祭りの準備は午前中で終わったようで、昼過ぎにはホロが教会にやってきた。準備の最中にも酒が振る舞われたようで頬をほんのり赤くしていたが、目が座りがちなのは昨晩にロレンスとひと悶着あったからだろう。

 もちろん商人として面の皮の厚さを鍛えてきたロレンスは、そんな妻の様子に気がつかないふりをきっちりこなし、大蛇の伝説を調べに行かないかと言い出した。

 わざとらしくエルサに視線を寄こし、片目を瞑って見せかねないロレンスに、エルサはため息交じりにではあったが同意した。すると自分の獲物を取られては困るとばかりに、ホロは自分もついていくと言い出した。ホロ自身、まんまと乗せられているとは分かっているのだろう。

 もちろんエルサの目に映る二人のやりとりは、虚々実々の思惑のぶつけ合い、なんていう高尚なものではなく、根底にある絶対の信頼感を盾にした、子供っぽい意地の張り合いだ。

 要するにエルサは迂遠な二人のじゃれ合いに巻き込まれた形なのだが、ついつい付き合ってしまうのは、二人の愛の証人を買って出てしまった責任感だろうか。

 そんなわけでターニャも連れて、荷馬車に乗ってサロニア近郊のウォラギネ家の旧領地へと向かったのだった。

「討ち取った大蛇の頭蓋骨でも飾ってあれば、それで一件落着なんだが」

 馬の手綱を握るロレンスが言うと、少し冷たい秋の風に吹かれて酔いが醒めつつあるらしいホロが、ロレンスの隣で毛織物を肩に巻きながら言った。

「そんなものがあるのなら、とっくにこれ見よがしに教会に飾られておるじゃろうよ」

「私も年代記を読み直してみましたが」

 と、ターニャと共に荷台に座るエルサは、口を挟む。

「討ち取ったというより、追い払ったとも解釈できる書き方でした」

 教会としては、はっきり討ち取ったと宣言するほうが効果が高いはずだ。たとえ単に追い払っただけなのだとしても。

 けれどそうしていないのは、あまり大々的に喧伝すると、狩りの勲章はどこだと騒がれかねないためではないか、とうがった見方も可能だ。

「ぬしのおった山には逃げてこなかったんじゃな?」

 ホロが肩越しにターニャを振り向くと、教会で娘たちに編まれた髪の毛を嬉しそうにいじっていたターニャが、驚いて背筋を伸ばしていた。

「は、はい。大きな蛇がきたら、すぐにわかったと思います」

 当時のヴァラン司教領の山は、鉄鉱石の採掘のために削られ丸裸にされていたというから、見通しもずいぶんよかったに違いない。

「そもそも、人の槍やら剣やらでどうにかなるものかのう」

 巨大な蛇だったとすれば、鱗もきっと鉄のように固いはず。それを一刀両断できたとは到底思えない。

 エルサは年代記に書かれていた教会文字を、頭の中で俗語に訳してから言った。

「勇者ウォラギネが剣を振るい、蛇の首に突き立てた。蛇は大きな鎌首をもたげ、断末魔の悲鳴を上げた。以来、サロニアの平原に平和が戻った……」

 短い話を聞き終えると、ホロはふんと鼻を鳴らしていた。

「なにやら首がこそばゆくて昼寝から覚めて、大あくびをしただけかもしれぬのう」

 エルサにも、そんな様子が簡単に想像できた。

「そもそも蛇に害意があったのなら、サロニアの町も大変な目に会ったと思いますが……町に被害があったとは書かれていませんでした」

「人よりうまそうな馬やら羊やらがおったじゃろうし、こんな見晴らしの良い土地で町を見落としたはずもなかろうしのう」

「異教の蛇の神には、特にお酒が大好きという話が多いですし」

 エルサの育ての親である司祭は、異教の神々の話を蒐集していた。自身も旅に出たときに折を見つけてはその手の話を聞き集めたエルサは、記憶をたどってそんなことを言う。

「であれば、やっぱり作り話ではないのかや?」

 司教がきっちり計算の上でこの話をしているとわかった以上、ホロとしてはロレンスにあまり深入りして欲しくないというほうに傾いているようで、大蛇の話は荒唐無稽であるという立場をとりたいのだろう。

 粘度の高い視線を向けられたロレンスだが、肩をすくめただけだ。

「一介の戦士が一発で領主になれて、しかも発展しつつあったサロニアの町の関税やらを手に入れられたんだ。生半可なことではないはずだ。大蛇討伐は、それに見合う話だと思うし、逆にそれ以外だとちょっと思いつかないんだよ」

 エルサはその言葉に、確かに、と胸中でうなずく。ロレンスはやはり単にうまい話に舞い上がっているのではなく、きちんと手の中のそれを品定めしている印象がある。削れば宝石が出てくるのでは、と。

 ただ、エルサとしては、だからこそ不思議に思うところもあった。

 ロレンスは、大蛇がいたと本気で思っているのだろうか?

