※この短編は電撃文庫MAGAZINE Vol.51掲載の前半を抜粋したものです。
山が燃えるように色づき、冬支度に向けて忙しいこの季節。
北の地の山奥に位置する温泉郷ニョッヒラは、短い夏が終わって冬を待つばかりだった。
風が一日ごとに冷たくなり、落ち葉が立てる音は時に哀しみに似た感情をもたらしてくる。これを憂鬱と表現する人もいるが、どちらかというと眠気に近いと思っている。静かな冬の訪れの前の、微睡の時間だ。
嫌いな季節ではなかった。
「ロレンスさん、アルヴォ村からのチーズ類は地下倉庫でいいですか?」
「ああ、悪いなコル。適当に積み上げといてくれ……ってずいぶんでかいな」
秋もいよいよ深まってきたその日、ニョッヒラの湯屋、狼と香辛料亭は冬の間に訪れる湯治客の胃袋を満たす準備で大わらわだった。近隣の集落から届けられた荷物を、男手二人で分別していく。積み上げられているチーズは、ひとつひとつが大人がようやく抱えられるくらいの大きさだった。
「大きいと、それだけ可食部が増える……んでしたっけ?」
「周りの硬くなる皮は味もひどいしとても食べられないからな。チーズを大きくすれば、それだけ無駄になる割合が減るんだが……これは本当に大きいな。アルヴォ村の村長は町に下りてチーズ屋を開いたほうが儲かるんじゃないのか」
琥珀のような色合いで艶々と輝くチーズは、中身もずっしり詰まっている。
「大きくするのは難しいんだそうだ。水をうまく抜くことができなくて、中が黴びるらしい」
「切ってみたら中が黴だらけ……ではないことを祈ります」
「はは。あそこの村長は職人気質だから、それはないだろう」
狼と香辛料亭の主人であるロレンスは笑ってそう言った。この地に湯屋を構えて十数年になり、村では未だ新参者扱いが抜けないが、この地の生活にすっかり馴染んでいる。
とすると自分もまた、諸国を巡って神学を修め、この地に落ち着いて十余年ということになるのだが、月日の流れは恐ろしいものだとつくづく思う。
「では、ちょっと置いて来ますけど……これだけ大きいと棚が壊れないか不安ですね」
肩に担ぎ上げるのも大変そうなので、不格好ではあるが両腕で子羊のように抱えて行く。
よたよたと母屋の裏庭に回ると、衝立の向こうから浴場の賑やかな声が聞こえてきた。
ニョッヒラは夏と冬に繁忙期を迎え、冬の部はそろそろお客がやって来るかという頃だ。
客のほとんどが貴族やら大商会の支配人やら、高位の聖職者という立場のある者たちばかりなので、春と秋は祭りや催しが多く忙しく、それが終わり次第骨休めにやって来る。
狼と香辛料亭もすでに何人かの客が来ていて、のんびり露天の湯船で一日を過ごしていた。
まだ客が少ないので、冬の間はニョッヒラで一稼ぎする踊り子や楽師は姿を見せておらず、どこも閑散とした感じだ。
それが、衝立の向こうから聞こえてきたのはずいぶん熱のこもった騒ぎだった。
「わはははは! 頑張れよー!」
「ほら、酒だ酒だ! 気合を入れんとな!」
まだ日も高いのにずいぶん盛り上がっている。
しかも、なぜかごつっごつっ、という馬の蹄が石を踏むような音が聞こえてくる。
湯船で一体なにをしているのだろう?
