
「ここの司教様がなにかよからぬことを企んでいるようだと、ホロさんから相談がありました」
そしてよからぬことの犠牲者になりそうなのは自分だと思われている、とロレンスはすぐに気がついたらしい。
「貴族の話か?」
ロレンスの問いに、ホロはこれ以上ないくらいわざとらしく顔をそむけていた。
「浮足立って足元をすくわれそう……と思われているわけですか」
ホロとロレンスの間では、出会った頃から繰り返されているやり取りに違いない。
ロレンスは商人らしく、わかりやすい困ったような笑顔を浮かべてから、ため息をついた。
「きちんと損得は計算していますし、司教様もそれなりに一計案じています」
「たわけ」
ホロはようやくその一言を口にしたかと思うと、隣のロレンスに体ごと向き直る。
「土地だの領主の名前だの、そんなものが安く買えるはずもなかろう。ぬしは湯屋を売るつもりなのかや?」
賢狼と呼ばれた狼の化身だから、人の世の栄誉になど興味がない。そう考えることもできようが、宴席でこそ肉と酒に目がないこの狼には、元来そういう大それた欲がないのだろう。
エルサがホロのだらしのない生活につい子供を叱るような小言が出てしまうのは、ホロには口で言うほど尊大なところがなく、エルサ自身と大して変わらない目線で物事を見る気安さがあるからだ。
「ロレンスさん。私もあの司教様が、相手に有利な提案をするとは思えません。軽薄そうで調子のいいことばかりですが、抜け目ない方ですよ」
教会の位階の中ではずいぶん上位に位置する人物を悪しざまに言うのもやや憚られるが、偽らざる感想でもある。ロレンスはホロとエルサからの視線をやや引き気味に受け止めて、衛兵から検問所で詰め寄られた商人のように言った。
「えーっと……こちらからの言い訳をさせてもらっても?」
エルサがホロを見ると、ホロは不機嫌そうに串に刺さった焼き肉に犬歯を突き立てていた。
「司教様がどんな甘言を弄しているのかは興味があります」
エルサの言葉にロレンスは苦笑して、答えた。
「私は直接には、銀貨の一枚も支払いません」
「は?」
間抜けな声を上げたのはホロだ。
「私は関税権の付随した領主権一式と、サロニア近郊の土地の権利を受け取る代わりに、毎年一定額を教会に納めること、という提案を受けました」
「……」
ホロは目を細めてロレンスを見てから、どうなんだ、とばかりにエルサに視線を向けてくる。
「なるほど。司教様は毎年懐に入る金額に変化がなければ、権利を教会が持っているかどうかに頓着しない、ということですか」
「今は領主様の名前等は、教会の古びた書庫で眠っている状態ですからね。司教様にとっては失うものはなにもありません」
これならば誰の懐も痛ませず、司教はロレンスという強力な味方を引き入れることができる。あの司教がいかにも言い出しそうな、一見わかりやすく綺麗な取引だ。
けれども教会の混乱の最中、あちこちの教会領の帳簿と格闘してきたエルサには、なんだか釈然としないぴりぴりした感じがあった。
「私が司教様のこの申し出を受けるならば、私には関税を高く維持する動機が生まれることになります。毎年の支払いがありますからね。もちろん教会にとっては、この先たとえ関税が下落したとしても、今までと同じ金額を受け取ることができます」
町の借金問題のとき、司教は拙速な対応で借金を負った商人を牢に放り込んで町の混乱に拍車を掛けたりしていたが、こういうことには知恵が回る。要は小悪党なのだ、とエルサはため息をつく。
「では、あなたは司教様の味方につくと?」
子細には興味がないが、結論には大いに興味があるホロが、新しく頼んだ肉をわしわしと噛みしめながらロレンスを見た。返答如何では同じように噛みついてやる、と言わんばかりだ。
「少し迷っています」
おやとエルサが思ったのは、その場しのぎの返答にも見えなかったから。
「ターニャさんがここにいるということは……関税の起源について、お三方も調べられたということですよね?」
いまいち話の輪に入れず寂しそうにしていたターニャが、背筋を伸ばしていた。
「ここの町は一部の商品について、妙に高い関税が設けられています。その根拠は、勇者ウォラギネの働きによるとか」
「大蛇を討ち取った話ですよ」
自分にもわかる話だということで、ターニャが人好きのする笑顔を見せた。
ロレンスはそれに笑顔を返し、言葉を続ける。
「それはずいぶん古い話です。そして、新しい葡萄酒は古い革袋に注ぐなとも言われます」
「……根拠に疑問があると?」
「税というのは嫌われ者です。強く主張するには、それなりの言い分が必要になります。大昔の嘘か真か怪しげな伝説で人々を説き伏せるのには、限度があります」
こずるいところのある司教は、昔話の威光に陰りが見えてきたことを察したのかもしれない。