 自身の伴侶がまさに伝説上の狼の化身なのだから、可能性という意味では、普通の人々よりもその実在を信じる傾向があっても不思議ではない。けれどそれは翻って、狼の化身をはじめとした、いわば異教の神々の一員である大蛇が討伐されたがゆえに設定された特権を、どうにか手に入れようということを意味する。それは狼の化身を妻にした人間として、なんだかいささか無神経ではなかろうか、とエルサなどは思う。

 狼と蛇は全然違うと言うこともできようが、エルサにはどこか腑に落ちないものがある。

 関税を高く維持しようという、ロレンスという人物の印象からは外れるような、正義に反すると思えることに加担しようとしていることも含め、疑問符ばかりだった。この羊のふりをした元行商人は一体なにを企んでいるのかとエルサが訝しんでいると、荷馬車が速度を落とし、少し賑やかな場所に差し掛かった。

「なんじゃこれは」

 ホロが驚いたように言ったのは、初めて見る代物だったのかもしれない。

「舟橋だよ。お前、渡ったことなかったんだったか?」

 サロニアの東の町外れを流れる川には、しっかりとした橋が架けられていなかった。代わりに川には船が何艘も浮かべられ、その上に渡された板が対岸にまで続いている。

 ロレンスが橋守に渡り賃を支払う間、ホロが身震いするように舟橋を見つめていた。

「こんなところを渡るつもりなのかや? 下は船じゃろうが。なぜ橋を架けぬ!」

「雪解けや、季節によって水量が大きく変化するのだと思います。橋を架けるよりも理に適っているのでしょう」

 どんな水量にも耐えうる橋を作るというのは、非常に費用と手間のかかることだ。季節要因で橋が流される恐れがあるのなら、簡単に設置できて簡単に撤去できる舟橋のほうが合理的だろう。エルサの村でも、ほんの小さな橋の架け替えだったのに信じられないくらいに揉めたりした。

 エルサがそのことを思い出しながら少し上流に目を向ければ、舟橋と同じ要領で船に括りつけられた水車が浮かんでいるのも見えた。水量が変化しても、船の上にある水車は水面と一定の距離を保てるので、安定して利用することができる。収穫した小麦の脱穀や粉ひきが必要なこの地域には、水車の安定的な利用は死活問題だ。

「人は相変わらず妙なことを考えるのう……」

 ただ、舟橋と言っても人の多い街道に渡されているものなので、むしろ今にも腐り落ちそうな小川に架けられた木橋よりよほどしっかりして、幅も広い。現に商人や村人たちが、荷物を満載にした荷馬車を怖がりもせず渡している。

 とはいえ船の上にあるのは確かなことで、常時かすかに揺れているあたりが、ホロの狼の部分を刺激するのかもしれない。

 むしろ木の上を軽快に走る栗鼠であるターニャのほうが、川の上を渡るという行為にわくわくしていて、ロレンスが渡し賃を払い終わって目配せすると、率先して歩いて行った。

「私たちも行きましょう」

 エルサはホロに声をかけてから、ふともう一声追加した。

「酔って足元がふらついていませんよね?」

「たわけ!」

 賢狼と呼ばれた狼は、おっかなびっくり一歩を踏み出し、舟橋のど真ん中をそろそろと歩いて行った。

 川はそこそこの大きさで、船の往来も多い。

 けれど舟橋で川を塞いでしまったら、川を上り下りする船はどうするのかと思えば、舟橋が終わる洲の部分のさらにその先に、川を上り下りする船が通るための運河が掘られていた。

「こっちは立派な川港ですね」

「川を下る荷物の関税などは、ここで集めるそうですよ」

 エルサたちより少し遅れて舟橋を渡ってきたロレンスが、追いついてきてそう言った。

「それに春先の雪解け水が多い時期になると、この舟橋すべてを取り払って大量の木材を流すんだそうです。木材と濁流に巻き込まれないための避難場所にもなっているとか」

「それで橋じゃないんですね」

 丸太のような重い物は、人の手で運ぶなど現実的ではない。大きな町のほとんどが水際にあるのは、建設のための資材を運び込めないからだ。そして人が何人も乗れるような巨大な丸太の束が、雪解け水の奔流に乗ってひっきりなしに流れてくるならば、どんな頑丈な橋だって心許ないだろう。

 そんなことを話しながら中州を渡り、役人が詰めているらしい小さな小屋を通り過ぎ、運河に架けられた小さな木橋に差し掛かる。護岸に木の枠が打ち込まれて整備され、穀物やらを満載にした小舟が何艘も繋留されている。対岸にはずらりと建物が建っていて、倉庫や酒場、それに船乗りたちの宿のようだった。