湯に浸かる客たちは、酔っ払って時に予想もつかないことをしでかす。しかし、それは大抵もっと人数が増えて、酒の量も増え、長逗留に飽き始めた頃のことだ。
それでも妙な胸騒ぎがして、チーズを抱えたままよたよたと衝立の隙間から様子を覗いてみた。
「綱が切れんようにな! きちんと結んだか!?」
「あはははは! 盾! 盾が! 盾を、そんな……ぶはっははは!」
「さあ、行け、我らが女神よ!」
「おお! 神のご加護がありますように!」
異常な盛り上がりだった。どうやら他の湯屋からも客が来ているらしい。
裸の彼らは一様に手に酒のジョッキを持ち、振り回し、歓声を上げていた。
湯けむりでよく見えないが、ごつっ、ごつっという音の正体はすぐにわかった。
騾馬だ。荷運び用の騾馬が湯船の側で足を踏み鳴らしていた。その騾馬を、不安げな顔で押さえている少年がいる。アルヴォ村から荷運び用の騾馬で荷物を届けてくれた少年だ。
しかし、なぜ騾馬が湯船に?
疑問の手がかりは、騾馬の軛から伸びる太い綱にあった。
その綱がつつーっと伸びた先、湯船の上を伝う綱の先に、人々の視線が向けられている。
「……ん、なっ……」
絶句した。そこにいたのは、歓声に手を上げて応え、愛嬌を振り撒いている少女だった。
少女は裸の男たちを気にすることもなく、薄手の亜麻布を胸と腰に巻いただけの格好でいる。湯船は男女の別も特にないのでそれ自体は珍しくないといえばそうなのだが、少女はなぜか武骨な手袋をつけていた。
「……な、なにを?」
なにか猛烈に嫌な予感がする。
人々の歓声の中心にいるのは、湯屋の主人であるロレンスの一人娘、ミューリだった。
今年で十二か十三か、とにかく早ければそろそろ嫁に行ってもおかしくない年頃だ。普通なら日々裁縫と料理に勤しみ、夫を支える良き妻として、あるいは家の繁栄を担う母としての準備を積み重ねている時期だろう。
それが、なぜか半裸で武骨な手袋をつけ、湯船に連れ込まれた騾馬から伸びる綱を握っていた。しかも、ミューリはなにか妙な物の上に乗っている。
客の言葉を思い出した。盾。盾だ。
高位の人間ばかりが集うので、お付きの者にも重武装の者がいる。そう思って見れば、屈強な男が何人か、いかにも心配そうな顔をして様子を見守っていた。ミューリが乗っているのは彼らの盾なのだろう。大の大人がすっぽり隠れられるような大きな盾を見て、ようやくこれから何をしようとするのか理解した。
盾の上でミューリが叫んだのも、その時だった。
「いざ!」
戦場で鬨の声を上げる騎士のように片手を上げて叫んだかと思うと、耳元まで届きそうなくらい口角を上げて歯を食いしばっている。
その視線の先には、騾馬がいる。騾馬の隣には泣きそうな少年がいる。少年は人々の歓声を受け、もうどうにでもなれとばかりに目を閉じて騾馬の尻を棒で叩いた。
「出陣!」
と言ったのかどうか定かではなかった。
すべてはまさしく一瞬のことで、周りの人々や湯けむりがすべて静止している中、盾の上のミューリだけが横にずれたように見えた。
握った綱に引っ張られ、ミューリが盾ごと湯の上を滑走する。冗談のような速さで、笑えるくらい見事に水面を渡っていた。お客は大歓声を上げて、手にしていたジョッキを放り投げる。ごんっ、というすごい音は湯船の縁に盾が当たった音だ。
「おおおお!」
ミューリの華奢な体が盾ごと空を舞い、しかも、ミューリは転ばなかった。空が割れそうな音を立てて着地すると、濡れた石畳の上を騾馬に引かれるがままに滑って行く。見事すぎて声が出なかった。
大興奮の客が揃って走り出し、その様に我に返った瞬間、血の気が引いた。
抱えていたチーズを放り出し、客と共にミューリを追った。盾で削られた痕が続く石畳の先は、すぐに枯葉の積もる森になっている。そこは下り坂になっていて、騾馬は一目散に駆けて行ったのだろう。枯葉の絨毯の中に、黒々とした土が見える道が一本引かれ、緩やかに右側に曲がっていた。
そして、その道は唐突に途切れている。
国に帰れば地位も名誉も財産もあるような男たちが、森の中で裸で大騒ぎをしていた。その中心で大笑いしているのは、墓から蘇った死者のように、枯葉まみれ、泥まみれの少女だ。
ミューリは男たちに担ぎ上げられ、坂を上ってこちらに向かってくる。
けたけた笑っていたミューリはこちらに気がつくと、一瞬顔を強張らせた。
しかし、男たちに眼前を担がれて行くのを睨みつけていたら、早々に知らぬ顔をされた。
こみ上げてきたのは怒りではなく、無力感だった。
わっせ、わっせと運ばれて行くミューリの後を追い、湯船に放り込まれる音を聞く。ミューリは湯船から顔を出すと、清々しい顔つきだった。泥と枯葉の落ちた綺麗な額には、あちこちに引っ掻いたような擦り傷がある。嫁入り前の乙女の顔に傷!