そこで将来関税が下げられることを見越し、今のままの金額の金を受け取り続けるにはどうすればいいかと知恵を巡らせた。
そうして司教は、エルサに教会の仕事を押し付けてきたように、今にも消えそうな蝋燭の燃えさしを飾りたてて、ロレンスに渡そうとしているのだろうか。これからもこの蝋燭で変わらず教会を照らし続けてくれれば、この蝋燭をあなたに差し上げよう、と言い添えて。
「関税の根拠がしっかりしていれば、この話に乗るのはそうそう悪いことではないと思っています。逆に荒唐無稽な作り話ならば、いずれ関税は下げられる運命にあるでしょうから、損する可能性が高いですね」
毎年の一定額の納金を約束しているのに関税収入が下がれば、その権益を手にした者が大きな損を被ることになる。ロレンスに持ち掛けられたのは、決してうまいだけの話ではないのだ。
「大蛇を見つけるとでも言うのかや」
酒に酔っているのか、それとも呆れているのか、テーブルに肘をついたホロが憮然とした顔でロレンスにそう言った。
そしてロレンスは、ホロに微笑んでから、エルサのことを見た。
「なんという神の御導きか、私の近くには大蛇の伝説が残る村の出身者がいます」
ロレンスはこずるい司教からの目論見を概ね見抜いていた。
そのうえで、自分の手の届く範囲には色々使えそうなものがある、と考えていたらしい。
これは司教とロレンスの、慇懃な笑顔の下に隠された知恵比べだ。
もちろんその争いに勝てば実利を得られるのだが、ロレンスにはホロに良いところを見せられるという副賞もついてくる。
エルサはホロと視線が合って、肩をすくめてみせた。
ホロが葡萄酒を大きく呷ったのは、どいつもこいつもという言葉を、葡萄酒で飲み込んだからのようだった。
大蛇の伝説が本当で、しかもその根拠を示せるのならば、関税を維持する強力な根拠となる。逆に荒唐無稽な作り話であるのなら、この先も高い関税を維持するのは難しい。大まかにはそんなところなのだが、エルサとしてはロレンスに聞かなければならないことがある。
昨晩の広場でのやり取りから一夜明け、サロニアの町では大市と、それに合わせて催されるお祭りも終盤に差し掛かっている。祭りと言ってもなにか云われのあるものではなく、今年の収穫を祝い、これからやってくる荒涼とした冬の前の最後の大騒ぎに、豊作をもたらす聖人の話を無理やりくっつけたようなもので、ほとんど単なる大がかりな酒宴だった。
今年はその飲み納めの儀式に提供される酒を選定したということで、ホロは朝から町の人々に呼ばれて祭りの準備に駆り出されている。ちょっとした儀式めいたやりとりの練習と、その際に着るための衣装の調整をしているのだろう。
司教も祭りを取り仕切る立場なため、今日は関税を巡る会議も休みだ。
そんなわけで、広場で酒盛りの舞台がせっせと組まれているのを、近くの酒場で手持ち無沙汰に眺めていたロレンスを見つけたエルサは、声をかけて教会に誘ったのだった。
「あなたは関税について、どのようにお考えなのですか?」
「どう、とは?」
ロレンスは商人らしいとぼけた表情を見せてから、胡桃の実に金槌を振り下ろす。エルサたちがいるのは教会の片隅で、ターニャが手土産として山から持ってきた大量の胡桃を、石畳を利用して割っていた。
「正義の話です」
「正義」
軽く焼かれ、口が開きかけていたところに金槌で叩かれた胡桃の殻は、案外簡単に割れる。
ロレンスが少し愉快そうに胡桃の実を取り上げたのは、そこに正義だの真実だのが隠れているかもしれない、という身振りだったのか。
「関税によって道が整備されたり、川に水車が取り付けられたり、市が整備されたり治安を守る衛兵たちを雇ったりすることができます。けれど、すべての関税がそのように使われるわけではありません」
「私腹を肥やすために。それこそ、虻が血を吸うかのように?」
エルサが金槌を振り下ろし、胡桃が割れる。
「この教会はお金に困っていませんし、材木の値段が安ければ人々が安い値段で家に住むことができます」
「これから冬ですし、暖炉に火を灯す必要もありますね」
「ですから、正義、です」
ロレンスは血も涙もない商人ではないが、商人らしくないわけでもない。
「エルサさんのお話は分かりますが、これからの季節で農作業がないその間、泥炭を掘り出す村の人々は、木材の関税が高いままでいることを望むでしょう」
泥炭を掘り出し町に運ぶのが農民の仕事なら、木材の商いは富裕な商人たちのものだ。
民衆の味方という論理を持ち出すと、どっちがどうとも言いにくい。
「ですが、あなたはこの町の関税が高いと言っていませんでしたか?」
ロレンスは胡桃を割りながら、離れたところで町の女たちと一緒になって胡桃を割るターニャを見ていた。胡桃割りに飽きたらしい少女たちが、ターニャのふわふわの髪の毛を櫛で梳いて、好き勝手に編み上げて笑っていた。