 さらにそこから平原に延びる道沿いにはいくつか露店が出ていて、おいしそうな匂いと煙が上がっていた。

「なにか買うか?」

 ロレンスにそう尋ねられていたホロだが、なんの意地なのかぷいとそっぽを向いて、さっさと荷馬車の御者台に座っていた。

 やれやれと笑うロレンスとエルサは目が合い、そこに小さく笑い返してから、荷台に上がろうとして四苦八苦しているターニャのお尻を押し上げて、自分も荷台に乗ったのだった。



「この辺りは木がなくて寂しいですね」

 賑やかな川沿いを離れてしばらく行くと、ふとターニャが言った。

「収穫の終わった麦畑は、毛を刈りたての羊みたいなものじゃからな」

 サロニア周辺は大穀倉地帯で、いけどもいけども畑が続いている。区画を仕切り、麦を倒す風を和らげるための灌木類が所々に植えられているが、かえって寂しい印象を与えている。

 町の大市や、あの川に集う船にたっぷり積み上げられている麦袋は、この広大な平野からもたらされたものだ。

「わっちゃあこういう風景も嫌いではないがのう」

 御者台に座り、やや眠そうな顔のホロはそう言った。畑では今も収穫の真っ最中で、長い三つ編みを揺らしながら体いっぱいに大鎌を振るう娘たちがいる。収穫の喜びに沸く農村の様子を、ホロは優しそうな目で見つめていた。

 それから代わり映えのしない、のんびりした道を延々と進んでいって、ターニャがやがてこくりこくりと船を漕ぎ、エルサもまたあくびをかみ殺すような頃。

 ロレンスに寄りかかってすっかり眠りこけていたホロの肩を揺らし、ロレンスが言った。

「ほら、見えてきたぞ」

 その言葉にエルサも馬車の先を見てみれば、ずいぶん遠くにではあるが、小高い丘の上の建物がかすかに確認できた。

「旧ウォラギネ家の居城だな。今は収穫の倉庫とか、村の寄り合い所になっているらしいが」

「ふわあ……。ふんっ」

 寝ていたところを邪魔されたせいか、それともこの件自体にご機嫌斜めなのか、鼻を鳴らすホロにロレンスは少しも怯んでいない。

「石造りの立派そうな建物ですね」

 塔まで有しているのは、往時には要塞としても機能したからだろうか。

「よもやあの丘が丸ごと蛇の塚という落ちではないじゃろうな」

 今でもそこで蛇が寝ているのなら話は早いし、エルサはテレオ村の守り神の行き先に心当たりがないかと、その蛇に聞いてみたいなどと思ったりもした。

「……ホロ様なら、勝てますよね?」

 荷馬車で不安そうにしているターニャに、ホロは不敵に笑っていた。

「なに、勝てずとも間抜けな羊が食べられている間に逃げればよいじゃろう」

 手綱を握る間抜けな羊は苦笑いし、荷馬車を進めていく。

 このあたりはまだ麦畑の刈り取りに手が付けられていないようで、立派な麦穂が揺れている。

 ホロは荷馬車の御者台でそんな麦畑を静かに、懐かしそうに眺めていたし、エルサはふと、そんなホロのことを盗み見るロレンスの優しげな視線に気がついた。

 なるほど、と理解するのにこれ以上の手がかりは必要ない。

 教会で胡桃を割りながら、どうしてこの話を進めようとするのか、ロレンスはその説明で口ごもった。

 それも、照れくさそうな顔で。

 御者台に並んで座る二人は紆余曲折の冒険の後、ずいぶん北の地に居を構え、湯屋を開くことになった。山奥という言葉ですら足りないような、平原の村で生まれ育ったエルサには、どうしてこんなところに道が続いているのかと思うような場所だった。

 ホロは元々そういう山深い土地に住んでいたらしいが、ある日南に向かって旅に出て、ずいぶん南の村で何百年と麦の豊作を司ってきたらしい。山が迫りくるニョッヒラとはまったく違う、見渡す限りに麦畑が広がるような土地で。

 ロレンスはホロが危惧していたような、ニョッヒラの湯屋を売るなどということは露ほども考えていないだろうと、エルサには確信ができた。

 この、酒の席でせっせと姫の機嫌を取る侍従のような男は、姫が塩辛い食べ物でお腹いっぱいにした後に、甘いお菓子を用意しようとしているのだから。

「さあ、ついたぞ」

 ホロはどこまでロレンスの無邪気さに気がついているのだろうか。

 エルサには掴み切れなかったが、御者台からひらりと降りたホロは、麦の香ばしい香りを胸いっぱいに吸い込んで、服の下で豊かな毛並みの尻尾をぱたぱたとさせていたのだった。



★2021年8月10日更新の『狼と香辛料 狼とかつての猟犬のため息≪第五部≫』に続く。