しかし、ミューリは気にもせず、周りの客たちの歓声に手を振って応え、泳いで縁までたどり着く。膝を曲げて手を差し伸べると、悪びれもなくこちらの手を掴む。
「えへへ、見てたの? すごかったでしょ?」
無邪気な笑顔は、昔からまったく変わっていない。
ため息をついて、その細い体を引き上げた。
「怪我はないのですか?」
「うん。全然」
と言うが、額にも頬にも擦り傷があるし、すらりとした足も同様だ。
ただ、ミューリにとってはこんなもの怪我のうちには入らないのだろう。
灰に銀粉を混ぜたような不思議な色合いの髪の毛をよければ、子供の頃に負った傷がいくらでも見つかる。何度血まみれのミューリを見て卒倒しかけたかわからない。
「着替えたら暖炉の前に来なさい」
「え、髪の毛結ってくれるの?」
「お説教です!」
叱りつけると肩をそびやかしていたが、表情は露骨に面倒そうだった。
「返事は?」
「……はあい」
この湯屋に来て長い客はいつものことだと楽しげだが、こちらとしては笑い事ではない。そもそも湯船に泥だらけ枯葉まみれで入ることが言語道断なら、盾がぶつかって歪んだ石組も直さないとならない。それから、あの不運な少年も見つけて謝っておく必要がある。
悪さをした子猫を連れて帰るように、ミューリの襟首を掴んで母屋に戻る。ミューリはぺたぺたと足音を立てて歩き、途中でくしゃみをしていた。半裸でびしょ濡れだが、もう季節はいつ雪が降ってもおかしくない頃だ。
「きちんとあったかい格好をするんですよ」
「うん」
母屋に向かうのを見送って、大きくため息をついてから、放り出したままのチーズを拾いに向かう。そこに、戸口からこちらを振り向いていたミューリが声をかけてきた。
「ねえ兄様」
「……なんですか?」
びしょ濡れのまま戸口に寄りかかっているミューリは、少しだけ殊勝な感じだった。おとなしくしていると、雨に降られた女の子のようにも見える。
「……すごくなかった?」
見て見て、こんな大きい魚が釣れたよ兄様。
無邪気に懐いていた子供の頃そのままだった。
呆れを通り越して、顔が勝手に笑ってしまう。
「それは……すごかったですよ……。目を疑いました」
「あはは、やった!」
ミューリはその場でぴょんっと跳ねて、母屋に入って行く。
その様子には反省のかけらもない。
ただ、すごかったのは本当だ。あんなこと、やろうとも思わないし、まず思いつきもしない。
不意にそんなことを思ってしまい、頭を振った。ミューリのお転婆をたしなめるのは、兄代わりの自分の役目。ミューリがおしとやかになって、きちんと嫁に行けるようにしなければならない。
「よし」
気合を入れて、ひとまずチーズを運ぶ。そして、チーズを運び終えてから暖炉の前で聖典片手に陣取っていたら、待てど暮らせどミューリはやって来なかった。
部屋に様子を見にいけば、幸せそうに昼寝をしていたのだった。
2016年9月10日更新の『羊皮紙と悪戯書き 後編』に続く。
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