「まあ、高いですね。不自然に」
小さな村に住み、まさに税の問題で悩まされていたエルサからすると、税はなんであれ人々を苦しめるものだ、と反射的に思ってしまう。そのために高い税を維持するためにロレンスが働くのは、どうにも嫌な感じがしてしまうのだ。
「下げるべきだと思いませんか?」
ロレンスはホロとは違い、都合が悪いからと言ってエルサから視線を外すような性格ではない。じっとエルサのことを見つめた後、小さく笑った。
「町には町の歴史があります。よそ者が安易にいじるものではありませんよ」
人の目をまっすぐに見たまま詭弁を言うなど、と怒りを感じた直後、ロレンスはようやく目を逸らした。
「ですから、歴史を知るべきかなと」
ロレンスはターニャたちを見て、それから教会の高い天井を見上げた。そこに外からやってきた女たちの集団が、焼き立てのパンを運び込んできた。たちまち良い香りが辺りに満ち、彼女たちはパンを置くと、今度は割った胡桃の実を受け取って、再び外に出て行った。まだ夜も明けきらぬうちから、明日の祭りで供されるパンを焼いているのだ。どんぐりパンはエルサも積極的に食べたい代物ではないが、胡桃入りのパンはきっとおいしいだろう。
「大蛇が本当にいるとお考えですか?」
ロレンスの妻は狼である。
エルサの言葉に、ロレンスは作り笑いではなく、本当に笑っていた。
「私はむしろエルサさんが熱心に協力してくれるものだと思って、あてにしていたのですけど」
テレオの村の守護神は確かに蛇だ。
「私は教会の神に仕える身です」
「そうでしたね」
なんの気持ちも入っていない言葉で流されて、やはりエルサは憮然とする。
ホロと一緒にいると間抜けな羊にしか見えないが、こうして対峙すると容易に尻尾を掴ませない商人らしさを実感できる。
「ホロさんは、あなたが舞い上がっていると、気が気でないようです」
立派な姿を見て欲しいと奮起する様を暑苦しがっている、とはもちろん言わなかったが、もしかしたら昨晩はホロとロレンスの間で話し合いがもたれたかもしれない。
ロレンスの商人の顔からその辺りのことは推し量れなかったが、エルサの言葉を一蹴するふうでもなかった。
「舞い上がっているのは……まあ、否定できません。なにせ望外の報酬ですからね」
嘘ではなさそうで、エルサとしては若干驚いてしまう。
「あなたにもそういう欲があるのですか」
領主然として外套をはためかせるロレンスの姿など想像もできないが、ロレンス自身、照れくさそうに笑っていた。
「エルサさんにはまた呆れられるかもしれませんが」
「……どういうことですか?」
ロレンスは手元の胡桃を割って、実を選り分ける。
「ウォラギネ家の権益には、少なからぬ土地の支配が含まれています。私はどちらかというとそれが目当てです」
「……わかりません」
煙に巻こうとしているのではなく、どうやら単に言いにくいらしいのはエルサにもわかったが、いったいなんなのだろうか。エルサが思考を巡らせていたところ、ロレンスが話を逸らすように言葉を続けた。
「まあ、今のところは皮算用なのですけれど、幸運の女神は前髪しかないとも言いますし」
「掴めるときには掴むべきだと?」
「はい」
ロレンスは胡桃の殻を、屑入れ用の袋に捨て、手を払う。
エルサはその様子を見ながら、問わざるを得ない。
「しかし私を当てにしていると言いましたね。私が大蛇を見つける特別な目を持っているとでも思うのですか?」
胡桃割りに飽きたらしいロレンスは、自嘲気味に笑っていた。
「ホロがすっかりへそを曲げているようなのです。なので、話を進めるにはエルサさんの協力が必要だなと」
「……?」
エルサはロレンスの言葉の意味が分からなかったが、どこか悪戯めいているようにも見えるロレンスに気がつき、話が見えてきた。
「私があなたに協力すれば、ホロさんもついてこざるをえないということですか」
「狼は縄張りにうるさいですから」
まったくこの男は、と呆れてしまう。
ホロに良いところを見せたいが、このまま話を追いかければホロがいよいよ本格的に怒るかもしれないと危惧している。とはいえおいそれと諦められないのは、きっと出世欲ではなく、最愛の妻のためなのだ。
愛を説くのが仕事のひとつである聖職者のエルサとしては、強く諫めるのが難しい。
「あなたたち二人は、昔と全然変わりませんね」
互いにはっきり口に出さず、いつも遠回しに気を使い合うような。
「誉め言葉と受け取っておきましょう」
ロレンスの口ぶりにエルサは笑顔を浮かべながら、ひときわ強く胡桃の殻に金槌を叩きつけたのだった。
★2021年7月9日更新の『狼と香辛料 狼とかつての猟犬のため息≪第四部≫』に続く。